【日本語要旨】 フーコー『狂気の歴史』以後の精神医学史記述を書き換えた精神科医グラディス・スウェイン(1945–1993)の、日本語では初となる人物紹介である。ゴーシェの二篇の序文を基本典拠として、その生涯——恵まれぬ出自、1965年の政治的形成、1968年の精神医学の神経学からの分離が開いた自律的精神科課程の第一世代という制度的位置、そして病と沈黙——を素描し、メルロ゠ポンティとアロンがルフォールにおいて交差し、カーンのゴーシェを経て『リーブル』創刊号のスウェインへ至る知的系譜を文書によって跡づける。あわせて共著者ゴーシェのその後、ポステルの実証史と英語圏における受容を概観し、フランスの医師資格制度についての詳注と簡注付き著作目録を付す。本稿は、本紀要のスウェイン関連諸論文の共通の参照先(人物・系譜・書誌のハブ)として書かれた。
Abstract. This paper offers the first Japanese-language biographical introduction to Gladys Swain (1945–1993), the French psychiatrist whose work reshaped the historiography of psychiatry after Foucault. Drawing chiefly on Marcel Gauchet’s two prefaces to her posthumous works, it sketches her life — her modest origins, her political formation of 1965, her place in the first generation trained after the 1968 separation of psychiatry from neurology, and her final years of illness — and documents her intellectual genealogy from Merleau-Ponty and Raymond Aron through Claude Lefort to Gauchet and the journal Libre. An overview of her reception in empirical historiography (Postel) and in the English-speaking world, a detailed note on the French system of medical qualifications, and an annotated bibliography complete the portrait, which is designed as a reference hub for this bulletin’s studies of Swain’s work.
*本紀要はこれまで、スウェインの学説を『精神医学の発祥』第六章(ピネル発祥論)[17]、フーコー批判論[18]、および『人間精神の実践』論(草稿)[19]において扱ってきたが、人物としてのスウェインを簡潔に紹介する一編を欠いていた。仏語圏・英語圏を通じて彼女の評伝的文献はきわめて乏しく、本稿はその空白を埋めるとともに、上記諸論文のための共通の参照先(人物・系譜・書誌のハブ)となることを意図する。学説の内容には立ち入らず、各論文への参照にとどめる。〔 〕内は調査中・要確認の箇所を示す。
序章 なぜスウェインか
グラディス・スウェイン(Gladys Swain, 1945–1993)は、フランスの精神科医であり、フーコー『狂気の歴史』以後の精神医学史記述の座標軸を書き換えた歴史家である。研究者として書きえた期間は約10年、単著は一冊にすぎない。しかしその一冊『狂気における主体——精神医学の誕生』(1977年)[1]が開いた地平の上に、今日の実証的精神医学史も、共著者マルセル・ゴーシェ(Marcel Gauchet, 1946– )の政治哲学も、そして本紀要のピネル発祥論も立っている。ところが彼女の生涯そのものについて語る文献は、夫ゴーシェが遺稿集に付した二篇の序文[2] [3]のほかにはほとんど存在しない。本稿は、この寡黙な資料状況のなかで現在確認しうる事実を整理し、彼女を取り巻いた知的風土を、アロンからルフォールを経てゴーシェに至る系譜のうちに位置づける。精神医療の読者を第一の宛先とし、フランス政治思想への予備知識を前提しない。
