凡例——底本・頁対応・引用の方針
本解題の底本は、オイゲン・ブロイラー『魂の自然史とその意識化。要素心理学』(Eugen Bleuler, Naturgeschichte der Seele und ihres Bewußtwerdens. Eine Elementarpsychologie. Berlin: Julius Springer, 1921)の初版全文である。[1] 参照したのはインターネット・アーカイヴが公開する電子版(識別子 naturgeschichted00bleu)であり、全三六四画像、本文は本扉から数えて第一三画像が印刷頁一頁にあたる。したがって印刷頁 N は電子版の頁 N + 12 に対応する。以下、頁番号はすべて印刷頁で示し、ドイツ語圏の慣例に従って S. を冠する。
本文の光学文字認識層は良好である。原書はフラクトゥールではなくアンティカで組まれており、判読は概して確実である。それでも走査に由来する誤りは残るため、引用にあたっては明白な誤読のみを黙って正した(Aflfektivität → Affektivität、Parallelogravims → Parallelogramms、Beligionen → Religionen の類)。復元に確信の持てない箇所は引用せず、要旨のみを記すか、その旨を明記した。ドイツ語の引用符は原書の下開き・上閉じ形をそのまま用いる。
本解題が原典に即して読んだのは、この 1921 年の一冊のみである。ブロイラー晩年の二著作、すなわち『器質的発展の原理としての精神様体』(1925 年)[4]と『機械論・生気論・記憶論』(1931 年)[5]は、いずれも筆者が入手しえていない。前者は冒頭部分がシュプリンガーのサイトで閲覧できるほかに公開全文が見当たらず、書籍としても現在通常の流通経路では手に入らない。後者も同様である。日本語圏はもとより、欧米の公共アーカイヴにも電子版は現れていない。
この制約は本解題の射程を規定する。第八章で 1925 年の『精神様体』について述べることは、すべて三つの資料——ヤスパースが与えた要約[9]、エーが与えた言及[6]、そして 1921 年の本文——の対照から導かれた推論であって、原典による検証を経ていない。とりわけ 8-3 節の「1925 年が加えたのは新しい素材ではなく、素材の統合と、目的性に対する態度の転換であった」という判定は、この条件のもとでの暫定的な結論である。もっとも、後述するようにヤスパースの批判文はそれ自体が精神様体の内容を三項目に分けて列挙する形をとっており、その意味でこの推論は通常の「読まずに論じる」よりは足場が固い。とはいえ足場が固いことと検証済みであることは別である。原典が入手できしだい、8-2 節と 8-3 節は書き改められるべきものと考えている。
ブロイラーの造語については、Engramm を「記憶痕」、Engraphie を「記銘」、Ekphorie を「喚起」と訳し、初出時に原語を併記する。他方、彼自身の新語である Ergie・Psychokym・Neurokym・Schaltung・Gelegenheitsapparat・dereierendes Denken については、定訳がなく、しかも訳語を与えた瞬間に既存の概念へ吸収されてしまう危険が大きいため、原語のまま用いて説明を付す方針をとった。Schaltung のみは頻出するため「切替」の訳を併用する。
第一章 書物の位置——1921年という時点
1-1 五著作のなかの『魂の自然史』
ブロイラーの著作は、日本ではほとんど『早発性痴呆または統合失調症群』(1911 年)[2]の一冊に代表させられてきた。しかし彼自身が体系として構想していたのは五つの著作の連関であり、『精神医学教科書』(初版 1916 年、第 3 版 1920 年)[3]が臨床の全体を、本書『魂の自然史』(1921 年)が正常心理学の基礎を、『器質的発展の原理としての精神様体』(1925 年)[4]がその生物学的拡張を、そして『機械論・生気論・記憶論』(1931 年)[5]が方法論的な総括を担う。
本書はこの列のなかで蝶番の位置にある。教科書第 3 版の A 章「心理学的手引き」が扱った主題——記憶、連合、情動性、自閉的思考——を、臨床の必要から切り離して要素心理学として展開し直したものであり、書名の「要素心理学(Elementarpsychologie)」という副題はその宣言である。エーがブロイラーの 1932 年の書簡を引いて、著者自身が本書を統合失調症論文より高く評価していたと証言しているのは、この体系的位置づけを踏まえてのことであろう。[6]
1-2 献辞と序文——信と知を切り分ける
扉の次に「わが妻ヘートヴィヒ・ブロイラー=ヴァーザー博士に」という献辞が置かれる。序文の第一文は、本書全体の方法をひと息で言い切る。
Die ganze Untersuchung ist eine naturwissenschaftliche, d. h. sie sucht Beobachtungen — außen und innen — und bestrebt sich, dieselben in erklärende Verbindung zu bringen.
この研究全体は自然科学的なものである。すなわち、外と内との観察を求め、それらを説明的な連関のうちにもたらそうと努めるものである。(S. 1)
続いて、本書のあらゆる哲学批判がそこから派生することになる一句が置かれる。
Das Glauben hat neben dem Wissen, nicht darin, seine hohe Bedeutung und Existenzberechtigung. Durch Vermischung beider wird Wissen gefälscht, Glauben erniedrigt.
信は、知の傍らにおいてこそ、その中においてではなく、高い意義と存在権をもつ。両者を混ぜ合わせれば、知は偽造され、信は貶められる。(S. 1)
そのうえで彼は、自然研究者にとって「証明されるべき事柄(Quod erat demonstrandum)」は存在せず、いかなる結果も等しく歓迎されると述べる(S. 1)。研究対象を「魂(Seele)」でも「精神(Geist)」でもなく「Psyche」と呼ぶのは、前二者に付着した形而上学的な重荷を避けるためである。そしてこの序文の最も重要な一歩は、Psyche を「意識されたもの」と定義することの拒否である。意識は因果的全体の不規則で偶然的な断片しか含まないから、因果的理解をめざす科学にとっては使いものにならない。ゆえに無意識も等しく考察に入れねばならない、と。
序文にはすでに、本解題の最終章で決定的な意味をもつことになる一文が置かれている。
[…] die höhere Funktion ist immer nur die besondere Entwicklung der niedrigeren, und wenn wir sie bis in ihre Ursprünge zu verfolgen suchen, so kommen wir auf allgemeine Eigenschaften der lebenden Substanz überhaupt.
高次の機能とはつねに低次の機能の特殊な発展にほかならず、それをその起源にまで遡って追おうとすれば、我々は生ける実体一般の諸性質に行き着く。(S. 3)
1-3 原著目次
本書の構成それ自体が一つの主張である。心を知る手段を検討し(第一部)、意識を中枢神経機能から導出し(第二部)、心的装置を部品ごとに記述し(第三部)、そこから引き出しうる世界観を弁護する(第四部)。以下に原著目次を、印刷頁とともに掲げる。
| Vorwort und Einleitung | 1 |
| I. Die Mittel, unsere Psyche kennen zu lernen | 7 |
| A. Unser Denken | 7 |
| B. Die Sinne und die Welt | 13 |
| C. Das Beobachtungsmaterial, seine Gewinnung, sein Wert | 19 |
| II. Ableitung des Bewußtseins aus der Funktion des Zentralnervensystems | 20 |
| A. Die Psyche ist eine Gehirnfunktion | 23 |
| B. Fehlen einer Grenze zwischen Psyche und Nervenfunktion | 27 |
| C. Die scheinbare Übergangsstelle nervöser in psychische Funktionen | 31 |
| D. Ableitung der psychischen Funktionen aus den nervösen | 34 |
| E. Ableitung der elementaren bewußten Qualität | 39 |
| F. Die bewußte Person, das bewußte Ich | 47 |
| G. Die große Lücke | 54 |
| H. Die Einheit der Funktion | 58 |
| J. Die Grenzen des Psychischen | 66 |
| K. Die Bedeutung des Bewußtseins | 71 |
| III. Der psychische Apparat | 75 |
| A. Das Gedächtnis | 79 |
| B. Aufnahme und erste Verarbeitung des Materials | 112 |
| 1. Das Problem | 114 |
| 2. Außenwelt, Innenwelt, Ich, „Projektion nach außen“ | 117 |
| 3. Unterschied zwischen Wahrnehmung und Vorstellung | 125 |
| 4. Empfindung, Wahrnehmung, Vorstellung; ihre Entstehung | 131 |
| 5. Die Halluzinationen | 145 |
| 6. Verhältnisse, aus denen Halluzinationen entstehen | 149 |
| C. Das Denken. Die Assoziationen. Die Intelligenz | 154 |
| Die Assoziationen | 178 |
| Verschiedene Arten des Denkens | 190 |
| Das dereierende Denken | 191 |
| Die Intelligenz | 199 |
| D. Die kausalen Verknüpfungen. Die Denknotwendigkeiten | 202 |
| E. Raum und Zeit | 217 |
| F. A priori und a posteriori, Organisation und Erfahrung | 227 |
| G. Die Ergie | 229 |
| Affektivität, Ethik | 230 |
| Aufmerksamkeit | 253 |
| Suggestion und Suggestibilität | 255 |
| Massenpsychologie | 257 |
| Die zentrifugalen Funktionen | 259 |
| Triebe und Instinkte | 261 |
| Die Religiosität, die Religionen | 271 |
| Der Wille | 275 |
| Die Gelegenheitsapparate | 278 |
| Automatisierung, Mechanisierung; Die Psychomotilität | 281 |
| Psychische Energie; Psychische Aktivität | 283 |
| H. Die Schaltungen | 287 |
| J. Die Spannungen | 307 |
| K. Das Psychokym | 310 |
| L. Die Lokalisation der psychischen Funktionen | 316 |
| IV. Lebens- und Weltanschauung | 323 |
| Register | 339 |
第二章 第一部 心を知る手段(S. 1–19)
2-1 我々の思考——哲学への宣戦
あらゆる認識の第一の前提は「我々の思考の正しさ」であり、我々はそこから外に出られない。思考によって思考を、悟性によって悟性をその原理において批判することはできず、批判できるのは個々の適用だけである。したがって唯一の試金石は経験であり、経験に耐えた論理形式を我々は「正しい」と呼ぶ。ここまでは穏当な出発点である。しかしそこから展開される哲学批判は、精神科医の筆になるものとしては異例に激越である。哲学はツィーエンの言う「体系の墓場」しか生まなかったが、その墓場では殺された体系が亡霊として歩き回り、一方は百度目の殺害を、他方は蘇生を試みている。哲学と自然科学の混合は「ニンニクとチョコレートの料理」であり、医学教育への哲学導入は次世代の医師にとって不幸である。ヘーゲルが火星と木星のあいだに惑星はありえないと「理性的根拠から」証明したのが、ケレス発見の二年後だったという挿話が、警告の札として掲げられる。
この激越さは、しかし単なる悪罵ではない。彼は自説に向けられた反論を正面から引き受けている。
Ein Kollege, den ich hoch achte, hält mir vor, meine ganze Auffassung von der Identität von Seele und Leib sei, weil nicht sicher bewiesen, Metaphysik; das ist nicht richtig […] Auf die größere oder geringere Wahrscheinlichkeit der Schlüsse kommt es bei dieser Frage gar nicht an, sondern auf die Art des Schließens.
