Yokohama Research Institute · Bulletin

魂の自然史

ブロイラーの要素心理学と
——二人の巨人はすれ違ったのか
Naturgeschichte der Seele, 1921
le monisme mnémique de Bleuler, entre l’éloge d’Ey et la critique de Jaspers
松石 竹志Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D. · 横浜基礎研究所
Septembris MMXXVI
Conspectus

本日の構成第三回・全三回のうち

二つの評言——エーの賞賛とヤスパースの批判4 分
第一節書物の位置——五著作の蝶番としての一九二一年7 分
第二節意識の導出——res cogitans は存在せず、functio cogitans が存在する11 分
第三節記憶論——omnis cellula ex engrammatophoro13 分
第四節連合と選択——何が思考の秩序を保っているのか13 分
第五節弛緩の在処——緩むのは連合ではない10 分
第六節カントの移送——超越論的主観から中枢神経系へ7 分
第七節判定——二人は同じ書物に届いているか8 分
構築家としてのブロイラー2 分
第一回は『精神医学教科書』、第二回は一九二六年ローザンヌ会議を扱いました。本日は、その二回で繰り返し顔を出しながら正面から読まれることのなかった一冊——『魂の自然史とその意識化。要素心理学』(1921)——を通読します。
連合弛緩において、緩むのは連合ではないでは何が緩むのか。その答えが書かれている一冊を、今日は最初から最後まで読みます。
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二つの評言

エーの賞賛と、ヤスパースの批判
circa 4 min.
Testimonium Ey

「フランスでは統合失調症に関する著作よりも、さらに知られていない」

エーは 1940 年の講演でこの書物を詳述し、ブロイラー自身が 1932 年の書簡で統合失調症論文より高く評価していたと証言している。その評価は、率直な譲歩から始まる。

Certes une telle psychologie reste essentiellement atomiste, associationniste et, somme toute, assez peu intéressante. […] Mais le monisme bleulérien est cependant de caractère nettement dynamiste et on peut dire à cet égard qu’il consiste moins à réduire la psyché au cerveau qu’à faire pénétrer la psyché dans l’organisation même du cerveau.
確かにこのような心理学は本質的に原子論的・連想主義的であり、要するにさほど興味深いものではない。……しかしブロイラーの一元論はそれでもなお明確に動力学的な性格を帯びており、その点において、精神を脳に還元するというよりはむしろ、精神を脳の組織化そのものに浸透させるものだと言うことができる。
Ey, « La conception d’Eugen Bleuler », 1940 / 1993, pp. 655–656.
Iudicium Jaspers

「理念の図式ではあっても、現実の認識の探究可能な対象ではない」

So zuletzt in den „Psychoiden“ Bleulers. Er wollte im Begriff der Psychoiden das dem somatischen Leben und der Seele Gemeinsame zusammenhalten: die mnemischen Funktionen, die Integration und die Zweckhaftigkeit der Strukturen und Kräfte. Der Mangel aber ist hier […], daß mit der Totalanschauung wohl ein Schema der Idee, aber nicht ein erforschbarer Gegenstand wirklicher Erkenntnis gewonnen wird.
その最も新しいものが、ブロイラーの「精神様体」である。彼は精神様体という概念において、身体的な生と魂とに共通するもの——記憶(ムネーメ)的な諸機能、統合、そして構造と力の合目的性——を一つに束ねようとした。しかしここでの欠陥は……その全体的直観によって得られるのは理念の図式ではあっても、現実の認識の探究可能な対象ではない、という点にある。
Jaspers, Allgemeine Psychopathologie, 9. Aufl., S. 189.
エーが評価したのは 『魂の自然史』(1921)。ヤスパースが批判したのは 『精神様体』(1925)二人は同じ書物に届いているのか。——これが本日の問いです。
I

書物の位置

五著作の蝶番としての一九二一年
circa 7 min.
Cardo operum

臨床から生物学へ——その折り返し点

刊行年著作位置づけ
1911Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien統合失調症概念の根本的再構成——基軸
1916 / 1920Lehrbuch der Psychiatrie臨床の全体を統括する体系書(第一回の主題)
1921Naturgeschichte der Seele und ihres Bewußtwerdens正常心理学の基礎=要素心理学。本日の主題
1925Die Psychoïde als Prinzip der organischen Entwicklung生物学的拡張——ヤスパース批判の対象
1931Mechanismus, Vitalismus, Mnemismus方法論的総括
本書は教科書 A 章「心理学的手引き」が扱った主題——記憶、連合、情動性、自閉的思考——を、臨床の必要から切り離して要素心理学として展開し直したものです。副題の「要素心理学(Elementarpsychologie)」がその宣言になっている。
Praefatio

信は、知の傍らにおいてこそ

扉の次に「わが妻ヘートヴィヒ・ブロイラー=ヴァーザー博士に」という献辞が置かれる。序文の第一文が、本書全体の方法をひと息で言い切る——「この研究全体は自然科学的なものである。すなわち、外と内との観察を求め、それらを説明的な連関のうちにもたらそうと努めるものである」(S. 1)。

