フーコー『狂気の歴史』への批判
——四本の柱と二つの型

アンリ・エーの哲学的反駁、クロード・ケテルの史料実証、
スウェインとゴーシェのピネル再評価、およびロベール・カステルの「否認せざる批判」
Les critiques de l’Histoire de la folie de Michel Foucault :
quatre piliers et deux types
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Revised v19 · MMXXVI
Revised v19(2026年9月11日):Still と Velody 編 Rewriting the History of Madness(1992)所収のカステル、ゴールドスタイン、ミデルフォート、ポーター、スカル、ゴードンの論考、およびスカル Psychiatry and Its Discontents(2019)を読んだうえで、「はじめに」と第一章のあいだに序節「フランスにおける受容の二つの時期」を置いた。カステルの証言に拠り、1961 年から 60 年代半ばまで本書がフランスでは科学認識論の系譜に属する学術書として受け止められ、反精神医学の旗印として読まれるのは 1968 年五月以後であることを示し、四本の柱をこの年代のなかに置き直した。これに伴い「はじめに」と要旨の「刊行直後から激しい批判」という表現を改めた。英語圏の 1990 年の論争(History of the Human Sciences 誌)は「はじめに」の一段落にとどめ、そこからはフランスに関わる論点だけを取り込んだ——2.8 にゴールドスタインの 1656 年勅令論、3.2 にピネルの「フランス人の鋭敏な感受性」の一節、補-1 にカステル 1990 年の自己証言。文献 [31]–[42] を追加した。
Revised v18(2026年9月10日):英語圏の批評を受けて射程を明確にした。「はじめに」に射程限定の二段落を置き、本稿がフランス語圏で精神医学の側から行われた批判の系譜を扱うこと、デリダのデカルト論争(1963/フーコーの応答 1972)を読んだうえで水準が異なるため扱わないこと、英語圏の受容史(縮約版英訳の問題、ポーター・スカル・ゴードン)は次の改訂に譲ること、患者史・ジェンダー史・植民地史は射程外であることを明記した(文献 [27]–[30] 追加)。「大監禁」への反駁を出来事としての大監禁(一斉で均質なヨーロッパ的事件)に限定し、構造としての大監禁(救貧・規律・分類・監禁の結合)は残ることを 2.8・結論・Fig. 7 に記した(当初「強い版/弱い版」と表記していたが、分かりにくいため 2026·9·11 にこの言い方に改めた)。スウェインについて「覆す」を「根本から修正する」に改め、Fig. 1 のテーゼ①をフーコーの問いとエーの読みとに二重化した。注 3 の比較言語論を仮説として限定した。第四章冒頭に、「自然か文化か」がエーの枠組みであって本稿の存在論ではない旨の一段落を置き、4.3 の「反精神医学は一時的現象に終わった」を改めた。序論の邦訳に関する記述を訂正した。
Revised v17(2026年9月9日):題名を「アンリ・エーとクロード・ケテルによるミシェル・フーコーの『狂気の歴史』に対する批判」から現題に改めた。四本の柱に補論のカステルが加わって以来、旧題が本文の範囲と合わなくなっていたためで、結論と Fig. 1 の枠組み「四本の柱と二つの型」を題に立て、副題に四者の名を残した。あわせて要旨(和英)を、補論として別建てだったカステルの段落を本体に組み込む形に書き直した。他論文の参照題名も更新した。
Revised v16(2026年9月9日):2.6 節に、サルペトリエールの「精神異常者 6 %」という数字が当時の診断分類による下限値であること——ケテル自身が示す 1658 年の「一般施療院の計画」と 17 世紀末の収容者構成では、てんかん患者・痴愚・盲目または麻痺の老女が狂女とは別の項目に数えられており、そこに今日の基準では精神障害に当たる者が含まれていたはずであること——を明記し、「大監禁」反駁の根拠を収容者に占める割合から、収容区分の明確さと制度の救貧的性格へ置き直した(フーコー自身が狂人の少数性を前提にしているため、割合の低さはそれ自体では反証にならない)。要旨(和英)、Fig. 2・Fig. 4、2.4、結論にも反映した。あわせて Fig. 4 と 2.6 の構成比を、ケテルが史料番号つきで示す 17 世紀末の表(5,276 人)に統一し、出典の異なる「高齢困窮者 約 30 %」の項を削った(カレーズ[7]は制度史の参考文献として残す)。
Revised v15(2026年8月31日):概略を図だけでも追えるよう、批判全体の見取り図と各章冒頭の図解(Fig. 1–7)を追加した。図と本文は相互リンク(図中の「→ 節番号」⇄ 見出しの「↩ Fig. n」)で行き来できる。あわせて「謝罪ではなく感謝を」の反語的含意に一行の解説を加えた(1.0 および Fig. 1)。
Revised v14(2026年8月30日):manie sans délire の日本語訳を廃して原語表記に統一し、あわせて紀要の現行体裁(目次・引用⇄文献の相互リンク、二段組 PDF)に合わせた。
要旨

ミシェル・フーコーの『狂気と非理性——古典主義時代における狂気の歴史』(1961 年)は人文科学に革命的な影響を与えた。ただし、刊行当初のフランスで本書は科学認識論の系譜に属する学術書として受け止められ、反精神医学の旗印として読まれるようになるのは 1968 年五月以後である。精神医学と歴史学からの根本的な異議は、この第二の受容期以後に書かれた。本論考は、序節でロベール・カステル(Robert Castel)の証言によってこの受容の二つの時期を確認したうえで、日本ではほとんど紹介されてこなかったこれらの批判的文献を精査し、フーコーの中心的テーゼに対する批判を、四本の柱と二つの型として再構成する。四本の柱とは、精神科医アンリ・エー(Henri Ey)の哲学的反駁、歴史家クロード・ケテル(Claude Quétel)の実証的批判、「大監禁」(Grand Enfermement)テーゼの数量的検証、そしてグラディス・スウェイン(Gladys Swain)とマルセル・ゴーシェ(Marcel Gauchet)によるピネル再評価である。二つの型とは、フーコーの命題を誤りとして退ける批判(エー、ケテル)と、その命題を既得のものとして引き受けたうえで史料によって書き直す批判(社会学者ロベール・カステル Robert Castel)である。本稿はフランス語圏で精神医学の側から行われた批判の系譜を扱い、デリダのデカルト論争、患者史・ジェンダー史・植民地精神医学史は射程の外に置く。英米の社会史学による批判とゴードンの擁護(1990 年)については、フランスに関わる論点——カステルの受容史、ゴールドスタインの 1656 年勅令論——を取り込むにとどめる。

エーは、精神医学の誕生をフーコーのいう「古典主義時代の理性」にではなく、ルネサンスにおける「個人の発見」と「個人心理学」の成立にさかのぼらせ、精神疾患を社会的構築物ではなく「人間の自然の病理」として把握する。本論考が特に光を当てるのは、これまで看過されてきたエーの「デリール」(délire)論である。フランス語の délire は、意識混濁を伴う可逆的な「せん妄」(delirium / Delirium)と、意識清明のまま現実の偽造が生じる「妄想」(delusion / Wahn)という臨床的に異質な二現象を一語に包含する。フーコーが狂気を本質的に「覚醒した夢」として定式化したことは前者には妥当しても後者には原理的に届かない——この臨床的精神病理学に裏打ちされた指摘こそ、エーの批判が単なるイデオロギー的対立ではないことを示している。狂気の病理学的現実の否定を、エーは自身の造語「精神医学殺し」(psychiatricide)——それは「人類の価値体系に対するジェノサイドですらある」——と呼んで糾弾した。

ケテルの実証的批判は、フーコーの物語の前提そのものを掘り崩す。物語の中心的舞台であるサルペトリエールにおいて、当時の分類で狂女と数えられた者は収容者の 6 % にとどまり、大半は子供・老女・不具の少女といった扶助の対象であった。本論考はこの数字を当時の診断分類による下限値と見なし——てんかん・痴愚・麻痺・老衰の区分にも今日の基準では精神障害に当たる者が含まれていたはずである——、反駁の根拠を収容者に占める割合ではなく、収容区分の明確さと制度の救貧的性格に置き直す。一般施療院は創設後まもなく財政的に破綻し、収容の実効性もきわめて低かった。ハンセン病療養所の転用も「排除の構造の象徴的継承」ではなく空き建物の即物的な再利用にすぎない。ケテルはこうして、「大監禁」が古典主義的理性の所産ではなく「バロック的慈善の残滓」であり、しかも財政的に破綻した不完全な救貧制度にすぎなかったことを論証する。

フーコーの物語のもう一つの柱——ピネルの「解放」を新たな精神的監禁へと読み替える解釈——を根本から修正するのが、スウェインの博士論文『狂気における主体——精神医学の誕生』(Le Sujet de la folie: naissance de la psychiatrie, 1977 年)である。スウェインは、フーコーと実証主義的精神医学史がともに精神医学を「客体化」(objectivation)としてとらえる前提を共有していると指摘し、ピネルが行ったのは狂人の客体化ではなく、狂気のただ中になお存続する主体——「主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気」(le sujet en tant que sujet)——の発見であったことを論証する。ゴーシェはこの発見を「manie sans délire」の分析を介して「他性体制のコペルニクス的革命」として近代性そのものの変容のなかに位置づけ、ピネルからエスキロール、そしてフロイトにいたる「意識を伴う狂気」の一世紀を通観する。エーの「自由の病理学」とスウェインの「狂気における主体」は、異なる出発点から同一の核心——狂気は主体の全的廃棄ではなく、主体であることそのものにかかわる内的緊張である——へと到達する。

第二の型を代表するのが、カステルの『精神医学的秩序——アリエニスムの黄金時代』(1976 年)である。カステルはフーコーの分析を「既得のものとして引き受け」たうえで、1790 年から 1838 年に至る法・行政・医学の再編過程を史料によって書き直した。彼は「大監禁」テーゼを一度も否認していない——それどころか史料をその存続の確認のために用い、『狂気の歴史』の一節を自らの結論として直接引用する。決定的なのは、アンシャン・レジームの監禁が実効性を欠いていたというケテルと同一の事実が、ケテルにおいては神話を崩す反証となり、カステルにおいては精神医学という「独創的な解決」を要請した発生因となることである。批判の型の差は実証水準の差ではなく、同じ史料に向けられた問いの向きの差である。カステルが狂気をつねに社会関係の項——後見(tutelle)されるべき者——として扱う限界に対しては、エーの「自由の病理学」が問いを提起しつづける。

本論考は最後に、1969 年トゥールーズ会議でエーが論敵に向けた結語「謝罪ではなく感謝を」を手がかりに、フーコーの挑戦が批判者たちに自らの学問的根拠と限界を自覚させた「生産的触媒」であったことを示す。

キーワード:ミシェル・フーコー、『狂気の歴史』、アンリ・エー、クロード・ケテル、グラディス・スウェイン、マルセル・ゴーシェ、フィリップ・ピネル、「大監禁」(Grand Enfermement)、道徳療法(traitement moral)、狂気における主体(le sujet de la folie)、精神医学殺し(psychiatricide)、délire(せん妄と妄想)、manie sans délire、自由の病理学、他性体制のコペルニクス的革命、1969 年トゥールーズ会議、パトリック・クレルヴォア、反精神医学、ロベール・カステル、『精神医学的秩序』、後見(tutelle)、1838 年法、受容史、特定知識人(intellectuel spécifique


Abstract

Michel Foucault’s Histoire de la folie à l’âge classique (1961) exerted a revolutionary influence on the human sciences. In France, however, the book was at first received as a work of scholarship in the tradition of historical epistemology; it came to be read as a banner of antipsychiatry only after May 1968, and the fundamental objections from psychiatry and history that this paper examines were all written after that second reception. Having established, in a preliminary section, these two periods of reception on the testimony of Robert Castel, the paper examines a body of critical literature still little known in Japan and reconstructs the objections to Foucault’s central theses as four pillars and two types. The four pillars are the philosophical refutation of the psychiatrist Henri Ey, the empirical critique of the historian Claude Quétel, the quantitative scrutiny of the “great confinement” (Grand Enfermement) thesis, and the re-evaluation of Pinel by Gladys Swain and Marcel Gauchet. The two types are the criticism that rejects Foucault’s propositions as errors (Ey, Quétel) and the criticism that takes them as established and rewrites them from the archives (the sociologist Robert Castel). The paper confines itself to the French-language critiques made from within psychiatry; Derrida’s Cartesian controversy and the history of patients, gender and colonial psychiatry lie outside its scope. From the Anglo-American debate of 1990 between the social historians and Colin Gordon it takes up only the points that bear on France — Castel’s account of the reception and Goldstein’s remarks on the royal decree of 1656.

Ey traces the birth of psychiatry not to Foucault’s “reason of the classical age” but to the Renaissance “discovery of the individual” and the emergence of an “individual psychology,” grasping mental illness as a natural pathology of the human being rather than a social construct. The paper gives particular attention to a hitherto neglected strand of Ey’s critique: his analysis of délire. The French term délire conflates under a single word two clinically heterogeneous phenomena — reversible delirium (Delirium), accompanied by a clouding of consciousness, and delusion (Wahn), the falsification of reality in a clear sensorium. Foucault’s formulation of madness as essentially a “waking dream” may hold for the former but cannot in principle reach the latter; this objection, grounded in clinical psychopathology, shows that Ey’s critique was no mere ideological quarrel. The denial of the pathological reality of madness Ey denounced with his own coinage, “psychiatricide,” which is even a “genocide against the value system of humanity.”

Quétel’s empirical critique undermines the very premises of Foucault’s narrative. At the Salpêtrière — the central stage of that narrative — those counted as insane under the classifications of the time made up only 6 percent of the confined, the majority being children, blind or paralytic old women and infirm girls — objects of relief rather than of confinement. The paper treats this figure as a lower bound set by the diagnostic categories of the period — the epileptics, the imbeciles, the paralytics and the aged must have included many who would today be diagnosed with a mental disorder — and rests the refutation not on the proportion of the insane but on the clear separation of the categories of inmates and on the poor-relief character of the institution. The Hôpital général fell into financial ruin soon after its founding, and the efficacy of confinement was negligible; the conversion of former leprosaria was not the “symbolic inheritance of a structure of exclusion” but the prosaic reuse of empty buildings. Quétel thus demonstrates that the “great confinement” was not a product of classical reason but a “residue of baroque charity” — and, moreover, no more than a financially bankrupt and incomplete system of poor relief.

The other pillar of Foucault’s narrative — the reading of Pinel’s “liberation” as a new and more insidious moral confinement — is fundamentally revised by Swain’s doctoral thesis Le Sujet de la folie: naissance de la psychiatrie (1977). Swain argues that Foucault and the positivist historians of psychiatry share a common premise in construing psychiatry as “objectivation,” and shows that what Pinel accomplished was not the objectification of the madman but the discovery of a subject persisting in the very midst of madness — “madness as the problematization of the subject qua subject” (le sujet en tant que sujet). By way of the analysis of manie sans délire, Gauchet situates this discovery within the transformation of modernity itself as a “Copernican revolution in the regime of alterity,” surveying the century of “conscious madness” that runs from Pinel through Esquirol to Freud. Ey’s “pathology of freedom” and Swain’s “subject in madness” arrive, from different points of departure, at one and the same core: madness is not the total abolition of the subject but an inner tension bearing on the very condition of being a subject.

The second type is represented by Castel’s L’ordre psychiatrique. L’âge d’or de l’aliénisme (1976). Castel took Foucault’s analyses “as established” (tenues pour acquises) and rewrote, from administrative and parliamentary sources, the reorganisation of law, administration and medicine between 1790 and 1838. He nowhere repudiates the thesis of the great confinement; he mobilises his sources to confirm its permanence and quotes a passage of the Histoire de la folie as his own conclusion. The decisive point is that the very fact Quétel uses to refute the myth — the ineffectiveness of confinement under the Ancien Régime — becomes, in Castel, the reason why psychiatry could offer an “original solution.” The difference between the two types of criticism lies not in evidential rigour but in the direction of the question addressed to the same archive. Against the limit of Castel’s sociologism — madness figures throughout as a term of social relations, as that which must be placed under guardianship (tutelle) — Ey’s “pathology of freedom” continues to raise its question.

The paper closes with Ey’s words to his adversary at the 1969 Toulouse congress — “not apology but gratitude” — reading Foucault’s challenge as a productive catalyst that brought his critics to a clearer awareness of the legitimate grounds and the limits of their own discipline.

Keywords: Michel Foucault, Histoire de la folie, Henri Ey, Claude Quétel, Gladys Swain, Marcel Gauchet, Philippe Pinel, the “great confinement” (Grand Enfermement), moral treatment (traitement moral), the subject in madness (le sujet de la folie), psychiatricide, délire (delirium and delusion), manie sans délire, pathology of freedom, Copernican revolution in the regime of alterity, the 1969 Toulouse congress, Patrick Clervoy, antipsychiatry, Robert Castel, L’ordre psychiatrique, tutelle (guardianship), the law of 1838, history of reception, specific intellectual (intellectuel spécifique)

はじめに

ミシェル・フーコーの代表作『狂気と非理性——古典主義時代における狂気の歴史』(1961年)は、人文科学に革命的な影響を与えた。ただし、刊行当初のフランスで本書はまず学術書として静かに受け止められ、激しい批判の的となるのは 1968 年以後のことである(→ 序節)。その批判のうち、特に精神科医アンリ・エー(Henri Ey, 1900-1977)と歴史家クロード・ケテル(Claude Quétel, 1939-)による批判は、フーコーの中心的テーゼに対する根本的な異議申し立てとして注目される。

しかし、これらの批判的文献は日本ではほとんど紹介されていない。エーの 1971 年論文には日本語訳がなく、ケテルの『狂気の歴史』は 2024 年に邦訳が出たものの、そのフーコー批判の章が日本で論じられたことはほとんどない。エーの『ミシェル・フーコーの「狂気の歴史」についての批判的考察』(1971年)や、ケテルの『フーコーによる福音書』を含む精神医学史研究は、フーコー受容史において欠かすことのできない視点を提供している。

本論文は、これらの未紹介資料を詳細に検討することで、フーコー批判の論理と意義を明らかにし、現代における精神医学と権力をめぐる議論に新たな視座を提供することを目的とする。エーの臨床医としての哲学的反論、ケテルの歴史家としての実証的反駁、「大監禁」の実態に関する検証、そしてグラディス・スウェインとマルセル・ゴーシェによるピネル再評価——この四つの柱を通じて、フランス語圏におけるフーコー批判の骨格を提示する。あわせて補論では、フーコーの命題を退けるのではなく引き受けたうえで書き直すという第二の型の批判を、ロベール・カステル『精神医学的秩序』に見る。題名の「四本の柱と二つの型」はこの構成を指す。

なお、エーの精神医学理論の根幹をなす「精神疾患は自由の病理である」という概念の哲学的系譜については、別稿「アンリ・エーの精神病理学における自由概念——ヨーロッパ精神史の系譜から臨床精神医学へ[1]において詳述した。本論文は、そこで展開したエーの理論的基盤を前提として、フーコー批判の具体的内容に焦点を当てる。