第一章 生涯
1-1 素描
スウェインは1945年、アブロンに生まれ〔県は未確定。原文注2参照〕、1993年9月22日、48歳でパリに没した[2]。残された著作は、単著『狂気における主体』(1977年。実際の配本は1978年1月、32歳の時であった[3])、ゴーシェとの共著『人間精神の実践——精神病院制度と民主主義革命』(1980年)[8]、雑誌論文十数篇、そして没後にゴーシェの編纂で刊行された論文集『狂人との対話』(1994年)[2]と共著『真実のシャルコー』(1997年)[20]である。執筆期間は1977年から1987年までの約10年間[2]。量からすればつつましいこの仕事が、しかし刊行から半世紀を経てなお、精神医学の誕生についての最も豊かな別解として参照され続けている。
家庭環境について、公刊資料の語るところは少ない。ただゴーシェ自身が遺稿集の序文において、彼女が「反逆的な頭脳であり、そのうえ女性として、決して恵まれた生まれではなかった(une tête rebelle … en tant que femme, de surcroît point bien née)」と記し、旧い大学・施設秩序の不正義を「何ものも、決して、彼女に忘れさせることはできなかった(Rien, jamais, ne put le lui faire oublier)」と続けていることは注記に値する[2]。恵まれたとはいえない出自から医学部に進み、当時なお男性優位であった医学アカデミズムのなかで道を切り開いた——彼女の思考を終生特徴づけた反骨精神(esprit de fronde)[4]の伝記的な根がここにある。
1-2 1965年——医学部と、もう一つの形成
スウェインの知的形成を理解する鍵は、それが医学部の講堂の内部だけで行われたのではないという点にある。ゴーシェの証言によれば、彼女は1965年、大学入学と歩を揃えて政治活動に入り、トロツキスト系の革命的共産主義青年同盟(JCR)に参加した[2]。ゴーシェはこの経歴を「当時の医学生としては比較的稀な素養(un bagage relativement rare pour une étudiante en médecine de l’époque)」と呼び、そこで彼女が社会と歴史とについての理論的な文化変容(acculturation)を得たことを強調している[2]。社会とは何か、制度はいかに人間を形づくるかという問いをめぐる読書と論争の訓練が、医学のカリキュラムに先立って彼女の思考の鋳型を作った。68年5月の衝撃はレーニン主義的正統からの離脱をもたらしたが、その後のいかなる幻滅も、旧秩序への批判的まなざしを彼女から奪うことはなかった[2]。
学位論文(この語の制度的な意味について原文注6参照)『狂気における主体』の構文が、通常の医学教育では獲得されえない水準の——主節と挿入句が幾重にも折り畳まれ、譲歩と反転を経て結論に至る、哲学的エッセーの伝統に属する——ものであることは、この事実からはじめて了解可能になる。彼女の散文は医学部で書かれたのではない。それは政治理論の militance と、第二章で述べるルフォール=ゴーシェ周辺の哲学サークルという「第二の大学」で鍛えられたのである。英訳版の序文を書いた思想史家シーゲルが、ゴーシェ=スウェインのテクストの難解さについて「本文が必ずしも読みやすくないとすれば、その理由は、著者たちが自ら書く対象である人々への情熱的で深く人間主義的な関与のうちにある」と証言していることは、この文体の由来を別の側から照らしている[10]。
1-3 知的風土——フーコー、ラカン、反精神医学
