序論 不安はなぜ問いになるのか
不安とは何か。これほど自明に見えながら、問い直されるたびに深みを増す問いはほかにない。精神科の診察室に座る患者は、しばしば「なぜこれほど不安なのかがわからない」と訴える。この訴えには二つの問いが重なっている。一つは個人の問い——私はなぜ不安なのか。もう一つはより深い問い——「不安」とはそもそも何なのか、そしてそれは「病気」なのか。
現代の精神医学は後者の問いに対し、一見明快な答えを用意している。DSM-5 は「不安障害(anxiety disorders)」という章を設け、全般性不安障害・パニック症・社交不安障害・特定の恐怖症・分離不安症等を操作的基準によって定義している。ICD-11 も同様の枠組みを採用し、国際的な診断の標準化を図っている。不安障害の生涯有病率はすべての精神障害のなかで最も高く、WHO 推計では世界人口の約 28 パーセントが生涯のある時点で何らかの不安障害を経験するとされる。
しかし、この「明快な答え」は、歴史的まなざしで見るとただちに揺らぐ。「不安障害」という疾患カテゴリーは、いつでもどこでも自明に存在していたわけではない。それは特定の歴史的・文化的・制度的文脈のなかで生まれ、形成され、そして絶えず変容してきた産物である。古代ギリシャの医師たちは不安を「メランコリア」という広大な疾患概念のなかに埋め込んでいた。中世のキリスト教世界では、不安は「罪と信仰の問題」として聖職者の領域に属していた。19 世紀の神経科医は「神経衰弱(neurasthenia)」という包括的な病名のもとに不安をくくり込んだ。そしてフロイトが精神分析の枠組みのなかに「不安神経症」を定式化したのは、ようやく 19 世紀末のことであった。
本論文はこの歴史的変容の過程を追う試みである。問いは三つある。第一に、人類普遍の感情であった「不安」が、なぜ特定の時代・場所において「病気」として定式化されるようになったのか。第二に、20 世紀後半から現代にかけて、精神医学の重心は「不安」から「鬱」へと移動してきたが、その背景に何があるのか。そして第三に、不安と鬱を厳密に分離する方向性は臨床的に妥当であったのか——ICD-11 が新たに導入した混合抑うつ不安症(6A73)が問いかけるものは何か。
本論文の議論の骨格は、歴史家アラン・V・ホルヴィッツの著作に多くを負っている。ホルヴィッツは「不安の概念は常に文化的価値体系と絡み合ってきた」という中心テーゼのもと、古代から現代にいたる不安概念の変遷を丁寧に追った[1]。
ただし、本論文はホルヴィッツの医学史的枠組みに、フランス精神医学の視点と哲学的系譜の考察を重ねる。カプサンベリスの著作は、英語圏とは異なるフランス語圏の概念的伝統——症状の「意味」を問う精神力動的・現象学的伝統、操作的診断への慎重な距離——を示しており、不安概念の歴史を単一の物語として語ることへの批判的留保として機能する。哲学的補完としてはベルゴの著作も参照した。ベルゴは不安の哲学史をカントからレヴィナスまで系統的に論じており、特にシェリングの自由論がキルケゴールへと連なる系譜を詳細に跡づけている[2][3]。
なお、精神科臨床医として筆者が感じる最も切実な問いは、じつは「分類の精度」よりも「分類の問いかけるもの」にある。目の前の患者の不安を「全般性不安症 6B00」と診断することは、治療の入口としては有効である。しかしそれは理解の終着点ではない。その不安が当人の人生においていかなる意味を持つのか、いかなる存在論的条件から生まれているのか——この問いは、どれほど精緻な診断基準も代替できない。概念史を学ぶことは、診断ラベルを「所与のもの」としてではなく「歴史的産物」として使う医師を育てる。それが本論文の最終的な意図である。
第一節 古代から中世、そして近世哲学——前史としての恐怖論
不安の歴史は、「不安障害」という疾患カテゴリーが存在しない時代から始める必要がある。古代ギリシャ・ローマの医師たちが不安をどのように理解していたかを見ることは、「医学化以前の恐怖」の特質を浮き彫りにするとともに、現代の診断概念がいかに特殊な歴史的産物であるかを際立たせる。
また、概念史的考察を始めるにあたって、一点、正確を期しておきたい。キルケゴール以前に「不安という概念が存在しなかった」と述べることは、厳密には正確ではない。ギリシャ語の ἀγωνία(アゴニア:闘技の緊張・苦悶)、ラテン語の anxietas/angustia(「狭まり・窒息感」という身体的メタファーに由来し、現代の anxiety の語源をなす)——これらの語は確かに存在した。しかし、それらはいずれも「何らかの対象・状況への反応」として使われており、キルケゴールが発見した「対象なき・可能性そのものへの眩暈」という概念構造を持っていなかった。本論文が以下で論じるのは、語の不在ではなく「対象なき不安という概念構造の不在」である。
1-0 概念史の遡及限界——ホメロス的人間と統一的な「心」の成立
さらにもう一段深い層で、概念史の遡及限界を確認しておかなければならない。不安の概念史は、それを帰属させる「心」そのものの概念史を前提とするからである。古典文献学の示すところでは、ホメロスの人間は、統一された「心」あるいは「魂」に相当する概念をまだ持っていなかった。スネルが明らかにしたように、プシュケーは失神と死の場面にのみ言及される「生命の息」であって心理的内容を持たず、感情はテュモス、知性はノオス、衝動はメノスという、相互に独立した「器官」へと振り分けられていた[24]。ブレマーはこの否定的な知見に宗教民族学の自由魂/身体魂モデルを適用し、ホメロス的人間の内面を「多元的な魂」の構造として積極的に定式化している[25]。この世界において恐怖は、統一的な内面の状態ではなく、テュモスやフレネス(横隔膜)という個別の器官を襲う出来事であり、しばしば神々から外来的に送り込まれるもの——ポボス(敗走の恐怖)とデイモス(戦慄)は軍神アレスにしたがう神格ですらあった——として経験された。恐怖を「私の不安」として内面に帰属させる主語そのものが、まだ成立していないのである。
ブレマーによれば、心理的機能と死後の存続とを一語で担う統一的な魂の概念は、識字化と個人主義の台頭を背景として、紀元前 5 世紀末の社会的変化のなかで成立した歴史的形成物である[25]。ここで注目すべきは時期の一致である。次節で見るヒポクラテスの定式——恐怖あるいは意気消沈が長く続くならばメランコリー的である——が属するのは、まさにこの前 5 世紀末から前 4 世紀のヒポクラテス集成にほかならない。恐怖が「一人の人間の病」として記述可能になった瞬間と、恐怖を帰属させうる統一的な心身の主体が成立した瞬間とは、時期的に重なっている。これは偶然ではないだろう。メランコリアという疾患概念は、「誰の病か」を言うための統一的な主体の成立を前提条件として、はじめて可能になった。不安の医学化の歴史は、魂の統一の歴史と同じ地点から始まるのである。
したがって、本論文の言う「不在」は二重である。ホメロス的世界には、対象なき不安という概念構造が不在であるのみならず、不安を「内に抱く」統一的な内面そのものが不在であった。ただし一点の留保を添えておく。語彙の相違から経験の相違を直接に推論することには、ウィリアムズがスネル批判として強力に論じたとおり、慎重でなければならない[26]。ホメロスの戦士もまた、交戦を前にした心拍の亢進と膝の震えを知っていた——生理学的な核は不変である。本論文が結論部で立ち返るのは、この核の不変性と、体験の分節を部分的に構成する概念の歴史性との、二層の区別である。なお、スネルのテーゼとその批判史、ブレマーの多元的魂論については、別系列の拙稿(大和古代史覚え書き XX・XXIII・XXV)で詳述した。
1-1 体液説とメランコリア——統合された不安と鬱
ヒポクラテス(前 460 頃〜前 370 頃)に始まる古代医学の枠組みにおいて、精神疾患は「体液の不均衡」という観点から説明された。四体液(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)の過剰や不足が心身の不調をもたらすとされ、特に黒胆汁の過剰が「メランコリア」を引き起こすと考えられた。ここで注目すべきは、古代の「メランコリア」概念が、現代われわれが「不安」と「鬱」として分離しているものを、一体のものとして記述していた点である。
「恐怖あるいは意気消沈が長いあいだ続くならば、それはメランコリー的なものである」——この定式化は、ヒポクラテス集成の『箴言』第 6 部 23にさかのぼるとされる。原文の「あるいは(ἢ)」が示すとおり、恐怖(不安)と意気消沈(鬱)は、どちらか一方が長く続くだけでメランコリアの徴となる。両者は分離された疾患ではなく、同一の体液的不均衡の二つの顔として理解されていたのである。この統合的理解は、現代の ICD-11 が混合抑うつ不安症(6A73)を設けることで再発見した臨床的真実を、2000 年以上前に直観していたとも読める。