本稿の射程をあらかじめ限定しておく。本稿が扱うのは、フランス語圏で、しかも精神医学の側から——臨床精神病理学(エー)、制度史と史料実証(ケテル、カステル)、精神医学の誕生をめぐる主体論(スウェイン、ゴーシェ)——行われた批判の系譜である。『狂気の歴史』への批判と応答はこれに尽きない。デリダは 1963 年の講演「コギトと狂気の歴史」において、デカルトの『省察』が狂気を排除したというフーコーの読解を退け、狂気そのものの声を理性の言語によって歴史化することが可能かという、より根本的な問いを立てた[27]。フーコーは 1972 年、日本の雑誌『パイデイア』への回答を経て、『狂気の歴史』再版の附録「わが身体、この紙、この火」でこれに答えた[28]。筆者はこの応酬を読んだうえで、本稿では扱わないことにした。それは哲学者同士の論争であり、デカルト解釈と理性の自己構成という水準で行われている。譫妄と妄想の区別(1.7)、収容者の区分と救貧制度の実態(2.6)、ピネルの臨床における主体の発見(第三章)という、臨床精神病理学と制度史の水準で行われる本稿の批判とは、次元を異にするからである(この論争の争点の整理はマシュレの論考に拠ることができる[29])。

英語圏の受容史もまた本稿の射程外である。英語圏では長く、1963 年の縮約版(10/18 叢書)に基づくリチャード・ハワードの英訳 Madness and Civilization(1965)だけが読まれ、大幅に縮約されたこの版が批判の対象となってきた。附録の「わが身体、この紙、この火」を含む完全な英訳 History of Madness が現れたのは 2006 年である[30]。そのため英語圏の初期の批判の一部は、原著にはない欠落を相手にしていた。本稿はフランス語原典に拠っており、この問題には当たらない。1990 年には History of the Human Sciences 誌上で、この点をめぐる論争が交わされた。発端は、全文版を読まずになされた英米の批判は誤読にもとづくとするコリン・ゴードンの擁護論であり、これにミデルフォート、ポーター、スカル、ゴールドスタイン、カステルらが応答し、ゴードンが再反論した。これらの論考はのちに一書にまとめられている[33][34]。なかでも、イングランドの史料に拠るポーターの批判[35]と、中部ヨーロッパの史料に拠るミデルフォートの批判[36]は、狂人の大量収容が 18 世紀ではなく 19 世紀の現象であることを示す点で一致している。本稿がケテルとスウェイン=ゴーシェに即して確かめる、出来事としての「大監禁」(→ 2.8)の否定は、フランスの外でも独立に得られていたことになる。スカルは 2006 年の全文訳の刊行後も否定的な評価を変えていない[37][38]。本稿はこの英語圏の論争そのものには立ち入らず、そこからはカステルとゴールドスタインのフランスに関わる論点だけを取り込む(→ 序節、2.8、3.2、補-1)。患者自身の記録によって書かれる「下からの」精神医学史、ジェンダー史、植民地精神医学史も、フーコー以後の精神医学史を大きく変えた領域であるが、いずれも本稿の四本の柱の外にある。要するに本稿は、フーコー批判の全体像を称するものではなく、フランス精神医学の内部から行われた批判の系譜を、一つのまとまりとして提示するものである。

Fig. 1
フーコー批判の見取り図——四本の柱と二つの型
Vue d’ensemble des critiques de l’Histoire de la folie
フーコー『狂気の歴史』(1961 年)の中心テーゼ

① 近代において「精神疾患」という対象がいかに成立したかを問う——エーはこれを、狂気を自然の病ではなく文化の産物とする主張と読んだ
② 「大監禁」(1656 年一般施療院)=古典主義的理性による非理性の排除
③ ピネルの「解放」(道徳療法)は、鎖に代わる新たな精神的監禁である

▼ これに対する批判 ▼
第一章 →エー(精神科医)——哲学的反駁
テーゼ①を撃つ。精神疾患は「人間の自然の病理」であり、精神医学の誕生はルネサンスの「個人の発見」にさかのぼる。délire の臨床的二義性(せん妄/妄想)の分析が批判の核心(Fig. 23)。
第二章 →ケテル(歴史家)——実証的批判
テーゼ②を撃つ。サルペトリエールで精神異常者と数えられたのは 6 %(当時の分類による下限値——反駁の根拠は割合ではなく区分の明確さと救貧的性格にある)。制度は財政的に破綻しており、「大監禁」は「バロック的慈善の残滓」にすぎない(Fig. 4)。
補論 →カステル(社会学者)——第二の型
唯一、誤りとして退けない批判。フーコーの分析を「既得のものとして引き受け」たうえで、1790–1838 年の制度再編を行政文書と議会審議録によって書き直す(Fig. 5)。
第三章 →スウェイン/ゴーシェ——ピネル再評価
テーゼ③を撃つ。ピネルが行ったのは狂人の客体化ではなく「狂気における主体」の発見——「他性体制のコペルニクス的革命」(Fig. 6)。
批判の二つの型:エーとケテルはフーコーの命題を誤りとして退け(第一の型)、カステルは引き受けたうえで書き直す(第二の型)。スウェインはさらに、フーコーとその批判者たる実証主義者が共有する前提(精神医学=客体化)そのものを問い直す。そして 1969 年トゥールーズ会議のエーの結語——「謝罪ではなく感謝を」(→ 1.0)——が、この論争全体の性格を予告している。この結語は文字どおりの謝意ではなく、謝罪の代わりに感謝を捧げることで「あなたの批判は精神医学を倒すどころか、その正確な限界=基礎を確かめさせてくれた」と切り返す、皮肉と敬意を一体に畳み込んだフランス流の反語的礼節である。

〔図の読み方〕本図と各章冒頭の図(Fig. 2, 4, 5, 6, 7)および 1.7.5 の Fig. 3 を順に追えば、本論文の骨格をあらかじめ通観できる。図中の「→ 章・節番号」はジャンプリンクである。

序節 フランスにおける受容の二つの時期

本稿が扱う四本の柱は、いずれもフランス語圏の内部から出た批判である。ただし、それらが書かれた時期には十年以上の開きがある。各批判を読む前に、『狂気の歴史』そのものがフランスでどのように受け取られたかを確認しておきたい。手がかりになるのは、補論で取り上げるロベール・カステル自身の証言である[31]

カステルによれば、フランスにおける本書の読まれ方には、はっきり異なる二つの時期があった。第一の時期、すなわち 1961 年のプロン版刊行から 1960 年代半ばまで、本書は「アカデミックな」仕方で読まれた。独創的な思考と華麗な文体にもかかわらず、本書は、ブランシュヴィック、カヴァイエス、バシュラール、カンギレムに連なるフランス科学認識論の伝統にそのまま収まるものとして受け止められたのである。この伝統は、ある知の真理要求と、その暗黙の可能性の条件を問う。読者は哲学者と知識人に限られていた[31]。フーコー自身ものちに、理論物理学や有機化学に比べて「認識論的プロフィールの低い」精神医学を選べば、知と権力の絡み合いがより見えやすいと考えた、と語っている[40]

本書の出自もこの受け取られ方にふさわしい。本書は国家博士論文の主論文であり、報告者はジョルジュ・カンギレムとダニエル・ラガーシュが務めた[41]。刊行はフィリップ・アリエスの監修するプロン社の叢書「昨日と今日の文明」の一冊としてであった[42]。初期の書評も、文学・哲学・歴史学の側からの好意的な論評が中心である。ロラン・バルトの「両側から」(Critique, 1961 年)、モーリス・ブランショの「忘却、非理性」(La Nouvelle Revue française, 1961 年 10 月)[42]、そして『アナール』誌上のロベール・マンドルーの論評(1962 年)と、それに付されたフェルナン・ブローデルの覚書がそれにあたる[39]。マンドルーは、狂気は「文明の病」であるというエスキロールの言葉から書き起こし、本書を「非常に美しい本」(un très beau livre)と評した[39]

カステル自身も、この時期に本書をゴフマンの『アサイラム』と並べて読んだという。医学的な合理化を括弧に入れ、専門家の解釈から切り離して精神医学の理論を組み立てるための方法としてである[31]。精神医学の側でも、エリボンの伝えるところでは、改革派の「進化精神医学」(L’Évolution psychiatrique)グループの当初の反応は比較的好意的であった[41]

事情が一変するのは 1968 年五月以後である。政治的アクティヴィズムと反抑圧の感性が広がるなかで、本書の主題は、カステルの言葉でいえば「二重に過剰露出」された。閉じ込めによる隔離は、アサイラムから監獄、工場、学校にいたるあらゆる排除に異議を唱えるためのモデルとなり、狂気は、社会適応の拘束から自由な主体性の範例とされた。精神病院闘争を最優先の標的とする運動のなかで、フーコーは抑圧、制度的暴力、隔離、排除を告発するために紋切り型に大量引用され、理論分析の厳密さはしばしば犠牲にされた[31]。エリボンが引くフーコー自身のインタビューによれば、当初は関心を示したマルクス主義的・自由主義的な精神科医の一部も、本書が反精神医学運動に取り込まれたのちには、これを「精神医学殺し」(psychiatricide)と非難するようになった[41]——この語がエー自身の 1971 年の造語であることは 1.8 で見るとおりである。「進化精神医学」グループが 1969 年のトゥールーズ年次会議でフーコーを主題に取り上げたのは(→ 1.0)、この転換の後である。1972 年、フーコーはガリマール社から全文版を再刊し、その新しい序文で、自著の読まれ方を著者が裁定する権利を退けた。10/18 叢書の短縮版はその後再刊されていない[34]

したがって、『狂気の歴史』は当初から反精神医学のマニフェストとして扇情的に受け止められた、という通念は、少なくともフランスについては正確でない。本書が扇動の書として読まれるようになったのは、刊行から七、八年を経た 1968 年以後の政治的文脈においてである。本稿の四本の柱も、この年代のなかに置いて読む必要がある。エーのトゥールーズでの批判(1969 年)とその論文化(1971 年)は第二の時期のただ中にあり、スウェイン(1977 年)、ゴーシェとスウェイン(1980 年)の修正論、そしてケテルの史料実証は、その熱が冷めたのちの、歴史学の側からの応答である。カステルは、二つの読解は真と偽の対立ではなく、フーコーが「特定知識人」(intellectuel spécifique)の概念によって定式化しようとした理論と実践の関係で結ばれていると述べているが、この点は補論で改めて取り上げる(→ 補-1)。

第一章 アンリ・エーによるフーコー批判の核心Fig. 1

Fig. 2
自然か文化か——エーとフーコーの対立軸
Nature ou culture : les axes du débat Ey–Foucault
フーコー
エー
精神疾患とは→ 1.1
文化的産物——社会的抑圧の効果として「組織の外部」に現れる
自然現象——人間の(種に固有かつ個体的な)組織の病理。「根本的特異性」(→ 1.2
精神医学の誕生→ 1.3–1.4
古典主義時代——啓蒙の合理主義と収容制度の産物
ルネサンス——「個人の発見」と「個人心理学」の成立に対応
17 世紀の収容→ 1.5
理性による非理性の封じ込め(「大監禁」)
狂気の自然本性(フュシス)の発見の帰結
デリール→ 1.7
狂気=本質的に「覚醒した夢」。非理性の力の噴出
臨床的二義性(せん妄/妄想、Fig. 3)。「デリールは非理性の力からではなく、理性の弱さから始まる」
帰結→ 1.8
反精神医学運動の理論的触媒に
「精神医学殺し」(psychiatricide)の告発——病理学的現実の否定は患者の苦痛の否認である
ただし対立は敵対に尽きない。1969 年トゥールーズ会議(→ 1.0)でエーは「謝罪ではなく感謝を」と結び、1971 年論文でも「デリールの超越」章を「卓越した貢献」と評しつつ批判した——賞賛と批判の弁証法(→ 1.7.2–1.7.3)。

1.0 批判の歴史的文脈——1969 年トゥールーズ会議Fig. 1Fig. 2

エーによるフーコー批判の論文が発表される以前に、両者の対立はすでに生きた知的対話の場で火花を散らしていた。この歴史的文脈を再構成する上で、パトリック・クレルヴォアによるエーの評伝(第 6 章「闘い」)は不可欠な証言を提供している。

フーコーの『狂気の歴史』は、1968 年 5 月の学生運動の余波のなかで大規模な反精神医学運動を触発した。こうした情勢を受け、「進化精神医学」(L’Évolution Psychiatrique)グループは、1969 年にトゥールーズで開催した年次情報会議のテーマとして、フーコーの著作をめぐる問題を取り上げた。クレルヴォアは、エーがこの会議において「ミシェル・フーコーの著作で提示された精神医学のイデオロギー的観念に真っ向から異議を唱えた最初の人物であった」と述べている(クレルヴォア、第 6 章)。

会議では、エーによる主報告の後、活発な討論が展開された。ポロは、当時クレルモンフェランの文学部教授であったフーコーが当地の精神衛生サービスを混乱させたと訴えた。オーバンは「病気は、それを病気として認識する文化の中でのみ、その現実性と価値を持つ」というフーコーの言葉を引きながら、あらゆる文化で観察される抑うつやメランコリアの病的恒常性を反論として示した。カンメラーは 1967 年のストラスブールで「状況主義者」を名乗る学生たちが大学の心理学支援室を廃止させた事例を報告した。ミンコフスキーはフーコーのテーゼを広大な思想の流れのなかに位置付け、ルアールは「文化が人間を運ぶのではなく、人間が文化を構築する」ことを強調し、ゴンザレスは「狂気を生んだのは人間自身ではなく、狂気は人間とともに生まれた」と論じた。

こうした圧倒的な批判の後、エーは会議の締めくくりに際して印象的な言葉を残している。クレルヴォアはそれを次のように伝える。

ミシェル・フーコーが、私に罪の意識を与えたのではなく、精神医学の正確な限界——それだけがその基礎となりうる限界——を私たちに思い起こさせてくれたのだとしたら、ここで責めを負わされた後、彼の知的勇気が拒むであろう謝罪ではなく、私たちの感謝を受け取ってもらおう。(クレルヴォア、第 6 章)

付言すれば、この結語は文字どおりの謝意ではない。会議を通じてフーコーを俎上に載せた締めくくりに、儀礼としての謝罪を「彼の知的勇気が拒むであろう」ものとしてあえて退け、かわりに感謝を捧げる——賛辞の形を借りながら「あなたの攻撃は精神医学を倒すどころか、その正確な限界=基礎を確かめさせてくれただけだ」と切り返す、皮肉と敬意を一体に畳み込んだフランス流の反語的礼節である。

この言葉は、エーという人物の複雑さを雄弁に物語っている。のちに「精神医学殺し」という激烈な造語を用いてフーコーを糾弾した人物が、同時にフーコーの「知的誠実さ」を認め、感謝を捧げることができた——。この逆説的共存は、フーコー受容史の本質的な一側面を示している。批判者は論敵を否定するためではなく、精神医学という学問の輪郭を鮮明にするために戦ったのである。この視点は、以下で詳細に検討するエーの論文(1971 年)における賞賛と批判の弁証法的構造とも深く共鳴する。

1.1 争点の明確化:自然か文化かFig. 2

エーは 1971 年の論文冒頭で、フーコーとの論争の本質を鋭く定式化している。

Que nous le voulions ou non, le fondement même du savoir et de l’action psychiatriques dépend essentiellement et uniquement de la notion de « maladie mentale ». Que celle-ci soit un phénomène naturel, elle se présente alors nécessairement comme une physionomie de la pathologie de l’organisation (spécifique et individuelle) de l’homme. Qu’elle soit, au contraire, un produit culturel, et elle apparaît « hors de l’organisation », comme disait Bousquet en 1855, dépendant uniquement de la pression et de la représentation du groupe social. Cela revient à dire que le problème de la genèse de la Psychiatrie s’identifie à celui de la réalité de la maladie mentale au regard de l’humanité [...]

私たちがそれを望もうと望むまいと、精神医学的知識と行動の基盤そのものは、本質的にそして唯一「精神疾患」という概念に依存している。これが自然現象であるなら、それは必然的に、人間の(種に固有の、かつ個体的な)組織の病理の一相貌として現れる。逆に、それが文化的産物であるなら、1855 年にブスケが言ったように「組織の外部」に現れ、社会集団の圧力と表象にのみ依存することになる。つまり、精神医学の起源の問題は、人間性から見た精神疾患の現実の問題と重なり合うのである。[2]

この対立をさらに明確化し、エーは次のように述べる。

De telle sorte que l’enjeu d’un débat comme celui qui nous rassemble ici est très clair : celui de la nature morale du concept de maladie mentale. Ou bien celle-ci est une réalité pathologique naturelle, malheureuse atténuation de la responsabilité de l’homme — ou bien elle est un artéfact culturel, scandaleux effet de la répression sociale. Dans les deux cas, c’est la liberté de l’homme qui est en jeu : soit celle de l’individu malade mental qui est aliéné à l’intérieur de lui-même — soit celle de la Société entière qui aliène tous les hommes.

したがって、私たちがここに集まっているような議論の争点は非常に明確である:それは精神疾患という概念の道徳的本性にかかわるものである。あるいはそれは自然な病理学的現実であり、人間の責任の不幸な軽減であるか——あるいはそれは文化的人工物であり、社会的抑圧の恥ずべき結果であるかのどちらかである。いずれの場合も、問題となるのは人間の自由である:それは自分自身の内部で疎外された精神疾患を持つ個人の自由か——あるいはすべての人間を疎外する社会全体の自由かである。[2]

1.2 「根本的特異性」としての個人性Fig. 2

エーの精神医学理論の核心をなすのは、精神疾患の「根本的特異性」である。

À cet égard, la notion de maladie mentale est un corollaire de l’idée d’individu. Il n’y a pas de maladie mentale qui n’implique un statut individuel, ou si l’on veut, une radicale singularité.

この点に関して言えば、精神疾患の概念は個人という考えの必然的帰結である。個人的地位、あるいは言い換えれば根本的な特異性を含まない精神疾患は存在しない。[2]

この「根本的特異性」は、精神疾患が決して一般化可能な現象ではないことを示している。統計的な傾向や社会的パターンは存在するが、精神疾患はつねに特定の個人における、その人固有の病理として現れる。

1.3 ルネサンスにおける個人の発見Fig. 2

エーの最も重要な歴史的反論は、精神医学の誕生時期に関するものである。フーコーが精神医学の誕生を啓蒙時代の合理主義と結びつけるのに対し、エーは断言する。

Pour le moment et d’abord, je voudrais faire remarquer que la naissance de la Psychiatrie n’est pas l’effet du rationalisme du siècle des Lumières et de l’impérialisme des institutions autocratiques des Sociétés esclavagistes, repris par les institutions bourgeoises des Sociétés capitalistes. La date de la naissance de la Psychiatrie correspond à la Renaissance, justement à cette période où a fleuri une si merveilleuse (esthétique et mystique) Déraison.

さしあたりまず指摘しておきたいのは、精神医学の誕生が、啓蒙時代の合理主義の産物でもなければ、奴隷制社会の専制的諸制度の帝国主義——資本主義社会のブルジョワ的諸制度に受け継がれたそれ——の産物でもない、ということである。精神医学の誕生の日付はルネサンスに——まさにあの、あれほど見事な(美的で神秘的な)非理性が花開いた時代に——対応している。[2]

Dire que la folie a fait son apparition comme maladie à la Renaissance, c’est pour nous énoncer une vérité historique, mais c’est surtout se référer originairement dans le sens historique et étymologique du terme à la nature (physis) de la maladie mentale. Car son apparition n’ayant été rendue impossible que par l’épaisseur du mythe qui la cachait sous les sortilèges, la magie, les superstitions et les « auto-dafés » du Moyen Âge, elle a été rendue possible seulement par la découverte de sa nature, c’est-à-dire en tant que déviation contre nature de l’organisation psychique et non plus en tant qu’apparition surnaturelle.