Das Glauben hat neben dem Wissen, nicht darin, seine hohe Bedeutung und Existenzberechtigung. Durch Vermischung beider wird Wissen gefälscht, Glauben erniedrigt.
信は、知の傍らにおいてこそ、その中においてではなく、高い意義と存在権をもつ。両者を混ぜ合わせれば、知は偽造され、信は貶められる
Bleuler 1921, S. 1.
研究対象を「魂」でも「精神」でもなく Psyche と呼ぶのは、前二者に付着した形而上学的な重荷を避けるため。そして最初の一歩は、Psyche を「意識されたもの」と定義することの拒否である。意識は因果的全体の不規則な断片しか含まないから、因果的理解をめざす科学には使えない。ゆえに無意識も等しく考察に入れる。
Contra philosophos

「ニンニクとチョコレートの料理」

第一部の哲学批判は異例に激越である。哲学はツィーエンの言う「体系の墓場」しか生まなかったが、その墓場では殺された体系が亡霊として歩き回っている。哲学と自然科学の混合は「ニンニクとチョコレートの料理」であり、医学教育への哲学導入は次世代の医師にとって不幸である。ヘーゲルが火星と木星のあいだに惑星はありえないと「理性的根拠から」証明したのは、ケレス発見の二年後だった——この挿話が警告の札として掲げられる。

ただしこれは単なる悪罵ではない。彼は自説への反論を正面から引き受けている。
Ein Kollege […] hält mir vor, meine ganze Auffassung von der Identität von Seele und Leib sei, weil nicht sicher bewiesen, Metaphysik; das ist nicht richtig […] Auf die größere oder geringere Wahrscheinlichkeit der Schlüsse kommt es bei dieser Frage gar nicht an, sondern auf die Art des Schließens.
一人の同僚が、魂と身体の同一性についての私の見解全体は、確実に証明されていないのだから形而上学だ、と難ずる。それは正しくない。……この問題において重要なのは推論のより大きなあるいはより小さな確からしさではまったくなく、推論の仕方である。
Bleuler 1921, S. 9, 註.
II

意識の導出

中枢神経機能から意識へ、境界を置かずに降りる
circa 11 min.
Psyche est functio cerebri

証拠は並ぶ。しかし最も重要なのは別のことである

  • 比較解剖学——心的能力の複雑さは神経節と脳の複雑さと平行する。蟻では性によって課題が異なれば脳も異なる。犬の嗅脳と人間の退化した嗅脳。
  • 遺伝——精神的形質は身体的形質と同じ仕方で遺伝する。
  • 病理——粗大な解剖学的変化には記憶と連合という基本機能の障害が、微細な障害には微細な障害が対応する(器質性精神病と統合失調症の対比)。
  • 介入——クロロホルム、頭部打撲、露出した脳への圧迫(発語が途中で止まり、圧を解くと中断点から再開する。止められていた時計仕掛けのように)、アルコール、甲状腺製剤、性腺の摘除と移植、飢餓。
Am wichtigsten ist aber, daß die Gesetze der zentralnervösen Funktionen diejenigen der Psyche sind und umgekehrt.
しかし最も重要なのは、中枢神経機能の諸法則が心の諸法則であり、その逆もまた成り立つということである。(S. 25)
Nulla limes

「立場の差異であって、事象の差異ではない」

誰も中枢神経機能と心的機能との境界を近似的にすら示せない。ブロイラーは境界のない段階梯子を提示する——通常の反射、連合反射、一回の意志行為で設定された結合、そして意識的行為。

[…] nirgends zeigt sich ein qualitativer Unterschied zwischen physisch und psychisch […]. Der Unterschied, den wir kennen, ist ja einer des Standpunktes und nicht einer der Sache.
……物的なものと心的なものとのあいだには、いかなる質的差異も現れない。我々が知っている差異とは、立場の差異であって事象の差異ではない。(S. 30)
Eine Grenze findet sich also erst zwischen den Lichtschwingungen und dem Reizzustand der Retina […], nicht aber zwischen Funktion des CNSs und der Psyche.
したがって境界が見出されるのは、光の振動と網膜の刺激状態とのあいだ等々であって、中枢神経系の機能と心とのあいだではない。(S. 30)
第一回のエー「器質—臨床間隔の原理」と正面から交差します。エーは器質と臨床のあいだに介在するものを見た。ブロイラー自身は境界はもっと外側にしかないと言っている。
Experimentum lapidis

突かれて飛ぶ石には、現在しかない

ブロイラーの標的は厳密に限定されている。問題は瞬間の心的過程の総体でもその秩序でもなく、心を自動機械から区別する「意識的質」だけである。導出は一つの思考実験から始まる。

I

記憶をもたない石

比較の場所が存在しない。ゆえに「別の場所」に来ることは決してなく、変化も、運動も、原因も存在しない。仮に意識と思考能力を与えられていても、原因の時に結果を、結果の時に原因を現在としてもたないから、因果を知りえない。

II

記憶をもつもの

先行する瞬間が記憶痕を残し、それが次の瞬間になお賦活されていれば、二つの状態が同時に存在する。差異・比較・変化・「知覚の落差Wahrnehmungsgefälle)」が生じる。

ただし条件がもう一つ。喚起された機能と現勢の機能とが一つの統一へ融合することである。中枢神経系はまさにそのような装置である。——意識の条件は、記憶と機能的統一の二つだけ
Es gibt keine Res cogitans,
sondern eine Functio cogitans.
思惟する実体は存在せず、思惟する機能が存在する。(S. 41)

意識をもつのは生物でもなければ脳でもなく、中枢神経機能の複合体である。
Regressus cartesianus

コギトの手前に、三段の階段がある

memini, ergo mutor — mutor, ergo comparo — comparo, ergo cogito — cogito, ergo sum.
私は記憶する、ゆえに私は変化する。/私は変化する、ゆえに私は比較する。/私は比較する、ゆえに私は思考する。/私は思考する、ゆえに私は在る。
Bleuler 1921, S. 47.

