身体への注意・関心と身体経験の障害
本章は ICD-11 において「身体の苦痛症群および身体の体験症群」と総称される一群の障害を概観する。本群には二つの障害が含まれる。身体的苦痛症(6C20)と身体完全性違和(6C21)である。前者は ICD-10 における身体表現性障害群(F45)の流れを受け継ぐものだが、その診断概念は根本から組み立て直された。後者は ICD-11 で新たに導入された診断カテゴリーである。本書の関係諸職種にとって、身体的苦痛症は産業保健・プライマリケアの場面でもっとも頻繁に取り扱う主題の一つである。また、気分症群や不安または恐怖関連症群との併存をめぐる臨床判断のためにも、本章の枠組みを把握しておく必要がある。
本群の障害の中核にあるのは、自己と身体との関係の障害である。言いかえれば、身体の症状に対する態度、あるいは身体のなりたちに対する態度の障害である。身体的苦痛症では、本人にとって苦痛となる身体症状が存在すること、そしてその症状に過剰な注意が向けられることの二つを満たす必要がある。身体完全性違和では、特定の身体障害(手足の切断、麻痺、失明など)を自ら得たいという強烈で持続的な欲求があること、そして障害のない現在の身体のありように持続的な不快感があることの二つを満たす必要がある。
ICD-11 における本章の整備には、ICD-10 までの分類体系からの本質的な転換が含まれている。ICD-10 における身体表現性障害群(F45)は、神経症圏の一隅に置かれ、身体化障害(F45.0)、鑑別不能型身体表現性障害(F45.1)、身体表現性自律神経機能不全(F45.3)、持続性身体表現性疼痛障害(F45.4)といった下位分類をもっていた。ICD-11 はこれらの下位分類をすべて廃止し、身体的苦痛症(6C20)として一本化した。そのうえで、重症度(軽度・中等度・重度)の特定子(診断に付記して状態を細かく示す区分)を導入した。この重症度は、身体症状そのものの重さによってではなく、症状への苦痛やとらわれの程度、障害の持続、機能障害の程度に基づいて、臨床像の全体から総合的に判定される。この変更は、下位分類の臨床的な有用性が乏しく、症例間の境界もはっきりしないという長年の批判に応えたものである。
もう一つの本質的な転換は、診断要件から「医学的に説明されない症状」という基準を外したことである。ICD-10 における身体表現性障害群では、身体症状が身体の病気(器質的疾患)では説明できないことが、暗黙のうちに中核の要件とされていた。これに対して ICD-11 の身体的苦痛症では、確立された医学的状態が症状の原因または一因になっている場合でも診断ができる。その症状に向けられる注意の程度が、医学的状態の性質と重症度に照らして明らかに過剰であればよい。つまり、症状が身体の病気で説明できるかどうかではなく、心理的特徴が症状の体験を支配しているかどうかが、診断の決め手となる。具体例を挙げる(CDDR の例示ではなく、臨床像を理解するための説明例である)。慢性の耳鳴りに重大な負担を感じ、耳鳴りの悪化への不安から常に強い緊張状態にある。反芻思考(同じ考えを繰り返し思いめぐらすこと)と将来への破滅的な恐怖と社会的引きこもりが日常生活を支配し、耳鳴りのわずかな変化をきっかけに、異なる専門医を頻回に受診する——このような患者像である。
本群と他章との位置関係についても、ICD-11 は重要な再編を行った。ICD-10 で身体表現性障害群に含まれていた心気症(F45.2)は、ICD-11 では第 6 章で論じた強迫症または関連症群のなかに移され、6B23 として規定し直された。同様に、ICD-10 では独立したカテゴリーを持たず、心気障害(F45.2)のなかで醜形恐怖として扱われていた身体醜形症も、ICD-11 では第 6 章のなかに 6B21 として位置づけられた。これらの再編は、両症の中核症状が強迫症スペクトラムに近いという認識を反映したものである。すなわち、重い病気をもっているという信念へのとらわれや、身体の外見の欠陥へのとらわれは、強迫的な反復思考と確認・回避行動を伴うという点で、強迫症の仲間に近いと判断された。