1.小区域精神科医療チーム

<精神医学は危機的状況にあると言われたことがある。これは科学として危機的状況にあるということではない。精神科医達は常になすべきことを成し遂げてきたからである。すでに1世紀も前から,当峙の社会一政治的ならびに文化的状況を考えに入れた入院体制の確立が見込まれていた。今日においても,精神科医達は,精神科薬物療法の発展によってもたらされた結果を利用できる状況になっても,社会的ならぴに精神療法的な次元に関わる事柄も重要視している。それゆえ,精神医学は方法論的な危機的状況にあると言えるのである>          

M.オーディシオ

                 

 

1)医療一社会医療チーム(L'Equipe medico−soclale)に関する条文の中で述べられていること

 

 1972年3月14日の通達の付帯条項1の中で,<小区域精神科医療チーム>という用語はしばしば実情とは極めてかけ離れた理想的なものを指すために使われている用語である,と記されている。医療チームの構成形態を明示するのは不可能である。それは医療チームの大きさや構成はそれぞれの地域の状況に対応しているからである。つまり,小区域の広がりや,人口密度や分布状況,県の一般医療状況、基本的な介護の水準(院内での潜在的な<慢性患者>の比重),医師が果たす教育的機能,看護婦による指導力等のいかんによる......。いずれにせよ,精神科医療チームは多分野の専門職からなり,小区域での基本的な一般精神科医療には,医師,看護婦,ケースワーカー.心理職が問わっている。また,児童精神医学の分野には,教帥や特別再教育係等の専門職が付け加わっている。出張に費やされる時間が多くなれば,医療チームの装備はそれたけ充実されなければならない。また同様に,患者を責任をもって監督できる病院,ホスピス,治療教育施設等のあるなしも考慮されなければならない。さらに,人院加療が極端に制限されていないかどうか(この体制の発足時には,特にこのような状態が認められるのであるが),さらには,病院外での治療を増大させなければならないかどうかということも考慮に入れる必要がある。いずれにせよ,精神科医療チームのメンバーは,その出身や立場が様々ではあっても,患者の社会復帰という観点からその目的と利益を理解する人々に,共同作業という考えを発見させたのである。1974年の通達では,いくつかの点について,特に医療チームの基準に関して明言されている。すなわち,医学的ならぴにパラメディカルな人材の配置密度については,人院病床数によるのではなく,入院の有無とは無関係に,小区域制の範囲内の治療を必要とする患者の数に比例して決められ,これがいわゆる<活動的な隊列>と呼ばれているものの全体を構成する。さらに,多分野の構成員からなる精神科医療チームの配備密度は以下のものによっても決まってくる。

1.活動の場の再編成,あるいは分布状況。

2.公立およぴ私立の施設の質と分布状況。

3.精神科医や精神科医療チームのその他の構成員の関与を求められる施設,例えばある種の人院施設とか老人施設の数.

新しい基準が試験的に採用されている。しかしながら,現段階でも,精神科医療チームには少なくとも以外の職種がなくては有効に機能することができない。

1.精神科医療チームの医長と副医長

2.3名から4名の内勤医.

3.心理職1名。院外活動のためにl万人の人口に対して常勤看護婦1名。

4.神科医療チームの医療秘書1名。

 さらに、病院以外で活動する職種に加えて,入院医療に携わる職種が付け加えられる。なお,通達では,その客々の役割については明記されていない。しかしながら、これは必ずしも,通達に関わったものの怠慢とはいえない。A.J.アリエは<医療チームとは,集団制での専門的実践,つまり連携および目的を一つにする人々の実践的営みという考えを受け入れた治療的総体と定義されるが理想化されるきらいがある。>と注意している。

 その問題点については,G.ガルロンが見事に記載している。すなわち,<一人ではとても成し遂げることができないような課題があり,その規模や大きさに相応した行動が要求される時には,チームとして仕事をする必要性に対しては誰も反対することはないであろう。また同様に,医療チームは,その構成要素は異なってはいても、互いに力を必要とする複雑な課題を達成するということを目標にすべきである。その各々の構成員が,正確にその職務を遂行していさえすれば,ある瞬間、そのチームは突然に全体として機能し始めるものである。その状態になってこそ,有効に機能しているといえるのである。…また精神医学においては、チームの概念は患者の立場を基礎にした方針に的を絞った方がよい。> その他に以下のいくつかの点を強調しておきたい。

