横浜基礎研究所 文献案内──批判篇(草稿)

Snell発展史観への批判

──自己意識の発生をめぐるギリシャ研究の方法論的再検討──
Bernard Williams, Shame and Necessity (1993)
A. A. Long, Greek Models of Mind and Self (2015)
Momenta critica
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
草稿 v0.5 · MMXXVI

【草稿注記 Draft v0.5】本稿のうち Long(2015)に関する記述は、PDF原典(Revealing Antiquity 22, Harvard University Press)に直接依拠し、頁数を付して引用・参照した。これに対し Williams(1993/2008)に関する記述は、原書入手前の段階でAI(Claude)の知識に基づいて再構成したものであり、章の同定・論旨の要約・頁数のない引用はすべて原典照合前の暫定的なものである。原書入手後、第III節は全面的に検証・加筆訂正を要する。Snell および Dodds の要約は既発表の紹介稿(別稿)を前提とし、本稿では最小限にとどめた。

要旨

Bruno Snell『精神の発見』(1946)は、ホメロスの人間には統一的な精神も身体もなく、「精神」はギリシャ思想史の中で歴史的に発見されたと論じ、自己意識の発生を問う比較研究の古典的枠組みを提供してきた。しかしこの発展史観は、Bernard Williams『恥と必然性』(1993)による哲学的批判と、A. A. Long『ギリシャの心と自己のモデル』(2015)による文献学的・哲学史的批判を経て、今日では大幅な修正を余儀なくされている。本稿は両者の批判の論理構造を整理し、(1)語彙の欠如から概念の欠如を推論する誤謬、(2)進歩主義的歴史記述の問題、(3)「発見」に代わる「モデルの複数性」という枠組み、の三点を軸にその射程と限界を検討する。最後に、この方法論的教訓が古事記における自己意識の問題——記紀の心性語彙から古代日本人の「未発達な自己」を推論することの危険と、複数の自己モデルの並存として記紀テクストを読む可能性——に対してもつ含意を素描する。

I はじめに——問題の所在

自己意識の発生という問題設定のもとで古事記の世界を読み解こうとするとき、ギリシャ研究は避けて通れない参照枠を提供する。ホメロスの叙事詩から前ソクラテス期を経てプラトンに至る道程は、「神話的心性から反省的自己へ」という移行を文献上で追跡しうる、世界史上ほとんど唯一の資料体だからである。この移行を最も鮮明に定式化したのが Snell『精神の発見』[1]であり、これを人類学的に拡張したのが Dodds『ギリシァ人と非理性』[2]であった。両書についてはすでに別稿で紹介を試みた。

しかし、この二著の枠組みをそのまま記紀に適用することには重大な危険がともなう。Snell 的な発展史観は、20世紀後半の英語圏古典学において根本的な批判にさらされ、今日では少なくともその素朴な形態においては維持しがたいと見なされているからである。批判の中心にいたのが哲学者 Bernard Williams であり、その批判線を古典学の側から継承・精緻化したのが A. A. Long である。両者は師弟でも共著者でもないが、バークレーで同僚として親交をもち[4]、Williams 没後には Long が『恥と必然性』第二版(2008)に序文を寄せ、また論文「Williams のギリシャ文学・哲学論」[5]で Williams の Snell 批判を主題的に論じている。すなわち Williams–Long は、Snell–Dodds に対する一つのまとまった対抗軸を形成している。

本稿の目的は二つある。第一に、この対抗軸の論理構造を、Williams(1993)と Long(2015)に即して整理すること。第二に、そこから得られる方法論的教訓を、筆者が進めている古事記研究——とりわけシャマニズム的宇宙論と稗田阿礼ひえだのあれ集団をめぐる考察(Commentarii Yamatenses XVIII–XIX)——に接続することである。

II 前提——Snell のテーゼ(最小限の要約)