私が深く敬意を抱く一人の同僚が、魂と身体の同一性についての私の見解全体は、確実に証明されていないのだから形而上学だ、と難ずる。それは正しくない。……この問題において重要なのは推論のより大きなあるいはより小さな確からしさではまったくなく、推論の仕方である。(S. 9、註)
これは本書の性格を規定する一文である。ブロイラーは、自分の同一説が仮説にとどまることを認めている。彼が主張するのは結論の確実性ではなく、その結論に至る手続きが物理学や生理学の導出と同種のものだ、ということである。第一部の末尾でも同じことが繰り返される——「我々は自分の結論が他とは別の意味で正しいなどとはまったく要求しない。ただそれらと同等でありたいのである」(S. 20)。
2-2 感覚と世界——心身諸説の点検と平行論の否認
与えられているのは内的過程だけである。心的系列の実在性は絶対的だが主観的で、他者に証明できない。逆に外界は——自分の身体を含めて——夢の幻覚のように錯覚でありうる。しかし何人もその存在を前提せずには生きられない。肉を食い、杭を避け、聴衆を想定して講義する。ゆえにブロイラーは外界を前提し、その前提のもとではじめて「私」を「我々」に置き換えうるとする。
次いで、プラトン以来の「物をあるがままに見る」という要求が解体される。知覚とは対象から発する力から心的な記号を作ることであり、我々が「見て」いるのは Neurokym(神経エネルギー流)の変動であって物ではない。神ですら「あるがままに」見ることはできない——「見ること」と「あるがまま」とは排他的だからである。
そのうえで心身問題の諸立場が順に検討される。二元論、徹底した観念論(必然的に独我論に至る)、唯物論(意識の導出に失敗してきた——この欠陥を第二部で除去する、と予告される)、自然科学者が黙認している心身平行論、ヴントの立場、そしてスピノザ流の同一説(力と意識は対置できず、そもそも物質とは力の総和にほかならない、として斥けられる)。最後に、本来の意味での平行論が否認される。
In Wirklichkeit ist die ganze Annahme der bare Unsinn: wenn die beiden Reihen nicht aufeinander wirken können, dann wissen wir von einer physischen Welt überhaupt nichts, weder daß sie existiert, noch wie sie ist, noch ob sie irgendeinem Vorgang parallel läuft […]
実際のところ、この想定全体はまったくの戯言である。もし二つの系列が互いに作用しあえないのなら、そのとき我々は物的世界についておよそ何一つ知らないことになる——それが存在することも、それがいかにあるかも、それが何らかの過程と平行して走っているかどうかも。(S. 19)
注意すべきは、この否認が経験的ではなく論理的だという点である。平行論は事実に反するから斥けられるのではなく、それを認めれば物的世界についての言明が自己矛盾に陥るから斥けられる。
第三章 第二部 中枢神経機能からの意識の導出(S. 20–74)
3-1 心は脳機能である
この命題を巻頭に掲げねばならないこと自体が奇妙だ、とブロイラーは書く。証拠が列挙される。心的能力の複雑さは神経節と脳の複雑さとかなりよく平行する(同一種内でも、蟻のように性によって課題が異なれば脳も異なる。犬の嗅脳と人間の退化した嗅脳)。精神的形質は身体的形質と同じ仕方で遺伝する。病理学では、粗大な解剖学的変化には記憶と連合という基本機能の障害が、微細な障害には微細な障害が対応する——器質性精神病と統合失調症との対比である。介入実験としては、クロロホルム、頭部打撲、露出した脳への圧迫(発語が途中で止まり、圧を解くと中断点から再開する。止められていた時計仕掛けのように)、アルコール、甲状腺製剤、性腺の摘除と移植、飢餓が挙げられる。
しかし最も重要な論拠は、これらの経験的対応ではない。
Am wichtigsten ist aber, daß die Gesetze der zentralnervösen Funktionen diejenigen der Psyche sind und umgekehrt.
しかし最も重要なのは、中枢神経機能の諸法則が心の諸法則であり、その逆もまた成り立つということである。(S. 25)
ヴェーバーの法則、閾値、微小刺激の加重、力の平行四辺形が成り立たないこと(南と西とに同時に誘われても南西へは行かない)、反射における求心性刺激による誘導・抑制・選択・類似連合・記憶の萌芽、ランシュブルクの法則、シェリントンの統合機能——そしてヴントが心の特性とみなした「創造的合成」までが、反射研究にも、さらには人間の作った機械にも見出される、とされる。
3-2 境界の不在——「立場の差異であって事象の差異ではない」
誰も中枢神経機能と心的機能との境界を近似的にすら示せない。「心的とは意識的なものだ」と割り切る者は、自分の行為動機のうちどれが意識的かを正直には決して言えない。ブロイラーは境界のない段階梯子を提示する——通常の反射、連合反射、一回の意志行為で設定された結合、エクスナーの言う「皮質反射」(その場かぎりの構え)、そして意識的行為。本能はこれとは別方向に反射から成長する。どこにも質的差異はない。
[…] nirgends zeigt sich ein qualitativer Unterschied zwischen physisch und psychisch, sei es in den Vorgängen oder den Apparaten. Der Unterschied, den wir kennen, ist ja einer des Standpunktes und nicht einer der Sache.
……物的なものと心的なものとのあいだには、過程においても装置においても、いかなる質的差異も現れない。我々が知っている差異とは、立場の差異であって事象の差異ではない。(S. 30)
Eine Grenze findet sich also erst zwischen den Lichtschwingungen und dem Reizzustand der Retina, zwischen der Erregung der zentrifugalen Nerven und der Kontraktion des Muskels oder der Sekretion der Drüsenzelle usw., nicht aber zwischen Funktion des CNSs und der Psyche.
したがって境界が見出されるのは、光の振動と網膜の刺激状態とのあいだ、遠心性神経の興奮と筋の収縮あるいは腺細胞の分泌とのあいだ等々であって、中枢神経系の機能と心とのあいだではない。(S. 30)
ここには、本紀要論文が「器質—臨床間隔の原理」として論じたエーの読解と正面から交差する主張がある。エーはブロイラーにおいて器質と臨床のあいだに介在するものを見出したが、ブロイラー自身は、境界はもっと外側——感覚器と外界との接面、および中枢と筋との接面——にしかない、と言っている。この差は小さくない。
付論として、生と死の境界も曖昧になりつつあること(酵素論、コロイドのヒステレシスがいずれ記憶を説明するかもしれない)、そして記憶は生物において神経系に限られていないこと(遺伝、免疫とアナフィラキシーにおける化学的記憶)が述べられる。ただし記憶とは「喚起可能な変化」だけを指す。
3-3 意識的質の導出——石の思考実験と Functio cogitans
第二部 D 節で、ブロイラーは自分の標的を厳密に限定する。問題は瞬間の心的過程の総体でもその秩序でもなく、心を自動機械から区別する「意識的質(die bewußte Qualität)」だけである。そして決定的な訂正が置かれる。
Wir haben gesagt, es bestehe ein kausales Verhältnis zwischen ‚psychischer und physischer Funktion‘, es wäre aber falsch, wenn wir uns ausgedrückt hätten: ‚zwischen Physis und Psyche‘, deshalb, weil die Psyche […] identisch ist mit einer Gruppe physischer Hirnfunktionen, die von einer andern Seite, von innen, gesehen werden kann, ohne daß sie im übrigen in ihrer Natur etwas Besonderes wäre. Das Besondere, der Unterschied zwischen Physis und Psyche, liegt nicht in den ‚beiden‘ Dingen, sondern in der Seite, von der wir das eine Ding wahrnehmen.
