【日本語要旨】 本稿は、エングストロームの制度史、ホックマンの通史、そしてポステルによるクレペリン批判の三つの文献を並べて読みながら、ピネルからクレペリンに至る精神医学史を、フランスからドイツへの覇権の移動としてたどる。ピネル=エスキロール体制は、原則としての治癒可能性と事実上の不治性という矛盾を抱えていた。ドイツの大学クリニック体制はこの矛盾を「経過と終末状態による疾病分類」によって解決したが、その解決は、ポステルの言うように、空間の閉鎖(収容)を時間の閉鎖(予後による封鎖)に置き換えるという代償を伴っていた。そしてこの方法論がドイツ精神医学の制度的覇権として定着した背景には、普仏戦争と50億フランの賠償金がもたらした、両国の非対称な財政条件があった。
クレペリンの優生学への関与と、その弟子たちのナチス精神医学への関与をめぐっては、「歴史的帰結」が理論の「論理的帰結」を意味するものではない、という立場をとる。本稿は先行する諸論考の歴史的背景をひとつにまとめるとともに、フランス精神医学史への日本の読者の入口となる文献紹介を兼ねている。
キーワード:ピネル、エスキロール、グリージンガー、クレペリン、ポステル、エングストローム、ホックマン、ケテル、大学精神科クリニック(Universitätspsychiatrie)、診断カード(Zählkarten)、空間的閉鎖と時間的閉鎖、普仏戦争と賠償金、優生学、論理的帰結と歴史的帰結の区別
This paper traces the history of modern psychiatry from Philippe Pinel to Emil Kraepelin as a shift of hegemony from France to Germany, by juxtaposing three works: Eric J. Engstrom's Clinical Psychiatry in Imperial Germany (Cornell, 2003), Jacques Hochmann's Histoire de la psychiatrie (PUF, 2004), and Jacques Postel's critical "Introduction" to the French edition of Kraepelin's Heidelberg clinical lectures. The triangulation of French, Anglophone, and German-oriented historiography brings into view structures that no single source can disclose.
The argument unfolds through four interlocking propositions. First, the Pinel–Esquirol regime carried a structural contradiction between the principle of curability and the de facto incurability of asylum populations. The myth of the "liberation from chains" was retroactively constructed by Scipion Pinel and visually canonized by Müller (1849) and Robert-Fleury (1878); Esquirol's vision of the asile as "the most powerful therapeutic agent" was belied by cure rates of seven to eight percent in mid-nineteenth-century French national statistics, as documented in Claude Quétel's quantitative analyses; the law of 1838 institutionalized this contradiction. Second, the German university clinic system, from Wilhelm Griesinger to Emil Kraepelin, resolved this contradiction through the methodological choice of classification by course and terminal state. This resolution emerged from Griesinger's contested 1865 reform at the Berlin Charité, from a half-century of friction with the Anstaltspsychiater (institutional psychiatrists), from Friedrich Althoff's strategic administrative intervention as Ministerialdirektor, and from the linked development of four institutional elements — the Poliklinik as an extramural observation post, longitudinal patient records sustained by inter-institutional transfer protocols, the organized training of nursing personnel as part of clinical knowledge production, and Kraepelin's diagnostic cards (Zählkarten) which standardized longitudinal data for statistical comparison — that together made possible Karl Kahlbaum's klinische Krankheitseinheit and Kraepelin's binary classification of dementia praecox and manic-depressive insanity. Third, this resolution carried its own cost, as Postel incisively argued. Where Kraepelin's predecessors had completed closure in space — sealing the territory in which the insane were to be confined "hors d'état de nuire" — Kraepelin completed closure along the temporal dimension: "the future of the insane is also carefully closed, locked." Predictive classification by terminal state became, simultaneously, a device that sealed the patient's future within medical language. The Kraepelinian system thus constitutes, in Postel's striking phrase, "a magnificent necropolis in which each morbid form is a sepulchre." Fourth, the consolidation of this methodological solution as the institutional hegemony of German psychiatry cannot be analyzed apart from the contingent event of the Franco-Prussian War. The five-billion-franc war indemnity created asymmetric fiscal conditions that materially underwrote the Prussian state's investment in university medicine, including the rapidly expanding network of psychiatric clinics across the new Empire. The "stagnation" of France and the "leap" of Germany were not the outcomes of pure scientific merit, but events at the crossing of political and intellectual history.
