横浜基礎研究所 文献案内──紹介論文

「ハンナ・アレントと
政治的なるものの問い」案内

──クロード・ルフォールによるアレントの紹介と批判──
Claude Lefort, « Hannah Arendt et la question du politique » (1985)
Présentation et critique
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Editio princeps · Augustus MMXXVI

序 なぜこの一篇か

ここに案内するのは、クロード・ルフォール(Claude Lefort, 1924–2010)が1985年、パリのラシ・センターで行った講演「ハンナ・アレントと政治的なるものの問い(Hannah Arendt et la question du politique)」である[1]。『政治的なるものについての試論』(Essais sur le politique. XIXe–XXe siècles, Seuil, 1986)に収められた、原書でわずか十五頁ほどの小品だが、その密度は尋常ではない。前半はアレントの全体主義論と政治論のもっとも簡潔な要約として、後半はそれに対するもっとも鋭い批判として読める。つまり紹介と批判が一体になった、フランス語圏におけるアレント受容の一つの到達点である。極言すれば、『全体主義の起原』全三巻[2]の中核テーゼは、この十五頁で摑むことができる——もちろん大部の原著には固有の価値があるが、あの厚みに取りかかる前の入口として、これに勝るものを評者は知らない。

ルフォールはまず、奇妙な非対称から説き起こす。アレントは合衆国では早くから大政治思想家として認められたのに、著作の多くが翻訳されていたフランスでは、とりわけ左翼知識人から長く無視され、ときに敵意さえ向けられた。彼女をフランスの読者に導き入れる決定的な役割を果たしたのはレイモン・アロンである——ファシズムとスターリニズムの両体制を見抜く知性を共有し、左右の紋切型の分類を逃れる、正真正銘の自由主義者どうしとして。ただしアロンとの違いも明確で、アレントには革命現象への牽引があり、ハンガリー革命の際には労働者評議会の形成に強い関心を寄せた。革命は彼女にとって好奇心の対象ではなく「始まり、あるいは再開の時」であった。この無視の理由をルフォールは端的に、フランス知識界を覆っていたマルクス主義の支配に求める。そして講演の行われた1980年代半ば——「ある種の脱魔術化」が進行し、理性の理想そのもの、歴史哲学そのもの、社会的現実という観念そのもの、国家への批判が広がる時代——にこそ、アレントの問いはようやく届くようになった、と時代診断を下す。この受容史の素描だけでも、フーコー批判論文集をめぐって本紀要が追ってきた「フランス知識界の風土」の見取り図として有益である。

一 事件から生まれる思考——一九三三年と「理解」の方法

ルフォールがアレントの全著作の鍵として置くのは、思考と事件との結びつきである。アレントの政治と歴史への関心は1933年に、正確には国会議事堂炎上の2月27日に始まる。

Ce fut pour moi un choc immédiat, et c’est à partir de ce moment-là que je me suis sentie responsable.
それは私にとって直接の衝撃であり、その瞬間から私は、自分に責任があると感じた。

これは伝記的な逸話ではない。全体主義という途方もない呼びかけに応答すべく「責任を感じた」とき、彼女はあらゆる思考の発条をなすものを自覚したのだ、とルフォールは言う。『過去と未来の間』の序文の一句が、その定式である。

Je crois que la pensée, comme telle, naît de l’expérience des événements de notre vie et doit leur demeurer liée comme aux seuls repères auxquels elle puisse s’attacher.
私は、思考というものが私たちの生の出来事の経験から生まれるのであり、思考が結びつきうる唯一の目印として、その出来事に結びついたままでなければならないと信じる[3]