彼女が精神医学を選んだ1960年代末から70年代初頭のフランスは、この学問の存在理由そのものが問いに付された時代であった。支配的枠組みはフーコー『狂気の歴史』(1961年)が与え、そこに反精神医学の異議申し立てとラカン『エクリ』(1966年)の「純粋精神分析」の約束が重なっていた。時代のジレンマはゴーシェの要約によれば「病院か、寝椅子か(L’hôpital ou le divan ?)」である[2]。スウェインの独自性は、この風土のただ中にあって、そのいずれの潮流にも身を委ねなかったことにある。彼女は病院を、すなわち規律〔学問分野〕としての精神医学そのものを選び、狂気のロマン化(ヘルダーリンやアルトーを旗印とするそれ)を退け、支配的な諸枠組みを放棄するのではなく厳密な歴史的検証にかけた。ゴーシェが彼女の核心として挙げるのは「自分自身で考えようとする還元不可能な配慮(l’irréductible souci de penser par elle-même)」であり、「謙虚さと粘り強さ、非妥協と受容性」の結合であった[2]。その検証の到達点——フーコーの参照文献の水準にまで降りた解体——については、拙稿フーコー批判論[18]およびピネル発祥論[17]を参照されたい。
この知的風土の下部には、制度の風土がある。クレルヴォアのエー評伝第六章が伝えるとおり、1965年の時点でフランス全土には精神医学の講座が4つ(パリに2つ、ストラスブール、マルセイユ)、神経精神医学講座が6つ(リール、リヨン、ボルドー、トゥールーズ、モンペリエ、ナンシー)しかなく、教育の実権は事実上神経学が握っていた[24]。この状況に対し、アンリ・エーを中心とする進化精神医学会の『フランス精神医学白書』運動(1965〜67年)が教育改革と精神医学の格上げを要求し、68年5月に続く大学改革の奔流のなかで、精神医学は神経学から分離されて独立の専門課程(CES de psychiatrie)と独自の教授資格試験を持つ自律的学科となった。興味深いことに、エー自身は「離婚」には慎重で——分離すればアメリカのように精神医学が医学から精神社会学へ流出することを恐れ——比率を逆転させた統合(精神神経学)を唱えていたのだが[24]、いずれにせよ、1965年に大学に入り70年代初頭に精神医学を選んだスウェインは、この改革が開いた自律的精神科課程の、文字どおり第一世代に属する。エーとスウェインのあいだに個人的な接点を示す資料はない(両者の思想上の交差については拙稿[18]第三章第五節参照)。しかし制度の水準では、エーらの闘いが押し開いた課程のなかで、彼女は精神科医になったのである。付言すれば、彼女の単著を刊行したトゥールーズのプリヴァ社は、エーが1965年12月に自らの改革案「精神医学領域の学会組織化計画」の刊行を託した、精神医学と縁の深い出版社でもあった[24]。
1-4 病と沈黙
執筆の十年ののち、「病と苦しみ(la maladie et la souffrance)が彼女を書くことから遠ざけた」とゴーシェは記す[2]。病名について、ゴーシェは序文でもその後の回想でも一切を明かしておらず、公刊資料に病因を特定しうる記述は存在しない。確実に言えるのは、約6年に及ぶ闘病の末、1993年9月22日に没したという事実のみである(原文注1)。没後、ゴーシェは散逸した論文を集成して『狂人との対話』を編み、未完の共同研究を『真実のシャルコー』として完成させた。研究の中断から40年近くを経て、その仕事は古びていない。むしろ操作的診断の時代が「狂気における主体」の問いを回避し続けているだけに、その現代性は増している。
第二章 系譜——アロンからスウェインへ
2-1 ルフォールという結節点
スウェインを取り巻いた知的環境の中心には、クロード・ルフォール(Claude Lefort, 1924–2010)がいる。精神医療の読者のために、この政治哲学者の位置を手短に記しておく。ルフォールはリセ・カルノーでメルロ゠ポンティに学んで哲学に入り、戦後はカストリアディスとともに反スターリニズム左翼の伝説的グループ「社会主義か野蛮か」を創設した。他方で1952年頃からレーモン・アロン(Raymond Aron, 1905–1983)と知り合い、その支援によってカーン大学の社会学ポストを得る(1966〜71年)。国家博士論文『作品の労苦 マキャヴェッリ』は、ほかならぬアロンの指導のもとで1971年にパリ第一大学で審査され、翌年刊行された[11] [12]。すなわちルフォールという人物において、メルロ゠ポンティ的現象学と反全体主義左翼の系譜が、アロン的自由主義の系譜と交差している。全体主義批判と「権力の空白の場」の理論はこの交差から生まれた。