The paper sustains throughout a methodological position that distinguishes the logical from the historical consequences of theory, applied to the question of Kraepelin's nationalist and eugenic engagements and the involvement of his pupils — Ernst Rüdin, Paul Nitsche, Robert Gaupp — in Nazi psychiatry and the T4 program. The structural affinity between Kraepelin's prognostic pessimism and the policy logic of eugenic intervention cannot be denied. But the historical actualization of this affinity passed through a contingent and tragic chain of events: the Versailles indemnity of 132 billion gold marks, the hyperinflation of 1923, the world economic crisis of 1929, and the political radicalization that brought National Socialism to power. To attribute the entirety of this historically contingent outcome to the internal logic of Kraepelin's nosology would diminish both the sharpness of theoretical critique and the accuracy of historical understanding. The paper occupies a synthesizing position in relation to the author's previous essays (on Esquirol and the 1838 law, on Pinel's classical culture and the clinic of passions, on Henri Ey and Eugen Bleuler, on Kurt Schneider, and on Edward Shorter's historical nosology), and also serves as a mediated introduction to French-language psychiatric historiography for the Japanese reader.
Keywords: Philippe Pinel, Jean-Étienne Esquirol, Wilhelm Griesinger, Emil Kraepelin, Jacques Postel, Eric Engstrom, Jacques Hochmann, Claude Quétel, Universitätspsychiatrie, Zählkarten, spatial and temporal closure, Franco-Prussian War and the war indemnity, eugenics, the distinction between logical and historical consequences
はじめに——本稿の目的と文献について
本稿は、近代精神医学の成立過程をフランスからドイツへの覇権移動という観点から見渡すことを目的とする。その手がかりとして、エリック・エングストローム(Eric J. Engstrom)の『帝政ドイツの臨床精神医学(Clinical Psychiatry in Imperial Germany: A History of Psychiatric Practice)』(Cornell University Press, 2003)[1]、ジャック・ホックマン(Jacques Hochmann)の『精神医学の歴史(Histoire de la psychiatrie)』(PUF, coll. « Que sais-je ? », 2004)[2]、およびジャック・ポステル(Jacques Postel)によるクレペリンのハイデルベルク臨床講義への「序論」[16]——の三つの文献を並べて読む。フランス語圏・英語圏・ドイツ語圏の視点を重ね合わせることで、単一の文献では見えにくい覇権移動の構造が浮かび上がる。
日本の精神科医はドイツとアメリカの精神医学から深い影響を受けてきたが、フランスの精神医学史については馴染みが薄い。ホックマンのクセジュ版は、フランス語圏を中心とする精神医学通史として良質な書物であり、日本語訳も出版されている。しかし、フランス語圏の文脈を前提としているために、ドイツ精神医学を座標軸とする日本の読者にはいま一つ分かりにくいという声も聞かれる。
一方、エングストロームの著作は、帝政ドイツにおける精神医学の制度化を、大学行政・国家政策・専門職の形成といった制度的観点から詳細に分析したものである。[1]この書物は残念ながら日本語訳がまだ出版されていない。しかし、エングストロームを読むことでホックマンの記述が立体的に理解できるようになり、逆にホックマンを参照することでエングストロームの議論の背景にあるフランスとの対比が鮮明になる。
さらに本稿では、ポステルによるクレペリン批判——特にその疾病分類学を「空間の閉鎖」から「時間の閉鎖」への移行として読み解く視点——をとりわけ重視する。この批判的視座は、クレペリンの方法論的革新とその社会的・政治的含意を同時に照らし出すものであり、第五章で論じるクレペリンの国家主義・優生学との関与とも構造的に同種のものである。
本稿は、これら三つの文献を並べて読むことの意義を、単なる文献紹介にとどめず、一つの分析的読み筋として提示することを試みる。その読み筋は、おおよそ次の四つの命題のつながりからなる。第一に、ピネル=エスキロール体制は、原則としての治癒可能性と事実上の不治性との間に構造的な矛盾を抱えていた。第二に、グリージンガーからクレペリンに至るドイツの大学クリニック体制は、この矛盾を「経過と終末状態による分類」という方法論的選択によって解決した。第三に、しかしこの解決は、ポステルが指摘するように、空間的閉鎖(収容)を時間的閉鎖(予後的封鎖)に置き換えるものであり、それ自体に固有の代償を伴っていた。第四に、この方法論的解決がドイツ精神医学の制度的覇権として確立し得たのは、普仏戦争という偶発的事件がもたらした非対称な国家財政条件を抜きにしては論じられない。
以上の四命題を貫く方法論的姿勢として、本稿は理論の「論理的帰結」と「歴史的帰結」の区別を一貫して保つ。ある理論的選択——例えば経過による疾病分類——の認識論的・社会的含意を分析することと、その理論が特定の歴史的条件のもとで何を引き起こしたかを論じることとは、構造的に別の問いである。両者を混同することは、理論への批判の鋭さも、歴史への理解の正確さも損なう。本稿は第五章でクレペリンとナチズムの関係を論じる際にこの区別を明示するが、これは特定章への限定的な留保ではなく、本稿全体を貫く分析装置である。
以上の方針のもとで、本稿はピネルからクレペリンに至る精神医学史のあらましを、政治経済的な文脈と方法論への反省を織り込みながら示す。三文献の交差点に立つことは、各国の歴史記述に潜む偶然性と必然性、認識論と政治経済の重なりを、単独の文献では達し得ない仕方で照らし出す。本稿は、こうした分析的読み筋を提示すると同時に、フランス精神医学史への日本の読者の接近を媒介する文献紹介としての機能を兼ねている。
第一章 革命と解放——ピネルとフランス精神医学の誕生
1-1 「鎖の解放」という神話と現実
精神医学の伝統的な歴史叙述において、フィリップ・ピネル(Philippe Pinel, 1745–1826)は摂理的な人物として登場する。ロベール固有名詞辞典は彼を「精神疾患の研究に取り組み、精神異常者に課せられていた残酷な治療法を廃止する功績を持った」人物と記す。[2]この叙述によれば、ピネル以前は狂気の歴史の辺境があるだけであり、ピネルとともに精神医学の歴史が始まる。ケテルが端的に言うように、「一人の男が来た……」という神話的構造である。[18]
しかし歴史的に見れば、この英雄神話は事実の組み換えによって成立している。ビセートル病院で患者を鎖から解放した行為の実質的な担い手は、ピネルの監視長ジャン=バティスト・プッサン(Jean-Baptiste Pussin)であった。プッサンはピネルの赴任以前からすでに鎖の廃止を実践していた。ケテルはプッサンの記録を引用する。[18]
「私は(それまで激しい狂人を抑制するために使われていた)鎖を廃止し、それをカミゾールに置き換えることに成功した。カミゾールは彼らに自由に歩き回り、より危険になることなく可能な限りの自由を楽しませるものである。経験から、これらの不幸な人々の治癒を促進するためには、可能な限り優しく扱い、畏敬の念を抱き、虐待せず、彼らの信頼を得ることが必要であることが示されている」(プッサン覚書、引用者訳)(注 1)
ビセートルでの鎖の公式廃止はピネルの出発後のことであり、ピネル自身もこのエピソードをかなり平凡なものとして引用していた。神話を決定的に定着させたのは、1823年に父の回想を記した息子スキピオン・ピネルであった。そこでは、父が患者を一人ずつ解放する劇的な場面が描かれ、「10年間鎖につながれていた」最も凶暴な患者シュヴァンジェが、解放と同時に「気遣い深く、注意深く」変貌したとされる。[18]1849年のシャルル・ミュラーの絵画(ビセートルでの鎖の解放)、1878年のトニー・ロベール=フルーリーの絵画(サルペトリエール)は、この神話を視覚的に完成させた。現在もピティエ=サルペトリエール病院の入口に立つ青銅像の台座には「フィリップ・ピネル博士、精神異常者の恩人」と刻まれている。
グラディス・スウェインはこの神話がつくられていく仕組みを鋭く分析する。「これこそ、神話的構築物が矛盾から身を守るための最高の策略である。すなわち神話は、一度かぎり確定した真実としてではなく、神話自身も知らず、厳密な意味では言明してもいない真実の、凡庸な支え、いやそれどころか偶発的な道具として自らを示す。よりよく捉えるために、あえて侮られるものとして自らを差し出すのである。[中略]こうして、この解放の原初の場面――狂気が医学のなかへ入っていく秘密が、何らかの仕方でそこに露呈しているとされる場面――の解釈が、飽くことなく繰り返される」(注 2)。[18]ケテルはこれを踏まえて、ピネルは「行動の人」というよりも本質的に「本の人」であったと言い、彼の真の貢献を理論的・分類学的体系の構築に見出す。[18]
実際、ピネルの後世に残る功績はキケロ『トゥスクルム論議』のストア派情念論を継承した四類型分類にある。[2][3]彼は狂気を躁病(manie)、憂鬱症(mélancolie)、痴呆(démence)、白痴(idiotisme)の四類型に区分し、それぞれを臨床観察に基づいて記述した。ホックマンが指摘するように、この分類は啓蒙主義的な自然主義の産物であり、超自然的説明を排除して精神疾患を医学的対象として確立する試みであった。[2]さらに重要なのは、各類型の「治癒可能性」を原則として肯定したことである。ピネルは初期の報告においてサルペトリエールでの入院二件に対して一件の治癒を報告していた。[18]
