【日本語要旨】 melancholia は、ヒポクラテス集成から DSM-5-TR まで、二千五百年間ほぼ途切れることなく医学の語彙にとどまりつづけた、おそらく唯一の病名である。本稿はこの異例の長寿を主題とし、次のテーゼを提示する。すなわち、mania の意味野が医学化の過程で切り縮められ、現代分類において二つの相続人に分割相続されたのに対し(前稿)、melancholia においては名前が持続し、その名の指す内容が交替しつづけた。黒胆汁という体液、天才の体質、宗教的な倦怠との交錯、土星の刻印、近世の百科全書的な病、近代臨床の部分狂気ないし lypémanie、躁うつ病の一相、実存の類型、そして「うつ病」への置換と specifier としての残存——これらは同じ一つの病の歴史ではなく、同じ一つの名前の歴史である。しかしその名前は空虚な記号ではなかった。恐れと悲しみという二症状の核(ヒポクラテス『箴言』六・二三)が名前とともに運ばれ、各時代の説明体系がそのつどこの核のまわりに別の病を構築した。本稿(草稿 v4)は序論において全体の枠組みを設定したのち、病名としての melancholia の成立(第一章)、偽アリストテレス『問題集』第三〇巻第一問による天才論的転回(第二章)、バートン『憂鬱の解剖』における概念の最大外延(第四章)、そしてピネルからクレペリンに至る臨床の時代——名前が定義の文法を入れ替えられ、改名の企てを生き延び、最後に残余カテゴリーへ退位し、精神分析へ亡命するまで(第五章)——を扱う。20 世紀篇では、テレンバッハの typus melancholicus と DSM-III による大分類からの退場、エランベールの「不全の悲劇」(第六章)を経て、Taylor と Fink によるメランコリア再導入提案と、DSM-5 の specifier および ICD-11 の 6A80.3「メランコリアを伴う」に至る現在までを追跡する(第七章)。
Abstract. Melancholia is arguably the only disease name to have remained in continuous medical use from the Hippocratic corpus to the current international classifications. This paper reads that extraordinary longevity through a double thesis: whereas the semantic field of Greek mania was narrowed and divided between two heirs (as argued in the companion paper), melancholia shows the inverse pattern — permanence of the name, metamorphoses of the thing. The referent rotated from black bile through the temperament of genius (Problemata XXX,1), Burton’s encyclopaedic condition of mortality, Pinel’s partial délire (delusion) and Esquirol’s failed rebaptism as lypémanie, Kraepelin’s demotion of the name between the 3rd (1889) and 6th (1899) editions of the Psychiatrie, Freud’s object-loss, Tellenbach’s typus melancholicus, and the DSM-III eclipse — down to its survival as a specifier: “with melancholic features” in DSM-5 and, verbatim, “current depressive episode with melancholia” (6A80.3) in the ICD-11 CDDR. What the name carried across twenty-five centuries — a symptomatic core, a weight that “depression” cannot bear (Styron), and an unresolved contestation revived by Taylor and Fink — is the subject of the closing interim discussion. (Draft v4, under continuing revision.)
序——名前の持続と内容の交替
精神医学の語彙は入れ替わりが激しい。phrenitis は消え、lypémanie は一世代で死語となり、neurasthenia は 100 年で摩滅した。mania は名前こそ残ったが、その意味野は前稿で論じたとおり切り縮められ、分割された。これらに対して melancholia の経歴は異例である。ヒポクラテス集成に病名として現れ、ガレノスとルフスを経てアラビア医学に移植され、ラテン中世に還流し、ルネサンスに氾濫し、近代臨床医学の成立期を生き延び、クレペリンの体系に吸収されてなお退行期メランコリーとして独立を保ち、DSM-III による「大うつ病」の成立によってようやく主役の座を降りたのちも、「メランコリアの特徴を伴う」という specifier として現行の分類に残存している。二千五百年間、この名前が医学の公式語彙から完全に消えた時期は、ほとんど見出せない。
この持続は何を意味するのか。二つの極端な読み方がある。第一は実在論的な読み方であり、その現代の代表が Taylor と Fink である。彼らによれば melancholia は、精神病症状・自殺・カタトニアと結びつき、検査室的指標によって画定可能な、単一の疾患単位である。名前が持続したのは、指示対象である疾患そのものが持続したからであり、DSM がこれを「大うつ病」の下位に解体したことこそ歴史の誤りである[1]。第二は構築主義的な読み方であり、Bell がその洗練された形を与えている。melancholia は西洋医学の制度と、自己意識への西洋的執着とが育てた文化結合症候群であって、現代のうつ病と同一視することはできない。名前の持続は制度と伝統の持続であって、病の持続ではない[2]。両者の中間に、Lawlor の通史が代表する第三の読み方がある。「うつ病」は melancholia の後継者であるが、その継承は連続的ではなく、各時代は受け取った名前の下に、自らの文化に適合する病をそのつど再構成した[3]。
本稿の視角はこの第三の線上にあるが、一つの限定を加える。名前とともに運ばれたのは名前だけではなかった。ヒポクラテス『箴言』第六部二三の定義——恐れと悲しみが長くつづくならば、それはメランコリアである——が定式化した二症状の核は、Bell が「核心心理学 core psychology」と呼ぶとおり、ガレノスからフロイトを経て現代の診断基準に至るまで、およそ 2000 年にわたり本質的に同じ言葉で反復されてきた[2]。名前の持続を支えたのはこの核の持続であり、逆に、この核のまわりに構築されるものは——病因論も、病の輪郭も、病者の形象も——時代ごとに交替した。名前の持続と内容の交替。本稿はこの二重性を、遡及診断を排し、各時代の melancholia をその時代の説明体系の内部で記述するという方法によって追跡する。
この視角には先行者がいる。グラディス・スウェインは 1989 年の論考「メランコリーの持続と変容」で、精神医学の主要概念のうちメランコリーだけが日常語に直接属すること、そしてエスキロールの改名がなぜ失敗したかを問い、ルネサンスの宇宙論と生理学が断ち切られたのちも「内容の取り返しのつかない空洞化が、それを支えていた根本の分節をそのまま残したかのようである——肉が崩れて骨格が残ったかのように」と書いた[21]。スウェインが骨格と呼ぶのは、メランコリーを「そこに自分を認めうる狂気」とする分節、すなわち魂のありふれた傾きとその狂った昂進とのあいだの連続である。本稿の「名前と内容」はスウェインの「骨格と肉」と重なるが、同じではない。スウェインが問うのは名前を保たせた社会的な必要であり、本稿が追うのは名前の下で入れ替わった説明の系列である。前者は概念と外部との関係を、後者は概念の内部を見る。両者の関係は結語で再び取り上げる。
Mais tout paraît s'être passé comme si l'irrémédiable évidement du contenu avait laissé intacte l'articulation fondamentale qui le portait. Comme si la chair s'était défaite en laissant le squelette. Il nous faut de grands efforts pour retrouver le sens vivant de ce que Robert Burton fait dire à cette mélancolie qu'il reconnaît pour sienne. Mais ce qui nous garde en proximité avec lui, c'est le principe même de sa démarche, consistant à prêter à la folie mélancolique droit de cité et droit de parole.[21]
しかしすべては、内容の取り返しのつかない空洞化が、それを支えていた根本の分節をそのまま残したかのように進んだ。肉が崩れて骨格が残ったかのように。ロバート・バートンが、自分のものと認めるあのメランコリーに語らせている事柄の生きた意味を取り戻すには、われわれは大きな努力を要する。しかしわれわれを彼の近くに留めているのは、彼の歩みの原理そのもの——メランコリーの狂気に市民権と発言権を与えるという原理である。
前稿(マニア論)との対称を明示しておく。mania においては、意味野の大半が医学の外に切り落とされ、名前の指しうるものが分割された——概念の外縁の歴史。melancholia においては、名前は誰にも奪われなかったが、その内実が幾度も入れ替わった——概念の同一性の歴史。アレタイオスにおいて両概念がはじめて臨床的に連結されて以来、この二つの病名は対をなして歩んできた。二つの通史もまた、対をなすべきである。
第一章 黒胆汁の発明——ヒポクラテスからガレノスへ
一・一 理論に先立つ名前
melancholia の語は melaina cholē(黒い胆汁)に由来する。この語源は、病名が体液理論の産物であるかのような印象を与えるが、事態はむしろ逆である。Bell が強調するとおり、ヒポクラテス集成の初期文書『空気、水、場所について』において melancholia はすでに病名として現れるが、そこには四体液説も、体質としての憂鬱質も、さらには「黒胆汁」という独立の物質さえも登場しない。あるのは病としての melancholia だけである。それゆえ初期の用法においては、黒胆汁の過剰が病を引き起こすのではなく、通常の胆汁が何らかの仕方で黒く変じたことが病の徴とされていた、と解するのが妥当である[2]。黒胆汁と結びついた狂気の観念自体は医学の専有物ですらなく、アリストパネスの喜劇に登場するほど公知の領域に属していた[4]。名前は理論に先立ち、理論が後から名前に追いついた——melancholia の歴史は、その出発点からして、名前が内容を先導する歴史であった。
そもそも「黒胆汁」なるものを古代の医師が実際に見たことがあるのか、疑わしい。血液も粘液も黄胆汁も可視的な実体であるが、黒胆汁だけは違う。黒色の便や吐瀉物(おそらくは凝血)がその存在の証拠とされたが、Bell の言うとおり、四体液のうち黒胆汁のみは、理論の要請が生み出した見えざる体液であった[2]。四という数の対称性——四元素、四性質、四季、四気質——が一つの空位を作り、その空位に黒胆汁が置かれたのである。メランコリーは、その病因からして、観察ではなく体系の産物であった。
一・二 『箴言』六・二三——二症状の核
しかし病像の水準では、事態は逆転する。ヒポクラテス集成が melancholia に与えた定義は、理論的ではなく徹底して記述的であった。「恐れと悲しみが長く続くなら、それはメランコリー状態である」(『箴言』六・二三)[5]。恐れ phobos と悲しみ dysthymiē、そして持続。これだけである。この簡潔な定式が、以後の全歴史の不変項となる。ガレノスは『罹患部位について』第三巻において、メランコリー患者の多様な症状を二つの見出しの下に還元したヒポクラテスの正しさを確認している——すなわち恐れと悲しみである[2]。
この二症状の核の歴史的強靭さは、強調に値する。病因論としての黒胆汁は 19 世紀までに完全に廃棄された。しかし「持続する、誘因なき、恐れと悲しみ」という症状定義は、ほとんど無傷のまま、バートンを通過し、近代臨床記述を通過し、フロイトの「悲哀とメランコリー」を通過して、現代の診断基準における抑うつ気分と不安の併存の問題にまで達している。melancholia の名前が二千五百年を生き延びたのは、この核が臨床的実在として——いかなる理論的意匠のもとでも観察されうる患者の姿として——反復されつづけたからである。名前の持続の背後には、症状の核の持続がある。本稿が Bell の構築主義に全面的には与しない理由が、ここにある。
