クラシックファンとしてそびえ立つ二つの作品がある。モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》であり、リヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》である。今回は前者についてのエッセーをひとつ。精神科医という仕事柄、それに関連付けて書ければなおいい——というのも、純粋な音楽評論の土俵では勝負にならないからである。
モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》の始まりは、空気を切り裂くニ短調の和音。
重く、威圧的で、容赦がない。オーケストラのその最初の一撃は、後に石像となって迫る騎士長の足音を予告し、死の影は序曲の冒頭に潜んでいる。しかしドン・ジョバンニ本人は、そんな予兆などおかまいなし。序曲が終われば、彼はもう新たな女性の寝室に潜り込んでいる。
そこにこそ、キルケゴールが彼に惚れ込んだ理由がある。
キルケゴールは『あれか、これか』の中で「直接的・エロティックな諸段階」と題する長大な音楽論を展開し[1]、モーツァルトのこのオペラを「天才的作品の中の天才的作品」と呼んだ。称賛は尋常ではない。後に『不安の概念』で「不安とは自由の眩暈である」と書いた[7]同じ人物が、不安を微塵も知らぬ男の物語をこれほどまでに愛した——それはなぜか。
この問いに向き合うにあたり、筆者は校田啓三郎によるデンマーク語原典からの邦訳[1]に加え、Hannay 英訳[2]、Hong 夫妻によるプリンストン版[3]、Hirsch によるドイツ語全集版[4]、およびフランス語全集版[5]を参照した。デンマーク語という特殊な言語的文脈をもつキルケゴールの文体は、一つの翻訳に依ることで読み取りを誤る危険を孕むためである。
本稿は、その問いを入り口に、大げさな言い方だが「精神を持たない者とはいかなる存在か」を考えてみようとするものである。
ドン・ジョバンニは中世の産物である——これはキルケゴールの逆説的なテーゼだ。
古代ギリシャにおいて、官能は宇宙の調和の一部だった。アフロディテは神であり、エロスは宇宙を動かす力だった。官能はどこかに「排除」されているわけではなく、世界の中に当然のものとして溶け込んでいた。
ところがキリスト教が「精神」を至高の原理として世界の中心に打ち立てた瞬間、事態は変わった。精神が高みへと昇れば昇るほど、その反動として、精神から完全にはじき出された「肉の原理」が、地の底で暴力的なほど強化されていった。捨てられたものは消えるのではなく、捨てられたからこそ純化され、強大化する[1][8]。
ドン・ジョバンニは、その「捨てられた官能」の化身だと考えれば合点がいく。彼は中世キリスト教の精神性が生み出した影[1]。だから彼が最も輝くのは、修道院の塀の外であり、騎士の剣と神の名が飛び交う社会の中だ。
オペラの冒頭を思い出してほしい。夜、ドンナ・アンナの寝室から逃げ出すドン・ジョバンニ。彼を呼び止めようとする老騎士長。剣が交わされ、騎士長は倒れる。しかしドン・ジョバンニの目はすでにどこか別の場所を見ている。後悔の影すらない。彼は「今」しか見ていない。
レポレッロが嘆く。「また騒ぎを起こして」と。しかしドン・ジョバンニには「騒ぎを起こした」という意識すらない。彼はただ、欲望の赴くままに動いたのである。
キルケゴールの洞察の核心は、次の一点に尽きる。ドン・ジョバンニは言語では表現できない、というのだ[1][8]。
言語とは何か。それは時間を分節するものである。「昨日」「明日」「もしかしたら」「あのとき」——言葉を使う瞬間、人は過去と未来の間に宙吊りになる。言葉で何かを語ることは、その何かを「距離を置いて眺める」ことであり、それはすでに「省察」の始まりである。
ここで「省察」という語について註記しておきたい。キルケゴールのデンマーク語 Reflexion(Hirsch 版ドイツ語でも Reflexion、Hannay 英訳では reflection)は、意識が自己自身に折り返す運動——すなわち直接的な体験から一歩引いて、自分を時間の中に位置づけ、眺め返す知的操作を指す。日本語の「反省」が帯びる「至らなさを認める」「悔いる」という道徳的含意を避けるため、本稿では「省察」の語を用いる。
ドン・ジョバンニには、その省察がない。彼は「語る個人」ではなく、「官能そのものの声」である[1]。彼の本質は、旋律とリズムが空気を震わせる、その瞬間の中にしかない。