しかしこの治療への楽観は、自壊の論理をはらんでいた。1816年、ピネルは最終的な総括において「絶対的な不治性によって特徴づけられる aliénation mentale の重大さと特異な頻度」を指摘せざるを得なかった。[18]理念として宣言された治癒可能性は、施設の現実において事実上の不治性に突き当たったのである。この矛盾はピネルにとどまらず、その弟子エスキロールを経て、制度としての精神病院の構造的問題として持続する。
1-2 エスキロールとasileの制度化——理念と現実の隔たり
ジャン=エティエンヌ=ドミニク・エスキロール(Jean-Étienne-Dominique Esquirol, 1772–1840)はピネルの協力者として精神医学の制度化を推進した中心人物である。[2][4]1811年にサルペトリエール病院精神障害者棟の監視医師に就任し、翌年常勤医師となった後、1820年にはシャラントン王立施設の主任医師に就任した。1817年にサルペトリエールで開始した精神医学臨床講座には多くの弟子が集い、ジャン=ピエール・ファルレ(Jean-Pierre Falret)、エティエンヌ・ジョルジェ(Étienne Georget)、フェリックス・ヴォアザン(Félix Voisin)らを輩出した。こうしてエスキロールはサルペトリエール病院とビセートル病院を頂点とする学問的ネットワークを形成した。[2]
エスキロールにとって、asileは単なる収容施設ではなく、それ自体が治療の道具であった。1838年の著作において彼はこう宣言する。[4]
« L'établissement d'aliénés est un instrument de guérison. Entre les mains d'un médecin habile, c'est l'agent thérapeutique le plus puissant contre les maladies mentales. »
(「精神疾患患者の施設は治療の道具である。熟練した医師の手の中で、それは精神疾患に対する最も強力な治療薬となる」)[4]この定式は施設精神医学の根本宣言として繰り返し引用されることになるが、ケテルが指摘するように、それほど革新的ではない。すでに1788年にトノンが「狂人のための病院は、それ自体が治療薬として機能する」と述べており、1785年の「精神異常者の管理方法に関する指示書」の反響でもあった。[18]
この定式のもと、エスキロールは病院建築に熱心に関わった。「精神病院の計画は決して建築家だけに任せるべきものでもない」[18]と彼は書き、建築家ルイ=イポリット・ルバに最初の大規模施設計画を描かせ、ルーアン大施設の建設には個人的に赴いた。病棟の疾患別分類配置、東向きの採光、散歩道と庭園——これらすべてが道徳療法の空間的実現として構想された。ケテルはエスキロールの理念を次のように整理する。患者の知性と感情の誤った方向性を修正するためには「隔離」が不可欠であり、患者を病原性のある社会から切り離し、「模範的で賢明で秩序ある社会」に統合することが治療の前提となる。精神病院は「政治的実験室」として機能する、というのがゴーシェとスウェインの鋭い評言であった。[18]
エスキロールが1818年に内務大臣に提出した報告書は、この理念を裏側から照らし出す現実の記録でもある。[4]彼はフランス全土の施設を見て回り、「私は彼らが裸で、ぼろをまとい、藁しかない状態で横たわっているのを見た」と記した。1838年法はこの状況への応答として、各県へのasile設置義務を定め、精神疾患者の強制・任意入院の法的根拠を整備した。[2][4]
しかしケテルが詳細な計量分析によって示したのは、こうして整備されたasileの制度的現実と治療の理念との深い隔たりである。ノルマンディーのボン=ソヴール施設(カーン)の1838年から1925年の入院記録18,000件の分析によれば、1856年から1860年のフランス全国統計における治癒率はわずか8.24%にとどまり、1874年の総監察官報告でも7.04%であった。[18]入院動機の語彙分析はさらに示唆に富む。
« Que donne l'analyse quantitative du vocabulaire du seuil d'internement au Bon-Sauveur ? 46 % des motifs d'internement ont pour nom « violence, turbulence, agitation, accès divers, crise, tentative de suicide ». Cette statistique n'étant pas la mieux renseignée, c'est certainement beaucoup plus. »
(「ボン=ソヴール施設での入院基準として使われる語彙の量的分析から何がわかるか。入院理由の46%は『暴力・騒々しさ・興奮・各種発作・危機・自殺企図』という用語が使われている。この統計は最も詳細なものではないので、実際にはもっと多いことは確かである」、筆者訳)[18]そして35%が「抑うつ・メランコリー・被害妄想・誇大観念・宗教妄想」であった。ケテルはこの構造についてアンシャン・レジームとの連続性を強調する。
« Comme sous l'Ancien Régime, la demande d'internement trouve sa justification dans la dangerosité, le drame imminent qu'il s'agit justement de prévenir. »
(「旧体制の下と同じく、収容の要求はまずその危険性にある。また、まさに防止すべきことが問題である差し迫った惨事がおこるのではないかという恐れで正当化される」、筆者訳)[18]収容施設の第一の論理は治療的必要ではなく社会防衛であった。この構造は1838年法によって変わっていない。
では、この「危険性」を軸とする収容要求は、いかなる社会経済的基盤から発せられていたのか。この問いはそれ自体、独立の検討に値する。大革命後のフランスは、イギリスのような急激なプロレタリア化を経験せず、小土地所有農民を広範に残存させた社会であり、軽度の病者や非活動的な病者は、なお伝統的な世帯経済の内部に包摂される余地を持っていた。収容の要請が地域共同体から国家へと向けられるのは、病者が興奮・暴力・自殺企図によって世帯の存立そのものを脅かし、この緩衝能が限界を超えたときであった——ケテルの示した入院動機の語彙分布は、この自衛限界の記録として読むことができる。他方、法制度の側では、ナポレオン民法典の定める禁治産宣告(interdiction)の司法手続が、その煩雑さと費用と家名への配慮のゆえに迅速な対応への障壁となっており、カステルが古典的に示したように、1838年法の行政的収容(措置入院 placement d'office と任意入院 placement volontaire の二本立て)は、この司法的障壁を迂回する制度的応答という側面を持っていた。[26]もっとも、大革命後の小土地所有農民社会における世帯経済の自衛限界と、民法典の禁治産手続という司法的障壁——この社会経済的基盤の分析は、それ自体一篇の論考を要する主題であり、別稿に委ねたい。
この隔たりはエスキロール自身の思想の軌跡にも刻まれている。ケテルが指摘するように、1805年の論文(情念論)における道徳療法は個別的な対話を中核としていた。しかし後年の著作においてエスキロールは自己相対化を進める。[18]
「道徳的治療の適用が示す無限の微妙な違いを把握し、この適用の適時性を決定するためには、精神の中に一定の巧みさと大きな習慣が必要である。時には、彼らの理性を支配するよりも強い情念を患者に吹き込むことによって、最も頑固な決意を威圧し、克服しなければならない」(エスキロール1838、引用者訳)(注 3)
道徳療法は対話から、情念の操作へと変質していった。ゴーシェとスウェインの評言を借りれば、「ピネルの改革とその制度的具現化の間のすべてのパラドックス」、すなわち「原則的な治癒可能性は事実上の不治性にぶつかる」という逆説である。[18]エスキロール自身、シャラントンにおける1826年から1833年の治癒率は入院三件に対して一件であり、不治とされる症例を除外しても二件に対して一件(治癒率約43%)に過ぎなかったことを認めている。[18]
ホックマンが簡潔に整理するように、1838年法のもとで各県に設置されたasileは半世紀で急増し、収容者数は指数関数的に膨張した。[2]この膨張はモレル(Benedict Morel)による変質論(dégénérescence)の台頭と時期を同じくしている。治癒可能な患者を想定して設計された施設が、事実上慢性的・不治的な患者の長期収容機関へと変質していく過程は、第三章で論じるフランス精神医学の「停滞」の制度的基盤をなす。
以上をまとめれば、フランス精神医学の黄金期は二重の意味で神話的である。第一に、ピネルによる「鎖の解放」という創設神話は歴史的事実の組み換えによって成立した。第二に、エスキロールが建築に込めた治療的楽観主義と、施設が担った社会防衛の論理との間の落差は、制度が生まれたときから構造として埋め込まれていた。この落差——理念と現実のずれ、原則的治癒可能性と事実上の不治性との矛盾——は、第四章でポステルがクレペリン体系に見出す「時間的閉鎖」の論理の制度的前史として読み直すことができる。[16]
第二章 転換期——グリージンガーとドイツ精神医学の台頭
2-1 ドイツ語圏の出発点——ロマン主義精神医学とその限界
フランスがピネルとエスキロールのもとで臨床的・制度的基盤を固めていたとき、ドイツ語圏の精神医学はまったく異なる姿を見せていた。18世紀末から19世紀前半にかけて、ドイツでは「精神派(Psychiker)」と「身体派(Somatiker)」の論争が続いていた。精神派の代表者であるヨハン・クリスティアン・ハインロート(Johann Christian Heinroth, 1773–1843)は精神疾患を罪(Sünde)の結果と見なし、身体派のフリードリヒ・ナッセ(Friedrich Nasse, 1778–1851)らは脳の器質的病変を重視した。この論争は実り多いものではなく、フランスの臨床的伝統と比べるとドイツ語圏の精神医学は後進的であった。
