序 二つの名
『古事記』序文は、この書物の成立に関わった二つの名を伝えている。稗田阿礼と、太朝臣安萬侶である。一方は帝紀・旧辞を誦習し、他方はそれを撰録して献上したと記される。二つの名は、同じ序文の、わずか数行を隔てて並んでいる。
しかし、この二つの名について現在われわれが持っている証拠は、量においても種類においても、まったく釣り合っていない。太安万侶には、墓誌がある。昭和五十四年に出土した火葬墓の銅板に、四十一字の銘が刻まれている[1]。位階の推移は『続日本紀』に三度記され[3]、卒伝もある。父と伝えられる人物の軍功は『日本書紀』にあり[4]、氏族の系譜は『新撰姓氏録』に載る[7]。九世紀には、彼を『日本書紀』の撰者の一人とする証言も現れる[6]。これに対し稗田阿礼については、序文の十数字がすべてである。「時有舎人。姓稗田名阿礼。年是廿八。為人聡明。度目誦口。拂耳勒心」[2]。墓もなく、位階もなく、系譜も確かでなく、正史はこの名を一度も記さない。
そして、二つの名をめぐる議論の帰趨は、この差にきれいに対応している。安万侶については、四つの物証から一人の実務官人の像を再構成することができ、争点は細部に限られる。阿礼については、百年を超えて少なくとも四つの読みが並立し、決着していない——実在の若者と読む読み、女性祭祀者と読む読み、職掌名ないし集団の名祖と読む読み、そして序文そのものを後次的付加と見て問いを解消する読みである。
本稿は、この対照そのものを主題とする。すなわち『古事記』の成立過程を論じるのではなく、同じ書物の同じ序文に現れる二つの名について、なぜ一方は決定でき、他方は決定できないのかを論じる。別稿で述べたとおり、資料体はそれ自体では結論を含まない。結論を与えるのは、そのつど資料を用いる者の枠組みのほうである[50]。だとすれば問うべきは、どれだけの資料体があれば、枠組みの側の自由が縮減されるのか——決定可能性の閾はどこにあるのか、である。
第一部で安万侶を扱い、第二部で阿礼を扱う。第一部は対照条件であって、それ自体が本稿の結論ではない。第三部で二つを並べる。
一、墓誌——四十一字の基準点
昭和五十四年(一九七九)一月、奈良市此瀬町の茶畑で、改植の作業中に一基の火葬墓が偶然に発見された。木櫃に納められた火葬骨とともに出土した一枚の銅板には、四十一字が刻まれていた——「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」[1]。『古事記』の筆録者太安万侶の墓誌である。この発見は、近代以降くすぶり続けた安万侶実在への疑義に終止符を打ったが、同時に、それまで序文の署名と『続日本紀』の断片的な記事しか持たなかったこの人物に、住所と位階と勲位と没日という具体的な輪郭を与えた。
墓誌の情報量は、字数のわりに大きい。第一に実在。署名と正史の断片以外に痕跡のなかった人物が、遺骨と刻銘をもって出土した。第二に住所。平城京左京四条四坊は、京内の一等地とはいえないが、中級官人の居所として不自然のない位置である。第三に位階と勲位。「従四位下勲五等」は『続日本紀』和銅八年(七一五)の従四位下昇叙記事と整合し、後述する勲五等の問題を提起する。第四に没日。「癸亥年七月六日卒」は養老七年(七二三)七月六日にあたり、『続日本紀』同日条の卒伝「民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒」と日付まで一致する[3]。墓誌・正史・序文署名という三系統の史料が、位階・勲位・没日において相互に噛み合う——『古事記』をめぐる史料状況の中で、これほど堅い基準点は他にない。以下の各章は、すべてこの基準点からの測量である。
二、家柄——多氏、湯沐令の家
安万侶の属した多(太)氏が、神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔を称し、「皇位を自ら退いて祭祀の道を選んだ皇統の分家」という出自神話を持つ祭祀芸能の家系であったことは、第十八章で論じる。本章はこれに、同じ家のもう一つの顔——経済と軍事の顔——を書き加える。
安万侶の父と伝えられる(この父子関係自体は平安末期の「多神宮注進状」によるもので、留保を要する[7])多品治は、壬申の乱(六七二)において、単なる従軍者ではなかった。『日本書紀』天武紀によれば、品治は美濃国安八磨郡の湯沐令——大海人皇子の湯沐邑、すなわち皇子直属の経済基盤の管理者——であり、吉野を発した大海人が村国男依らを美濃に遣わして最初に兵を挙げさせた相手が、ほかならぬ品治であった[4]。乱の最初の動員の引き金は、多氏の手中にあったのである。さらに戦中、品治は三千の兵を率いて莿萩野に屯し、倉歴を破って進んできた近江方の田辺小隅を迎撃してこれを退けた(倉歴道の守備そのものは田中臣足麻呂の任であって、品治のそれではない。経過は第四章に詳しい)[4]。挙兵の物質的基盤の管理と、伊賀方面の防衛という二つの枢要である。
すなわち多氏は、祭祀の家であると同時に、天武王権の成立に物質的・軍事的に深く与った家であった。第十八章は、安万侶抜擢の実質的根拠を「位階という制度的な格ではなく、天武・元明朝における人的信頼——勲功に基づく個人的な近さ」に求めたが、その勲功の中身が、ここに具体化される。天武にとって多氏は、自らの帝業の最初の一歩を支えた家である。帝紀・旧辞の整定という、王統の記憶そのものに関わる事業を委ねる相手として、これ以上の家格の証明はない。
太安万侶の位階の低さ——『古事記』編纂の勅命を受けた和銅四年(七一一)の時点で正五位上、最終的にも従四位下・民部卿(没後に従三位を追贈)にとどまる——は、これを『日本書紀』の総裁を務めた舎人親王(天武天皇の皇子)と並べれば、確かに際立った格差である[3]。しかし第二十章で論じるとおり、両書の性格の違い(対外的な正史としての政治的合意調達を要した『日本書紀』と、稗田氏という一つの窓口にすでに集約されていた物語を書き記せばよかった『古事記』)を踏まえれば、正五位上という位階は、必要とされた実務——卓越した文才と書記官としての熟練——には十分な格であったとも言える。加えて、安万侶の父・多品治が壬申の乱(六七二)において大海人皇子(天武天皇)の腹心の一人として軍功を挙げたことが知られており[4]、位階という制度的な格ではなく、天武・元明朝における人的信頼——勲功に基づく個人的な近さ——が、安万侶抜擢の実質的な根拠であったと考えられる。
三、湯沐令——制度に現れない関係
前章は品治の役割を家の側から見た。本章は、彼が帯びていた官名そのものを見る。「湯沐令」という語である。
湯沐邑は中国に由来する。周代に起源を持ち、斎戒沐浴の費用という名目で皇族に与えられる給付地であって、漢代には統治権を伴わず租税収入を得るだけの性格に変わっていた[51]。日本ではどうか。大宝令にも養老令にも、東宮の湯沐邑の規定はない。中宮に二千戸が置かれ、東宮にはこれに代えて毎年の物資が支給される。東宮湯沐が中宮同様の二千戸として明文化されるのは『延喜式』の段階である[51]。
そして、決定的なのは次の一点である。「湯沐令」という官職名は、中国の制度にも、律令の官職表にも、後代の日本の史料にも見えない。日本の全史料を通じて、『日本書紀』壬申紀にしか現れない語である。用例は三つ。第一に「安八磨郡湯沐令多臣品治」、第二に伊勢で大海人一行と鈴鹿郡に参遇した「湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家」、第三に「湯沐の米」を運ぶ伊勢国の駄五十匹の記事である[52]。三例はいずれも壬申の年に集中しており、それ以前にもそれ以後にも現れない。
この三例が示すことは二重である。一方で、湯沐邑が乱の直前から直中にかけて、人事と物資の両面で現に機能していたことは、史料の上で確認できる。他方で、その機能を担う職に与えられた名は、制度の名彙のどこにも登録されていない。(第二例の位置づけ——安八磨郡湯沐邑のもう一人の湯沐令なのか、伊勢に別の湯沐邑があったのか——については見解が分かれる[56]。)
六月二十二日の詔を、文面のまま置いておきたい。
詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣曰、今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國、告安八磨郡湯沐令多臣品治、宣示機要、而先發當郡兵。仍經國司等、差發諸軍、急塞不破道。朕今發路。
村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広に詔して曰く、「今聞くに、近江朝庭の臣等、朕が為に害を謀る。是を以て、汝等三人、急ぎ美濃国に往きて、安八磨郡の湯沐令多臣品治に告げ、機要を宣示して、先づ当郡の兵を発せ。仍りて国司等を経て、諸軍を差発し、急ぎ不破道を塞げ。朕、今、路に発たむ」と
命じられているのは三点である。第一に当郡の兵をまず発すること、第二に国司を経て諸軍を差発すること、第三に不破道を塞ぐこと[52]。ここで断っておかねばならない。武器の調達や兵糧の徴発を記した条文は、壬申紀のどこにもない。右に挙げた「湯沐の米」を運ぶ駄五十匹の記事は、大海人一行が菟田の郡家でこれに遭遇し、米を棄てさせて徒歩の者を乗せたという別件である。皇子の経済基盤の管理者が、最初の動員の起点に置かれた——史料が支えるのはここまでであって、兵站の実務を品治に帰することは、詔の文面の外に出る。
七月の戦闘については、順序を正確にしておきたい。二日、品治は紀臣阿閉麻呂・三輪君子首・置始連菟とともに数万の衆を率いて伊勢大山を越え倭に向かう軍の将に列せられるが、同時に別命を受け、三千の衆を率いて莿萩野に屯した。倉歴道の守備を命じられたのは田中臣足麻呂である。五日、近江方の別将田辺小隅は鹿深山を越え、幟を巻き鼓を抱えて倉歴に至り、夜半に城を穿って営中に入る。足麻呂は敗走した。六日、小隅はさらに進んで莿萩野の営を急襲しようとする。「爰に將軍多臣品治、之を遮り、精兵を以て之を追撃す。小隅獨り免れて走る。以後遂に復た來らず」[53]。將軍と明記されるのは、この箇所である。
そして褒賞である。乱後、正史に現れる品治の記事は数えるほどしかない。天武十二年(六八三)十二月、小錦下の位で伊勢王・羽田公八国・中臣連大嶋らとともに諸国の境界を画定する使に加わる。天武十三年十一月、八色の姓において、多臣は朝臣を賜った五十二氏の一に数えられる。天武十四年九月、御衣袴を賜った十人の一人。そして持統十年(六九六)八月五日——
以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。
直広壱を多臣品治に授け、幷せて物を賜ふ。元従の功と、関を堅く守りし事とを褒美す
壬申の乱から二十四年後である[54]。そして褒賞の理由として名指されているのは、位階でも官職でもなく、「元従の功」——最初から従っていたこと——である。
ここに現れているのは、律令の官職表が測らない種類の関係である。湯沐令という語が壬申紀にしか現れないのは、それが制度の名ではなく、一回限りの関係にかろうじて与えられた名だったからではないか。だとすれば、前章および次章で見る位階の低さと、この関係の近さとは、矛盾しない。位階は制度の中の位置を測るが、〈元従〉を測らない。安万侶抜擢の実質的根拠を「制度的な格ではなく、勲功に基づく個人的な近さ」に求めた前章の見立ては、ここで史料上の足場を得る。
ただし、この関係がいつ始まったかは決まらない。湯沐邑が大海人のものになった時期を確定しようとすると、ただちに別の未決に突き当たる。『日本書紀』巻二十七・天智紀には、大海人の立太子記事がない。巻二十八・天武天皇即位前紀に「天命開別天皇元年、東宮に立つ」とあるだけであり、この「元年」が称制元年(六六二)を指すのか即位年(六六八)を指すのかで読みが割れる。さらに、「皇太弟」という地位そのものを、壬申における行動を正当化するための文飾と見る説がある[55]。乱以前から大海人が美濃に基盤を持っていたかを正面から問うた研究は横田健一以来いくつもあるが、定説と呼べるものはない[56]。
