4.入院業務

<すべての収容は専断的なものであり,すべての退院は時期尚早になされるものである。>

E.トリヤによる引用。


 入院は必要不可欠な治療上の一形態である。精神科小区域制度がその機能を十分に発揮したとしても,人院の原則的な適応は依然として存続する。図式的にまとめれば,人院には以下の三つの理由が是非とも必要である。

1.より正確な診断的接近を必要とし,医療的,保護的な環境の中で治療をはるかに有効な軌道に乗せる必要性がある時。

2.障害に対してあまりにも受容的すぎる周囲の人々から患者を隔離する唯一の方法として。

3.患者が自分自身を傷つける(自殺)危険性がある時や,く他人に対しても>危険な場合。

 小区域精神科医療に関わる通達では,入院に関して次のように述べられている。

 1974年3月9日の通達において以下のように正確に述べられている。<現行の精神病院の病床数の増加はもはや黙認されることができない。・・・・・入院業務は25床の単位で組織化されていなければならず,この中には十分な数の個室を含む必要がある。共同寝室はともかく廃止されなければならない。>

 開放的であると同時に,入院環境で必要となる業務を結合させる必要性から以上のことが提起されている。<集中的なケアのための小規模治療単位を設置する機会について検討するように提起されている。この治療単位は時に応じて閉鎖してもよい。このような治療単位によってより正確な治療が可能になる。このような処遇は,特殊な問題をもった患者に対して特に適応となる。そしてこの種の患者の状態は,一時的にせよ,閉鎖的な空間で再構成される必要がある。これは,対応困難な患者での場合も,特別な治療機関(1950年6月5日の通達第109号によって規定されているカテゴリー3に属する患者のための機関)ヘ彼らを移送しなくてすむようにするためである。いずれにせよ,病院業務は,より症状の重い患者でも他の施設へ移送してしまうことを正当化できないように配備されている。もし精神病院において入院患者数が滅少して,これによって病床数の処分が可能になれば,精神医学とその他の医学の専門領域とのより密接な共同作業が可能となるであろうという観点から,内科的な治療組織や,時には外科的組織をも作ることは,地域の保健衛生の枠内においても大いに望ましいことである。さらに患者のみならず医療機関にも同様に役にたつことである。〉

 精神医学的な治療組織が必要となった場合は,<治療機関は,なるべくなら入院治療センターの中に作られるべきである。しかしながら,このような考え方は必ずしも身体医学的な医療機関をそのまま踏襲するのがよいと言うことではなく,精神科の医療機関にはそれら独特のくつろぎの空間を備えていなければならない。これらの機関は,入院が必妻ではあるが,特別専門機関に依存するほどではない処遇困難例や,強制入院が必要な症例を含む精神障害のすべての範疇を,ここに迎え入れ,介護できる必要がある。>

 入院に関する資料は,不完全な形であったにしても,精神科小区域の発展と並行して展開してきたことを示している。

1970
1978
患者数
120,000
104,000
入院患者数
169,000
269,000
退院患者数
166,000
270,000

一方,<人院条件>の領域での改善はいまだささやかなものである。すなわち,120,000床のうち50,000床はいまだに共同部屋のままであるからである。


 精神病院は破壊すべきものであるか?

 この問いに関しては,どのように答えればよいか。精神科小区域化も,一般的に言えば都会の中心から遥か遠くに患者を大々的に集中させる精神病院という構造物を継承している。このことは小区域が目指すこととは完全に矛盾している。つまり,患者をその日常生活のつながりや,家族の構成員達や,社会的,職業的な構成要素から断ち切ってしまうということで,まずもって矛盾したものである。またこのような構造物は,隔離化ということで特徴づけられる。そしてこの隔離化は患者のみではなく,医療者の内科的な医療との関連性をも疎遠にしてしまう。興味ある解決法の一つとして,総合病院の中に精神科小区域医療チームを発展させていくことがある。1960年3月15日の通達は,総合病院の精神科の業務は,小区域精神科医療チームに便宣を与えることであり,いかなる場合も治療の振り分けのみの場としてしか機能していない状態であってはならない,と明言している。1970年以来,総合病院の場においても小区域化された精神医療と重なる部分が数多く認められるようになってきたのである。1971年1月18日の通達では,総合病院の管理委員会はく精神科部門を作るに当たって自発性を発揮するように〉勧告を受けており,まったくの田舎に建造される病院コロニー施設であるかつての精神病院と比べて進歩がみられたとはいえ,<出費が多く現状には適合しないものである。>としている。