ホックマンの記述によれば、ハインロートはむしろ独自の「道徳治療」の先駆者として評価しうる面を持っていた。彼の治療は「長い対話を交わす患者の模範として自らを提供する」ものであり、その「自己分析的側面」はフランスの弟子たちによって翻訳・参照された。しかしドイツ精神主義は「魂という専ら精神的で分割不可能で不滅な力がいかにして病気になりうるのかが理解できない」という批判を常に受け、制度的な足場を欠いたままであった。[2]
しかし同時期のドイツ語圏には、精神医学の将来にとって決定的に重要な制度的基盤が育ちつつあった。1810年にヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)がベルリン大学を創設した際に掲げた「教育と研究の統一(Einheit von Forschung und Lehre)」の理念は医学にも適用され、ドイツの大学医学部は臨床と研究を一体化させる方向へ進んだ。
2-2 グリージンガーの革命——改革の実現と抵抗
ヴィルヘルム・グリージンガー(Wilhelm Griesinger, 1817–1868)の『精神病の病理学と治療学(Die Pathologie und Therapie der psychischen Krankheiten)』(1845年、第2版1861年)[5]は、ドイツ精神医学の転換点となった。「精神疾患は脳疾患である(Geisteskrankheiten sind Gehirnkrankheiten)」というテーゼは、当時急速に発展しつつあった神経解剖学・病理学の成果と結びつけられ、精神医学を自然科学的医学の一部門として位置づけようとした。
ホックマンはグリージンガーの姿勢を次のように引く。「精神医学は、以前に制約されていた狭い範囲からますます脱却しなければならない。それを脳と神経系一般の病理学の一分野として培い、現在医学のあらゆる分野で用いられている診断の厳密な方法を適用する時である」。彼はピネルの人道主義的功績を認めつつも、軽蔑的に「道徳主義者」と呼ばれる心理主義の先駆者たちとの差別化を図ることが重要であった。[2]
グリージンガーの構想のなかで特に重要なのは、精神疾患の経過(Verlauf)に注目するという方法論的態度であった。疾患の時間的展開を重視するこの姿勢は、後にカールバウムを経てクレペリンに受け継がれ、ドイツ精神医学の最大の特質となった。
1865年、グリージンガーはベルリン大学シャリテ病院に精神科教授として着任し、大学付属の精神科クリニック(Klinik)の設立を推進した。しかしエングストロームが詳述するように、この改革は激しい反発を招いた。[1]
最大の対立軸は、クリニック構想そのものにあった。グリージンガーが思い描いたのは、都市の中心に位置し、急性期患者を短期間入院させて治療・教育・研究を行う大学直属の施設であった。しかし当時ドイツ語圏で主流であったのは、フランスのアジルと同様の思想——すなわち、患者を都市の喧騒から切り離し、農村的な閑静な環境に設けられた大型施設(Anstalt)で長期的に管理するという「隔離=治療」の発想——であり、その施設を率いる施設長精神科医(Anstaltspsychiater)たちが職業集団としての利害と威信を体現していた。グリージンガーの都市型クリニック構想は、この施設派のよりどころを根本から脅かすものと映った。[1]
施設派の論拠は単なる利害関係の防衛だけではなかった。彼らは、急性期患者のみを対象とする都市型クリニックでは、慢性疾患の長期観察が不可能であり、精神医学の学問的な土台にはなりえないと主張した。また、慢性患者の長期療養という社会的役割をクリニックが担う気がないのであれば、誰がその患者を引き受けるのかという現実的な問いも提起された。さらに教育的観点からは、医学生が接するのが急性・可逆的な事例だけであれば、精神疾患の全体像は伝わらないという批判もあった。[1]
グリージンガーは施設派との妥協策として、クリニックと既存の施設との患者移送の仕組みを提案したが、主導権をめぐる交渉は容易ではなかった。クリニックがどの患者を受け入れ、どの段階で施設に転送するかというプロトコルは、両者の制度的立場を左右する問題であり、交渉は繰り返し難航した。さらに病院行政の面では、クリニックの独立性を認めるかどうかをめぐって大学・医学部・州政府の三者間で権限が競合し、エングストロームが描く当時の書簡や行政文書には、グリージンガーの構想がいかに多くの制度的障壁にぶつかったかが克明に記録されている。[1]
グリージンガーはベルリン着任からわずか3年後の1868年に51歳で急逝した。この早すぎる死は、彼の改革構想が十分に制度化されないまま終わったことを意味した。エングストロームはこの点を強調する——グリージンガーの死後、クリニックの位置づけをめぐる論争はかえって激化し、後継の精神科教授たちはそれぞれに異なる方針をとることになった。グリージンガーが残したのは、完成した制度ではなく、未解決の緊張をはらんだ青写真であった。[1]
それでも、グリージンガーが切り開いた「精神医学は大学の一部門たるべき」という理念は、次世代に継承された。とりわけ脳解剖学と精神医学を橋渡しした研究者たち——テオドール・マイネルト(Theodor Meynert)、カール・ヴェルニッケ(Carl Wernicke)——は、グリージンガーが置いた礎の上に実験的・解剖学的精神医学を発展させた。クリニックの制度化が最終的に軌道に乗るのは、アルトホーフの行政主導による精力的な拡大期を待たなければならなかった。
2-3 政治経済的背景——プロイセンの台頭
グリージンガーの改革が実現しえた背景を理解するためには、当時のプロイセンの政治経済的状況に目を向ける必要がある。1862年にビスマルクがプロイセン首相に就任して以降、「鉄血政策」のもとで軍事力と産業力の増強が急速に進んだ。1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争に相次いで勝利し、プロイセンは北ドイツ連邦の盟主となった。この政治的成功は大学と研究体制に直接的な影響を及ぼした。プロイセン政府は大学を国家の威信と実力の象徴として位置づけ、自然科学・医学の研究に潤沢な資金を投じた。精神医学もこの恩恵を受けた。
第三章 帝国の建設と精神医学の制度化——フランスとの対比
3-1 普仏戦争・帝国成立・賠償金——覇権移動の物質的条件
1870年に始まった普仏戦争は、精神医学史にとっても象徴的な分水嶺となった。プロイセンを中心とするドイツ諸邦がフランスを圧倒的に打ち破り、1871年1月にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国が成立した。フランスは50億フランという当時としては天文学的規模の賠償金とアルザス=ロレーヌの割譲を余儀なくされた。[23]
この賠償金の規模と意味を具体的に把握することは、精神医学史を政治経済的に読む上で不可欠である。50億フランはフランスの年間国家予算に匹敵する巨額であり、フランス政府はこれを賄うために国民からかつてない規模の増税と国債発行を行わざるを得なかった。対してドイツ側は、この賠償金の大部分をほぼ3年のうちに受け取った——フランスがいち早く賠償を完済して占領軍を退去させようとしたためである。こうしてドイツ帝国の国庫には短期間のうちに巨大な資本が流入した。
この資本流入がドイツの産業化と学術制度の整備を物質的に支えたことは、経済史家が広く認めている。大学の施設拡充、実験室の建設、教授ポストの増設といった投資が可能になった背景には、普仏戦争の戦果という偶発的かつ決定的な政治経済的要因があった。ルドルフ・ウィルヒョウ(Rudolf Virchow)の細胞病理学やロベルト・コッホ(Robert Koch)の細菌学が世界の医学を牽引する時代が訪れたことは、もちろんこれらの科学者個人の才能によるものであるが、それを支えた制度的基盤の急速な整備が賠償金の流入と無縁でなかったことは見逃せない。[24]精神医学もこの「ドイツ医学の黄金時代」の恩恵にあずかっていた。
他方、フランスは敗戦と賠償金の重荷のもとで、学術的投資の優先順位を慎重に絞らざるを得なかった。フランスとドイツの精神医学における制度的差異は、たんに学的伝統や方法論的選択の違いによって生まれたものではなく、普仏戦争という一つの政治的事件がもたらした非対称な国家財政条件の反映でもあったのである。
3-2 アルトホーフと大学精神科クリニックの拡大——制度化の摩擦と主導権争い
帝政期ドイツにおける学術の飛躍的発展を語るうえで、プロイセン文部省の高等教育局長フリードリヒ・アルトホーフ(Friedrich Althoff, 1839–1908)の名は避けて通ることができない。[6][24][25]アルトホーフは1882年から1907年にかけての四半世紀にわたってプロイセンの高等教育行政を事実上支配し、「アルトホーフ・システム」と称される戦略的な教授人事・研究誘導政策を推進した。
エングストロームが詳述したように、帝政期ドイツにおける精神医学の制度化の核心は、大学精神科クリニック(Universitätspsychiatrie)の全国的拡大にあった。[1]ベルリン(1867年)を皮切りに、ハイデルベルク、ライプツィヒ、ミュンヘン、ブレスラウ、ストラスブールなど帝国各地の大学に精神科クリニックが設置された。クレペリン自身のキャリア——ドルパート(現タルトゥ)からハイデルベルク、そしてミュンヘンへ——も、このシステムの産物であった。
しかしエングストロームは、この拡大過程が決して一枚岩の成功物語でなかったことを丹念に描き出す。グリージンガーが直面した施設派との対立は、彼の死後もかたちを変えながら続いた。大学クリニックの設立をめぐる交渉は、毎回、大学・州政府・既存施設の三者が異なる優先事項を持ち込む複雑な場となった。大学側はクリニックを通じた医学教育の充実と研究の自律性を求め、州政府は慢性患者の社会的管理という行政上の要請を持ち、既存施設の長たちは患者数の確保と自施設の権限維持に敏感であった。[1]
患者の移送プロトコルは、この緊張関係が最もはっきりと表れる争点であった。大学クリニックは急性期・興味ある事例を優先的に受け入れたかったが、既存施設はそのような「クリーム・スキミング(cherry-picking)」が自施設の財政基盤と教育資源を脅かすと批判した。エングストロームが紹介する複数の大学でのケースは、こうした交渉がいかに具体的かつ消耗的であったかを示している——ある大学では、クリニックの病床数をめぐって医学部長と州内務省が数年にわたって書簡を往復し、別の大学では施設の患者移送に関して施設長と教授の間に個人的な軋轢が生じた。[1]
