序論 ―― なぜ成立事情を問うのか
魏志倭人伝を、卑弥呼をめぐる一連の覚え書きの一次資料として繰り返し参照してきた。しかし史料批判の基本に立ち返るなら、テクストの内容を検討する前に、そのテクストがどのような人物によって、どのような事情のもとで、どのような読者を想定して書かれたのかを問うことは、欠かせぬ手続きである。陳寿は無色透明な記録者ではなく、蜀漢の遺臣として西晋に仕えた、特定の立場を持つ官僚であった。彼の著した『三国志』は、その生前には私撰にとどまり、公認の史書となったのは死後のことである。そしてこのテクストが記述する倭という対象そのものが、魏にとって、東方の彼方に浮かぶ、地政学的な意味を帯びた存在であった。これらの事情を踏まえたうえで初めて、テクストの記述——とりわけ地理・道里・習俗に関する記述——を、額面通りに受け取ってよい部分と、慎重な留保を要する部分とに、腑分けすることができる。
一、陳寿と『三国志』の成立
陳寿(二三三~二九七)は、益州巴西郡安漢県の出身で、碩学譙周のもとで儒学・史学を修めた。蜀漢に仕え、衛将軍諸葛瞻の主簿、東観秘書郎などを歴任したが、権勢を誇った宦官黄皓に逆らったため、しばしば左遷の憂き目を見た[1]。二六三年の蜀漢滅亡後、しばらく仕官の途が閉ざされたが、二六八年、同門の羅憲の推挙によって西晋に仕える。文才を張華に見出され、佐著作郎に始まり、著作郎、そして荀勗との確執による一時左遷を経て、杜預・張華の推挙により治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎という官途を歩んだ[1]。しかし彼は生涯を通じて公卿の位には至らず、蜀出身者としては異例の出世頭だったとする評価がある一方で、なお不遇であったとする評価も根強い[2]。
そして本稿にとって決定的に重要なのは、『三国志』がそもそも私撰(私的な編纂物)であったという事実である。陳寿の生前、朝廷がこれを正式に発行した記録はない。彼の死後、梁州大中正・尚書郎の范頵が上表して、初めて『三国志』を筆写せよとの勅命が下り、これによって事実上の公認史書となった[3]。唐代に至って初めて正史として認定されている。私撰から公認へというこの二段階の成立過程は、テクストの伝承そのものにも影響を及ぼしたと考えられる。
二、伝承の物質的基盤 ―― 草書執筆説をめぐって
魏志倭人伝には、後世まで議論の続く著名な字句の異同がある。「邪馬壹國(邪馬壱国)」と後漢書・隋書に見える「邪馬臺國(邪馬台国)」、「投馬國」と一部異本に見える「殺馬國」、「對海國」と後代の「對馬國」、「一大國」と梁書等に見える「一支國」——これらはいずれも、字形の類似から生じた転写の誤りである可能性が、古くから指摘されてきた[4]。
この誤字の生成機序について、書道家の井上悦文は、一つの具体的な仮説を提示している[5]。陳寿の生きた三世紀後半は、楷書という書体そのものがまだ確立する以前の時代であり、正式な記録以外の大量の文書は、速記に適した草書によって書かれるのが通例であった。六十五巻という大部の『三国志』を、正式な高位の官職にも就いていない人物が私的に編纂するには、草書によらざるを得なかった。そして「臺」と「壹」、「大」と「支」、「投」と「殺」、「海」と「馬」といった字は、草書で書くと酷似する。私撰の草稿から、後年、公的な清書(正式な字体)へと移す過程で、これらが誤って写し取られた可能性がある、というのがその骨子である。
この仮説は、書道という専門的視座からの、傾聴に値する着想である。ただし率直な留保を記さねばならない。井上氏の著作は一般向けの書籍であり、「草書ゆえの視覚的類似」という具体的な機構を、写本の実物や字形比較といった実証的な手続きを通じて論証した、査読を経た学術論文の形では管見の限り確認できない。早稲田大学の渡邉義浩をはじめとする三国志研究の専門家も、九百年にわたる書き写しの過程で誤字が生じたことは広く認めているが[6]、その具体的な発生源を陳寿個人の執筆時点、かつ草書という特定の書体に限定する主張までは、管見の限り確認できない。現存最古の刊本(南宋・紹興本/紹熙本、十二世紀)に至るまで、書写を重ねた期間はおよそ九百年に及ぶ。誤字の発生源をどの時点に求めるにせよ、この長い伝承過程のどこで生じたとしても不思議はなく、井上説はその可能性の一つとして、慎重に位置づけるのが穏当であろう。
