| 序 | 二つの評言——エーの賞賛とヤスパースの批判 | 4 分 |
| 第一節 | 書物の位置——五著作の蝶番としての一九二一年 | 7 分 |
| 第二節 | 意識の導出——res cogitans は存在せず、functio cogitans が存在する | 11 分 |
| 第三節 | 記憶論——omnis cellula ex engrammatophoro | 13 分 |
| 第四節 | 連合と選択——何が思考の秩序を保っているのか | 13 分 |
| 第五節 | 弛緩の在処——緩むのは連合ではない | 10 分 |
| 第六節 | カントの移送——超越論的主観から中枢神経系へ | 7 分 |
| 第七節 | 判定——二人は同じ書物に届いているか | 8 分 |
| 結 | 構築家としてのブロイラー | 2 分 |
エーは 1940 年の講演でこの書物を詳述し、ブロイラー自身が 1932 年の書簡で統合失調症論文より高く評価していたと証言している。その評価は、率直な譲歩から始まる。
Certes une telle psychologie reste essentiellement atomiste, associationniste et, somme toute, assez peu intéressante. […] Mais le monisme bleulérien est cependant de caractère nettement dynamiste et on peut dire à cet égard qu’il consiste moins à réduire la psyché au cerveau qu’à faire pénétrer la psyché dans l’organisation même du cerveau.確かにこのような心理学は本質的に原子論的・連想主義的であり、要するにさほど興味深いものではない。……しかしブロイラーの一元論はそれでもなお明確に動力学的な性格を帯びており、その点において、精神を脳に還元するというよりはむしろ、精神を脳の組織化そのものに浸透させるものだと言うことができる。Ey, « La conception d’Eugen Bleuler », 1940 / 1993, pp. 655–656.
So zuletzt in den „Psychoiden“ Bleulers. Er wollte im Begriff der Psychoiden das dem somatischen Leben und der Seele Gemeinsame zusammenhalten: die mnemischen Funktionen, die Integration und die Zweckhaftigkeit der Strukturen und Kräfte. Der Mangel aber ist hier […], daß mit der Totalanschauung wohl ein Schema der Idee, aber nicht ein erforschbarer Gegenstand wirklicher Erkenntnis gewonnen wird.その最も新しいものが、ブロイラーの「精神様体」である。彼は精神様体という概念において、身体的な生と魂とに共通するもの——記憶(ムネーメ)的な諸機能、統合、そして構造と力の合目的性——を一つに束ねようとした。しかしここでの欠陥は……その全体的直観によって得られるのは理念の図式ではあっても、現実の認識の探究可能な対象ではない、という点にある。Jaspers, Allgemeine Psychopathologie, 9. Aufl., S. 189.
| 刊行年 | 著作 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 1911 | Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien | 統合失調症概念の根本的再構成——基軸 |
| 1916 / 1920 | Lehrbuch der Psychiatrie | 臨床の全体を統括する体系書(第一回の主題) |
| 1921 | Naturgeschichte der Seele und ihres Bewußtwerdens | 正常心理学の基礎=要素心理学。本日の主題 |
| 1925 | Die Psychoïde als Prinzip der organischen Entwicklung | 生物学的拡張——ヤスパース批判の対象 |
| 1931 | Mechanismus, Vitalismus, Mnemismus | 方法論的総括 |
扉の次に「わが妻ヘートヴィヒ・ブロイラー=ヴァーザー博士に」という献辞が置かれる。序文の第一文が、本書全体の方法をひと息で言い切る——「この研究全体は自然科学的なものである。すなわち、外と内との観察を求め、それらを説明的な連関のうちにもたらそうと努めるものである」(S. 1)。
Das Glauben hat neben dem Wissen, nicht darin, seine hohe Bedeutung und Existenzberechtigung. Durch Vermischung beider wird Wissen gefälscht, Glauben erniedrigt.信は、知の傍らにおいてこそ、その中においてではなく、高い意義と存在権をもつ。両者を混ぜ合わせれば、知は偽造され、信は貶められる。Bleuler 1921, S. 1.
