エー『医学の誕生』のシャーマン論 案内

──アンリ・エーの遺稿と、アンテ=メディシンという概念──
Henri Ey, Naissance de la médecine (Masson, 1981 ; éd. CREHEY, 2017, pp. 56–76)
Le stéréotype magico-animiste — présentation et discussion
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Editio princeps · Augustus MMXXVI
英語版を公開: A Guide to the Shaman Essay in Ey’s Naissance de la médecine(Article 14)
要旨

アンリ・エーが死の直前まで書き継ぎ、アンリ・モレルの校訂によって1981年に世に出た遺著『医学の誕生』には、20頁あまりのまとまったシャーマン論が含まれる。邦訳はなく、日本にはこれまで紹介されていない。本稿はこのテクスト(CREHEY版2017年、56–76頁)の全体を紹介し、批判的に検討する案内論文である。中心テーゼは、魔術=アニミズム的世界には「病気」という範疇がなく、あるのは「禍(わざわい) Mal」——病も不運も邪術の害も含む、「良くない状態」の総称——だけだというものであり、シャーマニズムはそこから、アンテ=メディシン(医学の手前)かつアンチ=メディシン(医学の否定)として、医学の外に置かれる。本稿は、書誌と成立事情、奇蹟治療のトランスの記述とエー自身の器質力動論(夢としてのトランス)との接続、「シャーマンは病者か」論争(1860—1970)の布置とそれに対する規範性による論駁、五つの文化圏モデルとデュルケームの沈黙の読み直しを整理したうえで、今日の水準からの批判——脱魂と憑依の未分化、ルイスの不在——を加える。最後に、エーの規範性論証がICD-11 CDDRの文化的例外条項と論理構造を同じくすることを示し、姉妹篇「シャーマニズム論考」への四つの接続を挙げる。

Abstract

Henri Ey worked until shortly before his death in 1977 on a history of the origins of medicine; edited by Henri Maurel, it appeared posthumously as Naissance de la médecine (1981). The book contains a sustained twenty-page treatment of the shaman (CREHEY edition 2017, pp. 56–76), never translated into Japanese and little read even in French. This introductory essay presents the text as a whole and examines it critically. Its central thesis: the magico-animistic world has no category of “disease” — there is only Mal — and shamanism therefore stands outside medicine, at once ante-médecine and anti-médecine. The essay reconstructs the genesis of the work; Ey’s description of the thaumaturgic trance and its link to his own organo-dynamic theory, in which trance is read as dream; his map of the 1860–1970 controversy over whether the shaman is mentally ill, and his normative refutation of the pathological thesis; and his five cultural-area models, with a rereading of Durkheim’s silence on the shaman. A critical assessment follows — the undifferentiated treatment of ecstasy and possession, the absence of I. M. Lewis. Finally, the essay shows that Ey’s normative argument shares its logical structure with the cultural-exception clauses of the ICD-11 CDDR, and lists four points of connection to the companion essay on shamanism.

序 なぜエーのシャーマン論か

アンリ・エー(Henri Ey, 1900—1977)の名を、日本の読者はまず『意識』の著者として、あるいはジャクソンの器質力動論をフランス精神医学に移植した理論家として知っている[1]。その同じ著者が、死の直前まで、医学そのものの起源を論じる一書を書き継いでいたこと、そしてそこにシャーマン論が置かれていることは、ほとんど知られていない。本稿が案内するのは、遺著『医学の誕生』(Naissance de la médecine, Masson, 1981)のうち、第二節「魔術=アニミズム的ステレオタイプ——シャーマンと奇蹟治療のトランス」と第三節「シャーマニズムの諸類型と文化圏」からなる、20頁あまりの一続きのテクストである。本稿の底本は2017年のCREHEY(Cercle)増補版であり、以下の頁付けはすべて同版の56–76頁による[2]。1981年のマッソン初版とは頁がずれる[6]

紹介の理由は三つある。第一に、邦訳がない。エーの著作は相当数が日本語に訳されてきたが、『医学の誕生』はそこに含まれない[3]。第二に、この二節は、シャーマニズムをめぐる二十世紀の議論のうち、精神医学の側から書かれたものとしては例外的に長大で体系的である。1860年代から1970年に及ぶ「シャーマンは病者か」論争の布置が、当事者の一人の手でそのまま地図化されている。第三に——これが本稿の書き手にとっては決定的なのだが——このテクストは、エーの意識理論と、宗教史・人類学の側のシャーマニズム論とが実際に交差する、稀な結節点である。エーがシャーマンのトランスを「夢のごとし」と言うとき、それは修辞ではない。彼自身の器質力動論において、夢とは意識野の脱構造化の範型そのものだからである。この一語をどう読むかによって、本節は「精神科医が余技で書いた民族誌の要約」にも、「意識理論の人類宗教史への外挿」にもなる。本稿は後者として読む。

構成は次のとおりである。第一章で書誌と成立の事情を確認し、第二章で『医学の誕生』全体の構図のなかに当該箇所を置く。第三章から第六章までが紹介の本体で、中心テーゼ(第三章)、トランスの記述(第四章)、「シャーマンは病者か」論争(第五章)、五つの文化圏モデル(第六章)を順に扱う。第七章で今日の学問水準からの批判を整理し、第八章で日本の読者にとっての意義——とりわけICD-11診断ガイドラインの先蹤としての位置と、拙稿「シャーマニズム論考」への接続——を述べる。

第一章 書誌と成立──遺稿としての『医学の誕生』

1-1 バニュルスの隠棲と、託された仕事

エーは1977年に没した。彼が晩年に着手していたのは、『医学史のなかの精神医学史』(Histoire de la psychiatrie dans l'histoire de la médecine)と題される「巨大な工事現場(l'immense chantier)」であった。1981年にマッソン社から刊行された230頁の書物は、その未完の企ての最初の部分にあたる[6]

成立の事情は、本書の校訂者アンリ・モレル自身が、のちの一篇「歴史家アンリ・エー」に書き残している[4]。モレルは精神科医であり、かつヘレニストであった。トゥールーズで精神医学史を講じていた彼は、ちょうど同じ頃ギリシア語に立ち返っており、毎夏エーの隣人として訪問を重ねる間柄にあった。1976年と77年、エーは「工事中の本」のいくつかの章を——とりわけヒポクラテス集成、人間の本性、病気の本性を扱う章を——モレルに送った。そしてこの折に、もし未完のまま遺すことになれば刊行を見届ける仕事を彼に託したのである。この一篇は、1997年秋にペルピニャンで開かれた国際コロック「二十一世紀の精神科医アンリ・エー」の記録に収められたもので、2017年のCREHEY版に付された序文と実質的に同一とみられる(マッソン初版には二頁ほどの短い巻頭言があるのみである)。同じ巻に添えられた識語(署名 R.M.P.)は、その場面をこう伝える。

Je me souviens de lui, en 1977, sous le pin d’Alep centenaire et dans la bibliothèque, à Banyuls dels Aspres, recevant d’Henri Ey (dans la plus parfaite sérénité) ses « dernières volontés » concernant cette Histoire de la psychiatrie dans l’histoire de la Médecine qu’il craignait de n’avoir le temps d’achever. […] Et grâce à lui, à son travail d’orfèvre, la Naissance de la Médecine put voir le jour en 1981.