1.それぞれの役割は明確に定義されなければならない。

2.指導性というものは,全体の合意の結果としてのみ発揮されることができる。

3.伝統的な役割,とりわけ二者対立的な関係と結ぴついた特権的な役割から離れる必要がある。

4.それぞれの職種問での厳密に定義された連携の必要性。

5. 摩擦は不可避的なものであり,それがいつも和らげられるというのは幻想にすぎない。

6.定期的な再編成と頻繁な交流の必要性

<それゆえ,制度的な枠の中で真の治療的なチームを作り上げることは途方もなくむずかしいものであるということがわかる。一緒に仕事をする人々は必ずしも自ら希望してこのチームを選択してきたわけではなく,また長期的に同じ職場に留まることもない。また医療チーム全員がチームの外側にいる人々の権威のもとに置かれているのである。>

 しかし,以下のような利点も疑う余地はない。

1.個々の人間の能力を集合することが可能である。

2.個人的な接触が不可能である患者の治療も可能になる

3.治療の継続が保証される。

4.治療上のある種のタイプに対する個人的な抵抗を乗り越えることが可能になる。

5.専門家の養成や技術向上のための教育効率が良い。

事実,この領域においては容易なことはなに一つないのであり,これに関わるすべての人は不屈の忍耐力と自発性を要求される役割を相互に交換する必要性が時に指摘されることがあるが,そのような考えは改めなければならない。各々の構成メンバーの知識や能力に応じて,徐々に、医療的な需要や患者の状態に応じた,それぞれ異なった形の関心が,自ら形成されてくるものである。J.P.アリ工が考えるには,く医療チーム組織の配置の仕方そのものが,チームの構成メンバーにある種の幻想を生じさせるように働きかけてしまう。それは彼らの相互の関係の力動性と,責任のとり方とを結ぴ付けるという幻想である。>

 徐々にではあるが,諸間題の理解や制度の運用の中で,医療者間のある種の特別な関係や親和性が築き上げられていくものである。しかし以下のような危険性は注意しなければならない。つまり,患者を,<法的執行力や,取り扱いの対象とし、互いの競争の賭の対象としてしまい,本来の病者としての扱いがおろそかになってしまう危険性がある,ということに注意が必要である。このようなことが外面に現れてくるということは,内部で起こっていることの反映と見なすことができる。このような場合には,患者を引き受けていく過程と,医療チームを念入に作り上げる作業の間に連携が必要である。>

 <患者の選別>とF.シロワが呼んだところのものは,つまり,ある種の患者は他の患者に比べてより濃厚な関わりが必要である,と言い替えた方がより簡単に言い表すことになるだろう。少しずつではあるが,信頼関係と自信ができあがって,経験は共通のものとなっていく。このような成熟によって,医療チームは,<その技術者的役割を社会復帰活動に変えていく>方向に漸次変化してきたのである。

 一般に転移といわれている問題についてもF.シロワは見事に指摘している。最初に介入した担当者が転勤になり,他のものに代わった場合,その患者が味わう失望感をいかにして避けるか? それぞれの介入者の主導的な役割として,ある種の専門化が見出される。例えば,慢性的な精神病患者や高齢者には,看護婦やソーシャル・ケースワーカー達の介入がうまくいき,神経症性の障害をもった患者や性格障害者には,医師や精神療法家達が好ましいといった具合である。

 このように複数の職員が開わることによって,A.マヌスやA.ブルギユイノンが言うように,<精神科医療チーム全体への転移を弱める>ことが,小区域制の中に定着するようになる。そのかわりに,スタッフはすべて,客々が患者に関わっでいるつもりで仕事に従事しなければならないということはいうまでもない。

 また逆に,熟練した医療チームのアプローチでは個人的な関わりを避けてはならないのである。絶えず疑問をもつことで,<コツ>や<秘訣>の存在という常套的な答えの使用ーこれはいつもそうだというわけではないが避けることができる。病気を治してあげたいという抗し難い望みは,攻撃的な<自己ナルシシズム>に由来するものであり,病者の利益を無視することになりかねないのである。このような治療上の病理的側面は,性急にこ病者を秩序の中にはめ込んでしまうことによって起こるのである。小区域精神科医毒チームが遭遇する様々な間題については,1977年におけるプトーのシャン・ピエールセンターの医療チームが,たいそうな皮肉と真実をこめて表現しでいる。家庭での村応は,未だ不十分で,疲れやすく困難であるが,それらから要約できた補神的な態度を以下のように図式的にまとめている。すなわち:

1.治療や介護の良し悪しによって期待される予後が左右されるというパラノイアックな思い込み。

2.<抑うつ的一現実主義>が支配的になる:すなわち、たとえ何をしようが悪いのはわれわれであり,われわれのやりかたが嘲笑に値するという考え方。

3.<あれやこれやと,骨が折れ,手がかかるということが,結局ははっきりとするのではないかという>恐怖症的感じ方:

 医療チームは決して閉鎖的なものであっでばならず,任意の症例や状況に対して他の医療チームのやり方をも新たに採用L.できる限り従ってみるぐらいの開放性をもつべきである。このようなやり方を転移的な機能と呼んでもよいだろう。J.オッシュマンは次のような例を挙げている。彼によると,く自宅およぴ職場で妄想的になっている患者がいたご雇用主に解雇すると脅かされた彼は,工場のソーシャルワーカーと接触し,われわれに連給がきた。また同様に彼の居住区では,子供達に対する危害を心配した家族からの通報により,小区域制の無料診療所にも問い合わせられ,こうしてこの患者の家族に対する社会扶助が間題となった。徐々に,精神科医と精神科看護婦が家庭に介人するようになった。この介入の組織網には4人が関わり,そしてこれらの4人が精神科医療チームを形成するようになった。こうして,互いに協議しながら事を進めるようになったのである。>

 しかしここに無視できない問題がある。オッシュマンとR.ジャトニガーニュが、ヴィユルバンの小区域医療チームで間題提起されたことに対して指摘するところによると:<職種問の給料の差異は業務上の責任の程度に対応することが望ましい。各々の職種によって決まるのではなく,奨励金制度による給料体制が望まれる。つまり,このようにしてわれわれは部分的であれ職種間の差異を弱めることができる。>しかし全体としての責任ということは,客々の職種の責任性を覆い隠すものではない。県と病院との間での小区域医療チームに関する協約のモデルによると以下の記載がある。<精神科医療チームにより補佐される小区域の医長は小区域精神科医療の医療並びに技術的な面での最大の責任を負う。それは病院治療でも、病院外治療でも同様である。そして県は,規定により関与する機関において,精神病患者やアルコール中毒患者や薬物依存症の患者との間で,職務の遂行に必要とされる職員や行為が危険にさらされる場合の"責任保証"の義務を負うのである。>

 職業上の守秘義務は医師の仕事の補助に当たるすべての職種にも適応される。看護職(公衆衛生法典481条)は,職業上の秘密に関しては刑法により制定された規制下にある。


2)精神科医療チームの構成員

1.医師

 精神科医がどのような役割を果たしているのかということについての議論はこの論考の対象ではない。ここでは,小区域精神科医療チームの中で地域共同体に関わる業務,すなわち効用がはっきりしている業務のすべてである,とだけ言うに止めておきたい。すなわち,小区域制の医療を通じていままでとは別のタイプの関係が患者との間に生じる。医師はこの関係からもはや逃れることができない。ここでは種々の困難はまさに現実のものであり,頑固で緩むことが無く,<診療のために待機していること>が可能な病院内のような物静かな雰囲気の中でなされるものではない。社会的貧困,中でも病理現象と結びついたものはいつの日か破裂し,医師はそれに答えねばならない。われわれの活動は,どれほど多くの管理人室や女中部屋の中でなされたことであろう。この点に関しては,D.トリストラムの述べるところを引用したい。<低家賃住宅や密集した住宅の集まっでいるところは,診療室のゆったりとした環境とははるかにかけ離れているために、プルジョワジー階級出身の若い医師達にとっては,"文化的転移"とは逆の機構が働いていることがどれだけ無視されてきたことか>

精神医学上の症候学や疾病分野学は彼らの役には立つが,いずれかはわかることとはいえ,全く新しい考察を加えることにより内容が豊かになっていく。すなわち,住居や周囲の人々,援助の回路についでの症候学とも呼べるものである。

<患者がおかれている関係性の網の中に入り込むことが必要であり,患者にそれなりの烙印を押してしまうような病院環境の中で現れるような状態を見るだけで満足することはもはや不可能なことである。患者が生きている世界で彼を観察すべきである。精神科医は,患者の人格の多彩な面について熟知しておくことは当然であるが,精神疾患についての豊かな臨床を行えるような態勢に身をおく必要があり,病人の状態を経験を通じて感じている患者の回りの者達の苦労や,また遠く離れているために精神科医が見落としてしまっている諸困難をよく理解すべきである。>(H.ミニョー)