「考える」とは、すでに考えられたもののなかを動き回ることではなく、事件の試練において「再び始める」ことである。ルフォールはここにメルロ=ポンティ『弁証法の冒険』序文との完全な共鳴を聴き取り[7]、1933年のドイツ知識人たちの挫折——「考えないこと」に奉仕する精巧な理屈をこしらえた人々への、アレントの生涯にわたる訣別——を対置する。そこから「理解(comprendre)」の方法が導かれる。理解とはまず、常識という前批判的了解に足場を置くこと。だが常識は全体主義を僭主政として扱う——それがまったく別のものであるにもかかわらず。理解とはさらに、私たちの時代を引き受けること——全体主義が無から生まれたのではなく、私たちに親しいこの文化から生じえた次第を、私たちの住むこの世界のうちに探ること、すなわち自己自身を理解することである。単独者を原理の支配下に連れ戻す大理論にも、因果連鎖を並べる歴史家の説明にも抗して、アレントは「理解」の課題を対置し続けた。

二 全体主義の逆説——すべてが政治となるとき、政治は消滅する

本篇の中軸は、アレントの全体主義分析をルフォールが一つの逆説として再構成してみせる箇所である。全体主義は一見、政治の全面的肯定として現れる。第一に、法も経済も科学も教育も、すべてが政治として現れ、党があらゆる領域に浸透する。第二に、あらゆる事柄が公的になる。第三に、それは恣意的統治ではなく、人間の解釈を一切要しない絶対的な法——共産主義型では「歴史」の法、ナチ型では「生命」の法——を掲げる。第四に、人民は総動員され、行為が支配的価値であるかに見える。第五に、言説が君臨する。第六に、過去を白紙化し「新しい人間」の創造に取り組む革命的体制を自称する。

だがこの全面的肯定は、その裏面に全面的否定を担っている。見かけの下に発見すべきは、そこで問題になっているのが政治でも、公的生活でも、法でも、行為でも、言葉でも、始まりとしての革命でもない——むしろこれらの参照点こそが、全的支配の企図が成就するために破壊されたのだ、ということである。政治は、市民として相互に承認し合う空間と、相互依存をただ被る社会生活とのあいだに差異が現れるところにしか存在しない。公と私の区別が消えるところでは、公的領域も私的領域もともに消滅し、代わりに現れるのは支配装置に統御された巨大な組織としての「社会的なるもの」である。法が歴史や生命の運動のうちに実体化されるとき、法の超越という観念は失われ、許されるものと禁じられるものの規準が消える。そして——

Ce qu’on appelle « action » n’est pas « action » quand il n’y a pas d’acteurs. […] Ce qu’on appelle « parole » n’est pas parole dès lors que la parole ne circule plus, que toute trace de dialogue disparaît, qu’un seul, le Maître, détient le pouvoir de dire.
「行為」と呼ばれるものは、行為者がいないところでは「行為」ではない。〔……〕「言葉」と呼ばれるものは、言葉がもはや循環せず、対話のあらゆる痕跡が消え、ただ一人——主人——だけが語る権力を握るとき、もはや言葉ではない[1]

革命の名の下で革命の観念そのものが消え去り、あらゆる問いにあらかじめ答えを持つイデオロギー——原理から帰結を製造する知的機械、現実の経験から切断された思考——が勝利する。全体主義とは、政治の見かけの全面化による、政治の徹底的な破壊である。この逆説の彫琢こそ、『全体主義の起原』の数百頁からルフォールが取り出してみせる核心であり、簡潔さにおいて原著を凌ぐ。

三 政治の参照点——ポリス、可視性としての平等、行為と言葉

アレントの政治理論は、この全体主義像の反転によって構想される。モデルではなく「参照点」——その特徴がもっともよく判読される特権的瞬間——として、古代ギリシアのポリス、アメリカ革命とフランス革命(さらに付け加えるなら1917年ロシアと1956年ハンガリーの労働者評議会)が選ばれる。もっとも純粋なギリシアの場合、オイコス(分業と支配・被支配の関係が支配する家政の圏域)から距離を取って、人々が対等な者として相互に承認し合い、共同で討議し決定する「空間」が設営される。権力はそこで、万人にかかわる決定を目指す言葉の交換という人間関係のうちに行使され、この空間の存在こそが「共通世界」——一つではないが、多数の遠近法に開かれているがゆえに同じものとして与えられる世界——の出現の条件をなす。

Là où un pouvoir se circonscrit dans un organe ou dans un individu, il se soustrait au regard de tous. L’inégalité et l’invisibilité vont de pair.
権力が一つの機関や一人の個人のうちに囲い込まれるところでは、権力は万人の視線から身を引き離す。不平等と不可視性は対をなすのである[1]