哲学的次元では、アリストテレス(前 384〜前 322)が恐怖の本質について最も体系的な議論を残している。アリストテレスにとって、通常の恐怖は脅威的状況への文脈的反応であり、それ自体は病理ではない。重要なのは恐怖を感じることではなく、恐怖にどう対処するかであった。恐れを知らぬ者(無謀)と何でも恐れる者(臆病)の中間——「恐れながらも適切に行動できる者」が勇敢さの徳を体現する。不安は医師が治療すべき症状ではなく、市民が培うべき徳性の問題として語られた。
ヘレニズム期に台頭したストア派は、不安の管理についてもっとも行き届いた実践論を展開した。エピクテトス(50 頃〜135 頃)の「印象(phantasia)と同意(synkatathesis)」の区別——恐ろしい対象の印象は不随意的に生じるが、それへの同意は自発的であり制御可能である——は、20 世紀の認知行動療法の論理を驚くほど先取りしている。セネカが書いたように、いかに勇敢な将軍でも交戦前には心拍が増す。問題は恐怖の有無ではなく、それをいかに制御するかにある。ただし、この「印象への同意」という操作は、あらゆる心的機能を単一の指導的部分(ヘーゲモニコン)へと帰属させるストア派の一元論的心理学——1-0 で見た「統一的な魂」の成立の、いわば完成形——を前提としており、ホメロス的な多元的魂の世界では原理的に不可能な操作であったことも付記しておきたい[24][25]。
1-2 メランコリーの多義性——創造性・楽しさ・実存的態度
ヒポクラテスがメランコリーを主として体液的疾患として記述した一方、哲学の領域ではこの概念のまったく別の次元が早くも開かれていた。アリストテレスの学派に帰される『問題集(Problemata)』第 30 巻は、後世の思想に計り知れない影響を与えた問いを立てる——「なぜ、哲学・政治・詩・芸術において卓越した人物は、例外なくメランコリー気質なのか」。
『問題集』の答えはこうである。黒胆汁は、その量と状態によってまったく異なる作用をもたらす。過剰であれば躁病・無気力・幻覚を生じさせる。しかし適度に温められた状態にある黒胆汁は、精神を異例の鋭敏さと活動性へと導く。この熱が知性の座に近づくとき、人は狂乱や神懸かりに冒される——「シビュラや予言者などあらゆる霊感を受けた人々はここから生まれるのであり、それは病によってではなく、生まれつきの自然本性によってそうなるときのことである」(954a)。ヘラクレス・エンペドクレス・プラトン・ソクラテスはこの枠組みで説明される。アリストテレスにとってメランコリーは単なる疾患ではなく、同一の体質が病理と天才の双方の条件になりうるという、両義的・逆説的な精神状態であった。
この議論が本論文の論旨にとって重要なのは次の理由による。アリストテレスのメランコリー論は、精神の苦悩と精神の卓越性を同一の条件の二面としてとらえている——苦悩と洞察が切り離せないものとして共存する。これは結論部において論じる「不安は病気であると同時に生の証である」という命題の、2000 年をさかのぼる哲学的先例をなしている。
中世を経て、ルネサンスにおいてメランコリーの概念は新たな変容を遂げた。フィレンツェのプラトン・アカデミーを主宰したマルシリオ・フィチーノ(1433〜1499)は、著作『生について(De vita libri tres)』(1489 年)において、アリストテレスの黒胆汁論にプラトン的エロス論と占星術を接合し、土星・黒胆汁・学者気質という三位一体の理論を構築した。
フィチーノ自身が「私はサトゥルヌスのもとに生まれた」と書いたように、彼は学者・哲学者・芸術家という知的職業が体質的にメランコリー気質と結びつくと論じた。しかしここで重要なのは、フィチーノのメランコリー概念が苦痛のみを指すものではなかったという点である。彼が描くのは、孤独な書斎での沈思黙考、記憶と過去への甘苦しい没入、創造的なものを生み出す苦悩の快楽——これらを含む複雑な精神状態であり、英語では pleasant melancholy(楽しいメランコリー)と表現されてきた感情の様式である。
この「楽しいメランコリー」の概念は、16〜17 世紀ヨーロッパ文化に広範な影響を与えた。ロバート・バートン『メランコリーの解剖(The Anatomy of Melancholy)』(1621 年)はその集大成であり、メランコリーを医学的症状の記述としてではなく、人間の精神的条件の百科全書として扱った。アルブレヒト・デューラーの版画「メランコリア I」(1514 年)に描かれた翼ある人物——幾何学的道具に囲まれながら沈思する存在——は、この複雑な精神状態を視覚的に結晶化している。
アリストテレスからフィチーノ・バートンにいたるこの系譜が示すのは、メランコリーという概念がもっぱら「疾患の名称」として使われていたのではなく、病理・創造性・甘美な苦悩の混合した複合的状態を指す言葉として機能していたという事実である。
この多義性は、現代の診断分類の観点から見ると驚くべきものである。DSM-5 の枠組みでは、持続する悲哀・快感消失・精力低下は「大うつ病エピソード」の症状基準であり、創造性や快楽との結びつきを想定する余地はない。操作的診断の言語では、「楽しいメランコリー」は矛盾語法(oxymoron)でしかない。しかしアリストテレスとフィチーノが観察した現象——創造性と苦悩の共存、甘美な悲哀の体験——は、臨床的に言えば気分障害のスペクトラムにおけるある種の状態(軽躁あるいは混合状態)に相当する可能性があり、DSM の厳密な区分けがとらえ損なっている臨床的次元である可能性を否定できない。
さらに重要なのは、フィチーノの「楽しいメランコリー」が、単なる症状記述を超えて、孤独・時間・記憶・可能性への向き合い方を含む実存的態度の記述でもあったという点である。この実存的次元は、のちにキルケゴールが「不安」に見出す「可能性への眩暈」と深いところで響き合っている——いずれも、「まだない可能性」の空間に向けられた精神の状態を記述しているからである。
1-3 中世——「臆病/勇気」から「罪/信仰」へ
4 世紀のコンスタンティヌス帝によるキリスト教の国教化は、不安をめぐる枠組みを根本から転換させた。ヒポクラテス・ガレノスの経験主義的伝統は後退し、不安の「道徳的枠組み」は維持されながらも、その軸が「勇気か臆病か」から「信仰か罪か」へと移行した。
アウグスティヌス(354〜430)は「私たちの心は、あなたのうちに安らうまで、落ち着くことができません」(『告白録』冒頭)と記した。この一文は中世千年の不安論を象徴する。神への信仰が不安からの解放をもたらすと同時に、信仰は新たな不安の源ともなる——罪責感、神の怒りへの恐れ、永遠の罰への不安がそれである。宗教は不安の治療法であると同時に、不安の生産装置でもあった。
ガレノスの体液説はこの時代にも細々と継続し、ペルシャの医師アヴィセンナ(980〜1037)によって体系化された。彼の『医学典範』はメランコリーの症状として「理由のない恐怖・震え・めまい・孤独を好むこと」を記述しており、中世においても不安と鬱の統合的理解が医学文書のなかに生き続けていたことを示す。
1-4 デカルトの情念論——「対象に向かう恐怖」の枠組み
古代・中世から 19 世紀にいたる歴史的連続のなかで、一つの重要な哲学的空白について論じておかなければならない。デカルトとスピノザという近世の二大哲学者は、いずれも情念(passion)の体系的分析を試みながら、「不安」を独立した概念として取り上げなかった。この「不在」は偶然ではない——それはそれぞれの哲学の骨組みそのものから生じる必然的な帰結であり、その必然を理解することによってはじめて、シェリングを経てキルケゴールへといたる哲学的飛躍の意味が鮮明になる。
デカルト(1596〜1650)は晩年の著作『情念論(Les Passions de l’âme)』(1649 年)において、人間の情念を体系的に分類した。彼はすべての情念を六つの「原始情念(passions primitives)」——驚嘆・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみ——に還元し、他のすべての情念をこれらの複合または変種として説明した。恐れ(crainte)はこの枠組みでは独立の原始情念ではなく、欲望に確からしさの見積もりが加わって生じる派生的な情念として扱われ、恐怖(peur)にいたっては「臆病と驚愕と恐れの過剰」にすぎないとされる[4]。
“La peur ou l’épouvante… n’est pas seulement une froideur, mais aussi un trouble et un étonnement de l’âme qui lui ôte le pouvoir de résister aux maux qu’elle pense être proches.”