〔1977年、バニュルス・デル・アスプレの、樹齢百年のアレッポ松の下と、書斎とで、彼がアンリ・エーから——この上ない平静のうちに——あの『医学史のなかの精神医学史』についての「最後の意志」を受け取っていたのを、私は覚えている。エーは、それを完成させる時間がないことを恐れていたのである。〔…〕そして彼のおかげで、その金銀細工師のような仕事のおかげで、『医学の誕生』は1981年に日の目を見ることができた。〕

モレルはさらに、書物の題名そのものについて、「1981年に刊行されたこの最後の遺著、われわれが『医学の誕生』と題したもの」と書いている。書名は著者のものではない。この事実は、本書を読むときの構えを一つ定める——ここにあるのは完成した著作ではなく、編集によって一書の形を与えられた工事現場なのである。

1-2 「歴史家」の意味と、医学史への長い関心

モレルの論文は、当初「アンリ・エーの見た医学史」と題される予定であったという。それを彼は「歴史家アンリ・エー」に改めた。理由が、この著者を理解する鍵になる。

Car Henri Ey n’est pas un historien de la médecine, au sens usuel du terme, mais un historien au sens fort et étymologique, autrement dit un étudiant et un chercheur. C’est bien ainsi qu’il entendait le mot « histoire » lorsqu’il énonçait le propos d’écrire une Histoire Naturelle de la Folie.

〔というのも、アンリ・エーは通常の意味での医学史家ではなく、強い意味での、語源的な意味での歴史家、言いかえれば探究する者・研究する者だからである。『狂気の博物誌』を書くという企てを述べたとき、彼が「歴史」の語で解していたのは、まさにこの意味であった。〕

エー自身の定式はさらに明快である——いかなる科学も、空間と時間のうちへの書き込みである以上「非歴史的」ではありえないが、医学は、諸疾患の本性の発見のうちに、すなわちそれ自身の歴史をも持つところの疾患の自然史のうちに書き込まれるがゆえに、本質的に歴史的である[4]。ここから、『医学史のなかの精神医学史』という二重の構えの意味も明らかになる。それは「第二次の研究」——一個の科学の発展そのもののうちに弁証法的に分節された歴史——の企てなのである。

そしてエーは逸話の収集家ではなかった。写真や版画で飾られた古典的な医学史の書物に、彼は「逸脱ないし曖昧化の危険」を見た。何ものもテクストを侵してはならない、と彼は考えた。「歴史とは一個のエクリチュールであり、厳密かつ峻厳な相互反省の必然のうちに著者と読者を結ぶ書きものである、とわたしはミシェル・シトーとともに考える」[4]。——この「ミシェル・シトー(Michel Citeaux)」は、『歴史のエクリチュール』(1975)のミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau)の誤記とみられる。エーが最晩年に、当時のフランスの歴史記述論の最前線を横目で見ていたことの、小さな証拠である。

医学史への関心自体は晩年の思いつきではない。1948年の『精神医学研究』第一巻には「医学史の機械力動論的リズム」があり、ヒポクラティズムのうちに「医学史における最初の、そして重要な力動論的運動」を見いだしている。1955年には『医学=外科事典』に精神医学史を、1960年には『精神医学教科書』に同じ主題を書き、没年の1977年には「精神医学の誕生」を発表している[5]。ただしモレルによれば、1948年の論文でも、1954年に事典の序章として書いた歴史的「総論」でも、エーはヘレニズムの祖先たちに深く分け入ろうとはしなかった。「彼がそこへ来るのはずっと後のこと、バニュルスの隠棲においてであり、そこで中学生時代の記憶とギリシア語への嗜好とが激しく甦った」のである。『医学の誕生』は、この晩年の回帰の産物である。

1-3 編者アンリ・モレルと、空白のまま遺された註

本書が遺稿であることを、テクスト自身が一箇所で露わにする。第三節の末尾、註一三である。

Le manuscrit d’Henri EY porte ici la mention, « Laisser la place pour rédiger une longue note d’environ le volume d’une page entière sur le Bouddhisme et sur la magie chez les Arabes ». H.M.

〔アンリ・エーの手稿はここに、「仏教について、およびアラブ人における魔術について、まる一頁分ほどの長い註を書くための場所を空けておくこと」という指示を記している。H.M.〕

この「H.M.」が、刊行を託されたアンリ・モレル(Henri Maurel)であることは、マッソン初版の標題紙に掲げられた銘によって確定する——Eo defuncto, recognovit, notas et indicem adjecit H. Maurel(著者の死後、H・モレルがこれを校訂し、註と索引を加えた)[6]。2017年のCREHEY増補版——『精神医学の誕生』および「十九世紀初頭のフランスおよびドイツ精神医学における道徳的疾患と治療の概念」を合綴した全405頁の版——も、同じくモレルの校訂による[2]

この銘には、本書を読む者にとって実際的な帰結が一つある。「註を加えた」と明記されている以上、本書の註は一律に著者のものではない。実際、いま引いた註一三は「H.M.」と署名され、モレルの補いであることを明示している。他方、署名を欠く註——たとえば「『効力(efficace)』の語をここでは名詞的に用いる」(註七)や、「本書第二部でわれわれが立ち返ることになる」(註八)——は、その語り口からして著者自身の声である。本稿は、署名のあるものをモレル、ないものをエーとして扱う。4-2 節で本稿がもっとも重視する註四もまた署名を欠き、したがってエー自身のものである。

この註が示すのは、当該の章が著者自身の手で完成されなかったという事実である。仏教と、そしてイスラーム圏の魔術については、エーは書くつもりでいて、書けないまま死んだ。この空白は、あとで見る本節の性格——ユーラシアの東半分がほとんど扱われていないこと——を、たんなる関心の偏りではなく未完の徴として読むことを許す。日本の読者にとっては、なおのこと注意しておいてよい一点であろう。

第二章 『医学の誕生』の構図とアンテ=メディシン

モレルによれば、エーの歴史的視野は二つの軸に沿って方向づけられている。第一はヒポクラテスの著作についての考察、第二は自然(physis)についての広範な省察であり、この二方向は一点で合流する。

…l’acquis majeur de la médecine grecque consiste selon lui en un dépassement des anté-médecines mythiques et religieuses, et une invention de la médecine naturelle.

〔……彼の考えでは、ギリシア医学の主要な獲得物は、神話的・宗教的なアンテ=メディシン〔前=医学〕の乗り越えと、自然的医学の発明とに存する。〕

この一句が、本稿の扱う二節の位置を決める。エーが「魔術=アニミズム的ステレオタイプ」の名のもとに記述するのは、乗り越えられる側の全体像である。医学は自然的疾患(maladie naturelle)という概念の成立をもって始まる。それ以前にあったのは医学ではなく、医学の前にあるもの——アンテ=メディシン——であり、シャーマニズムはその最初の、そして最も純粋な層をなす。エー自身の定式では、こうなる。

L’avènement de la Médecine, c’est la double révolution de l’homme transcendant la couche mythique de son être et de la maladie devenant une modalité de sa nature.

〔医学の到来とは、人間が自らの存在の神話的な層を超越することと、病気がその自然の一様態となることという、二重の革命である。〕(原著78頁、モレルの引用による)

本稿の扱う二節は、この「二重の革命」以前の層を占める。方法は明示的に「ステレオタイプ」の構成である——数多くの民族誌的記述から共通の骨格を抽出し、一個の理念的な情景として再構成する。エー自身の語では、シャーマンとシャーマニズムは「魔術=アニミズム的人類学の理念型(types idéaux)、範例的な実体(entités exemplaires)」である。この方法的自覚は明記しておくに値する。エーは、自分が記述しているのがどこかの実在の民族誌ではなく、構成された型であることを承知している。ただし、後述するように(7-2 節)、彼はその型を構成する際に、脱魂と憑依という互いに構造を異にする二つの技法を、一個のドラマトゥルギーのうちに畳み込んでしまった。

叙述の順序は、(一)ステレオタイプとしての奇蹟治療のトランス、(二)シャーマンという人物——召命・イニシエーション・社会的機能・秘密、(三)「シャーマンは病者か」という問いへの応答、(四)五つの文化圏モデルへの適用、である。本稿もこの順序に従う。

なお、「アンテ=メディシン」を当該章の題として掲げる書き方は、便宜的なものである。底本の該当範囲に章題は現れず、あるのは本文中の語——「アンテ=メディシンのこれら魔術師たち」(70頁)、「アンテ=メディシンのシャーマニズム的原型」(76頁)——と、モレルの用いる複数形 anté-médecines のみである。

第三章 中心テーゼ──魔術の世界に「病気」はない

3-1 Mal(禍)と maladie(病気)

この二節の全体を貫く命題は、繰り返し言い換えられながら、つねに同一である。魔術=アニミズム的な世界には「病気」という範疇が存在しない。あるのは Mal——禍(わざわい)、すなわち病も不運も邪術の害もひとしなみに含む「良くない状態」の総称——だけである。それゆえシャーマンが行うのは治療ではなく、患者は患者ではない。

Ce qui constitue le noyau phénoménologique de la manière d’être au monde de la magie culminant dans cette liturgie thaumaturgique, c’est en effet que le malade n’existe que dans la négation de la maladie. […] Il s’agit dans cette « opération » non pas de guérir une maladie ou un malade, mais d’échanger les valeurs du bien et du mal qui circulent dans le groupe animé par les esprits bénéfiques et maléfiques.