記憶像の連なりについての注意も重要である。記憶とは真珠の首飾りのような孤立した出来事の列ではない。真珠は後からの抽象作業が切り出した二次的形象であって、実際には皮質の最初の機能から死に至るまでひとつながりに紡がれる「ただ一つの未加工の記憶痕」しかない。ゆえにあらゆる新しい体験は自我の変化であり、並走する第二の曲線ではなく、一本の連続曲線の変形である。

意識的自我とは「最も頻繁に、かつつねに相互に結合されて賦活される記憶痕の群」。意識の度合いは自我との連合の数と密接さによって、無意識は自我と連合していない機能として規定される。ブロイラーはここに「四十年間ほぼ毎日この考えの反証を狙って探したが、矛盾も適用上の困難も一度も見出せなかった」と書き添えている。
Lacuna magna

著者自身が認める、ただ一つの空隙

[…] so fehlt uns doch noch eines zum fertigen Verständnis: Woher stammen die Qualitäten? Warum kommt der dem Ich sich assoziierende Schallreiz als Ton, der Lichtreiz als Farbe zur inneren Anschauung?
……完結した理解にはなお一つが欠けている。諸質はどこから来るのか。なぜ自我に連合する音刺激は音として、光刺激は色として内的直観にもたらされるのか。(S. 54)

ブロイラーはこの問いの前で自分が無力だと率直に述べ、しかしそれが誤った問いだとも解決不能だとも証明できない、と付け加える。快と苦についてだけは見通しがある——それは客観的情動の本質をなす受容と拒否、自我の促進と抑制が内から見られたものである。だから白黒の反転は考えられても、快不快の反転は決して考えられない

節は次の一句で閉じられる——「いずれにせよここでも、それが正当であることを証明せずに、高慢な『我々は知りえないであろう(Ignorabimus)』を口にしてはならない」(S. 58)。
なお序文で予め断られている——「たとえば私の意識化の説明が受け入れられないとしても、その事情は他の論述を何ら疑わしくするものではない。答えるべき問いが一つ多く残るだけである」(S. 3)。
Unitas functionis

統一を担いうるのは、物質ではなく機能である

神経機能は状態ではなく絶え間ない動揺であり、全か無かの法則と不応期がある。ゆえに伝播速度は一つの神経心的過程の持続に比してきわめて大きくなければならない。

Ich denke mir, daß wohl nur die Funktion, die Energieform eine solche Einheit darstellen könne. […] Es ist aber gleichgültig, ob wir diese Forderung zur Erklärung der nervösen oder der psychischen Erscheinungen stellen: die Ansprüche sind genau die nämlichen.
私が考えるに、そのような統一をなしうるのはおそらく機能のみ、エネルギー形式のみであろう。……しかし、この要求を神経現象の説明のために立てるのか心的現象の説明のために立てるのかは、どちらでもよい。要求はまさしく同一である。(S. 62)
意欲の同時的統一については、ブロイラーは理論家の主張に反してそれが決して完全ではないと言う。愛と憎、攻撃欲と恐怖、同情と加虐欲といった拮抗する欲動対が、拮抗筋と同様に心の調節に必要である。統一が成立するのは一つの傾向が全「切替」を支配する場合にかぎられる。統合失調症では、この本来不完全な統一がしばしば完全に引き裂かれる。——統一化が系統発生の目標だとすれば、人間はその終点ではなく出発点に立っている(S. 65)。
Infra nervos

名前を欠いた精神様体

汎心論は斥けられる。原子に記憶を考え入れられない以上、意識を帰することはできない。「新しいものは複雑さのうちにある」(S. 66)。ところがその直後に、三段が踏まれる。

Können nicht auch ältere Einrichtungen als das Nervensystem Bewußtsein hervorbringen?
神経系より古い装置もまた意識を生み出しうるのではないか。神経とは結局、原形質に固有の能力の特殊化にすぎないのだから。(S. 67)
[…] braucht es dazu ein Gehirn? Genügen denn nicht die Engramme und die Leitungsfähigkeit der Körperzellen?
そのために脳が要るだろうか。記憶痕と体細胞の伝導能力では足りないのか。(S. 69)
[…] diese Nachrichten müssen irgendwie zu etwas integriert werden, das analog ist den Gesamtvorstellungen und den Zweckhandlungen der Psyche.
……これらの知らせは何らかの仕方で、心の全体表象および目的行為に類比的な何かへと統合されねばならない。(S. 69, 註)
記憶と統合を備え、神経系に先立ちかつそれを含む機能原理。——名前を欠いた精神様体です。第七節で戻ります。
III

記憶論

omnis cellula ex engrammatophoro
circa 13 min.
Tres condiciones

蜘蛛は釘の頭に飛びかかり、蛾は炎に飛び込む

生物は自己保存のために環境を利用し危険を避けねばならない。系統発生的適応は「世代を通じて反復する事態」にしか適応できず、個体だけが出会う状況には対応できない。この欠陥を克服するのが個体記憶である。