三、地政学のなかの倭 ―― 呉を挟撃するという文脈
倭からの朝貢が行われた景初二年(二三八年)は、遼東の事実上の独立政権であった公孫氏を、魏の司馬懿がまさに滅ぼした直後にあたる[7]。公孫氏は、時に南方の呉と結んで魏に敵対する存在であり、その滅亡によって、魏は初めて楽浪・帯方の二郡を実効支配下に置いた。この直後というタイミングで倭の使者が到来したことは、複数の研究者によって「絶妙のタイミング」と評されている[8]。魏にとって、東方の彼方に自国へ臣従する勢力を新たに持つことは、南方の呉を地政学的に牽制する意味を帯びうる——いわゆる挟撃の構図である[9]。「親魏倭王」という破格の称号(同時期に同格の称号を得たのは大月氏国王のみとされる)、および莫大な下賜品は、この文脈のもとで理解する余地がある。
そして、倭の位置そのものが、実際よりはるかに南に想定されていたことも、この文脈と無縁ではない。本文の「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)という一文は、会稽・東冶(現・福建省福州市付近)の東方、つまり実際の日本よりはるかに南、台湾や琉球列島に近い緯度に倭を位置づけている。これは、報告された日数記事(投馬国まで水行二十日、邪馬台国まで水行十日陸行一月)を、中国側の地理認識の枠組みに機械的に当てはめて逆算した結果と考えられ、この「南北に長い」という倭地理解は、魏志倭人伝の記述解釈における一つの大きな論点をなしている[10]。ただし、これが意図的な政治的操作の結果であったのか、それとも当時の測量・伝聞情報の限界による素朴な誤認にすぎなかったのかは、研究者のあいだでも見解が分かれ、決着していない。作為説を採る論者もいれば、日数記事を字義通り機械的に処理した結果にすぎないとする論者もいる。ただ、結果として生じたこの南方への配置が、魏にとって「呉の背後を扼する遠国」という政治的な物語と、意図せずして、あるいは意図して、整合してしまった可能性は、指摘しておく価値がある。
四、南方習俗の混入 ―― 会稽・儋耳朱崖という参照枠
本文自体に、その手がかりがはっきりと刻まれている。「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以て蛟龍の害を避く」という一節は、明らかに江南(会稽)の越人に伝わる由来譚を、そのまま倭人の文身習俗の説明に転用したものである。さらに「所有無與儋耳朱崖同」(産物の有無は儋耳・朱崖と同じ)という一文は、海南島の地名を名指しで持ち出し、倭の産物を南方の島嶼と同一視している[11]。つまり陳寿(あるいはその情報源)は、倭という未知の対象を理解するにあたり、すでに中国側に蓄積されていた「南方の海洋民族」というカテゴリー的知識の枠組みを借用して記述した、という構造が透けて見える。会稽東冶の東という地理的想定と、この習俗記事の南方的色彩とは、同じ認識の枠組みから生じた、表裏一体の現象と見てよい。倭人自身が「太伯の後(呉の始祖太伯の子孫)」を自称したという魏略逸文の記事も、この文脈に棹さすものである[12]。
五、伊都国 ―― 外交窓口としての位置づけと他文献
伊都国が外交上の窓口としての機能を担っていたことは、魏志倭人伝の本文自体(「郡使往來常所駐」「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國……皆臨津搜露」)に明記されているが、これを裏づける、あるいは補完する他の文献情報も存在する。まず、陳寿が参照したとされる魚豢の『魏略』(魏志より先行する史書、現存せず、裴松之注等に逸文が残る)にも、伊都国を含む諸国の記事が引かれており、魏志と魏略とで、記述に若干の異同がありつつも、伊都国の重要性そのものは共有されている[13]。また、伊都国には「世有王」(代々王がいる)と明記される一方、王名そのものは記録されておらず、この点は魏志・魏略を通じて共通する空白である[14]。
