2.家庭での対応

<しかしながら,錯乱状態にあったり,幻覚や,"迫害性"の妄想をもっていたり,重篤な性格障害を示している患者を診察室だけで待っているというのは、全く馬鹿げている。>  

       

L.ル・ギオン

 

  家庭での対応は二つの形態がある。家庭訪間と家庭を入院状況と同じようにすることである。Ph.ポメルによれば,<習慣的な生活環境の中で,患者とその近親者の間の特異的な環境の中に現れる第三者,すなわち医療チームの存在が重要となる。介護の必要性がはっきりとしているにも関わらず,それが受けられない患者は,沈黙している場合であれ,自己表現できる場合であれ,実際には医療チームを必要とし,以前から知っている介護者のもとに戻ってくるものである。

 しかし,事実は治療する者と,される者との間には,全く相反する関係が生じる可能性がある。

1.援助や治療を求め,精神科開業医や精神科無料診療所を受診したいと明確に表現することのできる患者。

2. 昏睡状態,出血性状態,重症の外傷状態の患者に対しては,彼らの意向のいかんに関わらず,しばしば緊急に精神科の閉鎖病棟に搬送しなければならないことがある。

 また,精神病理学的な状態に発展するおそれのある孤立状態を見分ける必要があり,このような状況は,精神医学的な接近法によってしか理解され得ない。最も頻繁にみられる状況としては,老人性の痴呆状態に関連したものであるが,精神分裂病性の精神病や慢性妄想病患者もしばしば認められる。家庭での対応はわれわれの経験からすると,以下の三つの職種によってなされる。すなわち,医師,ソーシャル・ケースワーカー,看護婦の三者である。

 <入院時評価>(これは全く病院側の用語である)がすんだ後は,手続き上これらの職種の各々すべてが絶対不可欠ということはない。ともかく,医師は多くの情報を引き出し提供する必要上,定期的に患者の住居に出張診察する必要がある。医者がいつも参加しなくてもよいという議論が,この領域の中立性を保つために主張されるが,われわれには説得力があるとは思えない。事実,精神科医療チームでの経験では,大局的には各職種間が互いに補い合っている。すなわち,当初は数回の訪問を行い,その後は状況に応じて,社会福祉上の問題や身体的な間題に応じてケースワーカーや看護婦が訪間すればよいのである。家庭訪問というのは,単に精神科医療チームのメンバーが患者の住居を訪問するということである。実際上は患者とは住居の外で会うこともあるが,く廊下やスーパーマーケットで患者と会うことを何と呼べばよいのであろうか。また,精神医療に関係した特定の場所でわれわれと会うことに抵抗感をもっている家族と,多機能を有する小社会福祉センターで会うことをなんと呼べばよいであろうか。>(D.トリスラム)

(a)接触を保つための家庭訪問あるいは,住居における介入:

1.精神障害を疑わせる行動異常を示す患者のいる場合,周囲の人々は警察や市町村の当該課などのく下部担当局〉に連絡する。しばしば両価的感情から,密告という方法がとられることもある(手紙,電話,苦情,請願)。このような非難は,はっきりとした形で行われることもあるが,直接的でも個人的でもない形のこともある。どちらかというと後者の方が望ましい。周囲の忍容度とは無関係な様々な理由により,拒否や排除の念が強く表明されることプらる(例えば,追放処置や警察による捜査の類である)。

 患者に対する明確な要求は無いにしろ,周りの人々達は明らかに拒否的な気持ちでいるのは明自である。例えば,騒音と攻撃性とか,火事の危険性とか,水による被害といった類である。しかし,危険性というものを正確に理解するのはむずかしい。

2.精神医療専属でない社会福祉機関が携わっている患者が問題となることがある。若い患者は仕事上の問題をかかえていることが多く,また,老齢者は家政婦の介助を拒否したり,周囲を心配させるような障害を示すことがある。