第一部の哲学批判は異例に激越である。哲学はツィーエンの言う「体系の墓場」しか生まなかったが、その墓場では殺された体系が亡霊として歩き回っている。哲学と自然科学の混合は「ニンニクとチョコレートの料理」であり、医学教育への哲学導入は次世代の医師にとって不幸である。ヘーゲルが火星と木星のあいだに惑星はありえないと「理性的根拠から」証明したのは、ケレス発見の二年後だった——この挿話が警告の札として掲げられる。
Ein Kollege […] hält mir vor, meine ganze Auffassung von der Identität von Seele und Leib sei, weil nicht sicher bewiesen, Metaphysik; das ist nicht richtig […] Auf die größere oder geringere Wahrscheinlichkeit der Schlüsse kommt es bei dieser Frage gar nicht an, sondern auf die Art des Schließens.一人の同僚が、魂と身体の同一性についての私の見解全体は、確実に証明されていないのだから形而上学だ、と難ずる。それは正しくない。……この問題において重要なのは推論のより大きなあるいはより小さな確からしさではまったくなく、推論の仕方である。Bleuler 1921, S. 9, 註.
Am wichtigsten ist aber, daß die Gesetze der zentralnervösen Funktionen diejenigen der Psyche sind und umgekehrt.しかし最も重要なのは、中枢神経機能の諸法則が心の諸法則であり、その逆もまた成り立つということである。(S. 25)
誰も中枢神経機能と心的機能との境界を近似的にすら示せない。ブロイラーは境界のない段階梯子を提示する——通常の反射、連合反射、一回の意志行為で設定された結合、そして意識的行為。
[…] nirgends zeigt sich ein qualitativer Unterschied zwischen physisch und psychisch […]. Der Unterschied, den wir kennen, ist ja einer des Standpunktes und nicht einer der Sache.……物的なものと心的なものとのあいだには、いかなる質的差異も現れない。我々が知っている差異とは、立場の差異であって事象の差異ではない。(S. 30)
Eine Grenze findet sich also erst zwischen den Lichtschwingungen und dem Reizzustand der Retina […], nicht aber zwischen Funktion des CNSs und der Psyche.したがって境界が見出されるのは、光の振動と網膜の刺激状態とのあいだ等々であって、中枢神経系の機能と心とのあいだではない。(S. 30)
ブロイラーの標的は厳密に限定されている。問題は瞬間の心的過程の総体でもその秩序でもなく、心を自動機械から区別する「意識的質」だけである。導出は一つの思考実験から始まる。
比較の場所が存在しない。ゆえに「別の場所」に来ることは決してなく、変化も、運動も、原因も存在しない。仮に意識と思考能力を与えられていても、原因の時に結果を、結果の時に原因を現在としてもたないから、因果を知りえない。
先行する瞬間が記憶痕を残し、それが次の瞬間になお賦活されていれば、二つの状態が同時に存在する。差異・比較・変化・「知覚の落差(Wahrnehmungsgefälle)」が生じる。
memini, ergo mutor — mutor, ergo comparo — comparo, ergo cogito — cogito, ergo sum.私は記憶する、ゆえに私は変化する。/私は変化する、ゆえに私は比較する。/私は比較する、ゆえに私は思考する。/私は思考する、ゆえに私は在る。Bleuler 1921, S. 47.