考古学的には、伊都国の比定地とされる福岡県糸島市域で、三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡といった、弥生時代の王墓級の遺構が相次いで発見されており、前一世紀から後三世紀にかけて、大陸との交渉窓口にふさわしい富の集積が、この地に継続して存在したことを示している[15]。ただし、これらの考古学的知見は、あくまで伊都国が有力な交易拠点であったことの物証であって、「外交窓口」という魏志倭人伝の記述そのものを、記紀や他の中国史書が独立に裏づけているわけではない。この点で、伊都国の外交窓口としての位置づけは、基本的には魏志倭人伝(および魏略)という一つの史料系統に依拠した理解であることを、明記しておく必要がある。
六、卑弥呼は破格の待遇を予見していたか
景初二年の遣使が、公孫氏滅亡の直後という絶妙のタイミングで行われたことは、卑弥呼の側に何らかの情報収集能力と、機を見るに敏な判断があったことを示唆する。ただし、そこから先——魏がこれほどまでに破格の待遇(親魏倭王という称号、大月氏国王に匹敵する格式、莫大な下賜品)を用意することまで、卑弥呼の側が予見していたか、という問いには、慎重な答えが必要である。
まず、卑弥呼側が携えた最初の貢物は、男女の生口十人と布二匹二丈という、決して豪華とは言えない、初めての接触にふさわしい規模のものであった[16]。これに対して魏が返礼として与えた品々——金印紫綬、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤等々——は、貢物の規模とは著しく不釣り合いな厚遇である。この非対称性は、卑弥呼の側が事前にこれほどの厚遇を見込んでいたというよりは、魏の側の事情によって、結果的に厚遇が生じたことを示唆する。
その魏側の事情として、近年注目されているのが、司馬懿個人の政治的思惑である。公孫氏討伐という軍事的功績を挙げたばかりの司馬懿にとって、遠方の「大国」からの朝貢を皇帝に取り次ぐことは、自らの権威をさらに高める好機であった。中国の伝統的な観念では、朝貢国が遠ければ遠いほど、大国であればあるほど、それを従える皇帝の徳の高さを示すとされる。十年前(二二九年)の大月氏国(クシャーナ朝)の朝貢が、司馬懿のライバルであった曹真の功績とされていたことを踏まえるなら、倭からの朝貢を「遠い南の大国」からの帰服として演出し、皇帝との引見を取り計らうことは、司馬懿にとって曹真に匹敵する政治的資産となりえた、という指摘がある[17]。もしこの解釈が妥当であれば、破格の待遇の主たる要因は、倭という国そのものの実態や、卑弥呼側の外交的な読みにあったのではなく、魏の宮廷内部における権力争いの偶発的な帰結であったことになる。卑弥呼の側がこれを予見していたとは考えにくく、むしろ結果として生じた僥倖を、その後の外交(正始年間の度重なる遣使)を通じて、最大限に活用していった、と見るのが妥当であろう。
七、狗奴国と呉 ―― 考古学的傍証をめぐって
倭国は魏と国交を結んでいたため、魏と敵対する呉とは接触がなかった、というのが文献上の建前である。ところが、この建前と整合しない考古学的な発見がある。山梨県の鳥居原狐塚古墳、兵庫県の安倉高塚古墳をはじめ、国内で複数例、呉の年号「赤烏元年」(二三八年)を含む銘文を持つ銅鏡が出土しているのである[18]。魏志倭人伝が伝える倭国(邪馬台国連合)が呉と交渉した記録は、文献上どこにもない。にもかかわらず、この赤烏銘鏡が国内から出土している以上、倭種のいずれかの勢力が、独自に呉との接触を持っていたことは、考古学的に動かしがたい。