第一幕のフィナーレ近く、ドン・ジョバンニが歌うシャンパンのアリア「Fin ch’han dal vino(ワインが回るうちに)」を聴いてほしい。息つく暇もない速度で、言葉が意味を置き去りにして流れていく。「今夜のパーティーに十人連れてこい、広場の娘も、農家の娘も、何でもいい」——その旋律は計画でも誘惑でもなく、欲望そのものの音楽的噴出である。
対照的なのは、ドンナ・エルヴィラだ。彼女はドン・ジョバンニに捨てられた女であり、しかし彼を愛し続け、告発し続ける。彼女のアリア「Ah, fuggi il traditor(裏切り者から逃げなさい)」は、言葉で構成されている。記憶があり、怒りがあり、警告がある。時間軸の上に自分を置き、過去を振り返り、他者に語りかける——これは「省察する精神」の音楽である。
つまりエルヴィラには言語があり、省察があり、したがって不安がある。ドン・ジョバンニにはそのどれもない。
モーツァルトの天才は、この差異を音楽的に可視化した。エルヴィラが語るとき、ドン・ジョバンニは沈黙するか、茶化すか、横から割り込んで旋律を奪う。彼は言葉の論理に乗ることを拒絶するかのように、常に音楽の速度で動いている。
モリエールの戯曲『ドン・ジュアン』(1665 年)は、この点で示唆的な反例を提供している。モリエールのドン・ジュアンは弁舌巧みに誘惑し、信仰を論駁し、偽善を演じる——彼は徹頭徹尾「言葉の人」である。キルケゴールの枠組みで言えば、言語を持つ者はすでに省察を持ち、省察を持つ者は直接性を失っている。モリエールのドン・ジュアンは、だからこそ「悪の体現者」として描かれ得るのであり、逆に、モーツァルトのドン・ジョバンニは「悪」ではなく「直接性」そのものとして立ち現れるほかない。両者はいずれもドン・ファン伝説を素材としながら、媒体(戯曲と音楽)の違いが、人物像の存在論的レベルの違いに直結しているのである。
「カタログのアリア」は、このオペラ、あるいはすべてのオペラのなかで最もよく知られた場面のひとつだろう。
レポレッロが巨大な台帳を取り出し、捨てられたドンナ・エルヴィラに向かって読み上げる。「お嬢さん、これがカタログです。旦那様が愛した女性の一覧。イタリアに六百四十人、ドイツに二百三十一人、フランスに百人、トルコに九十一人、そしてスペインには——一〇〇三人」(Madamina, il catalogo è questo)。
しかしここに逆説がある。これほど多くの女性を「愛した」ドン・ジョバンニは、実は誰も愛していないということだ。
彼が求めるのは個別の女性ではなく、「女性性そのもの」という普遍である[1]。金髪も黒髪も、痩せた女も太った女も、貴婦人も農民の娘も——リストに属する全員が、旋律の中の「一つの音符」に過ぎない。音符は消え、旋律は続く。欲望は対象に執着せず、嵐のように次へ次へと移動していく。
ここには「対象なき不安」と奇妙に対をなす構造がある。不安が「まだない何か」への眩暈であるとすれば、ドン・ジョバンニの欲望は「すでに過ぎ去ったものへの無関心」だ。不安が未来に向かって開いた傷口だとすれば、彼の欲望は、現在という一点に閉じた完全な円環である。
一〇〇三という数字は、征服の記録ではなく、欲望が本質的に反復するものであることの証だ[8]。嵐は同じ嵐ではないが、嵐であり続ける。
第二幕のセレナード、「Deh, vieni alla finestra(さあ、窓辺においで)」は、このオペラで最も柔らかく、最も美しい場面のひとつだ。
夜の闇の中、ドン・ジョバンニがマンドリンの伴奏で歌う。「窓辺においで、私の愛しい人よ。あなたの涙を癒してあげよう、あなたがここに来なければ、私はどこかへ行ってしまうよ」——その声は優しく、誠実で、本物の愛の告白のように聞こえる。
だがその下ではドンナ・エルヴィラが立っている。彼はエルヴィラの侍女を口説いているのであり、エルヴィラには気づかれまいとしている。
では、彼は「嘘をついている」のか。
おそらく、そうではない。彼は「今この瞬間、窓の向こうにいる女性を求めている」という事実に、ただ忠実なのだ。過去にエルヴィラに言った言葉も、明日別の女性に言うであろう言葉も、「今」の彼には存在しない。彼の誠実さは、ある意味において純粋だ——ただし、それは時間の厚みを持たない誠実さである。
不安とは「まだない可能性」に向かう精神の揺れだとキルケゴールは言った[7]。ドン・ジョバンニには「まだない」という時間軸がそもそも存在しない。彼は永遠の現在を生きている。それは自由からの解放ではなく、自由を持つほどの精神が存在しない、ということだ。
二重唱「Là ci darem la mano(あなたの手をとって)」は、誘惑の場面ではあるが、オペラ史上最も美しい。誤解を恐れずにいえば最も人を幸福にする音楽と言い切ってよい。