 常勤の医師(医長,副医長)の他に非常勤の医師達も特定の領域で,とりわけ精神療法の領域において治療に参加することが可能である。研修医は専門性を身につける養成途上にある医師達のことである。彼らの責任の範囲はその経験に依存するものである。彼らも精神科医療チームにとっては欠かせない役割を担っている。つまり,彼らは新しい視点や異なった立場からの体験をもっているので,チームの精神的な糧にもなり,それを新たに間題として取りあげることも可能になる。彼らは客部門で1年間研修し,そこで介護に関わる実地体験と大学での知識の矛層に触れることになる。教育的機能を果たさない医療チームは死に瀕しているといってよいのである。

2.秘書

 秘書の役割は絶大である。P.シバドンの表現を借りれば,彼女達はまさに精神科医療チームの<記憶装置>といってよいものである。精神科無料診療所に朝から夜までいて、すべてに精通しており,手早く物事を処理していくという役割を果たしている。彼女達は自由に処理できる大きな権限をもっている。まず受付の業から始まるが,最初は電話対応である。その後も継続的に電話による連絡が必要となる。面談の日時の予約,変更をもとめる電話が患者から入ることもある。また不安症状を訴えてくる場合もあれば,ただ単におしやべりをしたいためにかけてくることもある。また情報の提供,時問内にチームの業務が正確になざれるように段取りをするための電話連絡もある。

 患者との接触は無料診療所で行うが,明確な受信目的で来院する人もあるが,ただ時間を過ごすために出かけてくることもある。また,書類,郵便物や注文品の管理,行政上の様々な書類の作成などの秘書にとっては本来の,しかも非常に重要な業務もある。つまり無料診療所には,行政的な部分と治療的な部分とを分離して考えることはできないという特徴がある。

3.心理士

 正直に言って,この心理士という職名は,精神科医という名称ほどには人を驚かせないとしても,精神科医療チームの中での心理士の位置づけはしばしば曖昧であり,その理由はわれわれにもわからない。まず第一に,彼らの役割は検査に関するものであり,それは心理士のみが実施できる活動である。さらに精神分析的知識や精神療法的な訓練を受けたものは,概して精神療法的な活動を行うようになる。さらに,数多くのグループ活動に参加したり,家庭訪間や,家族療法、その他の治療機関との連携に関わることもできるようになる。心理測定によって,知的機能の測定,性格研究が可能になるのである。これらの2種類の検査は互いに関連しあって,ある特殊な症状の診断的な重要性を考える時にはいつも参考になりうる。

 M.J.ベイリーサランは臨床心理士の活動について以下のような図式化を設みた。すなわち,個人に対する精神療法という直接的活動,情報の提供,精神医管チームや病院外の治療機関の構成員との共同作業,総合検査会議への参加としでまとめている。より正確に述べるなら,活動の重点を家族におき,その状況を分析し,場合によっては家族への介入が必要なこともある。また当該の患者に対して有効と考えられる制度的な機構の分析にも重点がおかれなくてはならない。

 しかし,上記の業務は心理士に特異的なものではないことは明らかである。したがって医療チームの経験が不十分であったり,治療計画案を作成するに当たってチームの中の各々の職種の位置づけが明確になっていないと,衝突や葛藤の原因になりかねない。A.マヌスやA.ブルギュイノンらは,このような葛藤の可能性の本態について以下のように巧妙な位置づけをしている。すなわち,<心理測定の需要がなかったり,又は彼らが障害児童のためのある種の施設への処遇をめぐる書類の作成を命じられなかったりすると,心理士は,治療者になりたい,又はそのような権限を与えて欲しいという希望をもつようになり,それだけが職務と考えてしまう。それゆえ,この問題は単純な問題としてはかたづけられないことがしばしばある。つまり,一方では,医師の資格がないのに患者を治療するという権限を行使したいという心理士の意識があり,また他方では,医師の側にはその排他的な権限を維持しようという必要性がある。したがって,以下のような率直な言い方がいつもできるとは限らない。すなわち,大ざっぱな言い方であるが,医薬品の処方ができるかどうかということがこの状況を言い表しているという言い方である。心理士に対しては,彼らが処方箋や診断書を書くことができないとの理由で,医師による診察のようにはことごとくを保証することができないと反論する者もいる。このことは決して無視できることではないが,ここで問題となるのは、このような技術的な相違点ではなく,お互いの相互の幻想なのである。この問題は、診療所での活動よりも入院環境での活動の方が容易に調整され解決されるものである。

