序論——二つの常套句を座標系に置き換えるために
「神功皇后の託宣はシャーマニズムである」。「卑弥呼の鬼道はシャーマニズムである」。——古代日本の宗教史をめぐって繰り返されてきたこの二つの命題は、いずれも偽ではない。しかし、そのままではほとんど何も言っていない。シャーマニズムという語は、現代の日常的言語においては「呪術」「魔術」あるいは「オカルト」と混同されがちであり、学術的な用法においてさえ、精霊との関わり一般を漠然と束ねる、外延の定まらぬ語として流通してきたからである。この語が厳密な座標系として整備されてはじめて、右の二つの命題は内容を持ち、そして——本稿が示すように——同じ「シャーマニズム」の名のもとで、二人の巫女王が座標系の上のまったく異なる点を占めていることが明らかになる。
この二つの常套句は、たんに並んでいるのではない。『日本書紀』神功紀は三十九年・四十年・四十三年の各条に分注として『魏志』を引き、神功の紀年を魏への遣使記事に重ねている。すなわち二つの命題は、八世紀の編纂の現場で、すでに一度合流している——編纂者たち自身が、神功を(少なくとも年代の上で)卑弥呼に見立てていたのである。ところが本稿の分析が示すとおり、年代の上で卑弥呼に見立てられたはずの神功皇后は、類型の上では卑弥呼と正反対の点を占める。見立てと造形とのこの乖離は、編纂者の失敗なのか、それとも読み解かれるべき意図なのか。座標系の整備は、二つの常套句に内容を与えるためだけでなく、この問いを漠然とした違和感から判定可能な命題へ変換するためにも要る(5-1 節、6-5 節、結論)。
本稿は、拙稿「応神王権の成立と渡来人」(第Ⅱ部 III)の補論として、神功皇后の託宣場面を理解するためのシャーマニズム解説として書かれた。その後、「卑弥呼の統治装置」(覚え書きXII)の執筆に伴い[24]、卑弥呼の鬼道という第二の事例が視野に入り、理論の側にも I・M・ルイスの憑依類型論という第三の柱が要請されることになった。これを承けて本稿は、特定の論考の補論から、二つの事例研究を担う独立の理論篇へと組み替えられている。章の順序は、解説としての読みやすさを考慮し、キャンベルの広い見取り図からエリアーデの厳密な定義へと降りてゆく順に取っている。
構成は次のとおりである。第一章と第二章で、キャンベルの生業類型とエリアーデの脱魂/憑依の軸という二つの古典的装置を整理する。まず宗教史の広い見取り図——狩猟民族型と農耕民族型——を得たのち、その狩猟民族型の中心に立つシャーマンとは厳密には何かを、エリアーデに即して定義するという順序である。第三章で、脱魂型の理念型としての方法論的性格を明確にし、キャンベルの類型が水準を異にする複数の変数を束ねたものであることを示して分解し、ルイスの中心的憑依/周辺的憑依の軸を導入して、座標系——職能の水準の二軸(技法・権威の座)がなす平面——を完成させる。第四章で古代日本の宗教的基層を確認したのち、第五章と第六章で、神功皇后と卑弥呼という双対の事例研究を行う。6-3 節では、定位された点の内部構造を測る第二の座標系として、三つの直交軸(権威の様式・儀礼の様式・社会的機能)を導入する。第七章では、この座標系が日本宗教史の後代の変容——巫女制度・住吉信仰・神楽・八幡信仰・修験道——をも一貫して記述しうることを示す。全体を貫くのは、状態像(個人に生起する体験の質)と職能(社会が設計した制度的な座)とを混同しないという、ヤスパースに由来する方法的態度である。
第一章 キャンベルの比較神話学的視座——狩猟民族と農耕民族の宗教形態
1-1 『神の仮面』の構想と方法
ジョーゼフ・キャンベル(1904—1987)は、比較神話学の大著『神の仮面』(The Masks of God)全四巻(1959—1968)において、人類の神話と儀礼を生態学的・文化圏的な枠組みのなかで体系的に論じた[2]。第一巻「原始的神話」(Primitive Mythology)は、狩猟民族・農耕民族・遊牧民族それぞれの宗教形態を比較し、その根本的な差異を明らかにしたものであり、第六章「シャーマニズム」はこの比較のなかでシャーマニズムの位置づけを論じた中心的な章である。
キャンベルの方法論的特徴は、神話と儀礼を単なるテキストとしてではなく、それを生み出した社会の生態学的基盤——すなわち生業形態——との関連において理解しようとする点にある。この視座は、古代日本における宗教的変容を分析する上で、きわめて有効な枠組みを提供する。なお本章では「シャーマン」の語を、差し当たりキャンベル自身の用法に従い、個人的な霊的体験に基づく宗教的職能者という緩やかな意味で用いる。この語の厳密な定義は、次章でエリアーデに即して与える。
1-2 二つの宗教類型——シャーマンとプリースト
キャンベルが提示した最も重要な対比は、狩猟民族(および遊牧民族)のシャーマン的宗教と、農耕民族のプリースト的宗教の対比である[2]。
狩猟・遊牧民族の宗教では、シャーマン(shaman)が中心的役割を果たす。シャーマンは個人的な霊的体験——脱魂、憑依、トランス——を通じて超自然的存在と直接交流する。その権威は制度ではなく個人的なカリスマに基づいており、シャーマンの能力は個人に帰属する。獲物の動物霊との交渉、天候の操作、病の治療、死者の魂の案内など、狩猟社会に固有の宗教的ニーズに応える存在である。
これに対し農耕民族の宗教では、祭司(priest)が中心となる。祭司は定められた儀礼を、定められた場所で、定められた手順に従って執行する。その権威は個人的カリスマではなく、制度的地位と伝承された祭祀知識に基づく。種蒔きと収穫の季節的循環、大地の豊穣、共同体の秩序維持など、農耕社会に固有の宗教的ニーズに応える存在である。祭司制度は神殿・聖域という固定的な聖なる空間と結びつき、暦に基づく定期的祭祀を特徴とする。
重要なのは、この二つの類型が相互に排他的ではないということである。実際の社会では両者が混在し、影響し合う。しかし、どちらが優位であるかによって、その社会の宗教的性格は大きく異なる。キャンベルはこの対比を「個人的霊的経験の宗教」対「制度的祭祀の宗教」として整理し、前者がシベリア・北方ユーラシア・北米先住民の文化圏に、後者がメソポタミア・エジプト・中国の初期農耕文明圏に、それぞれ典型的に認められることを示した。
1-3 動物の主と大地母神
キャンベルが強調したもう一つの重要な対比は、神話的象徴体系の違いである。狩猟民族の中心に立つ聖なる存在は「動物の主」(Master of Animals、獣の主)であった。これは単なる比喩や抽象的な原理ではなく、狩猟民が現実に信仰した一個の宗教的存在——狩りの対象となる動物たちを所有し、その生命を統べる超自然的な守護者——である。狩猟民の観念では、獲物の動物は本来この「主」のものであり、人間が獲物を得られるのは、「主」がそれを人間に「貸し与える」かぎりにおいてである。狩人が獲物に敬意を払い、定められた作法——獲物を無駄にしない、骨を粗末にせず大地や水に返す等——を守るあいだは、「主」は獣を狩人のもとへ送り出す。逆にこれを怠れば、「主」は獣を引きあげてしまい、狩りは凶と化し、飢えが共同体を襲う。シャーマンとは、この「動物の主」と直接交渉し、獣の解き放ちを願い、損なわれた関係を修復することによって、狩猟の成功を共同体に保証する仲介者なのである[2]。
同じ観念は、家畜を飼う遊牧民にも形を変えて受け継がれてゆく。放牧される群れの繁殖と健康もまた、究極的には動物の生命を司るこの聖なる力に委ねられており、シャーマンは群れの豊穣と疫病からの守護をその力に祈願した。狩猟における「獣の主」が、牧畜における「群れの守り手」へと連続的に変容していくのである。
農耕民族の中心的な聖なる存在は大地母神(Great Mother)であり、播種・発芽・成長・収穫・死・再生という農耕の季節的循環が、死と再生の神話として表象される。農耕祭祀の中心は大地の豊穣を確保することであり、祭司はこの循環的秩序の管理者として機能する。
古代日本の文脈でこの枠組みを適用すれば、大和の三輪山祭祀や天照大神の太陽祭祀は農耕民族型の祭祀体系に属し、定められた聖域での定型的祭祀を特徴とする。これに対し神功皇后の託宣場面は、個人的な霊的体験を通じた超自然的存在との直接交流という点で、狩猟民族型のシャーマニズムの特徴を明確に示している。
1-4 シャーマニズムの普遍性と歴史的変容
キャンベルは、シャーマニズムが人類の宗教史における最も古い層に属するものであり、農耕革命以前の人類にとって普遍的な宗教形態であった可能性を論じた。旧石器時代の洞窟壁画——特にフランスのラスコー洞窟やレ・トロワ・フレール洞窟の半人半獣の像——はシャーマニズム的な変身・トランスの表現と解釈しうるものであり、少なくとも二万年以上の歴史的深度を持つ可能性がある[2]。
しかし農耕社会の発達に伴い、シャーマニズムは次第に祭司制度に取って代わられるか、あるいは祭司制度のなかに吸収・周辺化される傾向にある。この過程は一方向的ではなく、遊牧民の移動や文化接触によって、農耕社会に再びシャーマニズム的要素が導入されることもある。朝鮮半島を経由した北方系シャーマニズムの古代日本への流入は、まさにこの「再導入」の一例として理解することができるのである。
ただし、あらかじめ一点を予告しておく。この狩猟民族型/農耕民族型という区分は、以下の分析にとって不可欠の足場でありながら、そのままでは本稿第六章の事例——卑弥呼の鬼道——の前で行き詰まる。この区分が、実は複数の独立した変数を一つに束ねたものであることを、3-2 節で明らかにする。
第二章 シャーマニズムの定義と本質
2-1 エリアーデによる厳密な定義
ミルチャ・エリアーデ(1907—1986)は、その主著『シャーマニズム——古代的エクスタシーの技法』(Le Chamanisme et les techniques archaïques de l’extase, 1951年)において、シャーマニズム研究に決定的な方法論的基盤を与えた[1]。エリアーデ以前、シャーマニズムは「北方民族の迷信」「精神疾患の一種」として軽視されるか、あるいはあらゆる呪術的実践を包含する曖昧な概念として使用されるかのいずれかであった。エリアーデの功績は、この現象に対して厳格な定義を与え、宗教史の全体像のなかにこれを位置づけたことにある。
エリアーデの定義は明確である。シャーマニズムとは「エクスタシーの技法」(technique de l’extase)である。ここでいうエクスタシーとは、日常的な意味での恍惚感ではなく、語源的な意味での「脱魂」(ek-stasis、自己の外に出ること)——すなわち、シャーマンの魂が肉体を離れて天界あるいは地下界へと旅する能力を指す。あらゆる社会に呪医(medicine man)や魔術師(sorcerer)が存在するが、シャーマンをこれらの存在から区別するのは、まさにこの脱魂的トランスの技法である。多くの魔術師は精霊を操るが、シャーマンは自らの魂が肉体を離れる点において独自である。
Une première définition de ce phénomène complexe, et peut-être la moins hasardeuse, sera : chamanisme = technique de l’extase.
〔この複雑な現象についての最初の定義、そしておそらく最も危険の少ない定義は、こうであろう——シャーマニズム=エクスタシーの技法。(Payot 版 p.22)〕
エリアーデはさらに、シャーマンの諸能力を整理して示した。シャーマンは「火の支配者」であり(火渡りや熱した鉄への接触に耐える能力)、「魔術的飛行の達人」であり(魂の天界への上昇)、そして精霊の道具となることなく精霊と交流し、魂を「視る」ことができる唯一の存在である。重要なのは、シャーマンだけが宗教的権能を持つわけではないということである。狩猟・遊牧民の社会にも供犠を行う祭司は存在する。しかし、シャーマンだけが「エクスタシーの達人」なのである。
ここで、後の議論のためにあらかじめ重要な区別を示しておきたい。シャーマンが超自然的存在と交流する形態には、大別して「脱魂型」と「憑依型」の二つがある。脱魂型(エクスタシー型)とは、ここまで述べてきたエリアーデの厳密な定義そのもの、すなわちシャーマンの魂が肉体を離れ、天界や地下界へと自ら飛翔していく形態である。これに対して憑依型(ポゼッション型)とは、方向が逆で、神霊や精霊の側がシャーマンの身体に降り、これに憑(つ)いて、その口を借りて言葉を語る形態を指す。脱魂型では魂が外へ出てゆき、憑依型では霊が内へ入ってくる——両者は正反対の運動なのである。
エリアーデ自身は、本来のシャーマニズムをこの脱魂型に求めた。彼によれば、シャーマンを単なる「憑依された者」から分かつのは、霊に身を明け渡して受動的にその器となるのではなく、自らの意志で霊界に分け入り、霊を御する能動性にある[1]。もっとも、現実の諸文化においては両者はしばしば混在しており、純粋な脱魂型はむしろ稀である。この脱魂型を実在の記述としてではなく一個の理念型として捉えるべきこと、そしてこの脱魂/憑依の区別が本稿の座標系の第一の軸をなすことについては、3-1 節で改めて論じる。
2-2 シャーマニズムの地理的分布と「古典的」形態
「シャーマン」という語自体がツングース語の šaman に由来することが示すように、シャーマニズムの「古典的」形態が最も完全に保存されているのは北方・中央アジアの諸民族——シベリアのツングース(エヴェンキ)系民族、ヤクート族、サモエード族、ブリヤート族など——の間においてである[1]。しかしエリアーデが強調したように、シャーマニズム的現象は北方アジアに限定されるものではなく、北米先住民、オセアニア、東南アジア、さらにはインド・ヨーロッパ語族の古層にまで広く認められる。
この地理的分布の広さは、シャーマニズムが人類の宗教的経験の最も古い層に属することを示唆している。ただし、すべての地域で同一の形態を示すわけではない。北方・中央アジアではシャーマニズムが宗教生活の中心を占めるのに対し、他の地域では農耕社会の祭祀体系や高度宗教と混交し、あるいはそのなかに吸収される形をとることが多い。朝鮮半島の巫俗(ムーソク)や日本の巫女の伝統は、この混交の東アジアにおける具体的な現れである。
2-3 シャーマンの召命——世襲と「神の選挙」
シャーマンになる経路は大別して二つある。第一は世襲、すなわちシャーマンの家系に生まれ、父から子へと職能が受け継がれる経路である。しかし、単なる血統的継承だけでは不十分であり、候補者には固有の霊的資質が求められる。第二は「自発的召命」あるいは「神の選挙」と呼ばれる経路であり、精霊や祖霊によって強制的に選ばれるものである。多くの場合、候補者本人はこの召命に抵抗するが、逃れることはできない[1]。
召命の過程は、しばしば深刻な心身の危機として現れる。候補者は神経質な振る舞いを見せ、孤独を好み、過度の睡眠や予言的な夢を経験する。初期の民族学者たちはこの現象を「北極ヒステリー」(arctic hysteria)と呼び、極北の過酷な環境が引き起こす精神疾患と見なした。しかしエリアーデは、シャーマンが単なる精神病者であるという解釈を明確に否定した。真の精神病者はトランス状態を制御できないが、シャーマンは自らの意志でトランスに入り、俗人には不可能な集中力と強度でその過程を制御するのである。シャーマンは「病人」ではなく、「自らを治癒した病人」なのだとエリアーデは述べている。
Mais le magicien primitif, le medicine-man ou le chaman, n’est pas seulement un malade : il est, avant tout, un malade qui a réussi à se guérir, qui s’est guéri lui-même.