狂気が病気として出現したのはルネサンス期だと述べることは、我々にとって歴史的真実を述べることであるが、それはとりわけ、歴史的・語源的な意味において、精神疾患の自然本性(フュシス)に原初的に立ち返ることである。なぜなら、その出現を不可能にしていたのは、狂気を中世の呪術、魔法、迷信、そしてアウトダフェ(異端焚刑)のもとに覆い隠していた神話の厚みにほかならず、その出現を可能にしたのは、ただその自然本性の発見のみだからである。つまり狂気は、超自然的な出現としてではなく、精神組織の自然に反した逸脱として、はじめて現れうるものとなったのである。[2]

1.4 「個人心理学」の誕生とその意義

エーは、ルネサンスにおける変化をより具体的に「個人心理学」の誕生として説明している。

Et, en effet, si l’apparition de la folie a quelque chose à voir, et elle l’a, avec la condition historico-culturelle de la Renaissance, c’est parce que précisément cette époque est celle de l’avènement de ce que l’on peut appeler d’un mot, qui pour « naïf » qu’il soit paraît-il au regard de l’anti-anthropologie contemporaine : la « psychologie individuelle », ou mieux, la valeur de la personne.

そして実際、狂気の出現がルネサンスの歴史的・文化的条件と何らかの関係があるとすれば(そして関係はある)、それはまさにこの時代が、現代の反人類学の観点からすれば「素朴」であるように見える言葉で呼べるものの到来の時代だからである。すなわち「個人心理学」、あるいはさらに良く言えば、人格の価値の到来である。[2]

この「個人心理学」の誕生は、人間が自らの内面世界を持つ主体として認識されるようになったことを意味する。中世においては、人間の異常な行動や精神状態は「神の意志」「悪魔の仕業」として理解されていた。ルネサンスにおいてはじめて、それらが個人の内的な病理として認識されるようになったのである。

1.5 「大監禁」理論への反駁Fig. 2

フーコーの中心的テーゼである「大監禁」理論に対し、エーはまったく異なる解釈を提示する。

Dès lors, la consécration même de la maladie mentale comme objet de la science naturelle médicale s’est séparée du sacré, du mythique et du poétique. Par là, précisément, elle s’est manifestée alors comme la folie humaine tombée dans le secret et le privé de l’existence. Cette chute de l’organisation de l’Homme en tant qu’il est être conscient personnel jusqu’au fond de son incarnation originaire, cette descente aux enfers de l’Inconscient, cette révolution ontologique dont le sommeil et le rêve fournissent le modèle, ce sont tous ces aspects de la désorganisation de l’être qui sont — et eux seuls — l’objet de la Psychiatrie.

かくして、精神疾患が医学的自然科学の対象として聖別されたことそれ自体が、それを聖なるもの、神話的なもの、詩的なものから切り離したのである。まさにそのことによって、精神疾患はそのとき、実存の秘密と私的なもののうちへと堕ちた人間の狂気として現れた。人格的な意識的存在であるかぎりでの〈人間〉の組織が、その原初的な受肉の底にまでいたるこの墜落、この無意識の冥府への下降、睡眠と夢がモデルを提供するこの存在論的革命——存在の解体のこれらすべての側面こそが、そしてそれらだけが、精神医学の対象なのである。[2]

17 世紀の収容制度についても、エーは理性による非理性の抑圧ではなく、狂気の医学的性質の発見の結果として解釈している。

1.6 構造主義批判としての側面

エーの議論は、1960 年代フランスで隆盛を誇った構造主義への批判としても読むことができる。

Toute la pensée, toute la culture et les polémiques idéologiques sur les rapports du Moi à son monde, les rapports de la psychologie et de la sociologie sur les rapports de la nature et de la culture, tout ce qui constitue la circulation de la pensée moderne, depuis précisément la Renaissance, est une vaste réflexion autour de ce thème central de l’humanité : la structure ontologique de l’être humain.

すべての思想、すべての文化、そして自我とその世界の関係についての、また自然と文化の関係をめぐる心理学と社会学の関係についてのイデオロギー的論争——まさにルネサンス以来の近代思想の流れを構成するこれらすべては、人間性のこの中心的テーマをめぐる広大な省察である:人間存在の存在論的構造。[2]

構造主義者たちが人間の「脱中心化」を主張しても、それでもなお「人間」という問題は残り続ける。精神医学は、まさにこの消去不可能な「人間性」の病理を扱う学問なのである。

1.7 デリール(délire)論をめぐる批判と評価Fig. 2

Reader’s Note

以下の考察に入る前に、議論の核心をあらかじめ示しておく。精神医学には、フランス語で同一の「délire」という語が指す臨床的にまったく異質な二つの現象がある——(a)意識が混濁した夢幻状態で生じる「せん妄(delirium)」と、(b)意識は清明でありながら現実の偽造が起きる「妄想(delusion)」である。フーコーは「デリールの超越」章で狂気を本質的に「覚醒した夢」として定式化したが、これは(a)には妥当するとしても(b)の説明には原理的に不十分である。エーの批判はこの点に向けられており、以下ではフーコーの議論の構造を確認しながら、その批判の射程を追う。

エーのフーコー批判のなかで、これまで十分に注目されてこなかった論点がある。それは、フーコーの『狂気の歴史』第二部「デリールの超越」(Transcendance du Délire)章に対するエーの批判と評価である。この箇所は、エーの批判が単なるイデオロギー的対立ではなく、臨床的精神病理学の専門的知見に裏打ちされたものであることを最も鮮明に示している。

エーの議論は、①フーコーが哲学的水準では正しく狂気の構造を「感じ取っていた」ことを認める、②しかし délire 概念の臨床的区別の欠如を指摘する、③その欠如がフーコーの理論的枠組み全体を転覆させることを示す、という三段階の弁証法的構造をとっている。以下ではこの構造を順次追いながら、エーの批判の射程を明らかにする。

ここで、精神医学における délire という語の特殊性について注記しておく必要がある(注 1)。フランス語の délire は、精神医学の専門用語として二つの異なる臨床概念を包含する。一つは意識の障害を伴い多くは身体的原因に基づく可逆的な状態であり、英語では delirium、ドイツ語でも Delirium と表記され、日本語では「せん妄」と訳される。もう一つは、意識が清明であるにもかかわらず現実ではない事柄を確信している状態であり、英語では delusion、ドイツ語では Wahn と表記され、日本語では「妄想」と訳される。英語圏・ドイツ語圏の精神医学ではこの二つは明確に区別されるが、フランス語の délire はその両方を含みうる。この二義性こそが、エーによるフーコー批判の核心的論点の一つとなる。と同時に、フーコーは二義性を「理解しなかった」というより、むしろ彼の天才的な修辞能力がそれを哲学的射程へと活用したのだと読み直す余地がある。その意味でフーコーの社会的構築主義は、délire が意識混濁(せん妄)と意識清明下の妄想という臨床的に異質な二極を一語に縫合したまま残した、フランス語固有の条件のもとで最も自然に成立しえたのかもしれない。この可能性については、比較言語論的な考察をあわせて加えておく必要がある(注 3)。

1.7.1 フーコーの「デリールの超越」章——その議論の構造

まず、フーコーが「デリールの超越」章においてどのような議論を展開しているかを確認しておこう。この章でフーコーは、古典主義時代の医学文献を渉猟しつつ、デリールが狂気のあらゆる形態に潜在する超越的構造であることを論じている。

フーコーの議論は三つの段階から成る。第一に、夢と狂気の同質性に関する分析である。フーコーはザッキアスの分析を引きながら次のように論じている。

Rêve et folie apparaissent alors comme étant de même substance. Leur mécanisme est le même ; et Zacchias peut identifier dans la marche du sommeil les mouvements qui font naître les rêves, mais qui pourraient aussi bien dans la veille susciter les folies. [...] « Non aliter evenire insanientibus quam dormientibus. »

夢と狂気は同一の実質から成るものとして現れる。そのメカニズムは同一であり、ザッキアスは睡眠の進行のうちに夢を生み出す諸運動を同定することができるが、それらの運動は覚醒時にも同様に狂気を引き起こしうるのである。〔…〕「狂人に起こることは夢見る者に起こることとまったく異ならない。」[8]

第二に、しかし夢幻的なものだけでは狂気を構成しえないという認識である。フーコーは続けて明確に述べている。

Mais il n’est pas erroné. Et c’est en cela que la folie ne s’épuise pas dans la modalité éveillée du rêve, et qu’elle déborde sur l’erreur. [...] Il y aura folie lorsqu’aux images, qui sont si proches du rêve, s’ajoutera l’affirmation ou la négation constitutive de l’erreur.

しかし〔夢は〕誤謬的ではない。そしてまさにこの点において、狂気は夢の覚醒時の様態のうちに汲み尽くされるものではなく、誤謬の側へとあふれ出るのである。〔…〕夢にきわめて近い諸々の像に、誤謬を構成する肯定もしくは否定が加わるとき、そこに狂気が生じるのである。[8]

第三に、これらの分析の帰結として、デリールがすべての精神の変調において暗黙的に存在するというテーゼが提示される。

Ce délire implicite existe dans toutes les altérations de l’esprit, même où on l’attendrait le moins. Là où il n’est question que de gestes silencieux, de violences sans mots, de bizarreries dans la conduite, il ne fait pas de doute pour la pensée classique qu’un délire est continuellement sous-jacent, rattachant chacun de ces signes particuliers à l’essence générale de la folie.

この暗黙のデリールは、精神のあらゆる変調のうちに存在する。それが最も予期されないところにおいてさえ。無言の身振り、言葉のない暴力、行動における奇矯さだけが問題であるところでも、古典主義的思考にとっては、デリールが絶えず潜在しており、これらの個別的な徴候のそれぞれを狂気の一般的本質に結びつけていることに疑いはない。[8]

そしてフーコーは、その分析の帰結を次のように凝縮している。

Ce délire, qui est à la fois du corps et de l’âme, du langage et de l’image, de la grammaire et de la physiologie, c’est en lui que s’achèvent et commencent tous les cycles de la folie. C’est lui dont le sens rigoureux les organisait dès le départ. Il est à la fois la folie elle-même, et au-delà de chacun de ses phénomènes, la transcendance silencieuse qui la constitue dans sa vérité.

このデリール——身体と魂に、言語と像に、文法と生理に同時に属するもの——のうちにおいて、狂気のすべての循環は完結し、また始まる。その厳密な意味によって当初からそれらの循環を組織していたのも、このデリールにほかならない。デリールは同時に狂気それ自体であり、かつ狂気の個々の現象の彼方にあって、狂気をその真理において構成する沈黙の超越性なのである。[8]

1.7.2 エーの賞賛——構造分析の達成Fig. 2

エーは、このフーコーの構造分析の能力に対して率直な賞賛を表明している。フーコーが 18 世紀の著者たちの狂気論を分析した箇所について、エーは次のように述べる。

Ici [p. 223-227], M. Foucault atteint véritablement le niveau d’une analytique structurale qu’il prête aux auteurs du siècle des Lumières mais dont le mérite paraît lui appartenir à un point tel, qu’il peut nous faire regretter que, capable de tant de pénétration, il se soit condamné lui-même à tenir cette pénétration des structures de la folie dérisoire...

ここ〔p. 223-227〕において、フーコー氏は、彼が啓蒙時代の著者たちのものとしている構造的分析論の水準にまさしく到達している。しかもその功績はむしろ彼自身に属するように思われるほどであって、それだけにいっそう、これほどの洞察力を備えながら、狂気の構造へのこの洞察を取るに足らないものと見なすことを自らに課してしまったことが惜しまれるのである……[2]

この賞賛は、「デリールの超越」章全体にも及んでいる。

Ce chapitre (Transcendance du Délire) déconnecté du contexte polémique et apologétique de l’ouvrage peut être considéré comme une excellente contribution à l’historique du « Délire ».

この章(「デリールの超越」)は、著作全体の論争的・弁護論的文脈から切り離して読むならば、「デリール(妄想・せん妄)」の歴史に対する卓越した貢献と見なすことができる。[2]

さらに、フーコーが夢幻的なものと誤謬的なものの区別を——少なくとも哲学的水準では——直観的に把握していたことも、エーは率直に認めている。

Mais, par contre, il est bien vrai que M. Foucault a bien « senti » que le Délire, le vrai Délire, quand il ne se réduit pas à l’onirique est, en tant qu’erroné, une forme en quelque sorte absolument « oblitérée » et « gâtée » de l’erreur humaine, de sa tragique et fausse illumination ; car même quand il jaillit avec l’éclat d’une fulgurante vérité il est toujours éblouissement et aveuglement.

しかし他方、フーコー氏が、デリール——真のデリール、すなわち夢幻的なものに還元されないかぎりのそれ——が、誤謬的なものとして、人間の誤りの、その悲劇的で偽りの啓示の、いわば絶対的に「抹消された」「損なわれた」形態であることをよく「感じ取っていた」というのは、確かに事実である。なぜなら、デリールは閃光のような真理の輝きをもってほとばしり出るときでさえ、つねに人の目を眩ませ、見えなくさせるものだからである。[2]

注目すべきは、これらの賞賛がいずれも条件付きであることである。エーがフーコーを称えるのは、つねにフーコーの議論を『狂気の歴史』全体の論争的枠組みから「切り離して」読んだ場合においてであり、またフーコーがデリールの本質を「感じ取っていた」(a bien « senti »)と述べるとき、その表現自体が、哲学的直観と臨床的概念化のあいだの距離を含意している。エーの賞賛は、次節で展開される批判の前提——フーコーには狂気の構造を把握する能力があったにもかかわらず、その能力を十全に発揮しなかった——を構成しているのである。この点は、1.0 節で見たトゥールーズ会議の閉会の辞——「謝罪ではなく感謝を」——とも照応している。賞賛と批判の弁証法は、エーとフーコーの関係を単純な敵対に還元することを許さない。

1.7.3 エーの批判——臨床的区別の欠如

エーの賞賛は、しかし核心的な批判と不可分である。エーが問題にするのは、フーコーが délire という概念の臨床的多義性を十分に把握していないという点である。

M. Foucault ne maîtrise pas entièrement ce problème (intelligible seulement pour qui discerne exactement les sens différents des mots « Délire » et « Wahn », au fond, la différence entre l’onirique et l’erroné dans l’expérience et le discours des délirants), ses réflexions et sa documentation doivent faire beaucoup réfléchir notamment en ce qui concerne les causes anatomiques immédiates et les rapports du Délire et du rêve dans l’œuvre de Zacchias, ou encore le caractère implicite du Délire.

フーコー氏はこの問題を完全には把握していない(この問題は、「Délire」と「Wahn」という語の異なる意味を——根本においては、デリールを呈する者の体験と言説における夢幻的なもの〔l’onirique〕と誤謬的なもの〔l’erroné〕との差異を——正確に識別する者にのみ理解可能である)。とはいえ、彼の省察と資料は大いに考えさせるものがあり、とりわけザッキアスの著作におけるデリールの直接的な解剖学的原因、およびデリールと夢の関係、さらにデリールの暗黙的性格については注目に値する。[2]

ここでエーが問題にしているのは、精神科医にとっては基本的な臨床的区別である。夢幻的なもの(l’onirique)——すなわち意識の変容を伴うせん妄状態における体験——と、誤謬的なもの(l’erroné)——すなわち意識が清明であるにもかかわらず現実の体系が偽造される妄想体験——とでは、臨床的にも理論的にもまったく異なる現象である。

前節(1.7.1)で見たように、フーコー自身もこの区別を哲学的水準では認識していた。夢的な像だけでは狂気にならず、そこに「誤謬を構成する肯定もしくは否定」が加わってはじめて狂気が成立するというフーコーの分析は、エーの臨床的区別と実質的に呼応している。しかしエーの批判は、フーコーがこの区別を古典主義時代の認識構造の分析としてのみ扱い、現在の臨床においても根本的に異なる二つの精神病理学的現象として把握していないという点に向けられている。フーコーは哲学的水準でこの区別を「感じ取っていた」が、臨床的水準でそれを概念化する枠組みを欠いていたのである。

エーの賞賛と批判の関係は、ここにおいて明瞭になる。フーコーが「デリールの超越」章で到達した分析は卓越したものであった。しかし、その卓越さは臨床的基盤を欠くがゆえに、フーコー自身の理論的枠組みのなかで十分に活かされることがなかった。エーの惜しむ言葉——「これほどの洞察力を備えながら、狂気の構造へのこの洞察を取るに足らないものと見なすことを自らに課してしまったことが惜しまれる」——は、まさにこの逆説を指している。

なお、エーはフーコーが「狂気における言語」について論じた段落に対しては、ラカン派への追従であるとして一蹴している。フーコーの原文は「言語は狂気の第一にして最後の構造である。それは狂気の構成形式であり、狂気がその本質を表明するすべての循環はこの言語の上に成り立っている」[8]と述べていた。これに対しエーは次のように応じている。

Par contre, le paragraphe sur le langage comme structure première et dernière de la folie nous a paru seulement « plaqué » comme un petit signe d’allégeance fugace à l’idéologie lacanienne.

他方、言語を狂気の第一にして最後の構造とする段落は、ラカン的イデオロギーへのはかない忠誠のささやかな証しとして「取って付けた」だけのものに思われた。[2]

1960 年代フランスの思想界において、フーコー、エー、ラカンは複雑な関係にあった。エーはラカンの構造主義的精神分析に批判的であり、フーコーのテクストのなかにラカン的影響を読み取ったとき、それを学問的議論としてではなく知的同盟関係の表現として退けている。

この臨床的欠如は、しかし単なる術語上の問題にとどまらない。フーコーが délire の臨床的多義性——とりわけ l’oniriquel’erroné の差異——を概念化できないということは、より根本的な問いへの答えを持てないことを意味する。すなわち「なぜある人間だけが、すべての人間に潜在するデリールから、個人に固有の顕在的妄想(echter Wahn)へと移行するのか」という問いである。この移行は個人の精神組織の内部的崩壊——理性の弱さ——として起きるのであり、社会的圧力によって説明される「客体化」ではない。エーの次の分析において、この論理的帰結が展開される。

1.7.4 「暗黙のデリール」テーゼ——同意、深化、そして転覆

エーの議論が最も精緻になるのは、フーコーの「デリールの暗黙性」テーゼに対する応答においてである。ここでエーは、フーコーのテーゼを三つの段階を経て——まず同意し、次いで臨床的に深化させ、最後にフーコーの理論的枠組みそのものを転覆させるという弁証法的運動を展開している。

第一の段階:同意。エーはまずフーコーの命題を全面的に受け入れる。

Le Délire, dit M. Foucault [p. 287], est implicite dans toutes les « altérations de l’esprit ». Oui certes, et c’est une thèse que pour mon compte je n’ai jamais cessé de reprendre mais en allant plus loin encore que M. Foucault, en disant d’abord avec lui que le Délire des altérations de l’esprit est implicite ou impliqué dans toutes les modalités de l’esprit humain [...]

フーコー氏は〔p. 287 で〕、デリールはすべての「精神の変調」において暗黙的であると述べている。たしかにそのとおりであり、これは私自身も繰り返し取り上げてきたテーゼである。しかし私はフーコー氏よりもさらに先まで進む。まず彼とともに、精神の変調におけるデリールは人間精神のあらゆる様態において暗黙的もしくは含意されていると述べる。〔…〕[2]

第二の段階:臨床的深化。しかしエーは、フーコーの命題にただ同意するだけでなく、臨床医としてそれを決定的に拡張する。

[...] mais en ajoutant que c’est en définitive le passage de ce délire impliqué chez tous les hommes (dans la sphère de ses désirs ou de son Inconscient) à son explication, c’est-à-dire à son « assomption » dans le système falsifié de la réalité, qui le constitue comme vrai délire (le fameux « echte Wahn » des auteurs allemands).