4.看護婦

 精神科医療チームの看護婦の業務は多岐にわたるため,それらを簡単に図式化することはむずかしい。彼らが遭遇する業務の内容について理解するために,精神科医療チームの看護婦であるマリー.テレーズ・プレートによって書かれた管理看護婦向けのの教育課程で便用されている覚書から広範囲にわたって引用させてもらいたい。

<小区域精神科医療チームでの業務についてですが,すでに病院の仕事,知識、経験があったために,精神障害についての考え方や,精神障害者との接触は容易になっていました。しかしこの業務は,病院での実践とは極めて異なったものであるということがはっきりしてきました。というのは,小区域精神科医療のなかで無料診療所での仕事が何にもまして重要であると気がついたからでした。小区域精神科医療の仕事は二つの部分に分かれ,無料診療所はそのうちの一つに含まれます。

1.会議に参加すること;これは,小区域精神科医療チームの仕事の原則です。というのも,このような集まりを通じてこそ一般的な間題や医学的,あるいはサービス業務の実践的な間題に近づくことが可能になり,これによってその週の業務の方向を見極めたり,新しい臨床的特徴をもった症例に対する関わり方を検討することが可能になるのです。またこのような集まりによって,調整業務に携わる人々(行政職、社会福祉職、法律職)との間の意見の交換の機会が得られるのです。また,その他の小区域精神科医療チーム(デイホスピタル,職業による救護センターーC;A.T.ー,集会所等々)との交流も可能になってきます。

2.会議以外の時間は,患者を迎え,時に応じ治療,投薬の効果を高めるための相談業務にあてています。

3. 最後に私の役割として,秘書の仕事を手助けすることができなければなりません(電話相談,診療日の確認,家庭訪問の期日の確認,家庭訪問の記録およぴ整理。)。

これらの仕事の他に,われわれの実践的な活動の最も重要な部分は家庭や在宅訪間(V.A.D.)があります。これらは三つのカテゴリーに分けられます。

4.一次的V.A.D.

5.入院機関への二次的V.A.D.

6.支持的V.A.D.

 病院への二次的な訪問は,一次的V.A.D.の一種です。小区域精神科医療の仕事で,病院へL夫人の入退院に付き添ったことがあります。入院に際して付き添ったのには訳がありました。L夫人は日常の生活が困難なほどリウマチ性の多発性関節炎を摘んでおり,松葉杖での歩行しかできませんでした。移動に関してはある程度の自立性を保持しており,アパートの6階の部屋から,毎日降りてきました。彼女がlか月の問入院していた病院で,私はL夫人のことをよく知っていました。彼女は病院に着いた時には,慢性幻覚精神病にかかっており,それは追害的な体験と結ぴ付いていました(幻聴,体感幻覚,すなわち体全体に電気をかけられているように感じるというもので,それは,隣人の電気的な性質をもった目から送られてくるものであるということでした)。このような追害的な体験が原因となって、この地区の警察署に告訴したために,この70歳になる老婦人は病院への公的入院の対象になりました。この強制的な入院は,彼女が出頭命令に応じて,警察に来た時に警察署長によって施行されました。正確にいうと,L夫人についはすでにその他の調整機関から精神科無料診療所に連絡されていました。しかし、彼女はばドアを開けるのを拒否し,医療チームの介護を拒んだために強制的な診察を愛けさせることができなかったのです。しかし,強制的入院の後,われわれの必死の介護や,中でも精神科薬物療法で,彼女の精神障害は急速に寛解に向かい、退院が可能になったのでした。

 自宅への退院を前にして彼女は深い失望の念を感じることになりました。というのは、管理人が郵便物を手渡そうとしましたが,彼女の姿が見えないし,大声で呼んでも返答がないので心配になり,彼女のアパートのドアを打ち破らさせたという話を聞いたからでした。この管理人は,L夫人を入院させたのと同じ地区にある警察署に呼ぴ出されました。