〔この奇蹟治療の典礼において極点に達する、魔術という世界内存在の様式の、その現象学的な核をなすもの——それは、病者が病気の否定においてのみ存在するということである。[…]この「手術」において問題であるのは、一個の病気なり一人の病者なりを癒すことではなく、善の霊と悪の霊とに活気づけられた集団の内部を循環する、善と悪との価値を交換することなのである。〕

この定式は、エーがいたるところで「病者」「病気」「治療」の語を鉤括弧のうちに置く理由を説明する。彼はメラノ=アフリカ型を論じる箇所で、この用語法上の慎重さを明示的に弁明している——多くの社会学者・人類学者・精神分析家・医師が躊躇なく「病者」「病気」「治療」と言うけれども、自分はその不用意(imprudence)、より正確にはその誤読(contresens)を犯さない、と。記述する側は、記述される側に病気という範疇が存在しない、その水準に身を置かねばならないからである。

3-2 求心的認識と遠心的認識

この命題は、エーが本書全体の leitmotiv と呼ぶ、より大きな対立の一つの現れである。

De telle sorte que nous devons souligner ici l’apparition de ce qui fera le leitmotiv de cet ouvrage : la divergence fondamentale de la voie centripète de la connaissance du sacré et de la voie centrifuge de la connaissance objective. À cet égard, l’expérience magico-animique de la « possession » et de la « dépossession » qui est l’apanage du Shaman est à l’antipode de l’expérience du savoir scientifique. Elle consacre le mal moral et surnaturel en excluant la maladie physique et naturelle. Par là même elle substitue la mythologie à la pathologie, telle que celle-ci va être au cours des siècles si difficilement mais si solidement établie par les progrès du savoir médical.

〔したがってわれわれはここで、本書の leitmotiv をなすものの出現を強調しておかねばならない。すなわち、聖なるものの認識という求心的な道と、客観的認識という遠心的な道との、根本的な分岐である。この点において、シャーマンの専有物である「憑依」と「脱憑依」の魔術=アニミズム的経験は、科学的知の経験の対蹠点にある。それは道徳的・超自然的な悪を聖別することによって、身体的・自然的な病気を排除する。そのことによってそれは、病理学の代わりに神話学を置く——数世紀のあいだにかくも困難に、しかしかくも堅固に、医学的知の進歩によって確立されてゆくことになる、あの病理学の代わりに。〕

「病理学の代わりに神話学を置く(substituer la mythologie à la pathologie)」——この二節のもっとも凝縮した一句であり、エーの医学史全体の設計図でもある。求心と遠心という比喩の選択にも注意しておきたい。聖なるものの認識は主体の内へ巻き込まれてゆき、客観的認識は主体から外へ出てゆく。この方向の対立は、エーにおいてはたんなる認識論の図式ではなく、意識の構造そのものについての彼の理論と地続きである(4-3 節)。

3-3 アンテ=メディシンかつアンチ=メディシン

ここからエーは、医学史への強い規範的要求を引き出す。医学史家たちは、魔術師たちにあまりに安易に「免状」を与えてきた——彼らを「メディシン・マン」と呼び、その呪術を医学の幼年期として叙述してきた。しかしそれは、当の社会自身が病者であることを否定している者を「病者」と呼び、医者でない者を「医者」と呼ぶことである。

L’histoire de la Médecine ne peut pas tenir ces maladies, ces thérapeutiques, ces « medicine-men » pour de vrais malades ou de vrais médecins. C’est hors de la Médecine qu’ils se situent.

〔医学の歴史は、これらの病気を、これらの治療を、これらの「メディシン・マン」を、真の病者や真の医者とみなすことはできない。彼らが位置するのは、医学のなのである。〕

それゆえシャーマニズムは、医学に先立つもの(アンテ=メディシン)であると同時に、医学に対立するもの(アンチ=メディシン)である。エーはこの二つの語を、当該箇所の締めくくりで並置する。この二重性が、「魔術=アニミズム的ステレオタイプ」という一見中立な看板の下に隠されていた、真の主張である。

第四章 奇蹟治療のトランス──エーの記述するもの

4-1 黄昏の宇宙

エーは、シャーマンの儀礼を「美学・劇作法・演劇性、そしておそらくは詩」として再構成することを宣言してから、記述に入る。全体の調子を決めるのは、夢と薄明である。

L’univers archaïque est crépusculaire, et c’est dans la lumière, à peine à son aurore ou déjà éteinte, que se déroulent la liturgie, les rites, les cérémonies, les miracles, les simulacres de cette fantasmagorie.

〔古層的宇宙は黄昏に属する。典礼も、儀礼も、儀式も、奇蹟も、この幻燈のごとき見世物の模像も、ようやく曙にかかったばかりか、あるいはすでに消えかけた光のなかで進行するのである。〕

儀礼の前段階は「前脱魂的視像(vision pré-extatique)」——自然と人間の側に現れる徴のうちに、シャーマンの精神が読み取りを始める段階として描かれる。エーが列挙する徴の目録は、彼の文体の特質をよく示している。風、森のざわめき、鳥の群れと並木の異様な交差。老人の眼差しが新生児のうえに置かれること、女の排泄物あるいは月経の匂い、瀕死の者の不意の吃逆、少年が死者の岩に向かって三度繰り返す挨拶、樺の根を噛むこと、赤い衣の裂け目、川から戻ってくる者たちの叫びと歌と、そして涙と呟き。

やがて太鼓が入る。シャーマン自身が樺の木から作った太鼓である。エーは、太鼓の連打の加速が幕を開ける合図となり、集団的トランスへ、そして禍(わざわい)の顕現——人格化され、ついに名指される le Mal——へ、さらにトーテム動物の犠牲へと進行する過程を、一続きの舞台として書く。治癒は、悪霊の排出——シャーマンが吸引によって取り出し、血に染まった象徴(挽き潰された蚯蚓、蜥蜴の尾、押し潰された蠍)として吐き出すこと——において完成する。

4-2 ErgriffenheitBesessenheit

トランスそのものの叙述の中心にあるのは、脱魂の語彙である。それは「精神の移住(migration de l'esprit)」であり、「脱肉体化(désincarnation)」であり、驚異的な浮揚、素晴らしい旅、超自然的世界の垂直性を上昇し聖なる空間の無限の水平性を踏破する魂の上昇である。ここまでは、エリアーデの「古代的エクスタシー技術」の記述と重なる。

そしてエーは、この状態を指す語に一つの註を付す。この二節のうちで、日本の読者にもっとも注意を促したい一箇所である。

L’Ergriffenheit disent les Allemands, en opposant cet état de grâce à la Besessenheit ou état de possession (cf. ZUTT, 1972, et particulièrement les contributions de W. R. MÜHLMAN et de Helmut HOFFMANN à ce Symposium de Homburg, mai 1968).

