周産期における精神疾患の枠組み
この章では、ICD-11 で「妊娠・出産または産褥に関連する精神および行動の障害」とまとめて呼ばれる一群の症候を概観する。この群は、本書が想定する職種の方々にとって、産業保健の場面では育児休業からの復職の判断に、地域保健の場面では母子保健・周産期医療との連携に、それぞれ臨床的な重要性をもつ。この群の枠組みは、ICD-10 から ICD-11 への移行のときに根本から設計し直された。その変更点を理解することが、実務での判断の出発点となる。
この群は、妊娠中、または分娩後おおむね 6 週間以内(この期間を産褥期と呼ぶ)に発症する、臨床的に意味のある精神および行動上の症状群を対象とする。CDDR に沿えば、この診断は、妊娠・出産・産褥に関連する生物学的要因がその症状群の原因であると分かっているかどうかにかかわらず、つけることができる。ICD-10 から ICD-11 へ移る過程で生じたいちばん本質的な変更は、この群のコードが、他のどの診断にもあてはまらない場合の「残余の主診断」としてではなく、他の精神疾患の診断と並べて記載される「付加的な診断(併記して用いる追加の診断コード)」として設計し直された点にある。
ICD-10 では、この群は F53「産褥期に関連する精神および行動の障害、他に分類されないもの」として、軽症型(F53.0)と重症型(F53.1)の二つに区分されていた。そして、他のどの精神疾患の診断要件も満たさない場合に限って用いられる、いわば残りを受けとめる位置づけにあった。これに対し ICD-11 は、この限定を取り払った。症状が他の精神疾患(抑うつ症、双極症、強迫症、不安または恐怖関連症群、適応反応症、統合失調症など)の診断要件を満たす場合には、その障害の診断とこの群のコード(6E20・6E21)とを並べて記載する。一方、症状がどの精神疾患の診断要件も満たさない場合にも本群の診断は付与でき、そのときの臨床像は、精神または行動の症状・徴候・臨床所見のコードを用いて記述できる。つまり、産後抑うつ症は「単一エピソード抑うつ症(6A70)+6E20」として、産後精神症は「双極症 I 型(6A60)+6E21」または「統合失調症など一次性の精神症群の障害+6E21」として、それぞれ二重に記述される。また CDDR に沿えば、この群の診断は、症状群が既存の障害(気分症など)の再発や悪化にあたる場合にもつけることができる。
この設計思想の転換は、次のような臨床的・疫学的な認識を反映している。すなわち、周産期に発症する精神疾患は、一般の精神疾患から病態として切り離された独立の実体ではなく、特定の時期に精神疾患が発症・再発・悪化したものとしてとらえるべきだ、という認識である。この群のコードは、その精神疾患が周産期と時間的に関連して発症した、あるいは悪化したという事実を、診断の記述のなかに組み込むための足場を提供する。
診断の要件としては、次のことが挙げられる。症状の発症が、妊娠期間中または分娩後おおむね 6 週間以内であること。症状が、他の医学的状態(脳腫瘍など)や、物質・薬剤の作用(ベンゾジアゼピンの使用、覚せい剤の離脱など)では説明されないこと。そして、症状が個人・家族・社会・職業の重要な機能の領域に、意味のある支障をもたらしていることである。機能が保たれている場合でも、それが相当の追加的な努力によってはじめて保たれているのであれば、この要件は満たされる。この章は、症状に精神症(妄想・幻覚・他の精神症症状)を伴うかどうかによって、6E20 と 6E21 に区分される。このほかに、特定不能の残余カテゴリー(6E2Z)が設けられている。
この診断は、妊娠中または産褥期に発症する意味のある精神および行動上の症状群のうち、精神症を伴わないものにつけられる。CDDR(ICD-11 の臨床記述・診断要件)が示す代表的な臨床像として、以下の症状群が挙げられる。
まず挙げられるのは、抑うつ症状群である。そこには、抑うつ気分、過剰な啼泣(ひんぱんに泣いてしまうこと)、児(赤ちゃん)への愛着を育てることの難しさ、家族・友人からの引きこもり、食欲の低下または普段よりずっと多く食べてしまうこと、不眠または過眠、圧倒されるような疲労感、興味・喜びの減退、激しい易怒性(いらだちやすさ)と怒り、「良い母親になれない」という恐れ、無価値感・羞恥・罪悪感・不全感、考える・集中する・決めるという能力の低下、自己または児への加害念慮(傷つけてしまうのではないかという考え)が含まれる。
不安症状群もよく認められる。過剰な心配、特定の対象に限らない全般的な不安、特定の対象への恐怖反応(不潔や細菌への恐怖など)、パニック発作が含まれる。
強迫症状群、すなわち侵入的な強迫思考(自分の意に反して頭に浮かんでくる考え)と強迫行為は、しばしば新生児あるいは未出生児(お腹の中の子ども)に焦点が向く。たとえば、児が傷つけられる・汚染される・失われるという考えがくり返し浮かぶ強迫思考、確認、心のなかでの儀式、保証(だいじょうぶだという安心)を他者に求めることを含む強迫的な儀式といった強迫行為、不本意な性的内容の強迫思考、強迫思考への反応として児を入浴させたり抱いたりすることを避けてしまう病像が知られている。