エングストロームはさらに、クリニックの「科学性」をめぐるイデオロギー的対立を浮かび上がらせる。クリニック派の精神科教授たちは、大量の短期入院患者とその実験的・解剖学的研究こそが精神医学を自然科学へと高める道と主張した。これに対して施設派は、精神疾患の本質は慢性的経過にあり、数週間の入院で得られる知見は表面的なものにすぎないと反論した。この論争は単なる学術的見解の相違ではなく、どちらが精神医学の制度的中心を担うか——言い換えれば、誰が後継者を養成し、誰が専門職団体の基準を設定するか——という制度的主導権をめぐる争いであった。[1]
アルトホーフの行政介入は、この膠着状態を動かす上で決定的な役割を果たした。アルトホーフは人事権と財政配分権を巧みに活用し、大学クリニックの設立を「上から」後押しすることができた。しかしエングストロームが強調するのは、アルトホーフのシステムが強権的な一元支配ではなく、競合する利害関係者の間で細かな交渉と妥協を積み重ねることで機能した点である。精神科クリニックの全国的拡大は、官僚制的合理性と専門職集団の抵抗と財政的誘因が複雑に絡み合った過程の産物であった。[1]
こうしてようやく整備された大学クリニックは、臨床治療・医学教育・実験的研究の三機能を統合していた。フランスの精神病院(asile)が基本的に治療と収容に特化し、研究は個人の努力に依存していたのとは対照的に、ドイツでは精神医学が大学の正規の教授職と結びつくことで、安定的な研究基盤と後進の養成が可能になった。しかしその達成は、グリージンガー以来の数十年にわたる制度的摩擦と主導権争いの末に得られたものだったのである。
3-3 大学改革の臨床的結晶——縦断観察・ポリクリニック・看護訓練・診断カード
アルトホーフの行政介入によって大学精神科クリニックが全国的に整備されたことは、前節で論じた通りである。しかしここで問わなければならないのは、こうした制度的変化が、具体的にどのような臨床的・方法論的実践を可能にしたのか、という点である。覇権移動をたんに制度史の事実として記述するにとどまらず、その「臨床的な中身」を問うためには、帝政ドイツにおける大学改革の思想と仕組みをいま少し立ち入って検討する必要がある。
ドイツの大学制度の精神的基盤は、1810年のベルリン大学創設をめぐるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの構想に遡る。フンボルトが掲げた「研究と教育の統一(Einheit von Forschung und Lehre)」の原理は、大学を知識の保存・伝達の場としてではなく、知識の生産・更新の場として再定義するものであった。[19]この理念のもとでドイツ語圏の大学に広まったのが、ゼミナール(Seminar)という教育・研究形態である。ゼミナールにおいては、学生は権威ある知識の受動的受容者ではなく、指導教員とともに一次資料・実証データを検討する研究への能動的参加者として位置づけられた。ランケのゼミナールが文献批判の訓練の場として歴史学の方法論を確立したように、医学の領域でもゼミナール的な精神が臨床訓練を変革した。[20]
しかしフリッツ・リンガーが詳細に分析したように、このドイツ学問貴族(マンダリン)文化は、純粋な学問的理想を具現しつつも、その制度的実現においては国家の行政権力と教授職集団の利害という現実的な力学と切り離せないものであった。[20]アルトホーフのシステムが持つ制度的意味は、まさにこの理想と現実の接点に位置する。彼が行使した教授人事への戦略的介入は、単なる行政的効率化の追求ではなく、フンボルト的な「研究と教育の統一」という理念を医学諸分野に定着させるための操作であった。マックス・ウェーバーが「アメリカにはすべての大学にアルトホーフがいる」と評したほどに、アルトホーフの権限は際立ったものであった。[6][19]
この制度的背景のもとで、精神科クリニックには具体的にどのような方法論的革新が蓄積されたのか。エングストロームの分析によれば、大学精神科クリニックは臨床的・教育的・研究的な機能が重なり合う複合空間として設計されていた。[1]重要なのはその空間の多層性である。実験室・病棟・講義室・そしてポリクリニック(Poliklinik)——これらはそれぞれ異なる権力関係と知識産出の論理をはらんでいた。本節では特に、ポリクリニック、縦断的患者記録の体系、看護職員の訓練、そしてクレペリンの診断カード(Zählkarten)の四つの要素に注目したい。これらは互いに連鎖しており、それぞれが大学という制度的文脈においてこそ生まれた革新であった。
まずポリクリニックについて。ポリクリニックは大学クリニックに付設された外来診療所であり、入院病棟に収容されない軽症患者・境界例・神経症的状態を対象とした。エングストロームが詳述するように、ポリクリニックは単なる診療の延長ではなく、大学精神医学が勢力を広げていく最前線として機能した。[1]精神疾患の境界を定め、まだ表に出ていない病的状態を早くとらえ、都市の雑多な患者層を観察するこの施設は、重症慢性患者を隔離する農村型アジルとは原理的に異なる。それは大学の「外へと向かう眼差し」の延長であり、精神医学をアジルの壁の内側から解放し、社会の中に観察拠点を持つ学問として再定義しようとする試みであった。精神科医を「精神衛生の番人(psychiatrische Wächter)」として位置づけるという発想は、まさにポリクリニックという制度空間から生まれた。
次に縦断的患者記録の体系についてである。大学クリニックと既存施設の間の患者移送(Überweisungssystem)は、前節で述べた通り制度的摩擦の震源であったが、それが実現した際に根付いた実践として、患者記録を移送先の施設に引き継ぐという仕組みがある。クレペリンがドルパート(現タルトゥ)の80床のクリニックを率いた時期から記録した詳細な症歴の蓄積は、ハイデルベルク時代の大規模な疾患分類作業の素材となった。[12]クレペリン自身の回想によれば、彼が「疾患の経過を分類の基準として重視することへ導かれた」のは、患者の縦断的経過を観察する機会を持ちえたからである。この機会は、施設型精神医学ではなく、大学クリニックとその患者移送体制という制度的条件なしには生まれなかった。
第三に、看護職員(Wärterpersonal)の組織的訓練について触れる必要がある。エングストロームが指摘するように、大学精神科クリニックは医師・医学生のみならず、看護職員を組織的・系統的に訓練するという実践を発展させた。[1]フランスのアジルにおいては、看護・介護要員は多くの場合、専門の訓練を受けていない人々によって担われ、系統的訓練の仕組みを欠いていた。これに対しドイツの大学クリニックでは、観察の質は患者に接する看護職員の目と言語にかかっているという認識のもとで、看護訓練が臨床知識生産の一環として組み込まれた。この発想は、患者についての情報を医師個人の観察に限定せず、病棟全体を「観察装置」として機能させようとするものであり、クリニックとゼミナールの精神が医療実践の隅々にまで浸透した現れであった。
最後に、クレペリンの診断カード(Zählkarten)の意味を確認したい。クレペリンはハイデルベルク時代から患者情報を定型化されたカードに記録し、数百件の症例を横断的に集計・比較する方法を発展させた。ヴェーバーとエングストロームの分析が示すように、カードに凝縮するというこの作業は、単なる記録の工夫にとどまらない。「患者の報告をカードに縮約する作業はすでに解釈的プロセスであった——これはクレペリンが臨床観察の外で、あるいはそれ以前に獲得した先行カテゴリーなしには不可能な認知的選別と科学的評価であった」。[21]ツェールカルテンは、大量の患者情報を定型化し、数量化し、比較できる形式に変換する装置であり、これによってクレペリンは経過と転帰という縦断的情報を統計的処理の対象にすることができた。
フランスの精神医学がシャルコーの臨床講義という形で知識を「劇場的に」展示したのに対し、ドイツのクレペリンは膨大な症例のデータベースを「静かに」蓄積し、教科書というかたちで整理した。この差異の本質は個々の天才の方法論的選択にあるのではなく、それぞれの制度的条件——フランスのアジルとドイツの大学クリニック——が生み出した知識産出の論理の差異にある。フンボルト的な「研究と教育の統一」という理念は、精神医学においては「観察と記録と分類の統一」という実践として具体化し、その結晶がクレペリンの教科書の体系性であった。ポリクリニックを通じた社会への開かれ、患者移送体制による縦断的記録、看護職員への訓練の徹底、そしてツェールカルテンによる情報の標準化——これら四つの要素が連動してはじめて、経過に基づく疾患分類という発想が大規模な経験的根拠を持つことができた。
3-4 フランスの「治療装置」としての病院と、その帰結——ドイツとの制度的対比
フランスとドイツの制度的差異を理解するためには、エスキロールが構想した「治療装置としての精神病院」という思想に立ち返る必要がある。前章(1-2)で述べたように、エスキロールは精神病院の設計に自ら関与し、病者を都市の病理的環境から切り離すことを治療の核心として位置づけた。この構想においては、隔離と収容はそれ自体が治療的意味を持つものであった。
しかしこの発想が1838年法の枠組みと結合したとき、二重の構造的問題が生じた。第一に、「治療のための隔離」という正当化論理が、長期収容を正当化する言説として自己増殖しやすかった。第二に、精神病院が基本的に「県立の施設」として設置されたフランスでは、施設は地理的に分散し、中央の大学との連携が構造的に薄かった。研究は施設長個人の関心と能力に委ねられ、大量の長期入院患者のデータが系統的な知識に転換される制度的経路が存在しなかった。
これに対してドイツの大学精神科クリニックは——多大な困難の末に——制度的起源からして異なる論理で設計されていた。グリージンガーがベルリン大学シャリテに構想したクリニックは、都市の中心部に位置し、急性期患者を対象とする短期入院と、大学の研究・教育機能との統合を柱としていた。フランスの田舎のアジルが「都市からの隔絶」を治療的と見なしたのに対し、ドイツのクリニックは「大学との接続」を知識生産の核心と位置づけた。この制度設計の差異が、長期的には疾病分類学の体系化においてドイツに決定的な優位をもたらした。