この矛盾を説明する仮説の一つとして、邪馬台国とは別のルート、すなわち邪馬台国と対立していた狗奴国こそが、呉との接触を持っていた勢力ではないか、という見方が示されている[19]。この仮説は、魏を後ろ盾とする邪馬台国と、それに対抗する狗奴国とが、それぞれ魏・呉という対立する両大国と別個に結びついていた、という、地政学的にきわめて整った構図を提示する点で魅力的である。ただし、率直に言えば、これは赤烏銘鏡の出土地(甲斐・摂津など)が狗奴国の想定地(九州南部・東海など、比定自体が定まらない)と直接には結びつかないという弱点を持つ、なお仮説の域を出ない見方である。赤烏銘鏡そのものの性格(魏でも製作された「舶載」か「仿製」かをめぐる議論も存在する)についても、専門家のあいだで解釈が分かれている。狗奴国と呉との接触は、史料の空白を埋める魅力的な仮説ではあるが、確証された事実として扱うことはできない。
八、「悉可以示汝國中人」の詔 ―― 誰に向けた示威か
親魏倭王の詔書には、「還り至らば録受し、悉くを汝の国中の人に示すを以って、国家の汝を哀れむを知らしむべし」(帰国したならばこれらを記録の上受け取り、そなたの国じゅうの人々に示して、魏の国家がそなたをいとおしく思っていることを知らしめよ)という一文がある。この「国中の人に示せ」という命令の宛先を、より広く倭国連合を構成する諸国全体への示威と読むか、それとも特に敵対する狗奴国を念頭に置いた示威と読むかは、テクストそのものからは一義的に確定できない。文言上は「汝國中人」(そなたの国じゅうの人々)であって、狗奴国を名指ししているわけではなく、通常の朝貢儀礼における常套句(遠方の朝貢国に対して、皇帝の恩寵を国内に周知させよという文言)として理解するのが、文言に忠実な読み方である。
しかし、この詔書がもたらされた時代背景——卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼とがすでに「素より和せず」の関係にあったこと(この記述自体は正始八年の記事だが、対立そのものはそれ以前から続いていた可能性が高い)——を踏まえるならば、この印綬・銅鏡百枚という物証を国内に誇示することが、結果として、狗奴国に対する牽制の効果を持ちえたことは、十分に想定できる。ただし、この牽制が実効性を持つためには、狗奴国の側もまた、大陸の情勢——魏という大国の存在、その権威の重み、印綬や銅鏡が象徴する意味——に、一定程度通じている必要がある。この点は、狗奴国が単なる辺境の孤立した勢力ではなく、大陸情勢を含む倭国連合内外の情報流通網に、ある程度は接続していたことを、間接に示唆する。前節で触れた赤烏銘鏡の存在(仮にそれが狗奴国系の勢力によるものであったとすれば)は、まさにこの想定と整合的である——狗奴国もまた、独自のルートを通じて大陸の権威の体系を理解し、それに対抗する形で、呉という別の権威と結びつこうとした、という読みが可能になるからである。ただし、これもまた、複数の仮説を重ね合わせた上での推論であり、確証された事実ではないことを重ねて断っておく。
九、投馬国 ―― もう一つの位置不明の大国
狗奴国と並んで、いまだ所在が定まらない国がもう一つある。投馬国である。戸数五万余戸という規模は、女王国(邪馬台国、七万余戸)に次ぐ、倭人伝に記された国々のなかで第二位の規模であり、二万余戸の奴国をも大きく上回る[20]。この規模が事実に近いとすれば、投馬国は北部九州の一小国ではありえず、相応の考古学的痕跡——大規模な拠点集落、王墓級の墳墓、特色ある副葬品——を伴う地域に比定されねばならない。
比定地をめぐる説は、大きく九州説系統と、瀬戸内・山陰説系統とに分かれる。邪馬台国九州説の立場からは、日向国都萬(現・宮崎県西都市妻)、薩摩、筑後の上妻・下妻などが挙げられている[21]。邪馬台国大和説の立場からは、備後国鞆(現・広島県福山市、地名の類似による)、出雲、但馬、周防佐婆郡玉祖郷などが挙げられている[22]。考古学的な裏づけを重視する立場からは、吉備(考古学者・西谷正が上東遺跡等を根拠に主張)や、出雲(荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・妻木晩田遺跡等の弥生後期の突出した集積を根拠とする田中義昭説)が、有力な候補として挙げられている[23]。いずれの説も、五万余戸という規模に見合う考古学的な痕跡を、それぞれの候補地に求めようとする点で共通しているが、決定打を欠き、定説はない。