〔筆者訳〕「恐怖あるいは戦慄は……単なる冷たさではなく、魂の動揺と驚愕でもあって、迫っていると思われる悪に抵抗する力を魂から奪う。」(デカルト『情念論』第 174 条)[4]
この定義において決定的な言葉は「迫っていると思われる悪(maux qu’elle pense être proches)」である。デカルトの恐怖は必ず「表象された対象」を持つ。恐怖はつねに「何かを恐れる」という構造を持つのである。
ここに「デカルトの枠組みにおける不安の不可能性」が宿っている。「何も対象を持たない漠然とした不安」——特定の危険への恐怖ではなく「可能性一般への構えとしての不安」——は、デカルトの情念論の構造上、場所を持てない。デカルトの心身二元論において、情念はすべて身体を媒介とした「対象表象への反応」であり、「開かれた可能性の空間」——まだ何も決まっていない未来という条件そのもの——に向けられた心の状態は、この枠組みには収まらない。
1-5 スピノザの『エチカ』——感情の幾何学と「不安の構造的不在」
スピノザ(1632〜1677)の『エチカ(Ethica ordine geometrico demonstrata)』(1677 年)は、情念の分析においてデカルトを超える体系性を持つ。しかしここでも「不安」は独立した概念として登場しない——そしてその理由は、デカルトとは異なる哲学的深みから来ている。スピノザの感情論の基礎は三つの根本感情——喜び(laetitia)・悲しみ(tristitia)・欲望(cupiditas)——に置かれる。恐怖(metus)はこの枠組みで次のように定義される[5]。
“Spes namque nihil aliud est quam inconstans laetitia orta ex imagine rei futurae vel praeteritae, de cujus eventu dubitamus; metus contra inconstans tristitia ex rei dubiae imagine etiam orta.”
〔筆者訳〕「希望とは、その成り行きをわれわれが疑っている未来または過去の事物の表象から生じる、一定しない喜びにほかならない。恐怖とはその反対に、疑わしい事物の表象から同じく生じる、一定しない悲しみである。」(スピノザ『エチカ』第 3 部定理 18 備考 2)[5]
スピノザにとって恐怖は希望の鏡像として、すなわち「結末が不確かな事物の表象を伴う悲しみ」として定義されており、「不安」に最も近い概念「心の動揺(animi fluctuatio)」も、特定の対象への相反する感情の共存として定義される。いずれも「特定の対象への感情的反応」という枠組みを出ていない。
スピノザにおいて「不安が構造的に不在である」より深い理由は、その存在論にある。スピノザの一元論的汎神論(Deus sive Natura)では、すべての個物は「神すなわち自然」の無限の属性の有限な様態(modus)であり、宇宙の連鎖的因果系列に完全に規定されている。スピノザの世界に「開かれた可能性」は存在しない。可能性のない世界に眩暈は生じない——これが「不安の構造的不在」の存在論的根拠である[5][6]。
ただし、スピノザの感情論には注目すべき臨床的洞察が含まれている。彼は感情を抑え込むべきものとも消し去るべきものとも考えず、「理解されることによって変換される」ものとしてとらえた。情念はその原因を明晰に認識することによって、人を受動的に支配する「受動感情(passio)」から、能動的に自己を表現する「能動感情(actio)」へと転換される。この洞察は現代の認知行動療法における「感情の受容と理解」と深い共鳴を持つ。
1-5bis シェリングの自由論——キルケゴールへの架け橋
デカルトとスピノザからキルケゴールへの哲学史的跳躍は、実際には一つの決定的な中間を経由している。1841 年の冬、プロイセン文化大臣によってベルリンに招かれた老齢のシェリングの講義に、28 歳のキルケゴールは四ヶ月間出席した。ベルゴが詳述するように、キルケゴールは最初、シェリングが「現実性(Wirklichkeit)」という言葉を発したとき歓喜した——「ついに観念論が実存と和解した」と手紙に記している。しかし結局失望して帰国した彼が 2 年後に書いたのが『不安の概念』(1844 年)であった。シェリング → キルケゴールという哲学史的連鎖は、思想的影響であると同時に実証的な伝記的事実である[3]。
シェリング(1775〜1854)が『人間的自由の本質についての哲学的研究(Philosophische Untersuchungen über das Wesen der menschlichen Freiheit)』(1809 年)において展開した議論の核心は次のものである。宇宙の起源において——神でさえ——自己の根拠(Grund)、すなわち言語化以前の暗闇の深淵から自己を引き離す運動が生じる。この運動に伴う精神状態をシェリングは切望を帯びた不安——Sehnsucht——と呼んだ。スピノザの決定論的宇宙では「開かれた可能性」が存在せず不安が構造的に不在であったのに対し、シェリングにおいて自由は存在の構造そのものに組み込まれており、その開かれがはじめて不安の形而上学的根拠となった[3]。
シェリング自身の言葉を引けば——「この存在〔絶対者〕をわれわれ人間に引き寄せて語るならば、こう言うことができる。それは、永遠なる一者が自己自身を産もうとして感じる憧憬(Sehnsucht)である」。この憧憬は「悟性なき意志」でありながら「悟性を欲する意志」、すなわち「意識せざる、しかし予感する意志(ahndender Wille)」である[21]。ベルゴはこの Sehnsucht を「対象なき情動(objectless affect)」——方向を持たぬ運動のように震えるもの——と規定し、1809 年論文全体を「スピノザ主義の動態化(dynamization of Spinozism)」として特徴づけている[3]。この規定は本論文の観点から二重に重要である。第一に、前節でみたスピノザの静的な実体が、シェリングにおいて自己自身を産む生成のプロセスへと動態化されたまさにその瞬間に、情動としての不安が哲学体系の内部に場所を得たこと。第二に、キルケゴールに帰されることの多い「対象なき不安」という規定の原型が、すでにシェリングの絶対者論のうちにあったことである。
さらに注目すべきは、シェリング自身の語彙の変遷である。ベルゴがクレルの研究に依拠して指摘するように、『自由論』以後、シェリングは未完の草稿『世界年代(Die Weltalter)』(1813〜14 年)において Sehnsucht から明示的な「不安(Angst)」へと語を移した——「不安があらゆる生けるものの根本感情(Grundempfindung)であるように、生きるものはすべて激しい闘争のうちにのみ受胎され、産み落とされる」。憧憬の含む憔悴と受苦だけでは、神における——まして人間における——創造への衝迫を表現するに足りなかったかのようである[3]。すなわち「不安」という語そのものが、生の根本感情の名として、キルケゴールに 30 年先立ってシェリングのもとにあった。
キルケゴールが「不安は自由の眩暈である」と書いたとき、彼はシェリングのこの洞察を個人の実存的次元へと翻訳していた。ベルゴの表現を借りれば、キルケゴールはシェリングのなお抽象的な構想を「心理学化した(psychologized)」のである——シェリングが宇宙論的・神学的スケールで語ったものを、キルケゴールは一人の人間が可能性の深淵の前に立つ経験として磨き上げた[3]。