同じヒポクラテス集成には、この核をもちながらメランコリーの名を持たない病もある。『病について』第二巻七二の「心配 phrontis」である。「病者は内臓に棘が刺さって突くように感じ、吐き気に襲われ、光と人を避け、闇を好む。恐れ phobos に囚われ……恐ろしい幻を見、悪夢を見、死者を見る」——ピゴーはこの記述を晩年の著作の序論に置き、「大きな悲しみとして現れ、特定の délire(妄想)を伴わない」病と要約している[20]。リトレはここに心気症を診断し、ボワシエ・ド・ソヴァージュはこれを珍しくない一種として自らの分類に残した[20]。恐れと悲しみの核は、出発点においてすでに、メランコリーの名の外にも記録されていた。名前と内容は、はじめから一対一ではなかったのである。
一・三 体系化——『人間の自然性について』と気質論への道
『空気、水、場所について』の一世代のちに書かれたと推定される『人間の自然性について』(前 400 年頃)において、はじめて人体が四体液の混合からなるという体系的生理学が現れる。ここで黒胆汁は、病者にのみ現れる変質物ではなく、健康な人体にも常在する構成要素となる[2]。粘液・血液・黒胆汁・黄胆汁の四体液に、脳・心臓・脾臓・肝臓の四器官が対応し、さらにリンパ質・多血質・憂鬱質・胆汁質の四気質が対応する。四体液はエンペドクレスの四元素(水・空気・土・火)と四性質(冷・湿・熱・乾)に対応し、体液の正しい混合(クラーシス)が健康の条件とされ、その乱れが病を引き起こす[5]。
この体系化の帰結は二重である。第一に、melancholia は病であると同時に体質でありうることになった。黒胆汁が万人に常在する以上、その比率的優位は病ではなく型である。ヒポクラテス集成の後期文書、とりわけ『流行病』の後期の巻において、メランコリー体質者はさまざまな心理症状を示す型として記述される——病から体質へのこの拡張が、のちに『問題集』第三〇巻の天才論(第二章)を可能にする概念的前提となる。第二に、melancholia は四という対称性の中に固定され、以後 1500 年、ガレノス主義の権威とともに存続する枠組みを得た。観察と体系という二つの傾向の緊張は、Bell の言うとおりギリシア・ローマ医学を貫通しており、経験学派と教条学派の対立として制度化さえされた[2]。melancholia はその緊張のただなかに立つ——定義は経験的に、病因は体系的に与えられた病として。
一・四 帝政期の完成——ルフス、アレタイオス、ガレノス
melancholia の古代的病像が完成するのは帝政期である。ここで決定的な役割を果たしたのは、通説が想定するようなガレノスではなく、エフェソスのルフス(1 世紀末)であった。ルフスの『メランコリーについて』二巻は古代における主題の最高の達成とみなされ、ガレノス自身が「近年の医師のうちメランコリーについて最良の書を著したのはエフェソスのルフスである」と書き、自らの説明の多くをルフスに負うことを認めている[2]。ルフスの原著は散逸し、ガレノスおよびアラビア語文献中の引用から再構成されるのみであるが、その骨格は明瞭である。メランコリーは肝臓と胃の過熱にはじまり、季肋部 hypochondria に最初の座を持つ。ルフスは心気性メランコリーを主要な対象として論じ、他の諸型もこれに準じるとした。そして——本稿の観点から見逃せないことに——繊細な精神と多くの知性を持つ者はメランコリーに陥りやすい、と記している[2][5]。天才論の医学的な種子は、『問題集』のみならず、臨床記述の伝統の内部にも蒔かれていたのである。
ルフスの臨床記録の断片も一つ残っている。ウルマンが編集した『症例日誌 Krankenjournale』に、ピゴーが引く次の一行がある。「穏やかな患者。恐れと悲しみはあまり強くない。両方に少し陽気さが混じる。原因は幾何学についての絶え間ない省察」[20]。恐れと悲しみという『箴言』の核、混合の要素、そして知的労作という原因が、一行の記録に揃っている。『箴言』の定式が帝政期の臨床において実際に患者を記述する道具として使われていたことを示す、貴重な一節である。
カッパドキアのアレタイオス(1 世紀)は、メランコリーを「一つの固定観念への集中を伴う魂の悲しみ」と定義した[5]。誘因なき悲しみに、思考の限局——のちの時代が妄想と呼ぶことになるもの——が加わる。そしてアレタイオスにおいて、メランコリー患者はマニア患者になる。ルフスもまた、マニア相がメランコリー状態に先行することを観察していた[5]。二つの病名の臨床的連結——19 世紀に循環狂と躁うつ病がそこから汲むことになる観察——は、すでに帝政期の記述の中にある。ガレノスの症例報告は、この病の妄想的次元を伝えて生彩がある。巨人アトラスが天蓋を支えることに疲れ、それが崩れ落ちてすべてを滅ぼすことを泣きながら恐れたカッパドキアの男。墓地の前を通って以来、死者に呼ばれたと信じてメランコリーに陥った男。暴君であったために斬首されたと思い込み、鉛の帽子を頭に被せられて頭が戻ったと感じた瞬間に治癒した男[5]。恐れと悲しみの核のまわりに、身体性(季肋部)、体質(繊細な知性)、妄想、マニアへの移行——古代の melancholia は、これらすべてを備えた完結した病像として、以後の 1000 年に手渡された。
その伝達の経路自体が、この概念の運命を象徴している。ガレノスのメランコリー論はルフスに由来し、イスハーク・イブン・イムラーンは満足すべきメランコリー論はルフスのものだけであると述べて自らの論をルフスの上に築き、西方中世医学はアラビア語文献の翻訳を通じてこれを受け取った。ルネサンスに至るまで、西洋のメランコリー理解は——名指されると否とにかかわらず——本質的にルフスのガレノス化された版であった[2]。名前だけが旅をしたのではない。一つの病像の全体が、著者の名を失いながら、名前とともに運ばれたのである。
一・五 魂の病と身体の病——ピゴーの問題設定
しかし古代の melancholia を病名の水準でのみ扱うことは、この概念が置かれていた思想的な場を見失うことになる。ピゴーが『魂の病』で示したとおり、古代医学における精神病理の全体は、「人間は一つなのか二つなのか」という問い——魂と身体をめぐる一元論と二元論の対立——の内部に位置していた[6]。ヒポクラテス集成『聖病論』は、判断や感情を含む認識の全体を脳に帰する点でむしろ一元論的であり、ガレノスは魂の性質が身体の混合(クラーシス)に依存するという事実上の唯物論にまで進む。melancholia とは、この一元論的伝統にとって範例的な病である——魂の症状(恐れと悲しみ)を身体の原因(黒胆汁)によって説明する病、魂と身体の連結そのものを体現する病であった。
この布置に決定的な捻れを持ち込んだのがキケロである。ピゴーの分析によれば、『トゥスクルム論議』第三・四巻はクリュシッポスの一元論的情念論を、機構を保存したまま病因論だけを入れ替えるという操作によって二元論の枠組みに移し替え、二つの重大な帰結を西洋に遺した。魂の病と身体の病の分業——哲学は魂の狂気を、医学は身体の狂気を扱う——であり、そして情動・情念・悪徳・狂気のあいだには本性の差ではなく程度の差しかないという考えである[6]。注目すべきは、キケロがこの操作の中で、ギリシア語の melancholia をラテン語の furor(狂乱)と同一視していることである。ピゴーはこの同一視の淵源を『問題集』第三〇巻に求める——天才と憂鬱質を結びつけたあの議論が、キケロの狂気定義に流れ込んでいるのである[6]。melancholia はここで、医学の病名であることをやめずに、哲学の概念となった。そしてピゴーが指摘するとおり、2000 年後、精神医学の創始者ピネルが『医学=哲学的概論』で多くを負うのは、ほかならぬキケロとセネカである[6]。古代篇のこの終点は、そのまま近代篇(続稿)の起点となる。
Mais il faut toujours revenir à l'unité de la mélancolie, qui permet de saisir qu'elle est à la fois individuelle et générale, et qu'elle est un moyen de réfléchir à la connaissance de soi-même et des autres. De tous les autres, qui savent que nous sommes nés pour la mort.[20]
しかしつねにメランコリーの統一に立ち返らねばならない。それによってこそ、メランコリーが個別的であると同時に一般的であること、そしてそれが自己と他者の認識を省察する手段であることが捉えられる。他者すべて——われわれが死ぬために生まれたことを知っている他者すべての認識を。
第二章 天才のメランコリー——偽アリストテレス『問題集』第三〇巻第一問
二・一 冒頭の問い
「なぜ、哲学・国家統治・詩作・諸技術において例外的であった人々は、みな明らかにメランコリコイであるのか——しかもその一部は、黒胆汁に由来する病に捉えられるほどに」(九五三a一〇)[7]。偽アリストテレス『問題集』第三〇巻第一問のこの冒頭は、西洋思想史上もっとも反響の大きい問いの一つとなった。ピゴーが註するとおり、この問いは事実の確認を求めていない。すべての例外的人間がメランコリコイであることは、この著者にとって自明の前提であり、問われているのはその原因だけである[7]。
例証の系列がまず与えられる。ヘラクレス——子殺しの狂気と、オイタ山での最期に先立つ潰瘍。てんかんが彼にちなんで「神聖病」ではなく「ヘラクレスの病」と呼ばれたこと。同じく潰瘍を死の前に示したスパルタのリュサンドロス。アイアスの狂気、ベレロポンテスの荒野の彷徨。そして「近代人」として、エンペドクレス、ソクラテス、プラトン。最後に、独立の一群として詩人たち[7]。ピゴーの註解が強調するのは、この系列における英雄たちの病歴の、徹底して世俗的・医学的な読解である。神罰の物語であったものが、ここでは黒胆汁の症例史として読み直されている。神話の医学化——それがこの文書の方法の第一の身振りである。
二・二 葡萄酒の比喩
原因論の中核には、一つの比喩がある。黒胆汁は葡萄酒のようにはたらく。葡萄酒は、飲む者を一時的に、多弁に、大胆に、感傷的に、攻撃的に——要するに、その量と混合に応じてあらゆる性格へと形づくる。黒胆汁は、これと同じ振幅を、体質として、恒常的に生み出す。ピゴーはこの対応を「性格の形成者 êthopoios」という概念に要約している——葡萄酒と黒胆汁は、本性の同一性によって、ともに性格を形づくるものである[7]。酩酊が万人に許された一時的なメランコリーであるとすれば、メランコリコスは生まれつき酩酊を体質として生きる者である。
この比喩の理論的な要は、黒胆汁の熱的不安定性にある。黒胆汁はそれ自体きわめて不安定な混合物であり、一瞬にして極度に冷たくも熱くもなりうる。冷えれば無気力・恐れ・意気消沈を、熱すれば歓喜・歌唱・恍惚・潰瘍を生む[7]。恐れと悲しみ(第一章の二症状の核)は、ここでは黒胆汁の冷の相にすぎず、同じ物質の熱の相は正反対の状態を生む。一つの原因から、正反対の諸状態のスペクトルが導かれる——melancholia が以後の歴史で担いつづける両義性(病と天才、抑うつと高揚)は、この熱力学的な仕掛けにその最初の理論的形態を持つ。
二・三 perittos と perissōma——例外と残余
ピゴーの読解の中でもっとも鋭利なのは、冒頭の「例外的な人々」を意味する perittoi をめぐる語学的な註である。形容詞 perittos は「例外的」を意味すると同時に、「過剰な、余分な」を意味する。そしてアリストテレス生理学において黒胆汁は perissōma——消化の煮熟が残す残余物——である。例外的人間 perittos とは、残余 perissōma の人間である[7]。天才と老廃物、卓越と過剰が、一つの語の中で触れ合っている。ピゴーはここに「メランコリーの弁証法」と呼ぶべきものの核心を見る。煮熟の残りかすであるこの愚鈍な体液と、天才の創造性・想像力の躍動とのあいだの紐帯——以後の世紀が繰り返し立ち戻ることになるのは、まさにこの緊張である[7]。
二・四 不定の恒常性——メランコリコスの健康
『問題集』第三〇巻第一問の後半は、しかし、天才礼賛ではない。それは正確には、メランコリコスの健康は可能かという問いをめぐる考察である。鍵概念は混合 krasis である。ピゴーが訳語の水準で強調するとおり、ラテン語経由の temperamentum(気質)という術語は、ここで思考されている単純な事態——混ぜ合わせ——を見えなくする。問題は、この不安定な複合物質に規範がありうるか、である。テクストの答えは、恒常 homalon と不定 anōmalon の概念対によって与えられる。メランコリコスの体質は本性上不定である。しかしその不定にも恒常がありうる——不定の恒常性 constancia de la inconstancia とピゴーが要約する逆説的な均衡である[7]。よく混合されたメランコリコス、すなわち黒胆汁の振幅を中庸 mesotēs の近傍に保ち、その突発を好機 kairos として用いうる者——それが天才である。病者と天才は、同じ体質の、混合の質だけを異にする二つの実現である。
ここにおいて、第一章の melancholia との関係が確定する。医学的伝統が病として記述したものを、この文書は体質の失敗した実現として包摂し、その成功した実現として天才を立てた。メランコリーは病名であることをやめないまま、人間論的なカテゴリーとなった。メランコリコスは必ずしも病者ではない——この一文が、以後 2000 年の天才論・気質論・性格学の全体を開いたのである。
二・五 二重の遺産