しかしさらに付け加えて言えば、結局のところ、すべての人間のうちに含意されたこのデリール(欲望の領域、あるいは無意識のうちにある)が、その顕在化へと——すなわち現実の偽造された体系のうちへの「引き受け(assomption)」へと移行すること、それこそがこのデリールを妄想(ドイツの著者たちが言う有名な「echte Wahn」)として構成するのである。[2]

ここでエーが展開しているのは、彼の精神病理学体系(器質力動論、organodynamisme)の核心的命題である。すべての人間の精神には非理性的なもの——欲望、無意識——が潜在している。しかし、この潜在的なデリールが、現実認識の体系そのものを偽造する形で顕在化したとき、それは「妄想」(echter Wahn)となる。フーコーは古典主義時代の著者たちの分析としてこの暗黙性を記述したが、エーはそれを現在の臨床に直結する精神病理学的命題として読み替え、「含意されたデリール」から「真の妄想」への移行という決定的な区別を付け加えているのである。

この「現実の偽造された体系への引き受け」という移行は、社会的構築によっては原理的に説明できない。同じ社会的・文化的環境にありながら、ある者は妄想へと移行し、ある者はしないからである。移行の決定因は、個人の精神組織における統合機能の強度——すなわちエーの言う「理性の弱さ」——にある。この認識から、フーコーの社会構築主義的枠組みへの批判が直接帰結する。

第三の段階:理論的転覆。この臨床的区別は、直ちにフーコーの社会構築主義的枠組みへの根本的批判へと転じる。

Tel est, en effet, le pont-aux-ânes de toute théorie de la Psychiatrie ou de l’Antipsychiatrie. Il s’agit de savoir comment et pourquoi l’homme gonflé d’une Déraison commune à tous passe à la déraison du Délire particulier à quelques-uns. Or, à cet égard, tout recours à la communauté pour expliquer cette singularité est vain : le délire fuit comme l’eau entre les doigts du psychosociologue qui veut le saisir. Il ne lui reste donc, bien sûr, qu’à le nier...

これこそまさに、精神医学であれ反精神医学であれ、あらゆる理論が越えねばならない関門(いわゆる「ロバの橋」)である。問題は、すべての人間に共通する非理性に膨れ上がった人間が、いかにして、なぜ、少数の者に固有のデリールの非理性へと移行するのかを知ることである。ところが、この点に関して、この特異性を説明するために共同体に訴えることは一切無益である——デリールは、それをとらえようとする心理社会学者の指の間から水のように逃げ去る。したがって彼には、もちろん、それを否認するしか残されていないのである……[2]

「デリールは心理社会学者の指の間から水のように逃げ去る」——この鮮烈な比喩は、フーコーの社会構築主義的アプローチの根本的限界を衝いている。精神疾患を社会的・制度的産物として記述するとき、個々の患者に固有のデリール体験の「還元不可能な個別性」はどのように説明されるのか。フーコーの枠組みにおいては、この問いに答えるすべがない。エーの批判は、1.2 節で論じた「根本的特異性」の概念とここで合流する。

エーはさらに、フーコーがヘーゲルとマルクスの疎外概念をデリールの発生の説明に流用していることを批判する。

Car, évidemment, les concepts d’aliénation (Entfremdung, Entäußerung de Hegel et repris par Marx) sont absolument inadéquats à l’application abusive qui en a été faite depuis et que M. Foucault reprend à son compte dans la dialectique rétrospective ou rétroactive par laquelle il tente de saisir ici la naissance du Délire... aussi artificiellement qu’il a découvert la naissance de la folie.

なぜなら、明らかに、疎外の諸概念(ヘーゲルの EntfremdungEntäußerung、そしてマルクスが受け継いだもの)は、それ以降なされてきた濫用的適用にはまったく不適合であり、フーコー氏はこの濫用をそのまま引き受けて、回顧的もしくは遡及的弁証法によってデリールの誕生をここでとらえようとしている……彼が狂気の誕生を発見したのと同じくらい人為的に。[2]

哲学的・政治的概念としての aliénation(疎外)と、精神医学的概念としての aliénation(精神の疎外=精神疾患)の混同は、フーコーの議論の構造的弱点であるとエーは見なしている。

1.7.5 結論——「理性の蝕」と「自由の病理」

エーのデリール論は、以上の賞賛と批判の運動を経て、彼の精神病理学全体を凝縮する定式に到達する。

Disons tout simplement, éclipse de la Raison... et nous serons d’accord en nous rappelant tout simplement que Déraison n’est pas raison — ou encore tout aussi simplement, que le Délire ne commence pas avec la force de la Déraison mais avec la faiblesse de la Raison.

端的に言えば、理性の蝕(エクリプス)……そう言えば我々は合意に至るだろう。非理性は理性ではないということ——あるいは同じく端的に、デリールは非理性の力からではなく、理性の弱さから始まるということを思い出しさえすれば。[2]

「デリールは非理性の力からではなく、理性の弱さから始まる」——この定式は、フーコーとエーの対立の核心を最も簡潔に表現している。フーコーにとってデリールは社会的に構築された「理性」に対する「非理性」の抵抗として積極的に読まれるべきものであった。エーにとってそれは、意識的存在としての人間に固有の組織——理性——が内部から崩壊する事態であり、まさに「自由の病理」の臨床的表現にほかならない。

ここで「理性の弱さ」という表現が、エーの精神病理学体系においていかなる理論的意味を担っているかを簡潔に確認しておく必要がある(詳細については別稿[1]を参照されたい)。エーの器質力動的モデル(organodynamisme)において、精神の発達は「自動的なものから意志的なものへ」という進化的階層構造として把握される。すべての人間の精神には、自動的・無意識的過程が基盤として存在しており、意識的・理性的機能はこの基盤の上に発展する高次の統合機能である。エーは 1964 年の論文「精神疾患の本質と 1838 年法(疎外・空間・自由)」において次のように述べている。

精神の病理は、そのあらゆる形態と程度において、本質的に自由の病理であり、その結果ではなく、その仕組みそのものである。患者の最初の悲劇、彼の存在の悲劇は、彼の病気であり、閉じ込めではないのである。[1][25]

この「自由の病理」という定式そのものは、エーが『精神医学研究』のエチュード第 4 番「医学的諸科学の枠組みにおける精神医学の位置」に与えた定義にさかのぼる。

Les maladies organiques sont des menaces à la vie, les « maladies mentales » sont des atteintes à la liberté. […] La psychiatrie est une pathologie de la liberté, c’est la Médecine appliquée aux amoindrissements de la liberté.

器質的疾患は生命に対する脅威であり、「精神疾患」は自由に対する侵害である。〔…〕精神医学は自由の病理学であり、自由の減弱に適用される医学である。[13]

この「自由の病理学」の概念に照らせば、「理性の弱さ」とは、高次の統合機能(意識、理性、自由)が内部から崩壊し、通常は統合され抑制されている自動的・無意識的過程が解放される事態を指す。ビュルガとフレールジュアンが明らかにしているように、「人間の自由はつねに、それを疎外しうる狂気を己のうちに担っており、その狂気こそが精神疾患において姿を現す」(« [L]a liberté humaine porte toujours en elle une folie susceptible de l’aliéner, laquelle se révèle dans la maladie mentale »)のである[14]。すなわち、理性と非理性は外的に対立する二つの力ではなく、人間の精神組織の内部における階層的関係にある。「理性の蝕」とは、この階層関係の逆転——高次の統合が低次の自動性に圧倒される事態——にほかならない。

この「理性の蝕」が具体的にいかなる臨床像として現れるかを理解するには、エーの器質力動論における意識の二つの軸——対物意識野の解体と自我意識の解体——を把握する必要がある。エーの主著『意識』(La Conscience)によれば、対物意識野の解体は意識混濁を伴う急性精神病として現れ、夢幻的なもの(l’onirique)に対応する。自我意識の解体は意識が清明であるにもかかわらず人格の統合が段階的に侵される慢性精神病として現れ、誤謬的なもの(l’erroné)に対応する。図 3 はこの二つの軸と、それぞれに含まれる主要な疾患単位を示している。

Fig. 3
エーの器質力動論における délire の二義性
Les deux sens du délire dans l’organodynamisme d’Henri Ey
意識の構造の解体(Dissolution de la structure de la conscience
——ジャクソンの解体理論に基づく——
対物意識野の解体 Déstructuration du champ de la conscience

夢幻的なもの(l’onirique)= delirium(英)/Delirium(独)
意識の混濁を伴う。

▼ 意識混濁の深化 ▼

【自然モデル】 睡眠と夢 Sommeil et rêve
錯乱—夢幻状態 États confuso-oniriques
幻覚—妄想状態 États hallucinatoires-délirants

自我意識の解体 Déstructuration de la personnalité

誤謬的なもの(l’erroné)= delusion(英)/Wahn(独)
意識は清明、現実の体系が偽造される。

▼ 人格統合の解体の深化 ▼

性格異常的自我 Moi caractéropathique
神経症的自我 Moi névrotique
慢性体系的妄想(パラノイア) Délire chronique systématisé
統合失調症性妄想 Délire schizophrénique
認知症(痴呆)状態 Démence

本論文の焦点:フーコーは「デリールの超越」章で狂気を本質的に「覚醒した夢」として定式化した。これは左列の夢幻的なもの(せん妄)には妥当するが、右列の誤謬的なもの(妄想)——意識清明下で現実の体系が偽造される事態——の説明には原理的に不十分である。エーの批判の核心はこの点にある。

〔注〕エーの対物意識野の変容には、上記のほか離人体験(身体的意識の障害)および躁鬱状態(情動と時間感覚の変容)も含まれるが、本論文の論点である délire の二義性を明示するため、ここでは意識混濁の深度に沿った系列のみを示した。エーの分類体系の全体像については、エー著『意識』(La Conscience)を参照されたい。なお、フランスの正統的精神医学教科書(カプサンベリス編『精神医学マニュアル』2012 年等)は、DSM-5 や ICD-11 が delirium に統一した領域を confusion mentale(精神錯乱)の章として維持しており、エーの体系が現代フランス精神医学においても生きていることを示している。

この理論的枠組みがデリール論に適用されるとき、1.7.4 節で見たエーの議論の射程がより明確になる。すべての人間に「含意されたデリール」が存在するのは、すべての人間の精神が非理性的な基盤——欲望、無意識——を内に担っているからである。しかし健常な精神は、この非理性的基盤を統合し、いわば「含み」つつ「抑制し続けている」。エーがくり返し強調した定式「精神的存在の組織は狂気を含んでいる」(« l’organisation de l’être psychique contient la folie »)の contenir は、ビュルガらが注意を促すとおり、「身体が諸器官を含む」という意味と「人が己を抑える」という意味との両義において読まれねばならない[14]。デリールが「真の妄想」(echter Wahn)として顕在化するのは、この統合機能=理性が「弱まり」、抑制されていた自動的過程が現実認識の体系そのものを偽造する形で解放されたときである。

したがって、フーコーが「デリールの超越」章で記述した古典主義時代の認識——夢幻的なもの(l’onirique)だけでは狂気にならず、そこに誤謬的なもの(l’erroné)が加わってはじめて狂気が成立する——を、エーは自らの器質力動的モデルの枠組みで読み替えている。「夢幻的なもの」は意識の解体に伴う自動的過程の解放(せん妄)であり、「誤謬的なもの」はそこにさらに現実認識体系の偽造が加わった事態(妄想)である。フーコーが考古学的に記述した区別を、エーは臨床的・構造的必然性として把握し直しているのである。

この対立は、本論文全体を貫く「自然か文化か」という根本的争点の、デリール論における具体的な現れである。フーコーにとって「理性」と「非理性」の関係は歴史的・社会的に構築された権力関係であり、デリールはその関係の産物として読まれるべきものであった。エーにとってそれは、人間の精神組織に内在する階層的関係——自由と自動性、意識と無意識の統合構造——の病理的崩壊として把握されるべきものであり、その崩壊こそが「自由の病理」の本質なのである。

1.8 反精神医学に対する批判——「精神医学殺し」という告発Fig. 2

エーの批判が最も激烈な頂点に達するのは、フーコーとその追随者たちの立場を「精神医学殺し」(psychiatricide)と呼んで糾弾する一節においてである。この「psychiatricide」はエー自身の造語であり、フーコーへの批判の核心を最も凝縮した形で表現している。

1971 年論文の結末近くで、エーは自らの解釈とフーコーのそれとを対置して次のように述べている。

Pour moi, je préfère opter pour cette interprétation ou, si l’on veut, ce modèle théorique, laissant à M. Foucault et ses épigones conscients ou inconscients de leur psychiatricide (qui est même un génocide à l’égard du système des valeurs de l’Humanité), le triste privilège de penser que la Démence vaut la Raison, que le Rêve vaut l’Existence, que l’Erreur vaut la Vérité, que l’Aliénation vaut la Liberté... comme l’objet d’art vaut l’œuvre d’art.

私としては、この解釈を——お望みならこの理論モデルを——選ぶことにする。そしてフーコー氏と、自らの精神医学殺し(それは人類の価値体系に対するジェノサイドですらある)に自覚的あるいは無自覚なその亜流たちには、痴呆は理性に等しく、夢は実存に等しく、誤謬は真理に等しく、疎外は自由に等しいと考える悲しい特権を——ちょうど芸術の対象物が芸術作品に等しいとするのと同じように——委ねておくことにしよう。[2]

ここでエーが「フーコー氏とその亜流たち」に帰する「psychiatricide」——「精神医学殺し」——という造語の激しさは、単なるレトリックではない。エーにとって、精神疾患の病理学的現実を否定することは、患者の苦痛を否認することであり、精神医学という学問の存在理由そのものを抹殺することである。さらに言えば、それは人間の自由と理性と真理の区別を廃棄すること——すなわち人間性の価値体系そのものに対するジェノサイド——にほかならない。

この「精神医学殺し」批判は、1972 年の論文においてさらに展開される。エーは反精神医学運動全体を射程に入れ、精神疾患の現実を否定する姿勢を厳しく糾弾している。

私は、義務ではなくとも権利として、純粋に否定的な反精神医学に立ち向かう権利を要求する。今、それは純粋に否定的なものであり、そのイデオロギー的概念から「精神病理学」という概念そのものを排除することで、価値体系全体と人間の実存全体を蝕んでいる。[5]

「精神医学殺し」という告発の激烈さは、1.0 節で見たトゥールーズ会議でのエーの態度——フーコーへの感謝の言葉——と鮮やかな対照をなしている。これほど激しく批判しながら、なお論敵の「知的誠実さ」を認め感謝を捧げることができたエーの姿勢は、この論争が単なるイデオロギー的対立ではなく、精神医学という学問の根拠と使命をめぐる真摯な問いに貫かれていたことを示している。

第二章 クロード・ケテル:歴史家による実証的批判Fig. 1Fig. 5

Fig. 4
「大監禁」の実証的解体——数字が語るもの
Le « Grand Enfermement » à l’épreuve des chiffres
方法論的前提(→ 2.1–2.3
「フーコーが興味を持つのは〈真実〉ではなく〈意味〉である」。狂気の「一元論」はフーコーの中にしか存在せず(古代以来、哲学・道徳・宗教と医学の二元論が区別を保った)、具体例(トーラン等)は意図的に逆の意味に取られている。
サルペトリエール収容者の構成(→ 2.6)——17 世紀末、5,276 人(ケテルの表による概数)
15 歳未満の子供約 36 %
監禁(女乞食・浮浪女・懲治対象者)約 16 %
盲目または麻痺の老女約 11 %
不具・白癬の少女(16 歳未満)約 6 %
狂女(当時の分類)6 %
てんかん患者約 2 %
残る約 23 % はケテルの表に項目名がない(「など」)。フーコーの物語の中心的舞台において、狂女は収容者の一部にすぎず、しかも収容者の八割以上は監禁ではなく扶助の対象であった。ただし 6 % は当時の分類による下限値であり、てんかん患者・痴愚・麻痺の老女の項にも今日の基準では精神障害に当たる者が含まれる。反駁の根拠は割合ではなく、区分の明確さと制度の救貧的性格にある(→ 2.6)。
制度の実効性と財政の破綻(→ 2.6
「2 人を収容するごとに、4 人、6 人と新たに街で物乞いをする者が現れた」。パリ一般施療院は創設後わずか 10 年で支払停止に陥り、1666 年の負債は 22 万 5,833 リーヴル余、18 世紀半ばには赤字 270 万リーヴルに達した。
ハンセン病療養所の転用(→ 2.7
ピティエの場合:ハンセン病療養所 → 巡礼者の宿泊所 → 孤児院 → 一般施療院(1656 年)。各転用には数十年の間隔があり、「排除の構造の象徴的継承」ではなく空き建物の即物的な再利用であった。
結論(→ 2.8):「古典主義時代の到来というよりも、バロックの最後の輝き」。「大監禁」は古典主義的理性の所産ではなく、財政的に破綻した不完全な救貧制度——バロック的慈善の残滓——であった。

2.1 問題となる歴史的方法Fig. 4

アンシャン・レジーム期を専門とする歴史家クロード・ケテルは、歴史学的方法の厳格さという観点からフーコーの批判に取り組んでいる。彼の批判はまず方法論に向けられている。

Quelle lecture faisons-nous de la thèse de Michel Foucault ? Dès la préface de Folie et déraison, on est frappé par la difficulté qu’il y a à saisir l’auteur. Son style brillant, sa pensée qui ne l’est pas moins, sa dialectique persuasive nous placent sans cesse à contrepied, pour peu qu’on prétende le lire dans une perspective de critique historique.

ミシェル・フーコーの論文(テーズ)をどう読むか?『狂気と非理性』の序文からして、この著者をとらえることがいかに難しいかを痛感させられる。彼の見事な文体、それに劣らず見事な思考、そして説得力のある弁証法は、歴史批評の観点から彼を読もうとする限り、絶えず私たちの裏をかくのである。[3]

ケテルは、フーコーの研究姿勢の根本的問題を次のように明確化する。

Ce qui intéresse Foucault, ce n’est pas le Vrai mais le Sens. Pourquoi pas ? N’a-t-il pas la liberté du philosophe ? Pour ce faire, il subordonne le Vrai au Sens (et son Sens). En histoire, nous espérons bien que cela posera toujours problème.

フーコーが興味を持つのは〈真実〉ではなく〈意味〉である。なぜいけないのか。彼には哲学者の自由がないのか。そのために、彼は〈真実〉を〈意味〉に(そして彼自身の〈意味〉に)従属させる。歴史学においては、このことがつねに問題であり続けることを、我々は強く望みたい。[3]

2.2 フーコーの「一元論」の解体

ケテルは、フーコーの「狂気の一元論」に特に批判的である。フーコーの主張とは対照的に、彼は、古代から「二元論」が、哲学、道徳、宗教と医学とを区別してきたことを示している。

Or ce « monisme » de la folie n’existe que chez Foucault. Il est en contradiction absolue avec un dualisme qui a toujours distingué entre, d’une part, le philosophique, le moral, le religieux et, de l’autre, le médical (et « le cerveau troublé par les noires vapeurs de la bile » extirpé des Méditations de Descartes, c’est du médical).