そして、この未決の性質に注意されたい。第一部でここまで見てきた未決——勲五等の由来、教養の履歴——は、何が出れば決まるかを指定できる種類のものであった。ところが湯沐邑の起点は、そうではない。証拠が欠けているというより、唯一の証言である『日本書紀』が、勝った側の文書だからである。同じ書物が、大海人の立太子を巻二十七で記さず巻二十八で記す。この不揃いは、記録の欠落としても、遡及的な構成としても読める。第一部が「決定できる場合」であるのは、安万侶個人の輪郭についてであって、彼の家と王権との関係の起点についてではない。対照条件としての第一部に、ここで一つの限定がつく。
最後に、美濃をめぐる一つの像を検討しておきたい。古代の美濃を鉄の国と見る像である。大海人がまず美濃を押さえたことを、製鉄と武器生産の掌握として理解する読み方——魅力的であり、本章のここまでの議論、すなわち湯沐邑という物質的基盤とも噛み合うように見える。
あらかじめ断っておかねばならない。この像は、広く行きわたっているわけではない。一般向けの解説を通覧しても、大海人がなぜ美濃を押さえたのかについて挙げられる理由は、学界のそれとほぼ一致している——不破道の封鎖、東国の兵力動員、湯沐邑という既存の基盤、現地の豪族との縁[57]。鉄はまず現れない。鉄に触れるものは、管見のかぎり数えるほどしかなく、しかもその内容は一様でない。一つは金生山の赤鉄鉱を大海人の勝因に結びつけ、一つは美濃の「たたらの里」を一豪族の背景として述べるにとどまる[61]。
それでもこの像を取り上げるのは、少数であることのほうが、かえって興味深いからである。右の例は、文言も論点も異なり、互いに引用し合った形跡を持たない。この像は流布しているのではない。素材のある場所で、そのつど独立に立ち上がっている。枠組みは、伝播しなくても、条件が揃えば繰り返し生成される——第十五章と第十七章で、名祖化の操作について述べることの、小さな先取りである。
しかし、「美濃は古代製鉄の一大生産地であった」という命題は、文献史料からも考古学からも支持されない。『延喜式』が挙げる美濃国の貢納品は広絹・絁・紙・陶器であって、鉄はない。全国の古代製鉄の操業開始年代を検討した研究が、操業の確実な地域として挙げるのは備中・備前・丹後であり、美濃への言及はない[59]。辞典類の「美濃国」項にも、産業として製鉄を記すものはない。
ただし素材そのものは実在する。金生山(大垣市赤坂、旧不破郡域)の石灰岩体には赤鉄鉱の鉱脈が露出し、中世には地元の刀鍛冶集団がこれを用いた。不破関跡の発掘では炉壁・羽口・鉄滓が出土している——ただしこれは製錬ではなく鍛冶の痕跡であり、しかも関そのものの設置は八世紀初頭に下るから、六七二年の「不破道」は制度としての関ではなく戦略上の通路である[58]。美濃国一宮・南宮大社は金山彦命を祀る金属神の総本宮である[60]。「鉄の記憶を持つ土地」であることと、「鉄の一大生産地」であることとは、別の事柄である。
この落差は、本稿の主題の実例になっている。「美濃=鉄の国」という枠組みを持ち込めば、これらの素材はただちに一つの像を結ぶ。持ち込まなければ結ばない。資料の側は、そのどちらをも許す。本稿がこの像を採らないのは、それが不当だからではなく、それを支える独立の史料が一つもないからである。学界が大海人の美濃選択について与える説明は三点に集約される。既存の湯沐邑という経済的・人的基盤、東山道の隘路という地理的要衝性、そして東国の兵力動員[57]。鉄は入っていない。
以下の二段は、既存研究による裏づけを欠く試論である。本稿の他の議論はこれに依存しない。
品治から安万侶へ続く家と天武との関係が、位階に現れない〈元従〉の関係であったとする。すると一つの問いが立つ。そのような関係の上に置かれた仕事は、制度の内側に登録されにくいのではないか。『続日本紀』が『古事記』の撰上を記さないこと(第六章)、その帰属が百年のあいだ多氏という家の記憶の水路を通って運ばれたこと(第八章)は、書物の性格の問題であると同時に、それを作らせた関係の性格の問題でもありうる。勅撰でありながら国史でないという『古事記』の両義的な位置は、勅を発した側と受けた側との関係が、そもそも制度の枠に収まらないものであったことの帰結かもしれない。いわば内部文書としての性格である。
だが、これは相関の指摘にとどまる。〈元従〉の関係にあった氏族は多氏だけではないし、それらの家に委ねられた事業が、すべて正史の外に置かれたわけでもない。反証条件を明示しておく。壬申の元従と同型の関係にある他氏族が担った国家的事業のうち、正史に登録されたものが複数見出されれば、この試論は弱まる。逆に、そうした事業が一貫して正史の外に置かれていることが示されれば、強まる。いずれに転んでも結果が出る。ただし、その確認は本稿の範囲を越える。
四、勲五等——文武の間
ここで注目すべきは、安万侶自身の帯びた勲五等という勲位である。この勲位は三箇所に現れる。『古事記』序文末尾の署名「正五位上勲五等太朝臣安萬侶」、墓誌の「従四位下勲五等」、そして後述する弘仁私記序の「従四位下勲五等」——三重の符合である[2][1][6]。
勲等は武功に対して授けられる位である。したがって、勲五等の存在は、安万侶を純然たる文官・文人として描く通俗的な像に修正を迫る。この勲等の由来として、黛弘道は和銅二年(七〇九)の蝦夷征討に副将軍格で参加したとの推測を示している——神亀元年(七二四)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人が勲四等を得て従五位上から従四位下に昇叙された類例が参照される[25]。壬申の乱時の安万侶は年齢的に従軍が考えにくく、和銅二年説には相応の蓋然性がある。いずれにせよ確かなのは、『古事記』を書き上げたその手が、その三年前には(黛説に従えば)軍を率いていた可能性がある、ということである。官歴も同じ像を裏づける。慶雲元年(七〇四)正月、正六位下から二階を越えて従五位下に叙爵(この破格の昇進自体、何らかの功績を示唆する)、和銅四年(七一一)四月に正五位上、同年九月に『古事記』撰録の勅命、和銅八年(七一五)従四位下、最終官は民部卿[3]。文筆の官ではなく、財政・民政を統べる実務の顕官である。
五、教養——設計された文体
では、その漢学の教養はどれほどのもので、どこから来たのか。教養の履歴を直接伝える史料は存在しない。しかし作品からの逆算の材料は、異例に強い。序文は四六駢儷体を踏まえた対句構成の駢儷文であり、これだけなら「漢文の達者な官人」で済む。決定的なのは本文である。安万侶は序において自らの表記方針を宣言する——訓のみで記せば言葉が心に届かず、音のみで連ねれば文が長くなりすぎる。ゆえに「音訓を交へ用ゐ」、あるいは「全く訓を以て録す」と[2]。そしてこの凡例——地の文は訓字主体の変体漢文、歌謡は一字一音の音仮名——を、全三巻にわたってほぼ完全に貫徹する。これは漢文が書けるという水準の事柄ではない。漢字によって日本語を写すという未解決問題に、体系的な解答を設計した水準の事柄である。この表記体系の精密な分析は山口佳紀・沖森卓也らの研究に詳しく、その一貫性こそが、本文と序文を同一の設計意志に帰する有力な内的証拠ともなっている[20][21]。
転写の概念は、右に述べた表記設計の意味を理論的に言い直すことを可能にする。安万侶の凡例——地の文は訓字主体、歌謡は一字一音の音仮名——が全巻を貫くとき、そこで目指されているのは、出来事の内容を漢文で「記録」することではなく、語りと歌の声そのものを文字の上に運ぶことである。訓のみでは言葉が心に届かない、という序文の宣言[2]は、テクストが上演の等価物でなければならないという転写者の自覚の表明として読める。前五五〇年以前の銘文が一人称で語りかけたように、『古事記』の歌謡表記は、読む者の口に原音を再生させる楽譜として設計されている。ここでも日本書紀との対照は鮮明である。正史は書字性へ振り切り、声を捨てて漢文の文書となった。『古事記』は、文字でありながら上演の側に立ち続ける、ナジーの言う意味での転写——上演の補助手段としてのテクスト——なのである。そしてこの設計が可能であったのは、ヘロドトスの伝えるキオス島の挿話——合唱の伝統と文字の教育とが一つの島に並び立っていた——が象徴する声と文字の長い同居(第十四章)が、日本においてもなお『古事記』編纂の前提として続いていたからにほかならない。
ここで、推論の水準を分けておきたい。表記の一貫性は観察である。山口佳紀らが示したのは、序と本文とのあいだの言語的な連続性であり[20]、これは検証可能な事実である。単一の設計意志は、その上に立つ推論である。そして転写者の自覚は、さらにその上に立つ推論である。三つを一続きに語ることはできない。言語的連続性は、同一人物のほかに、同一の書記環境、同一の学統、同一の手本によっても説明されうるからである。一貫性から人格へ、人格から自覚へ——本稿はこの二段の梯子を昇る。昇ることを禁じる理由はないが、昇っていることを明示しないまま昇れば、それは論証ではなく印象になる。
同じ留保は、歌謡の一字一音表記についても必要である。それを「読む者の口に原音を再生させる楽譜」と読むのは魅力的な解釈だが、音数律の保持や固有名の保全という技術的必要からも説明できる。より単純な説明で足りないかを先に問うことは、この種の議論の最低限の作法である。
教養の由来は推定の域を出ない。大学寮制度の整備期に重なる世代であること、多氏という文筆・祭祀の家の伝統、渡来系書記文化との接触——いずれも状況証拠である。しかし前章の勲五等と併せるとき、一つの像が結ぶ。軍を率いうる程度に武の場数を踏み、民部省を統べうる程度に実務に通じ、そして日本語表記の体系を設計しうる程度に文に達した、文武の間の実務官人。『古事記』は、書斎の学者ではなく、この種の官人の手で書かれたのである。
六、続紀の沈黙——献上をめぐる三説
序文によれば、『古事記』は和銅四年九月十八日の元明天皇の詔により撰録され、翌和銅五年正月二十八日に献上された[2]。ところが『続日本紀』は、この撰上をまったく記録していない。対照的に『日本書紀』については、養老四年(七二〇)五月条が「先是、一品舎人親王、勅を奉りて日本紀を修す。是に至りて功成りて奏上す。紀卅巻・系図一巻」と明記する[5]。正史は、一方の史書の完成を国家の事件として記録し、他方を黙殺した。この非対称が、古事記研究の最大の未解決問題の一つである。
あらかじめ断っておく。本稿は、序文の記す日付を事実の報告としては用いない。用いるのは、序文がそのような凝縮された経過として語っているという事実のほうである。第十五章で述べるとおり、この凝縮そのものが観察の対象なのであって、日付の真偽はそれとは別の問題である。
解釈は三つに大別される。(a) 序文偽作説。序文(および撰上の事実そのもの)を平安期の後次的付加とみる。三浦佑之が現代におけるその代表であり、大和岩雄の成立考がこれに先行する[23]。(b) 宮廷内部書説。献上はされたが、『古事記』は対外的な国史ではなく、帝紀・旧辞の勅撰整定本という宮廷内部の書であったため、正史に登録されなかったとみる。『古事記』と『日本書紀』を同一事業の前後ではなく別個の企てとして読む神野志隆光の議論と親和的である[22]。(c) 非網羅説。『続日本紀』の記事はそもそも網羅的でないとする消極的説明。
墓誌発見後の形勢は、次のように要約できる。安万侶の実在は確定した。序文の真偽については、山口佳紀の語法分析が序と本文の言語的連続性を示したこともあり[20]、真作説が優勢である。しかし『続日本紀』の沈黙という一点は、いかなる説によっても完全には解消されておらず、(a)説が学界の一角に保持され続ける根拠であり続けている。本稿は、第二十章で論じる両書の性格の違い(対外的な正史として政治的合意の調達を要した『日本書紀』と、稗田氏という一つの窓口に集約された物語を書き記せばよかった『古事記』)を踏まえ、(b)説を基本線とするが、沈黙が未解決であることは明記しておく。「献上されていないのではないか」という直観は、正確には「献上されたが、国家の書としては扱われなかった」へと定式化されるべきものである。