議論の前提として、Snell のテーゼを最小限に要約しておく(詳細は別稿参照)。Snell によれば、ホメロスのギリシャ語には生きた「身体」全体を指す語がなく(sōma は死体を意味する)、また統一的な「精神」「魂」を指す語もない。thymos・noos・psychē 等は相互に independent な諸機能であり、ホメロスの人間は身体的にも精神的にも「部分の集合」として表象されている。決断は人間自身によってではなく神々の介入によってなされる。統一的な自己、内面性、自発的決断の主体としての精神は、抒情詩人からヘラクレイトス、悲劇を経て、ギリシャ思想史の中で段階的に「発見」された——これが『精神の発見』の骨子である[1]

この構図は、Dodds による恥の文化から罪の文化への移行論[2]と結合することで、「外部規範に規定された未分化な心性から、内面化された自律的自己へ」という強力な発展史的物語を形成した。自己意識の発生を問う比較研究者にとって、この物語の魅力は明らかである。しかし、まさにその魅力ゆえに、以下の批判を正面から検討しておく必要がある。

III Williams『恥と必然性』(1993)の批判 〔原典照合前〕

〔本節は前掲草稿注記のとおり、原典照合前の暫定的再構成である。〕

III-1 書誌と性格

『恥と必然性』は、Williams が1989年にカリフォルニア大学バークレー校で行った Sather Classical Lectures を基礎とする(Sather Lectures 第57巻、University of California Press, 1993年刊。第二版2008年、A. A. Long による序文を付す[3])。分析哲学の第一人者が古典学の最高峰の連続講義に招かれて Snell と Adkins を正面から批判したという事情そのものが、本書の学史的な位置を物語っている。

III-2 進歩主義(progressivism)批判

Williams の批判の第一の標的は、個別の文献学的主張である以前に、それを支える歴史記述の型である。すなわち、ギリシャ人を人類の「幼年期」に置き、そこからカント的な道徳的成熟へと向かう単線的発展を想定する、ヘーゲル起源の進歩主義的歴史観である。Williams はこれを、古代人の他者性を「未発達」として処理することで現代の道徳的自己理解を追認する装置だと断じる。Long も序論の注でこの「進歩主義的見解への雄弁な弾劾」が『恥と必然性』第1章でなされていることを明記している[4](Long 2015, p. 207, Introduction n. 1)。Williams の逆説的なテーゼは、倫理的思考において現代人はみずから考えるよりはるかにギリシャ人に近く、むしろ啓蒙以後の「道徳性システム」のほうが歴史的な特殊形態だ、というものである。

III-3 語彙論的議論への批判——概念なき語、語なき概念

第二の、より技術的な批判は、Snell の推論形式に向けられる。Snell の議論は本質的に語彙論的である——ホメロスに「身体」「精神」を指す統一的な語がない、ゆえに統一的な身体・精神の概念がない、と。Williams はこの推論を誤謬として退ける。ある概念を表す専用の語彙をもたないことと、その概念を欠くこととは別事である。ホメロスの登場人物たちは、信念をもち、欲求をもち、熟慮し、決断し、行為し、後悔する。行為者性(agency)に必要なすべての要素——Williams の章題を借りれば「行為の中心」(centres of agency)——をホメロス的人間は完備しており、それを記述する理論的語彙を詩人がもたないことは、登場人物の心理的統一性をいささかも損なわない。神々の介入についても、それは人間の決断の代替ではなく、決断の詩的な重層化として読まれるべきだとされる。

III-4 恥の文化/罪の文化二分法への批判——Dodds への射程

批判は Dodds にも及ぶ。Ruth Benedict に由来する恥の文化/罪の文化の二分法は、恥を外面的・他律的、罪を内面的・自律的とする価値序列を密輸入している。Williams は aidōs の分析を通じて、恥がすでに「内面化された他者」の視線を含む高度に倫理的な感情であること、したがって恥から罪への移行を心性の「進歩」として描くことはできないことを論じる。恥と罪の心理的機制の相違については補論で詳細な検討が加えられている(と記憶するが、要照合)。この議論は、Dodds 第2章の枠組みを比較研究に用いる際の重大な留保となる。