婚約者マゼットがいるツェルリーナに、ドン・ジョバンニは歌いかける。「あなたの手をとって、ここから二人で行きましょう」。ツェルリーナは揺れる。「行きたい気持ちはある、でも騙されるかもしれない」(Vorrei e non vorrei)。しかし最後には二つの声が溶け合う——「では行きましょう」(Andiam)。
なぜ彼女は抵抗できないのか。
それはドン・ジョバンニが巧みな「説得」をしているのではないからだ。彼は論理を使わない。論拠を積み上げない。彼の存在そのもの、その声のたたずまい、その欲望の磁場が、嵐のように作用する。嵐に向かって「あなたの主張には根拠がない」と言っても意味がない。嵐は議論しない。嵐はただ、ある。
キルケゴールはここに「直接性の絶対的な力」を見た[1][8]。それは省察以前の、言語以前の、論証以前の力だ。ツェルリーナが最終的に手を差し伸べるとき、それは「説得された」のではなく、より深い何かが動いたのである。
だからこそ、モーツァルトはこの場面をレシタティーヴではなくアリアで書いた。二人の旋律が最初は交互に現れ、やがて重なり合い、最後に一つになる——その音楽的な合一は、理性が介入する余地のない「直接性」の勝利である。
昔、カラヤンが最晩年の録音・録画になるサミュエル・ラーミーとの練習風景をビデオで見たことを思い出した。それまで順調にきていた練習に「ここにきて躓くなんて」とカラヤンが何度も駄目出しをしていた。「直接性の絶対的な力」の表現は歌手にとっても難所であるようである。
フィナーレの場面は、このオペラの全てを一点に収束させる。
殺した騎士長の石像が、ドン・ジョバンニの晩餐に現れる。床が揺れ、炎が燃え上がり、低音の合唱が響く。石像はドン・ジョバンニの手を握り、三度迫る——「悔い改めよ。まだ間に合う」。ドン・ジョバンニは三度拒む。「否!」(No! No!)。そして地獄の炎に飲み込まれていく。
これは傲慢なのか。頑固なのか。
キルケゴールの目には、そのどちらでもない。傲慢は「わかっていてなお拒む」ことだ。しかしドン・ジョバンニには、「悔い改める」ための自己がそもそも存在しない。彼は最後の瞬間まで「今」しか生きていない。
悔い改めるためには、過去の行為を記憶し、それを現在の自分と照合し、未来の自分のあり方を問わなければならない。つまり時間の中に自分を位置づけ、その位置から自分を見つめ直す視点——「省察」が必要だ[8]。しかし彼にはそれがない。
だから彼は悔いない。それは意志の力ではなく、彼の精神の構造の問題だ。
地獄の炎に飲み込まれる瞬間にいたっても——彼は不安を知らなかった。
なお、同じドン・ファン伝説を素材としたリヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・ファン》(1889 年)は、レーナウの未完の詩に基づき、欲望の奔流がやがて倦怠と幻滅に変わる過程を描いている。冒頭のホ長調の輝かしい跳躍から終結部の虚脱した消失へという軌跡は、レーナウのドン・ファンが理想の女性を追い求めては失望を重ねる——つまりすでに省察を持ち、したがって倦むことのできる人物であることを音で語っている。省察を持つ者は必ず倦む。モーツァルトのドン・ジョバンニが倦むことを知らないのは、省察という精神の厚みを持たないからである。シュトラウスとモーツァルトは、同じ名前の主人公を素材としながら、存在論的に全く異なる人物像を描き出しているのである。
ドン・ジョバンニの音楽は地獄から突き上げる音に乗りながらも、その上を走る旋律の美しさには唯々圧倒される。キルケゴール自身が「モーツァルトは最も幸福な者だ、なぜなら《ドン・ジョバンニ》を書いたから」と書いている[1]。それは賛辞であると同時に、羨望でもあったかもしれない。
しかしキルケゴールは最終的に問う——あなたはドン・ジョバンニになりたいか、と。
美しい。圧倒的だ。しかし彼には「自己」がない。倫理的な選択もなく、精神の跳躍もない。彼は永遠に美的段階を抜け出ることができない。嵐は行き先を決めない。嵐はただ吹くだけである。
人には不安がある。それは確かに苦しい。しかしそれは、「自由に選択する主体」であることの証ともいえる。「まだない可能性」が見えるとき、人は眩暈を感じる。その眩暈を「自由の眩暈」と呼んだのがキルケゴールだった[7]。ドン・ジョバンニには眩暈がないだろうが、それは、彼が足元の確かな地に立っているからではなく、そもそも「高さ」というものを感知できないともいえる。
省察なき官能の幻影について思いを巡らせれば自分の不安を——少し違った目で——もう一度引き受けることができるかもしれない。
不安は排除すべき敵ではない。それは、自己が自己であるための、深いところから支える精神の地盤なのだ、と。