七、弘仁私記序——日本書紀への関与と勲五等の符合
安万侶と『日本書紀』の関係を語る史料は、ただ一つである。九世紀の弘仁私記序——嵯峨朝の日本紀講筵の講義録の序——は、日本書紀を「一品舎人親王(浄御原天武天皇第五皇子也)、従四位下勲五等太朝臣安麻呂等(王子神八井耳命之後也)、勅を奉りて撰する所なり」と記す[6]。『続日本紀』の側は、和銅七年(七一四)に紀清人・三宅藤麻呂への国史撰修の詔を、養老四年に舎人親王による奏上を記すのみで、安万侶には触れない[3][5]。私記序は孤立した証言である。
しかし、この孤立した証言には驚くべき符合がある。私記序が安万侶に付した「従四位下勲五等」の勲位は、『続日本紀』からは得られない情報でありながら、千百年余りのちに出土した墓誌の記載と一致した。九世紀の筆者が、正史に載らない正確な人事情報を保持していたことになり、この符合は私記序の史料価値を大きく引き上げた。あわせて、養老五年(七二一)の第一回日本紀講書において安万侶が博士を務めたとの伝えがある(典拠は私記類の系統であり、なお精査を要する)[26]。講書の博士は、完成した書紀の内容と訓みを朝廷で講じる役であり、編纂の外部にいた人物には担いがたい。以上から、「日本書紀にも深く関与した知識官人」という理解は、現在ではかなり有力である。
ただし、一致が示すことの範囲は限定しておかねばならない。位階の一致が示すのは、多人長が正史外の家伝を保持していたということであり、彼の撰者証言が正しいということではない。同じ事実は逆にも読める——家伝を持つ家であればこそ、精巧な顕彰も可能だったのだ、と。多人長は当事者であり、自家の顕彰という動機を持つ。その孤立証言を、他の史料による裏づけなしに採ることには、それ自体の危険がある。本稿が肯定的な読みを採るのは、否定的な読みを排除できたからではなく、肯定的な読みのほうが墓誌・続紀・序文の他の所見と整合するからである。この選択の理由を明示しておく。
ただし、関与の質については限定が必要である。森博達の区分論——書紀の漢文をα群(渡来唐人続守言・薩弘恪らの正格漢文)とβ群(山田史御方ら倭人の漢文)に層別する分析——に照らせば、安万侶が本文の述作者であった形跡は認めがたく、関与したとすれば資料(帝紀・旧辞群)の整理・監修の側と考えるのが穏当である[24]。また、しばしば通俗的に語られる「安万侶は書紀編纂に際して古事記を底本ないし参考として用いた」という想定について付言すれば、両書の神名表記・系譜所伝・説話の取捨の相違は大きく、共通部分は原資料(帝紀・旧辞群)の共有によって説明されるのが通説であり、書紀による古事記の直接利用は証明されていない。二書は、同じ資料圏に立つ別個の企てとして併走したと見るべきである[22]。
八、多人長——家の記憶としての古事記
最後に、死後の伝来である。『古事記』を安万侶の撰と伝える最古の外部証言は、実は前章の弘仁私記序そのものである。そしてその筆者・多人長は、安万侶の子孫、多氏の後裔であった。嵯峨朝の日本紀講筵の講師を務めた人長は、講義録の序において、書紀の撰者として先祖の名を掲げ、あわせて『古事記』の存在と安万侶の撰録を書き留めた。すなわち『古事記』という書物の帰属は、成立からおよそ百年のあいだ、正史にも公文書にも登録されぬまま、多氏という家の記憶の水路を通って運ばれ、弘仁の講筵において、子孫の手で初めて公的な文字に固定されたのである。
多氏のその後の継続が、日本紀の講書・訓読の学と、御神楽の楽家(第十八章)という二筋であったことも、この文脈で見直されてよい。正史の編纂陣に多氏の名はない。彼らが担い続けたのは、書くことではなく、読み、訓み、奏すること——すなわち伝えることであった。ここに、第二部 の中心命題への円環がある。阿礼集団論は、『古事記』の内容が制度化された伝承の担い手(猿女君・稗田氏)によって集積されたと論じた。いま明らかになるのは、その『古事記』が、自らの作者の名すら、同じ様式で——家的・伝承的な水路によって——運んだ書物であるということである。内容も、帰属も、伝承が運んだ。集団論のテーゼは、書物の外部においてもう一度検証されたことになる。
ここに、第二部の主題への環がある。ただしこれは検証ではない。帰属の情報が家伝によって運ばれたという事実は、内容がどのように集積されたかについては何も語らないからである。環と呼びうるのは、同じ家が、書物の内側でも外側でも記憶の運搬者として現れるという構図の相似だけである。相似は、証明ではない。
九、小結——ここまでで何が決まったか
四つの物証から結ばれる像を総括する。太安万侶とは、天武の帝業の最初の動員を担った湯沐令の家に生まれ、武功の勲位を帯び、破格の昇進を経て民政の顕官に至り、そのかたわらで日本語を漢字で写す体系を設計し、正史の登録の外側で一冊の書物を書き上げ、正史(日本書紀)の編纂にはおそらく資料の側から関与し、没後はその名を家の記憶によって百年運ばれた官人である。書斎の文人でも、廟堂の武人でもない。文武の間、正史と伝承の間、家と国家の間——『古事記』という書物の両義的な位置(勅撰でありながら国史でない)は、この筆録者自身の両義的な位置の、正確な写しなのかもしれない。
決まったことを数え上げておく。実在。墓誌が確定した[1]。没年月日。養老七年七月六日[1][3]。最終官位。民部卿従四位下勲五等。位階の推移。慶雲元年から和銅八年まで三点[3]。武功の勲位を帯びていたこと。三箇所に一致して現れる[1][2][6]。氏族。多氏[7]。これらはいずれも、複数の独立した史料が支えている。
決まらなかったことも数え上げておく。勲五等の由来。推測にとどまる[25]。教養の履歴。直接の史料がない。『続日本紀』の沈黙の理由。三説のいずれによっても完全には解消されない。『日本書紀』への関与の質。孤立証言に依拠する[6]。
そして、これらとは別に、湯沐邑の起点。美濃安八磨郡の湯沐邑がいつ大海人のものになったのかは、立太子記事の不在という、より深いところにある不揃いに突き当たって決まらない(第三章)。
しかし注意すべきは、決まらなかったことの性質である。これらはいずれも、ありうる証拠が現に欠けているという種類の未決である。勲五等の授与記事が発見されれば決まる。大学寮の名簿が出れば決まる。『続日本紀』編纂時の目録が出れば決まる。すなわち、何が出れば決まるかを指定できる。
ただし、湯沐邑の起点だけは、この数え上げに収まらない。そこで欠けているのは文書ではなく、唯一の証言が当事者の側の文書であるという構造そのものである。第一部のうちに、すでに第二部の未決が一つ混じっている。第二部で見るのは、この種類の未決が資料体の全体を覆ったときに何が起こるか、である。
十、資料体を数え上げる
阿礼について、実際に存在する史料を数え上げることから始める。網羅は容易である。多くないからである。第一に、古事記序文の当該箇所[2]。第二に、猿女君・稗田氏の系譜に関わる断片。第三に、大嘗祭における諸国語部の古詞奏上という制度の記録[31][32]。第四に、中世以降の稗田環濠集落と賣太神社に関する史料[9][10]。これで尽きる。正史にこの名はなく、墓誌はなく、位階の記録もない。
『古事記』序文によれば、天武天皇は「帝紀」「旧辞」の誤りを正すため、稗田阿礼に「誦習」させたという[2]。この「誦習」の語義——音読か暗誦か——をめぐる論争自体が、成立論の核心をなす。西宮一民の立場は、誦習を既存の文字資料の訓を確定する作業と読み、口誦は文字資料への「訓読の固定」という限定的な機能を担ったとする[27]。これに対し、口誦の迂回そのものを権威付けのための構築(すでに文字化されていたはずの帝紀・旧辞を、あえて口誦という古式の手続きに委ねたことにする神話)と見る読みも根強く、三浦佑之は序文そのものを平安期の後次的付加とまで論じている[23]。
本稿はこの論争に直接踏み込むのではなく、いずれの立場をとるにせよ共通して前提とせざるをえない一点に注目する。すなわち、帝紀・旧辞という「国家の系譜と伝承」がまとめられる以前に、それを構成する無数の個別の物語群——地方ごとの英雄譚、悲恋譚、氏族の起源譚——が、口頭の伝承として先行して存在していなければならないという点である。大嘗祭において諸国の語部(かたりべ)が古詞を奏したという儀式次第の記録[31]は、地方に根ざした語りの担い手が、少なくとも祭祀制度の中に組み込まれる形で存在したことを示している。この語部の伝承と、宮廷における帝紀・旧辞の編纂とは、直接には別の系統でありながら、同じ「語りを保持し伝える」という技能の基盤を共有していたと考えるのが自然である。
すなわち『古事記』の成立を考える際には、少なくとも二つの水準を区別する必要がある——(一)村々・地方に分布する、無名の、あるいは氏族単位で継承される語りの基層(本稿冒頭で想像した「たき火」の情景に対応する)、(二)その基層から選び取られ、宮廷における国家的な系譜(帝紀)と結び付けられて再編される、より上位の水準。「誦習」の議論が扱っているのは専らこの第二の水準であり、第一の水準——語りがそもそもどのように生成し蓄積されたか——は、『古事記』研究において十分に主題化されてこなかった論点である。本稿の関心は、まさにこの第一の水準から第二の水準への移行にある。
十一、四つの読み
この資料体の上に、これまで少なくとも四つの読みが立てられてきた。第一、実在の個人と読む読み。序文の記述形式を報告の形式として受け取り、二十八歳の舎人という具体性をそのまま人物の輪郭とする。第二、女性祭祀者と読む読み。猿女君系譜との接続を重く見る。柳田國男・西郷信綱の阿礼女性説がこれに属する[28]。第三、職掌名ないし集団の名祖と読む読み。個人名ではなく、記憶専門職の職掌ないしその名祖と見る。第四、序文そのものを後次的付加と見て、問いを解消する読み。三浦佑之がこの立場を代表する[23]。
四つを並べたとき、目を引くのは、いずれもが同じ十数字の上に立っているという事実である。序文が阿礼について語るのは、身分(舎人)、年齢(二十八)、能力(度目誦口、拂耳勒心)、そして勅命との関係だけである。この十数字から、実在の若者も、女性祭祀者も、職掌の名も、後代の造作も引き出せる。引き出せるということは、十数字がそれ自体では何も決めていないということである。
ここで注意すべきは、四つの読みが「解釈の自由」によって生じたのではないという点である。四つはそれぞれ、外部から異なる枠組みを持ち込んでいる。第一の読みは序文の記述形式についての枠組みを、第二の読みは系譜史料の接続についての枠組みを、第三の読みは他文明における名祖化の類例という枠組みを、第四の読みは序文の成立年代への疑いという枠組みを持ち込む。枠組みが結論を決め、資料はそのいずれをも許した。
十二、なぜ決まらないのか——語彙的方法とその限界
決着がつかない理由の一半は、「阿礼」という語そのものにある。
この語を職掌名と読む説は、これまで語義論の裏づけを十分に与えられてこなかった。上代語における「あれ」の語義(現る・生る)に阿礼を接続する読みは折口信夫に遡るが、それが職掌名の造語法として他の職掌名——語部、卜部、忌部——と同じ系列に置けるかは、なお検討を要する。他方、個人名と読む説にも、「稗田阿礼」という表記が氏+名の形式であることを積極的に示す用例の比較はなされていない。すなわち語のレベルでは、どちらの説も十分な根拠を持っていない。
ここで、ホメロス研究における一つの方法批判が参考になる。リチャード・ガスキンは一九九〇年、ブルーノ・スネルの依拠する推論の形式を語彙的方法(lexical method)と名づけ、こう定式化した[44]。
…the inadequacy of the so-called lexical method, upon which Snell relies, the principle that if a culture doesn’t have a word for a thing, then it does not recognise that thing’s existence.