〔ドイツ人はこれを Ergriffenheit〔感捉、捉われ〕と言い、この恩寵の状態を Besessenheit〔憑依状態〕に対置する(ツット1972年、とくにこのホンブルク・シンポジウム〔1968年5月〕へのW・R・ミュールマンおよびヘルムート・ホフマンの寄稿を参照)。〕

ここでエーが指しているのは、ユルク・ツットの編になる論集『感捉と憑依——文化を超えた人類学的・精神医学的問題をめぐる学際的討議』(ベルン/ミュンヘン、フランケ社、1972年)である[7]。この論集は1968年5月にホンブルクで開催されたシンポジウムの記録であり、エーが別に「1968年」の名で引くカール・イェットマルのパキスタン西部・カフィリスタン報告も、同じ場に由来するものとみられる。

重要なのは、この註が示す事実である。脱魂と憑依という二つの様式を分かつ語彙は、宗教史(エリアーデ)とは独立に、ドイツ語圏の精神病理学と民族学の共同の場で鋳造されていた。恩寵の状態としての Ergriffenheit と、占有された状態としての Besessenheit。前者においては人間が霊に「捉えられる」が、なお主体として在る。後者においては人間は霊に「所有される」器である。能動性の所在という一点で二つが分かれるこの区別は、エリアーデの脱魂/憑依の軸と、系統を異にしながら同じ場所を切っている。この事実は、当該の軸が特定の学派の思弁ではなく、複数の学問が独立に到達した切断線であることを示す。

ただし——ここが弱点でもあるのだが——エー自身は、この区別を分析軸としては用いない。同じ数頁のうちで、彼は「シャーマンの専有物」を「憑依と脱憑依の魔術=アニミズム的経験」と言い直し、また「彼自身が悪霊の力に憑かれる」とも書く。すなわちエーは、第一軸の語彙を註に持ちながら、本文ではそれを軸として立てなかったのである。この点については7-2 節で改めて論じる。

4-3 夢としてのトランス──器質力動論との接続

記述の部分を終えて構造分析に移る箇所で、エーは断定する。

Il ne fait de doute, bien sûr et d’abord, que la grande transe shamanique, festival de l’art poétique de la magie, est comme un rêve. Et seulement comme un rêve […]

〔まず第一に疑いようのないことだが、あの大いなるシャーマン的トランス、魔術の詩的技法の祝祭は、夢のごとくである。そしてただ夢のごとくであるにすぎない〔…〕。〕

この一句を、比喩として読み過ごすことができる。しかしエーの読者はそうしない。エーにとって夢とは、意識野(le champ de la conscience)の脱構造化の範型そのものであり、『意識』の全体がこの範型の上に構築されている[1][8]。彼が精神病理現象を記述するとき、その参照点はつねに夢であった。だからここでの「夢のごとし」は、シャーマン的トランスを彼自身の意識理論の座標のうえに置く操作である。

そして注目すべきは、その操作が脱病理化として働いていることである。「夢のごとし」は、この場合「病のごとし」を意味しない。夢は誰にでも生じ、意識の解体は日々可逆的に起こる。トランスを夢の側に置くことは、それを疾患過程から引き離すことなのである。エーは同じ段落で、この現象が「客観的現実を構成する自然的な諸力を排除して」いること、それゆえ想像的なものの秩序に属することを述べ、そこから直ちに、これは「人間の『自然』の古層的・形相的な核の顕現」であり、「この自然が身体的であることをやめて象徴的秩序のうちに反射し、各人あるいは人類全体の最初の心的発達を構成する水準」に属する、と続ける。トランスは病理でも未熟な思考でもなく、象徴的秩序が身体から離陸する、その最初の場面として位置づけられているのである。

この読みが正しければ、当該の二節は医学史の一部であると同時に、エーの意識理論の外挿の試みでもある。人類の宗教の始原に、意識の脱構造化の範型を置くこと。これは大胆な操作であり、また批判されうる操作でもある(7-3 節)。だが少なくとも、これを「専門外の余技」として片づけることを、この一句は許さない。

4-4 現象学的核、両義性、神話

構造分析の部分でエーが数え上げる特徴は、彼自身の数え方に従えば四つである。第一は前節に述べた「夢としての性格」。第二は、3-1 節に引いた現象学的核——病者は病気の否定においてのみ存在する——であり、ここでエーはレヴィ=ストロース『構造人類学』第九章に依拠する。彼が引くのはその一句である。これらの要素は分離しえないが、「シャーマン自身の親密な経験によって形成される極と、集団的合意によって形成される極」という二つの極のまわりに組織される、と[9]。この二極性は、状態像と職能という区別の、人類学の側からの先取りである(拙稿「シャーマニズム論考」6-4 節[10])。

エー自身が「第三の実存的特徴」と明記するのは、大魔術師の両義性である。シャーマンは善と悪の双方の受肉であり、「矛盾の上位に」ある。恩寵の恍惚のうちにあるときは救済の天使であり、悪霊に憑かれているときは他者から悪を取り去ることも、逆に他者に悪を課すこともできる。癒す力と病ませる力は同一の力である——これが白い魔術と黒い魔術に共通の曖昧さを与え、その曖昧さは儀礼の参加者たちにも、そして施術の対象となる者にも及ぶ。対象となる者は、崇拝と憐憫の対象であると同時に恐怖と嫌悪の対象、要するに一個の「タブー」である。

そして「最後に(Enfin)」と彼が置くのが、第四の要素、すなわち神話である。この魔術の「大ミサ」の演者たちの言葉と身振りと痙攣のうちに、宇宙創成の寓話、驚異的な誕生、永遠回帰、地獄への墜落、死との闘いの勝利、そして英雄と神々の「非歴史的な」物語——変身、冒瀆、殺害、近親相姦——が導入される。トランスが借りる宇宙的な次元は、この神話に由来する。エーはここでもレヴィ=ストロースを引き、これらの「治療」に共通の価値を、大いなる管弦楽の総譜のごとく作曲され歌われ演奏された詩学のうちに見る。

シャーマンの性についてのエーの叙述も、両義性の一部として置かれている。「シャーマン」は男性名詞で語られるが、女性の術者もあり、シャーマンの職能が女性に専属する氏族さえある(エーはマルセル・ブーテイエを引く)。そして、シャーマンであること・シャーマンになることを特徴づける「特異性」のうちには、同性愛、および男女の二重の(あるいは反自然的な)性が数えられる——それは「シャーマン的資質に適した一種の超自然(surnature)」を構成する、と[11]。加えて註五で、儀礼のエロティックな配置における性的興奮は、それを打つタブーの価値によってむしろ「その不在と根源的な消去によって」現前していると述べる。夢において性が変装してしか現れないのと同じように、と。

最後に、秘密。シャーマンはどの文化圏にあっても閉じた円環、秘密結社に属する。その儀礼も技法も言語も、根本的に秘教的である。エーはここで、あらゆる社会がその潜在的構造のうちに秘密結社を蔵しているという命題を立て、聖なるものであるためには語られてはならぬもの、というかたちで言葉が「爆発物」となる場所を指し示す。この一節は、当該箇所のうちでもっともバタイユ的な調子を帯びている。

第五章 シャーマンは病者か

5-1 論争の地図

学史的な価値がもっとも高いのは、この節である。エーはまず、問いの立ち方そのものを腑分けする。魔術=アニミズム的信念に支配された社会構成のうちでは、魔術を病気とみなすことはありえない。なぜならそこでは逆の命題が自明だからである——悪(人類学的な場としての le mal)こそが魔術の効果なのである。したがって「シャーマンは病者か、とりわけ精神病理学的障害に罹患した病者か」という問いは、「事後的に」、学者たる医師あるいは社会学者の反省的意識に対してのみ立ちうる。問いの成立条件そのものが、外部の観察者の位置に依存しているという指摘である。