平等はそれ自体が目的なのではなく、生の必要の上へと人間を引き上げ共通世界へ開くあの運動の効果ないし徴、一つの「発明」である。ここからアレントの全分析を統べる対立系列——行為と労働・制作(『人間の条件』[4]の主題)、公と私、政治と社会生活、権力と暴力、一と多、観想的生と活動的生——が引き出される。最後の対立をめぐってアレントは、哲学がプラトン以来、政治の誤認ないし否認のうちに成立したと断じ(彼女が「哲学者」と呼ばれることを拒んだ根はここにある)、その伝統の効力はマルクスにまで及ぶとする——政治的活動の復権を「哲学の実現」によって果たそうとするマルクスは、行為とは何であったかの忘却から生じた論理と真理の観念を、経験的な歴史と社会に投影しているのだ、と。

四 近代——「社会的なるもの」の勃興と全体主義の起原

近代の特徴は「社会的なるもの」の到来である。成長・技術・分業、そして自然の支配を企図する近代科学の興隆のもとで、個人と活動と欲求を束ねる一般的な依存の網の目が制度化され、国民という新しい規模での支配関係が誘導される。社会的なるものの膨張と政治の格下げというこの過程は、アメリカ革命とフランス革命によって一度は中断されるが、いずれも持続的な効果を残さず、後者はほとんど直ちに「社会問題」の到来によって歪められた。アレントによれば不幸は、政治的平等と社会的平等の混同を強いられたことにある——平等は政治的でしかありえないのに。この混同の哲学的翻訳が「人間は生まれながらに平等である」という常軌を逸した観念、人権という妄想である(アレントはバークとともに、現実的なのは市民の権利のみであり人間の権利は虚構だとする)。19〜20世紀には、社会的なるものの管理機関としての国家が肥大し、公的空間の崩壊とともに私的空間も解体して、一方に社会組織が、他方に習俗と行動の標準化に服した「内密性の世界」というだまし絵が残る。

全体主義の起原はここに接続される。全体主義は、公的事象への無関心・原子化・個人主義・競争の暴走がもはや歯止めを持たない脱政治化された社会から生まれる。アレントは書くことを恐れない——

En ce sens, la philosophie politique de la bourgeoisie avait toujours été totalitaire.
その意味において、ブルジョワジーの政治哲学はつねに全体主義的であったのだ[2]

私生活に退却し家族と出世にのみ意を用いる俗物(philistin)は「私的利益の優位というブルジョワ的信仰の、最後の、すでに退化した産物」であり、ヒムラーが史上最悪の大量犯罪のために組織した大衆の人間は、賤民よりもこの俗物に似ていた——瓦礫のなかで身の安全だけを気遣い、わずかな威嚇で信条も名誉も尊厳も差し出す用意のあるブルジョワに。ただしアレントは、ブルジョワ民主政と全体主義とのあいだに連続性を立てることは拒む。第一次大戦後の危機——階級システムの崩壊と、伝統的な社会的枠組みからの大衆の解放、つまり文字どおり「利害を持たぬ」がゆえに死をも含む一切の用意がある人間たちの出現——という決定的な偶発事が挟まるからである。

五 ルフォールの批判——政治と社会の二分法から、民主主義の不在へ

ここまでが「紹介」である。後半でルフォールは、敬意を保ったまま、五つの批判を繰り出す。

第一に、政治的なるものと社会的なるもの、政治的平等と社会的不平等の截然たる二分法への批判。ギリシアにおける「政治の発明」(フィンリー[6])を語るなら、高度に分化し階層化した社会が、いかなる(社会的でしかありえない)紛争の効果のもとで、いかなる(軍事的でしかありえない)目的のために、農民や小商人や職人を公務の決定される集会に受け入れるに至ったのかを問うべきである。政治的平等の覆いの下で決定が実際にはどのように行われ、いかなる手段で特定の人間たちが持続的な権威を行使しえたのか——説得はもっぱら言葉によって行われ、しかも言葉の交換はそれ自体で平等主義的だ(権力の不平等を運びえない)というアレントの確信は、二重に素朴である。フランス革命についても、政治的平等を、トクヴィルの言う「諸条件の平等」の過程——経済的平等とは混同されないが、社会的かつ政治的な効果を持たざるをえなかった過程——の内部にあった旧体制の位階制との闘争から切り離すことはできない。