いわゆる語彙的方法──スネルが依拠している、ある文化がある事物についての語を持たないならば、その文化はその事物の存在を認識していない、という原則──の不十分さ
この原則は成り立たない。ある語がないことは、その語の指すはずのものがないことを意味しないからである。そして阿礼の場合、事態はその裏側にある。語はある。しかし語があることも、また何も決めない。「稗田阿礼」という表記の存在は、その名の指すものが個人であったことを含意しない。語彙的方法は、不在からの推論としても、存在からの推論としても、同じだけ脆い。
十三、文字を持ちながら使わないこと——ドルイドの事例
日本の宮廷が文字文化を全面的に受け入れるのが推古朝・聖徳太子期まで下ることの背景を考える上で、比較資料として大陸ケルトのドルイドの事例が示唆的である。カエサル『ガリア戦記』六・一四によれば、ガリア人は公私の記録には日常的にギリシア文字を用いていたが、ドルイドの教義だけは文字に記すことを不適当と考えていたという[16]。理由としてカエサルが挙げるのは、教義が民衆の共有知識になることを望まなかったこと、そして文字に頼ることで記憶力が衰えることを恐れたことの二点である。すなわちこれは、文字を知らなかった社会ではなく、実務の水準では文字の利便性を十分に知りながら、教義・伝承という中核的な知の水準だけをあえて口誦に留め置いた、選択的な使い分けの事例である。
この選択が、単なる文化的保守性ではなく、ローマという書記的・中央集権的な権力との間に現実の政治的摩擦を生んだことは、複数の史料が伝えている。プリニウス『博物誌』は、ティベリウス帝の治世に元老院決議によってガリアのドルイドおよび「かの種の占い師・治療師」全般が禁圧されたと記す。スエトニウス『ローマ皇帝伝』は、クラウディウス帝がガリアにおけるドルイドの「野蛮にして非人道的な宗儀」を完全に廃止したと伝える。タキトゥス『年代記』は、紀元六一年、スエトニウス・パウリヌス率いるローマ軍がブリタンニアのモナ島(アングルシー)のドルイドの拠点を急襲し、聖なる森を破壊した次第を記録している[17]。近年の研究は、カエサル自身がガリア戦記の中でドルイドの役割を不自然なまでに軽視して描いていることに着目し、これをガリア人の洗練度と対ローマ的脅威を過小評価させるための意図的な情報操作と解釈している——ドルイドは同時代においても帝政初期においても、反ローマ的抵抗の有力な結節点であった可能性が高いというのである[36]。ローマ側から見て、ドルイドは単なる宗教的奇習の担い手ではなく、部族間の裁定・教育・法の担い手として現実の政治的権威を握る存在であり、それゆえに繰り返し法的に標的とされたのだと理解できる。現代の標準的研究としては、弾圧の経緯と後世の受容史を包括的に扱うハットンの浩瀚な研究がある[37]。
この経緯は、ピエール・クラストル「国家に抗する社会」の枠組み——語り(口頭伝承)の独占が権威の配分構造そのものである、という仮説——を、単なる理論的示唆から実証的な事例へと引き上げてくれる。ローマがドルイドを標的化した事実そのものが、文字を持つ中央集権的権力にとって、口誦による知の独占体制がいかに手強い対抗勢力になりうるかを証明しているのである。日本の場合、記紀編纂までの過程でこれに相当する明示的な法的弾圧の記録は伝わっていないが、宮廷が文字文化の全面的導入を推古・聖徳太子期まで留保し、その一方で交易・外交の実務レベルではすでに文字が用いられていたという非対称は、ドルイドの事例と構造的に同型であり、稗田氏・猿女君系の語りの集団が担っていた知の独占が、文字化(国家的な帝紀・旧辞への統合)に対して一定の慣性・留保として働いた可能性を、比較の観点から支持する。
ここで、文字化に直面した口誦者の側の心情にも想像を及ぼしておきたい。大嘗祭において諸国の語部を統轄し、地方の口誦者たちの中にあって唯一、宮廷の中枢に直接仕える立場にあった稗田(猿女君)系の集団にとって、その立場は栄光の極みにあったはずである。文字化とは、この栄光を恒久化する栄誉であると同時に、長期的には自らの存在意義そのものを掘り崩す作業でもあった——事実、大嘗祭における語部の古詞奏上という制度は、奈良時代にはすでに形式化が進み、平安期を通じて儀礼的な残存へと縮小し、最終的には室町期の永徳三年(一三八三)頃に廃絶したとされる[32]。文字に記された瞬間から、記憶を保持し語ることそれ自体の価値は、原理的に目減りを始める。稗田氏(ないし阿礼)が、この道行きの全体を見通していたとは考えにくいが、目先の栄誉と長期の自己解体とが表裏一体であることへの、ある種の逡巡や苦渋が、協働の過程に伴っていたであろうことは想像に難くない。
この想像に立つならば、本稿がここまで「外圧」と呼んできたものの性格も、再考を要する。それは天武・元明という特定の君主の一回限りの命令に尽きるものではなく、大陸由来の文字文化が交易・外交から徐々に宮廷の内部へと浸潤していく、押しとどめがたい時代の趨勢——個々の口誦者や氏族が抗おうとしても抗いきれない、構造的な力の流れ——として捉え直すべきものだったのかもしれない。ドルイドがローマの軍事的・法的圧力という、より急峻で可視的な外圧に晒されたのに対し、稗田氏の側が向き合っていたのは、より緩慢で不可視な、しかし同じように不可逆な力だったと言えるだろう。天武・元明の勅命は、この長期的な趨勢が具体的な事業として結晶する契機ではあったが、趨勢そのものを作り出した原因ではない。稗田集団にとっての「決断」があったとすれば、それは外圧に抗うか従うかの二者択一ではなく、いずれにせよ避けがたい趨勢の中で、いつ、いかなる形で、自らの手でその移行に関与するか、という選択だったのではないか。
十四、比較の座標——ホメロスの三段階
以下に述べるギリシアの三段階——遍歴する語り手、宮廷ないし都市に専属する詩人、そして職掌集団(ホメリダイ)——は、実証された発展段階ではない。これは筆者の整理であり、この三段階そのものへの直接の記録は、ギリシアのテクストが証言する範囲を超えている。したがって本稿はこれを、日本もそうであったことの根拠としては用いない。用いるのは座標としてである——日本の資料体のどこに何があり、どこが空白であるかを見るための目盛りとして。この作法は、別稿でシャーマニズムを扱った際に採った作法と同じである。座標を与えて初めて、「阿礼は集団である」という命題は検証の対象になる。
文字を持たない、あるいは文字を持ちながらそれを選ばなかった時代の日本人が、日の暮れたのちをどう過ごしていたかを想像することから、本稿を始めたい。たき火を囲み、神武の英雄譚や、允恭朝の悲恋——軽太子と衣通姫の物語——が、幾度も語り直されていたであろうことは、想像に難くない。そこにはおそらく、語り部という制度化された職能である以前に、単に話のうまい年寄りが、村ごとに自然発生的に存在していたはずである。本稿の課題は、この村々の語りの集積が、いかにして「稗田阿礼」という一個の固有名(あるいは職掌名)に収斂し、さらに太安万侶という一個の筆録者の手を経て『古事記』という一冊の書物になったのか、その経路を可能な限り具体的に描き出すことである。
手がかりとして、ホメロスの世界に目を向けよう。『オデュッセイア』第十七歌には、占い師・医者・大工と並んで詩人(アオイドス)を数える一節があり、彼らはデーミオエルゴイ(demioergoi、共同体のために働く者)として、特定の土地に縛られず、広く各地の共同体に迎え入れられる遍歴の職能者と規定されている[12]。他方、同じ『オデュッセイア』にはイタケの宮廷に仕えるペーミオス、パイエーケス人の宮廷に仕えるデーモドコスという、王侯に扶養される専属詩人も描かれる。そして後代、キオス島のホメリダイ——「ホメロスの子孫」を称する吟誦者ギルド——は、パンアテナイア祭という国家儀礼での演唱権を独占する、さらに制度化された段階を示す[18]。整理すれば、ギリシアの口承詩の担い手には(一)村々を渡り歩く無名の遍歴詩人、(二)宮廷に扶養される専属詩人、(三)国家儀礼を独占する詩人ギルド、という三段階が識別できる。
この三段階そのものへの直接の記録は、ホメロスのテクストが証言する範囲を超えるものではない。「たき火を囲んで」という民衆レベルの具体的情景そのものは、いかなる古代テクストも書き残してはいない。ここで最良の傍証となるのが、二十世紀のフィールドワークである。ミルマン・パリーとアルバート・ロードが一九三〇年代にユーゴスラヴィアで行った調査[19]は、叙事詩の弾き語り師(グスラル)の多くが特別な身分を持たない普通の村人であり、腕前には大きな個人差があり、コーヒーハウスや家々の集いでの即興的な演唱を通じて技を学び合っていたことを明らかにした。文字記録には決して残らない「村の語りの生態」を推測するための、現在なお最良の類推材料である。西アフリカのグリオの世襲制、そして文字を持ちながら数百年にわたりヴェーダを口誦のみで伝えたバラモンの事例も、この比較の環に加えることができる[43]。
本稿がこの三段階を用いるのは、日本もまた同じ三段階を経たと主張するためではない。用いるのは、稗田氏・猿女君の系譜と、『古事記』序文が語る阿礼の物語とを、この目盛りの上に置いてみるためである。置いてみて何が見え、何が見えないかを確かめること——それが以下の課題である。
稗田阿礼を猿女君氏(天鈿女命の後裔、女性祭祀者集団)に結びつける系譜があり、柳田國男や西郷信綱の阿礼女性説もこの文脈に属する[28]。大和郡山の稗田の地の賣太神社が阿礼を祀ることは地誌的な傍証となる。「阿礼」を個人名ではなく、猿女君ないし語部系集団の中の記憶専門職の職掌名・称号と見る仮説は、前章で確認した大嘗祭での諸国語部の古詞奏上という儀式次第の記録と整合する——すなわち阿礼は、地方語部の伝承を宮廷の祭祀機構の中で集約する立場にあった職能、ないしその職能を担う集団の名祖であったと考えられる。
ここで、第三の読み(職掌名・名祖説)を、この座標の上に展開してみる。地方に分布する無名の語り手たち(第一段階、遍歴的・自然発生的)の伝承が、猿女君のような宮廷に直属する祭祀芸能集団(第二段階、専属)によって集約・整理され、その集団内部の記憶専門職(あるいはその名祖)として「阿礼」という名が立てられた、という筋である。序文の「舎人」という官職表記と「年二十八」という若さの記述は、この筋において、個人としての阿礼の実在を示す証拠というよりも、宮廷に組み込まれた集団の職掌を、後代の編纂者が一人の人物として物語化する際に付与した、具体性を与えるための修辞と見ることができる——これは序文の年代・命令系統への疑念(既往の議論)とも整合的である。
比較の側では、ホメロス伝承を担ったキオスのホメリダイ(第三段階、ギルド)が、「一人の天才的記憶者」という神話の背後に制度的集団を見る視点を支持してくれる。グレゴリー・ナジーのホメロス進化モデル[18]は、「ホメロス」なる個人をホメリダイが遡及的に投影した名祖と見て、テクストはパンアテナイア祭での演唱規制という国家儀礼を通じて数世紀かけて結晶したと論じる。ペイシストラトス校訂の伝説が果たした「権威付け神話」の役割は、『古事記』序文のそれと構造的に相同である。この比較に従えば、「阿礼=稗田・猿女系芸能集団の職掌ないし名祖」という仮説は、「阿礼は日本のホメロスである」——個人ではなく伝統の人格化である——という命題として定式化できる。しかも美しい環がある。猿女君の職掌神話は天岩戸の前で舞うアメノウズメであり、伝承集団自身の芸能の起源譚(charter myth)が、伝承の内部に語り込まれているのである。伝承者が自らの存在理由を伝承の内部に書き込んでいるというこの構造は、集団説の内在的証拠として使える。