そのうえでエーは、論争の両陣営を列挙する。病理説の側には、エリアーデが挙げる旧世代の人類学者たち——クリヴォシャピン(1861)、ボゴラズ(1910)、チャプリツカ(1914)——に加え、より近くはドゥヴルーが引くクローバー(1952)、ラルフ・リントン(1956)、ラ・バール(1967)が並ぶ。オーケ・オールマルクス(1939)は、北極圏シャーマニズム——彼によればそれが原初形態である——を過度の寒冷の病理的帰結とみなし、ヒステリー性トランスたる「メリャク」をその効果とした(いわゆる北極ヒステリー)。これはインドネシアのシャーマニズムの病理的性質についてのウィルケンス(1887)の見解を裏づけるものであった。そしてドゥヴルー(1970)が、エーの言葉では「実を言えばかなり困惑した議論の後に、あるいはその前に」、この説を自らのものとして引き受けた。

反対の側には、M・E・オプラー(1936)、E・H・アッカークネヒト(1941)、M・ブーテイエ(1950)、M・エリアーデ(1951)、そしてより近くはH・ホフマン(1968)が置かれる。エーはまず経験的な反論を確認する——今日なお存続するシャーマン制度についての、もっとも真摯な観察者たちの報告は、多くのシャーマンが恍惚の外では、また聖なる資質の行使の外では、正常にふるまうことを保証している。

5-2 規範性による論駁

しかしエーの本領は、この経験的反論の先にある。彼はそれとは別に、より強い論証を立てる。

Par définition, en effet, il ne l’est pas, tout au contraire ; car il est membre d’un groupe culturel régi par une institution normative, et conforme à cette normativité.

〔じっさい定義上、彼は病者ではない。まったく逆である。なぜなら彼は、規範的な制度によって統べられた一個の文化集団の成員であり、しかもその規範性に適合しているからである。〕

これは統計的な議論でも臨床的な議論でもない。規範性(normativité)についての議論である。ある集団が規則・禁忌・信念によって飽和した構造を持ち、その構造が個々の成員に役割と職分を配分しているとき、その配分に適合している者を、構造の外から持ち込んだ基準で病者と呼ぶことはできない。この語の選択がカンギレムの『正常と病理』を想起させることは偶然ではあるまい[12]。エーはここで、フランス医学認識論の中心的な概念を、人類学の資料に対して行使している。

そして、この論証には切れ味の鋭い裏面がある。

les sorciers, les guérisseurs, les shamans, tout à la fois participant du dieu et du prêtre, ne peuvent être considérés comme « malades » […] sans être assimilés du même coup aux patients qu’ils « guérissent ».

〔呪術師、治療者、シャーマンたち——神にも司祭にも同時にあずかる者たち——を「病者」とみなすことは、彼らが「癒す」ところの患者たちに彼らを同化させることなしには、できない。〕

すなわち、シャーマンを病者と呼ぶ者は、同じ論理によって、彼が癒す者たちをも病者と呼ばねばならない。ところがこの価値体系においては、集団を構成するすべての人間が等しく同じ道徳的身分——病気ではなく、悪と邪術の身分——に服している。したがって病者/健常者という切断線を、この体系の内部に引くことはできない。切断線が引けるようになるのは、自然的疾患という概念が成立してからである。エーはこれを積極的に定式化する——自然的疾患の概念は、悪と善との仮借ない道徳的闘争のもとにすべての成員を同一水準へ還元するのではなく、病の自然的な境界を限定することによって、集団のうち誰が(自然的に)病んでおり誰が病んでいないかを診断することを可能にし、むしろ命じるのである、と。

この一段は、当該箇所のうちでもっとも射程が長い。病気という概念の成立を、たんなる知識の進歩としてではなく、集団の内部に差異を導入する装置の成立として記述しているからである。

5-3 シャーマンと精神分析家

そのうえでエーは、註八において、いかにも彼らしい一撃を加える。同じ註の冒頭で「『フロイト的なもの』——本書第二部でわれわれがしばしば飽くことなく立ち返ることになるもの」と予告したうえで、こう続けるのである。

le piquant est qu’effectivement la fonction du Shaman, sa « maladie », sa propre guérison, sa technique de guérison du patient nous renvoient dans les « temps modernes » à la fonction du mage-psychanalyste, à son analyse personnelle de malade inconscient, à son analyse libératrice qui seule, lui confère le pouvoir d’exorciser par l’exercice magique du verbe…

〔妙味は、シャーマンの職能、その「病」、彼自身の治癒、患者を癒す彼の技法が、じっさい「近代」においてわれわれを、魔術師=精神分析家の職能へ、無意識的な病者としての彼自身の個人分析へ、そして言葉の魔術的行使によって悪魔祓いを行う力を彼に授ける唯一のものたる、その解放的な分析へと差し向ける、という点にある……〕

教育分析を経ることによってはじめて言葉によって癒す資格を得る分析家と、自らの召命病を癒すことによってはじめて他者を癒す資格を得るシャーマン。エーはこの対応を、レヴィ=ストロース「象徴的効果」の議論と結びつけて示唆にとどめる[9]。ただし、これを称賛と読むか皮肉と読むかは、読者に委ねられている。「魔術師=精神分析家(le mage-psychanalyste)」という合成語を、精神分析に対して終生一定の距離を保った器質力動論者が用いていることの含みは、小さくない。

第六章 五つの文化圏モデル

6-1 五つのモデル

第三節でエーは、構成したステレオタイプを五つの文化圏に当てて検証する。順に、チベット=シベリア型、バビロニア=セム型、北米インディアン型、オーストラリア=オセアニア型、メラノ=アフリカ型である。

チベット=シベリア型は、第二節の記述の基盤とされた「母型」であり、エーの言葉では「いわば超時間的」なものである。中央アジア・チベット・シベリア・満洲、テュルク/モンゴル/ツングース諸語の交差点に発する。「シャーマン」という語の語源をめぐるバンザロフの突厥=蒙古語起源説と、レミュザ/マックス・ミュラーのサンスクリット起源説の対立、ピョートル大帝時代のコサックの記録による西洋への登場といった学史的事項が簡潔に整理されている。参照はネベスキー=ヴォイコヴィッツ、ディオセギ、ホフマン、イェットマルなど。

バビロニア=セム型は次章への予告として短く扱われ、アッシリア=バビロニアの祭司と魔術師が呪文・儀礼・悪魔祓いの定式を「真の黒い魔術」の域にまで高めたこと(コントノー)、占星術・神託・占卜・肝臓占いが悪と悪霊の祓魔の神話的儀礼化を構成したことが述べられる。あわせてアドルフ・ロッズに拠り、バアル崇拝に耽ったカナン人の物神崇拝的・トーテム的魔術が挙げられる。

北米インディアン型については、マルセル・ブーテイエのソルボンヌ学位論文(1950)が主要な参照であり、エーは「シャーマニズム一般を論じるにあたってブーテイエが主として北米型を参照しているのは当然である」と述べる。タイラー、ロバートソン・スミス、フレイザー、ボアズ、クローバー以下の膨大な調査史が数え上げられ、そのうえでレヴィ=ストロースがボアズの採録したクワキウトル語のテクスト(コスキモ族のシャーマンによる治療の記録)に払った注意が特記される。ここでエーは、医学史家が「メディシン・マン」に与えてきた「免状」への疑義を最初に提出する。

オーストラリア=オセアニア型は、当該箇所のうちでもっとも独自性の高い議論を含む。次節で別に扱う。

メラノ=アフリカ型については、エーは十九世紀以来の旅行記・探検記の系譜を辿ったのち、現代の現地調査に重心を移す。とりわけ彼が「決定的な関心を示す」と述べるのが、ディディエ・ミショー(1972)による論文「ンドプの治療的歩み」であり、A・ゼンプレニ(1966)のレブー人・ウォロフ人の憑依儀礼研究がその前提となる[13]。ンドプの進行——言語的・身体的な現れ、シャーマン的な高等飛行、悪霊の名指し(rab の同定)、転移と排出の操作、トーテム動物の犠牲における流血、そして「病者」とその rab の正常化——を追跡し、儀礼を司る ndöpkat の役割・人物・職能が、第二節で構成したステレオタイプと「全面的に同一」であることを確認する。この確認をもってエーは、当該の型の「普遍性の恒常性」を主張するのである。またこの箇所は、彼が「病者」の語を鉤括弧に入れる理由を最も明確に述べる箇所でもある(3-1 節)。