記憶像の連なりについての注意も重要である。記憶とは真珠の首飾りのような孤立した出来事の列ではない。真珠は後からの抽象作業が切り出した二次的形象であって、実際には皮質の最初の機能から死に至るまでひとつながりに紡がれる「ただ一つの未加工の記憶痕」しかない。ゆえにあらゆる新しい体験は自我の変化であり、並走する第二の曲線ではなく、一本の連続曲線の変形である。
[…] so fehlt uns doch noch eines zum fertigen Verständnis: Woher stammen die Qualitäten? Warum kommt der dem Ich sich assoziierende Schallreiz als Ton, der Lichtreiz als Farbe zur inneren Anschauung?……完結した理解にはなお一つが欠けている。諸質はどこから来るのか。なぜ自我に連合する音刺激は音として、光刺激は色として内的直観にもたらされるのか。(S. 54)
ブロイラーはこの問いの前で自分が無力だと率直に述べ、しかしそれが誤った問いだとも解決不能だとも証明できない、と付け加える。快と苦についてだけは見通しがある——それは客観的情動の本質をなす受容と拒否、自我の促進と抑制が内から見られたものである。だから白黒の反転は考えられても、快不快の反転は決して考えられない。
神経機能は状態ではなく絶え間ない動揺であり、全か無かの法則と不応期がある。ゆえに伝播速度は一つの神経心的過程の持続に比してきわめて大きくなければならない。
Ich denke mir, daß wohl nur die Funktion, die Energieform eine solche Einheit darstellen könne. […] Es ist aber gleichgültig, ob wir diese Forderung zur Erklärung der nervösen oder der psychischen Erscheinungen stellen: die Ansprüche sind genau die nämlichen.私が考えるに、そのような統一をなしうるのはおそらく機能のみ、エネルギー形式のみであろう。……しかし、この要求を神経現象の説明のために立てるのか心的現象の説明のために立てるのかは、どちらでもよい。要求はまさしく同一である。(S. 62)
汎心論は斥けられる。原子に記憶を考え入れられない以上、意識を帰することはできない。「新しいものは複雑さのうちにある」(S. 66)。ところがその直後に、三段が踏まれる。
Können nicht auch ältere Einrichtungen als das Nervensystem Bewußtsein hervorbringen?神経系より古い装置もまた意識を生み出しうるのではないか。神経とは結局、原形質に固有の能力の特殊化にすぎないのだから。(S. 67)
[…] braucht es dazu ein Gehirn? Genügen denn nicht die Engramme und die Leitungsfähigkeit der Körperzellen?そのために脳が要るだろうか。記憶痕と体細胞の伝導能力では足りないのか。(S. 69)
[…] diese Nachrichten müssen irgendwie zu etwas integriert werden, das analog ist den Gesamtvorstellungen und den Zweckhandlungen der Psyche.……これらの知らせは何らかの仕方で、心の全体表象および目的行為に類比的な何かへと統合されねばならない。(S. 69, 註)
生物は自己保存のために環境を利用し危険を避けねばならない。系統発生的適応は「世代を通じて反復する事態」にしか適応できず、個体だけが出会う状況には対応できない。この欠陥を克服するのが個体記憶である。
体験が変化=記憶痕を置くこと(Engraphie)
その変化が持続すること
一定の条件下で再び作動しうること(Ekphorie)
Stentor und Vortizellen, nervenlose Geschöpfe, kürzen, wenn ihnen mehrfach in gleicher Weise Futter geboten wird, die Bewegungen, die zur Aufnahme führen, ab.ラッパムシとツリガネムシという、神経をもたない生物は、同じ仕方で繰り返し餌を与えられると、摂取に至る運動を短縮する。(S. 81)
Der Begriff der Engramme an sich ist weder ein hirnphysiologischer noch ein psychologischer; er ist einfach der Ausdruck der Tatsache, daß durch ein Erlebnis eine Veränderung gesetzt wird […]記憶痕という概念それ自体は、脳生理学的でも心理学的でもない。それは、体験によって一つの変化が置かれる、という事実の表現にすぎない。(S. 82)
反射を単なる解剖学的配線と考えるのは誤りである。反射には可塑性(Plastizität, Bildsamkeit)があり、それは解剖学的構造ではなく多数の Neurokym 機能の共働にのみ基づきうる。反射の可塑性と心の可塑性は Neurokym 過程としては原理的に同一であり、両者の差は個体記憶の有無だけである。
Die angeborene zentralnervöse Anlage bestände also nicht nur in einer bestimmten anatomischen und chemischen Organisation, sondern auch in einer Mitgift von Engrammen. Damit ist auch gesagt, daß die Engramme nicht aufgespeicherte Energie (WERNICKE), sondern eine Disposition für eine bestimmte Funktion sind.したがって生得的な中枢神経の素質は、特定の解剖学的・化学的組織のうちにあるだけでなく、記憶痕の持参金のうちにもあることになる。同時にこれは、記憶痕が蓄積されたエネルギー(ヴェルニッケ)ではなく、特定の機能への素因であることを意味する。(S. 83f.)