この診断をつけるときは、いわゆるマタニティブルー(baby blues)とはっきり区別することが必要である。CDDR の規定では、マタニティブルーとは、分娩後まもなく現れることのある、抑うつエピソードの診断要件を満たさない軽度で一過性の抑うつ症状群をいう。臨床的には、分娩後数日以内に現れ、機能の障害を伴わず、自然に軽快するものとして知られている。CDDR は、産後抑うつ症が初めのうちはマタニティブルーと見誤られうることを指摘したうえで、症状がより強く、より長く続き、児の世話をする能力を含む機能に支障をもたらす点で区別されることを明記している。抑うつエピソードの診断要件が満たされる場合には、単一エピソード抑うつ症または反復性抑うつ症の診断を併記する。また、妊娠中や産後に児のことを心配したり、望まない考えが頭に浮かんだりすることは、ある程度は誰にでも認められるものである。こうした心配や侵入的思考は、持続的であり、強い苦痛を伴い、児の世話をする能力を含む機能に支障をもたらすのでない限り、この診断の対象とはならない。
この診断は、妊娠中または産褥期に発症する意味のある精神および行動上の症状群のうち、精神症(妄想・幻覚・他の精神症症状)を伴うものにつけられる。この診断の臨床像では、抑うつ気分または躁的な気分が並行して認められることが多い。その場合は、単一エピソード抑うつ症、反復性抑うつ症、または双極症 I 型の診断が同時につけられる。追加の症状として、混乱と見当識障害(時間・場所・人物についての把握が失われること)、睡眠の障害、過剰なエネルギーと激越(強い興奮といらだち)、強迫思考と強迫行為、被害妄想のような観念、自己および児への加害の企てが認められうる。なお、精神症に似た症状や特異な主観的体験は一般の人々にも起こりうるが、それらはふつう一過性で、機能への支障を伴わず、本人もそれが錯覚であることをおおむね自覚している。そのような現象は本群とは診断しない。
この診断の対象となる病像は、いわゆる産後精神症にあたるものである。頻度は、一般の疫学的知見によれば分娩 1000 例あたり 1–2 例とまれである。しかし、発症が急速で症状が重く、自殺および嬰児殺(生まれた子どもを死なせてしまうこと)のリスクが高いため、精神医学的な緊急対応を要する。この診断の評価では、初めての発症であっても、背景に双極症の素因がひそんでいる可能性を念頭に置くことが重要である。また、すでに双極症をもつ患者では、周産期に再発するリスクが高い。これらを踏まえた予防的な支援の枠組みが、産科医療と精神科医療の連携のなかで組み立てられることが望ましい。
この群を成人の領域で扱うときに心にとめておきたい点を、四つ挙げておきたい。
第一に、この群が他の精神疾患の診断と併記される付加的な診断として運用されることへの注意である。本書が想定する職種の方々が、産業保健の場面で、育児休業中や復職前後の従業員の精神医学的評価にかかわることがある。そのとき、症状が抑うつ症や不安症の診断要件を満たす場合には、その主診断(第 4 章の気分症群、第 5 章の不安または恐怖関連症群など)に加えて、本章のコード(6E20)を並べて記す形で、診断の記述が組み立てられる。この付加診断の構造は、症状と周産期との時間的な関連を、診断の記述のなかに残しておくためのものである。同時に、その症状を「妊娠・出産による特殊な疾患」としてではなく、「特定の時期に発症した一般的な精神疾患」としてとらえるという、ICD-11 の臨床的な視点を反映している。
第二に、マタニティブルーと産後抑うつ症の見分けである。マタニティブルーは、一般の臨床文献では産婦の 50 % 以上に認められるとされるありふれた現象であり、分娩後数日で現れ、通常 2 週間以内に自然に軽快する。これに対し産後抑うつ症は、症状の強さ・持続・機能障害の点で、抑うつエピソードの診断要件を満たすものである。自然に良くなることを期待して待つのではなく、適切な治療的介入を必要とする。本書が想定する職種の方々が、母子保健の連携の場面で家族や保健師から相談を受けた場合には、症状の経過を追いながらこの両者を見分けることが、適切な介入の起点となる。
第三に、産後精神症および重症の産後抑うつ症における、自殺・嬰児殺リスクへの注意である。これらの病像は、精神医学的な緊急対応を要する状態である。児への加害念慮の有無を評価すること、必要に応じて精神科医療へ速やかに紹介すること、児の安全を確保するための一時的な支援体制をつくることが必要になる。本書が想定する職種の方々は、家族からの相談、保健師からの照会、産科医からの連絡をきっかけにこの病像を疑った場合、速やかに専門的な評価へつなぐ経路を確保することが必要である。
第四に、社会的な支援との接続である。この群の臨床経過は、周産期における家族や社会からの支援のあり方によって大きく左右される。本書が想定する職種の方々がこの群の症例にかかわるときは、産科医・小児科医・助産師・保健師・児童相談所などとの多職種連携の枠組みのなかで、本人への精神医学的支援と児の発達への支援とを並行して進める姿勢が求められる。それが、この群の良好な経過を確保するための土台として重要である。
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