なお、精神科医であり実存哲学者でもあったカール・ヤスパース(1883〜1969)は、このシェリングの自由論を引き継ぎ「限界状況(Grenzsituation)」論として展開した——ヤスパースがシェリングに相当の考察を費やした理由はこの系譜的連続にある。しかしヤスパースの不安論と現象学的精神病理学との接続については、別に論じる機会を設けたい。
1-6 キルケゴールの哲学的飛躍——「対象なき不安」の発見
デカルトとスピノザの情念論が「対象に向かう感情」の分析として精緻であればあるほど、その枠組みの外に取り残されたものの輪郭が浮かび上がる。それこそが「不安(Angest)」——特定の対象への恐怖ではなく、可能性という条件そのものへの精神的反応——である。
デンマークの哲学者キルケゴール(1813〜1855)は『不安の概念(Begrebet Angest)』(1844 年)において、この「対象なき」精神状態を哲学史上はじめて正面から取り上げた。彼は「恐怖(Frygt)」と「不安(Angest)」を明確に区別することから論を始める。恐怖は対象を持つ。蛇を恐れる・失業を恐れる——恐怖はつねに「何かを」恐れる構造を持つ。これに対して不安は対象を持たない[7]。
「不安とは自由の眩暈(Frihedens Svimmelhed)である。」(キルケゴール『不安の概念』第二章)[7]
「自由」とはキルケゴールにとって「複数の可能性の間で選択する能力」である。可能性とは、まだ現実化されていないもの——「あり得るが、まだない」ものである。この「まだない」可能性の空間を前にして、精神は眩暈を覚える。何もない深淵をのぞき込んだときのめまいのように——不安とは「可能性への可能性としての自由の現実性(Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden)」である、とキルケゴールは言う。不安の源泉は特定の悪い事物ではなく、あらゆる可能性が開かれているという条件そのものである。
1-7 ハイデガー・サルトルと「不安の実存論的系譜」
キルケゴールの「対象なき不安」という発見は、20 世紀の実存主義哲学に決定的な影響を与えた。マルティン・ハイデガー(1889〜1976)は『存在と時間(Sein und Zeit)』(1927 年)において、「恐怖(Furcht)」と「不安(Angst)」を存在論的に区別した。恐怖は世界内部の特定の存在者へと向かう。これに対して不安は世界そのもの——現存在(Dasein)が「世界内存在」であるという根本的事実——へと向かい、「故郷喪失(Unheimlichkeit)」の経験として現れる[8]。
ジャン=ポール・サルトル(1905〜1980)は『存在と無(L’Être et le Néant)』(1943 年)において、さらに徹底した議論を展開した。断崖の前に立つとき、「落ちるかもしれない」という恐怖は身体的危険への対象的反応である。しかし同時に「飛び込むかもしれない」という不安が生じる——これは外部の危険へのものではなく、「自分自身の自由」へ向けられた反応である。選択の全的な開かれが不安の源である[9]。
このキルケゴール=ハイデガー=サルトルの哲学的系譜は、20 世紀の「不安の時代」という文化的言語に深い哲学的根拠を与えた。そしてこれは精神科臨床に直接関わる問いを提起する。DSM-5 において「特定恐怖症(specific phobia)」と「全般性不安障害(GAD)」が異なる診断カテゴリーに属するという事実は、哲学史的にみれば「対象ある恐怖(デカルト的)」と「対象なき不安(キルケゴール的)」の区別に対応している。この診断的区別の哲学的先駆がシェリングを経てキルケゴールにあるという指摘は、精神医学史の観点からも注目に値する[7][8]。
デカルト・スピノザ・シェリングからキルケゴールへといたるこの哲学史的展開が示すのは、「不安という概念の誕生には、ある特定の主体像が必要であった」という事実である。「対象に向かう感情」だけを問題にする枠組みでは不安は生まれない——「自由に選択する主体が可能性の深淵の前に立つ」という、近代的個人の成立とともに到来した主体像を必要としていた。不安は自由の代償であり、その意味で近代性(modernity)の産物でもある。これは不安が 19 世紀にはじめて「医学化」されたという歴史的事実と、深いところで響き合っている。
第二節 19 世紀の臨界点——不安の医学化
不安の歴史において、19 世紀は決定的な転換点をなす。古代から続いてきた「道徳的」あるいは「宗教的」な枠組みが後退し、不安は「医学的治療を要する疾患」として再定式化されるようになった。しかしこの転換は、不安が「増加した」からではない。不安を見る枠組みと、助けを求める場所が変わったのである——これがホルヴィッツの中心テーゼである[1]。
2-1 医学化を促した四つの歴史的条件
19 世紀という臨界点に四つの条件が重なった。
第一は、産業革命・都市化・鉄道の出現がもたらした社会変動である。急速な変化は個人を伝統的共同体から引き離し、農村社会では経験されなかった種類の心理的緊張を生み出した。「神経」という言葉が文化的キーワードになったのはこの時代である。都市の成立は人間を多様な役割へと分化させた——商人・軍人・銀行家・官僚・法律家・医師といった職業専門家たちは、農耕共同体の自然な結びつきから切り離された個人として、それぞれの役割が課す特有の不安を担わされることになった。この職業的分化こそが、特定の対象を持たない漠然たる不安の社会的温床を広げていった。
第二は、中産階級の台頭である。飢饉や疫病への恐怖ではなく、社会的失墜・配偶者関係・自己実現への不安を持つ余裕のある新しい患者層が出現した。彼らは従来の「狂気(insanity)」——入院を要する重篤な精神疾患——とは異なるカテゴリーの医療的承認を求めていた。
第三は、世俗化による治療権威の交代である。不安の手当てをする場所が、教会の告解室から医師の診察室へと移行した。フランスの精神科医フィリップ・ピネル(1745〜1826)が、禁じられた欲望に苦しむ若い修道士の症状を「精神的不完全さ」ではなく「神経性疾患」と診断したエピソードは、この移行の象徴的な一場面として語り継がれている。
第四は、科学的医学の確立である。顕微鏡による神経線維の観察、脳の特定部位への障害局在化(ブローカ、1861 年)——これらの発見は、精神疾患を「脳の器質的疾患」として記述したいという強力な動機を医師に与えた。
2-2 神経衰弱の発明——ビアード(1869 年)
これらの条件が結晶化した最初の大きな産物が、アメリカの神経科医ジョージ・M・ビアード(1839〜1883)による「神経衰弱(neurasthenia)」の記述(1869 年)である。電信・鉄道・蒸気機関・定期新聞——これら近代文明の刺激が神経系の「エネルギー」を消耗させ、疲労・不安・頭痛・消化障害・不眠などの症状群をもたらす。神経衰弱は「文明の病」であり、つまり「進歩した社会を生きる証」でもあった。
この命名は社会的に絶妙の戦略をはらんでいた。神経衰弱は「狂気(madness)」ではなく「神経の疲労」であるから、入院を要しない。上流・中産階級の患者、特に女性と知識人男性がこの診断に飛びついたのは当然であった。「不安を持つことは知性の証」という逆説的な文化的価値が生まれた。しかし神経衰弱の概念はあまりにも広大であった——倦怠・不安・恐怖症・頭痛・消化不良・性的機能不全がすべて神経衰弱に帰属された。「何でも入る袋は何も説明しない」——フロイトが次の世代で行った仕事は、この混沌から「不安神経症」という明確な疾患単位を切り出すことであった。
2-3 ダーウィンの進化論的不安(1872 年)