Es würde dann nicht mehr heißen: omnis cellula e cellula, sondern omnis cellula ex engrammatophoro, d. h. aus einer Substanz, die Engrammträger ist. Dabei wäre das gestaltende Prinzip das Engramm.そうなればもはや「すべての細胞は細胞から」ではなく、「すべての細胞は記憶痕担体から」と言われることになろう。すなわち記憶痕の担い手である実体から、ということである。そしてそのとき、形成する原理は記憶痕である。(S. 87, 註)
記憶による器官形成が試論的に描かれる。未分化な細胞塊で二つの離れた点が反復して同時にあるいは継起的に刺激されると、記銘的かつ連合的な結合が生じ、結合は最小抵抗線を選び、頻繁に分泌する部位は「一種の腺」になる(S. 90)。
記憶痕は一度置かれれば、それを担う脳が存続するかぎり持続する。コロイドにおける記銘的変化は不可逆である(S. 91)。「褪色」という通念は誤りで、褪せて見えるのは元の記憶痕ではなく、それを用いて後から作られた表象のほうである。
しかし喚起は単なる素因の再賦活ではない。それはそのつど過去の記憶痕を材料とした新しい結合の形成である。したがって記憶像は原体験の複製ではなく「一つの報告」——ごく一部を見本として再生し、残りを記号で置き換えた報告——にすぎない。厳密には「反復」も存在しない。二度目の体験は一度目の記憶痕を喚起するがゆえに、すでに別の体験である。
Sie sind eher wie ein Palimpsest, das immer wieder neu überschrieben wird, zwar mit dem nämlichen Worte, aber jedesmal in anderen Zusammenhängen.記憶痕はむしろ一枚のパリンプセストのようなものである。それは何度も新たに上書きされる——たしかに同じ語をもって、しかし毎回別の連関において。(S. 99)
Wie bei den Assoziationen des Denkens ist bei den körperlichen Fertigkeiten die Absperrung der unrichtigen und unnötigen Bahnen mindestens so wichtig wie die Auffindung der richtigen. […] Durch Übung gewinnt man nicht nur neue Fähigkeiten, sondern man verschließt sich auch andere.思考の連合においてと同様、身体的な熟練においても、誤った不要な路の遮断は、正しい路の発見と少なくとも同じだけ重要である。……練習によって人は新しい能力を得るだけでなく、他の能力を自らに閉ざしもする。(S. 98)
忘却は記憶痕の消滅ではなく喚起の失敗である(S. 110)。ランシュブルクの法則——同一の目標をもたない類似機能は互いに抑制する——が忘却を支配する。
Es ist durchaus falsch, einen anatomischen Begriff daraus zu machen.連合から解剖学的概念を作り上げるのは、まったく誤りである。(S. 178)
Die Assoziationsstiftungen sind nicht bloß etwas Positives, sondern ebensosehr etwas andere Wege Verschließendes. Jede beliebige Gewöhnung (Aussprache, Schrift, und tausend andere) erschwert alle Reaktionen anderer Richtung.連合の成立は単に積極的な何かであるにとどまらず、同じだけ、他の路を閉ざす何かでもある。いかなる習慣づけ(発音、書字、その他無数のもの)も、他の方向のあらゆる反応を困難にする。(S. 179)
Das Elementare, das der Assoziation durch Ähnlichkeit zugrunde liegt, ist älter als die Psyche, ja älter als das Nervensystem.類似による連合の基礎にある要素的なものは、心より古く、それどころか神経系より古い。(S. 181/182)
Auf die Auswahl hat in erster Linie das Denkziel Einfluß, die im gegebenen Moment herrschende Strebung.選択に対して第一に影響を及ぼすのは思考目標であり、与えられた瞬間に支配している努力である。(S. 185)