しかし、この狂気の「一元論」はフーコーの中にしか存在しない。それは、一方では哲学的、道徳的、宗教的なもの、他方では医学的なもの(デカルトの『省察』から抜き出された「胆汁の黒い蒸気にかき乱された脳」は医学的なものである)をつねに区別してきた二元論と真っ向から矛盾している。[3]

恒久的な区別は、理性と狂気を突然分離させたという「歴史的陰謀」の考えに疑問を投げかける。ケテルは、「病的な狂人は古代から存在し、西洋社会では決して神聖化されてこなかった」と指摘している。

2.3 資料の批判的分析

歴史家は、フーコーが歴史的資料を偏った方法で用いていると批判している。

Quant aux cas d’espèce dont Foucault émaille sa thèse, ils sont pour la plupart du temps pris volontairement à contresens. Ainsi Thorin, « ce pauvre destin bu par le silence de l’Histoire », « pauvre présomption d’un passage que l’avenir refuse ». Ces formules laissent supposer que ce Thorin n’était pas fou. Or ce domestique de grande maison avait entendu des voix lui demander d’assassiner le roi et ce juste après l’attentat de Damiens. Enfermé à la Bastille, Thorin, qu’on avait d’abord suspecté de simuler la folie, se révéla si bien fou qu’on dut par la suite le transférer à Charenton. […] L’histoire ne peut s’écrire que dans le respect de l’archive, toute l’archive.

フーコーが自らの論文に散りばめている具体例はといえば、そのほとんどの場合、意図的に逆の意味に取られている。例えばトーラン——「歴史の沈黙に飲み込まれたこの哀れな運命」、「未来が拒否する通過の哀れな僭越」。これらの表現は、このトーランが狂人ではなかったと推測させる。ところが、この大邸宅の使用人は、ダミアンの暗殺未遂事件の直後に、王を暗殺するよう求める声を聞いていたのである。バスティーユに監禁されたトーランは、最初は狂気を装っているのではないかと疑われたが、のちにあまりにも明らかに狂人であることが判明し、シャラントンへ移送せざるをえなかった。〔…〕歴史は、史料の尊重においてのみ——すべての史料の尊重においてのみ——書かれうるのである。[3]

2.4 抑圧的な収容の疑問視

フーコーとは対照的に、ケテルは、収容は非理性を標的とするものではなく、「古くから存在する物乞いや放浪者問題」を管理するための現実的な論理の一部であると主張している。この解釈は、「大監禁」を合理的な抑圧の手段とするイデオロギー的な見方とは対立する。

歴史家は、アンシャン・レジーム期には収容者のカテゴリーが明確に区別されており、「反社会的な者」と「精神異常者」が混同されたことはなかったことを示している。この区別は、非合理に対する無差別な抑圧という考え方そのものを疑問視するものである。(この区分の明確さがもう一つ含意すること——それがサルペトリエールの「精神異常者 6 %」という数字を当時の分類による下限値にすること——については、2.6 で述べる。)

2.5 歴史的連続性の実証

ケテルは、フーコーの断絶史観に対して、精神医学の歴史的連続性を史料に基づいて論証している。

Nous avons assez montré la continuité de la folie-maladie depuis la plus haute Antiquité, la stabilité de la nosographie qui se met aussitôt en place (manie, mélancolie...), la non-assimilation au Moyen Âge des métaphores et des allégories de la folie, pour ne pas apercevoir décidément d’« expérience classique de la déraison » ni de franchissement historique d’une déraison à une folie dûment médicalisée.

我々は、遠い古代からの狂気=病気の連続性、ただちに整えられていく疾病分類(躁病、メランコリー…)の安定性、そして中世において狂気の隠喩や寓意が〔病気としての狂気に〕同化されなかったことを、十分に示してきた。それゆえ我々は、「非理性の古典的経験」なるものも、非理性から正式に医学化された狂気への歴史的な乗り越え(franchissement)なるものも、断じて見て取ることはないのである。[4]

2.6 「大監禁」の実態——数字が語る制度の破綻Fig. 4

ケテルの実証的批判の中で最も決定的な打撃をフーコーのテーゼに与えるのは、「大監禁」(Grand Enfermement)の実態に関する数量的検証である。フーコーは 1656 年のパリ一般施療院(Hôpital général)の創設を、「理性による非理性の封じ込め」という壮大な物語の起点として描いた。しかし、ケテルが提示する実証的データは、この物語の前提そのものを掘り崩す。

パリのサルペトリエール施療院——フーコーの物語の中心的舞台——における収容者の構成を見れば、「理性が非理性を監禁した」というテーゼがどのような実態の上に立っていたかが見えてくる。当時の分類で狂女と数えられた者は 6 % である。収容者の大半は 15 歳未満の子供(約 36 %)、盲目または麻痺の老女(約 11 %)、不具や白癬を患う少女(約 6 %)といった扶助の対象であり、厳密な意味での監禁——女乞食・浮浪女と懲治対象の放蕩女・娼婦——は約 16 % にすぎない。[6]一般施療院の実態は「理性による非理性の監禁」ではなく、むしろ近世ヨーロッパに広く見られた救貧・慈善施設の延長線上にある(サルペトリエールの制度史全般については、カレーズの研究がある[7])。

ただし、筆者はこの 6 % という数字に一つの留保を付しておきたい。この数字を、今日の意味での精神障害者の割合として字義どおりに受け取ることはできない。ケテル自身が示す史料が、そのことを教えている。1658 年に作成された「一般施療院の計画」は、健常な乞食を働かせる区画を中心としつつ、少数であっても他と混ぜることのできない範疇として、男性では「手足の不自由な者」、「瘰癧の者」(疥癬・白癬・瘰癧など当時の重い皮膚病一般の意)、盲人、そして「精神の痴愚(imbécilles d’esprit)」と「聖ヨハネの病(mal de Saint Jean)」すなわちてんかんの者を、それぞれ別に収容すると定めていた。ケテルはこれに注記して言う。

On remarquera que l’épilepsie est déjà soigneusement distinguée de la folie, et que la place de celle-ci parmi d’autres maladies montre bien qu’elle est perçue selon un critère médical.

てんかんがすでに狂気から注意深く区別されていること、そして狂気が他の病のあいだに置かれていることは、狂気が医学的な基準によって捉えられていたことをよく示している。[6]

17 世紀末のサルペトリエールの構成も、この区分に従って数えられている。5,276 人の女性と子供のうち、厳密な意味での監禁にあたるのは「並の女乞食」と浮浪女 465 人、懲治の対象となる放蕩女・娼婦 380 人にすぎず、扶助の側には 15 歳未満の子供 1,894 人、「盲目または麻痺の老女」594 人、手足の不自由な、あるいは白癬を患う 16 歳未満の少女 329 人、「さまざまな年齢のてんかん患者」92 人、そして「暴れる、あるいは無害な狂女(folles violentes ou innocentes)」300 人がいた。狂女の数は 1657 年の 700 人中 22 人から 1679 年の 3,963 人中 146 人、1690 年の 4,000 人中 226 人へと増え、その割合は 3 % から 6 % に上がった。[6]本稿の「6 %」はこの最後の数字である。

したがって「6 %」とは、当時の区分で「狂女」の棟に置かれた者の割合であり、てんかん患者、痴愚、盲目または麻痺の老女は、身体の病か年齢の問題として、はじめから別の項目に数えられている。今日の診断学から見れば、これらの項目のうちに精神障害を伴う者が相当数含まれていたことは疑いない——てんかんに伴う精神病状態、知的発達症、老年期の認知症、そして進行麻痺がそれである(麻痺と狂気との結びつきは、ベールが 1822 年に慢性くも膜炎として同定するまで、一つの疾患として認識されていなかった)。ケテル自身、18 世紀半ばには狂女が 7,800 人中およそ 700 人、10 % 近くに達したことを記し、1760 年以降、興奮した者は個室(loges)に移されたが「痴愚」とてんかん患者は旧来の共同寝室にとどまった、と述べている。[6]6 % は、あくまで当時の分類による下限値として読まれねばならない。

しかし、この留保は「大監禁」テーゼへの反駁を弱めるものではなく、むしろその論点を正しい位置に置き直す。第一に、仮に上記の区分から今日の基準で精神障害者を拾い上げ、その割合が二倍・三倍になったとしても、精神障害者が収容者の少数にとどまることに変わりはなく、一般施療院の主たる住人が子供・老女・不具の者といった扶助の対象であったという事実は動かない。第二に、より重要なことに、フーコーのテーゼは精神異常者が収容者の多数を占めたと主張しているのではない。彼が主張したのは、狂人が貧民・放蕩者・性病患者・放浪者とともに無差別に閉じ込められ、その無差別性こそが古典主義時代における非理性の経験を構成した、ということである。したがって精神異常者の割合の低さは、それ自体としてはフーコーへの反証にならない——フーコー自身がその少数性を前提としているからである。フーコーを撃つのは、2.4 節で見たように収容者の区分が当初から明確に維持され、狂人と反社会的な者とが混同されなかったという事実、そして本節で見る制度の実態——救貧を目的とし、財政的に破綻し、実効性を欠いた施設——である。区分が明確であったという同じ事実が、一方では 6 % という数字を下限値にし、他方ではフーコーの無差別性のテーゼを反証する。6 % という数字は、この実態を示す一指標として読まれるべきであり、それ自体を反駁の根拠に据えるべきではない。

さらに、制度そのものの実効性がきわめて低かったことも、「大監禁」の壮大さを相対化する。管理者たちが刊行した数々の小冊子には、「2 人を収容するごとに、4 人、6 人と新たに街で物乞いをする者が現れた」(« Pour deux que l’on a enfermés, il en est venu 4 et 6 mandier dans la ville »)と記されている。財政面でも制度は早々に破綻していた。パリの一般施療院は創設後わずか 10 年で支払停止状態に陥り、院長たちは悲痛な訴えを発している。

L’Hôpital général périt, il tombe s’il n’est promptement secouru, ou pour mieux dire, il est tombé, s’il n’est incessamment relevé. Il n’a ni argent, ni provision, ni crédit…

一般施療院は滅びつつある。速やかに救済されなければ倒れる——いや、より正確に言えば、すでに倒れており、ただちに立て直されねばならない。金もなく、蓄えもなく、信用もない……[6]

1666 年 12 月 13 日の臨時総会で報告された負債総額は 22 万 5,833 リーヴル 12 ソル 9 ドゥニエに達していた(1666 年の負債報告書〔estat des debtes〕、BN ms FF21804 による)。危機はその後も慢性化し、18 世紀半ばには収容者が 13,000 人を超えるなか、赤字は 270 万リーヴルという巨額にのぼり、財政状況は文字どおり破滅的なものとなる。[6]

2.7 ハンセン病療養所の転用——象徴ではなく即物Fig. 4

フーコーは『狂気の歴史』の冒頭で、中世のハンセン病療養所(léproserie)が一般施療院へと転用される過程に深い象徴的意味を見出した。しかし、ケテルの実証的検証はこの象徴的解釈を大きく修正する。中世ヨーロッパには推定約 19,000 ものハンセン病療養所が存在したが、15 世紀以降のハンセン病の退潮に伴い、これらの施設は段階的に他の用途に転用された。重要なのは、この転用がフーコーの描く「排除の構造の象徴的継承」ではなく、空き建物の即物的な再利用であったことである。

パリのピティエ(La Pitié)施設の転用過程は、この即物性を鮮明に示している。もともとハンセン病療養所として建設されたこの施設は、ハンセン病の退潮後、まず巡礼者の宿泊所に転用され、次いで孤児院となり、最終的に 1656 年の一般施療院制度の下に組み入れられた。各段階の転用には数十年の間隔があり、排除の「構造」が連続的に継承されたというよりも、利用可能な建物が時代ごとの社会的需要に応じて繰り返し用途変更されたと見る方が実態に即している。

2.8 古典主義時代の逆説——ケテルの決定的結論Fig. 4

以上の実証的検証を踏まえて、ケテルはフーコーの時代区分そのものを転覆させる決定的な結論を提示している。

C’est en cela qu’on pourrait parler de derniers feux du baroque plutôt que d’avènement de l’âge classique. L’âge classique, si cher à Foucault, a finalement plus contrecarré l’Hôpital général qu’il ne l’a créé.

まさにこの点においてこそ、古典主義時代の到来というよりも、バロックの最後の輝きについて語るべきなのだろう。フーコーがこよなく愛した古典主義時代は、結局のところ、一般施療院を創り出したというよりも、むしろそれを妨げたのである。[6]

ここに、エーの哲学的反論とケテルの実証的反駁が合流する。エーが精神医学の誕生をルネサンスにさかのぼらせ、フーコーの「古典主義時代の理性」という枠組みそのものに異議を唱えたように、ケテルもまた一般施療院の制度史を実証的にたどることで、同じ枠組みの歴史的不正確さを暴き出した。「大監禁」は古典主義的理性の所産ではなく、バロック的慈善の残滓であり、しかもその実態は壮大な排除というよりも、財政的に破綻した不完全な救貧制度にすぎなかったのである。ただし、ここで実証的に崩れるのは、1656 年を起点として一斉で均質な排除がヨーロッパ全体に起こったという、出来事としての「大監禁」である。救貧・労働規律・道徳的分類・監禁が一つの統治形態に結びついたという構造としての「大監禁」の指摘は、これが 17 世紀に一斉に起きたかどうかとは別の問題であり、ケテルの数字によっても消えない——そして補論で見るとおり、カステルが既得のものとして引き受けたのは、まさにこの構造の側であった。

出来事としての「大監禁」がなぜ生まれたかについては、ゴールドスタインの指摘が示唆的である。フーコーの大監禁論は、英独の文献を散りばめてはいるものの、細部では実際にフランスの一般施療院をめぐって組み立てられている。そしてこの制度には、1656 年のパリの勅令と、約二十年後の地方都市への拡大という、日付のある起点があった。1972 年版の付録に収められた大監禁関係の史料も、すべてフランス由来である[32]。日付のある一国の出来事が、そのままヨーロッパ全体の出来事として語られたところに、出来事としての「大監禁」は生まれたと言ってよい。ゴールドスタインはこれを、「フランス」を一国の名と西洋全体の提喩とのあいだで揺れ動かせる意図的な修辞戦略として読むが[32]、英語圏の歴史家はこれを過度の一般化とみなした[35][36][37]。他方ゴードンは、フーコーの言う古典主義時代の新しさは狂人を他の者と一緒に閉じ込めたことにあるのではなく、監禁実践の体系性、範囲の広さ、そして一貫した統一的根拠にあると応じている[34]。この応答が守ろうとしているのは、本稿の言う構造としての「大監禁」の側である。

2.9 グラディス・スウェインによるピネル再評価への道

エーとケテルの批判がフーコーの「大監禁」テーゼとその歴史的前提を掘り崩すものであったとすれば、グラディス・スウェイン(Gladys Swain, 1945-1993)の仕事は、フーコーの物語のもう一つの柱——ピネルの「解放」を新たな精神的監禁として読み替える解釈——を正面から転覆させるものである。

スウェインは 1977 年の博士論文『狂気における主体——精神医学の誕生』(Le Sujet de la folie: naissance de la psychiatrie)において、フーコーが『狂気の歴史』で展開したピネル解釈を根本から修正した。フーコーにとってピネルの道徳療法(traitement moral)は、鎖による身体的拘束に代わる新たな——より陰険な——精神的規制であり、「理性による非理性の内面化された支配」を意味していた。これに対しスウェインは、精神科臨床医の視点から、ピネルの革新がまったく異なる意義を持つことを論証した。

スウェインは、ピネルの革新の核心を次の一文に凝縮している。

La folie comme problématisation du sujet en tant que sujet. Voilà l’horizon que Pinel assigne à la réflexion psychiatrique ultérieure.

主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気(le sujet en tant que sujet)。これこそ、ピネルがのちの精神医学的省察に割り当てた地平である。[9]

この命題は、フーコーの解釈とは正反対の方向を指し示している。ピネルが精神医学に導入した根本的な革新は、狂人に対する新たな抑圧装置の設置ではなく、狂人のなかに「理性の残余」——すなわち主体性——を認めるという、人類史上前例のない認識論的転換だったのである。この視点は、第三章で詳述するマルセル・ゴーシェの歴史哲学的考察によってさらに広い射程のなかに位置づけられることになる。

補論 ロベール・カステル『精神医学的秩序』——否認せざる批判という第二の型Fig. 1

Fig. 5
同じ史料、二つの問い——批判の第一の型と第二の型
Deux types de critique devant la même archive
共通の事実

アンシャン・レジームの監禁は実効性を欠き、失敗していた

▼ 同じ事実から、正反対の結論へ ▼
第二章 →ケテル——第一の型
失敗の事実は「大監禁」神話を崩す反証である。フーコーの物語は、その虚構性を数字によって暴かれる。
補-3 →カステル——第二の型
失敗こそが、精神医学という「独創的な解決」を要請した発生因である。収容の政治の行き詰まりが、アジールの発明を呼んだ。
カステルは「大監禁」を否認しない(→ 補-1・補-2
フーコーの分析を「既得のものとして引き受け」(tenu pour acquises)、史料をその図式の存続の確認のために用い、『狂気の歴史』の一節を自らの結論として直接引用する。そのうえで 1790–1838 年の法・行政・医学の再編を、医学的後見(tutelle)の制度化——1838 年法とアジール——として書き直した。
批判の型の差は、資料の差でも実証水準の差でもなく、同じ史料に向けられた問いの向きの差である。限界(→ 補-4):カステルにおいて狂気はつねに社会関係の項(後見されるべき者)として現れる——社会関係の分析が尽くしえないもの(病としての苦痛、自由の減退、その回復への意志)を、エーの「自由の病理学」が問いつづける。

第一章のエーと第二章のケテルは、方法を異にしながらも一つの身振りを共有していた。フーコーの命題を誤りとして退けるという身振りである。エーは精神疾患の病理学的現実を否認する哲学に反駁し、ケテルは一般施療院の収容実態を数字によって示して「大監禁」の像を掘り崩した。しかし『狂気の歴史』が呼び起こした批判には、これとはまったく異なる第二の型が存在する。フーコーの記述を一箇所も明示的に誤りとして退けることなく、むしろその分析を既得のものとして引き受けたうえで、フーコーが最も手薄にしか扱わなかった領域を行政文書と議会審議録によって埋めるという型である。ロベール・カステル(Robert Castel, 1933-2013)が 1976 年に刊行した『精神医学的秩序——アリエニスムの黄金時代』(L’ordre psychiatrique. L’âge d’or de l’aliénisme[26]は、その最も完成された例である。本補論は、この第二の型を提示することによって、フーコー批判の見取り図を完成させる。

補-1 「既得のものとして引き受ける」——序文における負債の表明Fig. 5

カステルの立場は、本書の序文において、曖昧さの余地なく表明されている。

Le lecteur verra également tout ce que ce travail doit à l’œuvre de Michel Foucault. L’Histoire de la folie a marqué par rapport à l’ethnocentrisme médical une rupture dans le sillage de laquelle toute entreprise de ce genre ne peut que s’inscrire. Mais il ne s’agit pas d’une fondation mythique. J’ai tenu pour acquises nombre des analyses du livre, et emprunté aux autres ouvrages de Michel Foucault certaines des catégories qui commandent désormais l’accès à une théorie matérialiste du pouvoir.