かくして古代は、melancholia を二重の形態で後世に手渡した。ルフス=ガレノスの臨床的メランコリー——恐れと悲しみ、季肋部、妄想、治療の対象——と、偽アリストテレスの例外者のメランコリー——葡萄酒と黒胆汁、残余と天才、不定の恒常性。キケロにおける melancholia と furor の同一視(第一章末)は、この第二の系譜がすでに古代のうちに哲学の語彙へ流れ込んでいたことを示している。二つの系譜は以後、合流と分離を繰り返す。フィチーノが『問題集』を復活させて土星の子らの天才論を打ち立てるとき(続稿第三章)、バートンが『憂鬱の解剖』の扉絵に瞑想する学者を刻むとき、そして 19 世紀臨床医学が天才論を切り捨てて病だけを残すとき——そのつど問われているのは、この古代の二重遺産のどちらを相続するかである。
一点、図像の水準について予告的に付言しておく。頬杖をつき、うつむき、視線を定めぬメランコリーの姿勢 posture mélancolique は、あまりに自明のものとしてこの概念に随伴しているため、古代からの所与と思われがちである。しかしピゴーが晩年の論考で強調したとおり、この姿勢は歴史の産物であり、時間の中で生まれた。『問題集』第三〇巻のメランコリコスは絶えざる変化のうちにある個体であって、固定した姿勢を持たない[8]。デモクレイデスの墓碑をメランコリーの形象として読むのは、われわれの側の投影である。姿勢の歴史は概念の歴史より若い——この時差自体が、「内容の交替」の一つの証拠として、続稿の図像学的な節(デューラー)で再論されるであろう。
ピゴー自身が晩年の著作の冒頭にこの墓碑(前 540〜530 年、アテネ国立考古博物館)を掲げ、パノフスキーがそこに「小さなメランコリーの人物」を見たことを紹介したうえで、こう書いている。この墓碑がメランコリーの姿勢を作ったとは言えない、それほど知られてはいなかった。しかしそれは「いまわれわれにとって、見事な注釈として、理想の姿勢として」ある[20]。ある作品を突然メランコリーに帰属させたくなる心性を、彼は「囲い込みへの呼び戻し。『お前は私のものだ』」と呼ぶ[20]。第四章で見る外延の拡大は、図像の側でも起きているのである。
第三章 アケーディアと土星——中世からルネサンスへ〔本章は Klibansky/Panofsky/Saxl 入手後に執筆。以下は仮橋〕
本章が扱うべき 1000 年間の要点のみを、続く二章のために仮に記しておく。第一に、伝達の経路。ルフス=ガレノスの臨床的メランコリーは、イスハーク・イブン・イムラーンからコンスタンティヌス・アフリカヌス『De melancholia』を経てラテン西方に還流した(第一章末)。第二に、アケーディアとの交錯。修道制が「正午の悪魔」として概念化した霊的倦怠は、メランコリーと部分的に重なり合いながら、罪と病のあいだの係争地帯を形成した。第三に、フィチーノによる『問題集』第三〇巻の復活。『De vita』(1489 年)は土星の刻印と学者のメランコリーを結合し、天才論的系譜(第二章)をルネサンスの中心に据えた——デューラー「メレンコリア I」(1514 年)はその図像的頂点である[3]。これらの詳論は Klibansky らの入手を待つ。ここでは、バートンの前夜において、第一章の臨床的遺産と第二章の天才論的遺産の双方が、活性化された状態で並存していたことだけを確認しておく。
第四章 『憂鬱の解剖』——概念の最大外延
四・一 デモクリトス・ジュニア
1621 年、オクスフォードの独身の聖職者=学者ロバート・バートンは、「デモクリトス・ジュニア」の仮面のもとに『憂鬱の解剖 The Anatomy of Melancholy』を刊行した。狂気を解剖するために笑う哲学者デモクリトスの後継者を名乗るこの仮面の選択自体が、すでに一つの理論的身振りである。そして序文「デモクリトス・ジュニアから読者へ」の中に、この書物の存在理由を一行で言い切る有名な告白が置かれる——「私がメランコリーについて書くのは、忙しくしてメランコリーを避けるためである I write of melancholy, by being busy to avoid melancholy」[9]。病についての書物が、著者自身にとってその病の治療である。対象と方法と著者が一つの円環をなすこの構造は、メランコリーが単なる病名であることをやめ、書く主体の自己関係の形式となったことを示している。Bell の言う「自己意識への西洋的執着」がメランコリーを育てたのだとすれば[2]、バートンはその執着の記念碑である。序文の扉に掲げられた一行——「汝自身こそわが論述の主題である Thou thyself art the subject of my discourse」[9]——は、読者をもこの円環に引き込む。
仮面の選択が理論的な身振りであることは、バートン自身が語るその由来を読めばいっそう明らかになる。序文で彼が「デモクリトス」を名乗る唯一の理由として挙げるのは、ヒポクラテスの名を冠した偽書簡、いわゆる「ダマゲトス宛書簡」の一場面である。アブデラの人々から「狂った」と訴えられたデモクリトスを診にきたヒポクラテスは、郊外の庭の木陰に、膝に書物を置いて坐る哲学者を見出す。書物の主題はメランコリーと狂気であり、周囲には切り開いたばかりの獣の屍が横たわっていた。神の被造物を軽んじたのではなく、「この atra bilis すなわちメランコリーの座を、それがどこから生じ、いかにして人の身体に生み出されるかを見出す」ためである。バートンはこう続ける。デモクリトスはこの著作を未完のまま遺し、それは失われた。ゆえに「デモクリトス・ジュニアはあえてこれに倣い、いわばデモクリトスの代役として quasi succenturiator Democriti、本論においてこれを再び生かし、続行し、完成させる to revive again, prosecute, and finish in this treatise」[9]。
ピゴーはこの場面を「メランコリーの原光景 la scène « primitive » de la mélancolie」と呼ぶ[20]。第一章で見たとおり、黒胆汁は誰も見たことのない、理論が要請した体液である。『解剖』は、その見えない体液の座を探す解剖の場面を出発点に据え、失われた書物を完成させるという体裁で書かれている。名前はここで、病名としてよりも、未完の書物の題名として運ばれてくる。ピゴーの言葉を借りれば「これは茶番ではない。真剣である。偽物でもない。彼は模倣を引き受けている il assume l'imitation」[20]。書簡そのものが後代の偽作であることをピゴーは承知しており、そのうえで、想像界の歴史家にとっては偽書もまた本質的でありうると述べる[20]。この指摘は本稿の方法にもかかわる。偽ヒポクラテス書簡、偽アリストテレス『問題集』、散逸したルフスの論考——melancholia の名前を運んだ器の多くは、偽作か断片である。名前の持続は真正な原典の連続によってではなく、こうした器の交替を通して成り立ってきた。
なお細部を一つ添えておく。バートンは「木陰 under a shady bower」と書くが、書簡のギリシア語原文で哲学者が坐るのは低く茂ったプラタナスの下である。ピゴーはここに、あくまで仮説と断ったうえで、『パイドロス』の裏返しを読む——ソクラテスとパイドロスが高いプラタナスの下、イリソス川のほとりを歩きながら神的なマニアを語った対話篇の舞台が、黒胆汁の座を探す解剖の場に置き換えられている、と[20]。神的マニアと医学的メランコリーの分岐を扱った対論文の第二章と、この一点でつながる。
四・二 定義の解剖——運ばれてきたもの
『解剖』第一部の定義論は、本稿のテーゼにとって決定的な文書である。バートンはまず諸権威の定義を列挙する——メラネリウスがガレノス、ルフス、アエティウスから引いた定義、ガレノスの「頭部中央室の毀損」、そしてアレタイオスの「一つのことに固着した、無熱の、魂の恒常的な苦悶 a perpetual anguish of the soul, fastened on one thing, without an ague」[9]。読者は第一章の光景をそのまま再認するだろう。ルフスも、ガレノスも、アレタイオスの定義——ケテル既訳で「一つの固定観念への集中を伴う魂の悲しみ」と訳された同じ文——も、1500 年を経て、一字も本質を変えずにオクスフォードの書斎に到着している。そのうえでバートンは「通説の定義」を採用する。「熱のない一種の妄念であって、明白な誘因なき恐れと悲しみを常の伴侶とするもの a kind of dotage without a fever, having for his ordinary companions, fear and sadness, without any apparent occasion」[9]。
注目すべきは、バートンがこの定義を項ごとに解剖してみせることである。「無熱」はフレニティスおよび熱病性メランコリーとの区別のため。「恐れと悲しみ」はマニアとの区別のため。「誘因なき」は通常の情念との区別のため[9]。これは『箴言』六・二三の二症状核(第一章)が、鑑別診断の道具立てとして完全に分節化された形態である。名前とともに運ばれてきたのは、症状の核だけではない。定義の統語論そのものが——何を除外するためにどの語が置かれているかという構造が——古代からほぼ無傷で相続されている。内容の交替は、この不変の枠の内部で起きるのである。
四・三 万人の病——最大外延と線引き
しかしバートンの真の独自性は、定義の反復ではなく、その適用範囲の拡大にある。第一部の定義論に先立って、彼はメランコリーを「気質 disposition」と「習慣 habit」に二分する。前者は悲しみ・欠乏・病・恐れ・悲嘆など、あらゆる機会に去来する一過性のメランコリーであり、これについて彼はこう宣言する。「このようなメランコリーの気質から自由な者は、生きている人間には一人もいない。ストア派であれ、賢者であれ、幸福な者であれ、忍耐強い者であれ、寛大な者であれ、敬虔な者であれ、神のごとき者であれ、これを免れうる者はいない……この意味でのメランコリーは、死すべき者の刻印 the character of mortality である」[9]。ソクラテスも、ゼノンも、カトーも例外ではない。病名が人間の条件そのものの名にまで広がった瞬間である。外延は人間の外にさえ及ぶ。「このメランコリーは人間のみならず、植物や感覚ある生き物にまで及ぶ This melancholy extends itself not to men only, but even to vegetals and sensibles」——植え替えられた植物は萎れ、籠に入れられた鳥は悲嘆のあまり死ぬ[9]。
ただし、この宣言が置かれた小節の題を見落としてはならない。「気質としてのメランコリー——不適切な呼び方、多義 Melancholy in Disposition, improperly so called, Equivocations」。バートン自身が、万人に及ぶこの意味を、語の多義的で不適切な用法として括り出しているのである。そして小節の末尾で、彼は論述の対象を限定する。「われわれが論じようとするこのメランコリーは習慣であり、morbus sonticus あるいは chronicus、慢性の持続する病、定着した体液であって……漂うものではなく固定したものである」[9]。外延の拡大と、それを押しとどめる線引きとが、同じ頁に並んでいる。ピゴーはこの二重性を正確に読んでいる。バートンの言うとおり誰にでも不幸である理由はあり、その意味で万人は一過性のメランコリー者である。しかしそこにとどまるかどうかは気質によって決まり、慢性の病となった「真のメランコリー」だけが危険であり、死に至りうる[20]。
Bell が指摘するとおり、バートンはあらゆる精神疾患をメランコリーの名の下に一括した点で特異である[2]。第二部の身体的治療論、第三部の恋愛メランコリーと宗教メランコリー——対象別に無限に分岐する諸型を、彼は解剖学の名のもとに部・節・肢・小肢へと際限なく分割していく。ピゴーはこの分割の見かけの厳密さを、材料を押しとどめるために築かれた堤防であり、失敗を運命づけられた努力だと評する[20]。ローラーの言う「ヤヌスの顔」——甘美な瞑想としてのメランコリーが突如として悲惨へ反転する両面性[3]——も、この百科全書的包摂の一契機である。melancholia は、疾患単位であることをやめて、人間について語られうるほとんどすべてを収容する分類の建築となった。名前の持続の歴史において、これは繁栄の形をとった危機である——すべてを意味する名前は、何も意味しなくなる一歩手前にある。バートンがその一歩を踏みとどまったのは、「不適切な呼び方」という一語と、慢性の「習慣」への限定によってであった。
四・四 二つの様式の同居——ガレノス的とアリストテレス的
ローラーは近世メランコリーに二つの様式を区別する。病として苦しまれるガレノス的様式と、天才の徴として誇示されるアリストテレス的様式である[3]。『解剖』はこの両様式の合流点に立つ。一方でバートンは、ガレノスを引いて黒胆汁の暗い蒸気が脳を曇らせる機序を語り(体液論的病理学)、他方で「メランコリーの人は誰にもまして機知に富み、そのメランコリーはしばしば神的な高揚と一種のエントゥシアスムスを引き起こす……それが彼らを卓越した哲学者・詩人・預言者たらしめる」と書く[3]——『問題集』第三〇巻(第二章)の問いが、フィチーノ経由で、そのまま引用の織物の中に生きている。病者の悲惨と例外者の特権、第一章と第二章の二重遺産が、一冊の書物の中で同居し、緊張し合っている。
この同居は、バートン自身の一文のなかに直接見ることができる。第一部の症状論で彼はメランコリー者の相貌をこう描く。「陰気で、鈍く、悲しく、厳しく、常に思いに沈み cogitabundi、いたって内向きで、アルブレヒト・デューラーがメランコリーを描いたように——腕に頬を凭せ、目を据え、身なりを顧みない悲しげな女のように。それゆえ、アブデラの人々がデモクリトスをそう見なしたように、傲慢か、愚鈍か、半ば狂っていると思われる。しかし実は深い洞察と優れた理解力をもち、思慮深く、賢く、機知に富む。私はあの貴人の意見に与する——『メランコリーは他のどの体液にもまして人の思考を進める Melancholy advanceth men's conceits, more than any humour whatsoever』」[9]。デューラーの版画(1514 年、第三章で扱う)、序文のデモクリトス、そして『問題集』の天才論が、ここでは一つの文のなかで結び合わされている。悲惨の相貌がそのまま卓越の徴であるというこの逆転を、ピゴーは「メランコリーの逆説——それ自身と同一でありながら似ていない」ものの証拠として引いている[20]。