〔しかし原始の呪術師、メディシン・マンあるいはシャーマンは、単なる病人ではない。彼は何よりもまず、癒えることに成功した病人、自らを治癒した病人なのである。(Payot 版 p.38)〕
エリアーデのこの洞察は、その後、精神医学の側からも再評価されている。精神科医ロジャー・ウォルシュは、シャーマンの召命にしばしば伴うこの危機を「召命危機(initiation crisis)」と呼び、これを重篤な精神病理の徴候ではなく、一個の文化特異的な発達的危機(culture-specific developmental crisis)として捉え直すことを提案した[21]。ウォルシュによれば、シャーマンはしばしば「精神を病んだ者」「あからさまな精神病者」、あるいはてんかん・ヒステリー・統合失調症と診断されてきたが、こうした体験は、注意深く比較すれば、伝統的な精神疾患の範疇とは現象学的に区別される。召命危機は、たしかに心理的苦悶の時期として始まるが、理想的には、高度に機能する治療者・指導者の誕生をもって終わる過程なのである。エリアーデが「シャーマンは病人ではなく、自らを治癒した病人である」と述べたこと、またアッカークネヒトが「シャーマニズムは病ではなく、病から癒えることである」と述べたことは、この発達的解釈と軌を一にする。ウォルシュはさらに、精神科医メニンガーの「一部の患者は病を経て、かえって以前より健康になる」という臨床的観察を引いて、危機を通じた成長というこの逆説が、現代の臨床知のうちにも見いだされることを指摘している。
この召命危機の捉え方は、精神病理学の方法論に照らしてより精密に定式化することができる。ヤスパースは『精神病理学総論』において、心的なものを把握する二つの様式——人格や状況の連関から内側へとたどる「了解(Verstehen)」と、因果的な過程として外側から捉える「説明(Erklären)」——を峻別した[22]。この区別を用いれば、シャーマンの召命危機を「北極ヒステリー」のごとき疾患過程(Prozess)として説明し去ってしまうのではなく、当該文化の宇宙論と職能体系の連関のうちに置かれた、了解可能な発達的転機として捉えるという道が開ける。同じ心的現象が、一方の文化では強制入院と投薬を要する病態と見なされ、他方の文化では聖なる職能への召命と解されるという事実は、現象それ自体の説明的記述だけでは捉えきれず、それぞれの文化的連関のうちで了解されてはじめて把握される〔注二〕。本稿の関心からすれば、重要なのはこの方法論的態度——状態像を疾患として説明する水準と、職能と意味の連関において了解する水準とを混同しないこと——であって、ウォルシュがその議論の後半で展開するトランスパーソナル心理学的な枠組み(グロフのホロトロピック療法やLSDセッション、近年のスピリチュアル・エマージェンシー論など)にまで本稿が同調するものではない。シャーマンの召命を病理に還元しない発達的視座と、状態像と職能とを区別するヤスパース的な方法的慎重さ——本稿がウォルシュから受け取るのは、この限度においてである。
この論争そのものの布置は、精神医学の側から一度、当事者の手で地図化されている。アンリ・エーは、遺著『医学の誕生』のシャーマン論において、病理説の側にクリヴォシャピン(1861)、ウィルケンス(1887)、ボゴラズ(1910)、チャプリツカ(1914)、オールマルクス(1939——北極圏の寒冷の病理的帰結としての「北極ヒステリー」)、クローバー(1952)、リントン(1956)、ラ・バール(1967)、ドゥヴルー(1970)を、反対の側にオプラー(1936)、アッカークネヒト(1941)、ブーテイエ(1950)、エリアーデ(1951)、ホフマン(1968)を置いた[38]。1860年代から1970年に及ぶこの対立の一覧は、本節がウォルシュを介して引いたエリアーデとアッカークネヒトの警句の、出所の見取り図でもある。
注目すべきは、エーがこの論争を裁く仕方である。彼はまず経験的な反論——多くのシャーマンは恍惚の外では正常にふるまうという、観察者たちの報告——を確認したうえで、それとは別に、より強い論証を立てる。「定義上、彼は病者ではない。まったく逆である。なぜなら彼は、規範的な制度によって統べられた一個の文化集団の成員であり、しかもその規範性に適合しているからである」。これは統計的な議論でも臨床的な議論でもなく、規範性についての議論である。そしてこの論証には、切れ味の鋭い裏面がある。呪術師も治療者もシャーマンも、彼らが「癒す」ところの患者たちに同化されることなしには、「病者」とみなされえない、とエーは言う。この価値体系においては、集団のすべての成員が等しく同じ道徳的身分、すなわち病気ではなく悪と邪術の身分に服しているからである。病者と健常者とを分かつ切断線が引けるようになるのは、自然的疾患という概念が成立してからにほかならない。この論証が、注二に引く国際診断基準の文化的例外条項と同じ構造を持つことについては、同注に述べる[40]。
2-4 イニシエーション——死と再生の儀礼
シャーマンのイニシエーション(通過儀礼)は、死と再生という普遍的な宗教的主題の最も原初的な表現の一つである。候補者は俗なる状態において一度「死ぬ」ことが要求される。それは、聖なる技術者として再生するための不可欠なプロセスである[1]。
イニシエーションの夢やヴィジョンには、三つのテーマが世界各地で共通して現れる。第一は肉体の解体(四肢の切断、骨からの肉の剥離)、第二は天上への上昇、第三は地下世界への下降である。ヤクート族の神話では、鉄の嘴と鉤爪を持つ巨大な鳥(「猛禽の母」)が候補者の魂を冥界へと運び去り、その肉体を細かく切り刻んで病気の精霊たちに分配する。魂は樅の木の枝にある巣で卵のように温められ成熟を待つ。この過程を経て、候補者は「鉄の骨」を持つ新しい存在として再構築され、各精霊が引き起こす特定の病気を治癒する権能を授かるのである。
この解体と再構築の神話は、単なる空想ではなく、シャーマンの治癒能力の論理的基盤を提供している。自らの肉体が解体される苦痛を経験したからこそ、病のメカニズムを熟知し、他者の肉体的・霊的な病を癒すことができるという論理である。ここに「傷ついた治癒者」(wounded healer)という原型的主題が見出される。
2-5 宇宙論と三界構造
シャーマニズムは固有の宇宙論を前提としている。宇宙は「天界」「地上」「地下界」の三つの領域(ゾーン)から構成されており、これらの領域は中心軸——しばしば「宇宙樹」(axis mundi)として表象される——によって繋がれている。シャーマンだけが、意識を保ったままこれらの領域を自在に行き来することができる[1]。
Il existe trois grandes régions cosmiques, qu’on peut traverser successivement parce qu’elles sont reliées par un axe central. Cet axe passe, bien entendu, par une « ouverture », par un « trou » ; c’est par ce trou que les dieux descendent sur la terre et les morts dans les régions souterraines ; c’est également par là que l’âme du chaman en extase peut s’envoler ou descendre lors de ses voyages célestes ou infernaux.
〔三つの大いなる宇宙的領域が存在し、それらは中心の軸によって結ばれているがゆえに、順次通過することができる。この軸はむろん一つの「開口」、一つの「孔」を通っている。神々が地上へ降りるのも、死者が地下の領域へ降りるのも、この孔を通ってである。エクスタシーにあるシャーマンの魂が、天界あるいは地下界への旅の途上で飛び立ち、また降りてゆくのも、この孔を通ってなのである。(Payot 版 p.211)〕
あるサモエード族のシャーマンが語った体験では、彼はまず七日間にわたって昏睡状態に陥った。外から見れば意識を失い、死に瀕したかにも見えるこの間に——本人の語るところでは——その魂は世界の中心へと旅し、天と地をつなぐ「宇宙樹」(白樺)に遭遇していたという。樹の主はシャーマンに「私の枝が落ちたところだ。それを拾い、太鼓を作れ」と告げる。シャーマンの太鼓は宇宙樹の木片から作られるがゆえに、太鼓を叩くとき、シャーマンは魔法的に宇宙樹のもとへ運ばれ、そこから天へと上昇することができるのである。太鼓はまた多くの文化において「シャーマンの馬」と呼ばれ、霊的旅行の乗り物として機能する。
この宇宙論が重要なのは、シャーマンの社会的機能を規定するからである。シャーマンは天界・地上・地下界を結ぶ「仲介者」として、三つの重要な役割を担う。第一に魂の導き手(psychopomp)として死者の魂を地下の「影の国」へ導く役割、第二に治療者として迷い出た、あるいは盗まれた魂を捜索し肉体に戻す役割、第三に共同体の防衛者として闇・病・死との戦いにおいて精神的な健全さを守る役割である。
これらの役割は、抽象的・霊的な職能にとどまるものではなく、狩猟・遊牧民の共同体の存続そのものに直結する、きわめて実際的な機能であった。エリアーデが描くシャーマンは、病者の治療や死者の魂の導きにとどまらず、共同体が日常の知恵や蓄積された経験の限界を超える危機に直面したとき——すなわち、通常の手立てがことごとく尽きたとき——に呼び出される最後の拠り所であった。獲物の群れが姿を消したとき、霊的な飛翔によってその所在を探り当てること。天候の急変や長びく飢饉に際して、これを左右する精霊と交渉すること。そして遊牧・狩猟の民にとって死活問題である移動——どの方角へ、いつ移るべきか、家畜の群れをどこへ導けば草と水にありつけるか——という、部族に伝わる経験則だけでは決しがたい選択に、霊界からの託宣によって指針を与えること。これらはいずれも、通常の生業の判断や首長の政治的決定の及ばぬ領域における、共同体の生存をかけた営みであった。シャーマンとは、まさにこの「経験の外」に踏み出さねばならない局面においてこそ召喚される存在だったのである。
とりわけ、獲物や家畜をめぐるこの機能は、1-3 節で見たキャンベルの「動物の主」の観念と深く結びついている[2]。狩猟の成否も、放牧される家畜の繁殖や疫病からの安全も、人間の努力だけで制御しきれるものではない。それゆえシャーマンは、動物の生命を司る超自然的な力との仲介者として、群れの回復と豊穣を確保する役割をも担ったのである。
第三章 座標系の完成——理念型の方法と権威の座
第一章と第二章で得た二つの装置——キャンベルの狩猟民族型/農耕民族型の類型と、エリアーデの脱魂/憑依の軸——は、それぞれ単独では、本稿がこれから扱う二つの事例を記述するのに十分ではない。本章では、まず脱魂型という概念の方法論的性格を明確にし(一)、次にキャンベルの類型が複数の独立変数を束ねたものであることを示し(二)、最後にI・M・ルイスの憑依類型論を第三の柱として導入することで(三)、以下の事例研究が依拠する座標系を完成させる。
3-1 理念型としての脱魂型——エリアーデ批判とその方法論的擁護
エリアーデが本来のシャーマニズムの本質と見なした「脱魂型」——魂が肉体を離れ、自らの意志で天界へ上昇する能動的なエクスタシー——は、純粋な形で各地に普遍的に見出される実在の形態というよりも、むしろ一個の理念型(Idealtypus)として理解するのが適切である。エリアーデ以後のシベリア民族誌が示してきたように、現地の実践の少なからぬ部分はむしろ憑依型であり、精霊を支配するというより、これをなだめ宥めるものであった[16][17]。サハ(ヤクート)で長年の調査を重ねたバルザーが、「シャーマン」「祭司」「予言者」を截然と分かつ区分は現実をそのまま写すものではないと注意を促すのも、この意味においてである[18]。もっとも、エリアーデ自身がこの事実に無自覚だったわけではない。彼は憑依のきわめて古層的な性格を認めたうえで、なおそれを厳密な意味でのシャーマニズムから構造の水準で区別し、脱魂からの派生の可能性さえ構想していた[1]。
Il se peut que la « possession » soit un phénomène religieux extrêmement archaïque. Mais sa structure est différente de l’expérience extatique caractéristique du chamanisme stricto sensu. En outre, on peut concevoir comment la « possession » a pu se développer à partir d’une expérience extatique : pendant que l’âme (ou l’« âme principale ») du chaman voyageait dans les mondes supérieurs ou inférieurs, des « esprits » pouvaient prendre possession de son corps.