なお、このメラノ=アフリカ型の記述には、エーの図式の内部に生じた一つの亀裂がある。彼はここで、「シャーマニズム的職能が、同じトランスに入る集団全体に委ねられている」場合を認め、そのうえでそれが「ある種の参加者あるいは司祭者において最高度に担われる」と述べるのである。職能が個人に固定されず、集団に分有されうるという観察は、単独の術者を前提とする彼のステレオタイプを、彼自身が緩めた箇所として読める。

章の結びには、コートジヴォワールの術者アルベール・アチョに治療された病者マルセルの長い記録が、「病気・治癒・魔術」という三概念の問題系に立ち入る機会を与えたものとして挙げられる[14]。註一二では、除外した二つの魔術=民族圏——アビシニア(ザール憑依、グリオール、レリス)と北アフリカ(マグレブ、モロッコのアイサワ、ジンの邪術)——が補われている。

6-2 デュルケームの沈黙とアラトゥンジャ

オーストラリアの節でエーが行うのは、デュルケーム『宗教生活の原初形態』の読み直しである。まず彼は一つの事実を指摘する。

Il est remarquable en effet que non seulement E. DURKHEIM ne cite jamais (nous semble-t-il) le terme de shaman (ou chaman), depuis lors si largement employé, mais qu’il est difficile de trouver dans son ouvrage un chapitre ou même un paragraphe sur le personnage, la fonction, les rites et les mythes correspondant au pouvoir de guérir ou au maléfice de la maladie.

〔じっさい注目すべきことに、E・デュルケームは(われわれの見るかぎり)その後かくも広く用いられることになる「シャーマン」の語を一度も引かないばかりでなく、彼の著作のうちに、癒す力あるいは病の邪術に対応する人物・職能・儀礼・神話について論じた一章、いや一段落を見いだすことすら困難なのである。〕

そしてエーは、この沈黙を説明する。デュルケームの氏族は、純粋にアニミズム的な組織として、すなわち魔術的な発散として構想されている。そこではすべての人間、すべての出来事、儀礼化された生のすべての形態が、氏族を統べる魔術的法則そのものの現れである。純/不純の範疇と聖なるものの偶像崇拝、タブーの命令に全面的に従属したこのような体系においては、身体も生も死も病も、「悪との闘いの偶発的な現れ」としてしか出現しえない。ゆえにシャーマンという固有の人物が、そこに座を持たない。

ここでエーが行っているのは、大理論の沈黙を、その理論の構成そのものから説明するという操作である。デュルケームはシャーマンを見落としたのではない。彼の理論の構成が、魔術と社会とを同一の水準に畳み込んだために、その内部に治病職能という別の水準を立てる余地がなくなったのである。

しかしエーはそこで止まらない。「だがこの沈黙は空虚ではない」と彼は続ける。『原初形態』を注意深く読めば、各頁・各行に、悪を癒す魔術的力への、また悪霊による呪縛と憑依への、たえざる暗示が含まれているばかりでなく、「シャーマン」の職能と、浄化・修復・救済の祓魔儀礼についての、広範で明快な叙述を見いだしうる。エーの読みでは、アルンタ族のインティチウマ儀礼——氏族を活気づける魔術的力(デュルケームの言う「実体化された」力)を、個々の成員が自己の外へ出て聖なる祝祭のうちにトーテムの霊と同一化することによって顕現させる儀礼——を司るトーテム集団の長アラトゥンジャこそ、シャーマンの職能を委ねられた者である。彼はエンブレムを担い、脱肉体化することによって氏族の「マナ」を受肉する。そして儀礼の推移、とりわけデュルケームが「贖罪儀礼(rites piaculaires)」と呼ぶものは、死の祓魔・再生・復活の典礼であるにとどまらず、「治癒」を得るための魔術的手続きの総体——奇蹟治療的な治療——でもある[15]

この読み直しの当否は、オーストラリア民族誌の専門的判断に属する。だが操作としては明快であり、そして本稿の読者にとっては見覚えのあるものである(8-2 節)。

第七章 批判──今日の水準から

7-1 文体と語彙の時代性

この二節を今日そのまま引用することはできない。エーの筆致は極端に表現主義的であり——「黄昏の宇宙」「シュルレアリスム的ながらくた」「悲喜劇的カーニヴァル」「幼児的なごたまぜ」——、その修辞は記述の対象を美的享受の位置に置く。より重い問題は語彙である。「原始的な群れ」「野蛮な」「先史的な」「幼児的な」といった語は総論部にすでに現れ、そこにアフリカを論じる箇所の「黒い魔術」「エピナル版画」が加わる。エーはこれらの語をしばしば引用符に入れており、その限りで距離の意識はある。しかし「黒いアフリカと黒い魔術は、社会人類学のエピナル版画のアルバムのうちで、おそらく人類が含みもつもっとも激烈で、色彩豊かで、熱いもののイメージを形づくる」といった一文は、2020年代の読者に対して弁護を要する。

これはたんなる作法の問題ではない。エーが構成した「ステレオタイプ」の普遍性は、じつのところ、探検家・宣教師・植民地行政官の報告という、特定の歴史的条件のもとで生産された資料の均質性に負っている部分がある。「多様性の下でどこまでも絶望的に同一(désespérément les mêmes sous leur diversité)」という彼の断定は、対象の同一性の証明であるよりも、観察の枠組みの同一性の徴候であるかもしれない。

7-2 脱魂と憑依の未分化

方法上、より重大な難点はこれである。4-2 節に見たとおり、エーは ErgriffenheitBesessenheit の区別を註に記しながら、本文ではそれを軸として用いない。彼のステレオタイプにおいて、トランスは魂の移住・浮揚・上昇(脱魂)として描かれ、同じシャーマンの経験が「憑依と脱憑依」とも呼ばれ、また彼は「悪霊の力によって自ら憑かれる」ものとしても描かれる。構造を異にする二つの技法が、記述の水準で融合してしまっているのである。

この未分化は、エーがエリアーデを引いていながら、エリアーデの核心的な区別を採用しなかったことを意味する。エリアーデは、憑依がきわめて古層に属する宗教現象でありうることを認めたうえで、なおその構造が厳密な意味でのシャーマニズムのエクスタシー経験とは異なると明言していた[16]。エーの「ステレオタイプ」は、この構造の水準での区別を、劇的統一性のために犠牲にした。文学的な達成が、分析的な達成を妨げた例と言ってよい。

もっとも、この難点には別の読み方もありうる。純粋な脱魂型も純粋な憑依型も理念型にすぎず、現実の事例は両者の混合として現れる——この事実の側から見れば、エーの記述は、理念型を経由せずに現実の混成をそのまま写し取った記録として読める。問題は、彼がそれを混成として自覚していないことである。

7-3 ルイスの不在と、普遍主義

エーは、この二節を1970年代なかば——引用される最も新しい文献は1975年の映像記録である——に書いている。にもかかわらず、I・M・ルイス『エクスタシーの宗教』(1971)は引かれない[17]。その帰結は小さくない。権威の座という変数が、彼の記述には立たないのである。担い手が共同体の中心に確立した座を占めるのか、それとも座を持たぬまま個別の機会に発動するのか——この差異は、エーにおいて主題化されない。前章に見たとおり、彼はンドプの記述で職能が集団に分有されうることを認め、また秘密結社という「閉じた円環」への所属を強調してもいるが、それらはいずれも権威の座の類型学へは展開されない。