1

記銘

体験が変化=記憶痕を置くこと(Engraphie

2

持続

その変化が持続すること

3

喚起

一定の条件下で再び作動しうること(Ekphorie

体験されたものはすべて——意識的であれ無意識的であれ、注意を伴おうと伴うまいと——記憶痕として固定される。想起できないのは記銘の限界ではなく喚起機構の問題である。
術語はゼーモンに由来する(S. 81, 註「Nomenklatur nach SEMON.」)。
Sine nervis

ラッパムシは、学習する

Stentor und Vortizellen, nervenlose Geschöpfe, kürzen, wenn ihnen mehrfach in gleicher Weise Futter geboten wird, die Bewegungen, die zur Aufnahme führen, ab.
ラッパムシとツリガネムシという、神経をもたない生物は、同じ仕方で繰り返し餌を与えられると、摂取に至る運動を短縮する。(S. 81)
Der Begriff der Engramme an sich ist weder ein hirnphysiologischer noch ein psychologischer; er ist einfach der Ausdruck der Tatsache, daß durch ein Erlebnis eine Veränderung gesetzt wird […]
記憶痕という概念それ自体は、脳生理学的でも心理学的でもない。それは、体験によって一つの変化が置かれる、という事実の表現にすぎない。(S. 82)
読み違えやすい箇所。 同じ頁の「心的記憶もまた中枢神経系の機能である」(S. 82)は、記憶の適用範囲についての言明ではありません。「心的記憶痕は物的記憶痕と同一である」という同一説(反・心理主義)の言明です。すなわち「心的記憶は神経系の外にある別の実体ではない」であって、「記憶は神経系にしかない」ではない。
Dos engrammatum

反射にも可塑性がある。ならば素質とは何か

反射を単なる解剖学的配線と考えるのは誤りである。反射には可塑性(Plastizität, Bildsamkeit)があり、それは解剖学的構造ではなく多数の Neurokym 機能の共働にのみ基づきうる。反射の可塑性と心の可塑性は Neurokym 過程としては原理的に同一であり、両者の差は個体記憶の有無だけである。

Die angeborene zentralnervöse Anlage bestände also nicht nur in einer bestimmten anatomischen und chemischen Organisation, sondern auch in einer Mitgift von Engrammen. Damit ist auch gesagt, daß die Engramme nicht aufgespeicherte Energie (WERNICKE), sondern eine Disposition für eine bestimmte Funktion sind.
したがって生得的な中枢神経の素質は、特定の解剖学的・化学的組織のうちにあるだけでなく、記憶痕の持参金のうちにもあることになる。同時にこれは、記憶痕が蓄積されたエネルギー(ヴェルニッケ)ではなく、特定の機能への素因であることを意味する。(S. 83f.)
[…] so sind auch die Gene Engramme. 親と新しい世代との機能の同一性が種の記憶痕の喚起に基づくのなら、
遺伝子もまた記憶痕である。(S. 85)

この道を通って、人はゼーモンが『ムネーメ』において展開したのと同様の見解に至る。
Nova formula

本書がもっとも遠くまで行く一つの註

Es würde dann nicht mehr heißen: omnis cellula e cellula, sondern omnis cellula ex engrammatophoro, d. h. aus einer Substanz, die Engrammträger ist. Dabei wäre das gestaltende Prinzip das Engramm.
そうなればもはや「すべての細胞は細胞から」ではなく、「すべての細胞は記憶痕担体から」と言われることになろう。すなわち記憶痕の担い手である実体から、ということである。そしてそのとき、形成する原理は記憶痕である。(S. 87, 註)

記憶による器官形成が試論的に描かれる。未分化な細胞塊で二つの離れた点が反復して同時にあるいは継起的に刺激されると、記銘的かつ連合的な結合が生じ、結合は最小抵抗線を選び、頻繁に分泌する部位は「一種の腺」になる(S. 90)。

das Leben ist eine Äußerung von Eigenschaften des Kolloids,
die wir nicht abzugrenzen vermögen von den mnemischen Eigenschaften.
記憶が生ける原形質の一般的機能であり、それが我々の大脳皮質においてのみ
特別な発達を遂げたにすぎないことは、すでに先に強調しておいた。……

生命とは、我々がムネーメ的な諸性質から区別することのできないコロイドの諸性質の発現である。(S. 90)
Palimpsestus

記憶像は複製ではない。一つの報告である

記憶痕は一度置かれれば、それを担う脳が存続するかぎり持続する。コロイドにおける記銘的変化は不可逆である(S. 91)。「褪色」という通念は誤りで、褪せて見えるのは元の記憶痕ではなく、それを用いて後から作られた表象のほうである。

しかし喚起は単なる素因の再賦活ではない。それはそのつど過去の記憶痕を材料とした新しい結合の形成である。したがって記憶像は原体験の複製ではなく「一つの報告」——ごく一部を見本として再生し、残りを記号で置き換えた報告——にすぎない。厳密には「反復」も存在しない。二度目の体験は一度目の記憶痕を喚起するがゆえに、すでに別の体験である。