〔「憑依」はきわめて古層に属する宗教現象でありうる。しかしその構造は、厳密な意味でのシャーマニズムに特徴的なエクスタシー体験とは異なっている。さらに、「憑依」がエクスタシー体験からいかにして発展しえたかも構想しうる——シャーマンの魂(あるいは「主たる魂」)が上位あるいは下位の諸世界を旅しているあいだに、「精霊」たちが彼の身体を占領することがありえたのである。(Payot 版 p.394、原註)〕
しかし、純粋な脱魂型が現実には稀であるということは、エリアーデの構想の欠陥を意味しない。むしろ逆である。理念型とは、現実をそのまま模写した概念ではなく、ある現象の論理をその最も首尾一貫した極限において思考的に構成した思想像であって、その意義は現実との一致にではなく、現実がそこからどれだけ・どの方向へ隔たっているかを測ることで、かえって現実をより鋭く認識させる点にある〔注一〕。脱魂型が果たすのは、まさにこの「測る基準」としての機能である。エリアーデ以前、シャーマニズムは精霊との関わり一般——口寄せ・憑依・呪術——を漠然と束ねる、外延の定まらぬ語にすぎなかった。エリアーデが、その本質を「魂が能動的に肉体を離れ、制御を保ったまま天界を旅する」という一点に純化して定立したことで、はじめてこの現象を他から分かつ明確な指標が与えられたのである。そしてこの純粋型は、二つの決定的な変数を浮かび上がらせる。すなわち、霊的交流における〈運動の向き〉——魂が外へ出てゆくのか、霊が内へ入ってくるのか——と、〈能動性の所在〉——人間が霊を御する主体であるのか、霊に占められる器であるのか——という二つの軸である。
この二軸が与えられてはじめて、憑依型はその構造において明晰に把握される。憑依型とは、漠然と「霊を伴うトランス」なのではなく、脱魂型の二軸をともに反転させた形態——運動の向きにおいて外から内へ、能動性の所在において主体から器へと裏返った極——として、正確に定義されるのである。しかも、この照らし出しには方向がある。憑依という体験は、「何ものかに乗っ取られる」という点で日常的な了解に親しく、それゆえかえってその固有の構造が見えにくい。これに対して、魂が現実に身体を抜け出して飛翔するという脱魂型の異様な極限は、その親しい憑依型を背景から際立たせる。稀で奇異な極を立てることが、ありふれて見過ごされがちな極を可視化するのである。本稿が5-1 節で神功皇后の託宣を憑依型と判じうるのも、この対極が分析の座標としてあらかじめ与えられているからにほかならない。琴の調べに乗って住吉大神が皇后の身に降り、その口を借りて語るあの場面には、魂の飛翔も、天界の遍歴も、死者の国への導きもない。あるのはただ、外から到来する神と、それを受ける受動的な依代である——脱魂型という鏡に映してはじめて、それが何であり、何を欠いているかが判明する。そして現実のシャーマニズムの大半を占める両極の混在もまた、この座標軸の上にはじめて位置づけられ、測られうるものとなる。脱魂型という純粋型の提唱は、それが稀であるがゆえに無用なのではなく、むしろシャーマニズムという広大で多様な現象に一本の座標軸を据え、憑依型をもその上に明晰に位置づけた点において、高く評価されるべき概念的達成なのである。純粋な脱魂型が想像しがたいのは、それが現実のどこかに失われたからではなく、それが初めから——憑依型をも照らし出す光源として——構成された理念型の極だからなのである。
なお、理念型による概念構成というこの方法的選択そのものが、宗教学の側で明示的に擁護されていることを付言しておく。ファロは、「シャーマン」「シャーマニズム」の語が諸分野で相互に矛盾する仕方で濫用されてきた使用史を総括したうえで、これらの語を、エミック(土着)概念から峻別されたエティックな比較分析概念として、すなわちヴェーバーの理念型として意識的に構成すべきことを論じた[32]。ただしファロ自身の定義は、本稿の用法よりはるかに狭い。彼はユベール=モースのいう差異的特徴(caractéristiques différentielles)を一点に求め、「儀礼を通じて、随意に、反復的に、非人間的(超自然的)空間へ赴いて超自然的存在と直接交流し、共同体のために帰還する」という空間的基準のみをシャーマンの定義とし、憑依をこの定義から明示的に排除する——憑依や幻視による超自然者との交流は、あまりに多くの範疇の宗教的職能者に見られるため、識別の用をなさないというのがその理由である。この最厳格の定義に従うならば、住吉大神が降ってその口を借りて語る神功皇后の託宣は、そもそも「シャーマニズム」の圏外に置かれることになろう。本稿はこの排除の戦略を採らない。ファロが単一の識別基準によって概念の外延を裁断するのに対し、本稿は二軸の座標系の上に事例を定位する——定義による排除ではなく、座標による定位である。しかしこの相違は対立ではない。ファロの空間的基準は、本稿の第一軸の一方の極、すなわち脱魂型の極を、宗教学の定義論争の側から独立に裏書きするものにほかならず、憑依型がその対極として座標上に位置を持つことを妨げない。留保すべきはただ、本稿が「シャーマニズム」の語を座標系の総称として用いるとき、それはファロの厳密な用法よりも広い、と明記しておくことである〔注四〕。
同じ切れ目が、宗教学とはまったく別の系統からも引かれていたことを、ここで付け加えておく。ドイツ語圏の精神病理学と民族学は、1968年5月のホンブルク・シンポジウム——記録はユルク・ツットの編で『感捉と憑依』として刊行された——において、Ergriffenheit(感捉、捉われ)と Besessenheit(憑依状態)という対概念を鍛えていた[39]。アンリ・エーは遺著『医学の誕生』のシャーマン論で、シャーマンが恍惚(ravissement)に入る場面にこの語を当て、「ドイツ人はこれを Ergriffenheit と言い、この恩寵の状態を Besessenheit すなわち憑依状態に対置する」と註している[38]。
ただし、この対概念を本稿の第一軸そのものと同一視することはできない。Ergriffenheit/Besessenheit が分かつのは、恩寵に捉われる体験と、占められる体験という、体験の質——本稿の語彙でいえば状態像——の対である。これに対し本稿の第一軸は、職能の水準における技法の対であって、水準を異にする。本稿が全篇にわたって守る腑分けの原則(6-4 節)に従えば、両者は重ね合わせるべきものではない。それでもこの対概念が意味を持つのは、切れ目の位置が同じだからである。状態像の水準からも、技法の水準からも、独立に、同じ場所に境界が引かれていた——このことは、第一軸が特定の学派の思弁ではないことの、傍証にはなる。
そしてここには、方法的な教訓も含まれている。エー自身は、この語彙を註に記しながら、本文では分析の軸として用いなかった。彼の記述においてトランスは魂の移住・浮揚・上昇として描かれる一方、同じシャーマンの経験が「憑依と脱憑依」とも呼ばれ、二つの様式は一個の劇のうちに融合してしまう。区別の語彙を持つことと、それを軸として立てることとは別なのである[40]。
3-2 キャンベルの類型の分解——水準の分離と、卑弥呼という反例
エリアーデの二軸整理が技法を測る座標を与えたとすれば、なお解決を要する問題が一つ残る。本稿が第一章でキャンベルに負った狩猟民族型/農耕民族型という区分と、この技法の軸との関係である。この区分は、第四章で三輪山祭祀・太陽祭祀の農耕民族型としての性格を確認し、第五章で神功皇后の託宣をそれらから区別する際の、主要な足場となる。しかし、拙稿「卑弥呼の統治装置」(覚え書きXII)[24]が分析する卑弥呼の鬼道——農耕社会に内発しながら、脱魂型ではなく憑依型に属し、しかも宗女への継承を伴う制度化された座を占める宗教的権威——を視野に入れると、この区分の粗さが露わになる。キャンベルの図式に従えば、農耕民族型の宗教は「制度化・形式化された祭祀」であって、憑依というカリスマ的・個人的な様式とは原理的に結びつかないはずだからである。しかし卑弥呼の鬼道は、まさにこの「ありえない」座標を占める。
問題は、キャンベルの区分が複数の独立した変数を一つに束ねていることにある。しかもその束ね方には、変数の数という以上の性格がある——束ねられた変数は、記述の水準を異にしているのである。
四つに分けて示す。第一に技法の軸——脱魂型か憑依型か(エリアーデ)。第二に権威の座の軸——確立した座・血統・聖地に結びつき共同体の主流を担う中心的なものか、そうした座を持たず個別の機会に応じて発動される周辺的なものか(ルイス)。第三に生業様式——狩猟・遊牧か、農耕か(キャンベル)。第四に系統——北方大陸系の伝来に連なるか、列島在来の祭祀体系に属するか。
このうち前二者は職能の水準の変数である。すなわち、宗教的職能者の座がどのような様式で編成されているかを問う。後二者は社会の水準の変数である。すなわち、その職能者を抱える社会がどのような生態学的基盤と系統的由来を持つかを問う。キャンベルの狩猟民族型/農耕民族型という二項対立は、この二つの水準を一つの類型名のもとに畳み込み、四者が常に相関すると暗黙に仮定した。狩猟民族=脱魂型・周辺的・狩猟・北方系、農耕民族=儀礼型・中心的・農耕・在来、という具合に。卑弥呼の鬼道が示す組み合わせ——農耕社会に立ち、在来の祭祀体系の圏内にありながら、憑依型であり、しかも中心的である——は、この仮定が論理的必然ではないことを、最も鮮明な形で示す反例なのである。
この診断は、もう一つの帰結を伴う。分解ののち、キャンベルの二類型は対称な一対ではないことが露わになるのである。狩猟民族型は、分解後の座標の上に値を持つ——技法において脱魂型、生業において狩猟遊牧、系統において北方系という一点である(権威の座の値については、狩猟の小集団における唯一の宗教的職能者を「周辺的」と呼びうるかというルイスの定義上の問題があり、判定を保留する)。しかし農耕民族型は、そうではない。その実質は祭司による規範的儀礼の執行——6-3 節の語彙で先取りして言えばリトゥルジカル的な様式——であって、脱魂か憑依かという技法の軸は、そもそもエクスタシスを前提とする職能者にしか適用できない。すなわち一方は座標上の一点であり、他方は技法の軸の外にある。キャンベルの区分を、エリアーデの技法の軸やルイスの権威の座の軸と同列の「第三の軸」として立てることができないのは、この非対称のためであり、これもまた、彼の二項対立が水準を異にするものを束ねていたことの症状にほかならない。彼の図式が見取り図として広く了解されてきたのは、それが四つの変数の歴史的な相関を——正しくもあれば粗くもある仕方で——一望のもとに圧縮していたからであって、本稿が第一章でこの図式から出発し、しかしこれを軸としては立てずに分解して扱うのは、この二重の性格に対応するためである。
理論が水準を畳み込んだために見えなくなるものがある——この診断の形式には、先行者がある。アンリ・エーは、デュルケーム『宗教生活の原初形態』が(「われわれの見るかぎり」と留保しつつ)「シャーマン」の語を一度も引かず、癒す力あるいは病の邪術に対応する人物・職能・儀礼を論じた一章も一段落も見いだしがたいことを指摘し、その沈黙をこう説明した——デュルケームの氏族は純粋にアニミズム的な組織として、すなわち魔術的な発散として構想されており、そこでは身体も生も死も病も「悪との闘いの偶発的な現れ」としてしか出現しえない。ゆえに治病職能という別の水準を立てる余地が、その内部にないのである[38]。エーはさらに、アルンタ族のインティチウマを司るトーテム集団の長アラトゥンジャこそシャーマンの職能を担う者であり、デュルケームの言う贖罪儀礼は治癒を得るための魔術的手続きをも含む、と読み直す。この読み直しの当否はオーストラリア民族誌の専門的判断に属するが、診断の形式——理論の盲点を、その理論が水準を畳み込んだことの帰結として説明する——は、本節がキャンベルに対して行っているものと同じである[40]。
したがって本稿が座標系と呼ぶものは、変数を数え上げて並べたものではない。水準を分離した結果として現れた空間である。そしてこの分離の原理は、本稿全体を貫くヤスパース由来の方法的態度——状態像(個人に生起する体験の質)と職能(社会が設計した制度的な座)とを混同しない——を、社会の側へ延長したものにほかならない。すなわち本稿は三つの水準を区別する。社会の水準(生業・系統)、職能の水準(技法・権威の座、およびその精密化としての6-3 節の三軸)、そして個人の水準(状態像)である。第三の水準は、6-4 節に述べる理由により、本稿の座標系においては測定の対象とされない。
第四の変数として系統を加えることについては、その資格を明示しておく。ある変数が分解に加わりうるのは、(一)キャンベルの類型が現にそれを束ねていること、(二)本稿の扱う事例のいずれかが、その変数において実際に分かれること、の二つを満たす場合に限る。系統はこの両方を満たす。キャンベルの狩猟民族型は、そもそもシベリア=北方の民族誌を主要な素材として構成されているからであり、そして本稿の二人の巫女王は、この変数において現に分かれるからである。神功皇后(息長帯比売命)の母は葛城之高額比売命であり、その系譜は新羅の王子・天之日矛に遡ると『古事記』自身が記す[3]。5-2 節に述べる朝鮮半島の巫俗との連関は、逸話としてではなく、この変数の値として扱われるべきものである。これに対し卑弥呼については、記紀のような系譜的伝承を欠くため判定は消極的な根拠によらざるをえないが、第四章に確認する三輪山祭祀・太陽祭祀という列島在来の祭祀体系の圏内に立つものとして扱う。