2-2 カーンの交差点からリーブル創刊号へ
ゴーシェはカーン大学でルフォールに直接学んだ弟子である。ルフォールのカーン在職(1966〜71年)は、ゴーシェが同大学で哲学・歴史学・社会学の三専攻を並行して学んだ時期(1966〜71年)と正確に重なり[12]、〔確認中ながら〕おそらくスウェインの学生時代とも重なる(原文注2)。以後ゴーシェはルフォールらと『テクスチュール』誌(1971年〜)、ついでカストリアディス、クラストルらと『リーブル』誌(1977〜80年、パイヨ社)の中心にいた。スウェインのこのサークルへの帰属は、推測ではなく文書で確認できる。彼女は『リーブル』創刊号(1977年)に論文「狂気の二つの時代(Deux époques de la folie)」を寄せており[6]、これは後に「カントからヘーゲルへ」として遺稿集に収められる論文の初出にほかならない。学位論文刊行と同じ年に、ルフォール、カストリアディス、クラストルと誌面を分かち合ったという事実は、彼女がこの政治哲学サークルの周縁ではなく執筆陣の一員であったことを示している。翌年には、ゴーシェとの連名で、エスキロールの1805年学位論文『情念論』再刊に序文を寄せた[7]。1980年、共著『人間精神の実践』がガリマール社の人文科学叢書から刊行され、同年ゴーシェがノラとともに創刊した『ル・デバ』誌には、その後も二人の共同論文が発表されている(1984年、1986年)[13]。
スウェイン自身が自らの分析方法の着想をルフォールに負うことを認めていたことは、英語圏の研究によって記録されている[4]。社会が自己自身といかなる関係を取り結ぶかというルフォールの問題構成が、精神病院という一制度を近代民主主義社会の自己関係の結晶として読む『人間精神の実践』の方法を準備したのである(この点の立ち入った検討は拙稿『人間精神の実践』論[19]に譲る)。遺稿集所収の「カントからヘーゲルへ」が示すとおり、彼女はドイツ観念論の内部を自由に動くことができた。精神科医がカントの魂の病の分類とヘーゲルの Verrücktheit 論とを精神医学史の時代区分として読み替えるこの離れ業は、医学教育の産物ではありえない。第二の大学の産物である。
2-3 フランス思想地図のなかのこの系譜——サルトル、アルチュセール、フーコーとの対比
日本の読書界に定着している戦後フランス思想の見取り図は、おおよそ次の一本の線である。サルトルの実存主義から、レヴィ゠ストロース、アルチュセール、ラカンの構造主義へ、そしてフーコー、デリダ、ドゥルーズのポスト構造主義へ。この線は、マルクス主義とその高等師範学校(ENS)における構造主義的刷新(アルチュセール)、ついで理性そのものへのニーチェ的批判という、いわば革命の思想の系譜である。日本で「フランス現代思想」として翻訳・受容されてきたのは、ほぼこの線に限られる。スウェインを取り巻いた系譜は、これとは別の、日本からは見えにくいもう一本の線に属する。
その源流の一方にアロンがいる。アロンは ENS でサルトルと同期の「小さな仲間(petit camarade)」であり、1928年の哲学教授資格試験に首席で合格した(サルトルはこの年落第している)。ソルボンヌの社会学講座を経て1970年にコレージュ・ド・フランス教授。同時に30年にわたり『フィガロ』紙の論説を書き続けた——学問的正統性と実践的評論とを兼ねるこの二重活動が、日本でアロンが「アカデミズムと同時に実践家として正統的」と評価されるゆえんである。しかし本国での位置は長く少数派であった。『知識人の阿片』(1955年)でマルクス主義を知識人の世俗宗教として批判したアロンに対し、サルトル全盛期の風潮は「アロンとともに正しくあるより、サルトルとともに誤るほうがよい」という警句に要約される[22]。転機は1970年代である。ソルジェニーツィン『収容所群島』仏訳(1974年)を画期とする反全体主義の季節のなかで評価は逆転し、晩年の『回想録』(1983年)はベストセラーとなった。日本でも1999年、その大部の邦訳が2巻本(第一巻「政治の誘惑」・第二巻「知識人としての歳月」、三保元訳、みすず書房)として刊行されている[22]。