もちろんフランスとて優れた臨床家を欠いていたわけではない。シャルコーのサルペトリエール病院での「レッスン」はその頂点の例であり、ピエール・ジャネの解離研究も第一級の業績であった。しかしこれらの業績が「個々の天才による孤立した達成」にとどまり、クレペリンの教科書が果たしたような「近代精神医学の制度的基準」の役割を担えなかった根本原因は、制度設計の差異にあった。フランスは1879年までパリ大学に精神医学の正教授ポストを置かなかった——これは多くのドイツ大学より一世代遅れた制度化であった。
3-5 フランスの後退——変質論の支配と制度的停滞
普仏戦争の敗北はフランスの学術にも深い影を落としたが、フランス精神医学の後退はすでに1850年代から始まっていた。モレルの変質論は、その後継者マニャンによってさらに体系化され、フランス精神医学の支配的パラダイムとなった。
変質論の支配がフランス精神医学を後退させた論理は、ホックマンが示すように二重のものである。[2]第一に、遺伝的宿命論は治療的悲観主義と表裏一体であった。第二に、変質論は疾病単位のきめ細かな記述を妨げた。「すべての精神病は同じ退化プロセスの異なる段階に過ぎない」という信念が、ファルレとバイヤルジェが開いた疾患を独自の経過によって個別化するという方向性を閉ざしてしまった。
3-6 シャルコーと変質論の交差——フランスの自縛
フランス精神医学の1870〜90年代は、変質論とシャルコーの神経学的権威という二つの大きな力の交差のもとに置かれていた。ホックマンの第三章が描くように、この時代の核心的な問いは「精神病には器質的病変があるか」という問いであった。
シャルコーはヒステリーを「実験的神経症」として神経学の枠内に位置づけようとした。しかしナンシー学派は「暗示(suggestion)」の概念によってこれに反論し、ヒステリーは神経学的実体ではなく暗示への感受性に過ぎないと主張した。この論争はフランス精神医学のエネルギーを、クレペリンが取り組んでいた慢性精神病の長期追跡という課題から逸らすことにもなった。
より根本的には、変質論の支配がフランスの精神科医に「社会防衛の論理」を内面化させたことが、疾病分類学の発展を妨げた構造的要因であった。治癒不可能な慢性患者の蓄積を「退化の犠牲者」として収容することが主要な使命となったとき、それぞれの疾患を時間的経過によって個別化するというカールバウム=クレペリン的な知的関心は生まれにくかった。
第四章 疾病分類学の鍛錬——カールバウムからクレペリンへ
4-1 カールバウムとヘッカーの方法論的革新——「周縁」から生まれた革命
クレペリンの疾病分類学の直接の先駆者は、カールバウム(Karl Ludwig Kahlbaum, 1828–1899)とヘッカー(Ewald Hecker, 1843–1909)である。カールバウムはプロイセンのゲルリッツにある小さな私立精神病院の院長であり、大学の正教授ではなかった。しかし彼の方法論的洞察は精神医学史上きわめて重要であった。
ここで注目すべきは、カールバウムが制度的「周縁」に置かれていた事実そのものの意味である。グリージンガー以後の大学精神科クリニックが急性期患者に集中していたのに対し、カールバウムの私立施設は慢性患者を長期にわたって観察する環境を提供した。制度的主流から外れていたがゆえに、カールバウムは誰よりも疾患の時間的展開——発症・経過・転帰の全体——を観察する機会を持ちえたのである。大学クリニックと施設派の対立が生み出した制度的地形の「すきま」に、クレペリン的疾病分類学の萌芽は宿っていた。
カールバウムは1863年の著作『精神疾患の分類(Die Gruppirung der psychischen Krankheiten)』[7]において、精神疾患の分類は横断面の症状のみに基づくべきではなく、発症、経過、転帰の全体を考慮した「臨床的疾病単位(klinische Krankheitseinheit)」に基づくべきであると主張した。フランスの伝統が症状の静態的記述に傾きがちであったのに対し、カールバウムは疾患の時間的展開に注目した。
ヘッカーはカールバウムの弟子であり、1871年に「破瓜病(Hebephrenie)」を記述した。カールバウム自身は1874年に「緊張病(Katatonie)」を記述した。これらの疾患概念は後にクレペリンによって「早発性痴呆(Dementia praecox)」の下位類型として統合されることになる。
4-2 クレペリンの教科書——近代精神医学の大伽藍
エミール・クレペリン(Emil Kraepelin, 1856–1926)は1883年に『精神医学概論(Compendium der Psychiatrie)』の初版を刊行した。[8]これは薄い教科書にすぎなかったが、版を重ねるごとに飛躍的に拡大し、方法論的にも深化していった。特に決定的であったのは1893年の第4版と1899年の第6版である。
第4版においてクレペリンは、カールバウムの経過重視の方法論を全面的に採用し、個々の患者の長期追跡調査(Verlaufsbeobachtung)に基づいて疾患を分類するという方針を明確にした。第6版において彼は精神医学史上最も影響力のある二分法を確立した。すなわち、「早発性痴呆(Dementia praecox)」と「躁うつ病(manisch-depressives Irresein)」の区別である。
早発性痴呆は、比較的若年で発症し、慢性的に経過して人格の荒廃に至る疾患群をまとめ上げたものであり、ヘッカーの破瓜病、カールバウムの緊張病、そしてクレペリン自身が命名した妄想性痴呆(Dementia paranoides)を包含していた。一方、躁うつ病は、躁状態と抑うつ状態を周期的に反復しながらも人格の根本的な荒廃には至らない疾患群であり、ファルレの循環性精神病やバイヤルジェの二重形式精神病をも含み込んでいた。この二分法の力は、それが単なる症状記述の分類ではなく、経過と転帰に基づく予後的分類であったところにある。
4-3 教科書の荘厳さの背後にあるもの
クレペリンの教科書が到達した体系性と包括性は、個人の天才のみによって説明されうるものではない。それは帝政ドイツが生み出した制度的基盤のうえに成り立っていた。[1]大学精神科クリニックの全国的ネットワークは大量の臨床データの蓄積を可能にし、ドイツの大学制度は教授に実験室とスタッフを提供した。さらに1917年にはミュンヘンにドイツ精神医学研究所(Deutsche Forschungsanstalt für Psychiatrie)が設立され、クレペリンはその開所記念講演「精神医学の百年(Hundert Jahre Psychiatrie)」を行っている。[9]
第三章で見たように、この制度的基盤の確立は決して自明のプロセスではなかった。グリージンガーの改革に始まる施設派との対立、クリニック設立をめぐる各大学での交渉、アルトホーフの行政介入——これらの積み重ねの末に、クレペリンが依拠した大量追跡観察の基盤が整えられた。言い換えれば、クレペリンの教科書が体現した疾病分類体系は、ドイツ帝国という制度的条件の産物であるのみならず、それ以前の数十年にわたる制度的摩擦と主導権争いが最終的に大学クリニック側の勝利として結実したものでもあった。[1]
なお、ここで一つ、重要な断り書きをしておく必要がある。本稿が以下で論じるクレペリンの疾病分類体系は、20世紀後半のいわゆる neo-Kraepelinian 運動による偶像化を経て今日の我々が受け取っているものであり、クレペリン本人の自己評価とは必ずしも一致しない。エングストロームが教科書各版の精読にもとづいて明らかにしたように、クレペリン自身は自らの分類体系について終生にわたって深い懐疑を表明していた——分類は「暫定的」であり「いかなる科学的価値もない」、その意義はもっぱら「実践的・教育的」なものにとどまる、と。(注 4)[22]クレペリン自身の思想史的展開、特にドルパート期(1886-1891)の実験心理学的研究綱領との関係、および後世の偶像化と本人の自己評価との隔たりは、それ自体一篇の論考を要する大きな主題であり、将来の補足論考に委ねたい。
4-4 ポステルのクレペリン論——疾病の「時間による閉鎖」と社会防衛の論理
クレペリンの疾病分類学に対して、フランス精神医学史の立場から体系的な批判を加えたのが、ジャック・ポステル(Jacques Postel, 1928–2012)である。ポステルは精神科医・精神医学史家として知られ、クロード・ケテル(Claude Quétel)とともに『精神医学の新しい歴史(Nouvelle histoire de la psychiatrie)』を編んだほか、クレペリンのハイデルベルク臨床講義のフランス語再刊に際して批判的「序論」を執筆した。このテクストは、クレペリン批判のフランス語圏における古典として位置づけられる。[16][17]
ポステルはまず、クレペリンの方法論的原理を正確に定式化する。クレペリンが1919年の論文において「われわれの仕事の最前線に置かれ、その後のすべての仕事の基礎とならなければならないのは、病的形態の区切りとグループ化である」と書いたことを引き、その背後にある方法論的問いを掘り下げる。ポステルによれば、クレペリンの問いはヴィルヒョウの体細胞疾患への問いの精神医学への移植である——解剖学的・臨床的基準が使えないならば、精神疾患の「個別化(individualisation)」を可能にする基準は何か、という問い。その答えが「経過(évolution)」であった。ポステルはこれを次のように端的に定式化する。
La maladie mentale véritable ne se définira pas, dans l'esprit de Kraepelin, par des symptômes cliniques variables et changeants, ni par des éléments psychologiques bien trop arbitraires et relatifs, mais par son évolution qui, elle, obéit à des lois strictes et vraiment spécifiques. La base réellement scientifique d'une classification mentale est, pour lui, le mode d'évolution. La maladie ne peut être définie que par son état terminal.