この同居には社会的な分配が伴っていた。Bell の分析によれば、バートンにおいてさえメランコリーは男性的であり、天才のメランコリーは男性(かつ上層)に、その身体的・情念的な変種は女性に割り振られる傾向をもった[2]。恋愛メランコリーと宗教メランコリーが第三部で独立の部をなすのも、この時代の melancholia が、医学の病名であると同時に、恋愛と信仰という主体の全域を覆う文化的な語彙であったことの帰結である。
四・五 「孤独になるな、怠惰になるな」
1000 頁を超える大著は、しかし、簡潔きわまる処方で閉じられる。「一言を結びの言葉として受け取れ……孤独に身を委ねるな、怠惰に身を委ねるな。孤独になるな、怠惰になるな Be not solitary, be not idle」[9]。序文の円環がここで閉じる——書くことが治療であったのは、書くことが忙しさであったからである。バートン以後、およそ 1 世紀にわたって melancholia は、チェインの『英国病 The English Malady』(1733 年)に代表される「神経」の語彙の中へ緩やかに移し替えられ、体液は神経・精気・線維に席を譲っていく[3]。上流階級のファッションとなったメランコリー、ジョンソン博士の重い憂鬱——18 世紀は、病名の水準では連続しながら、説明体系の水準では体液論の終焉を準備した。名前は次の時代へ、もう一度、中身を入れ替えて手渡される。
第五章 臨床のメランコリー——ピネルからクレペリンへ
五・一 ピネル——四種の一つへ
1801 年、ピネルの『医学=哲学的概論』は精神疾患を五種——メランコリー、manie sans délire、manie avec délire、痴呆、白痴——に分かち、第二版(1809 年)はこれを四種——躁病、メランコリー、痴呆、白痴——に整理した[10]。バートンにおいて人間の条件の全域を覆っていた名前が、ここでは分類表の一区画に納まっている。最大外延から、並列される種の一つへ——これ自体が概念史上の大事件である。第二版第五節の定義はこうである。「délire(妄想)は、排他的で、特定の一連の対象に限局され、一種の昏迷 stupeur と、生き生きとして深い情意 affections vives et profondes とを伴うことがある。これがメランコリーと呼ばれるものである」[10]。
この定義の重心移動を見逃してはならない。2000 年間、定義の中核を占めてきた恐れと悲しみ(二症状核)は、ここで従属的な位置に退き、代わって délire(妄想)——その排他性と限局性——が定義の第一項となった。ピネルのメランコリーは、気分の病である前に、部分的な悟性の病である。ピゴーが示したとおり、ピネルの狂気論の語彙がキケロとセネカに多くを負う(第一章末)ことを想起すれば、これは古代の哲学的伝統——狂気を判断の障害とみなす伝統——の、臨床の場での再演でもある[6]。名前は保たれ、定義の文法が入れ替わった。
五・二 エスキロール——名前の交替の試みとその失敗
弟子エスキロールは、師が保った名前そのものに手をかけた。『精神疾患論』(1838 年)において彼は、メランコリーの語を医学から追放し、新造語 lypémanie(リペマニー——ギリシア語 lypē 悲しみ+mania)に置き換えることを提案する。リペマニーとは「無熱の、部分的で慢性的な délire(この場合は妄想)であって、悲しく、衰弱させ、抑圧する情念によって維持されるもの」であり[3]、悲しき部分妄想 délire partiel として、陽気なそれ(モノマニー)と対をなす。エスキロールの分類は lypémanie・monomanie・manie・démence・idiotie の五種からなり、リペマニー患者は「憂鬱質の気質を賦与された」者とされた——追放されたはずの melancholia が、気質の形容詞として裏口から戻っていることに注意しよう[11]。
この改名の企ては、概念史的には二重に示唆的である。第一に、その動機。エスキロールにとってメランコリーの語は、詩人と道徳家たちに汚染されすぎていた——バートン的な最大外延、文学と俗語への拡散こそが、臨床用語としての失格理由であった〔『精神疾患論』第一巻「リペマニーすなわちメランコリーについて」の当該文言は原典照合を要す。ピゴー「精神科医たちのメランコリー」も参照のこと〕。第二に、その帰結。Bell が言うとおり、この革新は行き過ぎであり、定着しなかった[2]。名前は生き延び、改名者の新語の方が死語となった。しかしローラーが指摘するように、実質の水準ではエスキロールの切断は成功している——高揚した気分の部分妄想をモノマニーとして分離したことで、メランコリーは悲哀性の障害に限定され、この限定は世紀末まで持続した[3]。名前を殺すことには失敗し、内容を狭めることには成功した——「名前の持続と内容の交替」の、これほど純粋な実験例はない。
しかしエスキロールの記述には、リペマニーの枠に入らなかったものがある。スウェインが指摘するとおり、彼は『医学百科辞典』の「自殺」の項(1821 年)で、のちの時代がメランコリーと呼ぶことになる状態を、自分の分類の外で記述している。「著者たちが語らなかった一種の自殺に私はしばしば出会った。それは spleen とよく似ている。身体的あるいは精神的なさまざまな原因のあとに、身体の衰弱と精神の落胆に陥る者たちがいる……彼らは動かず、横になっているか坐っていることを好み……日常の仕事を放棄し、家庭の義務を怠り、愛情の対象に無関心になる……この状態に苦しんで黒い観念 idées noires を抱き、ついには自分の無価値、あるいは無価値と思い込んだものに絶望して死を望み、死を求め、しばしば自ら死ぬ。……これらの病者は理性を失っていない ces malades ne déraisonnent pas」[22]。この段落にリペマニーの語はない〔Gallica 所載の第五三巻 229 頁で確認〕。délire(妄想)を分類の原理とした以上、「理性を失っていない」病者はリペマニーにも他のどの種にも入らず、自殺論のなかに置くほかなかった——これがスウェインの読みである[21]。名前を追放した当人が、その名前の将来の内容を、名前なしで記述していたことになる。同じ段落でエスキロールは、この状態が「マニーと、あるいは完全な健康と交代する」のを見たとも記しており、循環狂の観察(五・四)に 30 年先立つ。
Ces malades ne déraisonnent pas ; leur impulsion au suicide est d'autant plus forte qu'ils ont eu plus d'occupations habituelles et plus de devoirs à remplir. J'ai vu cette maladie persister pendant plusieurs mois, pendant deux ans ; je l'ai vue alterner avec la manie, avec la santé parfaite.[22]
これらの病者は理性を失っていない。彼らの自殺への衝動は、日常の仕事と果たすべき義務が多かった者ほど強い。私はこの病が数か月、二年にわたって持続するのを見た。それがマニーと、あるいは完全な健康と交代するのを見た。
スウェインはさらに、追放された名前がなぜ戻ったかにも一つの答えを与えている。ギスランとグリージンガー以来、精神的苦痛 douleur morale が精神疾患の出発点とされたこと——この苦痛への強調が、エスキロールの追放した語の復帰を可能にしたのだろう、と[21]。名前は、詩人と道徳家の語彙から医学へ戻ったのではなく、苦しみの語彙として戻ったのである。
五・三 ギスランとグリージンガー——苦痛の発見と脳病の時代
グリージンガーに先立って情動論への転換を果たしたのは、スウェインによれば、ベルギーのギスランである。『精神病論 Traité sur les phrénopathies』(1835 年)は冒頭で宣言する。「原初的には、精神疾患は不快、不安、苦しみの状態である。一つの苦痛、ただし精神的・知的・脳的と、どう呼んでもよい苦痛である。精神疾患を判断や理性の障害だと言うのは誤った命題であろう。それは二次的な症状を根本現象と取り違えることである。多くの精神病者は理性を失っていない。しかしごく稀な例外を除いて、すべての者が苦しんでいる」[21]。スウェインはこれを、19 世紀初頭における「精神病者の苦しみの発見」の理論化と呼ぶ。狂人とは自分の夢を現実より選んだ者であり、それゆえ幸福の条件を備えている、というカント以来の見方が、この時期になお生きていたからである[21]。ギスランはこの発見から論理的に「délire(妄想)なきメランコリー」を記述し、それを「苦しむ様態がとりうるもっとも単純な形」と呼んだ。ピネルとエスキロールが délire(妄想)を分類原理としたために枠の外でしか記述できなかったもの(五・二)が、ここで枠の中心に据えられる。
Primitivement, l'aliénation est un état de malaise, d'anxiété, de souffrance ; une douleur, mais une douleur morale, intellectuelle ou cérébrale comme on voudra l'entendre. Dire que l'aliénation est un trouble du jugement, de la raison, serait une proposition erronée : ce serait prendre un symptôme secondaire pour le phénomène fondamental. Beaucoup d'aliénés ne déraisonnent point ; tous cependant, à de très rares exceptions près, souffrent.[21]
原初的には、精神疾患は不快、不安、苦しみの状態である。一つの苦痛、ただし精神的・知的・脳的と、どう呼んでもよい苦痛である。精神疾患を判断や理性の障害だと言うのは誤った命題であろう。それは二次的な症状を根本現象と取り違えることである。多くの精神病者は理性を失っていない。しかしごく稀な例外を除いて、すべての者が苦しんでいる。
ドイツ語圏では、グリージンガー(1817〜68 年)が「精神病は脳病である」の定式によって 19 世紀後半の脳精神医学の基調を与えた[3]。彼の単一精神病論において、メランコリー性の抑うつ状態は独立の疾患ではなく、単一の疾患過程の初期段階である——ここでもまた、名前は保たれたまま、疾患単位としての地位が剥奪されている。同時に、この時代の変質論(モレル、後のヒスロップら)は、天才論的系譜(第二章・第四章)を正確に反転させた——芸術家は苦悩する英雄ではなく退化の標本とされる[3]。アリストテレス的様式の否定神学とでも言うべきこの反転は、メランコリーの二重遺産が 19 世紀末においてなお係争中であったことを示している。
グリージンガーの定式は、初版(1845 年)の冒頭第一節で、精神医学全体の前提として置かれる。狂気という現象はどの器官に属するか、狂気があるところ、つねに必然的に罹患しているはずの器官はどれか——「この問いへの答えが精神医学全体の第一の前提である。生理学的および病理学的事実が、この器官は脳以外ではありえないことを示すならば、われわれは何よりもまず、精神疾患のうちにそのつど脳の疾患を認めねばならない」[26]。しかし同じ書のメランコリー(Schwermuth)の症候論(第九四節)を読むと、脳病の定式の下で記述されているのは、ギスランと同じ「精神的苦痛」である。
Diess ist die wesentliche Seelenstörung in der Melancholie, und dieses psychische Wehethun besteht für die Kranken selbst in einem Gefühl von tiefem geistigem Unwohlsein, von Unfähigkeit zum Handeln, von Unterdrückung aller Kraft, von Niedergeschlagenheit und Traurigkeit, in einer totalen Herabstimmung des Selbstgefühls. […] Indem jeder, auch der leichteste und früher adäquateste Eindruck Schmerz erregt, können sich die Kranken über Nichts, auch das Angenehmste nicht mehr freuen, sondern werden von Allem unangenehm afficirt, und finden in allem Aeusseren stets neue Motive des Schmerzes.[26]
これがメランコリーにおける本質的な精神障害であり、この精神的な痛みは、病者自身にとっては、深い精神的不快の感情、行為する能力の欠如、あらゆる力の抑圧、意気消沈と悲哀の感情、自己感情の全面的な低落として存在する。[……]どんな印象も、最も軽い、かつては最も適合的であった印象でさえ苦痛を引き起こすため、病者は何ものにも、最も快いものにさえ、もはや喜ぶことができず、すべてから不快に触発され、あらゆる外的なもののうちにつねに苦痛の新たな動機を見いだす。