源流のもう一方は、反スターリニズム左翼である。ルフォールがカストリアディスとともに創設した「社会主義か野蛮か」(一九四八/49年〜)は、左翼の内部からソ連官僚制を批判した先駆的グループであり、その批判は反全体主義が流行となる四半世紀前に始まっていた。すなわちこの系譜は「右」の系譜ではない。反全体主義という一点において、アロン的自由主義と非共産党左翼とが合流した線なのである。ルフォールの博士論文をアロンが指導したという事実(2-1)は、この合流の最も簡潔な象徴といえる。1970年代後半、合流は制度化する。フランス革命史の修正とトクヴィル復権を主導したフュレ(François Furet)が社会科学高等研究院(EHESS)の総長となり(1977〜85年)、ルフォールも1976年に EHESS に移った。論壇では、アロン周辺の『コマンテール』誌(1978年〜)とノラ゠ゴーシェの『ル・デバ』誌(1980年〜)が、『レ・タン・モデルヌ』的な参加知識人の時代に代わる新しい空間を開いた。米国の研究史はこの転換期を「反全体主義モーメント」と呼んでいる[23]。
ゴーシェは、この合流点の申し子である。カーンでルフォールに学び、ルフォールの紹介でフュレと知り合い、フュレとノラの後押しによって1989年、EHESS の「レーモン・アロン政治研究センター(Centre de recherches politiques Raymond-Aron)」に迎えられた[12]。制度上の所属先が文字どおりアロンの名を冠していたこと以上に、アロン——ルフォール——ゴーシェという系譜の実在を雄弁に示すものはあるまい。また1980年にノラが『ル・デバ』編集長にゴーシェを起用したことは、当時、フーコーからの距離の表明とも受け取られた[12]。
精神医療の読者のために要約すれば、こうなる。この系譜は、日本で著名なアルチュセール=フーコーの線と同じ主題——近代・権力・主体——を争いながら、正反対の結論、すなわち民主主義の擁護とその内的危険の診断へ向かった「もう一つのフランス思想」である。政治的には旧来の右でも共産党的左でもなく、反全体主義的自由主義と非共産党社会主義のあいだに立つ(ゴーシェの自己規定「哲学的社会主義者」はこの位置を指す)。そしてスウェインの『狂気における主体』と共著『人間精神の実践』は、この系譜の方法——トクヴィル的な民主主義分析——を精神医学史に持ち込んだ最初の、今なおほとんど唯一の作品である。フーコーに親しんだ日本の読者にとって彼らの仕事が見えにくかったのは、仕事の質のゆえではなく、この地図の半分が翻訳されてこなかったことによる。
第三章 共著者のその後——ゴーシェの軌跡と論争
3-1 精神病院から宗教へ、そして移民へ
スウェインの仕事は今日、多くの場合ゴーシェの名とともに読まれる。それゆえ共著者のその後の軌跡と、それをめぐる論争とを知っておくことは、精神医療の読者がスウェイン受容の現在を測るうえで欠かせない。『人間精神の実践』の5年後、ゴーシェは『脱魔術化された世界——宗教の政治史』(1985年)によってフランス思想の第一線に立ち、以後『民主主義に抗する民主主義』(2002年)、大部の『民主主義の到来』全四巻(2007〜17年)へと民主主義論を展開した[14]。その根本主題——超越的審級の消滅後、社会は異質な他者を外部に排除するのではなく内部に包摂しようと企て、その企ては挫折する——が、精神病院論の直接の延長にあることは見やすい。
3-2 「右傾化」批判
2010年代以降、ゴーシェは移民・ライシテ・ポピュリズムをめぐる発言によって、左派からの強い批判——保守化、さらには反動という評——を招いた。自らは「哲学的社会主義者」と規定する[15]。経緯の要点は次のとおりである。すでに1990年の『ル・デバ』論文で彼は、必要なのは移民の停止ではなく、移民のプロセスを社会的主権の領域に再挿入する「統御(maîtrise)」であると論じていた。しかし2017年のインタヴューでは移民の「性質変化」を語り、「生粋の人民(peuple de souche)」と新来の人民の並存という語彙を用いて、極右の言語への接近と批判された。2014年には「ブロワ歴史の集い」開幕講演者への指名をめぐりボイコット騒動も起きている(詳細は原文注3)。