IV Long『Greek Models of Mind and Self』(2015)

IV-1 著者と本書の位置づけ

A. A. Long(1937– )はカリフォルニア大学バークレー校名誉教授、Sedley との共編『The Hellenistic Philosophers』で知られるヘレニズム哲学研究の第一人者である。本書は北京・人民大学での連続講義(2012年5月)を基礎とし、Harvard University Press の叢書 Revealing Antiquity 第22巻として2015年に刊行された、序論と全5章(1. 心身一体的同一性、2. 不死の予感、3. 身体・魂・説得の危険、4. 政治化された魂と理性の支配、5. 合理性・神性・幸福・自律)からなる小著である(Long 2015, Contents; Preface pp. ix–x)。著者自身が序文で述べるように、この主題は数十年来の宿題であり、本書は専門論文の集積ではなく一般読者に向けた生涯の総括として書かれている。序文はまた、バークレー時代の Williams を「刺激に満ちた友人」として追悼し、自身のホメロス理解が Williams の仕事と多くを共有することを明言している[4](p. xiii)。

IV-2 「モデル」の複数性——発展史観の明示的拒否

書名の「モデル」(複数形)は方法論的宣言である。Long は序論で、Zeller 以来の「発展」(Entwicklung)概念——思想史を、より明晰でより優れたものへの単線的進歩として描く記述様式——を名指しで検討し[4](pp. 2–3)、ホメロスを「原始的」、プラトンを「進歩した」と見なす線的発展の想定に本書全体で強く抵抗すると宣言する(p. 3)。ホメロスの心理学は明示的ではなく暗黙的であり、そのモデルは読者が検出すべきものとしてテクストに内在する。しかしそれはホメロスが理論家ではなく物語作者だということを意味するにすぎず、優劣の順位づけは「不条理」である(pp. 3–4)。Long の作業仮説は、各著作家の心のモデルはそれぞれのジャンルと目的に適合的である、というものであり(p. 4)、これが Snell 的な段階論に代わる本書の基本枠組みとなる。

IV-3 心身一体的同一性と「Snell の大きな誤り」

第1章「心身一体的同一性」(Psychosomatic Identity)は、ホメロス的人間を「部分の集合」ではなく心身一体的全体(psychosomatic wholes)として提示する(pp. 5–6)。ホメロスの登場人物は身体をもち、精神をもち、強烈に思考し感情するが、詩人は彼らを身体と魂という二つの実体に「切り分ける」必要を認めなかった——欠如ではなく、単一的(unitary)モデルの選択である(pp. 5–6)。psychē と sōma が「生きられる生」ではなく「失われる生」の文脈で用いられるというホメロスの語法から、彼を概念的原始人と見なす解釈——Long は名指しで「ドイツの学者 Bruno Snell によって提唱されたこの影響力ある解釈は、今日では大方その信用を失った」と述べる——を、Long は正面から退ける(pp. 28–29)。

そのうえで Long は「これが Snell の大きな誤りだった。偉大な学者ではあったが」と断じ、誤りの核心を次の点に見る。すなわち Snell は、プラトン的な魂身二元論を、争いうる一つの理論としてではなく事実として正しいものと想定し、その尺度でホメロスの「欠如」を測った(pp. 29–30)。Long はこの診断に三つの論拠を添える(pp. 30–31)。第一に、プラトンと同時代に近いアイスキュロスとソポクレスも、人間を身体と魂に二分することにホメロス同様に禁欲的であるが、誰も両悲劇作家を心理的に原始的とは呼ばない。第二に、プラトン自身がホメロスの心性語彙をしばしば肯定的に利用している。第三に、ホメロスとプラトンの最も根本的な相違は心理的統一性の有無ではなく psychē の死後の運命にあり、死後生を認めるか否かこそが、身体/魂関係を明示的に問う動機の有無を分ける。すなわち二元論の成立は「精神の発見」ではなく、不死の魂という宗教的・形而上学的想定の帰結として説明される。