(「クレペリンの思想において、真の精神疾患は変化しやすい臨床症状によっても、あまりに恣意的で相対的な心理的要素によっても定義されない。それを定義するのは、厳密で真に特異的な法則に従う経過である。精神分類の真に科学的な根拠は彼にとって経過の様式である。疾病はその終末状態によってのみ定義しうる」)[16]
この方法論的帰結として、クレペリンの体系的研究はほとんどすべての精神病が「最も深い痴呆の地点に沈む進行性施設入院の慢性経過(chronique d'un asilisme progressif)をたどる」という結論に至る。かくして「早発性痴呆」というますます拡張する枠組みが作られていった。ポステルはこの論理のなかに、単なる認識論的問題を超えた社会的・政治的次元を読み込む。
ポステルの批判の核心は、「閉鎖(clôture)」という概念によって定式化される。フーコーが古典主義時代の「大いなる閉鎖(le Grand Renfermement)」を空間的事件として論じたのと呼応するように、ポステルはクレペリンが別の次元で「閉鎖」を完成させたと主張する。彼のテクストにおける最も鮮烈な定式化は次の一節である。
Ce que ses prédécesseurs avaient déjà fait dans l'espace, en fermant le territoire bien clos où l'aliéné doit être maintenu « hors d'état de nuire » à la société, Kræpelin le complète dans la dimension chronologique. L'aliéné ne peut vraiment plus en sortir. Son avenir est lui aussi soigneusement fermé, bouclé. La clôture spatiale s'est renforcée d'une barrière temporelle, « chronique », définitive.
(「先人たちが空間において既に成し遂げていたこと——精神病者を社会に対して危害を加えることができないよう、閉ざされた領域に閉じ込めること——を、クレペリンは時間的次元において完成させた。精神病者はもはや決してそこから出られない。彼の未来もまた注意深く閉ざされ、施錠されている。空間的な閉鎖は、「慢性」という決定的な時間の障壁によって強化された」)[16]
精神病院という空間的囲い込みは近代以前から存在したが、クレペリンの予後的分類はこれに時間的な囲い込みを付け加えた。経過と終末状態によって疾患を定義するという方法論は、同時に患者の未来を医学的言語によって封鎖する装置として機能した、というのがポステルの読みである。
ここで注意すべきは、時間的閉鎖の様式においてクレペリン自身が二分法内部に区別を設けていたことである。早発性痴呆においては閉鎖が即時かつ不可逆的に完成するのに対し、躁うつ病については、クレペリン自身も発症後しばらくの期間に寛解期のあることを認識しており、その間は患者が施設外で生活しうると考えていた。しかしポステルはこの見かけ上の例外性が、閉鎖の論理そのものを免除するものではないと論じる。
La psychose maniaco-dépressive, qui s'oppose à celle-ci, ne sera épargnée de ce devenir démentiel qu'en apparence, car elle condamne le malade à des rechutes successives dont la dernière peut le conduire à un état terminal « déficitaire » lorsque l'asile, une ultime fois, a refermé ses portes sur lui.
(「早発性痴呆の対極にある躁うつ病は、この痴呆的転落からは外見上のみ免れる。それは患者を次々と続く再発へと追いやり、その最後の再発は、施設が最後にもう一度、彼の背後に扉を閉ざすとき、終末的な「欠陥」状態へと導くことがある」)[16]
ポステルはさらに、クレペリンの「内因性精神病(psychose endogène)」概念の社会的機能を問題にする。内因性という診断は、外的環境——物理的・社会的両面——が精神疾患の原因ではないことを宣言する。それは単なる原因論的無知の表明ではない。精神疾患の責任から社会を免罪するイデオロギー的機能を果たす、とポステルは主張する。アンリ・エーはこの内因性概念を「精神医学のデルフォイの神託(l'Oracle de Delphes de la Psychiatrie)」と呼んで批判したが、ポステルはエーの問題提起を踏まえながら、その根底にある社会防衛の論理を露わにする。[16][17]
クレペリンの疾病分類体系全体に対するポステルの最終的な評価は、一つの比喩に凝縮されている。彼はクレペリンの教科書が構築した体系を「一つ一つの病的形態がそれぞれ墓石となる壮大な霊園(une magnifique nécropole où chaque forme morbide est un sépulcre)」と呼ぶ。クレペリン精神医学は、「それ自体に閉じた死者のための建物であり、精神病院でも動物園でも植物園でも墓地でも呼べる閉鎖空間のなかでのみ機能しうる」と彼は書く。[16]クレペリンは「患者の言語を知らないことは、精神医学においては観察の優れた条件である(l'ignorance de la langue du malade est en médecine mentale une excellente condition d'observation)」と書いたほどに、患者を語りかけるべき生きた主体ではなく、終末状態によって分類されるべき疾患過程の担い手と見なしていた。
ポステルの批判は、フーコーやアンチ精神医学の運動と同時代的でありながら、フランス精神医学史の内部から発せられた精神医学・社会学的批判として独自の重みを持つ。ポステルはクレペリンの臨床的豊かさと記述の精度を否定しない——彼は「精神医学の疾病分類という船が四方八方から浸水している今、この基礎を明るみに出すことに意味がある。その臨床的正確さと豊かさは、難破船がどうなろうと、精神医学の歴史にかけがえのない貢献を残すだろう」と書いている。この問題意識は、次章で論じるクレペリンの政治的・優生学的関与という問題と構造的に同種のものである。
第五章 クレペリンの光と影——国家主義・優生学・反ユダヤ主義
5-1 精神科医と政治活動家
クレペリンの学問的業績の壮大さは疑いようがない。しかし、その人物像を完全なものにするためには、彼の政治的側面に触れないわけにはいかない。エングストロームの著作は精神医学の制度史に焦点を絞っているため、クレペリン個人のイデオロギーについてはあまり詳しく論じていない。しかしエングストローム自身は別の一連の論文——特にブルクマイアー(Wolfgang Burgmair)およびウェーバー(Matthias M. Weber)との共著論文——において、クレペリンの政治的関与を詳細に検証している。[10]
1903年にミュンヘン大学に移ったクレペリンは、次第に社会政策的な発言を増やしていった。彼は優生学と民族衛生(Rassenhygiene)の熱心な推進者であり、アルコール、犯罪、変質、ヒステリーについて多くの著作を発表した。第一次世界大戦中、クレペリンの政治的活動はさらに過激さを増した。1916年から汎ドイツ連盟(Alldeutscher Verband)の著名な人物たちと関わりを持ち、極右政党ドイツ祖国党(Deutsche Vaterlandspartei)のバイエルン支部幹部会に加わった。マイケル・シェパード(Michael Shepherd)は、クレペリンの晩年の著述には「不穏な原ファシズム的色合い(disturbing overtones of proto-fascism)」があると評している。[11]
5-2 『アメリカ精神医学雑誌』における論争——偶像と現実
クレペリンの遺産をめぐる評価は、21世紀に入っても激しい論争の対象となっている。2015年12月号の『アメリカ精神医学雑誌(American Journal of Psychiatry)』に、エングストロームとケンドラー(Kenneth S. Kendler)が「エミール・クレペリン——偶像と現実」と題する総説論文を発表した。[12]これに対して2016年3月号に掲載されたストラウス(Rael D. Strous)らの反論は、エングストロームとケンドラーの論文がクレペリンの変質論・優生学・人種主義・反ユダヤ主義への積極的な関与を完全に無視していると厳しく批判した。[13]
ストラウスらは、クレペリンが三人の著名なナチ精神科医——ロベルト・ガウプ(Robert Gaupp)、パウル・ニッチェ(Paul Nitsche)、エルンスト・リューディン(Ernst Rüdin)——の師であったことを指摘した。ニッチェはT4安楽死プログラム全体の責任者となり、リューディンは1933年の「遺伝病子孫防止法」の起草者であった。[13]この論争は、クレペリンの学問的業績をその政治的・イデオロギー的文脈から切り離して評価することの困難さを、改めて浮き彫りにした。
5-3 山村・村井論文の意義
この問題に関して注目すべき最近の研究に、京都大学の山村圭仁と村井俊哉による論文「エミール・クレペリンの優生学的論証の再検討(Revisiting Emil Kraepelin's Eugenic Arguments)」(History of Psychiatry, 35(2), 206–214, 2024)がある。[14]山村と村井は、クレペリンの教科書第8版の優生学的議論を詳細に分析し、自己家畜化仮説、新ラマルク主義、変質論、社会ダーウィニズム、人種主義的民族主義という複数の相互に独立した前提を持つ理論が一つの統合的な物語にまとめ上げられており、この「諸観念のパッケージ化(packaging of ideas)」が次世代において反人道主義的な精神医学へと結晶化したと指摘する。[14]