本稿の観点から重要なのは二点である。第一に、これらの発言は時論的逸脱ではなく、精神病者から宗教を経て移民へと対象を変えながら続く「他者の包摂とその限界」という問題系の一貫した帰結として読める。第二に、しかしまさにそのゆえに、包摂される他者の像が理論の必要に応じて構成されるという操作——『人間精神の実践』の精神病者像をめぐって拙稿[19]が提起した批判——が、対象を変えて反復されている可能性も同時に示唆される。スウェインを読む者は、ゴーシェをめぐるこの論争を、彼女の受容の背景雑音としてではなく、二人の共著が孕んでいた緊張の後日譚として理解することができる。
3-3 英語圏での再評価と『ル・デバ』の終刊
他方、英語圏ではむしろ近年、評価が定着しつつある。ポスト構造主義への反動のなかで、歴史的・人類学的に基礎づけられた民主主義論として「もう一つのフランス思想」が再発見され、批評論集も編まれた[16]。英語圏の評者がゴーシェの現代診断を「自律の過剰ではなく盲目」の問題として捉え直している点は、単純な保守反動という評とは異質の射程を示している。40年にわたりゴーシェがノラと主宰した『ル・デバ』が2020年に終刊したこと[13]は一つの時代の終わりを画したが、同じ時期に国外では彼の古典化が進むという逆説のうちに、その現在の両義的な位置がよく現れている。
第四章 受容——実証史・英語圏・教育
4-1 実証史における受容——ポステル
スウェインの仕事が実証的精神医学史の側でいかに受け取られたかを最もよく示すのは、医学史家ジャック・ポステル(Jacques Postel, 1927–2022)である。ポステルは1968年、フーコーのピネル『論考』参照不全(初版から引用すると明示しながら実際には第二版に依拠していること)を最初に指摘した人物であり、スウェインはこの指摘を継承して解釈構造全体の問題へと徹底化した[17]。逆にポステルの側のスウェインへの依拠は、それ以上に深い。晩年の論文集『西洋精神医学史論文集』(2007年)所収のピネル神話論において、彼はスウェインを「本研究がその多くを負う人物(à qui nous devons beaucoup pour cette étude)」と明記し、『狂気における主体』を二十箇所近くにわたって典拠とし、「スウェインが示したように」という定式を繰り返す。さらにピネル論の哲学的枠組み——カントからヘーゲルへの「断層線」と「理性の残余」の発見——を『リーブル』創刊号の彼女の論文から採り、「故グラディス・スウェインが1977年に正しく示したように(comme l’a montré si justement la regrettée Gladys Swain)」と書いている[5]。もっともポステルは無条件の追随者ではなく、ピネル的断絶は「スウェインが信じさせようとするほど全面的ではない」という実証史家らしい留保も残した(原文注4)。依拠と留保のこの均衡こそ、彼女の仕事が実証史の側で真剣に受け取られたことの証左である。
4-2 英語圏——抄訳と叢書「New French Thought」
英語圏の受容は1999年、『人間精神の実践』の英訳 Madness and Democracy(プリンストン大学出版局)によって始まった[9]。一部の章を省略した抄訳であるが、内容は十分に伝わる訳業である。重要なのはこの英訳が、ポスト構造主義的「フレンチ・セオリー」への対抗として企画された叢書「New French Thought」(T・パヴェルと M・リラの編集)の一冊として出たことで、スウェインの英語圏デビューは最初から「もう一つのフランス思想」の文脈に置かれていた。同書に付された思想史家ジェロルド・シーゲルの長い序文は、本書を「その人間性と分析力とによって、提起する重要な諸問題への再取り組みを要求する作品」と評しつつ、フロイト=全体主義判断・心的知の民主主義起源説・国家中心主義の三点に明晰な批判を向けており、英語圏受容の水準を示す第一級の文書である[10]。2009年には思想史の専門誌に、ゴーシェ゠スウェインの主体論の系譜を1968年以後の文脈に位置づける本格的研究が現れている[4]。