我々は「心的機能と物的機能とのあいだ」に因果関係があると述べた。しかし「Physis と Psyche とのあいだ」と表現したのであれば、それは誤りであっただろう。なぜなら Psyche は……物的な脳機能の一群と同一であり、それが別の側から、内から見られうるというにすぎず、その本性においてほかに何ら特別なものではないからである。特別なもの、Physis と Psyche との差異は、「二つの」事物のうちにあるのではなく、我々が一つの事物を知覚する側のうちにある。(S. 38)
これが同一説(Identitätshypothese)である。ブロイラー自身、それが新奇な思想ではないことを認めている。新しいのは同一性の「いかに」を示す点であり、それが E 節の課題となる。
導出は一つの思考実験から始まる。突かれて飛ぶ石には記憶がない。ゆえに現在しかない。比較の場所が存在しないから「別の場所」に来ることは決してなく、変化も、運動も、原因も存在しない。仮に意識と思考能力を与えられていたとしても、原因の時に結果を、結果の時に原因を現在としてもたないから、因果を知りえない。記憶をもたない物にとって知覚はありえないのである。逆に、先行する瞬間が記憶痕を残し、それが次の瞬間になお、あるいは再び賦活されていれば、二つの状態が同時に存在し、差異・比較・変化・「知覚の落差(Wahrnehmungsgefälle)」が生じる。ただしこれには、喚起された機能と現勢の機能とが一つの統一へ融合することが条件であり、中枢神経系はまさにそのような装置である。
したがって意識の条件は記憶と機能的統一の二つだけである。そこからブロイラーの最も鋭い定式が出る。
Nicht das Geschöpf, nicht das Gehirn besitzt Bewußtsein, sondern ein Komplex von zentralnervösen Funktionen, die wir bei den Säugetieren in die Hirnrinde lokalisieren. Es gibt keine Res cogitans, sondern eine Functio cogitans.
意識をもつのは生物でもなければ脳でもなく、中枢神経機能の複合体である——哺乳類においては我々がそれを大脳皮質に局在させるところの。思惟する実体(res cogitans)は存在せず、思惟する機能(functio cogitans)が存在する。(S. 41)
デカルトの定式は三段に遡行される——memini, ergo mutor — mutor, ergo comparo — comparo, ergo cogito — cogito, ergo sum.「私は記憶する、ゆえに私は変化する。私は変化する、ゆえに私は比較する。私は比較する、ゆえに私は思考する。私は思考する、ゆえに私は在る」(S. 47)。
記憶像の連なりについての注意も重要である。記憶とは真珠の首飾りのような孤立した出来事の列ではない。真珠は後からの抽象作業が切り出した二次的形象であって、実際には皮質の最初の機能から死に至るまでひとつながりに紡がれる「ただ一つの未加工の記憶痕」しかない。ゆえにあらゆる新しい体験は自我の変化であり、並走する第二の曲線ではなく、一本の連続曲線の変形である。F 節はこれを受けて、意識的自我を「最も頻繁に、かつつねに相互に結合されて賦活される記憶痕の群」として構成し、意識の度合いを自我との連合の数と密接さによって、無意識を自我と連合していない機能として規定する。ブロイラーはここに「四十年間ほぼ毎日この考えの反証を狙って探したが、矛盾も適用上の困難も一度も見出せなかった」と書き添えている。
3-4 大きな空隙
本書には、著者自身が認める空隙が一つだけある。
Haben wir uns die Natur der Psyche inkl. Bewußtsein als zentralnervöse Funktion vorstellbar gemacht, so fehlt uns doch noch eines zum fertigen Verständnis: Woher stammen die Qualitäten? Warum kommt der dem Ich sich assoziierende Schallreiz als Ton, der Lichtreiz als Farbe zur inneren Anschauung?
意識を含む心の本性を中枢神経機能として表象しうるものにしたとしても、完結した理解にはなお一つが欠けている。諸質はどこから来るのか。なぜ自我に連合する音刺激は音として、光刺激は色として内的直観にもたらされるのか。(S. 54)
ブロイラーはこの問いの前で自分が無力だと率直に述べ、しかしそれが誤った問いだとも解決不能だとも証明できない、と付け加える。快と苦についてだけは見通しがある——それは客観的情動の本質をなす「受容」と「拒否」、自我の促進と抑制が内から見られたものと考えねばならない。だから白黒の反転は考えられても快不快の反転は決して考えられない。しかし感覚質については見かけ上の絶対的恣意の前に立たされる。彼は自分の失敗した試み(蜜蜂と青い花の例、視覚と聴覚の構造的差異の比較)を、警告のためにも利用のためにも、と断って開示し、そして節を次の一句で閉じる——「いずれにせよここでも、それが正当であることを証明せずに、高慢な『我々は知りえないであろう(Ignorabimus)』を口にしてはならない」(S. 58)。
この空隙が本論全体を危うくしないことは、序文で予め断られている。「たとえば私の意識化の説明が受け入れられないとしても、その事情は他の論述を何ら疑わしくするものではない。……答えるべき問いが一つ多く残るだけである」(S. 3)。
3-5 機能の統一
H 節は「統一」という語が五つの別物に適用されていることを腑分けする。心的基本機能の統一(意識の二条件の一方)、空間的統一と時間的統一、人格の時間的統一、意欲の同時的統一、そして「意識の統一」である。第二のもの、とりわけ時間的統一が最も難しい。神経機能は状態ではなく絶え間ない動揺であり、全か無かの法則と不応期がある。ゆえに伝播速度は一つの神経心的過程の持続に比してきわめて大きくなければならず、この統一を担いうるのは物質ではなく機能である、とされる。
Ich denke mir, daß wohl nur die Funktion, die Energieform eine solche Einheit darstellen könne. […] Es ist aber gleichgültig, ob wir diese Forderung zur Erklärung der nervösen oder der psychischen Erscheinungen stellen: die Ansprüche sind genau die nämlichen.
私が考えるに、そのような統一をなしうるのはおそらく機能のみ、エネルギー形式のみであろう。……しかし、我々がこの要求を神経現象の説明のために立てるのか心的現象の説明のために立てるのかは、どちらでもよい。要求はまさしく同一である。(S. 62)
第四の統一——意欲の同時的統一——については、ブロイラーは理論家の主張に反して、それが決して完全ではないと言う。愛と憎、攻撃欲と恐怖、闘争欲と平和愛、同情と加虐欲といった拮抗する欲動対が、拮抗筋や血管の拡張筋・収縮筋と同様に、心の調節にとって必要である。統一が成立するのは一つの傾向が全「切替」を支配する場合にかぎられる。そして統合失調症では、この本来不完全な統一がしばしば完全に引き裂かれる。系統発生的に見れば、分節と機能によって分かれた多数の装置が高位中枢と最終的に皮質でいくらか統括されているにすぎず、統一化が系統発生の目標だとすれば、人間はその終点ではなく出発点に立っている(S. 65)。
3-6 心的なものの境界——神経系より下へ
J 節は本解題の最終章にとって決定的である。ブロイラーはまず汎心論を明示的に斥ける。人間に意識があるなら原子にも電子にも意識があるはずだ、という論法に対し、原子に記憶を考え入れられない以上、意識を帰することはできないと答える。そして次のように述べる。
In der Entwicklung unseres Nervensystems ist das Bewußtsein eine Funktion, die ähnlich wie die Fähigkeit des Hustens auftritt, wenn die betreffenden Organe vorhanden sind, vorher aber auch nicht ‚im Keim‘ vorhanden ist. Das Neue liegt in der Komplikation.
我々の神経系の発展において、意識とは、当該の器官が存在するときに——咳をする能力と同様に——現れる機能であって、それ以前には「萌芽としても」存在しない。新しいものは複雑さのうちにある。(S. 66)
ところが、その直後に、この命題と緊張関係に立つ三段が踏まれる。
Können nicht auch ältere Einrichtungen als das Nervensystem Bewußtsein hervorbringen? Der Nerv ist ja nur eine Spezialisierung der dem Protoplasma eigentümlichen Fähigkeit, Reize aufzunehmen und in Reaktionen zu verwandeln und weiterzuleiten.
神経系より古い装置もまた意識を生み出しうるのではないか。神経とは結局、刺激を受け取り反応へ変え伝導するという、原形質に固有の能力の特殊化にすぎないのだから。(S. 67)
Wenn nun aber eine phylogenetische Überlegung existieren sollte und so viel Zeit und so viele Erfahrungen zur Verfügung hat, braucht es dazu ein Gehirn? Genügen denn nicht die Engramme und die Leitungsfähigkeit der Körperzellen?
しかしもし系統発生的な熟慮というものが存在し、それがこれほどの時間とこれほどの経験を自由にできるのだとすれば、そのために脳が要るだろうか。記憶痕と体細胞の伝導能力とでは足りないのだろうか。(S. 69)
そして再生現象(ヒドラの腕、プラナリアの断片、虹彩からの水晶体)を論じた長い註で、彼はこう書く。
Jede einzelne Zelle muß also irgendeine Art Kunde davon haben, was in jeder andern vorgeht, und was das für die Gesamtheit des Körpers für eine Bedeutung hat. Und noch mehr: diese Nachrichten müssen irgendwie zu etwas integriert werden, das analog ist den Gesamtvorstellungen und den Zweckhandlungen der Psyche.
各々の細胞は、他のあらゆる細胞のうちで何が起きているか、そしてそれが身体全体にとっていかなる意味をもつかについて、何らかの仕方で知らせを得ていなければならない。そればかりではない。これらの知らせは何らかの仕方で、心の全体表象および目的行為に類比的な何かへと統合されねばならない。(S. 69、註)
これは、名前を欠いた精神様体にほかならない。有機体全体を秩序づける、神経系に先立ちかつそれを含む、記憶と統合を備えた機能原理である。ただしブロイラーはこれを一貫して「可能である」「排除できない」「原理的に答えうる問い」という様相のうちに留めており、序文でも自らこれらを「仮説でも推測でもなく可能性にすぎない」と断っている。
第四章 第三部 A 記憶(S. 75–112)——記憶論の本体
4-1 記憶の三条件と、神経をもたない生物
第三部の序論は生物一般の定義から出発する。生物は自己保存のために環境を利用し危険を避けねばならず、そのためには刺激を特異的に受容し、質と量に応じて異なる反応を返さねばならない。系統発生的適応は「世代を通じて反復する事態」にしか適応できず、個体だけが出会う状況には対応できない。蜘蛛は釘の頭に何度も飛びかかり、蛾は炎に飛び込んで焼け死ぬ。この欠陥を克服するのが個体記憶である。
ブロイラーは記憶痕(Engramm)の三条件を定式化する。体験が変化=記憶痕を置くこと、その変化が持続すること、一定の条件下で再び作動(喚起)しうること。そして体験されたものはすべて——意識的であれ無意識的であれ、注意を伴おうと伴うまいと——記憶痕として固定される。想起できないのは記銘の限界ではなく喚起機構の問題である。
記憶痕という概念そのものは、彼の言うところでは理論的にはまったく中立である。
Der Begriff der Engramme an sich ist weder ein hirnphysiologischer noch ein psychologischer; er ist einfach der Ausdruck der Tatsache, daß durch ein Erlebnis eine Veränderung gesetzt wird, die einen dem Erlebnis gleichen oder ähnlichen Ablauf erleichtert oder ermöglicht.