5-4 理論の「論理的帰結」と「歴史的帰結」の区別——クレペリンへの公正な評価のために
本稿の冒頭で示した方法論的姿勢——理論の「論理的帰結」と「歴史的帰結」の区別——は、特にこの問題においてこそ厳密に適用されなければならない。クレペリンが優生学的思想を抱き、その弟子の一部がのちにナチスの障害者虐殺計画——1933年の強制断種法、さらには1940年代のT4作戦による組織的殺害——に関与したことは事実である。しかし、クレペリンの「時間による閉鎖」という理論的操作が、これらの反人道的行為を論理的に必然とするものであったかどうかは、慎重に区別して論じる必要がある。
クレペリンの疾病分類体系と優生学的思想の間には確かに構造的な親和性がある——終末状態への不可逆的帰着という予後的悲観主義と、予防としての優生学的介入という政策論理は接続しやすい。しかしその接続が歴史的な現実となったのは、クレペリン理論の「論理的必然」によってではなく、第一次世界大戦のドイツ敗戦という偶発的かつ決定的な歴史的事件の連鎖を経由してであった。
1918年のドイツ敗戦とヴェルサイユ条約は、ドイツに1320億金マルクという壊滅的な賠償金を課した。普仏戦争後のフランスが50億フランの賠償金のもとで財政的に苦境に立たされたように、今度はドイツがこの賠償金によって経済的混乱へと追い込まれた。ワイマール共和国期の超インフレーション(1923年)、世界恐慌(1929年)による失業の急増、そして政治的極端化——これらが重なることで、ナチスが台頭し、既存の優生学的言説が国家政策として動員される条件が生まれた。
クレペリンの弟子たちがT4計画に関与したことは、クレペリン理論の「論理的必然」ではなく、ナチズムという特定の政治権力が精神医学の言説を意図的に動員した結果として理解されるべきである。山村・村井論文が指摘する「諸観念のパッケージ化」は、その媒介的役割を正確に指摘している。しかし、クレペリンの疾病分類体系そのものがナチズムを必然化したと論じることは、歴史的因果連関を過度に圧縮する議論であり、クレペリンの臨床的貢献の過小評価につながりかねない。
精神医学の理論が政治的暴力の道具となりうること、そしてその危険性を絶えず自覚することは不可欠である。しかしその教訓は、理論の論理的内部から何が帰結するかという問いと、特定の歴史的条件のもとで理論がいかに動員されたかという問いを、分析的に区別することによってこそ正確に引き出される。クレペリンへの批判は——ポステルが示したように——理論の認識論的前提と社会的含意への問いかけとして行われるべきであり、歴史的に偶発的な帰結の責任をすべてその理論に帰属させることとは区別されなければならない。
第六章 二つの伝統の対照と交錯
6-1 方法論の違い
ピネルからクレペリンに至る精神医学史を振り返ると、フランスとドイツの精神医学は方法論的に明確な対照をなしている。フランスの伝統は、個々の患者の臨床像を文学的とも言えるほどの精緻さで記述することに長けており、シャルコーのサルペトリエール病院での「レッスン」はこの伝統の頂点であった。しかしこの記述的方法は共時的(synchronique)な傾向があり、疾患の時間的展開にはあまり注意を払わなかった。
ドイツの伝統は、グリージンガー以来、疾患の経過と転帰を重視し、通時的(diachronique)な方法論を発展させた。カールバウムの「臨床的疾病単位」の概念とクレペリンの長期追跡法はその結実であった。ポステルが指摘したように、この方法論は体系的知識の構築において圧倒的な力を発揮した反面、疾病をその終末状態から定義するという操作が、患者の未来を予め閉鎖する構造を生み出した。
6-2 制度の違い
方法論の違いは、制度の違いと切り離せなかった。そしてエングストロームが詳述したように、ドイツの制度的優位はグリージンガーの時代から数十年にわたる摩擦と主導権争いの末に形成されたものであり、自然に生まれた優越性ではなかった。フランスの精神医学は基本的に精神病院(asile)の制度のなかで展開され、大学との連携は限定的であった。パリ大学に精神医学の正教授ポストが設置されたのは1879年のことであり、これはドイツの多くの大学よりも遅かった。ドイツでは大学精神科クリニックが精神医学の制度的中心となり、大学クリニックは帝政ドイツの官僚制的行政機構のなかに位置づけられ、その発展はアルトホーフらの文部行政と不可分であった。[1]
6-3 国力と学術
精神医学の歴史を国力の反映として読み解くことには注意が必要である。学問の発展は政治経済的条件に完全には還元されない。しかし、クレペリンの教科書が達成した体系的包括性が、帝政ドイツという特定の歴史的条件のもとで初めて可能になったことは疑いない。そして第五章で見たように、クレペリン自身がその国家主義的イデオロギーに深くコミットしていたという事実は、精神医学と国家権力の関係について重い問いを投げかける。エングストロームの著作を精読すれば、個々の学術的業績の背後に、大学行政、国家財政、社会的要請、そして精神科医という専門職集団の利害と戦略が複雑に絡み合っていることが読み取れる。[1]
結語——クレペリン以後を展望して
本稿が辿ってきたピネルからクレペリンに至る歴史的展開を振り返るとき、その中心に一つの方法論的事件があったことが見えてくる。フランス精神医学が抱えていた構造的矛盾——ピネル=エスキロールが宣言した治癒可能性の理念と、施設の現実が示した不治性との間の落差——は、ドイツの大学クリニック体制において「経過と終末状態による疾病分類」という方法論的選択によって解決された。クレペリンの教科書が達成した壮大な体系性は、この方法論的解決の結晶であった。しかしポステルが鋭く指摘したように、この解決は代償を伴っていた。先人たちが空間において完成させた閉鎖——精神病者を社会から隔離するという囲い込み——を、クレペリンは時間的次元において完成させた。空間的閉鎖は時間的閉鎖によって強化されたのである。本稿が読み解こうとしたのは、この置き換えの意味である。
そして本稿が政治経済的文脈の織り込みによって示そうとしたのは、この方法論的選択がドイツ精神医学の制度的覇権として確立できたのは、必ずしも方法論そのものの内在的優位によってではなかった、ということである。普仏戦争の戦果と50億フランの賠償金がドイツ大学制度の急速な拡充を物質的に支えたという偶発的・政治経済的条件が、方法論の制度的勝利の背景にあった。フランスの「停滞」もドイツの「飛躍」も、純粋な学術的優劣の結果ではなく、政治史と知識史の交差点で起きた事件として理解されるべきである。エングストロームの制度史、ホックマンの通史、ポステルの批判的視座を並べて読むことが意義を持つのは、まさにこの交差点を立体的に照らし出すためである。
クレペリンの疾病分類体系は、20世紀の精神医学に計り知れない影響を及ぼした。早発性痴呆と躁うつ病の二分法は、1911年にオイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler, 1857–1939)が早発性痴呆を「統合失調症(Schizophrenie)」と改名した後も、精神医学的思考の基本的枠組みであり続けた。DSMやICDの現代的疾病分類は、多くの修正を経ながらも、クレペリン的パラダイムの延長線上にある。
しかし皮肉なことに、クレペリンの体系を生み出した帝政ドイツは、第一次世界大戦によって崩壊した。ヴェルサイユ条約が課した1320億金マルクの賠償金はドイツ経済を疲弊させ、ワイマール共和国期の政治的不安定とナチスの台頭を招いた複合的な要因の一つとなった。戦間期のドイツ精神医学は最終的にナチズムの暴力にさらされ、クレペリンの弟子リューディンが起草した遺伝病子孫防止法のもとで精神障害者の強制断種が行われ、やがてT4作戦による組織的殺害へと至った。
繰り返すが、これらの帰結をクレペリンの理論から直線的に導くことは歴史的に不正確である。敗戦・賠償・超インフレ・世界恐慌・政治的過激化というドイツ固有の歴史的連鎖が、次世代の精神科医をナチズムへの動員に開かれた状況に追い込んだ。クレペリン理論の優生学的親和性は否定しえないが、それが障害者虐殺という具体的暴力として現実化したのは、この偶発的かつ悲劇的な歴史的文脈においてであった。クレペリンへの批判は、この文脈を明示した上で行われるべきであり、そうすることによってこそ批判は理論史的にも政治史的にも正確なものとなる。
フランス精神医学は第二次大戦後にセクター制(psychiatrie de secteur)と施設解放(désinstitutionnalisation)の運動を展開し、別の形で精神医学の刷新を試みた。注目すべきは、この戦後フランス精神医学の刷新運動が、エスキロール以来の「治療装置としての病院」という構想を根本から問い直す方向で展開されたことである。閉鎖空間への収容という「空間的閉鎖」の批判は、ポステルが指摘したクレペリンの「時間的閉鎖」批判とともに、現代精神医学が向き合い続けている問いである。[2]
ピネルからクレペリンに至る歴史が教えてくれるのは、精神医学が決して真空のなかで発展するものではないということである。それは常に、国家の制度、社会の要請、政治経済的条件のなかで形作られる。ポステルが示したように、その方法論的選択——症状による診断か経過による診断か——は、治療的楽観主義か悲観主義か、社会への問責か個人への帰責か、という価値的・社会的な立場の選択と切り離せない。
エングストロームとホックマンの著作を並べて読み、そこにポステルの批判的視座を加えることの意義は、まさにこの点にある。二つの国の精神医学史を交差させ、さらにフランスの知識社会学的批判を重ね合わせることによって初めて、各国の歴史のなかに潜む偶然性と必然性が浮かび上がるのである。