読者はまた、この仕事がミシェル・フーコーの著作に負うところのすべてを見てとるであろう。『狂気の歴史』は、医学的自民族中心主義に対して一つの切断を画したのであり、この種の企てはいずれもその航跡のうちに身を置くほかない。しかしそれは神話的な基礎づけ(une fondation mythique)ではない。私は同書の分析の多くを既得のものとして引き受けtenu pour acquises)、またミシェル・フーコーの他の諸著作から、権力の唯物論的理論への通路を今日指令している諸カテゴリーのいくつかを借用した[26]

この短い一節に、第二の型の定義が凝縮されている。一方に「既得のものとして引き受けた」(tenu pour acquises)という承認があり、他方に「神話的な基礎づけではない」(il ne s’agit pas d’une fondation mythique)という留保がある。『狂気の歴史』は神聖不可侵の始源ではなく、書き直しうる出発点である——これがカステルの与える距離のとり方であって、否認ではない。実際、本書全体を通じて、カステルがフーコーの命題を明示的に誤りとして退けた箇所は一つも存在しない。フーコーへの言及は本文・脚注を通じて十六箇所に及ぶが、そのすべては継承・留保・典拠参照のいずれかであり、異論の提示は皆無である。

この距離のとり方が『精神医学的秩序』に先立つ読書経験に根ざしていることは、カステルが 1990 年に英語圏の論争に寄せた短い文章から知られる(→ 序節)。そこでカステルは、1960 年代半ばの自身の最初の読解を、医学的合理化を括弧に入れ、専門家の解釈から離れて精神医学の理論を組み立てるための「認識論的切断」の道具として語っている[31]。さらに彼は、1968 年以後の闘争的な再利用をフーコーが退けることなく、自らも広い意味での反精神医学運動に加わった事実を、「特定知識人」の概念によって説明する。特定知識人は、厳密さの要求と日和見主義の拒否という知識人固有の倫理を保ちながら、普遍の代表者という理論的主権の立場を捨て、自らの「特定の資本」を実践目的のために差し出して社会集団と同盟を結ぶ。カステルによれば、『狂気の歴史』が精神医学体系の文化的前提の恣意性を暴き、その代価——狂気の実証主義的な平凡化と狂人の社会的隔離——を測る書物である以上、閉じ込めを廃止ないし緩和しようとする実践との同盟は、ほとんど「自然」であった[31]。『精神医学的秩序』の序文が示す「既得のものとして引き受ける」という態度は、学術的な第一の読解と政治的な第二の読解の両方を通過した者の態度である。

補-2 カステルは「大監禁」を否認しない

この点は、本稿の主題にとって決定的であるため、証拠を挙げて確かめておかねばならない。「大監禁」(grand renfermement)という語は『精神医学的秩序』の本文に三度現れる(pp. 30, 64, 184)。そのいずれもが鉤括弧つきの引用的用法でありながら、否定的にではなく肯定的に用いられている。とりわけ、乞食委員会(Comité de mendicité)の史料を検討したのちに置かれる次の総括は決定的である。

Se confirme ainsi à la fois la permanence du schéma du « grand renfermement » et la tentative pour briser l’indifférenciation qui le fondait par l’action conjointe de l’humanisme des philanthropes et de l’idéologie médicale.

こうして、「大監禁」の図式の存続と、それを基礎づけていた無差別性を打破しようとする試み——博愛主義者たちのヒューマニズムと医学的イデオロギーの共同の作用による——との双方が同時に確認される[26]

「確認される」(se confirme)という動詞に注意を促したい。第二章で見たように、ケテルにおいては、同種の史料は「大監禁」の像を反証するために動員された。カステルにおいて、史料はその存続を確認するために動員されている。同じ史料的作業が、正反対の方向を向いているのである。

さらにカステルは、救済制度の変容を論じる箇所で、『狂気の歴史』の一節を——要約でも参照でもなく——地の文の鉤括弧に入れて直接引き、自らの議論の結論として据える。

« Grossière erreur de l’internement et faute économique : on croit supprimer la misère en mettant hors circuit et en entretenant par la charité une population pauvre. En fait, on masque artificiellement la pauvreté ; et on supprime réellement une part de la population, richesse toujours donnée. »

「監禁の粗大な誤りにして経済的過誤。人は貧しい人口を回路の外に置き、慈善によって扶養することで貧困を除去できると信じている。実際には人は貧困を人為的に覆い隠しているのであり、そして現実には、つねに与えられた富である人口の一部分を除去しているのである。」[26]

この一文の出所は『狂気の歴史』であり、カステル自身の脚注がそれを明示している[8]。ケテルが実証によって解体しようとしたフーコーの経済論——監禁を労働力管理の装置として読む議論——を、カステルは引用によって自らの結論の位置に置いたのである。

否認がないことの、もう一つの消極的な証拠がある。カステルが本書で扱う時代は 1790 年から 1838 年までに限定されており、『狂気の歴史』への頁指定を伴う参照は同書の第二部・第三部に集中している。第一部——すなわち 1656 年の一般施療院創設と大監禁を論じた部分——への参照は一つもなく、本書の本文に「1656」という数字は一度も現れない。カステルは大監禁の成立を論じないのである。彼が論じるのは、その解体と再編である。第二章の表題そのものがそれを語っている——「全体主義的施設の救済」(Le sauvetage de l’institution totalitaire)。アジールとは、革命によって信用を失った旧監禁施設を医学が救い出したものにほかならない。この定式は、大監禁の現実性を前提しなければ意味をなさない。

補-3 同じ事実の二つの読み——分岐点Fig. 5

二つの型の分岐は、両者がまったく同じ事実を扱う箇所において最も鮮明になる。第二章 2.6 で見たとおり、ケテルは収容の実態を示す数字によって、大監禁が壮大な排除装置などではなく、財政的に破綻した不完全な救貧制度にすぎなかったことを論証した。カステルもまた、同じ事実を挙げる。物乞いと浮浪の取締りに関する王令が数年おきに反復して発せられたという事実は、それらがほとんど、あるいはうまく適用されていなかったことを意味する、と。ところがカステルは、この事実から正反対の結論を引き出す。

Comment un pouvoir peut-il être absolu sans tomber dans l’arbitraire, imposer ses décisions sans appel en demeurant « mesuré », c’est-à-dire efficace et rationnel ? La psychiatrie offre une solution originale devant ces contradictions qui avaient bloqué la politique de l’internement et l’avaient conduite finalement à l’échec. Elle propose une instrumentalisation du pouvoir absolu qui rend efficace et rationnel son exercice.

いかにして一つの権力は、恣意に陥ることなく絶対的でありうるのか。上訴なしにその決定を課しながら、なお「節度ある」もの、すなわち実効的かつ合理的なものにとどまりうるのか。精神医学は、収容の政治を行き詰まらせ、最終的に失敗へと導いたこれらの矛盾に対して、一つの独創的な解決を提示する。すなわち絶対的権力の道具化——その行使を実効的かつ合理的たらしめる道具化——を提案するのである。[26]

ここに分岐点がある。アンシャン・レジームの監禁が実効性を欠いていたという同一の事実が、ケテルにおいては神話を崩す反証となり、カステルにおいては次の制度を生み出す発生因となる。ケテルにとって、収容の失敗はフーコーの物語の虚構性の証拠である。カステルにとって、収容の失敗こそがアジールの発明を要請したのであり、精神医学とはその失敗に対して与えられた「独創的な解決」なのである。批判の型の差は、資料の差でも実証水準の差でもない。同じ資料に対する問いの向きの差である。

補-4 第二の型の射程と限界Fig. 5

カステルはこの分析を、次の一句に集約している。アリエニストたちは「別の舞台」を発明したのだ、と。

Davantage : ce serait une erreur de prétendre qu’ils se sont complètement trompés. Ils ont opéré une métamorphose. Ils ont inventé une « autre scène », c’est-à-dire un espace très différent, mais qui est aussi le même.

それ以上に、彼らが完全に誤っていたと主張するとすれば、それは誤りであろう。彼らは一つの変態を遂行したのだ。彼らは「別の舞台」を、すなわちまったく異なる空間、しかし同じでもある空間を発明したのである。[26]

アリエニストたちが完全に誤っていたわけではない、という承認において、カステルは次章で扱うスウェインとゴーシェに接近する。フーコーがピネルの解放を新たな監禁として読み替えたのに対し、カステルもスウェインも、そこに現実の変化があったことを認める点では一致している。しかし両者はただちに袂を分かつ。スウェインにとってピネルの革新が「狂気における主体」の発見であったのに対し、カステルにとってそれは後見(tutelle)の新しい形式の発明だからである。契約によって構成される社会は、契約を結びえない者のために、司法的でも家族的でもない第三の後見——医学的後見——を必要とした。1838 年法とはその制度化であり、アジールとはその場所である。この分析は、制度史・法社会学の水準においてフーコーの記述を著しく精密化した。フーコーが数十頁で素描した 1790 年から 1838 年への移行を、カステルは行政文書と議会審議録によって一冊の書物として書き直したのである。

しかしまさにその成功が、第二の型の限界をも露わにする。カステルの記述において、狂気はつねに社会関係の項として現れる——後見されるべき者、契約から脱落した者、行政的に処理されるべき者として。彼の枠組は、この関係の外に何かが残るかどうかを問わない。第一章で見たエーの批判は、まさにこの一点に向けられうるものである。すなわち、社会関係の分析が尽くしえないもの——病としての苦痛、自由の減退、そしてその回復への意志——が存在するのではないか、という問いである。フーコーに対してエーが「精神医学殺し」を告発したとき、その告発の対象は狂気の病理学的現実の否認であった。カステルはその現実を否認しない。彼はそれを主題としないだけである。しかし主題としないことによって、狂気は再び社会的なものへと解消されうる。「精神医学とは自由の病理学である」というエーの定式が、社会統制論に対して依然として提起しつづける問いは、ここにある。

第三章 グラディス・スウェインとマルセル・ゴーシェによるピネル再評価Fig. 1

Fig. 6
ピネル再評価——「狂気における主体」の発見
La découverte du sujet de la folie : de Pinel à Freud
スウェインの問題提起(→ 3.1
フーコー(客体化による支配、と批判)も実証主義的精神医学史(科学的客体化の進歩、と称揚)も、精神医学の本質=「客体化」(objectivation)という前提を共有している。ピネルの革新は、このパラダイムでは把握できない。
周期性躁病の観察(→ 3.2
年に 15 日だけ狂乱し、11 か月半は理性を完全に享受する患者。狂気の極点においても理性は消滅せず「蓄えられて」持続する——狂人と彼の狂気との潜在的距離。
manie sans délire→ 3.2
知的能力は保たれたまま、抗いがたい衝動に支配される。制御の喪失と明晰な自己意識の同居——「全的狂気」という千年来の形象との決定的断絶。

主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気
——「狂気における主体」(le sujet en tant que sujet)の発見

ゴーシェの歴史哲学的定位(→ 3.3)——「他性体制のコペルニクス的革命」
狂気が啓示するものが変わる:〈神に対する人間の劣位〉の啓示者(形而上学的条件の啓示者)から、〈人間が自分自身にとってなりうる他者〉を通じて心の秩序を教えるもの(人類学的啓示者)へ。狂気の意味の軸は〈神と人間の関係〉から〈人間と人間自身の関係〉へ移った。
ピネル(1800)
周期性躁病・manie sans délire
エスキロール
「最も激しい妄想の最中にも……この自我」
神経症の再発見
強迫観念・恐怖症・ヒステリー
フロイト
主観的大陸の探究の中心へ
「意識を伴う狂気」(la folie consciente)の一世紀(→ 3.4)。
エーとの交差(→ 3.5):エーの「自由の病理学」とスウェインの「狂気における主体」は、異なる出発点から同一の核心に到達する——狂気は主体の全的廃棄ではなく、主体であることそのものにかかわる内的緊張である。

〔付記〕本章は、スウェイン=ゴーシェの読解を本論文の枠組み——エー・ケテル・カステルとの比較——のなかで扱う。そのためゴーシェ=スウェインのフーコー批判そのものの論点は圧縮されている。批判の論点の独立の検討——ゴーシェが二〇〇四年の『人間精神の実践』再刊新序文「民主主義時代の狂気」で自ら行った総括(排除の神話・平等と包摂・遂行的自己矛盾・脱施設化の帰結)を含む——は、別稿「狂気における主体と民主主義の権力——ゴーシェ=スウェイン『人間精神の実践』をめぐって」(本紀要)で行う。

3.1 スウェインの問題提起——フーコーと実証主義者の共有する前提Fig. 6

スウェインの批判が特異なのは、フーコーだけでなく、フーコーを批判する実証主義的精神医学史もまた、ある共通の前提を共有していることを指摘した点にある。フーコーは精神医学を「理性による非理性の客体化」として批判し、実証主義者は精神医学を「狂気の科学的客体化」の進歩として称揚した。しかしいずれの立場も、精神医学の本質を「客体化」(objectivation)——すなわち狂人を観察・分類・管理の対象として措定すること——として把握している点では一致している。

スウェインが示したのは、ピネルにおける精神医学の創設がこの「客体化」のパラダイムでは把握できないということである。ピネルが行ったのは狂人の客体化ではなく、むしろ狂人のなかの主体性の発見——狂気のただ中においてもなお存続する「狂気における主体」(le sujet de la folie)の認識——であった。

3.2 ピネルの革新——周期性躁病から「狂気における主体」へFig. 6

スウェインの分析をさらに発展させたのが、マルセル・ゴーシェ(Marcel Gauchet, 1946-)による『狂気における主体』再版序文「ピネルからフロイトへ」(De Pinel à Freud, 1997 年)である。とりわけその一節「アイデンティティの革命」(La révolution de l'identité)は、以下で見るように、ピネルの革新を近代の自己理解の変容全体のなかに位置づける歴史哲学的考察を含んでいる。ゴーシェはこの序文において、ピネルの『精神疾患に関する医学哲学論考』(共和暦 9 年=1800 年)の内的構造を精密に分析し、精神医学的認識がいかにして発生したかを再構成している。

ゴーシェがまず注目するのは、『論考』初版の構成上の「異常」である。体系的な論考であるはずのこの著作は、なぜか「周期性または間欠性躁病に関する覚書」という、一つの特殊な症型の検討から書き起こされている。全体の見取り図を示すべき冒頭にこのような各論を置くことを正当化する理由は、どこにもない——「ただ一つ、思考が実際にたどった個人的で偶然的な順序を除いては」。すなわちゴーシェの読みによれば、急いで編纂された初版は、ピネルの思考が現実に形成されていった道筋を、整理して消し去ることなくそのまま残してしまった。そして、この「本来あるべきではなかったテキスト」こそが、精神医学がいかにして創設されたかを知る鍵を後世に伝えることになったのである。

間欠的にしか狂気を示さない患者の存在は、狂気についての根本的な再考を迫った。ゴーシェは次のように述べている。

ある精神病者は年に 15 日間だけ極度の激怒状態にあり、11 か月半の間は冷静で理性を完全に享受していた。したがって、理性が根本的に覆されているように見える瞬間においてさえ、理性の一種の潜在性を想定しなければならない。それは失われていない。単に蓄えられているのであり、その蓄えは多かれ少なかれ能動的である。[10]

議論の骨格は単純である。一年のうち十一か月半を正気で過ごし、十五日間だけ狂乱状態に陥る患者が現に存在する。この事実を認めるなら、狂気の極点においてさえ理性は消滅しておらず、いわば水面下に「蓄えられて」持続している、と考えざるをえない。狂気と理性は、一方が他方を全面的に排除する関係にはないのである。

こうして周期性躁病の観察は、「狂人と彼の狂気との潜在的距離」——患者はその狂気と完全には一体化していない、という認識——を思考することを可能にした。ピネルの仕事の全体は、この特殊な症例から得られた原理を狂気一般へと拡張するところにあった。さらに決定的なのは、「manie sans délire」——知的能力は完全に保たれているにもかかわらず、抗いがたい衝動に支配される患者——の記述である。ゴーシェの分析によれば、これらの患者において「距離は潜在的ではなく、開かれている」。すなわち患者は自分の状態を知らないのではなく、自分を突き動かす衝動をみずから判断することさえできるのである。

ここに、千年来受け継がれてきた「全的狂気」の形象——自分が何をしているのかも、自分が何であるのかも知らぬまま、暴力によって自己の外へ運び去られる狂人——との決定的な断絶がある。manie sans délireの患者は、自分を突き動かす衝動を制御できない(自己の所有を奪われている)にもかかわらず、その状態にある自分をはっきりと意識している(自己への現前は保たれている)。問題はもはや理性の強弱ではなく、より根本的な次元——自己が自己に対してとる関係——に移っている。制御の喪失と明晰な自己意識との同居というこの逆説こそ、ピネルの記述が開いた新しい地平である。

ピネルの『論考』には、この革新を同時代の政治意識と結びつける一節もある。ゴールドスタインが注意を促すその一節で、ピネルは、ジャマイカで隷属状態にある黒人やロシアの農奴の狂人には過酷な軛がふさわしいかもしれないとしつつ、権力の濫用に激しく反発する「フランス人の鋭敏な感受性」(la sensibilité vive du Français)には、最も穏やかで彼の性格に最もかなった抑制の形式がふさわしいのではないか、と問うている(1801 年版 pp. 63–64。この部分の初出は 1798 年の『パリ医学競争協会紀要』)[32]。革命の生んだ政治意識をモラル・トリートメントの前提とするこの一節は、スウェインとゴーシェが「狂気における主体」の発見と呼ぶものが、ピネル自身にとっては同時に、市民の自由を前提とする処遇の問題でもあったことを示している。あわせてゴールドスタインは、フーコーが引くピネルの言葉——モラル・トリートメントの施行においては、狂人との長い経験をもつ高潔な人物が医師の代わりを務めうる——を挙げ、ピネルが医師でありながら、この処遇に通常の意味での医学的技能を求めていなかったことを確認している[32]

3.3 ゴーシェの歴史哲学的枠組み——「他性体制のコペルニクス的革命」Fig. 6

ゴーシェはさらに、このピネルの革新を、近代という時代そのものの変容のなかに位置づける。その際に鍵となるのは、「他性」(altérité)——自己ならざるもの、他なるもの——を各時代がどこに配置してきたか、という視点である。

ゴーシェによれば、キリスト教世界において狂気は「形而上学的条件の啓示者」であった。すなわち狂気は、人間の理性がいかに脆く、神の支えなしには立ちえないものであるかを目に見える形で示す証拠として、宗教的な意味——「宗教的本質の真理」——を担っていた。だからこそ狂人は共同体の外に締め出されることなく、「聖なる他者への依存の論理」のなかに固有の場所を持っていた。人々は狂人のすぐそばで日常を営みながら(物理的近接)、狂人を神との関係のなかで意味づけることによって一定の隔たりを保っていた(象徴的距離)。ゴーシェが「象徴的距離によって織りなされた物理的近接」と呼ぶのは、この独特の共存の形態である。

ところが 17 世紀以降、「神に対して自律化された世界」が出現する。世界の秩序を神から説明するのではなく、世界そのものの内部から説明する時代の始まりである。人間の理性はもはや、自分を超える原理(神)との関係のなかで自己の限界を知るのではなく、「自分自身以外の何物とも関わることがなく、自らの限界を自分自身の内部からしか考えることができない」ものとなる。このとき、他なるものをどこに置くかという配置の総体——ゴーシェの言う「伝統的な他性の経済」(économie traditionnelle de l'altérité)——は根本から編み直され、狂気の地位もまた全面的な再考を迫られる。ただしこの再編は一挙に成就したのではない。ゴーシェによれば、古典主義時代はこの巨大な問題を前にした「無力の当惑」の時代であり、その不安の重圧の下で、一世紀半にわたり「監禁のるつぼ」のなかで諸条件が熟成した。そして 1800 年頃、狂気はついに「人類学的啓示者」(révélateur anthropologique)へと変貌を遂げる。

Non plus un révélateur de l’Autre que l’homme, de la prégnance en l’homme de son infériorité vis-à-vis du principe auquel il doit ontologiquement d’exister ; un révélateur, à partir de l’autre pour lui-même que l’homme est susceptible de devenir, de l’ordre qui lui permet anthropologiquement de fonctionner. Quelque chose comme une révolution copernicienne du régime d’altérité.