この「演唱規制」がいかなる経緯で成立したのかは比較の要をなすので、いま少し立ち入って述べておく。叙事詩の演唱が都市国家の政治的統制の対象となりうることは、アテナイに先立って僭主政期のシキュオンに確認できる。ヘロドトスによれば、シキュオンの僭主クレイステネスはアルゴスとの抗争に際し、ホメロスの詩が随所でアルゴスとアルゴス人を讃えているという理由で、吟誦者(ラプソドス)の競演そのものを禁止した[14]。いかなる系譜を讃え、いかなる土地を顕彰するかという点で、叙事詩の演唱は前六世紀の初頭からすでに高度に政治的な行為だったのである。アテナイの規制はこの延長上にあるが、方向は逆であった——禁止ではなく、独占と標準化である。前五六六年頃の大パンアテナイア祭の再編によって体育競技と並ぶ音楽・朗誦の競技が整備され、やがてこれに三つの古代証言が伝える演唱規則が接続する。第一に、ソロンがホメロスの朗誦を「ヒュポボレーにより」——先の者が止めた箇所から次の者が始めるように——定めたとする伝承(ディオゲネス・ラエルティオスが、メガラの史家ディエウキダスを典拠として伝える)。第二に、ペイシストラトスの子ヒッパルコスが初めてホメロスの詩をアッティカにもたらし、パンアテナイア祭の吟誦者たちに「順番に、引き継ぎながら」(ἐξ ὑπολήψεως ἐφεξῆς)全篇を通して演唱するよう強制した、しかも「今日なお行われているとおりに」とする偽プラトン『ヒッパルコス』の証言。第三に、祖先は四年ごとの大パンアテナイア祭においてあらゆる詩人のうちホメロスの詩のみを演唱すべしと法で定めた、とする前四世紀の弁論家リュクルゴスの証言である[13]。
これらの規則の含意は重大である。吟誦者とは本来、聴衆と場に応じて任意の挿話を選び、変奏して演唱する存在であった。演唱規制はこの自由な選択を禁じ、複数の吟誦者が接続しながら全篇を固定された順序で通し上演することを義務づける。この規則が機能するためには「どこからどこまでが全篇か」「挿話はいかなる順序で続くか」があらかじめ共有されていなければならず、逆にいえば、規則の反復適用そのものが、流動する口承の多形態(multiform)を一つの固定された配列へと結晶させてゆく。古代の伝承はこの結晶化を、「ペイシストラトスが、それまで散乱していたホメロスの巻々を今日あるように初めて配列した」(キケロ)という一回的な校訂事業として記憶し[13]、近代文献学もヴォルフ『ホメロス序説』(一七九五)以来この「ペイシストラトス校訂」の実在をめぐって争ってきた。ナジーの進化モデルはこの構図を転倒する——テクストの編集が演唱を規制したのではなく、演唱の規制が数世代をかけてテクストを生んだのであり、「校訂」の伝説は、長期の集合的過程の完成した結果を、一人の権力者の一回の事業へと遡及的に凝縮した権威付け神話である[18]。なおこの標準化が無色でなかったことは、当のメガラ側からの告発——アテナイ人がサラミス領有の根拠とするために『イリアス』の船団表にアイアスの一行を挿入した——が古代に伝えられていることからも知られる[14]。国家儀礼による口承の固定は、常に固定する者の利害を刻印するのである。
この過程を『古事記』の側に折り返せば、対応は明瞭であろう。天武天皇の勅による帝紀・旧辞の「誦習」は、機能的にはパンアテナイア規則と同型の、国家による演唱内容と配列の固定である。文字テクストの完成(和銅五年)に先立ち、誦習の段階で「何を、いかなる順序で語るか」の標準化が遂行されていたとすれば、阿礼(個人であれ集団であれ)の担った作業は、ギリシアの吟誦者たちが演唱規制のもとで数世代かけて遂行した結晶化の、勅命によって圧縮された版だということになる。前段で述べたペイシストラトス校訂伝説と『古事記』序文との相同は、この機能的同型性によって裏打ちされる。
この結晶化が進行した環境そのものについて、ヘロドトスが書き留めた一つの挿話を添えておきたい。『歴史』六・二七によれば、イオニア反乱の破局に先立つ頃のキオス島で、二つの惨事が相次いだ。デルポイに派遣された百人の若者からなるコロスのうち九十八人が疫病に斃れて帰らず、時を同じくして島の町では、文字を学んでいた子供たちの上に校舎の屋根が崩落し、百二十人のうち生き残ったのはただ一人だったという[15]。ヘロドトス自身はこれを島を襲う大禍の前兆として記すのだが、この記事が期せずして証言しているのは、ホメリダイを擁するまさにこの島において、前五〇〇年前後、共同体が百人規模のコロスを養成する合唱の伝統と、百二十人の子供を集める文字の教育とを、並び立つ二つの制度として同時に維持していたという事実である。二つの惨事を、口承的で包摂的な合唱の伝統と書字中心の教育との分裂の象徴として読んだのはナジー自身であり、その考察の紹介は姉妹篇のナジー案内に述べた[15]。すなわち口承の結晶化とは、声の文化が滅んだ後に文字が到来するという交替劇ではなく、歌と文字とが一つの共同体の中に長く同居する時代のただなかで進行した過程なのである。
日本の状況も、規模と形態を異にしながら、同じ同居の構図を示している。実務・外交の水準では推古朝以前から文字が用いられ(第十三章)、他方で大嘗祭における諸国語部の古詞奏上(第十章)や、猿女君系集団が宮廷祭祀の場で担った歌舞のように、口承の芸は国家儀礼のさまざまな場面で披露され続けていた。日本にコロスという制度はなく、阿礼集団が合唱隊として振る舞うことはなかったにせよ、語りと歌と舞の声は、文字が官府に浸潤してゆく幾世代もの間、宮廷と村々の双方で鳴り続けていたはずである。『古事記』の編纂という大事業は、文字が声を駆逐し終えた世界においてではなく、キオス島と同じく声と文字とが並び立つ長い移行期の只中で、その並存の上に築かれたのであった。
十五、名祖化という操作
四つの読みのいずれを採るにせよ、資料体の側に一つ、否定しがたい特徴がある。古事記序文は、長期にわたるはずの過程を、一つの勅命と一人の名と数箇月の作業へと凝縮して語っている。和銅四年九月の詔から翌五年正月の献上まで、序文の語る経過はわずか四箇月である[2]。
ここで、「撰録」という行為そのものを理論的に照らし直しておきたい。鏡とするのは、グレゴリー・ナジー『Homeric Questions』が提示した、口承から筆録に至る過程の分析である[18]。第十四章は、ナジーの進化モデルの制度的側面——パンアテナイア祭の演唱規制が数世代かけて口承の多形態を固定配列へ結晶させたこと——を『古事記』の誦習に折り返した。本章はその筆録の側面、すなわち「書き取る」という行為の理論を扱う。ナジーの議論の骨格は三点に要約できる。第一に、口述筆記説への批判。ロードが唱えた「生きた歌い手が誰かに口述し、書き取らせた」というホメロス文字化のモデルに対し、ナジーは、前七世紀末には始まっていた叙事詩の広域伝播をこの説では説明できないこと、そして生きた口承伝統の実地経験において、口述筆記は書き取られたその瞬間に当の歌の上演可能性を殺してしまうことを指摘する。第二に、転写(transcript)の概念。前五五〇年頃までのギリシャの詩的銘文は上演の「記録」ではなく、それ自体が一人称で語りかける「上演の等価物」として書かれており、また僭主ペイシストラトス一族による神託詩の所有と管理が示すように、この時代に転写があったとしても、それは上演の代替物ではなく補助手段であって、書字が作曲の前提だったことを示す証拠はない。第三に、「散逸再集成」の神話類型。散らばり損なわれたテクストを賢者たちが王権のもとで持ち寄り再編するという物語型が、ペルシャの『王書』、アイルランドの『クアルンゲの牛争い』回収譚、インドの諸叙事詩、スパルタのリュクルゴス伝承、そしてアテナイの「ペイシストラトス校訂」伝説に共通して見出され、いずれも長期の集合的進化を一回限りの劇的な事業へと凝縮する、文化英雄への遡及的投影であり、とりわけ僭主家の政治的自己正当化として機能したという分析である[18]。
この三点を『古事記』に当てると、まず視界が開けるのは序文である。諸家のもたらす帝紀・本辞はすでに正実に違い、多く虚偽を加えている、ゆえに偽りを削り実を定めて後葉に流べさんとす——序文が伝える天武の詔[2]は、ナジーの挙げる「散逸再集成」の物語型の、教科書的な一例にほかならない。損なわれた伝承、王の憂慮、選ばれた仲介者(阿礼)、正しいテクストの回復という構成要素は、『王書』の断片再纂からペイシストラトス校訂伝説まで、ナジーが並べた系列にそのまま連なる。ただし一つ、決定的な違いがある。ギリシャの校訂伝説は、実際の結晶化過程から数世紀を隔てて後代に形成された神話であるのに対し、『古事記』では、この正統化の物語を、固定の当事者である筆録者自身が、固定のその瞬間に書いている。安万侶は日本版ペイシストラトス伝説の登場人物であるだけでなく、その作者なのである。このことは序文の史料的価値を貶めない。むしろ序文を、過程の中立的な報告としてではなく、権威付けの物語型に則って構成された文書として読むべきことを教える——そしてその物語型が「一回の勅命による一挙の回復」を要求する以上、序文の語る圧縮された経緯の背後に、阿礼段階の長期の集団的集積(第二十章)を想定することは、序文への不信ではなく、ジャンルの正しい読解だということになる。
この凝縮は、日本に固有のものではない。ギリシアには、それまで散乱していたホメロスの巻々をペイシストラトスが今日あるように初めて配列した、という伝承がある[13]。グレゴリー・ナジーはこれを、演唱規制のもとで数世代をかけて進行した集合的過程の完成した結果を、一人の権力者の一回の事業へと遡及的に凝縮した権威付け神話として読む[18]。
本稿が積極的に主張するのは、次の一点に限られる。長期の集合的過程を一人の名と一回の事業へ凝縮する操作は、実在する。そしてその操作の跡は、古事記序文にも、ペイシストラトス伝説にも、同じ形で残っている。
この主張は反証可能である。次の証拠が出れば斥けられる——(一)古事記序文の語る経過が実際の編纂日程と一致することを示す外部史料。(二)ペイシストラトス伝説が、後代の凝縮ではなく同時代の記録に遡ることの証明。(三)序文の記述形式が、当時の他の上表文と比べて凝縮の度合いにおいて特異でないことの実証。
なお、この主張は「阿礼が集団であった」ことを含意しない。凝縮の操作が働いていたとしても、凝縮される前に一人の非凡な誦習者がいた可能性は排除されない。操作の存在は、操作の対象の性質を決めないのである。
十六、後代の読み手が阿礼をどう作ったか
ここまでの議論では、序文が阿礼を「年是二十八」と記す一節を、主として事実の記載として——実在の人物の年齢として、あるいは後代の編纂者が具体性を与えるために付与した修辞として——扱ってきた。しかし、この年齢がテクストの受け手にどう響いたかという観点からの検討も必要であろう。二十八歳という年齢は、当時の年齢感覚に照らせば、職務についてはすでに一人前として遜色ない習熟に達していながら、なお老成しきってはおらず、新しい大事業に取り組む活力と柔軟性をなお十分に残している年齢として響いたはずである。老齢の碩学でもなく、未熟な若年でもない——この年齢設定は、阿礼という人物(あるいは職掌)に「信頼に足る成熟」と「新しい事業への適性」という、本来両立しにくい二つの印象を同時に与える、きわめて巧妙な人物造形として機能する。序文の作者(たとえそれが後次的な付加であったとしても)が、数ある年齢の中から二十八という数字を選んだのだとすれば、それは事実の報告としてよりも、読み手にどう受け取らせたいかという修辞的計算の産物として読む方が、テクストの効果に忠実であるように思われる。