この一節には、後の系譜がふたつ折り込まれている。「自己感情の全面的な低落 totale Herabstimmung des Selbstgefühls」は、フロイトが喪と区別されるメランコリーの標識とする「自己感情の低下 Herabsetzung des Selbstgefühls」(五・五)を、用語までほとんどそのまま先取りしている。そして「最も快いものにさえ、もはや喜ぶことができない」は、シュナイダーが記述する反応性の欠如(六・一)と、DSM-III のメランコリー型の「通常快い刺激への反応性の喪失」(六・四)の、19 世紀半ばにおける定式である。脳病の時代は、メランコリーの内容を消したのではなく、その記述を精確にしたのであり、名前の持続と内容の交替という本稿の主題からすれば、グリージンガーはむしろ内容の側の証人である。
五・四 クレペリン——名前の退位
そしてクレペリンである。所蔵の第三版(1889 年)と第六版(1899 年)を並べると、名前の退位は版の間の出来事として、目次の水準で観察できる。第三版の目次において Melancholie は独立の主要疾患(第II類)であり、Melancholia simplex・activa・attonita の三型に分かたれ、これとは別に周期性精神病の下位に periodische Melancholie が立てられている[12]。10 年後の第六版では、この配置が一変する。周期性・循環性の諸型は新設の第IX類 Das manisch-depressive Irresein(躁うつ性精神病)に吸収され、Melancholie の名は第VIII類「退行期の狂気 Das Irresein des Rückbildungsalters」の下位区分 A としてのみ存続する。その定義は明示的に残余的である——「メランコリーの名によってわれわれは、高齢期のあらゆる病的な不安性の気分変調のうち、他の狂気の諸形態の経過部分をなさないものを指す」[13]。
この総合を可能にした条件を、スウェインは明確に指摘している。1850 年代にバイヤルジェとファルレがエスキロールのモノマニーを批判し、délire(妄想)は全般的なものしかない——「半分だけ、四分の三だけ狂うことはできない」(バイヤルジェ)——と主張したとき、部分妄想と全般妄想という古典的な対立が崩れた。この対立が生きているあいだは、マニーとメランコリーを同じ枠で考えることが禁じられていたのである。対立が解けてはじめて、同じ精神疾患が交代する二つの形態をとりうるという発想(循環狂・二形性狂)が可能になり、クレペリンはそれを気分の原初的障害として深めた[21]。コタールが単純メランコリー、通常の妄想性メランコリー、否定妄想、巨大妄想を重症度の一系列に並べたのも、この解体の帰結である[21]。
二千五百年間、病名の第一線に立ちつづけた名前が、ここで「他のいずれにも属さない、初老期の不安性抑うつ」という残余カテゴリーに退く。そして第八版第III巻第2部(1913 年)では、この残余も躁うつ性精神病に吸収される。章の冒頭で躁うつ性精神病は「周期性および循環性精神病と呼ばれてきた領域の全体と、単純マニー、『メランコリー』と呼ばれてきた病像の大部分」を包括すると定義され[23]、境界画定の節に置かれた「メランコリー問題 Melancholiefrage」の項で、クレペリンは自らの第六版の判断を撤回する。高齢期の抑うつは意志制止の代わりに不安性の興奮と妄想を示し、経過が遷延して痴呆に終わるように見えたため、狭義の「メランコリー」として切り離すべきだと考えた。だがドレフュスの研究によってこの見解の臨床的基礎は揺るがされ、痴呆化は老年性・動脈硬化性疾患の合併で説明でき、長い経過ののち躁の徴候を伴って治癒した例もあった。それまでメランコリーと呼ばれてきた高齢期の抑うつ状態を躁うつ性精神病から除外する十分な理由は、もはや存在しない——第六版の残余は、こうして著者自身の手で閉じられた[23]。Bell の簡潔な総括を借りれば——クレペリンとともに、depression が melancholia に取って代わった。診断ピラミッドの底(症状名)と頂(疾患群名)の双方を depression が占め、以後 100 年でその中間領域のほとんどを併呑していく[2]。
Die weitere Erfahrung hat dann gelehrt, wie bei der Besprechung der präsenilen Psychosen bereits erörtert wurde, daß die für die Abtrennung der Melancholie sprechenden Gründe nicht stichhaltig waren. […] Es liegt somit kein genügender Anlaß mehr vor, die bis dahin als Melancholie bezeichneten Depressionszustände der höheren Lebensalter aus dem manisch-depressiven Irresein auszuscheiden.[23]
その後の経験は、前初老期精神病の項ですでに論じたとおり、メランコリーの切り離しを支持する根拠が成り立たないことを教えた。……したがって、それまでメランコリーと呼ばれてきた高齢期の抑うつ状態を躁うつ性精神病から除外する十分な理由は、もはや存在しない。
ただし、名前が消えたと言うのは正確でない。独立疾患としての Melancholie は第八版で消えるが、躁うつ性精神病の「抑うつ状態 Depressive Zustände」の節では、状態像を区別する名としてなお使われている。最も軽い形は「以前の『Melancholia simplex』にほぼ相当する」単純抑うつであり、幻覚と妄想を伴えば「ここでは『Melancholia gravis』と言ってもよいかもしれない」、さらに paranoide Melancholie、phantastische Melancholie、deliriöse Melancholie が並ぶ[23]。二千五百年の病名は、疾患の名から一つの疾患の一相を細分する形容詞へ降格したのであって、語彙から抹消されたのではない。これは対論文が Manie について跡づけた経路——疾患から一相へ——と正確に対応する。名前の退位とは、この意味での降格である。
五・五 フロイト——名前の亡命
正確にその同じ時期——クレペリン第八版が Melancholie の見出しを消したのとほぼ同じ数年間に——疾病分類学から退位した名前が、新しい学問の中心に迎え入れられる。フロイト「悲哀とメランコリー Trauer und Melancholie」は 1915 年 2 月に起草され五月四日に完成し、2 年後の 1917 年に公刊された、メタ心理学論文群の一篇である[15]。フロイト自身、冒頭で慎重な留保を置いている——メランコリーの概念規定は「記述精神医学においてさえ動揺して」おり、われわれの資料は少数の症例に限られる、一般的妥当性の要求はあらかじめ放棄する、と[15]。名前の内容が定まらないというこの認め自体が、本稿の観点からは雄弁である。フロイトは、クレペリンが解体しつつあった名前を、解体されつつあることを承知のうえで引き受けた。
出発点は正常な感情との比較である。悲哀(喪)を範型とし、その病理的対応物としてメランコリーを照らし出す。「メランコリーは心的には、深く痛ましい不機嫌、外界への興味の停止、愛する能力の喪失、あらゆる作業の制止、そして自己非難と自己罵倒にまで表出され妄想的な処罰の期待にまで昂進する自己感情の低下によって特徴づけられる」[15]。悲哀はこれと同じ特徴を示す——ただ一点を除いて。「自己感情の障害だけは、悲哀には欠けている」[15]。2000 年来の二症状核(第一章)がここで書き換えられていることに注意しよう。悲しみは保存され、恐れは消え(フロイトの不安論という別の系譜に引き取られる)、代わって自己感情の低下 Herabsetzung des Selbstgefühls が、メランコリーを他のすべてから区別する指標の座に就く。定義の重心は、気分から自己関係へ移動した。
Die Melancholie ist seelisch ausgezeichnet durch eine tief schmerzliche Verstimmung, eine Aufhebung des Interesses für die Außenwelt, durch den Verlust der Liebesfähigkeit, durch die Hemmung jeder Leistung und die Herabsetzung des Selbstgefühls, die sich in Selbstvorwürfen und Selbstbeschimpfungen äußert und bis zur wahnhaften Erwartung von Strafe steigert.[15]
メランコリーは心的には、深く痛ましい不機嫌、外界への興味の停止、愛する能力の喪失、あらゆる作業の制止、そして自己非難と自己罵倒に表出され妄想的な処罰の期待にまで昂進する自己感情の低下によって特徴づけられる。
そのうえで有名な諸定式が続く。悲哀において貧しく空虚になったのは世界であるが、メランコリーにおいてはそれは自我自身である[15]。メランコリー患者は対象を失ったのではなく、「誰を失ったかは知っていても、その人において何を失ったかを知らない」——喪失そのものが意識から退いている[15]。患者の執拗な自己非難は、よく聴けば他者への非難である——「彼らの訴え Klagen は、告発 Anklagen である」[15]。そして機構の核心。放棄された対象への備給は撤回されるが、自由になったリビードは別の対象へ移されず、自我の中へ退却し、そこで自我を放棄された対象と同一化する。「対象の影が、こうして自我の上に落ちた Der Schatten des Objekts fiel so auf das Ich」[15]。以後、対象への非難は自我への非難として、批判的審級(のちの超自我)の面前で上演される。メランコリーの前提は三つ——対象の喪失、両価性、そしてリビードの自我への退行である[15]。メランコリー複合体は「開いた傷口のように」あらゆる方面から備給エネルギーを引き寄せ、自我を枯渇させる[15]。さらにフロイトは、メランコリーがしばしば躁へ転回するという「もっとも注目すべき特性」を取り上げ、躁はメランコリーと同じ複合体の、自我がそれを克服した側の顔にほかならないと論じる[15]——アレタイオス以来の臨床的連結(第一章)が、ここでリビード経済論の言葉で再定式化されている。
概念史的に見れば、これは「内容の交替」のもっとも劇的な一幕である。黒胆汁が占めていた病因の座に、対象喪失と同一化が入った。しかも名前は保たれた——フロイトは Depression ではなく Melancholie と書きつづけた。精神医学が名前を手放した瞬間に精神分析がこれを拾い上げたという継起は、偶然ではなく、本稿のテーゼの系論である。名前は死んだのではない。臨床分類から追放されて、意味の理論へ亡命したのである。皮肉なことに、その精神分析がアメリカ精神医学を支配した時代の公式分類(DSM-I・II)は、この病を depressive reaction と呼んだ——亡命者の名は、亡命先の制度にさえ登録されなかった。名前が公式分類に帰還するには、次章以降で見るとおり、specifier という縮小された座席を待たねばならない。
スウェインはフロイトの介入を、もう一段抽象的な水準で位置づけている。19 世紀の精神医学は情動と知性を別のものとみなし、ギスランからセグラに至るまで、苦痛と délire(妄想)のどちらが先かを問いつづけた。フロイト以後、この問いは立たない。「今日のわれわれのメランコリーへの接近のもっとも直接的な前提は、苦痛と délire(妄想)を切り離せないということである。苦痛は、たとえ潜在的にとどまるにせよ、ただちに観念内容を伴う。表象なき情動はなく、情動の負荷なき表象はない。メランコリー者の苦しみは、考えていることと感じていることとに切り分けられない」[21]。この前提からは、「délire なきメランコリー」というギスラン以来の範疇そのものが問い直される——アンリ・エーの批判がそれである[21]。名前の亡命先で起きたのは、病因の交替だけでなく、19 世紀が病を記述するために用いた二分法の解消でもあった。
第六章 20 世紀——類型・実存・そして消滅
六・一 シュナイダー——一級症状の不在
クレペリンが疾患名を状態像名に降格させたのち、名前の問題はいったん別の問いに姿を変える。メランコリーを定義しうる症状はあるのか、という問いである。クルト・シュナイダーは『臨床精神病理学』で躁うつ病を「循環病 Zyklothymie」と呼び直したうえで、統合失調症について立てた一級症状の問いを循環病にも向け、否定的に答える。「循環病の領域においては、われわれが一級症状と呼びうるような症状を一つも知らない。『それがあるところには循環病がある』と言いうるような症状を、われわれは一つも知らない」[25]。候補として彼が挙げるのは、気分変調の「生気的性格 vitaler Charakter」、すなわち胸や胃のあたりに局在して体験される身体に近い悲哀と、身体感覚 Leibgefühle の全般的な沈滞である。しかし彼はただちにこれを退ける。身体的な不快感は反応性の悲哀の帰結として二次的にも現れ、悲嘆そのものが身体感覚として体験されうる。ヴァイトブレヒトの言うとおり、二次的には決して現れない統合失調症の一級症状との比較は的を外れており、一次性と二次性の生気的障害の質の違いは示しえない[25]。二千五百年の名前は、ここで、「その症状があればこの病である」と言える症状を一つも持たない病として、自らの定義の不在を明言されたことになる。