第二に、人権批判への反批判。人間の本性という虚構から人権を導いて退けるアレントに対し、ルフォールは問う——同類としての人間の相互承認が都市国家の境界で止まらねばならないことを、いかなる哲学的基礎の上に立証できるのか。それができなければ、全体主義体制を私たちが断罪する根拠は、その征服が私たちの社会を脅かすという剥き出しの、いわば偶然的な事実以外になくなってしまう。

第三に、内的無矛盾という帰結への批判。人間の本性という観念を否定しながら、それを変えうると想定する形式的矛盾はさておき、真/偽、善/悪、正/不正、現実/想像の区別を政治的思考の構成要件と認めないなら、全体主義には敵対者の事実上の力以外の障害がなく、それ自体としては内的矛盾を免れている、という仮説を追認することになる。「人間の力はあまりに大きいので、人間は自らの望むものになりうる」というアレントの定式は、彼女自身が他方で闘っている歴史主義——レオ・シュトラウスの言うニヒリズム——に属する。

第四に、政治の存在様態の問題。アレントの定義では、政治はいわば在るか無いかであり、その出現は説明不可能な根源的始まりの徴で、しかも痕跡を残さず消える。レジスタンスを「失われた宝」(ルネ・シャール)として語る彼女の寓話——

[…] comme la légende d’un trésor sans âge qui, dans les circonstances les plus diverses, apparaît brusquement, à l’improviste, et disparaît de nouveau dans d’autres conditions mystérieuses, comme s’il était une fée Morgane.
〔……〕あたかも年齢なき宝の伝説のように。それはもっとも多様な状況のなかで、出し抜けに、不意に現れ、別の神秘的な条件のもとで再び消えてゆく——蜃気楼の妖精ででもあるかのように[3]

——この思考の様式に、ルフォールはシュトラウス(自然に適った体制は、決して実在しなくてもいささかも信用を失わない)とハイデガー(存在の隠蔽が広がるほど、存在の問いはより鋭く聞き取られうる)の霊感との親縁を見る。そして、互いにこれほど遠い三人の思想家が「近代への訴追」において出会うことを指摘した上で、決定的な一句を置く。

Du point de vue politique, le procès de la modernité est le procès de la démocratie.
政治的観点から見れば、近代への訴追とは、民主主義への訴追である[1]

第五に——これが批判の頂点である——アレントにおける民主主義の不在。資本主義とブルジョワ的個人主義への批判は正当に行いながら、アレントは近代民主主義そのものには決して関心を向けない。代表という観念が彼女には無縁であり、嫌悪の対象でさえあったからか。だが、ナチ型とスターリン型の全体主義を結びつける特徴が一つあったとすれば、それは民主主義への憎悪であった。「一」に抗して「複数」の復権にあれほど執着したアレントが、社会を一つの身体に——その頭たる総統・最高指導者に溶接された一体に——仕立てる途方もない企てが、何の転倒であるかを見ていない。

[…] cette fantastique tentative procède du renversement du régime qui s’est édifié en distinguant le pôle du pouvoir du pôle de la loi et du pôle du savoir, et en acceptant la division sociale, le conflit, en acceptant l’hétérogénéité des mœurs et des opinions, et, précisément, en tenant à distance, comme aucun régime ne l’avait fait auparavant, le fantasme d’une société organique.
〔……〕この途方もない企ては、権力の極を法の極から、そして知の極から区別し、社会的分割と紛争を受け入れ、習俗と意見の異質性を受け入れ、まさしく、それまでのいかなる体制もなしえなかった仕方で有機体としての社会という幻想を遠ざけることによって築かれた体制——その転倒から生じているのである[1]