ただし、この変数が測っているものについては注意を要する。神功皇后が記紀編纂時の構築物である可能性——5-1 節に述べる史料論的留保——を容れるならば、天之日矛の系譜もまた編纂者が意図して与えたものだということになる。とすれば系統の変数が測るのは、実在の人物の血統ではなく、編纂者の設計である。なぜ王統を開く託宣が、北方系の血を引く巫女に、都から遠い前線の地で、しかも在位の大王の死を伴う形で受けさせられたのか——問いはこう立て直されるべきであり、その検討は拙稿「応神王権の成立と渡来人」に譲る。本稿が座標の上に置くのは、人物ではなく語りの様式である。
あわせて、生業の変数について一つの注意を明示しておく。狩猟民族型を好戦性と、農耕民族型を平和的秩序と結びつける通俗的な連想は、少なくとも日本列島の資料に関しては成り立たない。全国二四二遺跡から出土した二五八二点の縄文人骨を対象とする分析によれば、縄文時代の暴力による死亡率は一・八パーセントにとどまり、ヨーロッパ・アメリカ・アフリカの先史狩猟採集社会について報告されてきた十数パーセントという水準を大きく下回る[37]。環濠集落・武器形副葬品・受傷人骨が顕著に増加するのは弥生時代であり、倭国大乱はその延長線上にある。すなわち本稿の第一の事例である卑弥呼の共立そのものが、農耕社会の生んだ争乱への応答なのであって、武勇や軍事性を狩猟民族型の指標とすることはできない。生業の変数が測るのは生態学的基盤のみであり、気質も好戦性も、そこには含まれないのである。
3-3 ルイスの中心的憑依と周辺的憑依
ここで有効な補助線となるのが、I・M・ルイスが『エクスタシーの宗教』において提示した、中心的憑依(central possession)と周辺的憑依(peripheral possession)という区別である[23]。中心的憑依とは、確立した高位の霊——多くは道徳的秩序を体現する祖霊や神格——による、共同体の主流に組み込まれた憑依であり、既存の政治・宗教秩序を正統化する機能を果たす。周辺的憑依とは、周縁的な、しばしば道徳性を欠いた霊による、社会的に周縁の担い手を通じた憑依であり、確立した秩序への異議申し立て、あるいは通常は得がたい発言力や資源を得るための、個別的・戦略的な回路として機能する[23]。この区別の決定的な利点は、それが特定の生業様式に縛られていないことである。ルイスの素材は牧畜・農耕・混合経済の諸社会を横断しており、中心的憑依と周辺的憑依は、同一の生業様式のもとでも共存しうることが示されている。
この区別は抽象的な定式ではなく、ルイス自身の民族誌によって肉づけされている。周辺的憑依の教科書的事例は、ルイス自身の現地調査に基づく、ソマリ牧畜社会のサール(saar)憑依である。家父長制の強いイスラーム社会で、公的な発言力を持たない既婚女性が、道徳とは無縁の外来の霊に憑かれて病む。霊は女性の口を通じて夫に香水・衣装・馳走を要求し、治療は女性たちの憑依カルトへの入会という形をとって、以後も周期的に再発する。正面からは決して通らない要求を、憑依という回路を通じて斜めに通す——無力な者の戦略としての憑依の原型である。エチオピア・スーダンのザール(zar)、北ナイジェリアのハウサ社会のボリ(bori)も同型であり、いずれも支配的宗教(イスラーム/キリスト教)の周縁で、主として女性と周縁化された男性を担い手とする。対して中心的憑依の事例としてルイスが挙げるのは、ジンバブエのショナ(コレコレ)社会のムホンドロ(mhondoro)霊媒である。首長家の祖霊ムホンドロは、世襲の首長本人にではなく専門の霊媒に憑依し、霊媒は降雨・土地の道徳・首長位継承の正統性を裁定する、確立した制度の座を占める。注目すべきは、ここで権威の担い手が霊媒個人ではなく霊とその座であることで、霊媒が死ねば同じ霊が新たな霊媒に降りて座は存続する——個人の状態像に還元されない継承可能な職能という、本稿第六章で論じる壹与の共立と同型の構造が、アフリカの民族誌にも現れているのである。さらにルイスは、ハイチのヴードゥーを、国家の支配層から見れば周縁的でありながら、農民共同体の内部では憑依(ロアの降臨)が道徳的秩序を担う中心的様式である宗教として扱っており、中心/周辺が絶対的な位置ではなく、参照する共同体に相対的な座標であることを示している。倭国連合という参照枠の内部における卑弥呼の中心性、という本稿の定位も、この相対性の上に立つ[23]。
ここで、本稿がルイスから何を受け取り、何を受け取らないかを明記しておく。ルイスの周辺的憑依論には、位置の記述と動機の説明という二つの層が含まれている。前者は、担い手が社会的周縁にあり、霊が道徳秩序の外にあり、座が確立していないという構造的な位置の記述である。後者は、その憑依が抑圧された者による「斜めの戦略」——正面からは通らない要求を憑依という回路で通す——であるという機能主義的な動機の説明である。本稿が座標系の一軸として用いるのは前者のみであり、後者は採らない。
この留保には、日本を対象とした実証的な根拠がある。カーメン・ブラッカーは、悪しき憑依の患者が日本のどの地方でも女性——とりわけ二十五歳から三十五歳の若い主婦——に偏るという事実を確認したうえで、そこにソマリのサール憑依との類推を見ることを慎重に斥けた[20]。理由は二つである。第一に、日蓮宗寺院の祈祷も、個人で開業する行者の施術も、いずれも控えめで静かなものであり、患者が男性親族の前で人目を引く見世物を演じ、思いがけず注目の中心になるという満足を得ることはない。第二に、霊が要求する報酬——狐の好む油揚げ、快癒ののちに祀る小さな祠——は、ソマリの女性が手に入れるミシンや石鹸とは違い、女性自身には何の益ももたらさない。ブラッカーはかわりに、エステルライヒに拠りつつ、家族と社会の因習によって強く抑圧された心の自律的な部分が表層へ噴き出したものとしてこれを読み、小さな祠とそこでの日々の礼拝を、その部分を承認して秩序を回復するために必要とされる「気づかい」と解する。
この所見は、周辺的憑依という位置の記述を何ら損なわない。ブラッカーの患者たちは、社会的周縁の担い手であり、道徳秩序の外の霊(狐・亡霊)に憑かれ、確立した座を持たないという点で、まさにルイスのいう周辺的憑依の位置を占めている。損なわれるのは、その位置を剥奪への戦略的応答として説明するという一点にすぎない。本稿が5-3 節で神功皇后の託宣を周辺的憑依と定位するとき、それは彼女が抑圧を斜めに迂回したという主張ではなく、その権威が確立した座に定着していないという構造の記述にとどまる。位置の座標と動機の説明とを分けておくことは、本稿の類型論的運用にとって不可欠の予防線である。
この軸を導入することで、キャンベルの二項対立が実際に捉えていたものの実質を、より正確に言い当てることができる。キャンベルが「狩猟民族型」の名のもとに一括していた性格——個人のカリスマに基づく、可動的な、特定の場所に縛られない権威——の実質は、生業様式そのものではなく、ルイスの言う周辺的憑依という、権威の座の軸における一方の極にほかならない。周辺的憑依が可動的であるのは、それが特定の聖地・血統・確立した職能に結びついていないからであり、狩猟民族に固有の技法だからではない。同様に、キャンベルが「農耕民族型」の名のもとに一括していた性格——聖なる場所・血統・伝承の三位一体に基づく、定着的な権威——の実質は、中心的憑依という、同じ軸のもう一方の極である。中心的憑依が定着的であるのは、それが確立した座に結びついているからであり、農耕という生業がそれを直接に生み出すからではない。生業様式は、この権威の座の軸に対して独立の第三変数として、緩やかな相関を持つにとどまる。移動性の高い遊牧・狩猟社会は、社会単位そのものが可動的であるがゆえに周辺的・個人継承的な権威を生みやすく、定住農耕社会は、土地と血統に縛られた社会単位であるがゆえに中心的・制度継承的な権威を生みやすい。しかしこれは歴史的な傾向であって論理的な必然ではなく、卑弥呼の鬼道のように、農耕社会でありながら中心的憑依が確立する事例も、当然にありうる。
こうして座標系が完成した。その形を、ここで明確に述べておく。事例を定位する座標系そのものは、職能の水準の二つの軸——技法の軸(脱魂/憑依)と権威の座の軸(中心的/周辺的)——がなす平面であり、定位はこの二軸で完結する。社会の水準の二変数——生業と系統——は、軸としては立てない。前節までに見たとおり、それらは職能の水準の軸に対して緩やかな相関を持つ歴史的傾向にとどまり、論理的必然ではないから、定位された点に添える標記として扱えば足りるのである。したがって本稿で「軸」と呼ばれるものは、この二軸と、のちに6-3 節で職能の水準の内部を精密化する三つの直交軸のみであり、キャンベルの生業類型は——第一章の見取り図としての役割を保ちつつ——軸としては現れない。以下の各章で行うのは、この座標系の適用である。日本の宗教的基層(第四章)を確認したのち、神功皇后(第五章)と卑弥呼(第六章)とを、同じ座標系の上の異なる点として定位し、さらにこの座標系が日本宗教史の後代の変容(第七章)をも一貫して記述しうることを示す。
第四章 古代日本の宗教的基層——三輪山祭祀・蛇神・太陽信仰
4-1 三輪山の自然信仰と大物主神
神功皇后のシャーマニズムが日本の宗教体系に及ぼした影響を理解するためには、まずそれ以前の日本列島に存在した宗教的基層を確認しておく必要がある。その最も重要な要素の一つが三輪山祭祀である。
三輪山(奈良県桜井市)は、山そのものを神体とする信仰の代表的な聖地であり、本殿を持たず山を直接拝する形式は、日本の自然信仰の原初的な姿を伝えている。祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)は蛇の姿で現れるとされ、崇神天皇紀の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の説話では、夜ごと通ってくる夫の正体が蛇であったと語られる[3][4]。
この蛇神信仰は、農耕社会に広く見られる大地の豊穣と水の神格化の一形態である。蛇は脱皮によって「再生」する生物として死と再生の象徴であり、また水辺に棲む習性から水神・雨神としての性格を持つ。大物主神が疫病を引き起こし、適切な祭祀によってこれを鎮めるという崇神天皇紀の記述[4]は、大地の神が秩序の維持者であると同時に、祭祀の怠慢や不適切さに対する懲罰者でもあるという農耕社会の宗教的論理を示している。
重要なのは、三輪山祭祀が典型的な「場所に結びついた祭祀」であることである。三輪山という特定の聖なる山、その麓の大神神社(おおみわじんじゃ)という特定の聖域、そこで定められた手順に従って行われる祭祀——これはキャンベルの類型論における農耕民族型の祭司的宗教に正確に対応する。百襲姫命は大物主神の妻として神意を伝える巫女的存在であったが、それは三輪山という聖域に根差した、制度的な託宣の仕組みであった。なお、百襲姫命の系譜的性格の検証と、この神婚譚そのものの比較神話学的読解は、姉妹篇「日女命の座と箸」において別途行った[25]。
4-2 天照大神と太陽祭祀
天照大神(あまてらすおおみかみ)を中心とする太陽信仰もまた、農耕社会の宗教体系の核心に位置する。太陽の運行は農耕の季節的循環を規定するものであり、太陽神の祭祀は世界各地の農耕文明において最も重要な祭祀の一つである。天岩戸神話は太陽の隠蔽と回復——すなわち冬至における太陽の「死」と「再生」——を語る農耕暦的神話として広く解釈されてきた[5]。
天照大神の祭祀は伊勢神宮に制度化され、二十年ごとの式年遷宮に見られるように、きわめて厳格な手順と規律に基づく祭祀体系を形成している。これは祭司制度の最も洗練された形態の一つであり、個人的な霊的体験に基づくシャーマニズムとは原理的に異なる。天照大神の祭祀に仕える斎王(いつきのみこ)は、シャーマンではなく「聖別された祭祀者」であり、個人的なトランス体験ではなく、制度的な清浄性と禁忌の遵守によってその職能を果たす。
ただし、天岩戸神話における天宇受売命(あめのうずめのみこと)の舞踏については注意が必要である。天宇受売命が衣服を脱ぎ、神懸り的な舞踏を行う場面は、エクスタシー的トランスの要素を含んでおり、農耕民族型の祭祀体系のなかにすでにシャーマニズム的な古層が潜在していた可能性を示唆する[2][5]。農耕社会の祭祀体系がシャーマニズムを完全に排除したのではなく、その一部を吸収・変容させて保持していた——天宇受売命はその痕跡と見なしうるのである。
4-3 古墳時代前期の祭祀体系
古墳時代前期(三世紀後半—四世紀)の大和王権の祭祀は、前方後円墳の規格化された墳墓形式、三角縁神獣鏡の組織的分配、三輪山祭祀に見られる定型的祭祀など、農耕社会に基づく制度的・祭祀的宗教の体系として確立していた[6]。銅鏡・勾玉・剣の三種の神器は、王権の宗教的権威を象徴する聖器として制度化されており、その授受は王位継承の儀礼的正統性を保証するものであった。
この祭祀体系のなかで、宗教的権威は王(大王)と特定の祭祀氏族(中臣氏・忌部氏など)に集中し、個人的カリスマに基づくシャーマン的権威の入り込む余地は制度的に限定されていた。神功皇后の託宣場面が「異例」として際立つのは、まさにこの制度化された祭祀体系を背景としてのことなのである。
第五章 事例研究一 神功皇后の託宣——憑依型・周辺的
5-1 記紀の託宣場面の再検討
応神王権論で論じたように、古事記における神功皇后の託宣場面は、仲哀天皇が琴を弾き(音楽的トランス誘導)、皇后が「沙庭(さにわ)」に座って神懸りの状態に入り、神の言葉を口寄せするという構造をとる[3]。この「楽器演奏者+トランス状態に入る霊媒」という二者一組の儀礼構造は、北方ユーラシアのシャーマニズムの典型的なパターンである。