 同様の考えのもとに,マンハイムのグループも,交通の便のよい都心の人口集中地区から離れた土地に精神病院を建造することを中止し,総合病院の中に精神科の部門をすぐにも作るべきである,と1976年の時点で強く主張している。フランスにおいてもささやかな進歩がみられ,その統計的な数字は以下のごとくである。

1966
1973
1976
1979
精神科部門の数
  15 
39
68
107
病床数
10,000
11,135
16,552
18,728

 総合病院内の精神科部門の設立によりいろいろな利益が引き出される。多くの身体的障害も精神症状で初発したり,精神医学的な仮面をつけていることがある。また逆に,身体的な合併症も精神科部門では頻繁にみられる。どちらの場合でも,身体医学と精神医学の両者の間の密接な協刀が必要とされる。身体疾患での入院時やすでに入院中の患者にも精神科的な緊急事態が起こる可能性があり,その意味でも総合病院の中に精神科医療チームが配備される必要性がある。しかしながら,精神医学と身体医学との連携が,いつも簡単にいくとは限らず,むしろこのことは現実には当然のこととして受け止めなければならない。例えば興奮状態で,好訴的な患者を,一般病院という集団の中に人れることは危険が大きいのである。

 ランペリエール達は,重要な間題について明瞭に述べている。<総合病院における小区域精神科医療チームの中の精神障害者の状態は,医療の拡充の係数と考えられる。その最も積極的な効果と思われるのは,精神科の人院や,精神障害者そのものにつきまとう劇的な性格を排除できるということである。しかし,総合病院内での入院では,短期間の間はよく順応したとしても,いずれ患者は,医療チームの理念と適合するとは言い難いが,小区域精神科医療にも避けることができない長期入院型の医療施設に移ることになる。>

 最も活動的と考えられている小区域医療チームでさえも,人院環境に沈殿していくという困難な間題から免れることはできないのである。同様にシャンピニーの医療チームもこの間題に直面し,なんとか解決策を見つけようと努力している。そこで問題となるのは,<著しく病的な慢性患者で,非常に閉鎖的な環境下にあったり,外での生活など考えることもできないような類の精神障害者達がいる。例えば,長年にわたって入院生活を余儀なくされている精神病者や精神病質者,小区域精神科医療の開始時に精神病院に移された患者,脳性麻痺や,寝たきりの状態や,大人の年代に達した小児自閉症,養老院では介護ができないような老年痴果の患者などがあげられる。公的機関は病院への収容の過程に抵抗し続けていかなければならないということを確信している。一方精神科医療チームは障害者介護に当たっては,広範囲にわたる再活性化プロジェクトの対象を,最も障害の強い患者に限定していくべきであると計画した。また,より人間的な生活条件を提供できる援助の新たな形式の発見に専心し,長期間にわたって入院を維持し,それが生活様式に分かちがたく結ぴついている患者の賦活蘇生に,目標を限定するように決定したのである。具体的には,治療機関の中で最も退行した精神障害者に対しても,治療的な集合住宅を提供したり,家庭へ復帰させたり,デイケアセンターに通わせたりすることである。>

 精神病理学的な障害を示したことがなかったり,あるいはよくあることであるが,もはやそのような障害が消央している患者の中に,それほど欠陥状態を示していないにも関わらず,自律的能力がまったく央われてしまっているものがいる。このような障害者に関しては,専門性のいかんに関わらず社会福祉的な通常の方策のすべてが便いきられているのが通例である。このような場合,S.D.F.や,慢性患者としての登録から厳密に切り離してしまうことはない。このような状態が一時的なものである可能性も否定しきれないからである。しかし,病院が彼らの新たな〈自宅〉となってしまったのである。J.一P.ロソンとS.パリゾの言を引用すると,<慢性化を特徴づけるものは,対象関係の貧困性である。病院の中ではそれなりに納まって安楽に暮している患者でも,病院外での豊かで活動的な相互関係を発展させたり,愛したり,仕事をしたり,限られた性界であれ,それなりに活動しているのだという喜ぴを表現したりする時に,様々な間題が生じてくる。>