最後に、序文が阿礼に与える「舎人」という官職表記についても一言しておきたい。舎人は原則として、大王(天皇)に近侍する男性の従者を指す官職であり[33]、一族の代表として大王に直接仕える立場は、通例、男性が担うものであったと考えるのが自然である。この点は、猿女君という女性祭祀者集団を背景に阿礼女性説を論じる西郷信綱らの読み(第十一章既出)と、必ずしも矛盾するものではない。すなわち、猿女君系の集団の内部では女性の記憶専門職が中心的な役割を担っていたとしても、その集団を代表して宮廷に対外的に立ち、大王に直接仕える窓口としての「舎人」という顔は、男性が務めるのが自然であった、という二重構造を想定することができる。序文が「阿礼」という一個の「舎人」を名指すのは、この対外的な窓口の相(男性・個人的・公的)を切り取ったものであり、その背後にある集団の実質(女性を含む記憶専門職の集合体)とは、必ずしも一致しない——この不一致こそ、阿礼の性別をめぐる議論がすれ違いを続けてきた根本の理由なのかもしれない。
十七、近代における阿礼の再制作
凝縮の操作は、古代に一度起こって終わったのではない。必要が生じるたびに反復される。そのことを、阿礼の場合には現地の史料が示している。
まず、現地の物的証拠に目を向けたい。稗田氏の本拠地とされる大和国添上郡稗田(現・奈良県大和郡山市稗田町)は、約百軒の民家からなる環濠集落であり、現存の形態は室町期に遡る。その存在を伝える最古の記録は一四四四年の『経覚私要鈔』であり[9]、四方約二六〇メートル、道路はT字路や袋小路で構成されて見通しが利かず、戦国期には城砦的機能をも果たしていたと考えられている。豪族の居館というより、環濠に守られた小規模な自衛的村落であったことが窺える。
神社としての賣太神社(祭神:稗田阿礼命、配祀:天鈿女命・猿田彦命)の来歴は、本稿にとって示唆に富む屈曲を示す。この社は中世には「祭神不詳」とされていたという記録が伝わる[10]。江戸期までは「三社明神」と称され、明治七年(一八七四)に「十三社明神」、明治二十四年(一八九一)に「賣田神社」、昭和十七年(一九四二)に至って現在の「賣太神社」へと、名称そのものが近代に入ってから複数回にわたり変遷している。境内の社号標は、古事記撰上一二三〇年を記念し、昭和十六年(一九四一)に古事記纂録功臣顕彰会によって建てられたものである[10]。
すなわち「稗田村が代々阿礼を祀り続けてきた」という直線的な伝承像は、史実としては修正を要する。祭神さえ判然としなくなっていた中世の空白を挟み、近代——それも記紀神話の国家的顕彰という特定の時局と共振する形で——「稗田阿礼を祀る神社」としての現在の姿へ再構築されたというのが実態に近い。この経緯は、本稿の集団説にとって二重の意味を持つ。第一に、中世における祭神の不分明化は、猿女君・稗田氏系の記憶専門集団としての制度的求心力が、ある時期に相当程度失われていたことを示唆し、「阿礼」という結節点が歴史を通じて安定的に保持され続けたわけではないことを教える。第二に、近代における再構築(社号の確定、記念碑の建立)そのものが、まさに「阿礼」という名を担ぎ出して集団の記憶を再統合する作業であり、和銅年間に太安万侶が行った作業と、性格において相似形をなす——名祖のもとに離散した記憶を集約するという営みは、古代だけでなく近代にも繰り返されているのである。
あわせて、阿礼祭(あれいさい)という現行の祭についても触れておく。これは児童文学者・久留島武彦が、稗田阿礼を「アンデルセンに匹敵する話の神様」と位置づけたことに由来する祭であり[10]、今日、この祭祀を実質的に支えているのは、稗田氏の血縁者というより、児童文学・お話(ストーリーテリング)関係者の全国的なネットワークであるようだ。すなわち現在「稗田」を中心に形成されている求心力は、血統的な氏族の紐帯というより、近代以降に付与された象徴的資本(記憶・物語の神を祀る土地という位置づけ)によって支えられている。決して豊かとは言えない村落が神社を維持してきたという逆説は、この象徴的資本の性格——農地という物質的基盤ではなく、記憶と物語を担う土地という非物質的な基盤——によって、部分的に説明できるように思われる。
ただし、この「児童文学者による顕彰」という近代的枠づけの性格については、もう一段の精査を要する。児童文学が人間心理の深淵をありのままに映し出す恐ろしさを備えうることは、グリム童話やアンデルセン自身の作品が十分に示している。むしろ着目すべきは、グリム兄弟の『子どもと家庭のメルヒェン』が当初、民間伝承を学問的関心から蒐集した民俗文学であって、児童文学として構想されたものではなかったという事実である。それが「児童文学」として今日流通する形になったのは、グリム兄弟自身による版を重ねた改訂(性的な含意の希薄化、暴力描写の緩和、教訓的な結末の付加)、および後続の編者・翻訳者による書き換えを経てのことであり[39]、荒々しい原資料が家庭向けに馴致されていく過程そのものが、児童文学というジャンルの成立過程に組み込まれている。この構図は、佐々木喜善の語りが柳田の筆を経て『遠野物語』になる過程(次章)と、驚くほど相似している——「児童文学」もまた、民俗文学の書き換えという同種の編集的介入を経た産物なのである。
そのうえで、なぜ稗田阿礼が(グリムのような民俗学的な再評価の道ではなく)ことさらに「児童文学の神」として顕彰されたのか、という問いが残る。ここで一つの仮説を提出しておきたい。賣太神社の社号標が古事記撰上一二三〇年を記念して建てられたのが、昭和十六年(一九四一年)であったことは、この文脈と無縁ではないだろう。だとすれば、戦後において『古事記』を正面から「優れた文学」として再評価する道は、皇国史観への荷担という記憶と分かちがたく結びつき、一定の政治的躊躇を伴ったはずである。これに対し、「児童文学」「お話の神様」という枠づけは、国家・皇統から切り離された、より無害で普遍的な(アンデルセンと並び立つ)物語文化の相のもとに阿礼を——そして間接的に『古事記』を——再導入する、より安全な迂回路として機能した可能性がある。久留島武彦自身の意図がどこにあったかは史料的に確定しがたいが、少なくとも結果として、この迂回路が果たした機能は、以上のように理解できるように思われる。
他方、『古事記』を児童文学の圏域からではなく、正面から文学として再評価する動きは、実は久留島とほぼ同時代からではなく、戦後しばらくを経て、西郷信綱『古事記研究』(一九七三年)を大きな結節点として本格化してきた。西郷は『古事記』を「言葉において、作品として」根源的に読み直し、実証主義的な「合理派」の史料批判と、国粋主義的な「浪漫派」の情念偏重との両方から『古事記』を解放しようとした[29]。この系譜は、その後の文学史記述——たとえば近年の古代文学史概説が、記紀・風土記を「古代文学」の劈頭に置く構成を取っていること[30]——にまで及んでおり、「文学としての評価」への潮流は、西郷以来半世紀にわたる学史的な蓄積を背景に持つ、実体のある動向と見てよいだろう。すなわち、久留島的な「児童文学」の迂回路と、西郷的な「文学」としての正面評価とは、ともに戦前の皇国史観からの『古事記』の解放を目指しながら、時期も方法もまったく異なる、二つの独立した道であったことになる。
この読み替えには先例がある。大道晴香は『「イタコ」の誕生』(弘文堂、二〇一七)において、イタコを民俗的実在としてではなく、戦後のマスメディアが構築した全国的表象として分析した[49]。恐山大祭との結節、脱地域化、そして「古来の巫女」という像の成立過程。同じ構築主義的転回を、阿礼について行うことができる。そしてその作業に必要な史料は、すでに右に挙げたもので足りる。
十八、多氏という家——ひとつの試論
以下の三段は、既存研究による裏づけを欠く試論である。本稿の他の議論はこれに依存しない。
より興味深いのは、安万侶の属した多氏(のち太氏)の出自そのものである。多氏は神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔を称する。『新撰姓氏録』は「左京皇別 多朝臣」の項でこれを記し、平安期に成立した多神宮の縁起「多神宮注進状」(久安五年〈一一四九〉)は、神八井耳命が弟(綏靖天皇)に皇位を譲り、みずから神籬を立てて皇祖天神を祭り「主神事」の任についたと伝える[7]。すなわち多氏は、皇位を自ら退いて祭祀の道を選んだ皇統の分家、という出自神話を持つ氏族である。そして、この出自神話は単なる神話にとどまらない。多氏はのちに雅楽の御神楽(みかぐら、宮廷の神事音楽)の家系となり、九世紀の多自然麿以降、代々「地下の楽人」として宮廷の祭祀芸能に世襲的に仕え続けている[34]。この後代の専業を、単なる偶然の転業と見るべきではないかもしれない。誦習された帝紀・旧辞、あるいは語部の奏する古詞は、楽器の伴奏を要する歌謡である以前に、その口誦じたいが節づけられた声——すなわち音楽そのもの——として演じられ、また受け止められていたはずである。だとすれば、多氏が後代、宮廷音楽の世襲的な伝達者として存続したことは、口誦という技芸の本質(それ自体が音楽的行為であったこと)を、形を変えながらも保持し続けた結果と見ることができる。
この事実は、看過できない意味を持ちうる。猿女君が天鈿女命(天岩戸の前で舞い、政治的中心にではなく祭祀・芸能の座に立った神)の後裔を称し、鎮魂の芸能を世襲したのと、多氏が神八井耳命の後裔として祭祀を世襲し、後代には宮廷音楽の家系となったのとは、機能的に同型である。すなわち阿礼(猿女君系)と安万侶(多氏)の協働は、単に朝廷が偶然に選び合わせた二人の官人の仕事ではなく、「政治の中枢から一歩退き、祭祀・芸能・言葉を担う」という自己規定を共有する二つの氏族——片や祭祀の舞を、片や祭祀の音楽を世襲した家系——の出会いだったと読むことができる。ただし、この比較そのものは、多氏・猿女君それぞれの個別の史実(いずれも学術的に裏づけられる)を本稿が組み合わせて得た観察であり、既存研究がこの形で両者を並べて論じた前例は、管見の限り確認できていないことを付記しておく。
この読みに立つならば、太安万侶と稗田阿礼(ないし稗田集団)との協働を、朝廷による事務的な人選の結果ではなく、両者の間に——あるいは両者が属した氏族の間に——すでに何らかの接触と信頼の蓄積があった上での、口承から文字への飛躍の共同事業として捉え直す余地が生まれる。この飛躍が内発的な動機によるものか、天武・元明という外部の政治的意志によるものかは、記紀の記述からは判定しがたい。しかし比較の観点から一つの示唆を提供できる。
十九、遠野という対照
ただし、この直観には慎重な吟味が必要である。柳田國男の仕事を思い起こせば、一人の記録者による大規模な編纂が原理的に不可能でないことは明らかである。『遠野物語』は、佐々木喜善という一人の語り手から聞き取った伝承を、柳田一人が筆録し、一冊の書物にまとめ上げた[11]。ここでは「聞き取り、書き取る」という作業自体は単独で遂行可能である。この先例に照らせば、太安万侶が阿礼という一人の(あるいは一つの集団を代表する)語り手から旧辞を聞き取り、それを一人で書き記すという作業工程自体は、量的には十分に可能だったと考えられる。
しかし、ここで問いを一段深めておく必要がある——その佐々木喜善自身は、はたして「一人」だったのか。柳田が序文に記した人物評は示唆的である。「鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり」[11]。すなわち喜善は職業的な語り上手ではない。明治十九年(一八八六)に土淵村山口の旧家に生まれた彼は、囲炉裏端で祖父から昔話や怪談を聞いて育ち(怪談を聞いた夜には布団にくるまって震えていたと伝えられる)、長じて早稲田に学んだ二十代の文学青年であり、柳田との縁も歌人・水野葉舟を介した文学上の交際によるものであった[41]。つまり『遠野物語』の話者は、村の語りの伝統のなかで訓練された専門的伝承者ではなく、土淵の家々と村々に貯えられた語りの貯水池から幼時に吸収したものを、文学的関心とともに東京へ運んだ中継者である。喜善の背後には、名を残さぬ祖父母たち、囲炉裏端の老人たちという、伝承の担い手の層が確かに存在していた。