エリアーデの枠組みで見れば、この場面は「憑依型」のシャーマニズムに分類される。シャーマン(神功皇后)の魂が肉体を離れて天界に旅するのではなく、神霊(住吉大神)がシャーマンの身体に降りてくる形態である。厳密にはエリアーデの定義する「脱魂型」シャーマニズムとは異なるが、トランス状態における超自然的存在との直接交流という本質的特徴は共有している。エリアーデ自身も、脱魂型と憑依型の区分は絶対的なものではなく、多くの文化で両者が混在することを認めている[1]。
キャンベルの類型論で見れば、この場面は明らかに狩猟民族型のシャーマニズム的宗教に属する。個人的な霊的体験を通じた超自然的存在との直接交流、制度的祭祀の手順ではなくカリスマ的な能力に基づく宗教的権威——これらは農耕民族型の祭司的宗教とは原理的に異なるものである。仲哀天皇がこの託宣を「信じなかった」ために死んだという記述は、在来の農耕民族型祭祀秩序と、新たに流入した狩猟民族型のシャーマニズム的権威との衝突を象徴的に語るものなのである。
ここで一つ、史料論的な留保を掲げておかなければならない。神功皇后の実在性には古くから疑義があり、その事績の少なくとも一部が記紀編纂時の構成——とりわけ卑弥呼への見立て——である可能性は排除できない。『日本書紀』神功紀自身が、三十九年・四十年・四十三年の各条に分注として『魏志』を引き、神功の紀年を魏への遣使記事に重ねている。編纂者たち自身が神功を(少なくとも年代の上で)卑弥呼に見立てていたのであり、これは本稿冒頭に掲げた二つの常套句の、いわば八世紀における最初の合流である。もし創作説を採るなら、託宣場面の詳細な記述は四世紀の実践の記録ではなく、編纂期の大和朝廷の宗教観——託宣とはこのように行われるものだという七〜八世紀の宮廷の了解——の投影として読まれることになる。しかし、いずれの読みを採っても、本章の類型論的分析そのものは動かない。本章が座標系の上に定位するのは記紀が描く託宣場面の構造であって、その場面が反映する現実の年代は、定位ののちに問われるべき別の問題だからである。むしろ創作説の下では、本章の結論は「編纂期の宮廷が理想的な託宣として思い描いた形態は、憑依型・周辺的の座標を占める」という命題に読み替えられ、それ自体が日本宗教史の独立の証言となる。この問題系——記紀の託宣記事を編纂期の宗教観の史料として体系的に読み直すこと——は本稿の射程を超えるため、ここでは指摘に留める。
ただし、この見立てには一つの奇妙さが残ることを、ここで明示的に問いとして立てておきたい。編纂者たちが神功を卑弥呼に見立てたのは、年代の上でのことであった。ところが彼らが描いた神功の姿は——本章と第六章の分析が示すとおり——魏志倭人伝の卑弥呼と、類型のほとんどすべての軸で食い違う。二人は技法の軸でのみ一致し(ともに憑依型であり、だからこそ見立ては可能だった)、権威の座においても、権威の様式においても、儀礼の様式においても、社会的機能においても、ことごとく反対側に落ちるのである(6-5 節)。見立てたはずの人物を、なぜかくも正反対に造形したのか。これは編纂者の失敗なのか、それとも本稿がまだ十分に読み解いていない意図なのか。この問いは、両者の定位が済んではじめて立てられる問いであるから、6-5 節で正面から取り上げ、結論で改めて検討する。
5-2 朝鮮半島の巫俗(ムーソク)との連関
神功皇后の母方の系譜が天之日矛——新羅の王子——に遡ることは古事記自身が記すところである[3]。ここで朝鮮半島の巫俗(ムーソク)の伝統がきわめて重要な比較対象となる。
韓国の巫俗は、巫堂(ムーダン)と呼ばれる霊媒が楽器(チャンゴ、ケンガリなどの打楽器)の演奏に合わせてトランス状態に入り、神霊の言葉を語るという儀礼構造を特徴とする。赤松智城と秋葉隆の先駆的研究『朝鮮巫俗の研究』(1937年)は、この巫俗が北方シャーマニズムの系譜に連なるものであることを体系的に論じた[7]。巫堂が楽器の演奏に合わせてトランス状態に入り神の言葉を語るという儀礼構造は、古事記における仲哀天皇(琴の演奏者)と神功皇后(トランスに入る霊媒)の場面と驚くほど一致する。なお、この巫俗を「シャーマニズム」の名で呼びうるか否かは、定義の採り方に依存する。最厳格の定義のもとでは、憑依型を主とする半島の巫俗はこの名の外に置かれることになるが、本稿の類型論的用法はこの難点を免れる〔注四〕。
新羅の古墳文化——天馬塚や金冠塚から出土した純金製立木型冠、鹿角装飾、豊富な馬具類——は、スキタイ・サカ系遊牧民文化との顕著な親縁性を示しており[8]、新羅の支配層には北方遊牧民系の文化的要素が強く残存していたと考えられる。北方ユーラシアこそシャーマニズムの本場であることを考えれば、新羅系の血統を持つ神功皇后がシャーマニズム的な宗教的権威を体現していたという解釈は、文化的・歴史的に十分な整合性を持つのである。
5-3 周辺的憑依としての再定位——可動性の構造的根拠
ルイスの軸(3-3 節)の上では、神功皇后の託宣はさらに精密に定位される。それは周辺的憑依——特定の座を持たず、個別の軍事的決断の正統化という、その場その場の危機に応じて発動される、可動的な権威——である[23]。ここで重要なのは、この可動性の根拠である。神功皇后の権威が可動的であるのは、彼女が新羅系の血統を引くからではなく、彼女の憑依が周辺的憑依という構造をとるからである。天之日矛に遡る新羅系・北方遊牧民系の系譜(本章二)は、この周辺性の一つの歴史的な担い手・説明変数ではあっても、唯一の、あるいは必然的な説明ではない。この点で、拙稿「応神王権の成立と渡来人」第二章二で論じた「シャーマニズム的権威の可動性」という構造的条件は、なお有効でありながら、その根拠を生業様式のエスニックな系譜からではなく、権威の座の軸そのものから引き出すべきものとして、ここに再定位される。可動性を担保するのは、権威の担い手の出自の民族的系譜ではなく、権威そのものが中心的な座に定着していない、という構造なのである。
第六章 事例研究二 卑弥呼の鬼道——憑依型・中心的
卑弥呼の鬼道を統治装置として——倭国大乱後の「共立」、祭政二重主権という統治形態の水準で——分析する作業は、拙稿「卑弥呼の統治装置」(覚え書きXII)で行った[24]。本章はその対をなすもう一つの水準、すなわち状態像——卑弥呼の宗教的実践そのものの質——を主題とする。「鬼道はシャーマニズムである」という常套句が思考停止に陥るのは、エリアーデ的な脱魂技法という一つの状態像を、無検証のまま卑弥呼に当てはめてしまうからである。本章は、第三章までに整備した座標系の上に、鬼道の状態像を正確に定位する。
6-1 憑依型としての鬼道——出発点の確認
卑弥呼の鬼道が、エリアーデの厳密な意味での脱魂型——魂が能動的に肉体を離れて天界・地下界へ飛翔する技法——に属さないことは、簡潔に確認すれば足りる。魏志倭人伝には魂の飛翔も天界遍歴も一切記されておらず[26]、わが国の学界でも鬼道は通常、神霊が降りて憑く憑依型として了解されてきた。エリアーデの脱魂型定義を無媒介に日本へ適用する語り口——卑弥呼を「シャーマン」と呼ぶとき、暗黙にシベリア型の魂の飛翔を含意してしまう用法——への留保は、3-1・3-2 節に述べたとおりであり、ここで繰り返さない。付言しておけば、この留保はブラッカーには当たらない。彼女はむしろ、日本のシャーマン的職能者を、霊が外から到来して身に憑く巫女(憑依型)と、自ら異界へ旅する行者・山伏(脱魂型)の二極に分かち、古代の巫女の呪具——鏡・鈴・勾玉・弓矢——がその大半において霊を招き寄せる装置であって、シベリアのシャーマン装束に顕著な鳥・羽根・飛翔の象徴をまったく欠くことを、積極的な所見として述べている。「彼女の装束は霊を彼女のもとへ引き寄せるのであって、彼女を霊のもとへ送り出すものではない」というのが、その要約である[20]。本章の定位は、この点においてブラッカーと対立せず、むしろ彼女の観察を理論的に引き受けるものである。なお、鬼道の語義そのもの——陳寿の規範的座標を復元し、倭人伝内部の骨卜記事(令亀の法になぞらえられ、「鬼道」とは呼ばれなかった技術的卜占)との対照から語義を消去法で絞り込む作業——については、姉妹篇「鬼道と祭政二重主権」第一章に詳述した[28]。その帰結は本章の出発点と一致する。すなわち鬼道は手続き的な卜占技法ではなく、個人に体現された託宣的権威である。したがって本章の問題は、鬼道が憑依型であるか否かではなく、いかなる様式の憑依であるか——ルイスの軸の上のどこに位置する憑依であるか——である。
6-2 中心的憑依としての鬼道
3-3 節で導入したルイスの区別をここに適用すれば、第二章の脱魂/憑依の軸に、第二の軸——中心/周辺——が直交して加わる。卑弥呼の鬼道は、この二次元の座標の上で明確に定位できる[23]。すなわち、状態像としては脱魂型ではなく憑依型に属し、かつ社会的位置としては周辺的ではなく中心的である。鬼道とは「中心的憑依」の純粋型、いいかえれば共同体の道徳的・宇宙論的秩序そのものを担保する、制度化された頂点の憑依にほかならない。倭国大乱という秩序の危機ののちに「共立」され、連合体の象徴的中心に据えられたという成立経緯は、この中心性を制度の側から裏づけている[26]。
この定位は、素朴な「シャーマニズム」理解が陥る二重の混同を解消する。卑弥呼の鬼道は、脱魂型シャーマン(エリアーデ)と混同してはならず、また周縁の女性祭祀者による周辺的憑依(後世のイタコ・ユタ的な系譜へと連なるもの)とも混同してはならない。卑弥呼の憑依は、周縁からの異議申し立てではなく、中心における秩序の保証なのである。
6-3 権威・儀礼・機能——三軸による精密化
この定位は、さらに三つの直交軸によって精密化できる。
第一軸は「権威の様式」——カリスマ的(個人的霊的体験に由来)か制度的(職能としての継承)か。マックス・ウェーバーが『経済と社会』の支配の社会学において定式化した区分による[36]。卑弥呼は「能く衆を惑わす」(カリスマ的要素)と「共立」される(制度的要素)の両面を持つが、十三歳の壹与が後継者として共立されたことを考慮すれば、後者の制度的要素が決定的である[26]。ここで想起すべきは、ウェーバーがカリスマ的支配の分析に付した「カリスマの日常化」(Veralltäglichung des Charisma)の概念である[36]。カリスマは本来その担い手個人に帰属し、継承されえない。しかし共同体がひとたびその権威に依存して秩序を組み立ててしまえば、担い手の死はそのまま秩序の危機となり、カリスマは何らかの仕方で継承の制度へと転化させられねばならなくなる。卑弥呼の死後、男王を立てて国中が服さず、宗女壹与を立ててようやく定まったという経緯は、この転化の過程そのものである。卑弥呼が第一軸の制度的な側に位置するのは、彼女がカリスマを欠いていたからではなく、そのカリスマが座へと転化させられたからなのである。この経緯の詳細と統治論的な含意については、覚え書きXII第三章に譲る[24]。
第二軸は「儀礼の様式」——エクスタシス的(脱魂・憑依を中心とする)か、リトゥルジカル的(規範的儀礼の執行を中心とする)か。エリアーデとI・M・ルイスの議論による。卑弥呼の具体的儀礼は不明だが、太占(骨を焼いて吉凶を占う卜術)の存在は両者の混合を示唆する[26]。
第三軸は「社会的機能」——占術的(個別決定の正統化。私的・個別的な機会に発動される)か、鎮魂的(宇宙論的秩序維持。公的・義務的に執行される)か。ユベール=モース『呪術の一般理論の素描』(1902—03年)による[34]。
二極の括弧内に添えた記述——私的・個別的か、公的・義務的か——が、この軸の基準の核心である。呪術と宗教とを心の構え(強制か嘆願か)によって分かつフレーザーの定式[35]を、ユベールとモースは正面から退けた。呪術者もまた嘆願し、祭司もまた強制するからである。彼らが代わりに据えたのは、儀礼が社会において占める位置による基準——組織された祭祀に属する集合的・公的・義務的な儀礼か、そこに属さない私的・個別的な儀礼か——であった。本軸の二極が心の構えの対ではなく、儀礼が共同体の秩序に対して占める位置の対であるのは、この基準による。あわせて彼らが呪術者の力の源泉を技法そのものにではなく、社会がそれを力として認めること——マナ——に置いたことは、状態像と職能とを混同しないという本稿の方法的態度(次節)の、社会学の側からの定式にほかならない。フレーザーの定式の内容と、この移行の詳細、およびこの軸がシャーマニズムに固有の概念でないことがなぜ難点でなく要件であるのかについては、注五に収める〔注五〕。
この軸の上で、卑弥呼の鬼道はどこに位置するか。倭国大乱後の「共立」という成立経緯は、決定権限の社会的正統化という占術的機能が先行したことを示唆する。しかし共立された座が国中の秩序そのものを担うに至れば、そこで執行される儀礼はもはや私的でも個別的でもありえない。鬼道は、占術から出発して鎮魂へと及ぶ、両機能の複合として記述されるべきものである。
この三軸の上で、鬼道は「制度的・儀礼の混合・占術と鎮魂の両機能」という座標を占める複合形態として記述できる。エリアーデ/キャンベルの強い二項対立(脱魂型シャーマニズム対農耕祭司)を超えて、三次元空間内の特定の座標として鬼道を定義することで、議論の精度は格段に上がる。同時に、第五章で論じた神功皇后は、この座標から大きく「カリスマ・エクスタシス・占術」側にずれた別の座標として記述でき、両者の差異も保存される。