IV-4 哲学的補強——Ryle と、章の結論

第1章末尾の「心の概念についての補説」で、Long は議論を現代哲学に接続する。デカルト的な心的実体の想定(プラトン・プロティノスの psychē 観はこれに近い)を事実と見なすなら、われわれは Snell とともにホメロスの「欠如」を咎めたくなる。しかし Ryle『心の概念』[6]とともにデカルト的心身二元論を「機械の中の幽霊」の神話と見なすなら、ホメロスに二元論がないことはむしろ歓迎すべき特質となる(pp. 47–48)。章の結論部で Long は、ホメロス的モデルを優劣の審級にかけることを再度拒否したうえで、その文学的表現力自体が「ホメロスが洗練された心理学者であった」ことの証左だと結ぶ(p. 47)。ホメロスの行為者は魂ではない。彼らは完結した、身体化された人格である(pp. 45–46)——これが第1章の到達点であり、Williams の「行為の中心」テーゼの、文献学的に肉付けされた再定式化にほかならない。

なお Long は後注で、Snell 批判の学説史的な位置を自ら明示している。「Williams 2008(初版1993)は Snell を詳細に批判している。私はその批判を Long 2007 で論じた」(p. 209, Ch. 1 n. 9)。本書が学術的装置を最小限に抑えた一般書である以上、Snell 批判の学問的典拠としては本書単独ではなく、Williams 本体と Long 2007[5]に遡って引用するのが安全である。

V 批判の射程と限界——Snell に残るもの

以上の批判は決定的に見えるが、Snell のテーゼが全面的に葬られたと結論するのは早計である。三点を留保として挙げたい。

第一に、Williams–Long が否定したのは第一次的な心理的実在(ホメロス的人間が統一的な行為者であること)の欠如であって、第二次的な言説(心についての理論的語彙と反省的記述)の歴史的成立ではない。Long 自身、理性(logos)という概念がプラトン以前には「ほとんど理論化され始めてもいなかった」ことを認めている(p. 11)。とすれば Snell のテーゼは、「精神の発見」から「精神についての理論的語彙の発明」へと縮小・翻訳したうえでなら救出可能である。発見されたのは心ではなく、心を対象化する言説である。この区別——第一次的自己と第二次的自己言説の区別——こそ、本稿が比較研究に持ち帰るべき最大の獲得物だと筆者は考える。

第二に、Long の「モデルはジャンルと目的に適合的」というテーゼは、発展史観の解毒剤としては有効だが、それ自体を徹底すれば通時的変化の説明を放棄する危険をはらむ。Long 自身は変化と連続性の双方を追跡すると明言しており、ホメロスからプラトンへの移行に psychē の意味論的拡張と死後生観念の浸透という実質的な歴史過程を認めている。すなわち争点は変化の有無ではなく、変化を「進歩」として価値づけるか否かにある。

第三に、書評の指摘するとおり、Long(2015)は一般読者向けであるがゆえに対立学説との明示的対決を欠き、主張がときに強く言い切られている。本書は導きの糸としては優れているが、個々の論点は Williams(2008)、Long(2007)、さらに Clarke や Gill らの専門研究[7]で裏づける必要がある。

VI 古事記読解への方法論的帰結

以上の検討から、記紀を「自己意識の発生」という問題設定で読むための方法論的規則を、さしあたり四つ引き出すことができる。

第一に、語彙論的誤謬の回避。記紀の心性語彙——タマ・ミ・ココロ・キモ等——が統一的「精神」の語を欠くという事実から、記紀的人間における統一的自己の欠如を推論してはならない。これは Snell がホメロスに対して犯した推論と同型である。問うべきは語彙の欠如ではなく、登場人物が行為の中心として機能しているか否かである。そしてヤマトタケルの望郷歌、スセリビメの嫉妬、雄略記の諸挿話を一読すれば、記紀の人物が熟慮し、決断し、後悔する完全な行為者であることは明らかであろう。