このことは、喜善のその後の仕事によって裏づけられる。帰郷後の彼は自ら採集者となり、その民話集は語り手の名を記録しているからである。『老媼夜譚』(昭和二年)は『遠野物語』自体にも登場する老女・辷石たにえの語りをまとめたものであり、集大成『聴耳草紙』(昭和六年)には多数の伝承者からの採話が集積されている[41]。すなわち明治末から昭和初年の遠野郷には、喜善の周囲になお生きた語り手の人口が存在していた。『遠野物語』が与える「一人の語り手」という印象は、柳田と喜善の出会いという一回的な回路の産物であって、伝承の実態ではない。一つの窓口の背後に集団的な貯水池がある——この構造は、阿礼について立てられてきた第三の読みと、正確に同型である。喜善の死(昭和八年)に際して金田一京助が贈った「日本のグリム」の称は、その意味で二重に正確であった。グリム兄弟の『メルヒェン』が語り手たちの層の上に立つ編纂であったように(第十七章)、喜善もまた一人で語ったのではなく、一つの伝承圏を代表して語ったのである。
では、喜善は「最後の一人」だったのか。答えは二重である。一方で、囲炉裏端の世代間伝承という様式そのものは、学校教育と標準語の普及、生活様式の変化のなかで確実に衰弱しつつあり、喜善の採集事業それ自体がこの衰弱の自覚に駆動されていた。しかし他方で、伝承の系譜は喜善において絶えてはいない。遠野には、話し好きの父・鈴木力松から囲炉裏端で昔話を浴びて育った七人姉妹——長女の鈴木サツ、四女の正部家ミヤ——のような伝承者が昭和期を通じて存在し、ミヤは、苦労して覚えたのではなく体に染みこんでいるものとして、およそ三百話を語りうると証言している。両人は戦後、遠野を代表する語り部として全国に知られ、今日では「遠野昔話語り部の会」が観光施設や学校での定期公演というかたちで語りを制度的に維持している[42]。ここに認められるのは伝承の断絶ではなく、様式の転換である——家庭内の世代間伝承から、公演と観光に支えられた制度的伝承へ。そしてこの転換の構図は、本稿の二つの文脈と響き合う。第一に、村の語り・名指される伝承者・制度化された語り部集団という遠野の推移は、ギリシアの遍歴詩人・専属詩人・ギルドの三段階(導入)の、近代における圧縮された再演と読める。第二に、語り部の会による語りの制度化・観光化は、賣太神社の近代的再編(第十七章)と同じく、「記憶の集約」という営みが時代ごとに形を変えて反復されることを示す、いま一つの事例である。喜善は最後の一人ではなく、様式転換の結節点に立った一人だった——そしてこの位置こそ、口承から筆録への転換点に立った阿礼の位置に、最もよく対応するのである。
ここで柳田自身の立場についても確認しておきたい。柳田國男は文部官僚ではなく、東京帝国大学法科卒業後に農商務省に入り、のち法制局参事官、貴族院書記官長を歴任した、農政畑のエリート官僚であった[40]。『遠野物語』(明治四十三年〈一九一〇〉)は、農政視察のための旅の途上、文学仲間の紹介で佐々木喜善と知り合ったことに端を発する私家版の著作であり、国家による委嘱や公的な事業ではない。すなわち柳田の民俗採訪は、官僚としての制度的立場から独立した、個人の知的関心の産物であった。この点で、朝廷の勅命によって遂行された太安万侶・稗田阿礼の共同事業とは、事業の性格そのものが異なる——後者が国家的な正統化の装置として構想されたのに対し、前者はむしろ国家の周縁で、個人の関心によって国家的な視線から逃れがちな伝承を掬い上げようとした営みだったと言える。
なお、東北地方が戊辰戦争において奥羽越列藩同盟として新政府に抗した後、「白河以北一山百文」との蔑称に象徴される、明治政府による長期にわたる行政的・経済的な周縁化を被り続けたことは、確かな歴史的事実である。この文脈に照らし、柳田の遠野採訪をローマとドルイドの関係——すなわち中央権力による周縁の口承文化への監視・統制——になぞらえる着想は魅力的だが、正直に述べれば、柳田の遠野訪問そのものが治安・監視目的を帯びていたことを示す直接の証拠は見出せなかった。彼の遠野行きは通常の農政視察の一環であり、佐々木喜善との縁も私的な文学仲間を介したものであった。ドルイドの事例がローマによる明示的な法的禁圧と軍事的破壊(モナ島)という、直接的かつ急峻な弾圧であったのに対し、東北の場合に働いていたのは、より緩慢で構造的な、行政上の周縁化という力学だったと見るべきだろう。この違いは、第十三章末尾で述べた「外圧」の二つの様態——急峻で可視的な弾圧と、緩慢で不可視な趨勢——のうち、後者に近いものとして位置づけられる。
柳田國男の仕事については、もう一点、比較に値する論点がある。佐々木喜善が語った伝承のうち、性的な内容を含む話が、柳田による筆録・編集の過程で大幅に削除されているのではないか、という疑念が『遠野物語』研究の一角に呈されてきた[38]。柳田が「平地人を戦慄せしめよ」という宣言のもとに山人・山女・妖異の話を選び取りながら、性を主題とする話柄には抑制的であったとすれば、そこには近代知識人としての柳田自身の編集的規範——民俗学という学問を、性的猥雑さから切り離された品位ある学として立ち上げようとする志向——が働いていた可能性がある。
ひるがえって『古事記』を見るとき、そのような「上品さ」への配慮はほとんど認められない。イザナキ・イザナミの国生みにおける身体の凹凸をめぐる直截な問答、スサノヲの乱行、そして允恭朝歌物語における近親の情念——『古事記』は性と身体をめぐる話柄を、柳田のような近代的抑制なしに収録している。すなわち太安万侶(ないし阿礼)の編集は、柳田型の「品位による選別」を行ってはいない。しかし、それは編集という営みが行われなかったことを意味しない。むしろ『古事記』における選別の基準は、性的な適否ではなく、政治的な適否——いかなる氏族の、いかなる伝承を、天皇家の系譜という国家的物語の中にどう位置づけるか——にあったと考えるべきである。国内に流布する無数の話柄の中から、どれを採り、どれを退け、どう配列するかという選択は、性的内容の取捨などよりもはるかに大きな、政治的判断を要する仕事であった。そしてこの種の政治的選別は、単なる聞き取りの技術ではなく、宮廷の力学そのものへの理解を要する。稗田氏はすでに猿女君の系譜として宮廷に仕え、大嘗祭その他の祭祀を通じてこの力学を熟知していたはずであり、それゆえ太安万侶との間の「呼吸」——何を語り何を語らぬかについての暗黙の合意——は、比較的短期間のうちに成立しえたのだろう。序文が伝える編纂期間の短さ(和銅四年九月に阿礼の誦む所を撰録せよとの命があり、翌五年正月には撰上に至ったとされる、わずか数箇月という期間[2])は、この呼吸の良さの傍証として読むことができる。
二十、一人だったのか——問いの分解
ここで避けて通れない問いに至る。阿礼の口誦を筆録した太安万侶は、果たして一人だったのか。序文はこれを疑いなく単独の作業として語る——「阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上る」[2]。しかし、あれだけの分量と密度を持つ作品が、一人の手のみでなしえたと考えるのは、直観的にはやはり無理があるように思われる。
この短期間・少人数という特徴は、『日本書紀』の編纂事業と並べるといっそう際立つ。『日本書紀』の編纂は、天武十年(六八一)、川嶋皇子・忍壁皇子ら複数の皇族に帝紀・上古諸事の記定が命じられたことに始まり、後年、舎人親王が総裁として編纂を主宰し、実務には紀清人・三宅藤麻呂ら複数の学者・官人が携わって、養老四年(七二〇)にようやく完成する[8]。すなわち、開始から完成まで約四十年、皇族と官人からなる複数世代にわたる大規模な編纂陣容を要した事業である。
これに対し『古事記』は、序文が伝える限り、阿礼と太安万侶という単純きわまりない二人の陣容で、わずか数箇月のうちに成し遂げられている。この著しい対比は、両書の性格の違い(『日本書紀』が対外的な正史・国家的記録として複数の政治勢力の合意形成を要したのに対し、『古事記』は皇統の系譜を中心とする、より内向きな性格の書であったこと)によっても説明されうるが、本稿の観点からはもう一つの読みが可能である。すなわち、『古事記』の編纂陣容が単純に見えるのは、稗田氏の側で、宮廷向けの物語がすでにおおよそ完成した形で用意されていたからではないか、という読みである。『日本書紀』が一からの合議と記定を要したのに対し、『古事記』は稗田氏という一つの窓口にすでに集積されていた物語を、太安万侶が受け取り、文字に定着させるだけで足りた——だからこそ、あれほど短期間で完成しえたのだと考えられる。
しかし、ここで柳田の事例と『古事記』の事例との間には、決定的な違いがあることを指摘しておかねばならない。『遠野物語』において佐々木喜善が語ったのは、遠野郷という一つの土地に伝わる伝承である——地理的にも系譜的にも、一つの纏まりを持つ資料である。これに対し『古事記』が扱うのは、天地開闢から推古朝に至る、日本列島各地に散在する複数の氏族の系譜・伝承を、一つの首尾一貫した国家的物語へと統合したものである。天孫降臨に始まる皇統の系譜、出雲の国譲り、日向三代、神武東征、そして允恭朝歌物語のような地方色の濃い挿話——これらは本来、異なる氏族・異なる地域が個別に保持していた伝承のはずであり、それらを一つの整合的な体系へと編み上げる作業は、単に「聞き取って書く」以上の、大規模な統合作業を要する。
すなわち太安万侶(あるいは、序文が語る単独の筆録者)が仮に一人であったとしても、その一人が単独で処理しえたのは「すでに一定程度まで統合され、整理された資料」に対してのみである、というのが本稿の立場である。柳田が佐々木喜善という一個人から遠野郷という一つの纏まった伝承体系を聞き取れたのと同じ意味で、太安万侶が阿礼という一つの窓口から『古事記』を聞き取れたのだとすれば、その阿礼(個人であれ集団であれ)の段階において、すでに諸氏族の伝承を統合し、天皇家の系譜を軸とする一つの物語体系へと編み上げる、相当の集積と整序の作業が先行して完了していなければならない。この集積作業こそ、たき火を囲む無数の語りが、幾世代にもわたって選別され、系譜づけられ、宮廷の祭祀機構の中で編み直されていく、第一段階から第二段階への長い移行過程そのものである。
ホメロス文字化論における「口述筆記説」(dictation theory)——文字を持たない詩人が文字を書ける者に口述し、それを書き取らせたとする説——をめぐる近年の研究は、この文字化の過程を「詩人・書記・(事業を主宰する)収集者の共同創造」として捉え直している[35]。ここで、ホメロスの文字化を促した「外圧」は、性質の異なる二つの層に分けて考えることができる。第一は技術的な外圧である——そもそも文字化それ自体が、フェニキア文字を起源とするアルファベットという、地中海東方から伝わった外来の書記技術の受容によって初めて可能になった。第二は政治的な外圧である——僭主ペイシストラトスがパンアテナイア祭という国家的祝祭における朗誦を制度化・規制した改革であり、吟誦者キュナイトスがオノマクリトスとその一団に向けてイーリアスを口述したという古代の伝承は、この政治的な標準化の要請が、実際には口誦者と書記の間の具体的な協働関係——名指しされるに値するほどの人的関係——を通じてのみ実行されえたことを示唆する。