最後に、二つのことを確認しておく。第一に、本節の三軸は、第三章で完成した二軸の座標系に取って代わるものではない。定位は二軸で完結しており、三軸が測るのは、定位された点の内部構造である。卑弥呼と神功皇后とを分かつ仕事は技法と権威の座の平面がすでに済ませているのであって、三軸の効用は、同じ平面上の一点として定位された鬼道の複合性——占術から鎮魂へ、カリスマから座へという内部の動態——を記述しうる点と、次章以降で見るとおり、技法の軸に乗らない祭祀(三輪山祭祀・太占・審神者・神楽)をも同じ物差しの上に載せうる点にある。第二に、この三軸は、いずれも同一の水準に属する。権威の様式は正統化のされ方を、儀礼の様式は執行のされ方を、社会的機能は共同体の秩序に対する位置を問うものであり、三つとも職能——社会が設計した制度的な座——の属性である。個人の内面に生起するものの質、すなわち状態像は、ここでは測られていない。3-2 節に述べた三つの水準の区別に照らせば、本節の三軸は職能の水準を精密化したものであり、生業と系統という社会の水準の変数とは、そもそも次元を異にする。両者を一つの空間に並べることはできないし、並べる必要もない。水準ごとに座標を立て、事例をそれぞれの水準の上で測る——これが本稿の座標系の設計である。
最後に、この座標系が測らないものを一つ明示しておく。三軸はいずれも職能の様式と位置を測るのであって、職能の内容——何を行う者か——を測らない。しかし内容の側にも、比較のうえで見落としえない一点がある。治病である。アンリ・エーが遺著『医学の誕生』で構成したシャーマンの職能は、「占いと治癒の力」を並べて掲げたうえで、「その主要な職能は癒すことである」と明記する。雨乞いも、熊や蛇のもたらす災厄の祓いも、盗み・嫌疑・冒瀆・殺人未遂といった集団内の紛争の解決も、その周囲に配される[38]。日本の資料にもこの機能は乏しくない。3-3 節に引いたブラッカーの行者の施術も、6-6 節に引く寄祈祷も、いずれも病を癒すための作法である。ところが本稿の二つの事例は、そのいずれもが治病を担わない。魏使が観察した卑弥呼にも、筑紫の宮の神功皇后にも、病を癒す記事はない。エーが職能の内容の中心に据えた機能を、二人の巫女王はともに欠き、彼が治癒と並べて掲げたもう一方——占い、すなわち託宣——だけを担うのである。この欠如は、本節の三軸に第四の軸を加えることを要求しない。三軸が測るのは様式と位置であって、治病はその目盛りの上にないからである。むしろそれは、巫女王という型を、より広いシャーマン概念から切り出す指標として働く。そしてエーの引く境界線が呪術/医学であって、本稿の座標系に直交して加わる第四の軸ではなく、技法/権威の座の平面とは別の平面に引かれた線であることも、これで説明がつく[40]。
6-4 状態像と職能の腑分け——ヤスパースの方法二元論
ルイスの類型論は社会的位置を確定するが、なお「状態像(体験の質)」と「職能(制度的役割)」とは概念的に区別される必要がある。ここでヤスパース『精神病理学総論』の方法論的厳密さが要請される[22]。個人に生起する病的な憑依体験——憑依妄想や憑依様状態といった、了解の限界に触れる現象——と、文化的に構成され継承される祭祀的職能とは、たとえ表層の現れが似ていても、まったく異なる次元に属する。前者は個人の精神に生起する状態像であり、後者は社会が設計した制度的な座である〔注二〕。
鬼道を「中心的憑依の制度化」と規定することは、まさにこの後者——職能の次元——に鬼道を位置づけることを意味する。卑弥呼個人がいかなる体験をしていたか(状態像)は史料からは確定しえないが、本章の主張はそこには依存しない。本章が論じるのは、その体験がいかなるものであれ、それを連合体の統治のために組織し制度化した「座」の構造である。十三歳の壹与が同じ座を占めえたこと(覚え書きXII第三章)は、鬼道が個人の状態像に還元されない制度的職能であったことを、改めて裏づける[24]。
この腑分けが単なる分析上の便宜でないことは、両者が現に二つの方向へ乖離しうるという事実によって示される。日本の民俗は、その双方向の実例を保存している。
一方の極は、職能が残り状態像が空洞化した場合である。本州北部の盲目の巫女(イタコ・イチコ)について、堀一郎をはじめとする研究者は、これを真のシャーマンとみなさない[20]。彼女たちには、召命に先立つ極北ヒステリーの症状がなく、夢や突然の憑依による他界からの召命を経験せず、入巫儀礼で形式的に「結婚」する守護神がその後に力を与えに来ることも稀であり、真の脱魂状態に達する能力も失われて、彼女たちのあいだで脱魂とされるものは注意深く観察すれば模倣にすぎない。それでもイタコは、口寄せという職能を制度として——修行・入巫儀礼・道具渡し・報酬の体系を伴って——保持しつづける。状態像が抜け落ちてなお職能だけが自立する、その最も明瞭な標本である。
他方の極は、状態像はあるが継承された職能を欠く場合である。近代の新宗教の教祖たち——中山みき、出口なお、岡田茂吉、北村サヨ——の生涯には、入巫以前の病弱で奇矯な人格、神による選びという衝撃的な体験、その後の人格変容と治病・予知の超常力という、シャーマンの生涯の型が揃っている[20]。しかし彼らには、あらかじめ用意された座がない。座は体験ののちに、しばしば実務的な協力者を得て、はじめて構築される。
状態像と職能とは、こうして独立に増減する二つの変数である。イタコは職能のみを、教祖は状態像のみを持ち、両者が揃うのが自然発生的なシャーマンの完形である。そして卑弥呼から壹与への継承において問われたのは、このうち職能の側だけであった。本章が卑弥呼個人の体験に立ち入らずに鬼道を定義しうるのは、この独立性ゆえである。
6-5 神功皇后との対比——同じ憑依型、異なる座、そして編纂者の設計
以上の二軸(脱魂/憑依、中心/周辺)は、卑弥呼と神功皇后とを明晰に弁別する。5-1 節で確認したとおり、神功皇后の託宣は、住吉大神が外から皇后の身に降り、その口を借りて語るという、脱魂型とは区別された憑依型の典型である。卑弥呼もまた憑依型に属する点では、神功皇后と同じ軸上にある。
両者を分かつのは、第一に時代と系譜である。卑弥呼は三世紀前半、弥生稲作社会に内発した祭祀的職能であり、神功皇后は四世紀後半以降、新羅系巫俗の影響下に展開した託宣である。第二に、権威の座である。卑弥呼の鬼道は中心的憑依の純粋型——三輪の座に結びつき、宗女に継承される、制度的・定着的な権威——に近く、神功皇后の託宣は周辺的憑依——特定の座を持たず、個別の軍事的決断の正統化という個別的・カリスマ的な契機に応じて発動される、可動的な権威——に傾く(5-3 節)。両者は同じ「憑依型」でありながら、制度/カリスマ、恒常的職能/個別的託宣という点で対照をなす。脱魂/憑依の一軸だけでは見えなかったこの差異が、ルイスの中心/周辺軸を加えることで、初めて明確に記述可能になる。
ここで、5-1 節に立てた問い——編纂者たちは神功を卑弥呼に見立てながら、なぜ正反対に造形したのか——に立ち戻る材料が出揃った。まず確認すべきは、乖離の系統性である。二人が一致するのは技法の軸のみであり(ともに憑依型。神に憑かれて語る女、という粗い解像度においてこそ見立ては可能だった)、権威の座(中心的/周辺的)、権威の様式(制度的/カリスマ的)、儀礼の様式(混合/エクスタシス的)、社会的機能(鎮魂に及ぶ複合/占術的)のすべてにおいて、二人は反対側に落ちる。もし編纂者が魏志倭人伝の卑弥呼を写そうとして写し損ねたのであれば、その結果は軸ごとにばらつく雑音となるはずである。全軸にわたる系統的な反転は、雑音の形をしていない。それは設計の形をしている。
そして、この設計を読解する測器となるのが、第三軸——社会的機能——である。権威の様式と儀礼の様式が座の持たれ方を記述するのに対し、機能の軸だけが、人物の型を物語上の任務に接続するからである。神功紀の託宣が果たすべき任務は何であったか。新羅遠征という一回的決定の正統化であり、仲哀の死を経た応神への転轍であり、要するに王統を開くことであった。これはまさに占術的極——個別の決定に正統性を与えるために私的・個別的な機会に発動される儀礼——の仕事であって、既存秩序の維持を任務とする鎮魂的極からは原理的に遂行できない。秩序を維持する者は、王朝を開けないのである。記の託宣場面——筑紫の宮での琴、沙庭の審神者、特定の軍事的決断への神意伺い、そして疑った大王の死——は、ユベール=モースの言う私的・個別的な儀礼の記述を、ほとんど字義どおりに満たしている[34]。対して魏使が観察した卑弥呼は、共立された座が国中の秩序そのものを担う、定常状態の装置であった。とすれば機能の軸上の乖離は、卑弥呼を写し損ねた痕跡ではなく、写す必要がなかったことの徴候として読める。見立ては年代の水準で行われ、類型の水準では、編纂者は別の任務を——しかも全軸にわたって一貫した仕方で——遂行していたのである。
この読解には、方法論上の断りが一つ要る。本稿は3-3 節で、ルイスの周辺的憑依論から位置の記述のみを採り、動機の機能主義的説明を採らないと予防線を張った。あの禁欲は、実在の人物の心理を史料の外から推測することへの禁欲である。しかしここで測っているのは——系統の変数について3-2 節に明示したのと同じく——実在の人物の血統や心理ではなく、編纂者の設計である。設計者の目的は、推測されるのではなく、文書の構造から読み取られる。すなわち、実在の巫女には禁じた機能主義的読解が、設計された物語に対しては正当に解禁されるのである。呪術と宗教を心の構えではなく儀礼の社会的位置で分かつというユベール=モースの転換は、物語が儀礼に割り当てた社会的位置を測ることを許す転換でもある。第三軸が本稿の主命題にとって不可欠であるのは、二人の対比のため(それは二軸で足りる)というよりも、この乖離を設計として読解するためなのである。もっとも、ここで得られるのは中間的な判定にとどまる——少なくとも無自覚の失敗は消去された、というところまでである。判定の残りは、結論で述べる。
6-6 巫女の遍在と制度化の勾配——一つの民族誌的素描
本章の類型論を、一つの民族誌的素描によって具体に落としておきたい。筆者の郷里である大和盆地北部の村落連合では、溜池と灌漑路を共有する十数の集落が水利上の運命共同体をなしており、その最上流に筆者の生家の集落が位置する。梅雨の天候を見ながら堰を切る timing は、村落連合の最重要事であった。筆者が祖母から聞いた古い話に、シャーマンと呼ぶべき定まった職能者ではなく、比較的身分の低い一人の女性が、トランス状態となって裸で木に登り「堰を切れ」と叫んだ、という一例がある。
この素描には、本稿の二軸がそのまま畳み込まれている。担い手は身分において周縁的であり(ルイスのいう周辺的憑依の社会的位置)、木に登るという所作には魂の上昇=脱魂の motif の残響があり、トランスによる発話は憑依である。脱魂と憑依が一個の事例に混在する——これこそ、純粋な脱魂型・憑依型がいずれも理念型にすぎず、現実は両者の混合として現れることの、生きた実例である。しかも、身分において周縁的な者が、憑依を借りてはじめて、村の中心的決定に拘束力ある一声を差し挟みうる。ルイスが論じた、無力な者による「斜めの戦略」としての周辺的憑依が、同時に共同体の中心的機能(堰の timing)を担っているのである。
ここから、ルイスの中心的/周辺的憑依を、二つの孤立した型としてではなく、制度化の勾配の両端として読み直すことができる。底辺では、身分の周縁的な村の巫女が、自発的・一過的な憑依によって一瞬だけ中心的機能を担う(祖母の語る一例)。規模を上り制度化が進むにつれて、その機能は恒常的な「座」へと結晶し、頂点では身分と職能とが融合する(卑弥呼)。鬼道とは、農耕社会のあらゆる規模に遍在した託宣的機能の、最も制度化された頂点の事例にほかならない。中心的憑依と周辺的憑依は、断絶した二つの型ではなく、同じ一つの機能の、制度化の度を異にする現れなのである。
勾配の底辺が頂点を生みうることの、記録された一例を挙げておく。天理教の教祖・中山みきが神の器となったのは、1838年、息子の脚の激痛を癒すために山伏市兵衛が営んだ寄祈祷の座においてであった[20]。寄祈祷とは、読経と真言によって病因の悪霊を患者から憑坐へ移し、その口を通じて正体と祟りの理由を語らせる作法であり、憑坐は本来、霊が語り出るための受動的な器にすぎない。その夜、いつもの職業的憑坐が来られず、みきが代役を務めた。呪法が進むとみきの相貌が一変し、激しい憑依状態のうちに「我は天の将軍なり」と名乗って、みきの身体を「神のやしろ」として差し出すよう要求した。三日のあいだ飲食を絶ち端座したまま託宣が続き、夫が妻を神に譲ると宣言してはじめて、みきは正気に戻ったという。
ここで起こっているのは、勾配の底辺に置かれた使い捨ての装置——一夜かぎりの、身分も職能も持たぬ代役の依代——が、そのまま新しい中心の座の発生点に転じるという事態である。中心と周辺とが断絶した二つの型ではなく、同じ一つの機能の制度化の度を異にする現れであるという本節の主張は、この事例においては、単なる構造の類縁ではなく、実際の発生の経路として確認される。祖母の語る一例が勾配の存在を示すとすれば、中山みきの入巫は、その勾配が登られうることを示すのである。
6-7 制度化された中心的憑依——鬼道の定義と統治装置論への接合
以上を統合すれば、鬼道とは次のように定義される。それは脱魂技法ではなく、また周辺的な憑依でもなく、共同体の道徳的・宇宙論的秩序を担保する「中心的憑依の制度化」であり、個人の状態像に還元されない、継承可能な祭祀的職能としての聖王権の儀礼的核心である。この定義は、覚え書きXIIが論じた反国家的祭政二重主権(anti-state diarchy)としての統治形態と、過不足なく接合する[24]。統治形態(ホカート=クラストル)と状態像(ルイス=ヤスパース)の二つの読解は、「制度化された祭祀的職能」という一点において、一つに結ばれるのである。
第七章 シャーマニズムの日本的変容——中心化・沈降・脱魂型の残存
7-1 巫女制度への変容——シャーマンから制度的巫女へ
神功皇后のシャーマニズム的実践は、その後の日本の宗教体系のなかで直接的に継承されたわけではない。むしろ、シャーマニズム的要素は日本固有の宗教的枠組みのなかに吸収され、変容した形で存続することとなった。その最も顕著な例が巫女(みこ)制度の形成と変容である。