〔狂気は〕もはや〈人間ならざる他者〉の啓示者——すなわち、人間がその存在を存在論的に負っている原理に対する己の劣位が、人間の内奥にまで浸みわたっていることの啓示者——ではない。そうではなく、人間が自分自身にとってなりうる他者を手がかりとして、人間が人類学的に機能することを可能にしている秩序の啓示者となる。他性体制のコペルニクス的革命とでも言うべき何かである。[10]

原文でゴーシェは、大文字で書かれる〈他者〉(l'Autre que l'homme=人間ならざる他者、すなわち神)と、小文字で書かれる他者(l'autre pour lui-même=人間が自分自身にとってなる他者)とを、一文のなかで意図的に対置している。言い換えれば、こういうことである。かつて狂気は、人間が神より劣った存在であることの証しであった。いまや狂気は、人間が自分自身に対して他者となりうること——自己の内部に、自己の意のままにならぬ他なるものを抱えていること——を示し、まさにそのことを通じて、人間の心がいかなる秩序によって成り立っているかを教えるものとなる。狂気が啓示する内容は、〈神と人間の関係〉から〈人間と人間自身の関係〉へと移ったのである。ゴーシェは引用末尾の一文に続けて、「狂気の歴史は、実のところ、自由と平等の諸革命に伴うアイデンティティの近代革命の枠組みのなかに書き直されるべきである」と結んでいる。

3.4 ピネルからフロイトへ——「意識を伴う狂気」の一世紀Fig. 6

ゴーシェの序文の後半は、「意識を伴う狂気」(la folie consciente)という一本の糸で、ピネルから神経症の確立、そしてフロイトにいたる一世紀の精神医学的知の変遷を通観している。

エスキロールは師ピネルの「manie sans délire」概念を批判し、「軽率な決定というものは存在しない。人間は機械ではない。人間は感じ、決定するのである」と論じた。ゴーシェの読解によれば、この批判は師への反旗ではない。むしろ弟子は、師から教わった考え方——狂気のなかにも主体を見よ、という教え——そのものを、師の概念に向け返したのである。妄想を欠く純粋な衝動という概念は、人間を機械のように扱うことになり、師自身の発見と矛盾する、と。こうしてエスキロールは、「最も激しい妄想の最中にも、われわれの観念の混乱の本質的目標であり最終項として、やはり見出されるのはこの自我である」という決定的な洞察に到達した。

その後、ファルレの偏執症批判を経て、精神医学は「主体の維持」から「主体の問い直しの過程」へと関心を移行させた。19 世紀後半には、強迫観念、恐怖症、ヒステリーなど——のちに「神経症」として同定される——症候群が精神医学の周縁で再発見される。ゴーシェはこの過程を、ピネルの「狂気における主体」の問題系が一世紀をかけて展開された歴史として描き出す。

フロイトの位置づけについて、ゴーシェは明確に述べている。「ピネルから始まる道筋にフロイトを再配置することは、決して彼の貢献の意義を軽視することではない。それどころか、狂気への客観的アプローチとともに始まった主観的大陸の探究において、フロイトに中心的な位置を認めることを要求するのである」。しかし同時に、精神分析が精神病の前で挫折したこと——ラカンの「父の名の排除」概念がもたらした限界——を指摘し、「狂気における主体」の問題が依然として未解決であることを強調する。

3.5 エーとスウェインの交差——「自由の病理学」と「狂気における主体」Fig. 6

ここで注目すべきは、エーの「自由の病理学」とスウェインの「狂気における主体」が、異なる出発点から同一の核心に到達していることである。エーは精神医学の哲学的基盤を問い、精神疾患を「自由の病理」——人間の自律的主体性が内部から侵食される過程——として把握した。スウェインはピネルの臨床実践の再読解から出発し、精神医学の創設的瞬間において発見されたのが、まさにこの「狂気のなかの主体」であることを示した。

両者の共鳴はヘーゲルの定式化において最も明瞭に表現されている。ゴーシェが引くヘーゲルの言葉——「狂気は理性の抽象的喪失ではなく、なお存続する理性の内部における矛盾である」——は、エーの「精神疾患は自由の病理である」という命題の哲学的対応物にほかならない。いずれも、狂気が主体の全的廃棄ではなく、主体のなかの——主体であることそのものにかかわる——内的緊張であることを主張している。

しかし、臨床医スウェインと社会学者=政治哲学者ゴーシェのあいだには、無視しえない視角の相違も存在する。スウェインは臨床の内部から「ピネルは何を見たのか」を問い、その発見を精神医学の創設的瞬間として記述した。ゴーシェはそれを受け取りつつ、「アイデンティティの近代革命」「他性体制のコペルニクス的革命」といった壮大な政治哲学的枠組みのなかに再配置する。両者の共著『人間精神の実践——収容所制度と民主主義革命』(1980 年)においてこの緊張は顕著であり、臨床的知見と政治哲学的構想のあいだの生産的な、しかし時に困難な対話が展開されている。

エーの立場は、この二人のうちスウェインにより近い。エーもスウェインも臨床医であり、精神医学的認識の内部から——患者との具体的な対面のなかから——精神疾患の本質を問うている。ゴーシェの壮大な歴史哲学的構想は、臨床の具体から離れる危険をはらんでいるが、同時に、ピネルの革新が近代性そのものの変容と不可分であることを示す点で、エーやスウェインの射程を超えた貢献をなしている。

第四章 現代における議論の意義と課題

Fig. 7
議論の現代的射程と総括
Portée contemporaine du débat et conclusions
精神医学の存在論的基盤(→ 4.1
客観的な疾患概念に基づくのか、社会的・文化的構築物として相対化されるのか——DSM 改訂をめぐる論争、生物学的基盤の解明と地続きの問い。
患者の主体性と権利(→ 4.2
インフォームドコンセントと自己決定権の重視は、エーの「人間を解放する義務」・「エッケ・ホモ」の人間学的視点の現代的発展。
反精神医学の現代的意義(→ 4.3
知の権力性、「正常/異常」の境界の恣意性への問いは今日も残る。ただし疾患の現実の全否定は、患者の苦痛の軽視に通じかねない。
人文科学の方法論(→ 4.4
理論的一貫性と事実への忠実性、解釈の自由と実証的厳密性をいかに両立させるか——ケテルの提起した課題。
総括(→ 結論):一斉で均質なヨーロッパ的事件としての「大監禁」(出来事としての大監禁)は実証的に支持しがたく(統治形態としての結びつき、すなわち構造としての大監禁は残る)、ピネルの革新は「新たな監禁」としてのみは読めず「主体の発見」を含んでいた。しかしフーコーの挑戦は、批判者たちに自らの学問の根拠と限界を自覚させる「生産的触媒」として機能した——「謝罪ではなく感謝を」。

本章に入る前に一つ断っておく。第一章で再構成した「自然か文化か」——精神疾患は人間の自然の病理か、それとも文化の産物か——という対立軸は、1969–71 年の論争においてエーがフーコーに対して立てた枠組みであって、本稿自身が精神疾患について採る最終的な立場ではない。精神疾患に生物学的な実在性がありうることと、その診断の境界・名称・正常と異常の区別・患者の社会的位置・治療制度に文化的で規範的な要素が入り込むこととは、両立する。エー自身の器質力動論は、この二つを一つの人間学のなかで結びつけようとした試みであり、その哲学的系譜は別稿[1]で論じた。以下の四節は、この留保のもとで読まれたい。

4.1 精神医学の存在論的基盤Fig. 7

エーとケテルによるフーコー批判は、現代精神医学にとって依然として重要な問題を提起している。精神医学は医学の一分野として、客観的な疾患概念に基づくべきなのか、それとも社会的・文化的構築物として相対化されるべきなのか。この問題は、DSM(精神疾患の診断と統計マニュアル)の改訂をめぐる論争や、神経科学の発展による精神疾患の生物学的基盤の解明など、現代の精神医学界で継続している議論と深く関連している。

4.2 患者の主体性と権利Fig. 7

エーが強調した患者の主体性と尊厳の問題も、現代において新たな展開を見せている。インフォームドコンセントや患者の自己決定権の重視は、エーの思想の現代的発展と見ることができる。エーにとって精神医学の本質的使命は「人間を解放する義務」[5]にあった。患者を「エッケ・ホモ」(この人を見よ)としてとらえる彼の人間学的視点は、精神医学が単なる社会統制の装置ではなく、人間の尊厳を守る医学的実践であることを示している。

4.3 反精神医学の現代的意義Fig. 7

1960 年代の運動としての反精神医学は退潮したが、その問題意識は形を変えて現代にも続いている——当事者・生存者の運動、強制医療と人権をめぐる議論がそれである。精神医学的知識の権力性や、「正常」と「異常」の境界の恣意性という問題は、今日でも議論され続けている。ただし、エーの批判に見られるように、精神疾患の現実を完全に否定することは、患者の苦痛を軽視することにもつながりかねない。バランスの取れた視点が求められる。

4.4 人文科学における方法論の問題Fig. 7

ケテルが提起した史料解釈の問題は、人文科学全般の方法論的課題でもある。理論的一貫性と事実への忠実性をどう両立させるか、解釈の自由と実証的厳密性をいかに調和させるかという問題は、現代の人文科学者が直面し続けている課題である。

結論Fig. 7

本論文が明らかにしたフーコー批判の四本柱を総括する。

第一に、エーの哲学的反論である。精神医学の誕生はフーコーの言う「古典主義時代の理性」によるものではなく、ルネサンスにおける「個人の発見」と「個人心理学」の誕生にさかのぼる。精神疾患は社会的構築物ではなく、人間の自然の病理である。精神疾患が自然の病理であるという現実を否定することは、エーの造語を借りれば「精神医学殺し」(psychiatricide)であり、「人類の価値体系に対するジェノサイド」にほかならない。

第二に、ケテルの方法論的批判である。フーコーが関心を持つのは「真実ではなく意味」であり、その結果として史料の意図的な誤読と「狂気の一元論」という歴史的に存在しない前提が生み出された。

第三に、「大監禁」の実証的反駁である。サルペトリエールの収容者構成(当時の分類で精神異常者は 6 %——今日の基準ではより多かったはずだが、それでも少数にとどまり、しかも他の収容者と明確に区分されていた)、制度の実効性の欠如、財政破綻、そして一般施療院が「古典主義的理性」ではなく「バロック的慈善」の所産であったという事実は、フーコーの中心的テーゼの前提を掘り崩している。

第四に、スウェインとゴーシェによるピネル再評価である。フーコーがピネルの道徳療法を「新たな精神的監禁」として読み替えたのに対し、スウェインはピネルの革新の核心が「狂気のなかの主体の発見」——主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気(la folie comme problématisation du sujet en tant que sujet)——にあったことを論証した。ゴーシェはこの発見を「他性体制のコペルニクス的革命」として、近代性そのものの変容のなかに位置づけた。そしてエーの「自由の病理学」とスウェインの「狂気における主体」は、異なる出発点から同一の核心——狂気は主体の全的廃棄ではなく、主体であることそのものにかかわる内的緊張である——に到達している。

エーとケテルによる批判は、フーコーの知的業績の全体を否定するものではない。フーコーが提起した「正常」と「差異」に対する問いかけ、権力と知の関係に対する鋭い感受性は、依然として現代思想の重要な遺産である。しかし、『狂気の歴史』の中心的テーゼのうち、一斉で均質なヨーロッパ的事件としての「大監禁」(出来事としての大監禁)は実証的に支持しがたいこと(救貧・労働規律・分類・監禁が結びつく統治形態の指摘、すなわち構造としての大監禁は残る)、そしてピネルの精神医学的革新が「新たな監禁」としてのみ読めるものではなく「主体の発見」を含んでいたことは、エー、ケテル、スウェイン、ゴーシェの批判が示す通りである。

この点に関して、本稿が明らかにした 1969 年トゥールーズ会議でのエーの結語——「謝罪ではなく感謝を」——は、フーコー批判の本質をいみじくも体現している。クレルヴォアが活写したこの場面は、批判者たちが論敵の知的誠実さを否定するためではなく、精神医学という学問の正当な根拠と限界を問い直すために戦ったことを示している。フーコーの挑戦は、結果として批判者たちに自らの学問的立場をより明確に自覚させる「生産的触媒」として機能したのである。

現代の精神医学は、生物学的精神医学の発展と同時に、患者中心の医療やリカバリー志向のアプローチが重視されている。エーが追求した「自由の回復」という理念、スウェインが再発見した「狂気における主体」へのまなざしは、これらの現代的動向とも深く共鳴している。精神医学が真に人間的な医学であるためには、エーとスウェインが示したような哲学的深さと臨床的実践の統合が不可欠なのである。

Notes
注 1)フランス語の délire は、ラテン語の delirare(畝〔うね〕を外れる、すなわち正道から逸脱する)に由来し、精神医学において二つの臨床概念を包含する。第一に、意識の障害を伴い多くは身体的原因に基づく可逆的な状態(英語 delirium、ドイツ語 Delirium、日本語「せん妄」)であり、第二に、意識清明下で現実ではない事柄を確信する状態(英語 delusion、ドイツ語 Wahn、日本語「妄想」)である。英語圏・ドイツ語圏ではこの二つは明確に区別されるが、フランス語では同一の語 délire が両者を包含する。エーが本論文で指摘するのは、フーコーがこの臨床的区別——とりわけ夢幻的なもの(l’onirique=せん妄的体験)と誤謬的なもの(l’erroné=妄想的確信)の差異——を十分に把握していないという点である。なお、ドイツ精神医学の用語としては echter Wahn(エーの原文の表記は « echte Wahn »)は「真正妄想」の意味で用いられ、了解不能な形で生じる一次妄想を指すが、エーがここで vrai Délire と対置して用いているのは、せん妄的状態から区別された狭義の妄想を指している。本論文では文脈に応じて「デリール」「妄想」「せん妄」を使い分ける。
注 2)エーの妄想起源論について。エーは、l’erroné(妄想的確信)の起源を l’onirique(夢幻・せん妄的状態)に求めている。すなわち、せん妄状態において生じる断片的な偽りの確信が、意識の回復後も消散せずに固定し、意識清明下での妄想体験(vrai délire / echter Wahn)へと移行するというのが彼の見解である。この妄想起源論は、器質力動論(organodynamisme)における「低次の自動的過程から高次の意識的統合への階層」という枠組みと整合しており、意識の解体(せん妄)を妄想の温床と位置づける点でエー精神病理学の独自性を示している。ただしこの起源論には批判もある。ヤスパースが定式化した一次妄想(primärer Wahn)の概念——了解不能な形で突然生起し、先行する心的状態から導出できない真正妄想——はエーの図式に収まらず、echter Wahnl’onirique からの移行と見なすことへの反論を構成する。またシュナイダー以降の現象学的精神病理学においても、一次妄想と二次妄想(他の精神症状から了解可能に生じるもの)の区別は、起源論的議論とは独立した記述的枠組みとして維持されている。エー自身の立場はこの議論の一つの有力な回答であるが、本論文で問題にしているのはそれ以前の次元、すなわち délire という語が「せん妄的状態」と「妄想的確信」という臨床的に異質な二現象を包括するフランス語の多義性であり、この区別の重要性はエーの起源論の当否とは独立して成立する。
注 3)本注では、フーコーの『狂気の歴史』が哲学的射程をもつ普遍的命題のように提示されながら、実はフランス語の臨床語 délire が、意識混濁を伴う「夢幻的なもの」(l’onirique=せん妄)と意識清明下の「誤れるもの」(l’erroné=妄想)という臨床的に異質な二極を、一語の継ぎ目に縫合したまま今日まで残したという、フランス語固有の条件のもとで最も自然に成立しえた命題であった可能性を、若干の比較言語論的考察として付しておく。本考察は、フーコーが délire の二義性を「理解しなかった」(エーの叱責)と読むのではなく、より精確には、フランス語が許す意味の幅を彼の天才的な修辞能力が哲学的射程をもつ語りへと最大限に活用した、と読み直すための言語論的裏付けでもある。なお、この特殊性をフランス語が folie を臨床語として温存したことに帰してはならない。後述のとおり「狂気語」(foliemadnessWahnsinn/狂気)はいずれの言語にも文学・哲学の語として等しく残っており、特異性はそこにはない。問題はもっぱら délire の継ぎ目にある。

(a)「狂気語」に特異性はない。まず確認すべきは、フーコーの主題語 folie が、四つの言語のいずれにおいても等しく文学的・哲学的な傘語として存続しているという事実である。邦訳が『狂気の歴史』として成立したのは日本語に「狂」が残っていたからであり、英訳は Madness and CivilizationHistory of Madness、独訳は Wahnsinn und Gesellschaft(Suhrkamp、Köppen 訳)である——四言語すべてが臨床語ではなく一般的「狂気語」を表題に選んでいる。しかも逆向きにも特異性はない。現代フランス精神医学の臨床語は folie ではなく psychose / délire / schizophrénie / trouble …… であり、folie à deux のような化石的残存を除けば専門教科書に folie は現れない。すなわち folie もまた文系の語に退いている点で、「狂気」や mad とまったく対称的である。〈一般的狂気語が、かつて臨床分類の働きをし、やがて退いた〉という軸でも四言語は対称的であって、ドイツ語の Irresein がその何よりの証拠である。irren(迷う・誤る。Irrtum=誤り)に由来するこの語は、19世紀ドイツ精神医学の生きた疾病分類語であった——manisch-depressives Irresein(Kraepelin 1899、今日の双極性障害の祖語)、zirkuläres Irresein(Falret の folie circulaire のドイツ語訳語)、Spannungsirresein(Kahlbaum)など。ドイツ語が folie を臨床的に受けた語が Wahn でも Wahnsinn でもなく Irresein であったことは、Irresein がフランス語 folie・英語 insanity・日本語「もの狂ひ/狂」の完全な対応物であることを示している。そしてこれら四者はすべて、20世紀に Psychose / Störung / psychosis / disorder・「精神病」へ置き換えられて臨床語の座を退いた。ここに特異性はない。

(b) 非対称が今日まで残るのは délire の継ぎ目である。これに対し délire だけは事情が異なる。ドイツ語は意識混濁譫妄を Delirium(外因性・身体性、ラテン由来)、意識清明下妄想を Wahn(内因性・形式診断対象、ゲルマン古語由来)として語幹レベルで完全に分離し、英語も delirium(急性意識障害)と delusion(妄想、形式診断対象)を分離し、日本語も「せん妄」と「妄想」を別語幹に割る。Kraepelin・Bleuler・Jaspers・Schneider の精神病理学が形式診断学として成立しえたのは、この語彙的下部構造が方法論的分節を支えていたからである。フランス語にも区別の資源がないわけではない——Chaslin の confusion mentale(1895)が意識混濁側を分担し、意識混濁の代表格である delirium tremens にはラテン形がそのまま当てられる——が、肝心の語幹 délire 自身は区別を強制しない。だからこそフランス語の書き手は、二極の継ぎ目を、抵抗を感じることなく滑って渡れる。ドイツ語で書けば DeliriumWahn かを語の段階で選ばされ、「気づかずに済ます」ことが構造的に不可能である。