記憶痕という概念それ自体は、脳生理学的でも心理学的でもない。それは、体験によって一つの変化が置かれ、その変化がその体験と同じあるいは類似した経過を容易にしあるいは可能にする、という事実の表現にすぎない。(S. 82)
証拠として真っ先に挙げられるのは、神経をもたない生物における学習である。
Stentor und Vortizellen, nervenlose Geschöpfe, kürzen, wenn ihnen mehrfach in gleicher Weise Futter geboten wird, die Bewegungen, die zur Aufnahme führen, ab.
ラッパムシとツリガネムシという、神経をもたない生物は、同じ仕方で繰り返し餌を与えられると、摂取に至る運動を短縮する。(S. 81)
術語がゼーモンに由来することは同じ頁の註に明記されている——「Nomenklatur nach SEMON.」(S. 81、註)。[7]
4-2 系統発生的記憶と個体記憶の同一性
本章の理論的中核の第一部である。ブロイラーは、心的記憶が中枢神経系の機能であることを確認したうえで(S. 82)、反射を単なる解剖学的配線と考えるのは誤りだと言う。反射には可塑性(Plastizität, Bildsamkeit)があり、それは解剖学的構造ではなく多数の Neurokym 機能の共働にのみ基づきうる。反射の可塑性と心の可塑性は Neurokym 過程としては原理的に同一であり、両者の差は個体記憶の有無だけである。ここから中間命題が導かれる。
Die angeborene zentralnervöse Anlage bestände also nicht nur in einer bestimmten anatomischen und chemischen Organisation, sondern auch in einer Mitgift von Engrammen. Damit ist auch gesagt, daß die Engramme nicht aufgespeicherte Energie (WERNICKE), sondern eine Disposition für eine bestimmte Funktion sind.
したがって生得的な中枢神経の素質は、特定の解剖学的・化学的組織のうちにあるだけでなく、記憶痕の持参金のうちにもあることになる。同時にこれは、記憶痕が蓄積されたエネルギー(ヴェルニッケ)ではなく、特定の機能への素因であることを意味する。(S. 83f.)
4-3 遺伝子は記憶痕である——omnis cellula ex engrammatophoro
系統発生的記憶も記憶痕に基づくのであれば、遺伝的形質は記憶痕であり、したがって遺伝子は記憶痕である。ここで初めてゼーモンの名が本文に現れる。
Gibt es ein phylogenetisches Gedächtnis in dem Sinne, daß die Gleichheit der Funktion von Eltern und neuen Generationen auf einer Ekphorie phylischer Engramme beruht, so sind auch die Gene Engramme […] Auf solchen und noch anderen Wegen kommt man zu Ansichten, wie sie SEMON in seiner Mneme, ohne auf das Wie näher einzugehen, entwickelt hat.
親と新しい世代との機能の同一性が種の記憶痕の喚起に基づくという意味での系統発生的記憶が存在するのなら、遺伝子もまた記憶痕である。……このような道を、またこれ以外の道をも通って、人はゼーモンがその『ムネーメ』において——その「いかに」に立ち入ることなく——展開したのと同様の見解に至る。(S. 85)
この一般化を細胞理論そのものの書き換えとして定式化したのが、本書中もっとも遠くまで行く註である。
Es würde dann nicht mehr heißen: omnis cellula e cellula, sondern omnis cellula ex engrammatophoro, d. h. aus einer Substanz, die Engrammträger ist. Dabei wäre das gestaltende Prinzip das Engramm.
そうなればもはや「すべての細胞は細胞から」ではなく、「すべての細胞は記憶痕担体から」と言われることになろう。すなわち記憶痕の担い手である実体から、ということである。そしてそのとき、形成する原理は記憶痕である。(S. 87、註)
そして記憶による器官形成が試論的に描かれる。未分化な細胞塊で二つの離れた点が反復して同時にあるいは継起的に刺激されると、記銘的かつ連合的な結合が生じ、結合は最小抵抗線を選び、頻繁に分泌する部位は「一種の腺」になる(S. 90)。これに続くのが、本書の記憶論の範囲を最も端的に述べる一文である。
Es wurde früher hervorgehoben, daß das Gedächtnis eine allgemeine Funktion des lebenden Protoplasmas ist, die nur in unserer Hirnrinde eine besondere Ausbildung erlangt hat. […] Jedenfalls können wir unsere jetzigen Kenntnisse so ausdrücken: das Leben ist eine Äußerung von Eigenschaften des Kolloids, die wir nicht abzugrenzen vermögen von den mnemischen Eigenschaften.
記憶が生ける原形質の一般的機能であり、それが我々の大脳皮質においてのみ特別な発達を遂げたにすぎないことは、すでに先に強調しておいた。……いずれにせよ我々は現在の知識を次のように言い表すことができる——生命とは、我々がムネーメ的な諸性質から区別することのできないコロイドの諸性質の発現である。(S. 90)
S. 82 の「心的記憶もまた中枢神経系の機能である」という文を、記銘の適用範囲についての言明と読んではならない。この文は「心的記憶痕は物的記憶痕と同一である」という同一説(反・心理主義)の言明であって、記憶が神経系にしか存在しないという主張ではない。同じ頁でブロイラーは記憶痕概念そのものが脳生理学的でも心理学的でもないと明言し、章の冒頭では神経をもたない繊毛虫の学習を証拠として掲げている(S. 81)。すなわち S. 82 が述べているのは、「心的記憶は神経系の外にある別の実体ではない」ということであり、「記憶は神経系にしかない」ということではない。
4-4 記憶痕の不滅性とパリンプセスト
記憶痕は一度置かれれば、それを担う脳が存続するかぎり持続する。コロイドにおける記銘的変化は不可逆である(S. 91)。「褪色」という通念は誤りで、褪せて見えるのは元の記憶痕ではなく、それを用いて後から作られた表象のほうである。証拠として、器質性精神病で最近の記憶が失われても幼少期の像が幻覚的な鮮明さで甦ること、催眠、夢、芸術家の表象、無意味綴りの再学習における節約が一年後も測定できることが挙げられる。ブロイラー自身の入眠時幻覚——梨の葉を数えられるほど鮮明で、原型は前日窓に映った反射像だった——という自己観察も添えられる。
しかし喚起は単なる素因の再賦活ではない。それはそのつど過去の記憶痕を材料とした新しい結合の形成である。したがって記憶像は原体験の複製ではなく「一つの報告(ein Bericht)」——ごく一部を見本として再生し、残りを記号で置き換えた報告——にすぎない。厳密には「反復」も存在しない。二度目の体験は一度目の記憶痕を喚起するがゆえに、すでに別の体験である。
Sie sind eher wie ein Palimpsest, das immer wieder neu überschrieben wird, zwar mit dem nämlichen Worte, aber jedesmal in anderen Zusammenhängen.
記憶痕はむしろ一枚のパリンプセストのようなものである。それは何度も新たに上書きされる——たしかに同じ語をもって、しかし毎回別の連関において。(S. 99)
喚起はつねに連合の道を通る(S. 102)。連合路が多いほど喚起は容易だが、選択を要する場合はかえって困難になる。ランシュブルクの法則——同一の目標をもたない類似機能は互いに抑制する——が忘却を支配する。ここでの語彙は徹頭徹尾機械論的である。疎通(bahnen)、制止(hemmen)、道(Wege, Bahnen)、遮断(Absperrung)、短絡(Kurzschluß)、抵抗(Widerstände)、切替(Schaltungen)。そして練習とは、新しい連合を置くことであると同時に、他の連合を遮断することである。
Wie bei den Assoziationen des Denkens ist bei den körperlichen Fertigkeiten die Absperrung der unrichtigen und unnötigen Bahnen mindestens so wichtig wie die Auffindung der richtigen. […] Durch Übung gewinnt man nicht nur neue Fähigkeiten, sondern man verschließt sich auch andere.
思考の連合においてと同様、身体的な熟練においても、誤った不要な路の遮断は、正しい路の発見と少なくとも同じだけ重要である。……練習によって人は新しい能力を得るだけでなく、他の能力を自らに閉ざしもする。(S. 98)
忘却は記憶痕の消滅ではなく喚起の失敗である(S. 110)。ヴェルニッケの記銘力(Merkfähigkeit)概念は記銘(Engraphie)に置き換えられるべきだとされ、章はベッヒャーの「心理主義的記憶仮説」への激越な反論で閉じられる。
第五章 第三部 B–F 知覚・思考・思考必然性(S. 112–229)
5-1 知覚は加工である——幻覚論の前提
B 章はもともと独立の論文として書かれたもので、幻覚という病理から出発して知覚と表象の本性を照らす、という方法が明言される。既存の幻覚理論——感覚器官への逆行性興奮説、感覚器官局在説、皮質「知覚中枢」説、ヴェルニッケの遮断・鬱滞説、アリストテレスからヒュームに至る強度説——が順に論破される。
「心はどうやって内なる過程を外に投射しうるのか」という問題設定そのものが誤りだ、というのが積極的主張である。心的過程の内容はおのずと二系列に分かれ、運動感覚と厳密な関係をもつ系列を外界、もたない系列を内界と呼ぶにすぎない。新生児にとって最初にあるのは混沌であり、そこから反応単位=「もの」が切り出される。母は最初、温もり・飢えの充足・匂い・触覚・特定の色斑の複合であり、そこから吸啜感覚など自己の反応に属する部分が後に分離されて「母」の概念が残る。
知覚それ自体がすでに強度に加工されている。懐中時計の一面を見て全体概念を補い、球体の裏側が凸であると(当初は不当に)付け加える。
Unser Wahrnehmen ist überhaupt viel mehr, als man sich denkt, ein Illusionieren.