普遍主義についても同様である。エーは方法的自覚をもって「理念型」の語を用いながら、実際にはエリアーデ以上に強い普遍主義に踏み込む。「アーキタイプ」「パターンの恒常性」「普遍性の恒常性」——これらの語は、エリアーデ以後のシベリア民族誌が実証的に切り崩してきた当のものである。理念型として運用するならば、現実がその型からどれだけ・どの方向へ隔たるかを測る用途が明示されねばならない。エーの用法にはその測定の契機が乏しく、型はしばしば実在の主張へ滑る。

7-4 医学史としての射程

最後に、エーが引いた境界線そのものについて。「メディシン・マンは医者ではない、彼らは医学の外にいる」という主張は、医学史の内部では強い規範的立場である。それは、呪術的治療を医学の前史として連続的に叙述する通俗的な医学史に対する、明確な断絶の主張であり、その限りで有効である。しかしこの線は、宗教史の側の関心——職能の様式、権威の座、儀礼の社会的位置——とは直交しない別の線である。

そして、エーの職能論の重心は明確に治病にある。占術・雨乞い・集団内の紛争(盗み、嫌疑、冒瀆、殺人未遂)の解決といった機能を彼は逐一挙げており、儀礼の前段階を「占い(divination)」と呼び、シャーマンの力を「占いと治癒の力」と対で書きさえする。しかし彼が明記するとおり、「その主要な職能は癒すことである」。エーの枠組みを他分野へ移植しようとする者は、この重心を明示せねばならない。彼の関心は、癒す者としてのシャーマンにあり、統べる者としてのシャーマンにはないからである。

第八章 受容──日本の読者にとって

8-1 ICD-11診断ガイドラインの先蹤として

5-2 節に見たエーの論証——「定義上、彼は病者ではない。彼は規範的制度に統べられた集団の成員であり、その規範性に適合しているのだから」——は、四十年余りののち、世界保健機関の診断ガイドラインのうちに、規則として現れることになる。ICD-11 の臨床記述・診断要件(CDDR, 2024年)は、統合失調症および他の一次性精神症群について、文化的に承認された観念・信念・行動の表出をこれらの範疇で分類してはならないと明記し、解離症群についても、受容された文化的・宗教的・スピリチュアルな実践の一部である体験は症状とみなしてはならないと定める。とりわけトランスおよび憑依トランス状態については、それが不随意かつ望まれないものであり、集合的な文化的・宗教的実践の一部として受容されておらず、かつ著しい苦痛または機能の障害をもたらす場合に限って、精神疾患の特徴とみなされるべきである、とされる[18]

論理の構造は同一である。判定の基準を、現象それ自体の記述にではなく、その現象が当該集団の規範体系のうちに占める位置に置くこと。エーが理論として述べたことを、CDDRは診断規則として成文化した。両者のあいだに直接の影響関係を主張するつもりはない——この遺稿はフランス語圏でもほとんど読まれてこなかった。指摘したいのは、系譜の存在ではなく、収斂の事実である。臨床の側と医学史の側から独立に出発した二つの思考が、同じ結論に到達している。この収斂は、CDDRの当該条項がたんなる文化相対主義への政治的譲歩ではなく、規範性という概念に基づく論証の帰結であることを示す傍証となる。

8-2 「シャーマニズム論考」への接続

拙稿「シャーマニズム論考」(覚え書きVII)は、技法の軸(脱魂/憑依)と権威の座の軸(中心的/周辺的)がなす座標系のうえに、神功皇后の託宣と卑弥呼の鬼道を定位する試みである[10]。当該箇所がそこに接続しうるのは、四点である。実装は同稿の改訂として別途行うこととし、ここでは見取り図のみを記す。

(一)第一軸の第三の裏づけ。 現在、脱魂/憑依の軸はエリアーデ(宗教史)に拠って立ち、ファロの定義論がその一方の極——脱魂の極——を宗教学の側から独立に裏書きしている[19]。ここにエーが引くツット論集の ErgriffenheitBesessenheit を加えれば、支持は三重になり、しかも第三のものは、両極を同時に名指す語彙として、ドイツ語圏の精神病理学と民族学の共同作業から独立に鋳造されている。ファロが脱魂の極だけを裏書きするのに対し、ツット論集の対概念は軸そのものを裏書きする。同時に、エー自身がこの語彙を軸として用いなかったという事実は、「区別の語彙を持つことと、それを分析軸として立てることとは別である」という方法的教訓として引用しうる。

(二)「シャーマンは病者か」論争と、CDDRの位置。 同稿 2-3 節はウォルシュを介してエリアーデとアッカークネヒトの警句を引き、そこでヤスパースの了解/説明の区別を導入し、6-4 節でその区別を状態像と職能の腑分けへ適用し、結論でCDDRを引く。エーの当該節は、その論争の1860年代から1970年に及ぶ布置を一次的に地図化し、かつ規範性による論証を提供する。前節に述べたとおり、これによりCDDRの引用は権威の援用から思考の収斂の記録へと位置を変える。

(三)社会的機能の軸と、治病という重心。 同稿 6-3 節の第三軸は、占術的(個別決定の正統化)と鎮魂的(宇宙論的秩序の維持)の二極からなる。エーのシャーマンは、この二極のいずれをも副次的な機能として持ちながら、重心を治病に置く——「その主要な職能は癒すことである」。日本側の資料にもこの機能は豊富に存在する(行者、寄祈祷、イタコ)。しかし——ここが所見である——卑弥呼も神功皇后も治病しない。エーが中心に据える機能を、二人の巫女王はともに欠き、彼が周辺に配した機能(託宣)だけを担う。これは巫女王という型を、より広いシャーマン概念から切り出す一つの指標となりうる。同時に、エーの「アンテ=メディシン」の枠組みをそのまま輸入できない理由——彼の引く境界線は呪術/医学であって、技法/権威の座とは直交しない別の線である——も、これで説明がつく。

(四)デュルケームの沈黙と、水準の畳み込み。 同稿 3-2 節は、キャンベルの狩猟民族型/農耕民族型という二項対立が、記述の水準を異にする複数の変数(技法・権威の座・生業・系統)を一つの類型名のもとに畳み込んだものであることを示し、これを分解する。エーがデュルケームに対して行った操作は、これと同型である——大理論の沈黙を、その理論が水準を畳み込んだことの症状として診断する。対象は異なる(キャンベルの主要な素材はシベリア=北方の民族誌であり、デュルケームのそれはオーストラリアである)が、診断の形式は同じである。短い註として置くだけで、当該の手続きが本稿独自の難癖ではなく、先行者を持つものであることを示せる。

結語

『医学の誕生』のシャーマン論は、完成された学問的達成ではない。文体は時代に属し、資料の扱いは今日の水準からすれば粗く、方法上の要をなすはずの区別は註のなかに置き去りにされている。著者はこの部分を書き終えることなく死に、仏教とイスラームのために空けられた一頁は白紙のまま残された。書名すら、彼のものではない。

それでもこのテクストが読まれるべきなのは、二つの理由による。第一に、ここには、1970年代のフランス精神医学が人類学の資料に対してどのような姿勢を取りえたかの、稀な記録がある。病気という範疇の成立を、知識の進歩としてではなく、集団の内部に差異を導入する装置の成立として記述する視角は、今日でも古びていない。第二に、この部分は、シャーマンを病者と呼ぶことの不可能性を、経験的にではなく規範的に論証した。その論証は、四十年後の国際診断基準がたどり着いた地点と一致する。

モレルの言うとおり、エーは通常の意味での医学史家ではなく、語源的な意味での「歴史家」——探究する者——であった。その探究者が、バニュルスの隠棲において医学の起源へ遡ろうとして最初に見いだしたのが、「そこには病気がない」という発見であったこと。この逆説のうちに、未完の書物の全体が畳み込まれている。