(c) この継ぎ目が monolithique な「狂気」を容易にしたと考えられる。仮想のフーコー(独語圏版)が Wahn を論じるなら、Wahnwahrnehmung(妄想知覚)の現象学的記述が示す「形式」の不変性に反論せねばならず、monolithique な「狂気」の物語では太刀打ちできない(加えて、収容施設精神医学への内在的批判は Griesinger〔1845、Die Pathologie und Therapie der psychischen Krankheiten〕から Hermann Simon〔1929、aktivere Krankenbehandlung〕に至る系譜が既にあり、「大いなる閉じ込め」テーゼはそこでは陳腐であったろう)。英米圏でも同年代に並走する批判が独立に複数生じたが——Goffman Asylums(1961)[18]、Szasz The Myth of Mental Illness(1961)[19]、Laing The Divided Self(1960)[20]、Rosenhan「On Being Sane in Insane Places」(Science、1973)[21]——いずれも語の側から分節を強制され、論争点が絞られたがゆえに反論可能性の高い形を取った。そして実際に体系的反論を受けている——Szasz には Martin Roth[22]、Laing には Siegler・Osmond・Mann[23]、Rosenhan には Spitzer[24] が、それぞれ綿密な反駁を加えた。これに対し、délire の継ぎ目の上に構成されたフーコーの「狂気」は、対象が monolithique であるがゆえに個別反論の網にかかりにくい。エーですら個別反論よりは哲学的・倫理的告発(「精神医学殺し」)に向かわざるをえなかったゆえんである。

(d) 二極の非対称——妄想は浮上し、せん妄は沈む。さらに、délire が縫合する二極は、四言語を通じて非対称な運命をたどる。意識清明側(l’erroné=妄想)が一般教養語へ浮上し、意識混濁側(l’onirique=せん妄)が臨床に沈む、という共通傾向である。フランスでは confusion mentale の分離以後、délire の重心が妄想側へ寄り、せん妄義はかえって見えにくくなった——フーコーがこの極を取り落としたのは、フランス語話者にとってこの沈降が自然だったからでもある。日本語でも「妄想」は知識人の常用語となったが、「せん妄」は専門語にとどまる。なお日本の場合、臨床語の選択そのものに固有の重層がある。源氏物語以来の大和ことばは精神病の領域を「もののけ」と「もの狂ひ」の対で表現し、とくに「もの狂ひ」は delirare(畝を外れる)と語の発想において〈正道を外れる・狂わされる〉構造を共有し、せん妄・妄想・憑依を一語に包む点で délire / folie の類縁語であった(世阿弥以降の「物狂能」、近世武家の「乱心」へと継承される)。しかし明治の精神医学は、呉秀三・三宅鑛一の系譜でドイツ語の分節構造を漢語で再現する道——「精神病/妄想/譫妄」——を採り、「もの狂ひ」を文学・芸能へ退かせた。加えて医局・講座内ではドイツ語(Irresein, Wahn, Dämmerzustand …)が話し言葉の常用語として通っていた。すなわち日本語精神医学は〈もの狂ひ(芸能へ退いた大和語)/精神病・妄想・譫妄(公式の漢語書記語)/Irresein 等(医局の話し言葉ドイツ語)〉の三層構造をもっていたのである。

(e) 結語。以上から、フーコーの社会的構築主義は、その射程の普遍性を主張する哲学的命題として提示されながら、実はフランス語が délire の継ぎ目を縫合したまま臨床語として残したという条件が、その成立を修辞的・概念的に容易にした可能性がある、と読み直すことができる。これは語彙の分節から思想の成立を説明する仮説であって、実証ではない。仏・独・英の精神医学文献における用例史と翻訳史による検証を要し、またフーコーの鍵語が délire にとどまらず foliedéraison であることも忘れてはならない。したがって本論文がエーの『狂気の歴史』批判を支持しつつ、なお「フーコーは個人帰責的に誤ったのではなく、フランス語が唯一縫合したまま残した délire の継ぎ目を最も鋭敏に活用した」と読み替えるのは、フーコーへの敬意とエーへの敬意を共に保つための、最も精確な定式であると思われる。なお、ここで触れた「臨床語彙が概念選択を埋め込む」という主題のより広い射程——ラテン継承語をめぐるアラン的方法、seelischgeistig をめぐる類概念の選択など——は、別稿に譲る。

References
参考文献
[1]拙稿「アンリ・エーの精神病理学における自由概念——ヨーロッパ精神史の系譜から臨床精神医学へ(ビュルガとフレールジュアンの研究を踏まえた改訂版)」(引用箇所:はじめに、1.7.5、1.8、4.2)
[2]Henri Ey: Commentaires critiques sur l’Histoire de la folie de Michel Foucault, L’Évolution psychiatrique, avril-juin, t.36, p.243-258, 1971.(引用箇所:1.1 ~ 1.8 全般、とくに 1.7 節の délire 論。なお、エーが本文中に角括弧で示す頁数は、同論文の脚注が指示するとおり Plon 社 1961 年初版 Folie et Déraison のページに対応する)
[3]Claude Quétel: L’évangile selon Foucault, en Histoire de la folie de l’Antiquité à nos jours, Édition Tallandier, Paris, 2009.(引用箇所:2.1、2.2、2.3)
[4]Claude Quétel: Bref retour sur Foucault, en Histoire de la folie de l’Antiquité à nos jours, Édition Tallandier, Paris, 2009.(引用箇所:2.5)
[5]Henri Ey: L’embarquement pour Cythère à bord de la Nef des Fous — À propos du numéro spécial de la revue ‘La Nef’ consacré à l’antipsychiatrie, L’Évolution Psychiatrique, no.1, 1972, pp.271-294.(引用箇所:1.8、4.2)
[6]Claude Quétel: Histoire de la folie de l’Antiquité à nos jours, Édition Tallandier, Paris, 2009.(引用箇所:2.6、2.7、2.8。2.8 の引用は第 3 部第 2 章「一般施療院」の結びによる)
 〔邦訳〕クロード・ケテル『狂気の歴史——古代から今日まで』髙内茂・大原一幸訳、時空出版、2024 年 11 月刊(ISBN 978-4-88267-074-2)。同邦訳の刊行と並行して筆者自身も本書の翻訳を進めていたため、本論文では同邦訳は参照しておらず、本文中のケテルからの引用(本項および[3][4]を含む)はすべて拙訳による。
[7]Jean-Pierre Carrez: Femmes opprimées à la Salpêtrière de Paris (1656-1791), Connaissances et Savoirs, 2005.(引用箇所:2.6)
[8]Michel Foucault: Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard, Paris, 1972 [1961].(引用箇所:1.7.1、1.7.3)
[9]Gladys Swain: Le Sujet de la folie: naissance de la psychiatrie, Privat, coll. « Rhadamanthe », Toulouse, 1977. Nouvelle édition avec préface de Marcel Gauchet « De Pinel à Freud », Calmann-Lévy, Paris, 1997.(引用箇所:2.9、3.1)
〔訳語について〕本文中の概念およびスウェインの主著名 le sujet de la folie について。本紀要ではこの句を原則として「狂気における主体」と訳す。直訳の「狂気の主体」は、属格 de の多義ゆえに「狂気という主題を論じる主体」とも「狂気を担う主体」とも読みうるが、スウェインの含意は、狂気のただ中にあってなお存続し、まさに主体であるという資格において問題化される主体——le sujet en tant que sujet——にある。「狂気における主体」は、狂気の内部に置かれつつそこで問われる主体という含意を明示するための暫定訳である。もっとも、属格 de la folie はそもそも多様な読みを許す——むしろ強いる——構文であり、〈狂気のただ中にあってなお主体であり続ける者〉を前景化する文脈では、同じ句を「狂人の主体」と訳すこともある。本紀要では恣意に流れぬよう、この二つの訳し方にとどめる。なお folie は「狂気」を意味する抽象名詞であり、「狂人」に正確に対応するのは foualiéné, insensé)であって、「狂人の主体」は語ではなく含意に即した解釈訳である。本書には現在のところ邦訳がなく、また筆者の知る限り本邦で広く参照・議論された形跡を見いだせていない。これは筆者の浅学によるものかもしれない。
[10]Marcel Gauchet: « De Pinel à Freud », préface à Gladys Swain, Le Sujet de la folie, nouvelle édition, Calmann-Lévy, Paris, 1997.(引用箇所:3.2、3.3、3.4)
[11]Gladys Swain et Marcel Gauchet: La pratique de l’esprit humain. L’institution asilaire et la révolution démocratique, Gallimard, Paris, 1980.(引用箇所:3.5)
[12]Gladys Swain: Dialogue avec l’insensé, Gallimard, Paris, 1994.
[13]Henri Ey: La position de la Psychiatrie dans le cadre des sciences médicales (La notion de ‘maladie mentale’), Études Psychiatriques, tome 1, Étude n°4, Desclée de Brouwer, Paris, 1948, p. 77.(引用箇所:1.7.5)
[14]Florence Burgat, Mathieu Frèrejouan: Les pathologies de la liberté. La pensée de Henri Ey, Paris, Hermann (coll. Phénoménologie clinique), 2024.(引用箇所:1.7.5)
[15]Patrick Clervoy: Henri Ey, psychiatre. Érès, Toulouse.(邦訳準備中。本論文における引用・参照は第 6 章「闘い」〔Luttes〕による。)
[16]Vassilis Kapsambelis (dir.): Manuel de psychiatrie clinique et psychopathologique de l’adulte, 2e éd., Paris, PUF, 2012.(第 25 章「精神錯乱と振戦せん妄」〔Myriam Zaks 執筆〕を参照。)
[17]Henri Ey: La Conscience, 3e éd., Paris, Desclée de Brouwer, 1968.(引用箇所:1.7.5 図 3)
[18]Erving Goffman: Asylums: Essays on the Social Situation of Mental Patients and Other Inmates, Doubleday Anchor, New York, 1961.(引用箇所:1.7 注 3)
[19]Thomas S. Szasz: The Myth of Mental Illness: Foundations of a Theory of Personal Conduct, Hoeber-Harper, New York, 1961.(引用箇所:1.7 注 3)
[20]Ronald D. Laing: The Divided Self: An Existential Study in Sanity and Madness, Tavistock Publications, London, 1960.(引用箇所:1.7 注 3)
[21]David L. Rosenhan: On Being Sane in Insane Places, Science, vol. 179, no. 4070, pp. 250–258, 1973.(引用箇所:1.7 注 3)
[22]Martin Roth: Schizophrenia and the Theories of Thomas Szasz, British Journal of Psychiatry, vol. 129, pp. 317–326, 1976.(Szasz への反論。引用箇所:1.7 注 3)
[23]Miriam Siegler, Humphry Osmond, Harriet Mann: Laing’s Models of Madness, British Journal of Psychiatry, vol. 115, no. 525, pp. 947–958, 1969.(Laing への体系的反論。引用箇所:1.7 注 3)
[24]Robert L. Spitzer: On Pseudoscience in Science, Logic in Remission, and Psychiatric Diagnosis: A Critique of Rosenhan’s “On Being Sane in Insane Places”, Journal of Abnormal Psychology, vol. 84, no. 5, pp. 442–452, 1975.(Rosenhan への反論。引用箇所:1.7 注 3)
[25]Henri Ey: L’essence de la maladie mentale et la loi de 1838 (Aliénation, espace et liberté), L’Évolution psychiatrique, 1964, n° 1.(引用箇所:1.7.5。原誌は未見であり、本文の当該引用は筆者による暫定訳である。逐語照合は原誌入手(BIU Santé・Bibliothèque Henri Ey 等への複写依頼)の上で行う。なおビュルガ/フレールジュアン『自由の諸病理』(Hermann, 2024)にも同論文の引用がないことを確認済み。引用冒頭に置かれていた「精神疾患の本質と 1838 年法」の句は本論文の表題に対応する)
[26]Robert Castel: L’ordre psychiatrique. L’âge d’or de l’aliénisme, Paris, Les Éditions de Minuit, coll. « Le sens commun » 48, 1976.(英訳:The Regulation of Madness: The Origins of Incarceration in France, trans. W. D. Halls, Berkeley, University of California Press, 1988.)(引用箇所:補論。頁は Minuit 版原書の印刷頁による。p. 17〔序文〕、p. 64〔「大監禁」の図式の存続〕、p. 102〔「別の舞台」〕、pp. 98-99〔独創的な解決〕、p. 130〔『狂気の歴史』p. 430 の直接引用〕。なお参照した電子版は 2016 年 11 月のデジタル刷であり、その巻頭著作一覧は本書を 1977 年と表記するが、フランス国立図書館総合目録は 1976 年・叢書「Le sens commun」48・ISBN 2-7073-0146-9・334 頁と記録している。紙の原本による最終確認を要する)
[27]Jacques Derrida: « Cogito et histoire de la folie », in L’écriture et la différence, Seuil, Paris, 1967, pp. 51–97.(1963 年 3 月 4 日、コレージュ・フィロゾフィックでの講演。初出は Revue de métaphysique et de morale, 1963〔号・頁は要確認〕)(引用箇所:はじめに)
[28]Michel Foucault: « Mon corps, ce papier, ce feu », in Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard, Paris, 1972, appendice II, pp. 583–603.(第一稿は日本の雑誌『パイデイア』の求めに応じた « Réponse à Derrida », Paideia, n° 11, 1972 年 2 月 1 日, pp. 131–147。いずれも Dits et écrits, t. II(1970–1975), Gallimard, 1994 所収)(引用箇所:はじめに)
[29]Pierre Macherey: « Querelles cartésiennes (2). Le débat Foucault–Derrida autour de l’argument de la folie et du rêve », La philosophie au sens large(Université de Lille 3 の研究会サイトに公開)〔掲載年は要確認〕. (引用箇所:はじめに)
[30]Alain Beaulieu & Réal Fillion: “Michel Foucault, History of Madness, translated by Jonathan Murphy and Jean Khalfa (Routledge, 2006)” (review essay), Foucault Studies, No. 5, January 2008, pp. 74–89.(1965 年の縮約英訳 Madness and Civilization と 2006 年の完全英訳、および英語圏の受容史について)(引用箇所:はじめに)
[31]Robert Castel: “The two readings of Histoire de la folie in France”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 1, pp. 27–30, 1990. Repr. in A. Still & I. Velody (eds.), Rewriting the History of Madness(下記 [33]), ch. 4.(引用箇所:序節、補-1。本稿は [33] 所収の再録版を参照した)
[32]Jan Goldstein: “‘The lively sensibility of the Frenchman’: some reflections on the place of France in Foucault’s Histoire de la folie”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 3, pp. 333–341, 1990. Repr. in [33], ch. 5.(引用箇所:2.8、3.2。本稿は [33] 所収の再録版を参照した。ピネル『論考』1801 年版 pp. 63–64 の一節と 1798 年の初出はゴールドスタインの引用と注 1 による)
[33]Arthur Still & Irving Velody (eds.): Rewriting the History of Madness: Studies in Foucault’s Histoire de la folie, Routledge, London & New York, 1992.(論争の発端となった Colin Gordon: “Histoire de la folie: an unknown book by Michel Foucault”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 1, pp. 3–26, 1990 を第 1 章として再録し、同誌 3 巻 1 号・3 号の応答を収める)(引用箇所:はじめに。ゴードンの発端論文そのものは本稿では直接参照しておらず、その要点は応答者の要約と [34] による)
[34]Colin Gordon: “Rewriting the history of misreading”, in [33], ch. 14, 1992.(初出は “History, madness and other errors: a response”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 3, pp. 381–396, 1990 で、再録に際して改題・加筆されている)(引用箇所:はじめに、序節、2.8。10/18 短縮版と各国語訳の出版史、ハワード訳の評価、古典主義時代の監禁の「新しさ」に関する応答はこの再録版による)
[35]Roy Porter: “Foucault’s great confinement”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 1, pp. 47–54, 1990. Repr. in [33], ch. 10.(引用箇所:はじめに、2.8。イングランドでは 19 世紀初頭の収容者総数が 5,000 人余・1 万人未満にとどまり、1900 年に約 10 万人に達したこと、ベスレムとブライドウェルの区分、ロックとバッティの連合心理学について)
[36]H. C. Erik Midelfort: “Reading and believing: on the reappraisal of Michel Foucault”, in [33], ch. 8, 1992.(初出は “Comment on Colin Gordon”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 1, pp. 41–45, 1990)(引用箇所:はじめに、2.8。阿呆船の実在の否定、スウェインとゴーシェの推計(18 世紀末のフランスで収容された精神障害者は 5,000 人以下)の紹介、悪魔憑きの排除の指摘について)
[37]Andrew Scull: “A failure to communicate? On the reception of Foucault’s Histoire de la folie by Anglo-American historians”, in [33], ch. 13, 1992.(初出は “Michel Foucault’s history of madness”, History of the Human Sciences, vol. 3, no. 1, pp. 57–67, 1990 で、再録に際して大幅に増補されている)(引用箇所:はじめに、2.8)
[38]Andrew Scull: Psychiatry and Its Discontents, University of California Press, Oakland, 2019, ch. 2 “The fictions of Foucault’s scholarship: Madness and Civilization revisited” and ch. 3 “The asylum, the hospital, and the clinic”.(引用箇所:はじめに。2006 年の全文訳刊行後に書かれた評価。第 3 章は、英国の収容者数が 1800 年の 3,000 人未満から 1900 年の 10 万人へ増えたこと、モンペリエとディジョンの革命期の収容者数、テノンによる 1788 年のサルペトリエールの記述を挙げ、狂人の大量収容を 19 世紀の現象とする)
[39]Robert Mandrou: « Trois clefs pour comprendre la folie à l’époque classique » (note critique), Annales. Économies, Sociétés, Civilisations, 17e année, n° 4, pp. 761–772, 1962.(フェルナン・ブローデルの覚書を付す。Persée の書誌はブローデルを著者として表示する)(引用箇所:序節。冒頭のエスキロールへの言及と « Voilà un très beau livre » は p. 761)
[40]Michel Foucault: « Vérité et pouvoir » (entretien avec A. Fontana), L’Arc, n° 70, 1977, p. 16.(1976 年 6 月に行われたインタビュー。伊語初出は A. Fontana & P. Pasquino (a cura di), Microfisica del potere, Einaudi, Torino, 1977, pp. 3–28。英訳 “Truth and Power”, in Essential Works of Foucault 1954–1984, vol. 3: Power, ed. J. D. Faubion, The New Press, New York, 2000, pp. 111–133。Dits et écrits 四巻本では第 III 巻(1976–1979)に収められる〔番号・頁は要確認〕)(引用箇所:序節。L’Arc の原文はカステル [31] の引用による。「認識論的プロフィールの低い」精神医学をめぐる当該箇所は、英訳 p. 111 で照合した)
[41]Didier Eribon: Michel Foucault (1926–1984), Flammarion, Paris, 1989.(引用箇所:序節。学位審査の報告者についてはゴールドスタイン [32] が引く pp. 134–135、「進化精神医学」グループの反応とフーコーのインタビューについてはゴードン [34] が引く p. 150 による。原書での逐語照合を要する)
[42]Philippe Artières, Jean-François Bert, Philippe Chevallier, Frédéric Gros, Luca Paltrinieri, Judith Revel, Mathieu Potte-Bonneville, Martin Saar (éd.): Histoire de la folie à l’âge classique de Michel Foucault. Regards critiques 1961–2011, Presses universitaires de Caen – IMEC éditeur, Caen, 2011.(ロラン・バルト « De part et d’autre »〔初出 Critique, 1961〕pp. 35–47、モーリス・ブランショ « L’oubli, la déraison »〔初出 La Nouvelle Revue française, octobre 1961〕pp. 49–63、およびエーの 1971 年論文を再録する)(引用箇所:序節。プロン社版がアリエスの叢書に収められた経緯は同書の編者序文 p. 30 に拠る〔頁は要確認〕)
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