Wir sehen in der Konstellation wieder eine Wirkung der Schaltung, die jeder psychische Vorgang, eine Idee, ein Trieb, vor allem ein Affekt auf das ganze Assoziationsgefüge ausübt […] Diese Art Schaltung ist nicht nur ein Ausdruck, sondern geradezu die Ursache der Einheit der obersten zentralnervösen Funktionen.我々は布置のうちに、あらゆる心的過程が——観念が、欲動が、とりわけ情動が——連合構造全体に及ぼす切替の作用を、あらためて見る。……この種の切替は、最高次の中枢神経機能の統一の表現であるにとどまらず、まさにその原因である。(S. 187)
Die Gesetze des Denkens sind die der Assoziation; diese sind die der Ekphorie; die Ekphorie ist in Art und Inhalt bestimmt durch die Engraphie, in ihrer Auswahl durch die angeborenen lebenserhaltenden Reaktionen des CNS.s (Reflexe, Triebe, affektive Einstellungen); die Engraphie wiederum ist eine überdauernde Erfahrung.思考の諸法則は連合の諸法則である。連合の諸法則は喚起の諸法則である。喚起は、その様式と内容においては記銘によって、その選択においては中枢神経系の生得的な生命維持反応(反射、欲動、情動的構え)によって規定される。そして記銘とは、持続する経験にほかならない。(S. 188)
「概念の内側の結合は、概念のあいだの結合よりはるかに堅固である」(S. 176)。事物概念の内的結合の堅固さ=「解体の考えられなさ」は、概念形成と同時に与えられる(S. 177)。
論理的結合。あらゆる精神病で乱れうる。
Im Traum gar fallen die Begriffe so gut auseinander wie die logischen Funktionen. — In der Pathologie finden wir zwar logische Störungen bei allen Geisteskrankheiten, Begriffsauflösungen aber nur in der Schizophrenie.夢においては、論理的機能と同様に概念そのものが崩れる。——病理においては、論理障害はあらゆる精神病に見られるが、概念の解体は統合失調症にのみ見られる。(S. 177)
Ich habe es bis jetzt „autistisches Denken“ genannt […] Der Name wurde aber mißverstanden (sogar von Jaspers in seiner Psychopathologie). So war ich gezwungen, einen andern vorzuschlagen: Dereieren kommt von reor, ratus sum (ratio, res, real) […] Denken, das von der Wirklichkeit absieht oder abweicht.私はこれまでこれを「自閉的思考」と呼んできた。……しかしこの名は誤解された(彼の精神病理学におけるヤスパースによってさえ)。そこで私は別の名を提案せざるをえなかった。Dereieren は reor, ratus sum(ratio, res, real)に由来する。……現実から目を逸らす、あるいは現実から逸れる思考、ということである。(S. 191/192, 註)
dereierendes Denken が生じるのは、現実が内的欲求を満たしえないところ(神話、呪術、白昼夢、詩)と、連合緊張が減弱しているところ(夢、統合失調症、発熱、いくつかの中毒)である(S. 156)。
In Wirklichkeit aber gibt es alle Übergänge von der geringen Loslösung von den erworbenen Assoziationen, wie sie bei jedem Analogieschluß notwendig ist, bis zu der unbändigsten Phantasie.実際には、いかなる類推推論にも必要とされるあのわずかな、獲得された連合からの離脱から、最も奔放な空想に至るまで、あらゆる移行が存在する。(S. 194)