 このような状況がさらに追害的な感情を引き起こしかねないために,私はL夫人をなだめて落ち着かせなければなりませんでした。そして警察署と電話連絡を取り、直接会う約束をし,ドアはできるだけ早い時期にパリ警察庁の費用で修理されることを保証しました。このような経緯から,私は彼女と関わるようになり,疲労感が強い時や,抑うつ的な状態のために薬を買いに行けない時には,私が代わって買い求めるようにもなりました。

 日常的には、V. A.D.の期間中は治療を受けていることを確認し,その効果を点検していればよいのです。移動に際しては、私は彼女が日常生活面で自立できるまで付き添っていました。この典型的な例を通じて以下のことが確認できました。つまり,医療チームの訪問は,L夫人の病気の急性期では当然ですが,普段も訪問することによって近隣の人々の拒絶的な反応を防止することができるということです。L夫人との一貫した関わりは交替しながらも確実に続けられ(家庭訪間ー無料診療所での診察),彼女が南フランスの親戚のもとで生活するためにパリを立つまで続きました。このような家庭訪問という実践的な仕事によって,小区域精神科医療チームと病院勤務の間に存在する仕事上の相違点をかいまみることができました。病院では,看護婦の仕事はその貴務や決定において同僚に助けられ協力してもらうことができますが,小区域精神科医療チームでは,患者の家庭に関わる場合,看護婦は唯一人であり,その行動のすべての部分に関して責任があるのです。

 家庭訪問をすることによって得た経験では,このような訪問は,一方では底の浅い関係であってもいけないし,また他方では,病人の受動性につけこみすぎることも避けなければならないということを十分知ったうえでなされなければなりません。

 最初の家庭訪問:これは、医師とソーシャルワーカーと看護婦が行きます。これは、それぞれのチームの特徴で決まることもありますし、家族や患者自身の特徴で決まることもあります。時にはある職種の者だけででかけることもあります。また、白分自身の経験からいうと,これらはかなり正確な基準に基づいてなされるように思われます。緊急な介入が必要でなければ,わざわざ出かけることはなく、その患者に対して無料診療所に相談にくるように誘いかける手紙を郵送し,その患者が抱えている問題について説明する機会を提供すればよいのです。このような方法は,あまりにも多くの場合に危機介人者にならないですむという利点があります。われわれが押しかけて行くことは、一種の不謹慎な行為として,また,まるで侵入者として受け取られかねないのです。

 家庭訪問では,患者の援助のうえでの様々の可能性を提供します。

1.医学的な援助は,精神科無料診療所で行われることもあるし,その後引き続いて行われる家庭訪間時になされることもあります。

2.患者個人への精神療法的な関わり(精神療法,緊張緩和法等々)や夫婦や家庭への精神療法的な関わりをもつこともあります。家族療法的な治療ができることがわれわれの精神科無料診療所の今までにない新しさの一つです。

3.最初の家庭訪間の際には医療チームのケースワーカーも参加し,社会福祉的な介護も可能になるようにします(患者の介護に当たって彼らの業務の有効性を考えると,ケースワーカーは医療チームの必要不可欠な構成員であることがわかります。)。

4.一連の家庭訪問が予定されている場合には,特に最初に訪問した者がその後もしっかりと介護を継続することが可能な限り必要でする。その目的は,患者との対話を容易にし,信頼関係に満ちた雰囲気を作り出すことができるからです。そして精神症状が悪化し,入院の必要を考えなければならないような場合にも,それほど深い心の傷を負わせないで入院にもって行けます。救急車に同乗して病院まで患者に付き添って行き,確実に入院への導入ができるのです。またこれは,入院機関で働く同僚との接触をもち,病院に勤務しでいる精神科医療チームに患者を中継できるよい機会でもあります。