なお DSM-5 では、心気症(病気不安症)は身体症状症および関連症群のなかに残されている。本群と OCD 群の境界をどこに引くかについて、ICD-11 と DSM-5 の分類上の判断は分かれている。臨床上の見分けの要点も CDDR に示されている。心気症の患者は、一つまたは複数の重篤な・進行性の・生命を脅かす病気をもっている可能性にとらわれ、受診する場合も、その主な目的は恐れている重い病気ではないという安心を得ることにある。これに対し身体的苦痛症の患者は、典型的には症状そのものと、症状が生活に及ぼす影響にとらわれており、受診の目的は重い病気の否定ではなく、症状の緩和である。
本章には、身体的苦痛症(6C20)と身体完全性違和(6C21)の二つのカテゴリーが含まれる。
本人にとって苦痛となる身体症状が存在することを、診断の中核として満たす必要がある。典型的には、複数の身体症状が時間の経過とともに移り変わる形で現れる。ただし、単一の症状——多くの場合は疼痛または倦怠感——にとどまる場合もある。もっとも頻度の高い症状は、筋骨格系の疼痛・腰背部痛・頭痛、倦怠感、消化器症状、呼吸器症状である。本人は症状を細かく描写できるが、臨床医が解剖学・生理学の観点からその症状を説明することは難しいことが多い。
診断のもう一つの中核は、これらの身体症状に向けられる過剰な注意である。これは二つの形で現れる。一つは、症状の重さや悪い結果への持続的なとらわれである(確立された医学的状態が症状を引き起こしている場合は、症状の性質と重症度に比べて明らかに誇張された程度の注意を指す)。もう一つは、医学的な必要性に照らして明らかに過剰な、医療機関との反復的な接触である。本症の診断で決定的なのは、適切な診察と臨床検査、または医療者による適切な安心づけにもかかわらず、これらの過剰な注意が続くという点である。症状は持続的であること、すなわち少なくとも数か月(例:3 か月以上)の期間にわたり、ほとんどの日に何らかの症状が存在することを満たす必要がある(その間、存在する症状は同じものである必要はなく、入れ替わってもよい)。さらに、身体症状とそれに伴う苦痛およびとらわれが、個人・家族・社会・教育・職業その他の重要な機能領域に意味のある支障をもたらしていること、そして、症状やそれに伴う苦痛・とらわれが他の精神疾患(統合失調症など一次性の精神症群、気分症、不安または恐怖関連症群など)によってよりよく説明されないことも、診断の要件である。
ICD-11 は本症について三つの重症度特定子を整備した。軽度(6C20.0)では、苦痛な症状やその結果への過剰な注意が認められ、頻回の医療受診につながることもあるが、本人がこれに費やす時間は限られており(1 日 1–2 時間以内)、無関係な事柄への集中は保たれている。機能の支障は軽度(人間関係の緊張、学業や業務の効率の低下、特定の余暇活動の放棄など)にとどまる。中等度(6C20.1)では、症状とその結果への持続的なとらわれが頻回の医療受診を伴う。本人はこれに相当の時間とエネルギーを費やし(1 日数時間)、機能の支障は中等度(人間関係の葛藤、業務上のパフォーマンスの問題、社会的・余暇活動の中断)に達する。重度(6C20.2)では、症状とその結果への広範で持続的なとらわれと視野の狭まりが認められる。症状とその結果が生活のほぼ唯一の焦点となり、医療制度との広範な関わりが生じ、機能の支障は重度(就労不能、家族・友人からの疎外、社会・余暇活動のほぼ全面的な放棄)に達する。
本症の患者には、症状を心理的要因によるものとする説明を受け入れない傾向があり、重症になるほどこの傾向は強まる。本症の患者の多くは、精神科ではなく一般医療の場面に最初に現れる。精神科医療への紹介を提案されると、否定的な反応を示すことも少なくない。本症は、抑うつ症および不安または恐怖関連症群と併存することが多い。経過については、プライマリケアで本症と診断された患者のおよそ半数で、身体症状は 6–12 か月以内に消退する。重症の患者や複数の身体症状をもつ患者は、より慢性で持続的な経過をたどりやすい。