参考文献

[1]Ey H. La conscience. Paris: PUF, 1963; 2e éd. 1968. 邦訳:大橋博司訳『意識』みすず書房、1969年。(引用箇所:序、4-3 節)a b
[2][底本]Ey H. Naissance de la médecine ; suivie de Naissance de la psychiatrie ; & La notion de maladie morale et de traitement dans la psychiatrie française et allemande du début du XIXe siècle. Éd. augmentée, établie par Henri Maurel. Perpignan: CREHEY, 2017, 405 p. (coll. Clinique et psychopathologie). ISBN 978-2-9527859-5-2. 本稿が扱うのは同版 pp. 56–76、すなわち第II節 « Le stéréotype magico-animiste : le Shaman et la transe thaumaturgique » および第III節 « Divers types et aires culturelles du shamanisme »。当該箇所の文献目録は pp. 83–86 に置かれる(原註六)。本版にはモレルの序文が付されている。(引用箇所:全編)a b
[3]エーの邦訳は相当数にのぼる。単独訳としては大橋博司訳『意識』(みすず書房、1969年)があり、『無意識』および近年完成した『幻覚概論』はいずれも複数の監訳者・訳者による共訳である。『夢と精神病』は『精神医学研究』(Études psychiatriques)の一章の単独訳にあたる。同書全三巻の全訳は、いまなお実現していない。Naissance de la médecine の邦訳も存在しない。(引用箇所:序) [掲載する書誌の選定は補訂版で]
[4]Maurel H. « Henri Ey historien », pp. 40–52, in Henri Ey, psychiatre du XXIe siècle : Colloque international de Perpignan, 31 oct.–1er nov. 1997 — actualité de l'œuvre de Henri Ey. Paris: L'Harmattan(ISBN 2-7384-7057-2)。同篇の直前に署名 R.M.P. の識語を置く。[2]に付されたモレルの序文と実質的に同一とみられる。本稿が引くエーの言葉のうち、« la science médicale est essentiellement historique... » は Naissance de la médecine p. 16、« l'histoire est une écriture... » は同 p. 4 註による。後者にみえる « Michel Citeaux » は Michel de Certeau(L'écriture de l'histoire, 1975)の誤記とみられる。(引用箇所:1-1 節、1-2 節、第二章、結語) [刊年および[2]序文との異同は要照合]a b c
[5]Ey H. « Le rythme mécano-dynamiste de l'histoire de la médecine », in Études psychiatriques, t. I, Desclée de Brouwer, 1948, pp. 21–29; « Introduction à la psychiatrie / Histoire de la psychiatrie », Encyclopédie médico-chirurgicale, 1955; « Histoire de la psychiatrie », in Manuel de psychiatrie, Masson, 1960(5e éd. 1979, pp. 58–65); « Naissance de la psychiatrie », Actualités psychiatriques, 1977, n° 5, pp. 9–24. 書誌は[4]の文献表による。(引用箇所:1-2 節)
[6][初版]Ey H. Naissance de la médecine. Paris/New York/Barcelone/Milan/Mexico/Rio de Janeiro: Masson, 1981, 230 p. 標題紙に « Eo defuncto, recognovit, notas et indicem adjecit H. Maurel » と銘記される。巻頭にはモレルによる二頁ほどの短い巻頭言があるのみで、[2]に付された序文は含まない。頁付けは[2]と一致しない。(引用箇所:序、1-1 節、1-3 節)a b c
[7]Zutt J (Hrsg.). Ergriffenheit und Besessenheit. Ein interdisziplinäres Gespräch über transkulturell-anthropologische und -psychiatrische Fragen. Bern/München: Francke, 1972. 1968年5月にホンブルクで開催されたシンポジウムの記録。エーが挙げる寄稿者は W. E. Mühlmann および H. Hoffmann。K. Jettmar のパキスタン西部・カフィリスタン報告も同じ場に由来するとみられる。(引用箇所:4-2 節、8-2 節) [寄稿者と頁付けは要照合]
[8]Ey H. Des idées de Jackson à un modèle organo-dynamique en psychiatrie. Toulouse: Privat, 1975. 邦訳:大橋博司訳『ジャクソンと精神医学』みすず書房、1979年。(引用箇所:4-3 節)
[9]Lévi-Strauss C. Anthropologie structurale. Paris: Plon, 1958. 第IX章「呪術師とその呪術」および「象徴的効果」。エーが引くのは p. 197(二極の定式)、pp. 192–196(ボアズ採録のクワキウトル語テクスト)、pp. 217–226(原註八)。(引用箇所:4-4 節、5-3 節、6-1 節)a b
[10]拙稿「シャーマニズム論考」(覚え書きVII)。(引用箇所:序、4-4 節、8-2 節)a b
[11]Bouteiller M. Chamanisme et guérison magique. Thèse, Sorbonne, 1950; nouv. éd. Paris: PUF, 1969. エーは pp. 37–42(女性シャーマン)、および新版 pp. 90–139、文献目録 pp. 330–347(三二六項)を挙げる。(引用箇所:4-4 節、6-1 節)
[12]Canguilhem G. Le normal et le pathologique. Paris: PUF, 1966. エー自身はここで本書に言及しないが、« normativité » の語の選択が指す文脈として。(引用箇所:5-2 節)
[13]Zempléni A. “Rites de possession chez les Lebou et les Wolof” (1966); Michaux D. “La démarche thérapeutique du ndöp” (1972). いずれもエーが当該箇所末の文献目録に挙げるもの。(引用箇所:6-1 節) [掲載誌・巻号は要照合]
[14]Augé M, Bureau R, Piault C, Rouch J 他(Piault C 編)Prophétisme et thérapeutique : Albert Atcho et la communauté de Bregbo. Paris: Hermann, 1975. エーは病者マルセルの記録を論じた者として “J.-P. LEHMANN” の名を挙げるが、この名は当該書の主要著者中に見あたらない。(引用箇所:6-1 節) [エーの引用元の同定は要照合]
[15]Durkheim É. Les formes élémentaires de la vie religieuse. Paris: Alcan, 1912; 2e éd. 1925. エーが挙げるのは pp. 442–470(インティチウマ)および pp. 576–592(贖罪儀礼)。(引用箇所:6-2 節)
[16]Eliade M. Le Chamanisme et les techniques archaïques de l’extase. Paris: Payot, 1951; 2e éd. 1968. 憑依とエクスタシーの構造的区別については Payot 版 p. 394 の原註。邦訳:堀一郎訳『シャーマニズム——古代的エクスタシー技術』ちくま学芸文庫、2004年。(引用箇所:4-2 節、7-2 節)
[17]Lewis IM. Ecstatic Religion: An Anthropological Study of Spirit Possession and Shamanism. Harmondsworth: Penguin, 1971.(引用箇所:7-3 節)
[18]World Health Organization. Clinical Descriptions and Diagnostic Requirements for ICD-11 Mental, Behavioural and Neurodevelopmental Disorders (CDDR). Geneva: WHO, 2024. pp. 161, 365, 377.(引用箇所:8-1 節)
[19]Pharo LK. “A Methodology for a Deconstruction and Reconstruction of the Concepts ‘Shaman’ and ‘Shamanism’.” Numen 58, 2011.(引用箇所:8-2 節)

凡例と底本について。本稿の紹介(第三〜六章)は、CREHEY版[2] pp. 56–76 の電子稿を底本とする。本文中の頁指定はすべて同版のものであり、マッソン初版[6]とは一致しない。第一章および第二章の成立事情・全体構図の記述は、モレル「歴史家アンリ・エー」[4]の仏文原稿および同稿に付された邦訳に拠る。本文中の仏文引用および頁指定は、原本との逐語照合を補訂版で行う。参考文献のうち[4](刊年)[7][13][14]は書誌未確定である。8-2 節の各接続の実装は、覚え書きVIIの改訂として別途行う。訳文は、断りのないかぎり拙訳である。

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