第二に、モデルの複数性としての読解。記紀テクストには、シャマニズム的な遊離魂のモデル(タマフリ・タマシヅメの儀礼的文脈)、系譜的・政治的な自己のモデル(氏族の成員としての人格)、歌謡における情動的自己のモデルが並存する。これらを「未分化から分化へ」の諸段階として直列に並べるのではなく、ジャンルと機能に応じて使い分けられる並存的モデルとして記述すること。これは稗田阿礼ひえだのあれ集団論(Commentarii XIX)で試みた、複数の伝承層の共時的併存という見方と整合する。

第三に、第一次的自己と第二次的自己言説の区別の適用。記紀に欠けているのは自己ではなく、自己についての理論的言説である。この点で日本の場合、心の理論化は仏教心識論の受容という外来の第二次言説の移入によって開始されるのであり、ギリシャのような内発的理論化の過程を欠く。この非対称性こそ、ギリシャとの比較が照らし出すべき日本側の固有性である。

第四に、Long の二元論成立論(心身二元論は「精神の発見」ではなく死後生観念の帰結である、IV-3)の比較論的応用。記紀・万葉における魂の他界性と死後の行方の観念が、心身の分節にどこまで対応する言説を生んだか——黄泉国神話はまさにこの問いの試金石となる。この論点は三界論(sankai-ron)の議論と直接接続する。

VII おわりに

Snell の発展史観は、Williams の哲学的批判と Long の文献学的批判を経て、素朴な形態では維持しがたい。しかし批判の帰結は Snell の全面的放棄ではなく、問いの変換である——「精神はいつ発見されたか」から、「いかなる心のモデルが、いかなるジャンルと目的のもとで用いられ、いつ、なぜ、心についての理論的言説が成立したか」へ。この変換された問いは、古事記の世界に対して、発展段階論よりもはるかに生産的な読解の枠組みを与えるように思われる。Williams 原書の入手をまって第III節を検証・補訂したうえで、次稿では aidōs 論と記紀の「恥」の語彙の比較に進みたい。

文献

[1]Snell, B. (1946), Die Entdeckung des Geistes. Studien zur Entstehung des europäischen Denkens bei den Griechen, Göttingen. 英訳:T. G. Rosenmeyer, The Discovery of the Mind: The Greek Origins of European Thought, Oxford, 1953. 邦訳:新井靖一訳『精神の発見』創文社、1974年。(引用箇所:II章、IV-3節、V章)
[2]Dodds, E. R. (1951), The Greeks and the Irrational, Berkeley: University of California Press. 邦訳:岩田靖夫・水野一訳『ギリシァ人と非理性』みすず書房、1972年。(引用箇所:I章、II章、III-4節)
[3]Williams, B. (1993), Shame and Necessity, Sather Classical Lectures 57, Berkeley: University of California Press. 第二版 2008年、A. A. Long による序文を付す。(引用箇所:III章全体、IV-4節、V章)〔原典照合前〕
[4]Long, A. A. (2015), Greek Models of Mind and Self, Revealing Antiquity 22, Cambridge, MA: Harvard University Press.(引用箇所:I章、III-2節、IV章全体、V章、VI章)
[5]Long, A. A. (2007), “Williams on Greek Literature and Philosophy,” in A. Thomas (ed.), Bernard Williams, Cambridge: Cambridge University Press.(引用箇所:I章、IV-4節)〔未見・要入手〕
[6]Ryle, G. (1949), The Concept of Mind, London: Hutchinson. 邦訳:坂本百大ほか訳『心の概念』みすず書房、1987年。(引用箇所:IV-4節)
[7]Gill, C. (1996), Personality in Greek Epic, Tragedy, and Philosophy: The Self in Dialogue, Oxford; Clarke, M. (1999), Flesh and Spirit in the Songs of Homer, Oxford. いずれも Long (2015) の参照文献より。(引用箇所:V章)〔未見・展望として〕

初稿:2026年7月21日(AI草稿、Long 2015 原典参照済・Williams 1993/2008 照合前)

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