我々の知覚は総じて、人が考えるよりもはるかに多く、一つの錯覚形成である。(S. 136)
Das psychische Gebilde, mit dem die Erkenntnis der Welt beginnt, ist also die Wahrnehmung, nicht die Empfindung.
世界の認識がそこから始まる心的形成物は、したがって知覚であって感覚ではない。(S. 138)
この成果がそのまま幻覚論になる。感覚的成分、完全性、生気、レープハフティヒカイト、直観性——これらは決定的ではなく促進的にすぎない。決定的なのは心的環境、すなわち連合的連関である(S. 146)。ブロイラー自身が窓外の巨杉について語る思考実験が中核に置かれる。樹がもう無いのに、その方向に窓の外を見たときにかぎって像が現れ、しかも連合によって想起されたのでない場合、それは表象として認識されえず、知覚の印象を与える。声の幻覚はさらに容易である。声は無意識から浮上するため、患者の思路にとって、聞こえた語と同じく異質だからである。
5-2 連合論——何が選択を支配するのか
本紀要論文の主題にとって最も重要な節である。ブロイラーはまず、連合概念を解剖学から切り離す。
Es ist durchaus falsch, einen anatomischen Begriff daraus zu machen.
連合から解剖学的概念を作り上げるのは、まったく誤りである。(S. 178)
次に、連合の成立がつねに同時に遮断でもあることが述べられる。
Die Assoziationsstiftungen sind nicht bloß etwas Positives, sondern ebensosehr etwas andere Wege Verschließendes. Jede beliebige Gewöhnung (Aussprache, Schrift, und tausend andere) erschwert alle Reaktionen anderer Richtung.
連合の成立は単に積極的な何かであるにとどまらず、同じだけ、他の路を閉ざす何かでもある。いかなる習慣づけ(発音、書字、その他無数のもの)も、他の方向のあらゆる反応を困難にする。(S. 179)
類似連合は隣接連合の特殊例ではなく、その逆である。しかも類似連合の基礎にあるものは心よりも、そして神経系よりも古い。
Das Elementare, das der Assoziation durch Ähnlichkeit zugrunde liegt, ist älter als die Psyche, ja älter als das Nervensystem.
類似による連合の基礎にある要素的なものは、心より古く、それどころか神経系より古い。(S. 181/182)
そしてこの節の——おそらくは本書全体の——核心が来る。連合の総体からは、それだけでは思考は生じない。
Aus all diesen Assoziationen aber kann noch kein brauchbares Denken entstehen. Die vorgestellte Rose kann mich auf Dornen oder eine Kamelie oder ein Mädchen, das ich mit der Rose gesehen oder verglichen habe, und noch auf tausend andere Gedanken bringen. Es muß noch die Auswahl und die Richtung des Denkens bestimmt werden.
しかしこれらすべての連合からは、なお使用可能な思考は生じえない。表象された薔薇は、私を棘へも、椿へも、私が薔薇とともに見たあるいは薔薇と比べた一人の少女へも、さらに他の無数の思考へも導きうる。思考の選択と方向とがなお規定されねばならない。(S. 184)
Auf die Auswahl hat in erster Linie das Denkziel Einfluß, die im gegebenen Moment herrschende Strebung.
選択に対して第一に影響を及ぼすのは思考目標であり、与えられた瞬間に支配している努力である。(S. 185)
Wir sehen in der Konstellation wieder eine Wirkung der Schaltung, die jeder psychische Vorgang, eine Idee, ein Trieb, vor allem ein Affekt auf das ganze Assoziationsgefüge ausübt […] Diese Art Schaltung ist nicht nur ein Ausdruck, sondern geradezu die Ursache der Einheit der obersten zentralnervösen Funktionen.
我々は布置のうちに、あらゆる心的過程が——一つの観念が、一つの欲動が、とりわけ一つの情動が——連合構造全体に及ぼす切替の作用を、あらためて見る。……この種の切替は、最高次の中枢神経機能の統一の表現であるにとどまらず、まさにその原因である。(S. 187)
そして全体の定式が置かれる。
Die Gesetze des Denkens sind die der Assoziation; diese sind die der Ekphorie; die Ekphorie ist in Art und Inhalt bestimmt durch die Engraphie, in ihrer Auswahl durch die angeborenen lebenserhaltenden Reaktionen des CNS.s (Reflexe, Triebe, affektive Einstellungen); die Engraphie wiederum ist eine überdauernde Erfahrung.
思考の諸法則は連合の諸法則である。連合の諸法則は喚起の諸法則である。喚起は、その様式と内容においては記銘によって、その選択においては中枢神経系の生得的な生命維持反応(反射、欲動、情動的構え)によって規定される。そして記銘とは、持続する経験にほかならない。(S. 188)
結合には階層がある。概念の内側の結合は概念のあいだの結合よりはるかに堅固である(S. 176)。ゆえに夢では概念そのものが崩れ、病理においては論理障害があらゆる精神病に見られるのに対して、概念の解体(Begriffsauflösung)は統合失調症にのみ見られる(S. 177)。弛緩の深度が診断単位を分けるという主張である。
5-3 dereierendes Denken——自閉的思考の改名とその理由
本書で自閉的思考は dereierendes Denken と改名されている。その理由を述べた註は、両者の同一性を確定する文書として重要である。
Ich habe es bis jetzt „autistisches Denken“ genannt, weil es im Autismus der Schizophrenie zuerst gesehen wurde und dort am ausgesprochensten in die Erscheinung tritt. Der Name wurde aber mißverstanden (sogar von Jaspers in seiner Psychopathologie). So war ich gezwungen, einen andern vorzuschlagen: Dereieren kommt von reor, ratus sum (ratio, res, real), logisch, der Wirklichkeit entsprechend denken. Dereieren wäre also wörtlich: Denken, das von der Wirklichkeit absieht oder abweicht.
私はこれまでこれを「自閉的思考」と呼んできた。それが統合失調症の自閉においてまず見出され、そこで最も顕著に現れるからである。しかしこの名は誤解された(彼の精神病理学におけるヤスパースによってさえ)。そこで私は別の名を提案せざるをえなかった。Dereieren は reor, ratus sum(ratio, res, real)——論理的に、現実に即して考える——に由来する。したがって dereieren とは字義通りには、現実から目を逸らす、あるいは現実から逸れる思考、ということになろう。(S. 191/192、註)
ここにヤスパースの名が、本書のなかで名指しの批判対象として現れていることは記憶されてよい。ブロイラーとヤスパースの応酬は一方向のものではなかった。
定義そのものは次のとおりである——遊びに任せて空想を走らせるとき、神話において、夢において、いくつかの病的状態において、思考は現実に関わろうとしない、あるいは関わりえない。それは本能と情動によって与えられた目標を追う。この「dereierendes Denken」、シュトランスキーの言う「感情の論理」に特徴的なのは、現実との矛盾を顧慮しないことである(S. 191/192)。それが生じるのは、現実が内的欲求を満たしえないところ(神話、呪術、白昼夢、詩)と、連合緊張が減弱しているところ(夢、統合失調症、発熱、いくつかの中毒)である(S. 156)。
そして、この病理と正常とを架橋する一文がある。
In seiner vollen Ausbildung scheint das dereierende Denken prinzipiell anders als das Erfahrungsdenken; in Wirklichkeit aber gibt es alle Übergänge von der geringen Loslösung von den erworbenen Assoziationen, wie sie bei jedem Analogieschluß notwendig ist, bis zu der unbändigsten Phantasie.
完全に展開した形においては、dereierendes Denken は経験的思考とは原理的に異なるように見える。しかし実際には、いかなる類推推論にも必要とされるあのわずかな、獲得された連合からの離脱から、最も奔放な空想に至るまで、あらゆる移行が存在する。(S. 194)
すなわち、あらゆる思考は微量の弛緩を含む。統合失調症はその量的極限である。1911 年の症候概念は、ここで一般心理学の連続量へと組み替えられている。
5-4 知能論——「弛緩」の理論的定位
知能は統一的な機能ではなく実践的な概念である、とブロイラーは言う。知能を規定するのは、可能な連合の数、連合流入の速度、注意の状態、情動性と被暗示性、そして——
Ein zweites mehr allgemeines Erfordernis guter psychischer Leistungen ist eine gewisse Leichtigkeit, durch die Erfahrung erworbene Assoziationen wenn nötig lösen zu können.
良好な心的遂行の第二のより一般的な要件は、経験によって獲得された連合を必要に応じて解きほぐしうる、ある程度の容易さである。(S. 200)
そしてこの解けやすさは過大でもありうる。
Die Lösbarkeit der Assoziationskomplexe kann aber auch zu groß sein. […] besitzt bei nur zu viel Assoziationsmöglichkeiten eine zu geringe Festigkeit der Erfahrungsassoziationen.
しかし連合複合体の解けやすさは大きすぎることもありうる。……連合可能性があまりに多すぎるために、経験連合の堅固さがあまりに乏しいのである。(S. 200)
Beim Schizophrenen (Dementia praecox) ist, wie im Traum des Gesunden, der Weg von einer Vorstellung zur andern nicht mehr durch die Gewohnheit und Erfahrung gebunden; es kommt in Begriffen und Ideen zu unzusammenhängenden, bizarren, unsinnigen Produkten.