古代日本の巫女には大別して二つの系統がある。第一は神社に所属する制度的巫女であり、神楽を舞い、祭祀を補助する存在である。第二は口寄せ巫女(いたこ、ゆた等)であり、死者の霊や神霊を自らの身体に降ろして託宣を行うシャーマン的な存在である。前者は農耕民族型の祭司制度に組み込まれた形態であり、後者はシャーマニズムの直接的な継承者である[9]。
この二系統の区別は、3-3 節で導入したルイスの軸の上で、そのまま理論的に読み直すことができる[23]。神社に所属する制度的巫女は、中心的憑依の系譜——確立した座・聖地・祭祀体系に組み込まれ、既存の秩序を正統化する側——に対応し、口寄せ巫女は、周辺的憑依の系譜——確立した座を持たず、個別の依頼に応じて発動され、しばしば社会的に周縁の担い手による側——に対応する。中山太郎の記述的な二分類は、こうしてルイスの軸によって理論的な根拠を与えられる。6-6 節で述べた制度化の勾配の語彙を用いれば、二系統とは、同じ一つの託宣的機能が、勾配の上方と下方とでそれぞれ結晶した歴史的形態にほかならない。
歴史的に見ると、古代の巫女はよりシャーマニズム的な性格が強く、託宣や神降ろしが主要な職能であった。崇神天皇紀の百襲姫命、垂仁天皇紀の倭姫命(やまとひめのみこと)、そして神功皇后はいずれもこのシャーマン的巫女の系譜に属する。しかし、律令国家の形成に伴い、国家祭祀が制度化されるにつれて、巫女の職能はしだいに形式化・儀礼化され、シャーマニズム的なトランス体験の要素は周辺化されていった。中世以降、口寄せ巫女は民間宗教の領域に追いやられ、「市井の巫女」として社会的に周辺化される一方で、神社の巫女は神楽の舞手として制度内に吸収された。
この過程は、エリアーデが世界各地で観察した「シャーマニズムの制度化と周辺化」という一般的パターンに合致する。農耕社会の祭祀体系が強固になるにつれて、シャーマニズム的要素は制度的祭祀のなかに吸収されるか(神楽の舞、祭祀の補助としての巫女)、あるいは制度の外に排除されるか(口寄せ巫女、民間の霊媒)のいずれかの運命をたどるのである[1]。
エリアーデが一般的パターンとして記述したこの「制度化と周辺化」は、ルイスの語彙では、より精確に、中心的な座への統合と、周辺的憑依への沈降という、二方向への分岐として記述される。以下に見る諸経路——住吉信仰の神社化、審神者・神楽の制度化、八幡託宣、そして民間への沈降——は、この分岐の具体的な歴史的実現である。
7-2 住吉信仰の形成と展開
住吉大社(大阪市住吉区)の信仰は、神功皇后のシャーマニズム的宗教権威が日本の宗教体系に組み込まれた最も直接的な事例と言える。住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)は伊邪那岐命の禊から生まれた海神であり、航海の守護神としての性格を第一義とする。しかし住吉大社が神功皇后をも祭神の一柱として祀り、応神天皇との特別な結びつきを持つことは、この社の信仰が単なる航海守護の信仰にとどまらないことを示している[10]。
住吉信仰の形成過程は、シャーマニズム的要素の制度化・神社化の過程として理解できる。もともと住吉大神は航海に際して神降ろし的な儀礼を通じて呼び出される神霊であり、神功皇后の新羅渡海に際しての託宣もこの文脈に位置する。すなわち、航海という危険な行為に際してシャーマン的霊媒を通じて神意を問うという実践が、住吉信仰の原初的な形態であったと推定される。それが応神朝以降の河内王権の発展に伴い、航海守護の神社として制度化・固定化されていったのである。
住吉大社が古代において住吉津という港を管理し、広大な神領地を持っていたことは、この社が単なる宗教施設ではなく、港湾管理と対外交易の拠点としての政治経済的機能を備えていたことを意味する。シャーマニズム的な航海の神が、制度的な港湾管理と対外交渉の守護神へと変容した——これは宗教的権威が政治経済的権力と結合し、制度のなかに固定化されていく過程の典型的な事例である。住吉大社の祭祀は、年間を通じた定期的祭祀として組織され、シャーマン的なトランス体験は祭祀の正式な構成要素からは姿を消した。しかし、住吉大神と神功皇后・応神天皇の神話的結びつきは、この信仰のシャーマニズム的起源の記憶を今日まで保持しているのである。
7-3 神道への統合——シャーマニズムの「沈降」と「残存」
より広い視野で見れば、神功皇后に体現されたシャーマニズム的要素は、日本の宗教体系(後に「神道」として体系化されるもの)のなかに複数の経路で組み込まれていった。
第一の経路は「神懸り」概念の神道的再解釈である。記紀における神功皇后の託宣は、後世の神道神学において「審神者(さにわ)」の制度として継承された。審神者とは、神懸りの状態にある者の発する言葉が真の神意であるか否かを判別する専門家のことである。これはシャーマニズム的なトランス体験そのものは認めつつも、その正当性を制度的に管理・統制しようとする仕組みであり、シャーマニズムの農耕社会的制度化の一例と言える[11]。ルイスの語彙で言い直せば、審神者とは、ともすれば周辺的たりうる託宣を中心的な座の管理下に置く、憑依の中心化のための制度的関門にほかならない。
第二の経路は「神楽」の形成である。神楽(かぐら)は「神座(かみくら)」の転訛とされ、神霊の降臨する場を意味する。その原型は天岩戸神話における天宇受売命の舞踏に求められるが、実際の歴史的形成においては、シャーマニズム的なトランスの舞踏が、定型化・様式化された祭祀芸能へと変容する過程が関与している。宮廷の御神楽と民間の里神楽の両系統があり、前者はより制度化・形式化され、後者にはしばしばシャーマニズム的な要素がより濃厚に残存する[12]。
第三の経路は「託宣」の制度化である。平安時代の宇佐八幡宮の託宣(神護景雲三年、769年の道鏡事件)は、国家的に重大な政治的判断が神の託宣によって行われた顕著な事例である。宇佐八幡宮が応神天皇を祀る神社であることは偶然ではなく、応神天皇——神功皇后の子——に結びついた託宣の伝統が、八幡信仰のなかに形を変えて存続していたことを示している[13]。
第四の経路は、民間信仰・民俗宗教への「沈降」である。柳田国男が「巫女考」(1913年)で論じたように、制度的祭祀から排除されたシャーマニズム的実践は、口寄せ巫女(いたこ、ゆた、のろ)、陰陽師、修験道の山伏など、さまざまな民間宗教者の実践のなかに沈降して存続した[14]。青森県恐山のいたこ、沖縄のユタなどは、シャーマニズム的な口寄せの伝統が近代まで生きつづけた代表的な事例である。
7-4 仏教との関係——修験道という混淆
六世紀以降の仏教の導入は、日本のシャーマニズム的伝統にさらなる変容をもたらした。特に修験道は、仏教の密教的要素と日本在来のシャーマニズム的・アニミスティックな山岳信仰が融合した独自の宗教形態であり、シャーマニズムの日本的変容の最も興味深い事例の一つである[15]。
修験道の山伏(やまぶし)は、山中での激しい修行(滝行、断食、火渡りなど)を通じて超自然的能力を獲得する。これはエリアーデが論じたシャーマンのイニシエーション——苦行を通じた死と再生——との構造的類似を示している。火渡りの修行はエリアーデがシャーマンの能力として挙げた「火の支配」そのものであり、山中での修行は「聖なる空間への旅」というシャーマニズムの核心的要素を反映している。この点でブラッカーは、日本のシャーマン的職能者を、霊が外から身に憑く「巫女(憑依型)」と、自ら異界へ旅して験力を得る「行者・山伏(脱魂型)」の二極に分けており、山伏はまさに脱魂型の日本における担い手——巫女の憑依型と対をなす極——として位置づけられる[20]。
ブラッカーはさらに、この二極がもともとは一つであったと論じる。日本における本来の自然発生的なシャーマンとは、守護神の言葉を伝えると同時に悪しき霊的存在を制圧しうる者、すなわち霊媒と行者の力を併せ持つ人物であった。日本のシャーマニズムが能動的な部分と受動的な部分に分裂したのは、おそらく密教的・修験的な仏教の影響によるものであり、仏教的な行者像がシャーマン的実践の能動的・調伏的側面を我がものとした結果、憑坐の役割は受動的でほとんど自動的な発語へと格下げされた——というのがその見立てである[20]。彼女が村の託宣について導く結論も同じ方向を指す。仏教の儀礼がもたらした変化とは要するに行者という人物に大きな存在感を与えたことに尽き、それは巫女から古代の威厳と、かつて神を招くのに用いた楽と舞とを奪い去り、その場所に法螺貝と錫杖の鉄環とを携えた行者を立たせたのである。
この見立ては、本章の変容論に一つの機構を加える。第一節で述べた巫女の二系統への分岐、および第三節で述べた「沈降」は、いずれも中心/周辺という座の軸の上での移動として記述された。ブラッカーが示すのはこれと直交するもう一つの分裂——能動性の所在の軸における分裂である。3-1 節で確認したとおり、脱魂型と憑依型とを分かつ二変数のうちの一つは、人間が霊を御する主体であるか、霊に占められる器であるかという能動性の所在であった。日本の宗教史においてこの二極が行者と憑坐という別々の担い手へ分属したのだとすれば、それは類型論上の二極が、歴史のなかで職能の分業として実体化した事例にほかならない。理念型として構成された座標軸が、ある文化のうちでは現実の社会的分業へと結晶しうる——本稿の座標系にとって、これは検討に値する副産物である。
修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ、七世紀)は、山岳修行を通じて超自然的能力を獲得したとされる伝説的人物であり、シャーマン的な霊的体験者としての性格が顕著である。修験道は、仏教の教理的枠組みのなかにシャーマニズム的な実践を再構成したものとも解釈でき、日本の宗教史におけるシャーマニズムの「変容した存続」の最も体系的な事例である。
こうして、本稿の座標系が区別した三つの極は、いずれも日本宗教史のうちに、それぞれの担い手を得て着地している。自ら異界へ旅する山伏(脱魂型)、確立した座に組み込まれた斎王・神社の制度的巫女(中心的憑依の系譜)、そして座を持たずに個別の依頼へ応じるイタコ・ユタ(周辺的憑依の系譜)である。古代の二人の巫女王が占めた座標は、こうして後代の宗教的地形のうちに、いわば地層として保存されているのである。
7-5 能楽——様式のうちの保存
以上の四つの経路には、なお一つ、付け加えるべきものが残っている。担い手を持たない保存の経路、すなわち芸能である。ブラッカーが『あずさ弓』の材料と方法を列挙する箇所で、現存の実践者と中世の仏教説話集に並べて第三の資料源に挙げたのは、能であった。彼女によれば、能——とりわけ超自然的存在が現れる曲——は、それ自体が隠されたシャーマン儀礼であり、霊を呼び神を降ろす音と象徴、すなわち他界に響くと信じられた笛と太鼓の音、死者や土地の神を呼ぶ叫び声を、今に伝えている[20]。
この主張は、同書の構成そのものによって例証されている。書名『あずさ弓 The Catalpa Bow』は『葵上』に由来し、同書の第一章はこの曲の場面描写から始まる[33]。舞台中央に置かれた一枚の小袖が、物の怪に取り憑かれて瀕死の葵上を表す。まず呼ばれるのが照日の巫女で、生霊・死霊を招き寄せて語らせる力を持つ女性である。小さな太鼓を打ち、梓弓の弦を鳴らし、天地内外の清浄を唱える呪文で霊を招く。すると橋掛かりの向こうから六条御息所の生霊が現れ、白い女面をつけたまま名乗り、憎悪に駆られて病人を扇で打つ。しかし巫女は霊を招いて語らせることはできても、追い払うことも悪意を除くこともできない。そこで第二の力として、山岳修行で名高い横川の小聖が呼ばれる。霊は角と金の歯を持つ鬼の相に変じるが、聖が数珠を揉んで不動明王の呪を唱え五大明王を勧請すると、霊は槌を落として橋の向こうへ退き、憎しみは慈悲へと転じて成仏に至ると示唆される。
この一曲の内部には、本稿の座標系が区別した二つの極が、そのまま配置されている。照日の巫女は霊を招き寄せる者——運動の向きにおいて外から内へ、能動性の所在において器の側に立つ、憑依型の極である。横川の小聖は自ら験力を携えて霊に対峙する者——前節でブラッカーに拠って述べた能動的・調伏的な、行者の極である。しかも両者の分業は、劇の必然として筋書きに組み込まれている。巫女は招くことはできても祓うことができず、それゆえ第二の人物が呼ばれねばならない。第一節で述べた巫女の二系統への分岐も、前節で述べた能動/受動の分裂も、室町の舞台の上では、すでに一つの物語の二つの役として固定されていたのである。そして両者を隔て、また繋ぐものが、橋掛かりという通路であった。ブラッカーが同書の第一章を「橋 The Bridge」と題し、最終章を能『石橋』——世界の始まりから石が石の上に自ずと現れる形でそこにあり、幅わずか一尺、滑りやすい苔に覆われ、神仏の恵みなしには誰も渡ろうと夢見ることのできない、引き絞られた弓のように反り返った橋——の情景で閉じたのは、偶然ではない。此岸と彼岸を架け渡すものという主題が、彼女の書物の枠そのものをなしている[20]。
細部にも同じ保存が及ぶ。能の狂女がたいてい手に笹または竹の枝を持つのは、今日では異常な精神状態を示す様式化された表徴にすぎないが、それは弓・剣・鉾・榊などと並んで神楽の舞い手が舞のあいだ手に持つ九種の採り物の一つであり、本来は神が身体に入ってくる導線として、神憑りの狂気を誘い出す機能を負っていた。能の蛇の面が、あの爬虫類には少しも似ず、金色の角と金色の鋭い眼と金の歯を覗かせて開いた赤い口と乱れた赤い髪をもつ般若——女の鬼——の面とほぼ同一であるのも、それが蛇に似せた面ではなく、超自然の蛇に憑かれて神懸かりの狂乱の只中にある女の顔を写した面だからではないか、というのがブラッカーの問いである。道成寺の女が走るうちに口から炎を噴いて蛇と化す物語を、鳥居龍蔵が、憑依状態の巫女を満たす呪的な内的熱——エリアーデのいう「火の支配」——の記憶と読んだことも、これに連なる[20]。