興味深いのは、投馬国の官名「彌彌(ミミ)」「彌彌那利(ミミナリ)」が、記紀において出雲系・神代系の人名にしばしば現れる要素であるという指摘である[24]。これが単なる音韻上の偶然か、それとも投馬国と出雲的な祭祀伝統との、何らかの実質的な連関を示すものかは、なお判断が難しい。本シリーズが扱う「座」の議論——皇統・三輪・海部氏を横断する祭祀的職能——との接続を試みるならば、投馬国という五万余戸の大国が、邪馬台国連合の内部でどのような祭祀的・政治的位置を占めていたのかという問いは、なお開かれた、今後の検討に値する論点である。
十、魏の軍事的関与の先例
正始八年、卑弥呼が狗奴国との抗争を報告した際、魏(帯方郡)は塞曹掾史張政を派遣し、詔書と黄幢(軍事的権威を象徴する黄色の旗)をもたらして難升米に授け、檄文によって事態を告諭した。この対応は、倭にのみ与えられた特別な厚遇ではない。ちょうど同じ数年間、帯方郡は東方の複数の勢力と、実際に軍事的な衝突を経験していた。
正始六年(二四五年)、玄菟太守であった王頎(のちに正始八年、帯方太守として難升米に黄幢を授ける、まさにその人物)は、毌丘倹の命により高句麗を攻め、沃沮を越えて粛慎の南境にまで達し、戦功を石に刻んでいる[25]。正始七年(二四六年)、帯方太守弓遵(正始元年〈二四〇年〉に卑弥呼へ下賜品を届けた、まさにその人物)は、楽浪太守劉茂とともに韓(辰韓・馬韓)の反乱を鎮圧するために出兵し、戦死している。この戦いで韓の王統(箕氏)は滅ぼされた[26]。その戦死した弓遵の後任として着任したのが王頎であり、着任してすぐ、卑弥呼から狗奴国との抗争の報告を受けて張政を派遣した、というのが正始八年の経緯である。
すなわち、卑弥呼への「檄と黄幢」による支援は、この数年間、帯方郡が高句麗・韓と相次いで実際に矛を交えていた、東方辺境における一連の軍事的緊張の延長線上にある出来事であり、倭にのみ特別に与えられた厚遇ではなく、当時の帯方郡が周辺諸勢力に対して一貫して行っていた、権威の誇示と介入の一環として理解するのが適切である。ただし程度の差は重要である——韓に対しては実際に討伐の大軍を送り、高句麗に対しても深く攻め込む遠征を行ったのに対し、倭に対しては軍勢そのものではなく、詔書と黄幢という象徴的な後ろ盾を与えるにとどまっている。これは、実際の派兵にまでは至らない、中国王朝が周辺の朝貢国同士の紛争に関与する際の、一つの標準的な様式——名分と権威の付与によって、現地の勢力争いを間接的に誘導する——を示す好例と言える。もっとも、これが実効性を持ったかどうかは別問題である。狗奴国側からすれば、魏の後ろ盾を得たからといって、遠い海を越えて実際に援軍が来るわけではないと見切っていた可能性も指摘されており[27]、事実、この抗争のさなかに卑弥呼自身が世を去っている。
結語
本篇で検討した論点は、いずれも一義的な結論に至るものではない。陳寿の私撰という出自、草書に由来するかもしれない誤字、会稽東冶の東という誇張された(あるいは誤認された)地理、南方習俗の借用、伊都国の外交機能、卑弥呼側の予見の限界、狗奴国と呉との接触の可能性、詔書の示威対象、投馬国の所在、そして魏の軍事的関与の先例——これらはすべて、魏志倭人伝というテクストが、単一の透明な事実の記録ではなく、特定の書き手・特定の伝承過程・特定の地政学的認識の枠組みのなかで生成された、複層的な構築物であることを示している。この複層性を踏まえたうえで初めて、卑弥呼をめぐる一連の覚え書きが依拠する史料的基盤を、過信することなく、しかし過度に懐疑することもなく、適切に評価することができるのだと考える。