本症は、二つの特徴を満たす必要がある障害である。第一は、意義のある仕方で身体に障害をもつことへの強烈で持続的な欲求——主要な手足の切断、対麻痺(両下肢の麻痺)、失明など——である。第二は、障害のない現在の身体のなりたちや機能に対する、持続的な不快感ないし強烈な「そぐわなさ」の感覚である。本症は ICD-11 で新たに導入された診断カテゴリーであり、ICD-10 には存在しなかった。診断の要件として、その欲求が有害な結果を伴うことが必要である。有害な結果とは、自傷によって障害を得ようと試み、本人の健康や生命が重大な危険にさらされること、または欲求へのとらわれによって重要な機能領域に大きな支障(親密な関係を避けること、業務の生産性が損なわれることなど)が生じることを指す。発症は青年期の早期までに生じる。なお、この症状や行動が、性別不合、神経系の疾患もしくは他の医学的状態、他の精神疾患(統合失調症など一次性の精神症群、作為症など)、または詐病によってよりよく説明される場合には、本症とは診断しない。
本症の患者の多くは、自分は望む障害を伴って生まれてくるべきだった(例:足を欠いて生まれてくるべきだった)という形で不快感を語る。多くの患者では、望む障害の「ふりをする」行動、つまり模擬する行動が認められる。切断者を装って足を縛る、車椅子や松葉杖を使用する、といった行動である。これがしばしば本症の最初の表れとなる。これらの行動はふつう人目を避けて行われ、模擬の機会を妨げるような親密な関係を避けたり、関係を終わらせたりすることにつながる場合がある。一部の患者は、望む障害を得るために自傷を試みる。そして、その自傷が自分で引き起こしたものであることを、事故に見せかけて隠すことがある。本症には性的な要素が伴うことが多い。特定の障害をもつ人への性的魅力や、自分自身が障害をもつことを想像することによる強烈な性的興奮が報告されている。
本症の患者の多くは、望む障害への欲求を恥として体験する。他者から拒絶されること、あるいは「正気でない」と見なされることへの恐怖から、この欲求を隠す傾向が強い。家族・友人・同僚・配偶者・伴侶でさえ、本人の欲求を知らない場合がある。患者は、併存する抑うつ症状などについては医療を求めても、本症の中核にある欲求は医療者に打ち明けないままにとどまることがある。本症の患者の多くは、生涯にわたって臨床的注意の対象とならないと推定されている。臨床の場に現れる場合は、通例成人期以降であり、苦痛を和らげてほしいという求め、望む障害を実現する援助を得たいという求め、あるいは障害を得ようとする試みで自傷した結果、といった経路をたどる。経過としては、障害を得たいという欲求とそれに伴う機能障害の強さは、強まったり弱まったりを繰り返すのが典型である。欲求と違和感がきわめて強まり、そのこと以外を考えられなくなる時期がある一方、弱まる時期もあるが、どの時期にも完全に消失することはない。
鑑別では、第 2 章で論じた統合失調症および他の一次性精神症群との区別が必要である。統合失調症などの一次性精神症群では、身体の一部が自分のものではないという身体妄想の形で、似た体験が現れることがある。しかし本症の患者は、望む障害をめぐって外の現実について誤った信念をもっているわけではない。むしろ「障害をもってこそ正しい自分である」という内的な感覚として体験しており、この点で妄想とは構造的に異なる。第 6 章で論じた強迫症との関係では、次の点が鑑別の手がかりとなる。強迫症の反復思考は、侵入的で本意でないもの(自我違和的、つまり自分にそぐわないと感じられるもの)として体験される。これに対し、本症の障害への欲求にまつわる思考は自我親和的(自分にしっくりくると感じられるもの)であり、侵入的・不本意なものとしては体験されない。本症の苦痛は、望む障害を実現できないこと、または他者の否定的な判断への恐れに由来することが多い。第 6 章で論じた身体醜形症との鑑別では、次の点で区別される。身体醜形症の患者は、身体の一部が欠陥的であるという信念、または身体の外見全体が醜いという感覚にとらわれる。これに対し、本症の患者は、身体のなりたちや機能のあり方そのものが「あるべき姿でない」という感覚にとらわれる。