3.患者の家族や周囲の人々(近所の人々,管理人,友人)には理解し難く,動きが取れないという状況下で不安に陥ることもある。

 それまでに精神科医療チームとは関わりのなかった患者の特徴を把握することに加えて,在宅訪問はこれまでフォローしてきた患者にも必要である。様々な問題や,再発の始まりは,しばしば治療の中断の後に発生してくるものであり,そのような場合く家庭訪問にでかけなければならないのである。〉この種の家庭訪間に様々な要素が関係してくる。

1.介護の必要性が予想されるケース。

2.病識が欠如し,そのため介護およぴ診察の中し出を拒否するケース。

3.老齢およぴ,身体疾患の合併のために移動が不可能なケース。

時には,緊急性を要する場合がある。例えば,

1.不安定な身体的状況や,拒絶症状。

2.緊急の対応を必要とする急性の病的状態の場合。

3.自殺の危険性や危険な行為に及ぶ可能性。

第三者からの要請の前に,患者がこの最後に述べた行動に移るのを防止するよう心がける必要がある。

 通報を受けた場合,可能ならば上記の評価を患者およぴ関係機関との相談の上で行うことが是非とも必要であり,これにより間題の輪郭をつかむことが可能となる。制度運用上の規定は家庭訪間の頻度を決定するうえで参考となる(人員の数,小区域の範囲や距離,運用上必要な資材)。われわれは,このようなタイプの運用法によって,様々な需要に応えてきた。

 第三者的な距離を置いての状況評価は困難である。家庭訪問では結果から原因に遡るということが避けられず,われわれはまさに緊急対応が必要な精神医学的並ぴに身体医学的な現実的状況に定期的に直面しているのである。

 たとえ在宅訪問を行わずに待機することが可能であり,またその方が望ましい状況であっても,在宅訪問は患者に対して教育的な効果があり,かつ状況を迅速に改善させることができるものである。われわれは大勢で訪問することに躊躇しない。したがって,医師や看護婦,ソーシャル・ケースワーカー等と一緒になって訪間するのである。こうすることで,即応体制がとれるようになる(入院,種々の病状への対応)。そして,チームの客種職能の参加によって時間の節約にもなり,たとえ出張が無駄に終わったとしても,何ら気詰まりを感じることはない。

 精神科医療チームの中に,この種の運用形態についての控え目な運用態度をとる方がよいとするものもあるこロアンヌでの経験から,J.C.ロレは種々な状況に結ぴついたいくつかの戸惑いについて以下のように記載している。<緊急の状況の中には,精神科医療チームそのものによる介入よりさらに適切な介入の機構が存在するようである。最初の段階では,内容的には,より一般性のある医療チームや救急医療救助サービス(S..A.M.U.)の方がより適切なように思われる。この場合,医師が早急に現場に到着てきるという利点がある。もし必要とあれば,救急センター病院への早急な入院も可能であり,そこでは精神病患者という烙印が押されなくてすむという利点がある。また,精神科医療チームとしても,現実のもろもろの問題から,需要に適合した即応体制がとりにくいということも事実である。この部署の要員数の乏しさ、小区域医療地区の範囲の問題、業務用の車の数が足りないために不可能のことが多いのである。したがって、現状では、このような理由によっても精神科救急は、救急医療センター病院の業務とならざるをえない。>

 このような態度には議論の余地があり、また神経症的抵抗(手を汚したくないとか、いつもよい子でいたいという期待)を認めはしながらも、J.C.ロレはなおかつ以下の二点を主張し続けている。

1.取り扱い上の危険性と精神科の領域の限界を越えてしまう危険性がある。

2.危機的な状況下になされる行為と、その後の介護の一貫性とが両立しなくなることがある。


(b)相談および治療を目的とした在宅訪問:

 これらの仕事は公衆衛生局(I'O.P.H.S.)の訪問看護婦が対応するもので再発の予防という観点からなされる(アルコール依存症や結核)。われわれの考えによれば、家庭訪問として登録されている患者を対象にすることにしている。このような治療的関係はどのような患者に対して頻繁になされるのであろうか。多くは老齢の患者に対してであり、この治療的関係によって精神療法的な支持療法と医療的な観察や薬物療法の維持、患者の身辺の人々への保証が可能となるのである。