Sie sind eher wie ein Palimpsest, das immer wieder neu überschrieben wird, zwar mit dem nämlichen Worte, aber jedesmal in anderen Zusammenhängen.
記憶痕はむしろ一枚のパリンプセストのようなものである。それは何度も新たに上書きされる——たしかに同じ語をもって、しかし毎回別の連関において。(S. 99)
Exercitatio et clausura

練習によって、人は他の能力を自らに閉ざす

Wie bei den Assoziationen des Denkens ist bei den körperlichen Fertigkeiten die Absperrung der unrichtigen und unnötigen Bahnen mindestens so wichtig wie die Auffindung der richtigen. […] Durch Übung gewinnt man nicht nur neue Fähigkeiten, sondern man verschließt sich auch andere.
思考の連合においてと同様、身体的な熟練においても、誤った不要な路の遮断は、正しい路の発見と少なくとも同じだけ重要である。……練習によって人は新しい能力を得るだけでなく、他の能力を自らに閉ざしもする。(S. 98)
この章の語彙は徹頭徹尾機械論的です——疎通(bahnen)、制止(hemmen)、道(Bahnen)、遮断(Absperrung)、短絡(Kurzschluß)、抵抗(Widerstände)、切替(Schaltungen)。
エーが「原子論的・連想主義的」と評したのは、この章のことです。そしてその指摘は、この章については当たっている。

忘却は記憶痕の消滅ではなく喚起の失敗である(S. 110)。ランシュブルクの法則——同一の目標をもたない類似機能は互いに抑制する——が忘却を支配する。

IV

連合と選択

何が思考の秩序を保っているのか
circa 13 min.
Quid non sit associatio

連合は解剖学的概念ではない。そして成立は同時に遮断である

Es ist durchaus falsch, einen anatomischen Begriff daraus zu machen.
連合から解剖学的概念を作り上げるのは、まったく誤りである。(S. 178)
Die Assoziationsstiftungen sind nicht bloß etwas Positives, sondern ebensosehr etwas andere Wege Verschließendes. Jede beliebige Gewöhnung (Aussprache, Schrift, und tausend andere) erschwert alle Reaktionen anderer Richtung.
連合の成立は単に積極的な何かであるにとどまらず、同じだけ、他の路を閉ざす何かでもある。いかなる習慣づけ(発音、書字、その他無数のもの)も、他の方向のあらゆる反応を困難にする。(S. 179)
Das Elementare, das der Assoziation durch Ähnlichkeit zugrunde liegt, ist älter als die Psyche, ja älter als das Nervensystem.
類似による連合の基礎にある要素的なものは、心より古く、それどころか神経系より古い。(S. 181/182)
Aus all diesen Assoziationen aber kann noch
kein brauchbares Denken entstehen.
しかしこれらすべての連合からは、なお使用可能な思考は生じえない。

表象された薔薇は、私を棘へも、椿へも、私が薔薇とともに見た一人の少女へも、
さらに他の無数の思考へも導きうる。
思考の選択と方向とが、なお規定されねばならない。(S. 184)
Quid seligat

思考目標・努力・布置・切替

Auf die Auswahl hat in erster Linie das Denkziel Einfluß, die im gegebenen Moment herrschende Strebung.
選択に対して第一に影響を及ぼすのは思考目標であり、与えられた瞬間に支配している努力である。(S. 185)
Wir sehen in der Konstellation wieder eine Wirkung der Schaltung, die jeder psychische Vorgang, eine Idee, ein Trieb, vor allem ein Affekt auf das ganze Assoziationsgefüge ausübt […] Diese Art Schaltung ist nicht nur ein Ausdruck, sondern geradezu die Ursache der Einheit der obersten zentralnervösen Funktionen.
我々は布置のうちに、あらゆる心的過程が——観念が、欲動が、とりわけ情動が——連合構造全体に及ぼす切替の作用を、あらためて見る。……この種の切替は、最高次の中枢神経機能の統一の表現であるにとどまらず、まさにその原因である。(S. 187)
要素の集合から統一を組み立てるのが原子論だとすれば、これはその逆——統一の側から要素の振舞いを規定する構造です。エーの「原子論的」という譲歩が当たらないのは、この階層に対してです。
Formula

思考の法則は、経験の法則である

Die Gesetze des Denkens sind die der Assoziation; diese sind die der Ekphorie; die Ekphorie ist in Art und Inhalt bestimmt durch die Engraphie, in ihrer Auswahl durch die angeborenen lebenserhaltenden Reaktionen des CNS.s (Reflexe, Triebe, affektive Einstellungen); die Engraphie wiederum ist eine überdauernde Erfahrung.
思考の諸法則は連合の諸法則である。連合の諸法則は喚起の諸法則である。喚起は、その様式と内容においては記銘によって、その選択においては中枢神経系の生得的な生命維持反応(反射、欲動、情動的構え)によって規定される。そして記銘とは、持続する経験にほかならない。(S. 188)
Hierarchia

弛緩の深度が、診断単位を分ける

概念結合

「概念の内側の結合は、概念のあいだの結合よりはるかに堅固である」(S. 176)。事物概念の内的結合の堅固さ=「解体の考えられなさ」は、概念形成と同時に与えられる(S. 177)。