 家庭訪問のその他の業務としては,精神無料珍療所を基地として実行されるものです。それらの業務は多岐にわたっており,とりわけ老齢の患者に関わるものです。すなわち,いわゆる支持的家庭訪問です。看護婦が訪問することによって,患者の孤独を断ち切り,現状から(彼らの大部分は貧しい状況におかれています)救い出すことが可能になります。個人的なことを言えば,私は老齢の患者は毎日訪問するようにしてきました。そして老人ホームの入所申し込みの書類が受理されるまで,なんとか自宅に留まることが可能なこともあります。彼女のために買い物にでかけ,食事の準備をし,時には二人の看護婦で彼女の体をきれいにしたりしました。また日曜日や、長い週未などは,隣人が彼女のために食事を温めてくれることを承諾してくれもしました。患者が最終段階にさしかかっているのを発見したのはわれわれの小区域精神科医療チームでした。老人ホームの整備が不十分で,また社会扶助事務所から家政婦の応援を期待することはほとんど不可能に近いのが現状です。そして家族は自分達の親の面倒をみることに無関心なために、患者を入院させざるを得ない状況に追い込んでしまっています。このような状況のために,精神科医療チームはますます老人科的な色彩をもつようになってきでいます。家庭訪問を通じて小区域精神科医療チームがかかえている厳しい現実(7階のような高い階に住んでいたり,管埋人室で暮らしていたりする)に気がつくようになったのです。そしてこれらの狼雑で非衛生的な実情がこれらの人々を想像もできないほど,精神的並ぴに身体的に厳しい状況での生活を余儀なくさせているのです。慢性的な精神病や,アルコール依存症,痴呆状態,あるいはあらゆる種類の神経症状態や薬物依存状態は,小区域精神科医療チームで山ほど遭遇する機会のある患者達です。

 病院勤務しか知らない看護婦達は,患者達がこのような状況で生活し,社会の抑圧の対象になっており,この抑圧は精神病に対する恐怖の念という伝統的な慣習によるものであるという事実を想像することもできないのでしょう。職業的な活動を通して得たこれらの経験と,実際的な活動を苦痛とは感じない私の楽天主義のせいか,次のように考えるようになりました。つまり精神障害者や看護婦にとっての理想とは,今も将来もわれわれの職業は,病院においても,小区域精神科一医療チームにおいても同等なものであり,このような活動の中では,患者の人院は介護活動の輸の中の一環にすぎないのであると考えるようになったのです。すべては手段と適用の問題であり,地域編成化は精神医療の実践活動の希望であり野心なのです。>

5.家族療法士

 数年も前から,新たな介護の形態が付け加わることによって精神科無料診療所の治療の選択の幅が豊かなものになってきた。そして,この活動を開始してみると、この職種が非常に強刀な力を持っていることがわかってきた。すなわち,家族療法的な接近法である。 J.ペンソウやD.ルウメ等といった家族療法家は小区域精神科医療チームの仕事の中へその活動を統合させてきた。個人の精神病理学の中での家族の文脈が果たす重要な役割については以前から知られていたことである。その役割はしばしば否定的に述べられてきた。家族相互の重苦しさや複雑な関係はしばしばどんよりとした重苦しい拒否感情を含んでいる。この家族の背景にある困難な関係を鎮静化するために,入院中は,家族から患者を完全に断絶しておいた方が良い,とされたほどであった。しかし,しばしば病気が再発することから、患者に対する家族療法的接近は明らかに広まっていった。精神障害の症候学の中において,家族間のある種の相互関係が問題となるという視点は,新しいものではない(パロ・アルト学派,1955)。この間題については長い間にわたっていろいろな主張が発展してきたが,現在でも非常に困難な間題のように思われる。ある種の家族のもつ運命的な重苦しさに対しては,具体的な治療の効果を生むまでには至っていない。

 精神障害者の家族の相互の意思伝達の障害についての研究により,精神障害は,相互の深い苦しみが反映し合ったものとして考えられるようになった。家族というものがすべてのコミユニケーションと人間関係の基本であるということから,患者の家族の協力を得ながら,この作業を治療上の計画に基づいて進めていくという考えが生まれてくるのである。これが<集団的支持>の原則である。患者と家族との相互関係に有利に作用するような介入(おおげさで演技的な表現からの離脱、相互関係の再定義,感情的交流の再構築)によって,家族内での意思伝達の改善につなげていく。最近の治療法(ミラノ学派の家族療法)では家族的な機能の規律の面に直接的に働きかけて、精神病や神経性食思不振症の病理学における興味ある結果を得ている。

 最後に、集団的支持療法や家族療法の他に,ネットワークに基づく対応があげられる。これは,アメリカ的なケースワーク年の解決法で,社会福祉の分野で働く人々に対してより直接的な動機づけをあたえるものである。この方法では,困難な状況にある家族に対して必要な相互関係を,社会福祉的,法律的,行政的な面から関連機関や職業決定機関などと協力して整備する。この新しい技法は近年になって発展をとげてきた。とはいえ,これらの手法が充分に成熟するため,小区域精神科医療チームによる精神医療の可能性と調和させていくべきであろう(M.セルビニ パラゾニ)。

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