Auf dem Gebiet der Zyklothymie wüßten wir nun kein Symptom, das wir eines 1. Ranges heißen könnten. Wir wüßten keines, von dem man sagen könnte: wo es da ist, ist Zyklothymie. Am ehesten könnte man noch den vitalen Charakter der Verstimmung dafür gelten lassen.[25]
さて循環病の領域においては、われわれが一級症状と呼びうるような症状を一つも知らない。「それがあるところには循環病がある」と言いうるような症状を、われわれは一つも知らない。せいぜい気分変調の生気的性格を、それとして認めうる程度であろう。
しかしシュナイダーの記述は、名前を失った内容がのちにどこへ流れたかを示している。同じ章で彼は、循環病性うつ病者が何か喜ばしいことを受け入れうる状態にあっても「それは彼の悲哀から何ものをも奪わず、その病相を短縮しない」と書き、悲しい体験は「自分の循環病性の基礎気分とは別のものであり、いわばそれと並んで存在する何か」だと述べる[25]。反応性の欠如と、気分の質的な独自性——この二つは、第七章で見る DSM-III 以降の「メランコリアの特徴」に、前者は「通常は快い刺激に対する反応性の欠如」として、後者は「抑うつ気分の質的な独自性」として、別々の項目に分かれて残った。名前が退位したのちに、その内容が二つの記述に分解されて指定子の項目となる。名前の持続と内容の交替の裏返し、すなわち名前の不在と内容の残存が、ここに始まる。日本の臨床でも、DSM-III 以前の内因性うつ病の診断はこのシュナイダーの記述に拠っており、実地では捉えにくい生気的悲哀よりも反応性の欠如——喜ばしい報せがあっても悲哀から何も奪われないこと——が、神経症性うつ病との鑑別の要として教えられていた。〔要確認:DSM-III メランコリー型の項目の系譜——反応性の欠如は英米の内因性うつ病論(ギレスピー、クライン)に、気分の質はシュナイダーの生気的悲哀に遡る——の典拠を七・三で補う〕
六・二 テレンバッハ——typus melancholicus
クレペリン以後、名前が公式分類から退場していく同じ世紀に、ドイツ語圏の臨床現象学はあえてこの名前を表題に掲げた著作を生み出した。テレンバッハ『メランコリー』(1961 年、第三版 1976 年。仏訳 PUF 1979 年、所蔵)である。副題——「問題史・内因性・類型論・病因論・臨床」——が示すとおり、この書物は第一部を問題史に充てており、その章立てには「ヒポクラテス集成における typus melancholicus とメランコリー」「メランコリーと天才性——時代を画したアリストテレスの考想」が並ぶ[18]。20 世紀のもっとも影響力あるメランコリー研究書が、本稿の第一章・第二章とまさに同じ場所から書き起こされていること——ヒポクラテスの病名と『問題集』の天才論が、1961 年においてなお現役の理論的資源であったこと——を、まず記録しておきたい。
テレンバッハの中心的主張は、メランコリーに先立つ人格構造の記述にある。typus melancholicus を構成する第一の特徴は、秩序への結びつき l'attachement à l'ordre である。ここで言う秩序とは、理論以前の、日常的な意味での「きちんとしていること bien ordonné, comme il faut」であり、テレンバッハは慎重に限定を加える——この几帳面さはいかなる異常の徴でもなく、メランコリーに罹ったことのない多くの人々にも見られる秩序性の「強調された変異形」にすぎない。
Nous n’entendons par caractère ordonné, par conséquent, aucun signe d’anomalie. Si nous reconnaissons dans le fait d’être ordonné un trait fondamental de la structure du type mélancolique, ceci ne veut pas dire que chaque individu ordonné court le risque de devenir mélancolique. Ce qui est déterminant, c’est que la personnalité mélancolique soit attachée à l’ordre, un ordre pour le moins particulièrement évident dans un domaine essentiel de la vie, s’il ne l’est pas toujours dans tous.[18]
したがってわれわれは、秩序性のうちにいかなる異常の徴も認めない。秩序正しくあることのうちにメランコリー型の構造の根本特徴を認めるとしても、それは秩序正しい個人のすべてがメランコリーに陥る危険を負うという意味ではない。決定的なのは、メランコリー性の人格が秩序に結びつけられていることである——つねにすべての領域においてではないにせよ、少なくとも生活の本質的な一領域において特に明白な秩序に。
しかし 1959 年に遡及検査を受けた患者の一人としてこの特徴を欠く者はなく、以後検査された単極性メランコリー患者のすべてがこれを示した[18]。仕事における良心性と義務感、他者との関係における摩擦と負い目の回避、権威と序列の尊重、家父長制的な家族組織、献身と自己犠牲——秩序は生活の全域を貫く様式である。日本の読者にとって特筆すべきことに、テレンバッハは先行類型論の検討において下田光造の執着性格(Shuchaku-seikaku)を独立の節で扱い、自らの型との収斂を認めている[18]。
病因論の水準では、この類型が二つの布置 constellation を通じてメランコリーへ移行する。第一はインクルデンツ includence——「決然たる意志によってさえ破ることのできない、一種の自己自身への閉じ込め」である[18]。秩序の空間的特性としての限界 limite に自らを住み込ませた existence は、その限界の内部に監禁される。テレンバッハ自身の定式はこうである。
Le type mélancolique est enfermé ou s’enferme dans des limites qu’il ne peut finalement plus dépasser pour l’accomplissement régulier de ses ordres : cette constellation caractérisée par le phénomène de l’includence se présente à nous comme un aspect pathogène décisif de l’altération endogéno-mélancolique.[18]
メランコリー型は、自らの秩序の規則正しい遂行のためにもはや越えることのできない限界のうちに閉じ込められている、あるいは自らを閉じ込める。インクルデンツの現象によって特徴づけられるこの布置は、内因性=メランコリー性変様の決定的な病因的側面としてわれわれの前に現れる。
クリスマス前の家事計画に閉じ込められて祝祭の木の前で崩れ落ちる主婦たち(遡及検査を受けた 119 例中 17 例で祝祭前の仕事が関与していた)、そして J. ランゲ以来記載されてきた転居メランコリー dépressions de déménagement の系列が、その臨床的形象である[18]。転居メランコリーの症例記載は、テレンバッハの考えるメランコリーが臨床的にどのようなものかを最も簡潔に示している。
Cas 28 : La patiente Luise B. (45/556), âgée de 52 ans, a connu sept phases de mélancolies. En 1947, elle a dû céder pour les troupes d’occupation l’appartement dans lequel elle avait vécu dix-sept ans. Le lendemain commença la seconde phase d’une mélancolie inhibée, accompagnée de troubles vitaux et suicidaires, qui guérit après huit électrochocs. […] En juin 1959, elle dut quitter totalement la maison qu’elle habitait depuis trente ans. Dès le lendemain, tout fut « comme paralysé ». Deux semaines et demie plus tard, elle fut admise en clinique, dans sa 7e phase, avec le diagnostic : « dépression cyclothymique ». Elle ne pouvait pas, selon elle, se sentir bien dans le nouvel appartement, bien que celui-ci fût plus beau et plus grand que le précédent.[18]
症例 28:患者ルイーゼ・B.(45/556)、52 歳、七回のメランコリー相を経験している。1947 年、彼女は占領軍のために、17 年間住んだ住居を明け渡さねばならなかった。その翌日、生気的障害と自殺傾向を伴う制止性メランコリーの第二相が始まり、八回の電気けいれん療法の後に治癒した。[……]1959 年 6 月、彼女は 30 年間住んだ家を完全に離れねばならなかった。翌日から、すべてが「麻痺したよう」になった。二週間半後、彼女は「循環病性抑うつ」の診断で第七相として入院した。彼女によれば、新しい住居が以前のものより美しく広かったにもかかわらず、そこで快く感じることができなかった。
住居の改装を機に発病した 68 歳の女性(症例 27)は入院時にこう述べた——「私の習慣の秩序が、まったく単純にひっくり返されたのです。私はいつもそれにとても弱かった」[18]。テレンバッハの分析によれば、転居とは「インクルデンツの明白な空間的表現」であり、硬直した秩序のうちに住み込んだ状態の解消を要求されながら、まさにその解消を遂行できない類型において、特異的に病因的な状況が生じる。患者たちは転居が本質的な役割を演じたことを「知っている」が、なぜ「すべてがあれほど疲れさせたのか」は知らない——この「知らない知」こそ、了解心理学ではなく状況心理学の水準でのみ捉えられる関係の標識である[18]。第二はレマネンツ rémanence——「自己自身に対する遅れのうちにとどまること rester-en-arrière-de-soi-même」である。自らに課した要求への到達の遅れとして生きられるこの構造の本質は、いかなる場合にも負い目の感情 sentiment de faute である[18]。ミンコフスキー、シュトラウス、フォン・ゲプザッテル以来の時間性の現象学——内因性の制止において Dasein の未来への関係が決定的に変様しているという知見——が、ここで人格類型論と接続される。前メランコリー状況(endotrope)からエンドキネーゼ endokinèse を経て内因性=メランコリー状況へ、という移行の記述において、内因性 Endogenität はもはや隠された器質的原因の名ではなく、endon——生命史のリズムがそこから発源する存在の領域——の名となる[18]。
概念史的に見れば、これもまた「内容の交替」の一幕である——体液でも、部分妄想でも、リビード経済でもなく、存在様式としてのメランコリー。しかし同時に、旧い核の再帰でもある。秩序と良心性と負い目——バートンの学者の憂鬱(第四章)とフロイトの自己非難(五・五)が、ここでは病前の生活様式として、発病に先立って記述されている。そして名前の水準では、テレンバッハの選択は雄弁である。Depression がすでにドイツ語圏の日常語となっていた 1961 年に、彼は Melancholie を表題に採った。この選択の理由は、臨床的討論の部で、疾病論上の定義として明示されている。
C’est une bonne chose, fondée dans la matière elle-même, que d’appeler — en observant la distinction de Freud — « mélancolies », les psychoses dont il est question ici, et non « dépressions », terme qui, dans son usage trop répandu, a de plus en plus perdu sa rigueur et par là même sa spécificité. […] Les limites de ce qu’il y a lieu de qualifier de psychose mélancolique sont tracées, d’une part, par la description de l’ensemble du syndrome de la mélancolie par Kraepelin, d’autre part, par celle du syndrome fondamental (troubles du rythme sommeil-veille, troubles vitaux, oscillations journalières) que W. M. Pfeiffer (1969) a obtenue en s’appuyant sur des expertises transculturelles s’étendant sur le plan mondial.[18]