 精神科医療チーム部門と他の身体医学部門(あるいは精神医学部門と身体医学部門の機能)と根本的に区別されるのは,前者はいつも退院という解決法を見出すことができないという事実によってである。しかし,このことはその解決を探し求め続けなくてもよいということではない。

 医療チームとしてく重症例〉と呼ばれる症例を拒否し,患者の入院と外来に再配分しようとする誘惑が大きくなることもある。このようなことはよくあることで,また可能なことである。このような態度は,精神科医療チームとしての首尾一貫した精神医学的態度を取ろうとする者には許容しがたいものである。しかし表面的な活動性が極端な日和見主義を覆いかくしてしまう可能性がある。事実,D.カラポキロは,<治療と支持的対応を切り離してはいけないのである〉と言い<精神医学において精神病院の役割をどのようにして否定することができるだろうか。>とJ.-P.オリは問いを発している。く様々な社会的義務の遂行が不可能になる前に隔離する場所として以外に,精神病院は妄想の避難場所である。すなわち精神病者が,社会的に許容されるような形では昇華されたり表現されたりはできない空想的な要素を表現したり,妄想の中を生きる場所(確かに一時的なものではあるが)なのである。この隔離場所としての役割は,社会的な要請からではなく,精神医学的な施設として必要なのである。隔離の場所という機能が最も重要なものであるとしても,それはやはり本未転倒したことである。>精神疾患の危険性というのは,一般住民の水準でみられるいつもながらの幻想にすぎない。このことは住民の許容性の限界と関係がある。小区域精神科医療チームの導入によってこのような考えは大きく修正されてきた。事実,ほとんどの患者は危険なものではなく,たとえそうであっても一時的なものでしかないのである。

 ある種の処遇の困難例は問題の根源になることがある。

 Ph.キュジョ,J.デセイニュ,M.オラシウス,Ph.ケシュランらはこの間題に関して1978年に以下のような指摘をしている。<"困難な"という表現は,著者達にとっては,患者が他の患者や,介護者,小区域の住民,社会や小区域精神科医療チームの治療上のイデオロギーや,自愛的な面に対して非難を受ける危険性があるとの考えや恐れを意味する用語のように思われる。>

 潜在的な危険性をどのように理解するかということは,解決が極めて困難な間題である。1950年6月5日の通達第109号において,処遇困難な患者のカテゴリーを三つに定義づけている。

1.破壊的な反応のために,その患者がおかれている状況の中で持続的な混乱をもたらす要素が持続しているような興奮患者。

2.医学法律学のいかんを問わず,反社会的な精神不均衡者(病的性格者)で,行動障害を示し,より上位の対抗手段がどうしても必要で,他の患者の我慢の限界をこえる患者。

3.大変な反社会的精神不均衡者で,一般的には医学法律学的な間題を有し,計画的で策謀を企んだ犯罪的な反応の可能性をかかえた非常に重篤な行動障害を示す患者。

 Ph.キュジョらは,その他の多くの患者達に関する見解に賛同して以下のように述べている。<たとえ全体としてはそのような患者の数はきわめて少ないものにすぎないとしても,カテゴリー3に含まれる患者のみを拘束できるのである。これらの患者の心理的並ぴに行動上の構造は固定しており,ほとんど不可逆性である。また彼らの反応の仕方は,危険な反社会的な性格をおぴるものであり,身体的な暴力の有無によらず攻撃的な行動(火事,窃盗,恐喝)や,殺人行為の可能性が問題となるのである。その他のカテゴリー(lと2)として定義される患者では病的発展という考えは保留すべきである。彼らは患者間の相互の人問関係や周囲との関わりを無視してしまうのである。>