概念結合

論理的結合。あらゆる精神病で乱れうる。

Im Traum gar fallen die Begriffe so gut auseinander wie die logischen Funktionen. — In der Pathologie finden wir zwar logische Störungen bei allen Geisteskrankheiten, Begriffsauflösungen aber nur in der Schizophrenie.
夢においては、論理的機能と同様に概念そのものが崩れる。——病理においては、論理障害はあらゆる精神病に見られるが、概念の解体は統合失調症にのみ見られる。(S. 177)
V

弛緩の在処

緩むのは連合ではない
circa 10 min.
De nomine mutato

自閉的思考は、本書では dereierendes Denken と呼ばれる

Ich habe es bis jetzt „autistisches Denken“ genannt […] Der Name wurde aber mißverstanden (sogar von Jaspers in seiner Psychopathologie). So war ich gezwungen, einen andern vorzuschlagen: Dereieren kommt von reor, ratus sum (ratio, res, real) […] Denken, das von der Wirklichkeit absieht oder abweicht.
私はこれまでこれを「自閉的思考」と呼んできた。……しかしこの名は誤解された(彼の精神病理学におけるヤスパースによってさえ)。そこで私は別の名を提案せざるをえなかった。Dereierenreor, ratus sumratio, res, real)に由来する。……現実から目を逸らす、あるいは現実から逸れる思考、ということである。(S. 191/192, 註)
本書のなかで、ブロイラーがヤスパースを名指しで批判している箇所です。もう一箇所、「因果的説明/了解可能」の区別を原理的差異とみなす見解への反論もある(S. 215)。二人の応酬は一方向のものではありませんでした。
Continuum

あらゆる思考は、微量の弛緩を含む

dereierendes Denken が生じるのは、現実が内的欲求を満たしえないところ(神話、呪術、白昼夢、詩)と、連合緊張が減弱しているところ(夢、統合失調症、発熱、いくつかの中毒)である(S. 156)。

In Wirklichkeit aber gibt es alle Übergänge von der geringen Loslösung von den erworbenen Assoziationen, wie sie bei jedem Analogieschluß notwendig ist, bis zu der unbändigsten Phantasie.
実際には、いかなる類推推論にも必要とされるあのわずかな、獲得された連合からの離脱から、最も奔放な空想に至るまで、あらゆる移行が存在する。(S. 194)
1911 年の症候概念は、ここで一般心理学の連続量へと組み替えられています。統合失調症はその量的極限である。
De intelligentia

弛緩は、知性そのものを可能にする機能の過剰である

Ein zweites mehr allgemeines Erfordernis guter psychischer Leistungen ist eine gewisse Leichtigkeit, durch die Erfahrung erworbene Assoziationen wenn nötig lösen zu können.
良好な心的遂行の第二のより一般的な要件は、経験によって獲得された連合を必要に応じて解きほぐしうる、ある程度の容易さである。(S. 200)
Die Lösbarkeit der Assoziationskomplexe kann aber auch zu groß sein.
しかし連合複合体の解けやすさは大きすぎることもありうる。(S. 200)
Beim Schizophrenen (Dementia praecox) ist, wie im Traum des Gesunden, der Weg von einer Vorstellung zur andern nicht mehr durch die Gewohnheit und Erfahrung gebunden.
統合失調症者においては、健常者の夢におけるのと同じく、一つの表象から他の表象への道がもはや習慣と経験によって縛られていない。(S. 202)
Imago tantum

ブロイラー自身が、自らの構成物の身分を明言している

心的機能どうしの作用は、力の平行四辺形に従って合成される物理的な力ではなく、電気設備における入切に似る。機関士は機関に直接作用せず、蒸気の流入を切り替えるだけである(S. 287)。この切替力がなければ、我々は「努力の寄せ集め」にすぎない。

Der Begriff der Schaltung ist natürlich nur ein Bild, dem keine andere Bedeutung zukommen soll, als daß es uns hilft, […] diese Vorstellung durch eine einfache Bezeichnung festzuhalten und zu übermitteln.
切替という概念はもちろん一つの像にすぎない。それに帰せられるべき意義は、……その表象を単純な名称によって保持し伝達する助けとなる、ということ以外にはない。(S. 305)
Was hinter den Schaltungsvorgängen steckt, weiß wohl bis jetzt noch niemand.
切替の過程の背後に何が潜んでいるのかは、今のところおそらく誰も知らない。(S. 306)
第七節で見るヤスパースの「理念の図式にすぎない」という批判に対して、ブロイラーは先回りして自認している。これは判定に効いてきます。
Unicus locus

緩むのは切替である。ばねの張力のように

Es ist also irgendeine Kraft tätig, die die Schaltungen in der richtigen Lage hält, die überwindbar ist und nachlassen kann wie die Spannung einer Feder; läßt sie nach, so lockern sich die Schaltungen, folgen anderen Einflüssen, schlottern hin und her.
したがって何らかの力が働いており、それが切替を正しい位置に保っている。その力は克服されうるものであり、ばねの張力のように弛みうるものである。それが弛めば、切替は緩み、他の影響に従い、あちらこちらへぐらつく。(S. 308/9)
特筆すべき否定的所見。 本書の思考論には LockerunggelockertZerfahrenheitAssoziationsstörung のいずれの語も現れません。巻末索引の立項も「Lockerung 308/9」「Lockerung der Schaltungen 308/9」の二つだけ。ブロイラーは Lockerung の語を、連合ではなく切替に宛てている。
Responsum