神経衰弱が文化的現象として広まりつつあった同じ時代、チャールズ・ダーウィンは『人及び動物の表情について』(1872 年)において、恐怖の生物学的基盤を論じた。ダーウィンにとって、恐怖は学習によるものではなく、生得的・遺伝的形質である。自らのエピソードを引いて彼はこう記した——動物園でパフアダーが飛びかかっても後退しないと決意しながらも、蛇が突進した瞬間に反射的に飛びのいてしまった。「一度も経験したことのない危険を想像する働きの前には、私の意志と理性は無力であった」[11]。
ダーウィンの議論の要点は二つある。一つは、危険に際して不安になる生物は生存・繁殖に有利であり、恐怖反応は自然選択によって形成されてきたという進化論的説明。もう一つは、恐怖が「意識的選択に先行する自動反応」であるという観察——これはストア派エピクテトスの「印象は不随意的に生じる」という洞察の生物学的裏付けであり、20 世紀の神経科学的恐怖研究に直接連なる視点である。
2-4 フロイトへの助走——モレル、クリシャベール、シャルコー
フロイトの登場直前、フランスとドイツの精神医学は「不安」を独立した臨床単位として記述する試みを積み重ねていた。フランスの精神病院長ベネディクト・モレル(1809〜1873)は「情動妄想(délire émotif)」を記述した(1866 年)。これは不安・恐怖症・強迫観念を、自律神経系という共通の解剖学的基盤から説明しようとした最初の試みである。カプサンベリスが指摘するように、これは「異種の心理的・身体的不安状態を共通の病因から分類しようとした最初の試み」として評価される[2]。
ハンガリー出身のクリシャベール(1836〜1883)は「脳心臓神経症」を記述した(1873 年)。動悸・息切れ・めまい・発汗を伴う発作的な恐怖——これは現代のパニック発作に相当する症状のはじめての系統的記述であった。そしてシャルコーのサルペトリエール病院における催眠・ヒステリー研究が、「心理的原因が身体症状を生む」という事実を実験的に示した。若きフロイトがパリ留学(1885〜86 年)でシャルコーのもとに師事したことは、精神分析の誕生にとって決定的な意味を持っていた。
第三節 フロイト革命——不安理論の二段階
ジークムント・フロイト(1856〜1939)が不安の概念史に与えた影響は、どれほど強調してもしすぎることはない。彼は不安を精神医学の周縁から中心へと移動させ、症状の記述的分類において現代の診断基準を先取りし、そして二段階の理論的変容によって「なぜ不安が生じるか」という問いを精神医学の根本問題として定式化した。
3-1 出発点——神経衰弱から不安神経症の切り出し(1895 年)
フロイトが精神医学において最初に行った貢献は、理論構築よりも症状記述であった。1895 年の論文において、フロイトはビアード以来の巨大な受け皿「神経衰弱」のなかから「不安神経症(Angstneurose)」という明確な疾患単位を切り出した。
フロイトが確立した二大分類の区別は精神医学史上の重要な画期をなす。一方は「精神神経症(Psychoneurosen)」——ヒステリーや強迫神経症がこれに属し、幼児期の抑圧された記憶が原因であり、精神分析が有効である。他方は「実際神経症(Aktualneurosen)」——不安神経症と神経衰弱がこれに属し、現在進行中の性的生活の障害が原因であるとされた。この分類の病因論的部分はのちに大きく修正されるが、症状の記述的区別は先駆的精度を持っていた。
フロイトが「不安神経症」として記述した症状群を現代の診断基準と対照すると、その先見性に驚かされる。第一に「不安な期待(ängstliche Erwartung)」——特定の対象や状況を欠いた持続的で漠然とした心配の状態。これは現代の全般性不安障害(GAD)の中核症状に相当する。第二に「不安発作」——心拍亢進・呼吸困難・めまい・死の恐怖を伴う突然の強烈な恐怖体験。現代のパニック発作との対応は鮮明である。第三に「恐怖症」——特定の対象や状況への持続的・回避的な恐怖。第四に「強迫観念」——不安に駆動された反復的思考と行動。
カプサンベリスは「不安の独立した臨床形態の最初の記述はフロイト(1895 年)によるものであり、この業績はその後の精神医学の発展に決定的な影響を与えた」と評価している。1895 年にフロイトが記述した四つの症状群は、85 年後の DSM-III(1980 年)において「不安障害(Anxiety Disorders)」カテゴリーのもとに再編されることになる[2]。
3-2 第一理論の病因論——性的エネルギーの変換
症状記述の精度とは対照的に、フロイトの初期の病因論は今日では受け入れられない仮説に基づいていた。「不安は性的エネルギー(リビドー)が排出されずに蓄積し、心理的処理を受けることなく『不安エネルギー』に変換される」というものである。この理論においては「抑圧が不安を生む」——性的興奮が適切に処理されないことが不安の原因とされた。病因論としては現代の観点から支持できないが、症状記述の精度と病因論の限界がフロイトにおいて奇妙に同居しているという事実は、のちの理論的転換の意味を際立たせる。
3-3 第二理論への転換——シグナルとしての不安(1926 年)
転機は第一次世界大戦であった。戦場から帰還した無数の兵士が「戦争神経症」を呈した。彼らの多くは「性的抑圧」とは無縁の若者たちであった。「抑圧された性的エネルギーが不安に変換される」という図式は、この外傷的現実の前で崩壊した。
フロイトは『制止・症状・不安(Hemmung, Symptom und Angst)』(1926 年)において、理論の根本的転換を行った。旧理論:「抑圧 → 不安」——抑圧によって処理されなかった性的エネルギーが不安として現れる。新理論:「不安 → 抑圧」——不安が危険のシグナルとして発せられ、それを回避するために抑圧という防衛機制が動員される[12]。
この転換の意味は深い。不安はもはや「症状」ではなく、「精神機能の組織化原理」となった。自我は外的・内的危険を予期して「シグナル不安」を発し、それによって防衛機制を動員する。カプサンベリスの要約を借りれば、フロイトの第二理論において「自我は抑圧の主体(l’agent du refoulement)であると同時に、『不安の場所』(le lieu de l’angoisse)でもある」[2]。
第二理論はまた、不安の三分類を提示した。第一に「現実不安(Realangst)」——外的・現実的危険への反応であり、正常な恐怖。第二に「神経症的不安(Neurotische Angst)」——内的・無意識の危険への反応。自我とエスの葛藤から生じる。第三に「道徳的不安(Moralische Angst)」——超自我からの罰の脅威への反応。罪責感と深く結びつく。
3-4 後継者たちの展開——クライン、修正学派、実存主義との接触
メラニー・クライン(1882〜1960)は不安の発達起源をさらに早期にさかのぼり、生後数ヶ月の乳児の内的世界に「迫害不安(persecutory anxiety)」と「抑うつ的不安(depressive anxiety)」の二種を見出した。クラインの「抑うつポジション」概念——愛する対象を傷つけてしまったのではないかという罪責的不安——は、不安と抑うつの連続性を精神分析理論の中心に据えた。これはのちの「不安と鬱の高い共存率」という臨床的事実の理論的根拠の一つとなる。
修正学派(カレン・ホーニー、エーリッヒ・フロム、ハリー・スタック・サリバン)は性的病因論を捨て、不安の文化的・社会的・対人関係的要因を重視した。ホーニーは不安を抱える性格が幼少期の経験と文化的矛盾に起因すると論じ、フロムは不安を自由のもたらす「逃れられない条件」として資本主義社会論と結びつけた。
1950 年、実存主義的精神科医ロロ・メイは『不安の意味(The Meaning of Anxiety)』においてフロイトとキルケゴールの統合を試みた。「実存的不安は病気ではなく可能性に直面した自己の条件である」という命題は、医学的不安論と哲学的不安論の緊張を生産的に保ち続けた[10]。