ここで問題となっている精神病を——フロイトの区別を守って——「抑うつ」ではなく「メランコリー」と呼ぶことは、事柄そのものに根拠をもつ良いことである。「抑うつ」という語は、あまりに広まった用法のなかで、ますますその厳密さを、したがってその特異性を失ってきた。[……]メランコリー精神病と呼ぶべきものの限界は、一方ではクレペリンによるメランコリー症候群全体の記述によって、他方では W. M. プファイファー(1969 年)が世界規模の通文化的調査に基づいて得た基本症候群(睡眠覚醒リズムの障害、生気的障害、日内変動)の記述によって画されている。
ここでメランコリーとは、つねにメランコリー精神病を意味する。その外延はクレペリンの症候群記述(五・四)と生気的基本症候群によって与えられ、その内包は病前の秩序性と二つの布置によって与えられる。そして反応性メランコリーは存在しない——「われわれの研究のもっとも決定的な成果のひとつ」として、テレンバッハはビンスワンガーとともに、臨床像がメランコリーである限りそれは内因性メランコリーであると述べる(六・三)[18]。抑うつ dépression が厳密さを失った語であるという 1961 年の診断は、DSM-III 以後の大うつ病概念をめぐる議論(六・四)を 20 年先取りしている。この意識的な古語法は、名前が運ぶ重さ(七・一で見るスタイロンの抗議と同型の感覚)の、臨床現象学の側からの証言である。
六・三 ビンスワンガー——『メランコリーとマニー』(1960 年)
テレンバッハが賛辞とともに参照するビンスワンガーの『メランコリーとマニー』(1960 年)は、前書きの冒頭で自らの位置を三重に限定している。第一に、これは「現存在分析的 daseinsanalytisch」ではなく「現象学的」な研究であり、しかも現象学とはヤスパースの「主観的な心的生の現われ」の記述的現象学ではなく、フッサールの純粋・超越論的現象学の意味においてである。第二に、これは臨床研究ではなく「精神医学の方法論への寄与」である。第三に、対象は「クレペリンの定義と記述——それは今日なお私には有効と思われる——に従った、躁うつ病の明白な臨床相」に限られる[24]。『観念奔逸について』(1933 年)と『精神分裂病』(1957 年)の著者が、晩年に方法を改めて躁うつ病に戻ってきたのは、分裂病研究において病者の「世界」を記述するだけでは足りず、その世界を構成している「構造契機 Aufbaumomente」にまで遡らねばならないと知ったからだ、と序論は説明する[24]。
本稿の観点からまず注目すべきは、この限定に伴う語の選択である。ビンスワンガーは「抑うつ dépression」の語を可能なかぎり避けると宣言する。この概念は「今日あまりに多様で曖昧な意味をもつため、もはや現象学的分析の出発点として役立たない」からであり、読者はここで背景抑うつ(クルト・シュナイダー)も、内因反応性気分変調(ヴァイトブレヒト)も、生気的・植物性・心気的・実存的・神経症的・精神病質的抑うつも、退行期抑うつも聞かされることはない、と。「陰鬱 Schwermut」の語も避けられる。それはメランコリーより広く、臨床的疾患形としてのメランコリーのほかに、現存在の一形式としての実存的陰鬱をも含むからである[24]。クレペリンが疾患名から状態像名へ降格させた名前(五・四)を、ビンスワンガーは半世紀後、拡散した depression の語に対して、輪郭の確かな臨床的単位の名としてあえて選び直している。名前の持続は、ここでは意識的な選択の結果である。
そのうえで、内容の交替が起きる。ビンスワンガーの出発点はフッサール『形式論理学と超越論的論理学』の一文である——「現実の世界は、経験が同じ構成的様式で進行しつづけるだろうという、絶えず前もって描かれた推定 Präsumption のうちにのみ存する」。これは心理学的にではなく超越論的に、つまり「超越論的な信頼」として読まれるべきであり、分裂病の「世界没落」はこの信頼の無化のもっとも劇的な例だが、経験の連続性のあらゆる変質がその失調である[24]。メランコリーとマニーでは、分裂病のような不毛な二者択一も世界の裂け目もない。しかし経験の連続性、したがって生の経過の遂行可能性は、やはり問われている。マニーにおいて「構成的な織り目の弛緩 relâchement de la trame」と多数の構成的紐帯の解消、その結果としての「空虚」を見出したことが、メランコリーの構造契機への関心の出発点になった、と彼は言う[24]。
そこから、臨床の常識を裏返す一文が導かれる。通常われわれは、メランコリーにおいて主題——特定の罪、恐れ、脅威、罰——が「あらゆる心的力を引き寄せ、他のものに場所を残さない」と考える。ビンスワンガーはこれを逆転する。「メランコリーにおいて主題が『それほど多くの場所を占める』から他のものに『もう場所がない』のではなく、逆に、『孤立した苦悩能力』としてのメランコリー性気分変調が自然的経験の構成的紐帯からの解放を表しているからこそ、特定の『メランコリー的』主題がそのように根を下ろし、『こびりつき』、心的空間の全体を占め、あらゆる反対の保証に抵抗しうるのである」。慰めと励ましに対するメランコリー者の近づきがたさも、超越論的構成の広範な変質の帰結として理解される[24]。テレンバッハが人格類型と状況(インクルデンツとレマネンツ)に求めた説明が、ここでは時間対象の構成——過去把持 rétention、現前 présentation、未来予持 protention の絡み合い——の水準に置き換えられている。ペリシエの解説によれば、「もしあれをしていれば」という自責のうちにあるメランコリー者は、過去把持と未来予持がもつれ合って現在への現前を失い、未来はみかけの予持にすぎず実際には過去把持の捕虜であって、世界の出来事に先立って「喪失の気分」が現れる。病者が挙げる動機の周知の交換可能性は、そこから説明される[24]。
メランコリーとマニーの対もまた、この水準で言い直される。構成的紐帯の解放はマニーとメランコリーに共通だが、その「解消」の型は異なる。マニーにおいてそれは観念奔逸を伴う世界内存在、「現存在の歓喜、勝利(フロイト)、活動と『あふれ出し』」、誇大妄想に至る大言壮語へ導き、メランコリーにおいては小心と微小妄想、「現存在の苦痛、世界内存在であることの苦しみ」、共同世界と環境世界からの退却、思考のみならず行為の全経過の停滞へ導く。ここでビンスワンガーは、「悲しみ」や「陰鬱」と言わないのは意図的だと断る。それらの概念は人間についての実践的な知から来ており、「感情移入」に依拠するからである[24]。アレタイオス以来の対(一・四)、フロイトのリビード経済における対(五・五)に続いて、対は三たび、今度は超越論的構成の二つの失調型として定式化された。反応性メランコリーと内因性メランコリーの区別を認めず、臨床的基準を満たすかぎり反応性のものも「クレペリンの意味での真のメランコリー」であるとする立場も、この方法と整合する[24]。
概念史の水準でこの書物が示すのは、名前と内容の関係の一つの極限である。クレペリンの臨床的定義は「今日なお有効」として保持され、名前はあえて depression に対して選び直される。しかしその名前の下で記述されるのは、もはや黒胆汁でも、部分的な妄想でも、脳病でも、対象喪失でもなく、経験の連続性への超越論的信頼の失調である。名前の持続と内容の交替は、ここでは同じ著者の同じ頁で、意識的な方法上の決定として遂行されている。
六・四 DSM-III——大分類からの退場
1980 年、DSM-III は精神分析的な神経症的抑うつと内因性のメランコリー型うつ病の区別を廃し、両者を単一の「大うつ病 major depression」に統合した。melancholia の名は「メランコリアの特徴を伴う」という下位指定子としてのみ残された。Taylor と Fink の再構成によれば、この解決は科学的根拠によるものではなかった——操作的診断基準は諸学会の多様な会員層の承認を得るために過度に寛大となり、性格論的な抑うつ気分がメランコリアと同じ屋根の下に合流した。障害の数は DSM-III の 265 から DSM-III-R の292、DSM-IV の 295 へと増殖した(Shorter の集計による)[1]。既発表の Shorter 論文で論じた代替ノソロジーの問題系が、メランコリア概念に即して再現されるのがこの局面である。二千五百年の名前が「大分類」から退いた、記録されるかぎり最初の公式分類——それが DSM-III であった。第七章の異議申し立ては、この解決に対するものである。
この退場への抗議は、英米の臨床医からだけ上がったのではない。古典文献学者ピゴーは、メランコリーを「概念として、病名として抹消し、別の名札の下に置かれた症状群に分配してしまう精神医学」を警戒せよと書き、それが DSM の各版のやり方だと名指ししたうえで、「これに頼る人々を私は恐れる。彼らは文化を、自分たちの省察に無用のものとして退ける」と述べている[20]。
Il faut se méfier d'une psychiatrie qui supprime la mélancolie en tant que concept, en tant que nom de maladie, pour la distribuer en symptômes placés sous d'autres étiquettes. C'est la pratique du DSM (Diagnostic Statistical Manual, pour ne pas le nommer), en ses diverses éditions. Ceux qui s'y fient, je les redoute. Ils repoussent la culture comme inutile à leurs réflexions.[20]
メランコリーを概念として、病名として抹消し、別の名札の下に置かれた症状群に分配してしまう精神医学を警戒せねばならない。それが——名を挙げれば——DSM のやり方であり、その各版のやり方である。これに頼る人々を私は恐れる。彼らは文化を、自分たちの省察に無用のものとして退ける。
この統合が診断の実地に何をもたらしたかについては、評価が分かれる。DSM-III 以前に臨床を始めた世代には、内因性うつ病の要件であった反応性の欠如(六・一)が下位指定子の一項目へ降り、神経症性抑うつとの鑑別が診断の入口から消えたことで、うつ病の範囲があまりに広がったという見方がある。ヒーリーが躁の側について論じたのと同じく、概念の拡張と抗うつ薬の処方の拡大とが並行した事実も否定しがたい。他方で、この拡張によってうつ病への偏見が軽くなり、治療の門戸が誰にでも開かれたこともまた事実である。名前の水準で言えば、二千五百年の名前が指定子へ退いた代償として、より軽く広い名前が多くの人を医療に結びつけた。どちらの事実を重く見るかは、本稿の主題である概念史の範囲を超える。
六・五 エランベール——不全の悲劇
名前が退場したあとの「うつ病の時代」を診断したのが、社会学者アラン・エランベールの『自分自身であることの疲れ——うつ病と社会』(1998 年、所蔵)である。その導入部のテーゼは簡潔である。規律的な行為管理の様式、階級と性にそれぞれの運命を割り当てていた権威と禁止への服従の規則が、各人に自らのイニシアチブを求め「彼自身になること」を命じる規範に席を譲った。うつ病はその正確な裏面である——「この存在様式は、不全の感情 sentiment d'insuffisance が支配する、責任の病 maladie de la responsabilité として現れる。抑うつ者は水準に達しない者であり、彼自身にならねばならぬことに疲れた者である」[19]。神経症からうつ病への移行は、こう定式化される。「神経症が罪責の劇 drame de la culpabilité であるとすれば、うつ病は不全の悲劇 tragédie de l'insuffisance である」[19]。
本稿の行程に置き直せば、この定式の射程は明確である。フロイトのメランコリー(五・五)は罪責の病理であり、テレンバッハのレマネンツ(六・二)もまた負い目の感情を本質としていた。エランベールが記述するのは、その罪責の枠組み自体の失効である——禁止 défendu と許可 permis の分割の上に立つ主体が、可能 possible と不可能の分割の上に立つ主体に置き換わるとき、病理の核も罪責から不全へ移る。内容の交替は、ここで初めて、病の理論の内部ではなく、病者を産出する社会の規範構造の水準で起きている。付言すれば、エランベール自身、近代以前のメランコリーの「二重の運命」——天才の徴と錯乱の種子(第二章のアリストテレス的遺産)——を素描したうえで、「魂の偉大さから無力の感情へ」という表題のもと、その 18〜19 世紀的変容を跡づけている[19]。批判社会学の語彙においてさえ、melancholia の名は歴史的参照としてのみ現れ、現在の病は dépression と呼ばれる——名前の退場は、1990 年代には批判の言語にまで及んでいたのである。この完全な退場を背景に置いてはじめて、第七章の「回帰」の意味が測定できる。
第七章 メランコリアの回帰——現代の争点
七・一 「うつ病」への不満