4-3 現在——教育のなかのスウェイン、日本での不在
フランスでは現在も、遺稿集所収の「カントからヘーゲルへ」が精神医学教育の注釈テキストとして用いられている[21]。単著は1997年にゴーシェの新序文「ピネルからフロイトへ」を付して再刊され、参照は途絶えていない。これに対し日本語圏では、管見の限り、スウェインの著作の翻訳も、まとまった紹介も存在しない。本紀要が学説の検討[17] [18] [19]と並行して本稿を置くのは、この不在を埋める最初の一歩としてである。
第五章 著作目録(簡注付)
スウェインの著作を、単行本を軸に刊行順で掲げる。雑誌論文の大半は没後『狂人との対話』に集成されており、同書の目次が事実上の論文目録を兼ねる。
Le sujet de la folie : naissance de la psychiatrie, Toulouse, Privat, coll. « Rhadamanthe », 1977(配本1978年1月). — 学位論文にもとづく単著。再刊:Paris, Calmann-Lévy, coll. « Liberté de l’esprit »(レーモン・アロンが1947年に創設した叢書), 1997, ゴーシェ序文「De Pinel à Freud」付。
« Deux époques de la folie », Libre, n° 1, Paris, Payot, 1977. — カント/ヘーゲルの断層線を導入した論文。ルフォール゠カストリアディスの『リーブル』創刊号に掲載。後に「De Kant à Hegel」の題で『狂人との対話』に収録。
Esquirol, Des passions considérées comme causes, symptômes et moyens curatifs de l’aliénation mentale(1805)の再刊への序文(ゴーシェと連名), Paris, Librairie des Deux Mondes〔刊行年は資料により1978年または1980年。原文注5〕.
La pratique de l’esprit humain : l’institution asilaire et la révolution démocratique(ゴーシェと共著), Paris, Gallimard, Bibliothèque des Sciences humaines, 1980. — 英訳(抄訳):Madness and Democracy : The Modern Psychiatric Universe, trans. C. Porter, foreword by J. Seigel, Princeton U. P., coll. « New French Thought », 1999.
ゴーシェとの共同論文, Le Débat, 1984 および 1986.〔表題・誌号は確認中〕
Dialogue avec l’insensé : essais d’histoire de la psychiatrie, préface de M. Gauchet(« À la recherche d’une autre histoire de la folie »), Paris, Gallimard, Bibliothèque des Sciences humaines, 1994. — 没後刊の論文集成。
Le vrai Charcot : les chemins imprévus de l’inconscient(ゴーシェと共著), Paris, Calmann-Lévy, 1997. — 未完の共同研究をゴーシェが完成させたもの。
結び
10年書き、6年病み、48歳で没した一人の精神科医が、フーコーという巨大な構築に対する最も根底的な批判を用意し、実証史家に枠組みを提供し、政治哲学の一系譜と交差した。その生涯の記録は乏しく、本稿にもなお〔調査中〕の括弧が残る。しかしこの乏しさ自体が、彼女の仕事の性格——自らを語らず、対象をして語らしめる——と無縁ではないように思われる。学説の内実については、本紀要の各論文[17] [18] [19]が引き続き扱う。本稿はそのための、小さな肖像である。