3-5 フロイトの遺産と限界
フロイトの遺産として挙げるべきは次の点である。第一に、不安を精神医学の中心問題として確立したこと。第二に、症状記述的分類の先駆性——GAD・パニック障害・恐怖症・強迫症という現代の不安障害カテゴリーの骨格を 1895 年に完成させていたこと。第三に、「正常な不安」と「病的な不安」の連続的理解。第四に、外来精神科という新しい医療領域の開拓。
他方、限界も明確である。病因論としての性的エネルギー論は後継者に修正を迫られた。「ほぼすべての神経症に不安が関与する」という後期フロイトの命題は、不安の説明力を最大化すると同時に診断的特異性を失わせた。そして治療法としての精神分析の非効率性は、のちに薬物療法と認知行動療法に主役の座を明け渡すことになった。しかしフロイトが「なぜ不安障害になるのか」という問いを精神医学の中心に据えたことの意義は揺るがない。
第四節 不安の時代——戦後文化と薬物治療
フロイトが 1939 年に没したのちの 1950 年代から 60 年代、不安はその歴史において最も「広大な」時代を迎えた。精神医学の専門的概念であることをはるかに超え、不安は西洋文化全体の集合的気分を表す言葉となったのである。
4-1 「不安の時代」——集合的気分としての不安
1947 年、イギリスの詩人 W・H・オーデンは『不安の時代(The Age of Anxiety)』と題する長詩を発表した。ハイデガー、サルトル、カミュらの実存主義が大西洋を渡り、ニューヨークの知識人層に広まっていた。1950 年、ロロ・メイは『不安の意味』の冒頭にこう記した——「われわれの社会に生きる注意深い市民なら誰でも、自分自身の体験からも、また周囲の人々を見ることからも、不安が 20 世紀半ばの広汎で深刻な現象であることに気づいている」。戦争の惨禍、核兵器の脅威、冷戦の破局的緊張——不安は時代の集合的感情であり、哲学的・文化的・神学的言語で語られた[10]。
注目すべき逆説は、この時代に不安が「病気」ではなく「人間の条件」として語られていたことである。精神分析的・実存主義的な見解では、不安は不幸ではあるが存在の不可避な構成要素とされた。文化的・哲学的言語が医学的言語をしのいでいたこの時期に、大量消費型の薬物療法の時代が唐突に幕を開ける。
4-2 マイナートランキライザーの登場
圧倒的多数の「不安な人々」は、実際には何らかの助けを必要としていた。1957 年時点でアメリカの精神分析家はわずか約 1000 人にすぎず、この小さな集団が大衆のニーズを担えるはずはなかった。転機は 1955 年に訪れた。製薬会社ウォレス・ラボラトリーズが「メプロバメート(商品名ミルタウン)」を市場に投入したのである。著名な精神薬理学者ネイサン・クラインの提案で「精神安定薬(tranquilizer)」と命名され、「世界が本当に必要としているのは精神安定薬だ」というクラインの言葉はこの時代の空気を象徴した。
続いて 1960 年に登場したベンゾジアゼピン系薬(クロルジアゼポキシド=リブリウム、1963 年にはジアゼパム=バリウム)は、自動車・家電製品・郊外住宅と並ぶ戦後アメリカの消費財となった。処方は精神科医よりも一般内科医が担い、不安の手当てを求める場所が聖職者から哲学者を経て、一般医師の診察室に定着した。
4-3 FDA の規制圧力——「疾患化」という論理的必然
しかしこの薬物治療文化は制度的矛盾を内包していた。FDA は 1962 年の規制改正により、医薬品は「認められた疾患」の治療に対して有効性が証明されなければならないと定めた。つまり、「日常的ストレス」への処方は規制上の根拠を持てない。製薬会社が直面した課題は明確だった——「不安」を「正常な苦悩」から「特定の疾患」へと再定義せよ。この規制圧力が DSM-III による精緻な不安障害分類の社会的・経済的背景の一つをなしていたことは、精神医学史の観点から見逃せない。
4-4 フェミニズムの反撃とベンゾジアゼピン批判
「不安の薬物化」に対する最初の大きな反撃は、1970 年代のフェミニズム運動から来た。ベティ・フリーダンは、精神安定薬が中流階級の女性を家庭に縛りつける社会的コントロールの装置として機能しているという批判を展開した。ファーストレディのベティ・フォードがベンゾジアゼピン依存症を公開告白し、訴訟・議会公聴会・メディアキャンペーンが相次いだ。「不安の薬」の文化的正当性が失われるとともに、精神医学は新たな枠組みを必要とした——それが DSM-III という「操作的診断革命」であった。
第五節 DSM 革命——不安障害カテゴリーの形成と拡大
1980 年にアメリカ精神医学会が発行した DSM-III(精神疾患の診断・統計マニュアル第 3 版)は、精神医学の歴史における最大の制度的転換点の一つである。それは単なる分類改訂ではなく、精神疾患をいかに「知る」かについての認識論的革命であった。
5-1 DSM-I・II——精神分析的枠組みの時代
DSM-I(1952 年)と DSM-II(1968 年)は、精神分析の言語で書かれた分類体系であった。「不安反応」「解離反応」「転換反応」という用語はフロイトの理論的枠組みに直接依拠していた。この体系の問題は、診断者によって解釈が大きく異なることであった。「無意識の葛藤」という内的状態は外から観察できない。同一の患者に対して異なる精神科医が異なる診断を下すことは珍しくなく、「精神科診断の信頼性」は 1960〜70 年代に激しい批判にさらされていた。
5-2 DSM-III(1980 年)——記述的精神医学の革命
この批判への回答として、精神科医ロバート・スピッツァーを中心とする改訂委員会は、「理論中立的(a-theoretical)」な記述原則を DSM-III に採用した。精神分析的仮定を括弧に入れ、観察可能な症状のチェックリストによって診断基準を明確化する——これが「操作的診断」の原理である。
「不安障害(Anxiety Disorders)」は独立した章として確立された。主要カテゴリーとして、フロイトの「不安発作」の直系であるパニック障害(新設)、「不安な期待」を核症状とする全般性不安障害(新設)、強迫性障害、外傷後ストレス障害(新設)が整備された。フロイト 1895 年の症状記述的分類が 85 年越しに制度化されたという歴史的連続性は、精神医学史の重要な論点である。
ホルヴィッツは操作的診断が診断の「信頼性(reliability)」を高めたが、「妥当性(validity)」——この診断は実際に何を指しているのかという問い——への回答を先送りにしたと指摘する。この批判は今日もなお精神医学の根本的課題として残っている[1]。
5-3 DSM-III-R・IV——分類の精緻化と拡大
DSM-III-R(1987 年)、DSM-IV(1994 年)と改訂が重なるにつれ、不安障害の分類はさらに精緻化された。社会恐怖は「社交不安障害」へと名称変更されて適用範囲が広がり、各障害の「持続期間」「頻度」「機能障害の程度」が数値的基準として明記された。この過程で有病率の急激な増加が生じた——ホルヴィッツはこれを「正常な恐怖の病理化」として批判する。診断閾値が下がることで、本来は正常な適応的恐怖反応を呈している人々が「障害」として分類されるようになったのである。
5-4 DSM-5(2013 年)——再編と残された問い
DSM-5 の最大の構造的変更は、不安障害の「解体と再編」であった。強迫性障害は「強迫症および関連症群」として独立し、外傷後ストレス障害も「心的外傷およびストレス因関連障害群」として独立した。分離不安症と選択性緘黙の成人への適用も正式に認められた。しかし不安障害に対応する生物学的マーカーは今日もなお確立されていない。「DSM-5 は何が起きているかを記述するが、なぜ起きるかを問わない」——この根本的批判は、フロイトが一世紀前に立てた問いへの答えがまだ出ていないことを意味している[14]。