ここから、本章がこれまで記述してきた「沈降」に、性格を異にする第二の経路を区別することができる。第三節に挙げた四つの経路は、いずれも担い手を伴う沈降であった——審神者、神楽の舞い手、八幡の託宣、そしてイタコ・ユタ。そこでは託宣という機能そのものは生き延び、その担い手の社会的位置が中心から周辺へ移動した。これに対し芸能への沈降では、機能そのものが失われる。能の照日の巫女は誰の霊も招かず、その梓弓は誰にも届かない。しかしそれは保存の失敗を意味しない。むしろ逆である。機能を失った様式は、演じ続けられるかぎり、変化を被る理由を持たない。実務は必要に応じて改変されるが、型は改変されないからこそ型なのである。6-4 節で述べた二方向の乖離——職能のみを保つイタコと、状態像のみを持つ教祖——に、ここで第三の乖離が加わる。状態像も職能もともに失われ、様式だけが残るという乖離であり、保存の精度においてはこれが最も高い。
含意は保存の精度にとどまらない。型は演じられるたびに、その型を生んだ世界観を、演者と観客の身体のうちに一時的に再建する。六百年にわたって『葵上』が演じられ続けたということは、六百年にわたって、人間の世界の外に他界があり、両者のあいだに橋が架かっており、正しい音と正しい呪文とをもって招けば向こうから来る者がある、という前提が、そのつど舞台の上で真とされ続けたということである。ブラッカーが同書の最終章で嘆じたのは、まさにこの前提の消滅であった。渡るべき境界もなく、出会って宥めるべき神秘的な異種の存在もいない一次元の宇宙が、他界の観念に取って代わった、と。しかし彼女はその嘆きの直後に、本書全体を『石橋』の一場面——紅白の牡丹のあいだから金色の顔をもつ獅子が現れ、唐楽の調べに合わせて舞う——で閉じる。消えゆく世界観への挽歌でありながら、その世界観がなお喚起しうる美しさを差し出して幕を引く、という結び方である。芸能とは、信じられなくなった世界観が、なお演じられうる形で存続する場所なのであり、その意味において、本稿が古代に遡って記述してきた宗教的基層は、信仰としてではなく様式として保持されてきたと言うことができる。
ただしこの読みには、当然の留保が要る。能の形式は、シャーマン儀礼の残存としてだけでなく、室町以降の演劇的・美学的要請からも説明されうる。橋掛かりは他界への通路であると同時に、単に登場の動線でもある。笹の枝は神憑りの採り物であると同時に、狂乱を視覚的に示す舞台上の約束事でもある。本節が主張するのは、能が儀礼の忠実な化石だということではなく、儀礼に由来する要素が芸能の様式のうちに——その機能を失いながら、形態としては——保存されうるという一般的な可能性であり、そしてその可能性が、日本の場合には演目の主題と小道具の水準において、なお読み取りうるということである。個々の要素についていずれの説明を採るかは能楽研究の領分であって、本稿の及ぶところではない。
補章 第二の検証地としてのギリシア——ドッズと格子の四つの桝目
本稿の座標系——技法の軸(脱魂/憑依)と権威の座の軸(中心的/周辺的)——が日本ローカルの記述装置でないことを確かめるには、第二の文明での検証が要る。E・R・ドッズ『ギリシア人と非理性』とその付録二篇は、期せずして、この格子をギリシア資料の上に再構成している[29]。同書の全体的紹介と批判史は姉妹篇の案内論文に譲り[31]、ここでは座標系上の定位のみを行う。
憑依・中心的——ピュティア。デルポイの巫女は、神がその身に乗り移って語る憑依(エントゥシアスモス)の型であり、しかも都市国家間の秩序に関与する、確立した制度の座に結びついている。ドッズは、地の裂け目の蒸気といった外因を要しない自己暗示的トランスとしてこれを記述した[29]。状態像(憑依トランス)と職能(公認の託宣の座)がともに揃った、憑依型・中心的の完形——すなわち本稿第六章の卑弥呼の鬼道の、構造的対応物である。
脱魂・周辺的——遍歴の「神の人」たち。アバリス、アリステアス、ヘルモティモス、エピメニデスら、北方と関わる伝説的職能者たちの伝承には、魂を肉体から遊離させて旅する脱魂の型が刻まれており、その系譜はピタゴラスとエンペドクレスに至る。彼らは制度の座を持たぬ遍歴の浄め手・予言者、すなわち周辺的な存在であった。ドッズはこの複合をスキタイ・トラキア経由の北方シャーマニズム伝来に帰したが(モイリ説)、この伝播説は今日、ブレマーの二段構えの批判により支持を失っている[30]。第一に、伝播の証拠とされた個々のモチーフ——アリステアスの魂が口からワタリガラスの姿で飛び去ったという伝承、アバリスの矢、オルペウスの預言する生首、黄金を守るグリフィン——は、いずれもシベリア型シャーマニズムに固有のものではなく、世界各地に広く分布する説話型にすぎず、そもそも影響源とされたスキタイ人自身が魂の遍歴の観念を持っていたことすら証明されていない。第二に——こちらが決定的だが——ドッズが正しく観察した現象そのもの、すなわち身体が眠り・失神・瀕死にあるときほど魂が活発になるという反比例の構図は、アルプマンの言う自由魂(free soul)の定義的な振る舞いにほかならず、ホメロス以来ギリシアに内在する魂の二元論(自由魂/身体魂)だけで説明が尽きる。ドッズは自由魂研究を知らなかったがゆえに、伝統の内部から説明できるものを、遠方のシャーマニズムに求めたのである〔注三〕。しかし本稿の用法は系統論ではなく類型論である。どこから来たかが崩れても、何であったか——脱魂型・周辺的という定位——は崩れない。むしろブレマーの再解釈は、脱魂の状態像がシベリアという特定の系統に縛られぬ、より広い人類学的基盤(自由魂の観念)の上に立つことを示すことで、本稿の類型論的運用をかえって強化する。状態像と職能を区別し、理念型として運用するという第三章の方法は、まさにこの批判をくぐり抜けるために要る。
憑依・周辺的——マイナデス。付録一「マイナディズム」は、格子の第三の桝目を埋める。二年に一度の女性たちの秘儀的集会と真冬の山駆け(オレイバシア)は碑文史料により実在が裏づけられ、生肉の裂食(スパラグモス/オモファギア)に至る儀礼的な集団憑依として記述される[29]。女性中心・周期的・制度の中心の外——ルイスが周辺的憑依カルトと呼んだものの、古代世界における教科書的な例である。しかもドッズが中世舞踏病との比較から引き出した洞察——自然発生的な集団的発作が、周期的儀礼として組織化されることで危険を統御される——は、憑依の制度化の機構論として、本稿第七章で論じた神楽への沈降と正確に響き合う。
第四の桝目の空位。かくしてギリシアは、憑依・中心(ピュティア)、脱魂・周辺(神の人)、憑依・周辺(マイナデス)の三つの桝目を埋める。残る一つ——脱魂・中心的——は、ギリシアにおいても、そして本稿が検討した限りの古代日本においても、空位にみえる。これは偶然だろうか。試論として一つの仮説を記しておく。脱魂の体験は本人の報告によってしか共同体に届かない、原理的に私的な出来事である。これに対し憑依は、公開の場で演じられ、変わった声として聞かれ、その託宣は事後の成否によって共同体的に検証されうる。中心的権威の座は公共的な検証可能性を要求するがゆえに、検証不能な脱魂は制度の中心に座を持ちにくいのではないか。仮説の当否は、第三の文明での検証に委ねられる。
最後に、付録二「テウルギア」からの二つの補材を挙げる。神と感応する象徴物を彫像に封入して神託を得るテレスティケーは、依代の観念のギリシア側対応物として比較に値する。人間の霊媒に神を降ろすエイスクリシスは、都市の公的神託が衰えた後期古代における憑依の私事化の記録であり、憑依の座が歴史的に移動する(中心から私へ)ことの事例として、第七章の沈降論と平行する[29]。
結論——重層する宗教的基層と二人の巫女王
本稿の検討を通じて明らかになったのは、古代日本の宗教的変容が、シャーマニズムと祭司制度という二つの根本的に異なる宗教類型の接触・衝突・融合の過程として理解しうるということである。
古墳時代前期の大和王権は、三輪山祭祀や前方後円墳の規格化に見られるように、農耕社会に基盤を置く制度的・祭祀的宗教体系を確立していた。天照大神の太陽信仰、大物主神の蛇神信仰はいずれもこの体系の中核に位置する。しかし四世紀末から五世紀にかけての応神朝において、朝鮮半島——特に新羅——を経由した北方系シャーマニズムの要素が、神功皇后という象徴的人物を通じて王権の宗教的権威体系のなかに導入された。
仲哀天皇が託宣を拒否して死ぬという異例の記述は、在来の祭祀秩序とシャーマニズム的宗教権威との衝突の神話的表象である。この衝突の結果、シャーマニズム的要素は完全には排除されず、むしろ日本の宗教体系のなかに複数の経路で組み込まれていった。住吉信仰の形成、巫女制度の展開、審神者の制度化、神楽の形成、八幡信仰への継承、民間宗教への沈降、そして能楽という様式のうちの保存——これらは、シャーマニズムが農耕社会の制度的祭祀体系と出会ったときに生じる多様な変容パターンの、日本的な具体例である。
本稿の中核をなすのは、この接触と融合の歴史を測るための座標系の完成と、その上での双対の事例研究である。神功皇后と卑弥呼は、ともに憑依型に属しながら、権威の座の軸の両極に立つ。卑弥呼の鬼道は中心的憑依の純粋型——確立した座に結びつき、宗女に継承される、制度的・定着的な権威——であり、神功皇后の託宣は周辺的憑依——特定の座を持たず、個別の危機に応じて発動される、カリスマ的・可動的な権威——である(5-3 節、6-5 節)。そして6-6 節の民族誌的素描が示唆したように、この両極は断絶した二つの型ではなく、制度化の勾配の両端である。底辺の村の巫女から頂点の卑弥呼まで、託宣的機能は農耕社会のあらゆる規模に遍在し、制度化の度を異にして現れた。状態像と職能とを腑分けするヤスパース的な方法的態度(2-3 節、6-4 節)は、この全体を貫く背骨であり、これによって本稿の状態像の分析は、姉妹篇「卑弥呼の統治装置」の統治形態の分析と、「制度化された祭祀的職能」という一点において接合する[24]。エーの視角は、この双対の定位に、内容の側からの規定を一つ加える。エーがシャーマンの職能の中心に据えた治病を、二人の巫女王はともに欠き、彼が治癒と並べて掲げたもう一方——占い、すなわち託宣——だけを担う(6-3 節)。座標系が測る様式と位置の水準では両極に分かれる二人が、職能の内容の水準では同じ一点を共有する——巫女王という型は、より広いシャーマン概念のうちから、治病なき託宣特化型として切り出されるのである。
本稿が新たに立てた問い——編纂者たちは神功を卑弥呼に見立てながら、なぜ正反対に造形したのか——についても、判定をまとめておく。『日本書紀』神功紀の分注が示す見立ては、年代の水準の操作である。編纂者たちは魏への遣使という外部の記録に神功の紀年を重ね、大陸の史書の権威を年代の側から借りた。しかし類型の水準では、彼らは卑弥呼を写していない。彼らが神功に与えた座標——周辺的・カリスマ的・エクスタシス的・占術的——は、王統を開く託宣という物語上の任務が要求する座標であり、その配置は全軸にわたって一貫している(6-5 節)。したがって「編纂者の失敗」という読みは採りがたい。写し損ねたのではなく、写す必要がなかったのである。残る可能性——本稿がなお読み解いていない意図——は、開いたままにしておく。たとえば、中心的・制度的な座を占める巫女王の記憶を、周辺的・一回的な託宣者の姿へ書き換えること自体に、託宣を王統の外部の出来事として飼い慣らそうとする編纂期の王権の側の動機があった可能性は、排除できない。だがその検討は、記紀の託宣記事を編纂期の宗教観の史料として体系的に読み直す作業(5-1 節に指摘した問題系)に属し、本稿の射程を超える。ここで確定できるのは、座標系がこの問いを、漠然とした違和感から、軸ごとに判定可能な命題へと変換したということ、そしてその変換の要をなしたのが、人物の型を物語上の任務に接続する社会的機能の軸であったということである。
エリアーデとキャンベルの提供する比較宗教学的・比較神話学的な枠組みは、これらの過程を個別の事象としてではなく、人類の宗教史における普遍的な構造の日本的実現として理解することを可能にする。自前の努力のみで文化・文明を築き上げた例が人類史上存在しないように、自前の宗教的発展のみで一つの宗教体系を形成した例もまた存在しない。異なる文化圏に起源を持つ宗教的要素の接触と融合こそが、宗教史を推進する力なのであり、古代日本の宗教的変容はこの普遍的原理の東アジアにおける鮮やかな実現として、改めて認識されるべきであろう。
なお、本稿はシャーマニズムの全体像を概観することを目的とした理論的・解説的論考であり、個々の論点についてはより詳細な検討を要する。エリアーデの一般化に対するその後の批判と、それに対する理念型としての擁護については、3-1 節に述べた。日本のシャーマニズム的要素の起源を新羅系の経路に求める議論への異論——縄文時代からの在来的要素の可能性、南方系のシャーマニズムの影響など——については、今後さらなる検討が必要である。また、シャーマンの召命危機を精神病理に還元せず、文化特異的な発達的危機として捉える解釈、およびそれをヤスパースの了解/説明の区別に照らして位置づける方法的態度については、2-3 節に述べたとおりである(ウォルシュおよびヤスパースを参照)[21]。本稿の意義は、確定的な結論を提示することよりも、古代日本の宗教的変容を、エリアーデ・キャンベル・ルイスの提供する比較的視座のなかに——そして二人の巫女王を、同じ一つの座標系の上に——位置づける試みを示すことにある。