三層の答え

緩むもの典拠
i連合を選択する切替——その保持力=緊張が弛むSchaltung は「統一の原因」(S. 187)/Lockerung の唯一の用例(S. 308/9)/「連合緊張の減弱」(S. 156)
ii経験連合の固さ——解けやすさが過大になる知能の第二要件と、その過剰(S. 200)/「習慣と経験によってもはや縛られていない」(S. 202)
iii概念内結合——概念そのものが解体する結合の階層(S. 176–177)/Begriffsauflösung は統合失調症にのみ(S. 177)
崩れるのは連合の在庫ではなく、在庫のなかから選ぶ力である。そしてその力は、本書において自我の統一そのものの原因とされている(S. 187)。
第一回で「連合弛緩とは人間的思考を成立させる条件そのものの崩壊である」と申し上げました。本書は、それを字義通りに裏づけています。
VI

カントの移送

超越論的主観から、中枢神経系の系統発生的組織へ
circa 7 min.
Causalitas

かりに生得的であったとしても、カテゴリーではない

Noch eine andere apriorische Kausalität neben dieser aposteriorischen, sicher vorhandenen anzunehmen, ist sinnlos […] Wäre übrigens die Kausalform des Denkens angeboren, so müßten wir sie wieder in der nämlichen Weise ableiten, nur aus Erfahrung und Gedächtnis der Art statt des Individuums. Eine Kategorie im Kantschen Sinne wäre sie deswegen doch nicht.
この後天的な、確実に存在する因果性のほかに、なおもう一つのア・プリオリな因果性を想定することは無意味である。……かりに思考の因果形式が生得的であったとしても、我々はそれをふたたび同じ仕方で導出せねばならないだろう——ただし個体の経験と記憶からではなく、種の経験と記憶からだからといってそれがカント的な意味でのカテゴリーであることにはならない。(S. 208)

空間についても同様である。刺激そのものには空間的なものも時間的なものもない。皮膚点への刺激が反射運動を引き起こし、その運動感覚が新鮮な刺激感覚と中枢で結合する——「空間とは抽象された関係である」(S. 219)。「これらの関係の抽象が時間である」(S. 223)。網膜は外空間を触知するための特殊器官にすぎず、盲人の杖と同じ地位にある

A priori, a posteriori

「脳の組織のうちに存する認識は、存在しない」

Tendenzen (Instinkte, Triebe, Affektivität) und das leere Gedächtnis, die Fähigkeit der Engraphie und Ekphorie sind in der Organisation begründet, angeboren, wenn man will apriorisch. […] „Erkenntnisse“ a priori, d. h. solche, die in der Hirnorganisation liegen, gibt es nicht.
諸傾向(本能、欲動、情動性)と、空の記憶、すなわち記銘と喚起の能力とは、組織のうちに基礎づけられており、生得的であり、望むならばア・プリオリと呼んでよい。……しかしア・プリオリな「認識」、すなわち脳の組織のうちに存する認識は、存在しない。(S. 228)
カントのア・プリオリは廃棄されるのではなく、超越論的主観から中枢神経系の系統発生的組織へ移送される。典型的な自然化されたカント主義です。
De genealogia

対話相手はカントであって、英国経験論ではない

人名本書での出現
カントS. 163, 189, 196–199, 208, 215, 229——そのつど論敵として名指される
ヒュームS. 207 に一度きり。「ヒューム以来、他にも多くの者が因果性を経験から導いているのだから、この程度の示唆で足りるであろう」という片付けの身振り
ロック固有名としての出現はゼロ
ヘルバルト一度も名指されない。巻末索引にも立項なし
ユングS. 228 に一度——「集合的無意識」への一箇所の譲歩
第一回で提示したカント—ヘルバルト—グリージンガーの系譜は、論証構造の相同性——観念の疎通と制止、閾下の観念力学、「緊張」概念——としては十分に支持されます。しかしブロイラー自身の明示的な自己申告としては裏づけられない。系譜を語る際にはこの区別を明示するのが誠実だと考えます。
他方、「英国経験論ではなく大陸側に立つ」という主張のほうは、本書によって強く支持されます。
VII

判定

二人は同じ書物に届いているか
circa 8 min.
Examen I

半分は当たり、半分は外れている

1

「原子論的・連想主義的」

記憶論(第三部 A 章)には当たる。語彙は疎通・制止・遮断・短絡・抵抗と徹頭徹尾機械論的であり、合成写真の比喩による概念形成の説明も典型的な原子論である。
しかし思考論(第三部 C 章)には当たらない。「これらすべての連合からは、なお使用可能な思考は生じえない」(S. 184)は、連合心理学の限界の宣言そのものである。

2

「精神を脳の組織化そのものに浸透させる」

きわめて正確な看破。「思惟する実体は存在せず、思惟する機能が存在する」(S. 41)、「統一をなしうるのはおそらく機能のみ」(S. 62)。ブロイラーの一元論が実体の一元論ではなく機能の一元論であること、還元の方向が「心を脳という物へ」ではなく「心も脳も機能へ」であることを、エーは一句で言い当てている。

エーは本の前半を正しく読み、後半の階層構造を読み落とした——というのが公正な記述だと思います。そしてこの見落としこそが、彼自身の器質力動論の地盤になった一句と表裏をなしている。
Examen II — clavis