本群を成人領域で扱う際の留意点として、次の四点を挙げておきたい。
第一に、身体的苦痛症の患者の多くが、精神科医療ではなく一般医療の場面に最初に現れることへの留意である。本書の関係諸職種は、産業医として、または産業保健の領域で従業員の医学的評価に関わる立場として、長期にわたる多彩な身体症状の訴えと頻回の受診歴をもつ症例に出会う場面が多い。これらの症例の評価では、身体科の同僚との連携を通じて、医学的な検索が十分に尽くされているかを確認する必要がある。それと同時に、症状の体験を支配する心理的特徴があるかどうかを評価する枠組みを、身体科の同僚と共有することも必要である。「医学的に説明されない症状」基準が外されたことは、確立された医学的状態が見つかっている症例でも、心理的特徴が症状の体験を支配していれば本症の診断が成り立ちうることを意味する。これは、本書の関係諸職種が身体科の同僚に提供できる重要な臨床的観点となる。
第二に、本症と他の精神疾患との併存および鑑別である。第 4 章で論じた抑うつ症との併存は多く、抑うつエピソードに伴う身体症状(疼痛、倦怠感など)への過度のとらわれが、本症の臨床像と重なる場面がある。本症の診断がつけられるのは、身体症状へのとらわれが気分エピソードの文脈の外でも認められる場合に限られる。たとえば、とらわれが抑うつエピソードに先立って存在する場合や、抑うつエピソードが良くなった後も続く場合である。第 5 章で論じた全般不安症との関係では、次の点で区別される。全般不安症の患者は、身体症状への心配を示すことはあっても、それにとどまらず、仕事・人間関係・家計など生活の多くの領域における悪い出来事への心配を示す。これに対し、本症の患者は、医学的評価と安心づけにもかかわらず続く、身体症状そのものへのとらわれを示し、症状への苦痛のほかには心理的な不安の要素を認めにくい傾向がある。パニック症との関係では、パニック発作のあいだに体験される身体症状への心配だけを根拠として、本症を追加で診断することはしない。ただし、パニック発作に典型的な症状とは別の持続的な身体症状に過剰な注意やとらわれが向けられ、両症の診断要件がともに満たされる場合には、両方の診断をつけることができる。
第三に、文化的考慮の重要性である。CDDR(ICD-11 の臨床記述と診断要件)は、身体症状の表れ方が文化集団によって大きく異なることを強調している。ある文化で一般的な症状(例:身体や頭部の熱感、皮膚の下を何かが這うような感覚、重圧感、「ガス」の訴え(腹にガスがたまっているという愁訴)、腹部膨満感)が、他の文化ではまれなことがある。症状をどう説明するかの枠組みも、文化によってさまざまである。身体的エネルギー、体液、そのほかの民族生理学的な考え方や、宗教的・霊的・個人的・家族的・環境的ストレスなどが用いられる。精液喪失、腎虚など、特定の説明のしかたが特定の文化集団に特徴的な場合もある。本書の関係諸職種は、本症の評価において、本人が属する文化的文脈のなかで症状がどう意味づけられているか、そして援助を求める経路がどうなっているかを理解する必要がある。
第四に、身体完全性違和をめぐる秘匿性への留意である。本症の患者の多くは、その中核にある欲求を強い恥として体験し、医療者を含むすべての対人関係でこれを隠す傾向が強い。本書の関係諸職種が、抑うつや不安を主訴として現れる成人患者の評価のなかで本症に出会う経路は、本人による自発的な開示よりも、間接的な手がかりを通じて開かれる場合が多い。たとえば、身体的損傷の説明のつじつまが合わないこと、障害のある役割を長期にわたって模擬してきた行動の手がかり、性的関心の偏りなどである。本症の存在を疑わせる手がかりに出会った場合は、判断を急がないことが大切である。本人が安全に打ち明けられる関係性を築くことを優先する必要がある。
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