統合失調症者(早発性痴呆)においては、健常者の夢におけるのと同じく、一つの表象から他の表象への道がもはや習慣と経験によって縛られていない。概念と観念において、連関を欠いた、奇異な、無意味な産物が生じる。(S. 202)
特筆すべき否定的所見として記しておく。本書の第三部 C 章(思考論)には Lockerung・gelockert・Zerfahrenheit・Assoziationsstörung のいずれの語も現れない。巻末索引の立項も「Lockerung 308/9」および「Lockerung der Schaltungen 308/9」の二つだけであり、いずれも第三部 J 章「緊張」を指す(後述 6-3)。
すなわち 1921 年のブロイラーは、1911 年に Lockerung der Assoziationen と呼んだ事態を、思考論の側では「連合複合体の解けやすさが大きすぎる」(S. 200)、「習慣と経験によってもはや縛られていない」(S. 202)、「連合緊張の減弱」(S. 156)という別の語彙で述べ、Lockerung の語そのものは連合ではなく切替に宛てている。この語彙の移動は、単なる文体上の揺れではない。緩むのは連合そのものではなく連合を選択する機構である、という理論的主張の帰結である。
5-5 因果性・空間・時間の自然化——カントの移送
D 章から F 章までは、認識論の主題を要素心理学の内部で処理する試みである。因果思考は、外から与えられた連関を、心的領域のあらゆる場面で見られるのと同じ類推と抽象によって反復すること以外の何ものでもない。「必然性」もまた経験に由来し、経験の及ぶ範囲までしか及ばない。決定的な一節が S. 208 に置かれる。
Noch eine andere apriorische Kausalität neben dieser aposteriorischen, sicher vorhandenen anzunehmen, ist sinnlos, da dazu kein Grund besteht. Wäre übrigens die Kausalform des Denkens angeboren, so müßten wir sie wieder in der nämlichen Weise ableiten, nur aus Erfahrung und Gedächtnis der Art statt des Individuums. Eine Kategorie im Kantschen Sinne wäre sie deswegen doch nicht.
この後天的な、確実に存在する因果性のほかに、なおもう一つのア・プリオリな因果性を想定することは、そうすべき理由が存在しない以上、無意味である。かりに思考の因果形式が生得的であったとしても、我々はそれをふたたび同じ仕方で導出せねばならないだろう——ただし個体の経験と記憶からではなく、種の経験と記憶から。だからといってそれがカント的な意味でのカテゴリーであることにはならない。(S. 208)
空間についても同様である。刺激そのものには空間的なものも時間的なものもない。ある皮膚点への刺激が反射運動を引き起こし、その運動感覚が新鮮な刺激感覚と中枢で結合する——この結合のうちに空間と時間の要素がある。「空間とは抽象された関係である」(S. 219)。「これらの関係の抽象が時間である」(S. 223)。網膜は外空間を触知するための特殊器官にすぎず、盲人の杖と同じ地位にある。
F 章は本書の認識論的立場を最も凝縮して述べる。
Tendenzen (Instinkte, Triebe, Affektivität) und das leere Gedächtnis, die Fähigkeit der Engraphie und Ekphorie sind in der Organisation begründet, angeboren, wenn man will apriorisch. […] „Erkenntnisse“ a priori, d. h. solche, die in der Hirnorganisation liegen, gibt es nicht.
諸傾向(本能、欲動、情動性)と、空の記憶、すなわち記銘と喚起の能力とは、組織のうちに基礎づけられており、生得的であり、望むならばア・プリオリと呼んでよい。……しかしア・プリオリな「認識」、すなわち脳の組織のうちに存する認識は、存在しない。(S. 228)
本書におけるカントの出現箇所は S. 163、189、196–199、208、215、229 と多岐にわたり、しかもそのつど論敵として名指される。他方ヒュームは S. 207 に一度だけ、「ヒューム以来、他にも多くの者が因果性を経験から導いているのだから、この程度の示唆で足りるであろう」という片付けの身振りで現れるにすぎない。ロックは固有名として一度も現れず、Assoziationspsychologie という語も本書に存在しない。S. 178 冒頭で言及されるのは無名の「連合法則」論者である。
したがって、本紀要論文第三章 3-4 節が主張する「ブロイラーが立つのは英国経験論的受容ではなく大陸合理論的受容の側である」という論点は、本書によって強く支持される。ただし一点だけ訂正を要する。ヘルバルトは本書に一度も名指されず、巻末索引にも立項がない。カント—ヘルバルト—グリージンガーという系譜づけは、論証構造の相同性——観念の疎通と制止、閾下の観念力学、「緊張」概念——としては十分に支持されるが、ブロイラー自身の明示的な自己申告としては裏づけられない。系譜を語る際にはこの区別を明示するのが誠実であろう。
第六章 第三部 G–L 力・切替・緊張・心流(S. 229–322)
6-1 Ergie——情動性と欲動を束ねる新語
あらゆる生物は環境と不断の交互作用に立ち、有益なものを引き寄せて保持し、有害なものを退け、無関心なものには反応しない。この機能全体は一個の統一体であるにもかかわらず、従来これを一語で捉える概念が存在しなかった(S. 229)。そこで導入される新語が Ergie である。ブロイラーは「活動性(Aktivität)」を候補として検討したうえで斥ける。その語では多くの読者にとって情動性が排除されてしまい、かつ当時の「活動性心理学」の含意を持ち込んでしまうからである。
Ergie の核は態度決定である——「あらゆる情動性のうちには態度決定が、たまたま提示されるものに対する、また内から為されあるいは求められるものに対する、受容ないし拒否が存する」(S. 230)。そしてその受容と拒否が内から見られたものが快と不快である(S. 237)。ゆえに「消極的欲動」というものは存在せず、あるのは消極的な態度決定だけである。
Ergie は欲動でも意志でもコナトゥスでもない。それらすべてを情動性ごと一括する上位概念である。他の心理学者が欲動と呼ぶものは Ergie の遠心的な半面であり、情動性は同じ Ergie が内側から知覚された半面である——「欲動と本能とは、我々がすでに情動性として知ったのと同じ Ergie の能動的な側面にほかならないのであって、そのためこの種の機能の大部分はあるときは欲動として、あるときは感情として記述される」(S. 261)。またそれはエネルギーそのものでもない。エネルギーは Psychokym の側にあり、Ergie はその使途と量を同時に規定する機能である(S. 230)。
この節には、最終章で参照することになる註が一つ埋まっている。
Es scheint mir übrigens, daß es im Naturbetrieb eine noch höhere Tendenz gebe: die Erhaltung von Leben überhaupt, gleichgültig, welcher Individuen und sogar gleichgültig welcher Genera.
ところで私には、自然の営みのうちにはなお一層高次の傾向が存するように思われる——生命一般の維持である。いかなる個体のものであるかを問わず、それどころかいかなる種のものであるかをも問わずに。(S. 242、註)
倫理は個体保存ではなく種の保存に仕える情動として自然科学的に基礎づけられ、徳は利他と利己のいずれか一方にではなく「両欲動の正しい均衡と、それを正しい場所で行使すること」にある(S. 242)とされる。カントの定言命法は徹底的に嘲弄されるが、第四部では「種の保存への本能として解する限りにおいて」受け入れ直される(S. 331)。意志については徹底した決定論が表明される——「科学は決定論的である(それを完全には認めない場合でさえ)」(S. 276)、「心の全体を、意志という概念を用いることなく隙間なく記述することができるであろう」(S. 277)。
もっとも、この節にはブロイラーが自らの自然科学的節度を最も揺らせる箇所もある。芸術欲動を論じるくだりである。功利主義的説明は美的感情も鳥の歌も花の色も婚姻色もまったく説明しない、として彼はこう問う。
Warum sollen uns nicht auch ganze große Prinzipien, die das Leben überhaupt leiten, noch unbekannt sein? […] Auch da scheinen sich im physischen und im psychischen Organismus Prinzipien auszudrücken, die über das biologisch ‚Nützliche‘ hinausgehen.
生命一般を導く大きな諸原理の全体が、なお我々に知られぬままであってなぜいけないのか。……ここでもまた、物的な有機体においても心的な有機体においても、生物学的な「有用性」を超え出る諸原理が表現されているように見える。(S. 267–268)
6-2 Schaltungen——「もちろん一つの像にすぎない」
心的機能どうしの作用は、力の平行四辺形に従って合成される物理的な力ではなく、電気設備における入切に似る。機関士は機関に直接作用せず、蒸気の流入を切り替えるだけである。二つの努力が争っても、いったんどちらかが開閉器を回せば、機械は競合がなかったかのような方向と力で動く(S. 287)。ただし電気設備との相違が二点ある。有機的な努力は駆動力であると同時に自ら開閉器に働きかけること、そして遮断された努力は消えずに存続し、再び切替に影響しようとするため、既決の決断を突然覆しうることである。
ここから最も一般的な定式が出る。
[…] jede beliebige Strebung, jede Funktion überhaupt stellt nicht nur ihren eigenen Schalter so, daß die Strebung ausgeführt wird, sondern durch entsprechende Schalterbeeinflussung bahnt sie alles gleichsinnig Wirkende und hemmt oder sperrt sie alles andere. Das ist ein allgemeines Gesetz im ganzen CNS., nicht bloß ein psychisches.
……いかなる努力も、およそいかなる機能も、その努力が遂行されるように自らの開閉器を設定するだけでなく、対応する開閉器への影響によって、同じ向きに働くいっさいを疎通し、それ以外のいっさいを制止しあるいは遮断する。これは中枢神経系全体における一般法則であって、単に心的な法則ではない。(S. 293f.)
そして自我の統一そのものがこの切替力の産物であるとされる。これがなければ我々は「努力の寄せ集め」にすぎない。しかし、この概念の身分についてブロイラーはきわめて明瞭である。
Der Begriff der Schaltung ist natürlich nur ein Bild, dem keine andere Bedeutung zukommen soll, als daß es uns hilft, die einleitend genannten Eigenschaften dieser Funktionen uns vorzustellen und diese Vorstellung durch eine einfache Bezeichnung festzuhalten und zu übermitteln.
