A Concise Psychiatric Manual for Mental Health Practitioners,
Based on ICD-11 and CDDR
本書は、精神衛生保健の領域に携わる方々を主たる読者として、ICD-11 に基づく精神医学の概論を提供することを目的とする。構成は、WHO による Clinical Descriptions and Diagnostic Requirements for ICD-11 Mental, Behavioural and Neurodevelopmental Disorders(CDDR, 2024)の体系に沿う。全二十一章に睡眠覚醒症群の章を加えた二十二章で、精神医学の主要な疾病群を網羅する。
本書執筆の動機は、共通の臨床的語彙の不在が、メンタルヘルスをめぐる議論をしばしば停滞させてきた、という認識にある。産業保健の現場、とりわけ復職審査の場面では、経営陣・人事担当者・産業医・精神科専門医が、精神科主治医からの意見書を踏まえて議論を交わすが、職種ごとに用語の理解が異なれば議論はかみ合わない。ICD-11 と CDDR の登場によって、多職種が扱いうる共通の臨床語彙が国際的にようやく整備されたといえる。ただし CDDR それ自体もまた大部の著作物であり、精神保健衛生に関わる多職種のための共通教科書としては、より簡略なものが求められる。本書は、そのような認識のもとに編まれた。
この課題への一つの答えを、フランスはすでに示していた。フランスでは、セクツール制のもとで「共通の教科書」(Michel Anty Psychiatrie à l'usage de l'équipe médico-psychologique)が広く用いられ、その存在が多職種による業務の実質化と効率化を支えてきたのである。本書編者を含むフランス精神医学研究グループは、このようなフランスの臨床現場における共通教科書のあり方を紹介するために、また当時日本では十分に知られていなかったフランス精神医学への入門書として、共訳『役に立つ小精神医学——医療チームのために——』(星和書店, 1989)を刊行した。
日本で DSM および ICD-10 に基づく解説書類が普及するのは、これ以後のことである。しかし、いずれも多職種の共通教科書とはなりえなかった。DSM は大部の教科書へと展開し、現場用の「ミニ DSM」もまた、専門医以外の精神保健衛生関係者には活用が困難であった。ICD-10 についても、WHO 解説本に基づく日本語訳が刊行されたものの、分類基準と疾患説明に不十分な点や混乱が残った。
状況を変えたのが ICD-11 と CDDR の登場である。これにより、分類基準の明確化と実用性、そして文化的多様性への開放がようやく実現した。
本書は CDDR を一次資料とする。ただし、執筆の時間的な順序はその逆であったことを、ここに記しておきたい。各章の草稿は、CDDR 最終版(英語)の入手に先立ち、Hölzel および Berger 編によるドイツ語圏の精神科専門医向け標準的解説書を主たる手がかりとして作成され、Tyrer 編による英語圏の解説書がこれを補った。これらの解説書が依拠した ICD-11 関連文書の記載には、CDDR 最終版(2024 年)の刊行までに変更された箇所がある。そのため CDDR 最終版の入手後、各章を順次原文と照合し、相違が認められた箇所は CDDR に従って修正を進めている。照合を了えた章では、該当する表の下にその旨を注記する。したがって現在の本書の典拠はあくまで CDDR 最終版であり、ドイツ語圏・英語圏の解説書は比較対照のための参照文献という位置づけになる。また CDDR は、文化的配慮を明示的に体系へ組み込んだ。日本の臨床的伝統に由来する自己臭症(Olfactory reference disorder, 6B22)などがその例である。こうした主題については、各章内に独立した囲みを設けて、日本の臨床的・歴史的文脈における位置づけを併記する。
CDDR 最終版との照合について。各章の草稿は、CDDR 最終版(英語)の入手に先立って、ドイツ語圏・英語圏の解説書を手がかりに執筆された。これらの解説書が依拠した ICD-11 関連文書の記載には、CDDR 最終版(2024 年)の刊行までに変更された箇所がある。そこで 2026 年 8 月、全 22 章の記述を CDDR 原文と一項目ずつ照合し、相違が認められた箇所は CDDR に従って修正した。診断要件・持続期間・症状の組合せ規則・コード・特定子については、本書の記述は CDDR 最終版に拠る。解説書に由来する対照表のうち、CDDR と相違のあった箇所については、当該表の訳注にその旨と修正の内容を記した。第 22 章のみは事情が異なる(下記)。