第六節 不安から鬱へ——重心移動の構造的背景
精神科臨床医の日常的経験は、教科書的なカテゴリー分類としばしば食い違う。不安障害のみを呈する患者より、不安と抑うつが混在する患者の方が圧倒的に多い。20 世紀後半から現代にかけて、精神医学の「看板疾患」は不安から鬱へと移動した——その背景に何があったのか。
6-1 重心移動の事実
1950〜60 年代の精神科外来を支配していたのは「不安」の語であった。ところが 1990 年代以降、精神医学の「看板疾患」の地位は大うつ病(major depressive disorder)が担うようになった。WHO のグローバル疾病負担報告では、うつ病が障害調整生命年(DALY)の上位を占め続けている。この重心移動は、不安が減ったからではない——GAD と MDD の生涯共存率は60〜70 パーセントに達するという疫学研究が繰り返し示している。重心が移動したのは疾患の実態ではなく、精神医学の「語り方」であった。
6-2 SSRI が診断の重心を動かした
1987 年、FDA がフルオキセチン(商品名プロザック)を抗うつ薬として承認した。SSRI は薬理学的には「広域スペクトラム」薬である——大うつ病に有効であるとともに、パニック障害・社交不安障害・GAD・強迫性障害・PTSD にも有効性が確認されている。つまり SSRI は「抗うつ薬」であると同時に「抗不安薬」でもある。
しかし製薬会社は、SSRI を主として「抗うつ薬」として位置づけ、マーケティングした。「うつ病はセロトニン不足による脳の病気であり、SSRI で治る」という単純化されたメッセージが社会に浸透し、精神医学の語りの重心が「鬱」へと移動した。ビアードが神経衰弱を「文明の病」として中産階級に受け入れさせたように、製薬会社とメディアが協力してうつ病を「現代人の病」として構築した——これは概念史の視点から見れば、1869 年以来繰り返されてきたパターンの最新版である。
6-3 不安と鬱の連続性——臨床的現実
不安と鬱が高い確率で共存するという臨床的事実は、この二つが「別々の疾患」であるという前提に根本的な疑問を投げかける。古代のヒポクラテス的メランコリア概念は恐怖(不安)と悲しみ(鬱)を一体として記述し、フロイトは不安神経症・神経衰弱・メランコリアの共存を当然の前提として論じ、クラインの「抑うつポジション」は不安と抑うつの理論的連続性を示していた。これらの古い観察は、現代の疫学研究によって繰り返し確認されている。ホルヴィッツは、DSM のカテゴリー的分類が「内的妥当性を犠牲にして外的有用性を追求した」結果として生じた問題を繰り返し指摘する。不安と鬱の人為的分離はその最も鮮明な例の一つである[1]。
6-4 「鬱の時代」がはらむ問題——正常な悲しみの疾患化
不安の「疾患化」と並行して、鬱の「疾患化」も同様の批判にさらされている。ホルヴィッツとウェイクフィールドは『悲しみの喪失(The Loss of Sadness)』(2007 年)において、DSM の大うつ病基準が「正常な悲哀反応」——愛する者の喪失・離婚・失業などの人生の苦難に対する自然な反応——を「疾患」に変えてしまったと論じた。正常な恐怖が「不安障害」に変えられ、正常な悲しみが「大うつ病」に変えられる——診断閾値の下降は、医療化の拡大と製薬産業の市場拡大の双方に奉仕する[13]。
フランス精神医学の伝統は、症状の「意味」を問う精神力動的・現象学的伝統を保持しながら、この問題に対してより慎重な立場をとってきた。カプサンベリスが強調するように、フランス精神医学は「診断ラベルを貼ること」と「病態を理解すること」を区別する——この区別は、概念史的反省を臨床に持ち込もうとする本論文の基本的立場と共鳴する[2]。
第七節 ICD-11 と混合抑うつ不安症——6A73 の意義
2018 年に WHO が採択し、2022 年に発効した ICD-11 は、不安障害の分類において DSM-5 との大幅な収斂を実現した一方で、ある重要な点で DSM-5 を超えた。混合抑うつ不安症(Mixed depressive and anxiety disorder, 6A73)の正式な診断カテゴリーとしての新設がそれである[15]。
7-1 ICD-11 の不安・恐怖関連障害群
ICD-11 の「不安または恐怖関連症群(6B0x)」は、全般性不安症(6B00)・パニック症(6B01)・広場恐怖症(6B02)・特定の恐怖症(6B03)・社交不安症(6B04)・分離不安症(6B05)・選択性緘黙(6B06)から構成される。DSM-5 の対応カテゴリーとの差異は細部にとどまり、国際的な診断の標準化という意味ではほぼ達成されたと評価できる。ICD-11 の注目すべき革新の一つは、次元的(dimensional)アプローチの部分的導入である——二値的な「あり/なし」判定に加え、症状の重症度を連続量として記述するオプションが加えられた[15]。
7-2 混合抑うつ不安症(6A73)——その定義と臨床的意義
ICD-11 6A73「混合抑うつ不安症」は、不安症状と抑うつ症状が同時に存在するが、いずれも単独の不安障害または気分障害の診断閾値には達しない状態を指す。臨床的に有意な苦痛と機能障害をもたらすことが診断の要件とされる。DSM-5 は「混合性不安抑うつ障害」を「今後の研究のための病態」——正式診断としては認められない仮の記述——の欄にとどめた。ICD-11 はこれを正式な診断カテゴリーとして格上げした[14][15]。
DSM-5 との比較において ICD-11 の革新性はより鮮明になる。第一に出自の違いがある。DSM-5 はアメリカ精神医学会(APA)という一国の学会が主導する分類であり、その主たる用途は研究・保険請求・訴訟における診断の標準化であった。対して ICD-11 は WHO が193 カ国の使用を前提として策定したものであり、臨床的有用性(clinical utility)を第一義とした。この出自の違いが、両者の分類哲学の根本的相違を規定している。第二にカテゴリーの扱いの違いがある。DSM-5 が「混合性不安抑うつ」を付録の「研究用診断」にとどめたのに対し ICD-11 が 6A73 として正式化したことは、単なる分類の差異ではなく、「診断閾値以下のグレーゾーンにある臨床的現実を制度が承認するかどうか」という哲学的差異である。第三に文化的多様性への配慮がある。ICD-11 は、DSM-5 の診断基準が主として北米・西欧の臨床経験に基づいて構築されてきたという批判を受け、文化的多様性への配慮を明示的に組み込んでいる。何を症状とみなし、何を文化的に了解可能な範囲とみなすか——この問いは不安概念の文化横断的妥当性という、本論文の射程を超えた重要な課題として、別に論じられるべきものである。
臨床医としての筆者の経験から言えば、「純粋な不安障害」と「純粋な大うつ病」を呈する患者は実際には少数派である。軽〜中等度の不安と軽〜中等度の抑うつが混在し、どちらの診断基準も満たさない患者が日常診療の相当部分を占める。ICD-11 6A73 はこのような患者に適切な診断的位置づけを与え、適切な治療的関与を可能にする。
7-3 概念史的意義——歴史の弁証法的展開
ICD-11 6A73 の新設を概念史の文脈に置くと、精神医学史の一つの弁証法的サイクルが見えてくる。
第一段階——統合(古代〜19 世紀)。ヒポクラテスのメランコリア概念は、恐怖(不安)と悲しみ(鬱)を一体の病態として記述していた。アリストテレスが『問題集』においてメランコリーと創造性の関係を論じ、フィチーノが「楽しいメランコリー」という多義的概念を発展させたように、メランコリーは病理と創造と実存的態度の複合した全体を指す言葉であった。フロイトも不安神経症・神経衰弱・メランコリアの共存を当然の前提として論じていた。「分離」という発想は、この時代にはなかった。