批判文そのものが、鍵を握っていた

ヤスパースの挙げる三項『魂の自然史』(1921)『精神様体』(1925)
1. 記憶(ムネーメ)的な諸機能存在する——「生ける原形質の一般的機能」(S. 90)、「すべての細胞は記憶痕担体から」(S. 87 註)存在する
2. 統合存在する——意識の二条件の一方(S. 58–66)。神経系に限定されない(S. 69 註)存在する
3. 構造と力の合目的性存在しない。明示的に禁じられている(S. 326)原理として据えられる
批判者が敵対的に作成した目録は、誇張も省略も批判の効力を損なうがゆえに、著者自身の要約よりかえって内容の同定に適する三項のうち二項は 1921 年にすでに書かれていた。ヤスパースの批判が相手取っているのは、1921–25 年の連続体である。
Vetitum

目的とは、人間のように行為する存在との関連においてのみ存在しうる

Zweck ist ein Begriff, der nur im Zusammenhang mit einem nach bewußten Zielen handelnden Wesen, wie es der Mensch ist, existieren kann. Man mag ihn einem menschlich gedachten Gott zuschreiben, nicht aber einem Weltall, einer Weltordnung.
目的とは、人間のように意識された目標に従って行為する存在との関連においてのみ存在しうる概念である。人間的に思い描かれた神にそれを帰することはできようが、宇宙に、世界秩序に帰することはできない。(S. 326)

1921 年に許されていたのは「まだ知られていない生命原理があるかもしれない」という認識論的な空欄であって、その空欄に実体名を与えることではなかった。

1925 年が加えたのは新しい素材ではありません。加えられたのは二つ——散在していた素材の統合と、目的性に対する態度の転換。そして両者は独立ではない。素材を一つの原理として束ねるという操作それ自体が、束ねられたものに統一的な方向性を、すなわち合目的性を帰属させることを要求する。ブロイラーが 1925 年に払った代償は、まさに 1921 年に自ら課した禁令でした。
Cautela

ただし、これは原典による検証を経ていない

断っておかねばならないことがあります。『精神様体』(1925)と『機械論・生気論・記憶論』(1931)は、いずれも入手しえていません。前者は冒頭部分がシュプリンガーのサイトで閲覧できるほかに公開全文が見当たらず、書籍としても現在通常の流通経路では手に入りません。後者も同様で、欧米の公共アーカイヴにも電子版は現れていない。

したがって右の判定は、ヤスパースの要約とエーの言及、および 1921 年の本文との対照から導かれた推論です。この推論を可能にしているのは、ヤスパースの批判文がそれ自体、精神様体の内容を三項目に分けて列挙する形をとっているという事情にすぎません。

足場が固いことと、検証済みであることは別です。原典が入手できしだい、この判定は書き改められるべきものと考えています。もし『精神様体』の所在についてご存じの方がおられましたら、質疑の折にぜひご教示ください。
§

構築家としてのブロイラー
circa 2 min.
ブロイラーは、要素を集めるだけの連想主義者ではない。
選択機構を通じて精神の統一を構想した、構造の構築家である。 エーとヤスパースは擦れ違ってはいない。しかし重なってもいない。
二人は同一の思想の二つの段階を見て、賛否を述べていた。
[…] halte ich das Gesagte im großen und ganzen für Wahrheit,
nicht aber für die Wahrheit.
そのさい私は、真理が相対的な何かであることを知っている。
我々の自然科学的知識の現在の状態にとっては、述べたことをおおむね真理だと考えるが、
しかしその真理だとは考えない。(S. 338)
Fontes

本日の主要典拠

  • Bleuler, E. Naturgeschichte der Seele und ihres Bewußtwerdens. Eine Elementarpsychologie. Berlin: Julius Springer, 1921.(本日の分析はすべて初版全 338 頁による。参照した電子版はインターネット・アーカイヴ公開の初版スキャン。印刷頁 N =電子版頁 N + 12
  • Semon, R. Die Mneme als erhaltendes Prinzip im Wechsel des organischen Geschehens. Leipzig: Wilhelm Engelmann, 1904.(Engramm / Engraphie / Ekphorie の術語はすべて本書に由来。S. 81 註に「Nomenklatur nach SEMON.」)
  • Bleuler, E. Die Psychoïde als Prinzip der organischen Entwicklung. Berlin: Julius Springer, 1925.(原典未見)/Mechanismus, Vitalismus, Mnemismus. 1931.(原典未見
  • Jaspers, K. Allgemeine Psychopathologie. 9. Aufl., Berlin/Heidelberg/New York: Springer, 1973, S. 189.(英訳 General Psychopathology, trans. Hoenig & Hamilton, 1997, vol. 1, p. 224)
  • Ey, H. « La conception d’Eugen Bleuler ». In: Bleuler, Dementia praecox ou Groupe des schizophrénies, trad. Viallard. Paris: E.P.E.L./G.R.E.C., 1993, pp. 642–658(『魂の自然史』評は pp. 655–656).
本講演は、松石竹志「ブロイラー『魂の自然史』解題——エーの評価とヤスパースの批判は同じ書物に届いているか」『横浜基礎研究所紀要』第 1 巻(2026)に基づく。同解題は「アンリ・エーとオイゲン・ブロイラー」(同誌 論文 16)第四章の補遺として書かれた。
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質疑応答

Quaestiones et responsa
15 min.
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