第 22 章(睡眠・覚醒障害群)について。この群は ICD-11 では第 7 章に置かれ、精神・行動・神経発達の疾患を対象とする CDDR には収載されていない。DSM-5-TR が睡眠・覚醒障害の章を備えるのに対し ICD-11 の精神疾患の章にはこれがなく、産業保健・精神保健の実務では不便が大きいと考えられるため、本書では独立の章として補った。同章の診断関連の記述は ICD-11 MMS 第 7 章に拠り、臨床的な記述は Lieb K(Hrsg.)『Intensivkurs Psychiatrie und Psychotherapie』(第 10 版, 2023)の該当章を参考にしている。
訳語について。ICD-11 の公式日本語訳は本稿執筆時点で未刊行であり、その翻訳権は日本精神神経学会が有する。本書は同訳のいかなる部分をも用いておらず、また CDDR 原文の日本語訳ではない。本書の各章は、CDDR および解説書の内容を読んだうえで、著者の臨床経験を踏まえて日本語で書き下ろした解説であり、診断要件についても、条文を逐語で移すのではなく、その趣旨を本書の文章として述べる方針をとっている。原文の術語は、必要な箇所で英語(または独語)を併記して参照できるようにした。訳語は、原語が DSM-5-TR に現れる疾患名と一致する場合には DSM-5-TR 日本語版の訳語を、それ以外で日本精神神経学会誌の解説論文に取り上げられているものは当該論文の訳語を用い、いずれにも該当しないものには著者の仮訳を当てた。その際、「障害」「病」といった語をできるかぎり避け、「症」「疾患」を用いる方針をとっている(例:不安症、抑うつ症、パーソナリティ症)。ただし「機能障害」「記憶障害」のように機能の状態を指す語、および ICD-10 の分類名を引く箇所では、従来の表記を保つ。公式訳の刊行時には、訳語が変更される可能性がある。
本書は 2026 年 5 月に、第 1 章から第 22 章までの初版(v1)公開に至った。2026 年 8 月に全章の改訂を行った。今後は、読者の意見と臨床現場における運用経験を踏まえて、各章の改訂を順次進める。CDDR 公式日本語訳の刊行後は、本書をその補助読本——公式訳と併用して読まれる手引き——として再編する予定である。産業保健および精神保健の現場における共通の参照枠組みとして、日本の精神医学的議論にいくらかの寄与をなすことを期するものである。
成人の注意欠如多動症、いわゆる高機能自閉スペクトラム症、発達性学習症、ならびに成人期に再評価される知的発達症。職場における適応・休復職判断・合理的配慮との関連を中心に。
妄想・幻覚・思考障害および了解可能性──本テキスト全体の臨床語彙の中核を構成する章。
既存の施設職員マニュアル付録における重要章への言及を含む。
うつ病性障害および双極症。本書の関係諸職種が職場・学校・医療の現場において最も頻繁に遭遇する障害群であり、休復職にかかわる議論の中心となる。
全般不安症、パニック症、社交不安症、限局性恐怖症、広場恐怖症、分離不安症等。
強迫症、身体醜形症、自己臭症(6B22)、ためこみ症、抜毛症、皮膚むしり症等。
適応反応症、PTSD、複雑性 PTSD、遷延性悲嘆症、反応性アタッチメント症等。DSM-5 との対比を含む。復職審査と直結する章。
解離性神経学的症状症、解離性健忘、解離性同一症、離人感・現実感喪失症等。
神経性やせ症、神経性過食症、過食症、回避・制限性食物摂取症、異食症、反芻症等。
既存の施設職員マニュアル第 2 章への言及を含む。
身体的苦痛症、身体完全性違和。「医学的に説明されない症状」基準の放棄という ICD-11 の本質的転換を含む章。
アルコール、その他物質、ギャンブル症、ゲーム症等。職場・学校・福祉の現場における重要な主題。
放火症、窃盗症、間欠爆発症、強迫的性行動症等。
反抗挑発症、素行・非社会的行動症。全生涯アプローチの採用と特定子の整備。
ICD-11 の次元的アプローチに基づく重症度評価とトレイト・ドメイン記述。
露出症、窃視症、小児性愛症、強制的性サディズム症、摩擦症等。「同意の有無」を軸とする ICD-11 の再編。
自らに負わせる作為症、他者に負わせる作為症(旧「代理によるミュンヒハウゼン症候群」)。詐病との鑑別を含む。
せん妄、軽度神経認知障害、健忘症、認知症(アルツハイマー型・血管性・レビー小体型・前頭側頭型等)、認知症の行動・心理症状(BPSD)。
産後うつ病、産後精神症、関連する諸症状。主診断+付加診断構造への ICD-11 における再設計。
慢性身体疾患の経過に影響する心理的・行動的要因の枠組み。リエゾン・コンサルテーション精神医学および産業保健での意義。
医学的状態の病態生理学的帰結としての精神症候。「器質性」から「二次性」への ICD-11 の用語転換。
不眠症、過眠症、睡眠関連呼吸障害、概日リズム睡眠覚醒障害、睡眠関連運動障害、睡眠時随伴症。ICD-11 第 7 章として独立しているが、本書は精神医学的観点から末尾に収録する。