 精神障害にあっては、他の援助方法と同様に、住居訪問は患者の自律的な方向への援助としてとらえられる。

1.アパートの整理整頓の援助、不安感を乗り越えるための援助。

2.診察よりもむしろ重要なことである、そばにいるという必要性をみたすことができる。

3.医療チームが十分に装備されていない小区域においては、介護の唯一の可能性となる。

4.どんな形にせよ受診を拒否する家族に対する接近法となる。

 相談のための在宅訪間によって,関係が定期的に結ばれることは,精神分裂病においては,特に望ましい(しかし,この場合,定期的な診察や,遅延性の神経遮断薬の規則的な注射によってよい結果が維持されている可能性もある。)。このような訪問は患者との契約に基づいて計画され,訪問頻度や,時間,訪問する介護者達の構成や関係機関を決めておく。身体障害を有する患著は,独力では積極的な治療活動を行うことができないためこれらのことはより細心になされなくてはならない(つまり精神科無料診療所へ頻回に通院ができないからである)。以下の二つの危険は避けられなければならない。

1,不適応状態に陥った状況から逆に利益を引き出そうとする患者による操作が見られることがある。そして,このような状態は患者を受け身の状態にしてしまうのである。

2.治療的な観点からみればけっして行ってはいけない<警察官の訪問>。これは治療的価値を何ら有していない。

 住居という生活の場で患者と会えることは,診察室や病院の中で会う場合よりも.患者に関するより多くの情報を得ることができる。家庭で会う場合には,相互関係と緊張が生じることもあるが,そのときどきの身体的な諸条件が適切に理解される。患者の自宅を訪問することは干渉主義的で,さらには警察的なやり方とも思われることもあり,このような行為を無遠慮な介入行為と解釈する人もいるまた,このような訪問は患者の要求を考慮に入れず,患者に安心感を与えすきで自発性を制限してしまう可能性がある,と考える人もいる。

在宅入院(H.A.D.)

  社会保障制度上は,最低限4人のパラメディカルが訪間し,毎週医師が患者を診察しなければならない。

 歴史的な観点から述べると,H.A.D.あるいは,この類の制度は,それぞれの小区域医療チームにまたがって機能し,もっぱら都会に設置されたものである。この制度の発展の初期には,利益を目的としない私的な協会の枠の中で試みられて,精神医学の領域でもH.A.D.は,非公式な形で始まった。しかし当初は在宅での介護の対象としては,器質性障害や血液疾患しか対象としえない,という社会的な認識があったことは興味あることと言える。G.ブレアンドルは,小区域医療制度の経験から,いくつかの教訓を引き出し,このような介護の形態の適応の範囲を明確に表現している。

 彼の述べるところによれば,<H.A.Dが慢性患者を取り扱えるようになるためには,小区域医療チームは待つすべをしるべきである。>というものである。事実、H.A.D.は,患者やその回りの者が疲れ果てる数回の入院の後,病気に慣れた状態の時期に勧められる方法である。とにかく,あるH.A.D.は当初,この方法で長期にわたる入院が避けられるのではないかとの判断で提唱されてきたものなのである。

1.<H.A.D.に関しては周囲の人々の考えを考慮することなしには,充分な計画をたてることは困難である。>それは,まだ乏しい経験からしても事実である。周囲の人々という用語には,家族以外に,近所の人や,その他に参加している扶助機関の人をも含んでいる。扶助機関の関係者をないがしろにすると,このような活動に対する否定的な態度が生まれ,その結果,しばしば人院治療の方向に向かうという短絡反応を起こしてしまう危険性がある。

2.<初期の段階でよく見られる誤りは,住居を介入の排他的な場所と決め込んでしまうことにある。精神科医療チームは在宅訪問の範囲内で,様々な可能性を受容することができなければならない。>

3.<病院への入院はさせたくないという思い込みは,ある時点では治療の進展にとっては乗り越え難い障害になることがある。>人院せさるを得ない結果になった場合は直ちにH.A.D.を中止するすべを知っておく必要がある。

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