 小区域精神科医療の発展と,施設からの患者の解放に当たって,攻撃的な行動を有するある種の患者は,精神科医療チームの許容度に対して緊急な問題を提起しているのである。

 これに対しては,以下のような様々な反応が町能となろう。

1.く強制的>と判断される対応手段をとることを拒否する。このようなやり方は,期間の長短はあるにせよ,治療的なすべての可能性を放棄する結果になる。

2.図式的には以下の三様に展開していく拒否的態度がある。

・治療的手段を持たない外的な世界に患者を送り返してしまう方法。このような方法は警察の干渉を受け,結局は司法的な手続きが問題となる軽犯罪が生じるのを待っていることになる。

・G.ドーメゾンの表現を借りれば,く回避という惨めな行為〉を取ること。

これは,そのような患者が他の小区域に移住するのを待つか,あるいはそのように仕向けることで十分とする行為である。

・<処遇困難な患者のための機関>(S.M.D.)に移送すること。これはある種の精神病院に配備されており(ヴィルジュイフ,モンファベ,サレゲミヌ,カディラック),合計748床が開床されている。

 1981年において,ヴィルジュイフのS.M.D.の医長であるPh.キュジョは,このような設備の配備状況について明快な分析をしている。もし小区域精神科医療区域が患者の60%をカバーするとしても,残りの35%は刑法64条に徒って免訴になった後に,行政機関によって入院処遇を愛けるのてある。一時的であれ保留状況におかれたり,刑罰に関わる法廷において有罪を宣告されるのは入院患者全体の5%を占めるにすぎない。疾患別の統計資料は通常の医療機関のものとは異なっているが表に示しておく。

   S.M.D
精神科小区域
精神病
46%
43%
精神不均衡者(精神病質)
35%
4%
精神遅滞
11%
20%
アルコール依存、てんかん等
    8%
11%

Ph.キュジョが指摘するところによれば,<これらの四つの施設は間題はあるが存在理由も有している。今日精神科医達が,これらの集中治療組織の整備や県立の小機関の設置については,最も少ない配分でよいという意見に賛成する状況では,これらの施設を拡張することは困難なことであり,さらにそれほど重装備ではない組織にとって変わらせることも,疑いもなく困難なことである。これらの患者は,実際上は極僅かしかおらず,計画的かつ建設的な配備がこれらのカテゴリーに属する患者のために作られてきたということを理解するならば,現在あるもので十分満足すべきであろう。S.M.D.にはこのような時代錯誤を乗り越える手段をもつことが望まれる。>このような方向性は,小区域精神科医療とは全く反対のものである。つまり,社会からの断絶,家族との疎遠化,治療や介護の方式の連続性の断絶,そして最後には再発の可能性の上昇等である。

 以下の数点が強調される必要がある。

1.多くの患者は,率直に言って犯罪的な行動を起こすこともあるが,その病的な性格を断言するには困難である。この判定は,専門家の判定にかかっている。

2.処遇困難として扱わなければならない患者は,どちらにもあてはまらないという理由から,小区域医療チームにおいても,S.D.F.においても処遇されないことがある。

3.患者達が一旦回復した時,それらの患者を再度扱うことに対するためらいが,精神科医療チームの側にしばしば認められる。

 ところで精神科医療チームが,処遇困難な患者に関わる場合に遭遇する間題について詳細に調査された研究がある。

1.近年の処遇困難患者の頻度は部分的には小区域精神科医療の中の若年性の疾患の領域に属するようであるが,ここでは治療が重要である症状が間題なのである。

2.看護士と看護婦との人数の構成比は,看護士が3分の1を占めるのが望ましいと思われる。

3.正確な配備によって小区域外や小区域精神科医療からはみでた患者に関わることも把握することが可能になる。

4.それぞれの精神科施設は,患者の周辺の人々にとって満足すべき状況ではない。

5.各々の入院施設の中に,急性で危険な間題を持つ患者を,特別に看病し治療するような治療部門を配備する必要性がある。

 J.R.コーエンが以下のように断言していることは正しい。<精神科医は,おのれの言動のすべてにおいて,あらゆる病理的な側面を介護する義務があり,精神科医の信頼性がこの場合も同様に間われるのである。>

 地域医療ー監獄センターは,監獄内において精神障害に対する治療を行っている。治療に当たる医師は,最も近いC.H.S.に関する精神科小区域医療チームの精神科医である。彼はD.D.S.S.から派遣され,刑務所を管轄する行政機関の意向のもとになされる。

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