Taylor と Fink の『メランコリア』(2006 年)は、ウィリアム・スタイロンの一節を巻頭に掲げている。うつ病 depression は「かくも重大な病にとっては真の腰抜けの語 a true wimp of a word」であり、「経済の下降や地面の轍を指すのと同じ、平板な響きの名詞」である。スタイロンはこの「意味論的損傷」の責任者としてアドルフ・マイヤーを名指しさえする——75 年以上ものあいだ、この語は「蛞蝓のように言語の中を無害に滑り」、その内実の恐ろしさの認識を、まさにその無味乾燥さによって妨げてきた、と[1]。病名の歴史がここでは病者の証言として語られている。melancholia から depression への名前の交替(第五章末)は、単なる術語の更新ではなく、病の重さを運ぶ容器の交換であった——そして新しい容器は軽すぎた、という不満である。本稿の言葉で言えば、これは「名前の持続と内容の交替」の逆転現象への抗議である。二千五百年、内容がどれほど交替しても名前は重さを運びつづけた。20 世紀は初めて名前そのものを交換し、そして重さが失われた。
スウェインはこの抗議より早く、別の側面を記していた。1989 年の時点で彼女は、現代社会には「抑うつへの権利」のようなものが機能しているのではないか、抑うつは「良い狂気」、立派な人々の特権であり自分に許してよいものになっているのではないか、と問い、それをバートンやフィチーノのメランコリーの延長線上に置いた[21]。名前は交換されたが、名前が運んでいた社会的な承認——狂気のうちに自分を認める権利——は新しい名前に引き継がれた、というのである。スタイロンの不満は重さの喪失を言い、スウェインは権利の存続を言う。二つは矛盾しない。depression は、メランコリーの重さを失ったまま、その正統性だけを相続したのである。
七・二 Taylor と Fink の再導入提案——記述・検査・治療
『メランコリア』の主張は、序文において綱領的に述べられる。DSM の気分障害分類は「精神病理学的・病態生理学的な裏づけを欠き、その帰結として妥当性を欠く」。診断基準は諸学会の合意形成のために過度に寛大となり、性格論的な抑うつ気分を訴える「心配性の健常者 worried well」がメランコリアと混同されて「大うつ病」に合流した。デキサメタゾン抑制試験(DST)は DSM-III 体制下で抑うつ患者の50%以上においてメランコリアを同定したが、残りの50%が別種の苦悩であると結論する代わりに、DST の方が指標として廃棄された。特許切れの三環系抗うつ薬やリチウムの有効性は産業主導の比較試験によって貶められた——「アカデミック精神医学は最高入札者に身を売った」[1]。この診断学的告発の上に、積極的な再定義が置かれる。メランコリアとは、陰鬱 gloom と危惧 apprehension、精神運動の制止ないし激越、思考の緩徐化、恒常性の失調 homeostatic distress、しばしば精神病症状を伴う、重症で、しばしば致死的な気分障害である。それは測定可能な徴候と症状、特徴的な神経内分泌・神経生理学的プロフィール(視床下部=下垂体=副腎系の過活動、DST 非抑制、睡眠脳波所見)、そして ECT および広域スペクトラムの抗うつ薬への治療反応性によって画定可能であり、昏迷・カタトニア・精神病・自殺・躁うつ病と結びつき、遺伝的リスクを持つ生涯性の過程である[1]。精神病性うつ病もカタトニアも、独立の障害ではなくメランコリアの変異型として回収される——後者は Fink らのカタトニア論(既紹介)と地続きの主張である。
概念史の観点から重要なのは、彼らが自らの提案を明示的に歴史の中に置いていることである。第一章「メランコリア——概念の歴史」は、この症候群像が「3000 年にわたり驚くほど一貫して」記述されてきたと論じ、例外は教会の教説が支配した中世と、精神分析が(とりわけ合衆国で)支配した 20 世紀だけであったとする[1]。これは Bell の文化結合症候群論(序論)の正確な裏返しである——同じ持続の事実から、Bell は制度と伝統の持続を、Taylor と Fink は疾患そのものの持続を読み取る。本稿が序論で立てた実在論と構築主義の対立は、過去についての解釈の相違ではなく、現在の分類をどう作り直すかをめぐる、現在進行形の争点なのである。
七・三 分類の現在——DSM-5 の specifier と ICD-11 の 6A80.3
Taylor と Fink(および Parker、Shorter、Fink らの共同声明)が求めた独立疾患としての再昇格を、DSM-5(2013 年)は容れなかった。melancholia は「メランコリアの特徴を伴う」specifier のままである〔DSM-5-TR の当該基準の文言は原典照合を要す〕。しかし ICD-11(2022 年)は、注目すべき一歩を踏んだ。CDDR(臨床記述と診断要件)は、症状・経過の下位指定子として 6A80.3「現在の抑うつエピソード、メランコリアを伴う current depressive episode with melancholia」を設けている。その要件は、現在のエピソードの最悪期における次の諸症状である——通常は楽しめるほとんどの活動における興味・快の喪失(汎性アンヘドニア)、通常は快をもたらす刺激・状況への情動反応性の欠如(気分が一時的にも晴れない)、終末期不眠(通常より二時間以上早い早朝覚醒)、抑うつ症状の朝方増悪、著明な精神運動制止または激越、著明な食欲低下または体重減少[16]。
この条文は、本稿の全行程の終着点として読むに値する。第一に、名前の持続。ヒポクラテスの melancholia は、2022 年の国際分類に、ラテン文字のまま、コード付きで生きている——「メランコリアの二千五百年」は文字どおりの現在完了である。第二に、内容の交替。この最新のメランコリアの中核は、もはや恐れと悲しみ(『箴言』六・二三)ではない。快の喪失と反応性の欠如——アンヘドニア——である(シュナイダーが記述しながら一級症状とはしなかったもの、六・一)。恐れ phobos は要件のどこにもない。古代以来の二症状核の片割れは、不安障害という別章に引き取られ(不安の概念史・既発表)、残る悲しみさえ、快の不在という陰画に置き換えられた。バートンが解剖した定義の統語論(第四章)——何を除外するためにどの語が置かれるか——だけが、様式として存続している。第三に、位置の縮小。かつて人間の条件の全域を覆った名前(第四章)は、いまや「現在のエピソード」に付す六症状の指定子である。しかしそれでも、名前は選ばれた。ICD-11 の起草者たちは depression の下位区分に、endogenous でも somatic syndrome でも vital でもなく——いずれも 20 世紀に試みられた代替名である——melancholia の語を採った。二千五百年の重さが、意図されると否とにかかわらず、この選択の中で引用されている。
七・四 中間的な結び——名前は何を運ぶのか
考察章(続稿)に先立ち、ここまでの行程を仮に結んでおく。melancholia の歴史は、名前の持続と内容の交替という二重性の歴史であった。黒胆汁(第一章)、天才の体質(第二章)、百科全書的な人間の条件(第四章)、部分妄想 délire partiel と lypémanie と状態像への降格(第五章)、対象喪失(五・五)、そしてアンヘドニアの指定子(第七章)。内容のこの交替の全体を貫いて、名前は何を運んだのか。少なくとも三つのものが挙げられる。症状の核——恐れと悲しみの対は解体されたが、誘因なき持続的な悲哀という記述の芯は、ヒポクラテスから 6A80.3 まで連続している。重さ——スタイロンの抗議が示すとおり、この名前は depression が運べないものを運ぶ。そして係争性——メランコリアは、その全史を通じて、病か体質か、病か天才か、病か罪か、疾患単位か指定子かをめぐる係争の名であり続けた。Taylor と Fink の再導入提案が示すのは、この係争が今日なお決着していないことである。名前が持続するのは、おそらく、係争が持続しているからである——決着のついた概念は、名前ごと廃棄される(phrenitis のように)。melancholia が生きているのは、それが未決だからである。
最後に、この二重性の読み方について一つ断っておく。名前の持続と内容の交替という定式は、読みようによっては、メランコリアとは名前だけが持続する構成物であり、その下に固有の病理はないという主張に取られかねない。本稿の意図はそこにない。ピゴーは晩年の著作でこう書いている。「メランコリーがもっぱら歴史の創造物だとは言えない。この概念の下には、言うまでもなく、病理的な現実が存在する。しかし他方で歴史家は、われわれの西洋文明においてメランコリーが人間を、魂と身体からなる複合的な存在として、その組み合わせに苦しむ存在として開示してきたことを忘れることができない」[20]。彼はこれを別の頁で、メランコリーは「生理と意味との不可分の統一」であり、「意味は変わり、修正され、芸術家の過剰さえ受け入れるが、胆汁の在り方はそれほど変身に耐えない」と言い換える[20]。
本稿が「内容の交替」と呼んできたのは、この意味の側の交替である。黒胆汁、天才の体質、人間の条件、部分妄想、対象喪失、アンヘドニア——それぞれの時代がこの名前の下に置いた説明は入れ替わった。しかし説明が向けられていた臨床の核、誘因なき持続的な悲哀は、ピゴーの言う「胆汁の在り方」に相当するものとして、交替の下に残り続けた。名前が持続したのは係争が持続したからであるが、係争が持続したのは、争われる現実が消えなかったからでもある。
名前が持続した理由についても、本稿の答えはスウェインの答えと並べて置かれるべきである。スウェインは、精神医学が共通世界から自らを切り離すことを完遂できず、日常の概念性への開口部をこの一語に保ったのだ、と説明した[21]。本稿は、名前の下で内容をめぐる係争が終わらなかったからだ、と説明する。前者は精神医学と社会との関係を、後者は概念の内部を見ている。両者は競合しない。日常語への回路が保たれたからこそ、この名前には毎世代あらたな内容が流れ込み、係争が絶えなかったのだとも言えるし、係争が絶えなかったからこそ、この語は専門用語に閉じることができなかったのだとも言える。いずれの向きに読むにせよ、名前の持続は名前だけの出来事ではなかった。
編集注記(v6)
v6(2026 年 9 月 11 日)——四回の補筆を本文に統合した。(一)ピゴー『Melancholia』(2008 年)第一章・序論:四・一(原光景)、四・三(書き直し——万人に及ぶ意味を「不適切な呼び方」として括り出すバートン自身の線引きを加え、節題を「最大外延と線引き」に改めた)、四・四(デューラーの一節)、一・二(phrontis)、一・四(ルフスの症例記録)、二・五(墓碑)、六・四(DSM 批判)、七・四(病理的現実についての断り)、文献[20]。(二)スウェイン「メランコリーの持続と変容」(1989 年):序(先行研究)、五・二(「自殺」の項——Gallica で原典確認、文献[22]——とリペマニーの枠外の記述、復帰の理由)、五・三(ギスラン——節題を「ギスランとグリージンガー——苦痛の発見と脳病の時代」に改めた)、五・四(部分妄想/全般妄想の解体)、五・五(情動と表象)、七・一(抑うつへの権利)、七・四(二つの答え)、文献[21]。(三)所蔵の第八版第III巻第2部で五・四を照合:第六版の判断の撤回(Melancholiefrage, S. 1379-1381)を原文から引き、「見出しから完全に消える」を「疾患名から状態像名への降格」に訂正、文献[23]。(四)ビンスワンガー仏訳の序文・前書き・序論(pp. 7-26)により六・三を新規執筆、文献[24]。本論の症例分析は本文入手後に補う。(五)シュナイダー『臨床精神病理学』第六章(既作成の対訳)により六・一「一級症状の不在」を新設し、旧六・一〜六・四を六・二〜六・五に繰り下げ、文献[25]を追加。(六)所蔵のグリージンガー初版(1845 年)により五・三に § 1 の脳病定式と § 94 のメランコリー記述を原文から引き、フロイトの Herabsetzung des Selbstgefühls と反応性の欠如(六・一、六・四)の先駆として位置づけた、文献[26]。訳語:ピネル以下の délire は譫妄ではなく妄想を指すため、原語を示して括弧で妄想と添える表記に全体を改めた。残作業——第三章(Klibansky 入手後)、第二章の引用を『L'Homme de génie』仏語版の頁に差し替え、〔要確認〕箇所の原典照合(エスキロール第一巻、DSM-5-TR specifier 文言、ケテル経由の古代文献引用、テレンバッハ引用の頁再確認)、七・四の独立章化。表記:紀要の規則に合わせ、西暦年・世紀・数量を算用数字に改めた(題名の「二千五百年」、章・版の序数、『箴言』六・二三などの古典の巻節番号は漢数字のまま)。原文引用:序(スウェイン)、一・五と六・四(ピゴー)、五・二(エスキロール「自殺」)、五・三(ギスラン、グリージンガー初版)、五・四(クレペリン第八版)、五・五(フロイト)、六・一(シュナイダー)、六・二(テレンバッハ仏訳——類型の定義、インクルデンツの定義、転居メランコリー症例 28、疾病論上の定義)に原文+筆者訳の引用枠を置いた。文献[18]に木村敏訳(みすず書房、1978 年;改訂増補版 1985 年)を加えた。文献[20]〜[26]に本文初出への戻りリンクを付けた。
底本と作業経過——草稿 v1(序論・第一章・第二章)、v2(第四章・第五章)、v3(五・五フロイト——Studienausgabe Bd. III 所収本文に基づく頁付き引用、第七章——ICD-11 CDDR 6A80.3 の要件訳出を含む)、v4(第六章——テレンバッハ仏訳の該当節を OCR して執筆、エランベール、DSM-III)。docx 版 v1〜v4 は作業フォルダに保存済み。クレペリン第三版・第六版の版間比較は所蔵 PDF の目次・本文により直接照合済みである。