結び なぜ本紀要でルフォールか

最後の引用に注意されたい。全体主義を「民主主義の転倒」として捉えるこの数行は、アレント批判の結語であると同時に、ルフォール自身の民主主義論——権力・法・知の三極の分離、社会的分割の受容、そして「権力の空白の場」——の、もっとも簡潔な素描になっている。批判の刃がそのまま自前の理論の提示になっているところに、この一篇のもう一つの価値がある[9]

本紀要の読者にとっての接続点は明瞭である。ルフォールのこの民主主義論こそ、マルセル・ゴーシェが精神病院に適用してみせた枠組みの水源であり、拙稿「狂気における主体と民主主義の権力——ゴーシェ=スウェイン『人間精神の実践』をめぐって」第一章(レフォールからゴーシェへ)[10]で辿った系譜の出発点である。全体主義が「有機体としての社会」の幻想によって民主主義を転倒するのだとすれば、ゴーシェが描く19世紀の精神病院は、民主主義社会がその内部で「人間を内側から構成する」ことを試みた小さな実験室であった。アレント——ルフォール——ゴーシェと連なるこの問題系の全体が、本篇十五頁のうちに圧縮されている。アレントの大部の著作群への、そして本紀要の民主主義と精神医学の交差への、これ以上望めない入口である。

参考文献

[1]Lefort, C. « Hannah Arendt et la question du politique ». In: Essais sur le politique. XIXe–XXe siècles. Paris: Seuil, 1986, p. 64–78. 初出はラシ・センター(centre Rachi)講演、Cahiers du Forum pour l’indépendance et la paix, n°5, mars 1985. 本案内の引用はすべて評者の試訳による。(引用箇所:全節)
[2]Arendt, H. The Origins of Totalitarianism. New York: Harcourt, Brace, 1951.(邦訳:『全体主義の起原』全3巻、大久保和郎・大島通義・大島かおり訳、みすず書房)。ルフォールが引く「ブルジョワジーの政治哲学」「俗物(philistin)」の両句は同書より(仏訳経由)。(引用箇所:四)
[3]Arendt, H. Between Past and Future. New York: Viking, 1961.(仏訳:La crise de la culture, Gallimard; 邦訳:『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房)。序文の「思考は出来事の経験から生まれる」、および「失われた宝」(ルネ・シャール)の寓話。(引用箇所:一、五)
[4]Arendt, H. The Human Condition. Chicago: University of Chicago Press, 1958.(邦訳:『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫)。行為/労働・制作の対立系列。(引用箇所:三)
[5]Arendt, H. « Entretien avec Günter Gaus », Esprit, juin 1985. 1933年2月27日の証言(「その瞬間から私は自分に責任があると感じた」)はルフォールがこの対談から引く。(引用箇所:一)
[6]Finley, M. I. L’invention de la politique. Paris: Flammarion, 1985(英語原著:Politics in the Ancient World, Cambridge University Press, 1983)。(引用箇所:五)
[7]Merleau-Ponty, M. Les aventures de la dialectique. Paris: Gallimard, 1955. 序文(「出来事の試練において、私たちは私たちにとって受け入れがたいものと知り合いになる……」)。(引用箇所:一)
[8]Lefort, C. « Hannah Arendt et le totalitarisme ». In: L’Allemagne nazie et le génocide juif(社会科学高等研究院コロック). Paris: Hautes Études–Gallimard–Le Seuil, 1985, p. 517–535. 本篇の姉妹論文(原書編者注の指示による)。(参照)
[9]Lefort, C. L’invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire. Paris: Fayard, 1981.(邦訳:『民主主義の発明——全体主義の限界』渡名喜庸哲ほか訳、勁草書房、2017年)。「権力の空白の場」を含むルフォール民主主義論の主著。(引用箇所:結び)
[10]松石竹志「狂気における主体と民主主義の権力——ゴーシェ=スウェイン『人間精神の実践』をめぐって」『横浜基礎研究所紀要』第1巻(2026)(gauchet-swain-asile.html)。第一章「民主主義の軸——レフォールからゴーシェへ」。(引用箇所:結び)
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