切替という概念はもちろん一つの像にすぎない。それに帰せられるべき意義は、冒頭に挙げたこれらの機能の諸性質を我々が表象する助けとなり、その表象を単純な名称によって保持し伝達する助けとなる、ということ以外にはない。(S. 305)
Was hinter den Schaltungsvorgängen steckt, weiß wohl bis jetzt noch niemand.
切替の過程の背後に何が潜んでいるのかは、今のところおそらく誰も知らない。(S. 306)
細胞=観念、シナプス=連合という粗雑な唯物論的解釈は明示的に誤りとされる(S. 288)。代替としてゼーモンの「同音性(Homophonie)」を字義通りに取る振動=共鳴モデルが試論的に提示されるが、彼自身がすぐに打ち切る。
6-3 Spannungen——本書において Lockerung が現れる唯一の場所
短いが概念的に重要な章である。皮質では原理上どの点からどの点へも到達可能であるにもかかわらず、正常状態では連合は法則に従い、実際的には一義的に規定される。この規定性を保持しているものが切替緊張(Schaltspannung)である。
Es ist also irgendeine Kraft tätig, die die Schaltungen in der richtigen Lage hält, die überwindbar ist und nachlassen kann wie die Spannung einer Feder; läßt sie nach, so lockern sich die Schaltungen, folgen anderen Einflüssen, schlottern hin und her.
したがって何らかの力が働いており、それが切替を正しい位置に保っている。その力は克服されうるものであり、ばねの張力のように弛みうるものである。それが弛めば、切替は緩み、他の影響に従い、あちらこちらへぐらつく。(S. 308/9)
これが、本書において Lockerung の語が現れる唯一の箇所である。緩むのは連合ではなく切替であり、しかもそれは緊張論の枠内で言われている。ブロイラーはさらに自己批判的な代案を並置する。「弛緩」の代わりに、各観念の切替力が遠方まで届かないと考えることもできる、と。
Für die Theorie dieser Vorgänge mag es nicht unwichtig sein, daß man sich dieselben statt als „Lockerung“ der Schalteinrichtung auch als eine ungenügend in die Ferne wirkende Schaltkraft jeder einzelnen Vorstellung denken kann.
これらの過程の理論にとって重要でなくはないかもしれないが、同じ事態を切替装置の「弛緩」としてではなく、個々の表象それぞれの切替力が遠方に十分に及ばないこととして考えることもできる。(S. 309)
そして彼は、新しい像のほうが把握しやすくて気に入っているが、古い像のほうは数千の症例で検証済みであり、新しいほうはまだ数百でしか試していない、と付け加える。この緊張の低下によって、入眠時と統合失調症における自我の解体、概念の部分成分化、音連合の侵入が説明される。方向づけや運動協調のような自動的機能は概して侵されない。知覚緊張(Wahrnehmungsspannung)は内心的緊張とは少なくとも程度において独立に低下し、そこから幻覚と錯視が生じる。
6-4 Psychokym——実在するが内容の空白な措定
定義は一文である——「心的なエネルギー流を我々は Psychokym と呼ぶ」(S. 310)。すなわち心的過程の基体をなす神経エネルギーの流れそのものの名である。ここで注意を要するのは、その存在論的身分である。ブロイラーは Psychokym を実在する物理化学的・生理学的過程として意図しているが、その本性は完全に未知であると即座に告白する。
Über die Natur des physikalisch-chemisch-physiologischen Vorganges, der der Psyche zugrunde liegt, wissen wir nichts. Es muß sich wohl um eine Spezialisierung einer allgemeinen funktionellen Eigenschaft des lebenden Kolloids handeln.
心の基礎にある物理化学的・生理学的過程の本性について、我々は何も知らない。それはおそらく、生けるコロイドの一般的な機能的性質の特殊化にかかわるものであるにちがいない。(S. 311)
この対比は決定的である。切替については「もちろん一つの像にすぎない」と明言されるのに対し、Psychokym についてはそのような留保が一度も置かれない。逆に、そのエネルギーは主として脳自身で解放されねばならず、ベルクソンのように脳が外来の力を変換するだけだとする説には「いささかの自然科学的な(観察から論理的に導かれた)根拠もない」とされ、あるのは「より高貴とされる家系を示せなければ魂に満足しない dereierend な欲求」だけだ、と痛烈に斥けられる(S. 311)。Psychokym には終始、神経生理学的な述語が与えられる——全か無かの法則、不応期、テタヌスの不連続性、神経節細胞の数と大きさによるエネルギー量の規定。
意識との関係については、分離の禁止という形で述べられる。
Am wenigsten Grund haben wir, dasjenige Neurokym, dessen Funktion bewußt ist, von dem übrigen Psychokym abzutrennen; ich kenne nur Gründe, die dagegen sprechen.
その機能が意識的である Neurokym を、残りの Psychokym から切り離すべき根拠は、最も乏しい。私はそれに反対する根拠しか知らない。(S. 311)
感覚質の問題はここでも解けない。快と不快は Psychokym の質的変化なしに機能的に理解できるが、色や音はそうはいかない。「したがって我々はなお Psychokym の種々の質というものを考えねばならない」(S. 313)。物理学には強度のほかに質をもつ力は知られていないので、多次元性か振動の変様が考えられるが、「Psychokym の諸質の本性が未知であるかぎり、細部に立ち入っても意味はない」(S. 315)と自制される。
L 章の局在論は、本質的な心的過程は拡散的であり、限局的なのは求心性・遠心性の移行機能(失語・失行)だけである、という穏当な立場をとる。「心的エネルギー」や「活動性」を脳幹のみに局在させる説にも、「最高の機能」を前頭葉に置く説にも判断を保留し、「我々はこれらの事柄についてまだ何も知らないのだから、まだ多くを語らないほうがよいと私は思う」(S. 322)と閉じられる。
第七章 第四部 人生観・世界観(S. 323–338)
7-1 目的概念の禁止
第四部は独立の一部であり、心理学的記述ではなく、そこから引き出しうる世界観の弁護である。出発点は挑発的に簡潔である——「自然科学的心理学とは生物学の一部であり、それ以上でもそれ以下でもない」(S. 323)。ただし彼はただちに但し書きを置く——「人生観とは単に認識の帰結であるにとどまらず、それを超えて情動的欲求の充足でもある」(S. 323)。論理的演繹が尽きるところから先は知ではなく信と意志であり、普遍妥当性を要求できず、個人に適合していなければならない。
本部の理論的中核は、目的概念の適用範囲を限定する一節である。「我々の生には、人間には、いったいどんな目的があるのか」という問いは、「正義の含水率はいくらか。私の靴は満足しているか」と同じく誤って立てられた問いだ、とされる。
Zweck ist ein Begriff, der nur im Zusammenhang mit einem nach bewußten Zielen handelnden Wesen, wie es der Mensch ist, existieren kann. Man mag ihn einem menschlich gedachten Gott zuschreiben, nicht aber einem Weltall, einer Weltordnung.
目的とは、人間のように意識された目標に従って行為する存在との関連においてのみ存在しうる概念である。人間的に思い描かれた神にそれを帰することはできようが、宇宙に、世界秩序に帰することはできない。(S. 326)
細菌は客観的には人間と等価である。ゆえにブロイラーは同僚たちに、目的への問いを立てないよう、またいかなる行動もその答えに依存させないよう懇請する。なお「意識の目的」を自然科学的な意味で——種の保存に有用か否かとして——問うことは別問題であるが、これについては、そのような意義を示すものは今のところ何一つ知られておらず、今後見出される見込みも薄い、とされる。
7-2 決定論・倫理・宗教・死
心は脳の機能である。それは他の何かと同じ程度に証明されている。したがって心は脳とともに死ぬ(S. 325)。個人的意識が一般意識に融け込むという慰めは「それでも我々は死んでいることになる」と一蹴される。決定論は生物学的立場から直接に帰結するが、「すべて予め定まっているなら努力は無駄か」という反論には、因果の王国において一つの過程が予め定まっているのなら、まさに同じ理由でその原因も条件も予め定まっているのだ、と答えられる(S. 328)。非決定論者の要求の正体は誇大妄想的である——「彼は因果連鎖の一環『にすぎない』ものではありたくないのだ。彼は因果連鎖を始めたい、第一原因を措定したい、神でありたいのである」(S. 329)。
道徳が唯物論と決定論によって掘り崩されるという非難は、経験的に誤りとされる。「道徳とは一つの本能であり、社会的に生きるあらゆる存在に存在せねばならず、ホモ・サピエンスがそれをかくも巧緻に基礎づけようとするより何百万年も前から存在していた」(S. 331)。むしろ罪概念は厳格化する。決定論者には赦免がない——「彼にとって赦しは、自然界の他の場所と同じく、存在しない。脳や健康の一部を飲み潰してしまった者に、悔恨も贖罪もそれを返しはしない」(S. 331f.)。
本書の最終文は、体系書としては異例の自己相対化である。
Dabei weiß ich, daß die Wahrheit etwas Relatives ist. Für den jetzigen Stand unserer naturwissenschaftlichen Kenntnisse halte ich das Gesagte im großen und ganzen für Wahrheit, nicht aber für die Wahrheit.
そのさい私は、真理が相対的な何かであることを知っている。我々の自然科学的知識の現在の状態にとっては、述べたことをおおむね真理だと考えるが、しかしその真理だとは考えない。(S. 338)
第八章 判定——エーの評価とヤスパースの批判を本文に照らす
以上をもって、本解題の目的である二つの評言の検証に入ることができる。
8-1 エーの評言を検証する
エーは 1940 年の講演で、本書について次のように述べた。[8]
Certes une telle psychologie reste essentiellement atomiste, associationniste et, somme toute, assez peu intéressante. Aussi les critiques n’ont-elles pas été ménagées. On connaît la sévère analyse que Jaspers a faite de cet ouvrage. Mais le monisme bleulérien est cependant de caractère nettement dynamiste et on peut dire à cet égard qu’il consiste moins à réduire la psyché au cerveau qu’à faire pénétrer la psyché dans l’organisation même du cerveau.