Ein zweites mehr allgemeines Erfordernis guter psychischer Leistungen ist eine gewisse Leichtigkeit, durch die Erfahrung erworbene Assoziationen wenn nötig lösen zu können.良好な心的遂行の第二のより一般的な要件は、経験によって獲得された連合を必要に応じて解きほぐしうる、ある程度の容易さである。(S. 200)
Die Lösbarkeit der Assoziationskomplexe kann aber auch zu groß sein.しかし連合複合体の解けやすさは大きすぎることもありうる。(S. 200)
Beim Schizophrenen (Dementia praecox) ist, wie im Traum des Gesunden, der Weg von einer Vorstellung zur andern nicht mehr durch die Gewohnheit und Erfahrung gebunden.統合失調症者においては、健常者の夢におけるのと同じく、一つの表象から他の表象への道がもはや習慣と経験によって縛られていない。(S. 202)
心的機能どうしの作用は、力の平行四辺形に従って合成される物理的な力ではなく、電気設備における入切に似る。機関士は機関に直接作用せず、蒸気の流入を切り替えるだけである(S. 287)。この切替力がなければ、我々は「努力の寄せ集め」にすぎない。
Der Begriff der Schaltung ist natürlich nur ein Bild, dem keine andere Bedeutung zukommen soll, als daß es uns hilft, […] diese Vorstellung durch eine einfache Bezeichnung festzuhalten und zu übermitteln.切替という概念はもちろん一つの像にすぎない。それに帰せられるべき意義は、……その表象を単純な名称によって保持し伝達する助けとなる、ということ以外にはない。(S. 305)
Was hinter den Schaltungsvorgängen steckt, weiß wohl bis jetzt noch niemand.切替の過程の背後に何が潜んでいるのかは、今のところおそらく誰も知らない。(S. 306)
Es ist also irgendeine Kraft tätig, die die Schaltungen in der richtigen Lage hält, die überwindbar ist und nachlassen kann wie die Spannung einer Feder; läßt sie nach, so lockern sich die Schaltungen, folgen anderen Einflüssen, schlottern hin und her.したがって何らかの力が働いており、それが切替を正しい位置に保っている。その力は克服されうるものであり、ばねの張力のように弛みうるものである。それが弛めば、切替は緩み、他の影響に従い、あちらこちらへぐらつく。(S. 308/9)
| 層 | 緩むもの | 典拠 |
|---|---|---|
| i | 連合を選択する切替——その保持力=緊張が弛む | Schaltung は「統一の原因」(S. 187)/Lockerung の唯一の用例(S. 308/9)/「連合緊張の減弱」(S. 156) |
| ii | 経験連合の固さ——解けやすさが過大になる | 知能の第二要件と、その過剰(S. 200)/「習慣と経験によってもはや縛られていない」(S. 202) |
| iii | 概念内結合——概念そのものが解体する | 結合の階層(S. 176–177)/Begriffsauflösung は統合失調症にのみ(S. 177) |
Noch eine andere apriorische Kausalität neben dieser aposteriorischen, sicher vorhandenen anzunehmen, ist sinnlos […] Wäre übrigens die Kausalform des Denkens angeboren, so müßten wir sie wieder in der nämlichen Weise ableiten, nur aus Erfahrung und Gedächtnis der Art statt des Individuums. Eine Kategorie im Kantschen Sinne wäre sie deswegen doch nicht.この後天的な、確実に存在する因果性のほかに、なおもう一つのア・プリオリな因果性を想定することは無意味である。……かりに思考の因果形式が生得的であったとしても、我々はそれをふたたび同じ仕方で導出せねばならないだろう——ただし個体の経験と記憶からではなく、種の経験と記憶から。だからといってそれがカント的な意味でのカテゴリーであることにはならない。(S. 208)