日本の場合も、同じ二層の外圧を識別できる。技術的な外圧は、大陸(中国・朝鮮半島)からの漢字文化の流入であり、これは既に第十三章で確認したとおり、実務・外交の水準では推古朝以前から進行していた。政治的な外圧は、壬申の乱(六七二)という内乱を経て即位した天武天皇が、諸家に伝わる帝紀・旧辞の錯雑・虚偽を憂い、分裂した歴史認識を一つに統合しようとした動機であり、これはギリシアにおけるペイシストラトスの動機——複数系統に分かれていた朗誦伝承を、国家儀礼のために一つの規範的テクストへ収斂させようとした志向——と、政治的機能において正確に対応する。すなわち両者とも、技術的な外圧(書記システムの利用可能性)がすでに整った後、政治的な外圧(内乱後の権威統合の必要)が引き金となって、既存の口承の蓄積を文字へと結晶させる契機が生じた、という同一の二段階構造を示している。そして、この政治的契機を現実の作業へと転換したのは、いずれの場合も、口誦の側と書記の側との間にすでに存在した、あるいは事業の過程で急速に築かれた、具体的な人的協働関係であった。天武が「帝紀」「旧辞」の削偽定実を発意し、その死後、元明が改めて安万侶に撰録を命じたという二段階の構図は、この「外部からの契機」と「内部の協働関係」という二層構造と重ねて理解できるかもしれない——すなわち、天武による着手が外的な政治的契機を与え、その実行を担いえたのは、すでに稗田集団と多氏との間に(壬申の乱を共に戦った世代からの)何らかの人的つながりが蓄積されていたからではないか、という仮説である。この仮説は現時点では傍証を欠く推測にとどまるが、口承から文字への飛躍という、人類史上の大きな一歩を、制度上の偶然ではなく人間同士の具体的な関係性の産物として捉え直す試みとして、書き留めておく価値があるだろう。
第三に、口述筆記説への批判は、第六章で扱った『続日本紀』の沈黙と、第八章で扱った家的伝承の水路に、意外な照明を当てる。ナジーがギリシャについて口述筆記説を退けた論拠の一つは、書き取られた歌は上演の生命を失うという観察であった。ところで『古事記』は、まさに勅命による口述筆記が実際に遂行された場合に何が起こるかを示す、いわば実現された口述筆記の事例である。そしてその帰結は、ナジーの観察と不気味に整合する——撰上された書物は、それを担い続ける上演の制度を持たなかったがゆえに、正史に登録されず、講書の対象とならず、家の記憶の水路の中で百年眠った(第六章・第八章)。対するホメロスは、パンアテナイア祭という上演制度を持ったがゆえに、早期の確定テクストを必要とせずに生き続けた。さらに皮肉なことに、日本で上演制度を獲得したのは『日本書紀』の側であった——養老五年に始まる日本紀講筵は、定期的に反復される公的な「読みの上演」であり、多氏が博士としてこれに連なった(第七章・第八章)。テクストと上演制度の分配がギリシャと日本とでちょうど逆転しているというこの見取り図は、『古事記』の長い休眠と『日本書紀』の正典化という受容史の分岐を、個々の政治的事情を超えた構造の水準で説明する。
ここから、しばしば次のように整理される——太安万侶が一人であったことと、その仕事の背後に集団的・世代的な集積があったこととは矛盾せず、むしろ相補的である、と。しかし、この整理には注意が要る。相補性は魅力的だが、それは同時に、いかなる証拠によっても斥けられない形をとりうるからである。単独筆録が証明されても集団説は傷つかず、阿礼の個人性を示す史料が出ても「窓口の相」として吸収できるとすれば、そのとき主張されているのは、もはや検証の対象ではない。
本稿は相補性の命題を、主張としてではなく問いの分解として用いる。すなわち——(一)筆録という最終工程は単独で遂行可能か。これは可能である。(二)諸氏族の伝承を一体系に編む工程は、いつ、どこで行われたか。これは未決である。(三)その工程を説明するのに、「集団」という主体を措定する必要があるか、それとも口承の技法上の制約——記憶可能な単位への分節、型の反復、系譜という配列原理——によって説明できるか。これが、本稿が答えを持たない問いである。
第三の問いには先例がある。ミルマン・パリーは一九三六年、ヴァルター・アーレントの『ホメロスにおける典型的場面』を書評し、反復と型の存在をアーレントが「ギリシアに固有の現実把握」によって説明したことを退けて、こう書いた[45][46]。
Now all that may or may not be true—it does not matter much, but it is surely simpler to say that Homer relates the same action in more or less the same way because that was the only way he had learned. … He has no pen and ink to let him slowly work out a novel way of recounting novel actions, but must make up his tale without pausing, in the speed of his singing.
さて、それが真であるかどうか──たいして問題ではない。しかし、ホメロスが同じ行為をおおむね同じしかたで語るのは、それが彼の学んだ唯一のしかただったからだ、と言うほうが確実に単純である。……彼は、新しい行為を語る新しいしかたをゆっくり練り上げるためのペンもインクも持たず、歌う速度のなかで、立ち止まることなく物語を作り上げねばならない
パリーは主体を措定せず、技法上の制約によって説明した。そしてその説明は反証可能である。日本側で同じ道を取るには、記紀のうちに型として反復される場面群が存在するかどうかを、実際に数える作業が要る。アーレントが用いた要素分解——出発、到着、当の人物を見出すこと、同席者への言及、傍らに立つこと、語ること——は、記紀の夢告・託宣・来訪の場面にそのまま当てられる[47]。この作業は本稿の範囲を越える。稿を改める。
二十一、二つの名を並べる
第一部と第二部を並べる。
太安万侶については、決まらないことについても、おおむね何が出れば決まるかを指定できた。勲五等の授与記事、大学寮の名簿、『続日本紀』編纂時の目録。いずれも、存在しうる文書である。未決は、証拠の不在による未決であった。
「おおむね」と断ったのは、一点だけ例外があったからである。美濃の湯沐邑がいつ大海人のものになったかは、この形で指定できない(第三章)。そこで欠けているのは文書ではなく、唯一の証言である『日本書紀』が勝った側の文書であり、しかも同じ書物が大海人の立太子を巻二十七で記さず巻二十八で記すという、その不揃いである。本稿の対照条件は、純粋ではなかった。この例外は、これから述べる非対称を弱めるのではなく、その所在を正確にする——非対称は人物と人物のあいだにあるのではなく、史料の生成のしかたのあいだにある。
阿礼については、それができない。何が出れば決まるのか。序文の十数字を補強する史料——たとえば阿礼の位階を記す文書——が出れば、第一の読みが強まる。しかし出なければ、第三の読みが正しいことにはならない。出ないことは、名の指すものが集団であったことの証拠ではないからである。非存在からは何も出ない。
この非対称は、どこから来るのか。証拠の量ではない。種類である。安万侶を支えるのは、墓誌・正史・系譜という、互いに独立に生成した史料である。銅板を刻んだ者と、続紀を編んだ者と、姓氏録を作った者は、別の目的で、別の時に、別の場所で書いた。それらが一点で交差するとき、交差点は動かない。阿礼を支えるのは、序文の一節と、そこから派生した後代の言及だけである。派生したものは、独立ではない。
決定可能性の閾は、ここにある——独立に生成した史料が、いくつ交差するか。一つでは何も決まらない。枠組みの側がいくらでも自由に働ける。二つが交差すれば枠組みは狭まり、三つが交差すればほとんど動かなくなる。安万侶には三つ以上あり、阿礼には一つしかない。
二十二、何が言えて、何が言えないか
本稿が言えることは、三つである。
第一に、名祖化の操作は実在する。長期の集合的過程を一人の名へ凝縮する操作は、古事記序文にも、ペイシストラトス伝説にも、近代の稗田にも、遠野の語り部の会にも、同じ形で観察される。これは反証可能な主張である(第十五章)。
第二に、阿礼という名は、この操作の産物でありうる。「ありうる」以上のことは言えない。
第三に、決定可能性は、独立に生成した史料の交差の数に依存する。これは、本稿が二つの名を並べたことから得られた所見である。
最後に、著者性の問題である。ナジーは口承詩学における「著者」を、上演からテクストへの不変性の度合いによって規定されるものとし、「ホメロス」を、伝統がみずからの統一性を説明するために遡及的に立てた文化英雄——語源的には「接合する者」、吟誦者(ラプソードス)の語義でいえば「歌を縫い合わせる者」——と見た[18]。この規定を借りれば、『古事記』の「著者」は伝統そのもの、すなわち阿礼の名で呼ばれた集積の全体であり、安万侶は不変性を設計した者——声を文字に縫い留める様式を定めた者——として、著者とは別の、しかし不可欠の位置に立つ。ギリシャには著者の名があって書き手の身体がなく、日本には書き手の墓誌(第一章)があって著者の名がない。四十一字の墓誌が保証するのは、まさにこの縫い合わせる者の歴史的実在であって、それはホメロス研究が決して手にしえない種類の基準点である。撰録とは、口述の受動的な筆記でも、近代的な意味での著述でもなく、上演の等価物たるテクストの設計と、その正統性の物語の執筆とを一身で担う行為であった——文武の間の実務官人という前章までの像に、この理論的な規定を重ねて、結語に進みたい。
本稿が言えないことは、一つである。阿礼が個人であったか集団であったか。現在ある資料体は、この問いに答えない。語義論も答えない。系譜史料も答えない。序文の記述も答えない。近代の再編は、なおさら答えない。そして——ここが肝要であるが——答えないということは、答えが隠されているということではない。資料体が結論を含まないというのは、正しい鍵がまだ見つかっていないという意味ではなく、その資料体からはその結論が出ないという意味である。
結 決定不能は失敗ではない
決定不能を結論とする論文は、しばしば怠慢と受け取られる。しかし、決定できないことを決定できないと述べることには、二つの積極的な効用がある。
一つは、以後の議論から、資料が支えない主張を除去することである。もう一つは、決定を可能にする証拠が何であるかを、あらかじめ指定できることである。本稿の場合、それは次の三つである。——一、「あれ」を含む上代の職掌名の用例の網羅的収集と、造語法の比較。二、猿女君と稗田氏の関係を示す史料の再検討(『類聚三代格』の稗田・和珥部相論を含む)。三、記紀のうちに、型として反復される場面群が存在するかどうかの計量的確認(第二十章末)。型が存在すれば、口承の技法上の制約によって定型性を説明する道が開け、集団という主体の措定は不要になる。型が存在しなければ、口承的基層を前提とする議論全体が弱まる。いずれに転んでも結果が出る。
最後に、一つの対照を記しておきたい。ニコラ・ベルトランは、ホメロス研究者たちが「認識論的な単純さへの配慮から、ホメロスの詩が、上流の口承伝統と下流の写本伝統との接合点に位置する、できれば明確に刻まれた蝶番のごときものであってほしいと、しばしば願う」と書いた[48]。阿礼と安万侶を、口承の終点と文字の起点として並べたいという願いも、同じ種類の願いである。本稿がその願いから自由であったとは言わない。ただ、願いを願いとして名指しておくことはできる。二つの名のあいだにあるのは、口承と文字の境界ではなく、証拠の厚みの差である。