第二段階——分離(1980 年〜)。DSM-III は操作的診断の原理のもと、不安障害と気分障害を明確なカテゴリーとして分離した。この分離は研究・行政・製薬産業に大きな利便性をもたらしたが、臨床的現実を単純化しすぎた。
第三段階——再統合(2022 年〜)。ICD-11 6A73 の新設は、42 年をへだてた臨床的現実への回帰である。古代のメランコリア概念が直観していた「不安と鬱の一体性」が、現代の操作的診断の言語に翻訳されて戻ってきた。
7-4 次元的モデルへの道——RDoC と精神医学の未来
ICD-11 の次元的アプローチの部分的導入は、より根本的な変革への示唆を含んでいる。アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)が推進する RDoC(Research Domain Criteria)は、DSM のカテゴリー診断を根底から問い直す試みである。RDoC の基本思想は、精神疾患を「人間の行動と脳機能の連続的次元」として理解することである。「不安」は「恐怖回路の感受性の高さ」という次元上の一点として、「うつ」は「報酬系の応答性の低さ」という別の次元として記述される——両者は独立した「疾患」ではなく、異なる神経生物学的次元における変動として理解される。RDoC はいまだ臨床診断のツールではなく研究の枠組みにとどまっているが、「なぜ不安障害になるのか」というフロイトが一世紀前に立てた問いへの生物学的回答を目指す点で、精神医学の将来の方向性を示している[16]。
結論 臨床医として、概念史が現在に問うもの
結-1 変容する「見る枠組み」——歴史の教えるもの
不安の歴史が示す最も重要な事実は、各時代の「見る枠組み」が不安の「実態」よりも「定義」を決定してきたということである。古代ギリシャ・ローマでは道徳的枠組み(勇気か臆病か)のなかで理解され、長く続く恐怖や悲しみはメランコリアとして一体的に記述された。そのメランコリア概念は、アリストテレスの手によって創造性・天才性と結びつけられ、フィチーノにおいて病理と快楽と実存的深みを兼ね備えた多義的概念へと発展した。中世キリスト教世界では信仰的枠組み(信か罪か)へと移行した。19 世紀の産業革命と世俗化は治療権威を医師へ移し、神経学的枠組みを確立した。フロイトは精神力動的枠組みを加え、戦後の DSM は操作的記述という枠組みでこれを置き換えた。そして現在、神経科学は神経回路と神経伝達物質という枠組みで不安を再記述している。
これらは「不安の量」の変化を示すものではない。人類の不安体験の生理学的な核——心拍亢進・筋緊張・恐怖の予期——は古代から変わっていない。変わったのは、その体験を「見る言語」であった。ただし 1-0 で述べたとおり、言語は体験の外側に置かれた透明な観察装置ではない。統一的な「心」の成立以前と以後とでは、恐怖の体験され方そのものが同一であったとは言い切れず、概念の変化は体験の分節をも部分的に作り変えてきたと考えるべきである[24][26]。近世哲学においてデカルトとスピノザが情念論を精緻化しながらも「不安」に独立した場所を与えられなかったのは、彼らの枠組みが「対象に向かう感情」の論理に限定されていたからである。シェリングの自由論が「開かれた可能性」を存在の構造に組み込み、その学を直接聴講したキルケゴールが「対象なき不安」を発見したとき、それは「自由に選択する近代的個人」という主体像の誕生と表裏一体であった——そしてこの主体像の誕生は、奇しくも不安の「医学化」が始まった 19 世紀と重なっている。
結-2 フロイトの問いは解決されたのか
フロイトが 1895 年に精緻に記述した症状群——全般性不安・パニック発作・恐怖症・強迫症——は、127 年後の現在も DSM-5・ICD-11 に生きている。この連続性は驚くべきことである。症状の観察と記述において、フロイトの洞察は時代を超えた。しかし「なぜ不安障害になるのか」という病因論的問いへの回答は、体液説から性的エネルギー論へ、学習理論へ、認知論へ、神経科学へと移り変わりながら、根本的にはまだ解決されていない。生物学的マーカーがない。遺伝子と環境の相互作用の全容は解明されていない。この未解決性は、フロイトが立てた問いの深さの証しである。
結-3 不安と鬱——統合的理解へ
本論文を通じて繰り返し浮かび上がったのは、不安と鬱の「分離の人為性」という問題である。古代のメランコリアは両者を統合し、アリストテレスはメランコリーが創造性と病理の両方の条件となりうることを示し、クラインの精神分析理論は両者の発達的連続性を示し、疫学研究は両者の高い共存率を繰り返し確認する。DSM-III が 1980 年に断行した「分離革命」は研究と行政に大きな恩恵をもたらしたが、臨床的現実との隔たりは ICD-11 6A73 の新設という形で制度的に認められた。この混合抑うつ不安症カテゴリーの導入を、本論文は積極的に評価する。それは古代のメランコリア的統合の現代的復権として読むことができる。
結-4 精神科医として——概念史の臨床的意味
最後に、臨床医としての問いに戻る。目の前の患者が「不安で仕方がない」と訴えるとき、その不安の背後には複数の層が重なっている。神経生物学的層——扁桃体の感受性、神経伝達物質系の調整不全。心理学的層——幼少期の愛着パターン、防衛機制、認知的歪み。社会・文化的層——現代社会の構造的不安。そして実存的層——キルケゴールが「自由の眩暈」と呼んだ、選択する存在としての人間の根本的条件。そしてフィチーノが「楽しいメランコリー」として描いたような、苦悩と深みとが分かちがたく結びついた実存的態度の次元も、ここに加えてよいかもしれない。なお、この実存的不安の原型は近代に始まるものではなく、神話学者キャンベルはメソポタミア都市文明の成立——農耕共同体的な「神との一体性」から「人間と神の乖離」への転換——のうちにすでにその萌芽を見出している。都市化が生み出す孤独と神からの分離、そしてそれに応答する宗教的専門家集団の出現というこの構図は、19 世紀の医学化を論じるホルヴィッツの議論の、はるかな先史として位置づけられうる[23]。
DSM の診断基準は、この多層的現実の「入口」を提供する。しかしそれは「理解の終着点」ではない。カプサンベリスが指摘するように、「不安の治療」を論じるとき、われわれは医学的・治療的関心の対象となった不安について語っているのであって、不安のすべてではない。行動・くつろぎ・「善い決意」・祈り・懺悔・愛の告白——これらもまた、人類が不安を手当てしてきた方法である。精神科医は「医学的手当て」を提供するが、それが不安の唯一の応答形式ではないことを忘れてはならない[2]。
概念史を学ぶことは、診断ラベルを「所与の自然」として使うのではなく、「歴史的産物」として批判的に使う医師を育てる。デカルトの枠組みに不安が入れなかったように、現代の神経科学の枠組みにも入りきらない何かが不安にはある。その「入りきらない何か」への感受性を保ち続けること——それが、概念史を学んだ精神科臨床医に求められることである。
不安は病気であると同時に、生の証である。「自由の眩暈」であり、進化が刻んだ生存の機能であり、社会的存在としての人間の条件でもある。そしてアリストテレスが見抜いたように、それは創造の条件ともなりうる。この多義性に開かれたまま、目の前の患者の苦悩に向き合うこと——スピノザの感情変換論が示唆するように、感情をその原因の明晰な認識を通じて変容させることを助けること——それが本論文の最終的な意図であった[5][17]。