空間についても同様である。刺激そのものには空間的なものも時間的なものもない。皮膚点への刺激が反射運動を引き起こし、その運動感覚が新鮮な刺激感覚と中枢で結合する——「空間とは抽象された関係である」(S. 219)。「これらの関係の抽象が時間である」(S. 223)。網膜は外空間を触知するための特殊器官にすぎず、盲人の杖と同じ地位にある。
Tendenzen (Instinkte, Triebe, Affektivität) und das leere Gedächtnis, die Fähigkeit der Engraphie und Ekphorie sind in der Organisation begründet, angeboren, wenn man will apriorisch. […] „Erkenntnisse“ a priori, d. h. solche, die in der Hirnorganisation liegen, gibt es nicht.諸傾向(本能、欲動、情動性)と、空の記憶、すなわち記銘と喚起の能力とは、組織のうちに基礎づけられており、生得的であり、望むならばア・プリオリと呼んでよい。……しかしア・プリオリな「認識」、すなわち脳の組織のうちに存する認識は、存在しない。(S. 228)
| 人名 | 本書での出現 |
|---|---|
| カント | S. 163, 189, 196–199, 208, 215, 229——そのつど論敵として名指される |
| ヒューム | S. 207 に一度きり。「ヒューム以来、他にも多くの者が因果性を経験から導いているのだから、この程度の示唆で足りるであろう」という片付けの身振り |
| ロック | 固有名としての出現はゼロ |
| ヘルバルト | 一度も名指されない。巻末索引にも立項なし |
| ユング | S. 228 に一度——「集合的無意識」への一箇所の譲歩 |
記憶論(第三部 A 章)には当たる。語彙は疎通・制止・遮断・短絡・抵抗と徹頭徹尾機械論的であり、合成写真の比喩による概念形成の説明も典型的な原子論である。
しかし思考論(第三部 C 章)には当たらない。「これらすべての連合からは、なお使用可能な思考は生じえない」(S. 184)は、連合心理学の限界の宣言そのものである。
きわめて正確な看破。「思惟する実体は存在せず、思惟する機能が存在する」(S. 41)、「統一をなしうるのはおそらく機能のみ」(S. 62)。ブロイラーの一元論が実体の一元論ではなく機能の一元論であること、還元の方向が「心を脳という物へ」ではなく「心も脳も機能へ」であることを、エーは一句で言い当てている。
| ヤスパースの挙げる三項 | 『魂の自然史』(1921) | 『精神様体』(1925) |
|---|---|---|
| 1. 記憶(ムネーメ)的な諸機能 | 存在する——「生ける原形質の一般的機能」(S. 90)、「すべての細胞は記憶痕担体から」(S. 87 註) | 存在する |
| 2. 統合 | 存在する——意識の二条件の一方(S. 58–66)。神経系に限定されない(S. 69 註) | 存在する |
| 3. 構造と力の合目的性 | 存在しない。明示的に禁じられている(S. 326) | 原理として据えられる |
Zweck ist ein Begriff, der nur im Zusammenhang mit einem nach bewußten Zielen handelnden Wesen, wie es der Mensch ist, existieren kann. Man mag ihn einem menschlich gedachten Gott zuschreiben, nicht aber einem Weltall, einer Weltordnung.目的とは、人間のように意識された目標に従って行為する存在との関連においてのみ存在しうる概念である。人間的に思い描かれた神にそれを帰することはできようが、宇宙に、世界秩序に帰することはできない。(S. 326)
1921 年に許されていたのは「まだ知られていない生命原理があるかもしれない」という認識論的な空欄であって、その空欄に実体名を与えることではなかった。
断っておかねばならないことがあります。『精神様体』(1925)と『機械論・生気論・記憶論』(1931)は、いずれも入手しえていません。前者は冒頭部分がシュプリンガーのサイトで閲覧できるほかに公開全文が見当たらず、書籍としても現在通常の流通経路では手に入りません。後者も同様で、欧米の公共アーカイヴにも電子版は現れていない。
したがって右の判定は、ヤスパースの要約とエーの言及、および 1921 年の本文との対照から導かれた推論です。この推論を可能にしているのは、ヤスパースの批判文がそれ自体、精神様体の内容を三項目に分けて列挙する形をとっているという事情にすぎません。