確かにこのような心理学は本質的に原子論的・連想主義的であり、要するにさほど興味深いものではない。それゆえ批判も手加減されなかった。ヤスパースがこの著作に加えた厳しい分析はよく知られている。しかしブロイラーの一元論はそれでもなお明確に動力学的な性格を帯びており、その点において、精神を脳に還元するというよりはむしろ、精神を脳の組織化そのものに浸透させるものだと言うことができる。
この評言は三つの部分からなる。譲歩、伝聞、そして逆接である。順に検証する。
第一の部分——「本質的に原子論的・連想主義的」。この譲歩は、本書の記憶論に対しては当たっている。第三部 A 章の語彙は徹頭徹尾機械論的であり、疎通・制止・路・遮断・短絡・抵抗という用語で書かれている(S. 98–107)。合成写真の比喩による概念形成の説明(S. 131 以下)も、要素の重ね合わせから複合を作る典型的な原子論である。エーの指摘は的外れではない。
しかし思考論に対しては当たらない。本書の連合論の中心は連合の存在ではなく連合の選択にある。「これらすべての連合からは、なお使用可能な思考は生じえない」(S. 184)という一文は、まさしく連合心理学の限界の宣言である。選択を統べるのは思考目標であり、努力であり、布置であり、切替であって、そして「この種の切替は、最高次の中枢神経機能の統一の表現であるにとどまらず、まさにその原因である」(S. 187)。これは要素の集合から統一を組み立てる原子論ではなく、統一の側から要素の振舞いを規定する構造である。エーはこの階層を読み落としたか、あるいは 1940 年の講演という場では触れる余裕がなかったのであろう。
第二の部分——「ヤスパースがこの著作に加えた厳しい分析はよく知られている」。エーは出典を示していない。ここで一つ確認しておくべき事実がある。本書のなかでブロイラー自身がヤスパースを名指しで批判している箇所が、少なくとも二つ存在する。自閉的思考の改名の理由を述べた註における「この名は誤解された(彼の精神病理学におけるヤスパースによってさえ)」(S. 191、註)と、「因果的説明/了解可能」の区別を原理的差異とみなす見解への反論(S. 215)である。すなわち両者の応酬は一方向のものではなかった。エーが「よく知られている」と書いたとき、彼が念頭に置いていたのは、特定の一箇所ではなく、この相互批判の関係そのものであった可能性がある。
第三の部分——「精神を脳に還元するのではなく、精神を脳の組織化そのものに浸透させる」。この一句は本書の要約としてきわめて正確である。「思惟する実体は存在せず、思惟する機能が存在する」(S. 41)、「心とは物でも実体でも本質でもなく、記憶と統合というその固有性のゆえに自らの変化を知る神経機能の複合体である」(S. 54)、「そのような統一をなしうるのはおそらく機能のみ、エネルギー形式のみであろう」(S. 62)。ブロイラーの一元論が実体の一元論ではなく機能の一元論であること、そして還元の方向が「心を脳という物へ」ではなく「心も脳も機能へ」であることを、エーは一句で言い当てている。彼が本書から取り出したのはまさにこの一点であり、そしてこの一点こそが、彼自身の器質力動論の哲学的地盤となった。
8-2 ヤスパースの三項目録という鍵
ヤスパースの批判は『精神病理学総論』第一部第三章の冒頭、身体と精神の関係を論じる箇所に置かれている。[9]
So zuletzt in den „Psychoiden“ Bleulers. Er wollte im Begriff der Psychoiden das dem somatischen Leben und der Seele Gemeinsame zusammenhalten: die mnemischen Funktionen, die Integration und die Zweckhaftigkeit der Strukturen und Kräfte. Der Mangel aber ist hier, wie jedesmal bei solchen Entwürfen, daß mit der Totalanschauung wohl ein Schema der Idee, aber nicht ein erforschbarer Gegenstand wirklicher Erkenntnis gewonnen wird.
その最も新しいものが、ブロイラーの「精神様体」である。彼は精神様体という概念において、身体的な生と魂とに共通するもの——記憶(ムネーメ)的な諸機能、統合、そして構造と力の合目的性——を一つに束ねようとした。しかしここでの欠陥は、この種の構想のたびごとにそうであるように、その全体的直観によって得られるのは理念の図式ではあっても、現実の認識の探究可能な対象ではない、という点にある。
この一節には、これまで見過ごされてきた鍵がある。ヤスパースは精神様体において束ねられているものを三項目に分けて列挙している——記憶的諸機能、統合、そして構造と力の合目的性。この三項目を『魂の自然史』に照らすと、ただちに明瞭な分割が現れる。
第一項 記憶(ムネーメ)的な諸機能——1921 年に完全な形で存在する。それも神経系の教説としてではなく、生物一般の原理として。「記憶が生ける原形質の一般的機能であり、それが我々の大脳皮質においてのみ特別な発達を遂げたにすぎないことは、すでに先に強調しておいた」(S. 90)。「すべての細胞は記憶痕担体から。……そしてそのとき、形成する原理は記憶痕である」(S. 87、註)。「遺伝子もまた記憶痕である」(S. 85)。
第二項 統合——1921 年に完全な形で存在する。第二部 H 章「機能の統一」がその全体であり(S. 58–66)、統合は記憶と並ぶ意識の二条件の一方として、本書の中核概念をなす。しかもそれは神経系に限定されない。「各々の細胞は……何らかの仕方で知らせを得ていなければならない。……これらの知らせは何らかの仕方で、心の全体表象および目的行為に類比的な何かへと統合されねばならない」(S. 69、註)。
第三項 構造と力の合目的性——1921 年に存在しない。存在しないどころか、明示的に禁じられている。「目的とは、人間のように意識された目標に従って行為する存在との関連においてのみ存在しうる概念である。……宇宙に、世界秩序に帰することはできない」(S. 326)。
この分割は偶然ではありえない。ヤスパースが精神様体の内容として挙げた三項のうち二項は、すでに 1921 年の書物に書かれていたものである。したがってヤスパースの批判が実際に相手取っているのは、1921 年から 1925 年に至るブロイラー後期思想の連続体であって、1925 年の一冊だけではない。エーが「ヤスパースがこの著作に加えた厳しい分析」と書いたとき、彼が『魂の自然史』を名指したことは、書誌的には不正確であっても、内容的には的を外していなかったことになる。
8-3 1921年が禁じ、1925年が踏み越えたもの
凡例に記したとおり、筆者は『精神様体』(1925 年)の原典を入手しえていない。以下 1925 年の著作について述べることは、ヤスパースの要約とエーの言及、および 1921 年の本文との対照から導かれた推論であり、原典による検証を経ていない。
この推論を可能にしているのは、ヤスパースの批判文がそれ自体、精神様体の内容を三項目に分けて列挙する形をとっているという事情である。批判者が敵対的に作成した目録は、著者自身の要約よりもかえって内容の同定に適することがある。誇張も省略も、批判の効力を損なうからである。とはいえ、それは足場が固いというだけのことであって、検証済みであることを意味しない。以下の判定は暫定的なものとして読まれたい。
では、両著作は同じものなのか。同じではない。差は第三項に集中している。
1921 年のブロイラーは、生命一般を導く未知の原理がありうることを認め、それを「生物学的な『有用性』を超え出る諸原理」とまで呼び(S. 268)、「生命一般の維持」という「なお一層高次の傾向」を自然の営みのうちに見てとる(S. 242、註)。しかしそれらはいずれも、註のうちに、あるいは芸術欲動という周縁的な主題のうちに置かれており、そして何より、第四部において目的概念そのものの適用が禁じられている。1921 年に許されていたのは「まだ知られていない生命原理があるかもしれない」という認識論的な空欄であって、その空欄に実体名を与えることではなかった。
1925 年の『器質的発展の原理としての精神様体』が加えたのは、したがって新しい素材ではない。加えられたのは二つである。第一に統合——1921 年には Psychokym が生理学章の内部にあり、「有機界の一般原理」が美学章の内部にあって、両者を結ぶ論述は存在しなかった。しかも前者は還元主義的な意図で、後者は還元主義の限界の告白として導入されており、方向すら逆であった。第二に目的性への態度の転換——精神様体が有機的発展の原理として、すなわち構造と力の合目的性の担い手として構想される以上、それは 1921 年の第四部が禁じた一歩を踏み越えている。
この二つの変化は独立ではない。散在していた素材を一つの原理として束ねるという操作それ自体が、束ねられたものに統一的な方向性を、すなわち合目的性を帰属させることを要求する。ブロイラーが 1925 年に払った代償は、まさに 1921 年に自ら課した禁令であった。
8-4 本紀要論文への含意
最後に、以上の読解から本紀要論文[10]に対して生じる帰結を四点、記しておく。
第一に、第四章 4-2 節末尾の留保は解除しうる。「エーが『魂の自然史』について論評し、ヤスパースが『精神病理学総論』において精神様体について論評している、というところまで」とされていた記述は、ヤスパースの三項目録を根拠として、「両者は同一の思想の連続体を見ており、ヤスパースの列挙する三項のうち二項は 1921 年に、一項のみが 1925 年に属する」というところまで進めることができる。
第二に、ヤスパースの批判が 1921 年の書物に当たる度合いは限定的である。「理念の図式であって探究可能な対象ではない」という判定が当たるのは、Psychokym の諸質の問題(S. 313–315)と芸術欲動節の「イデー」思弁(S. 267–268)であって、それ以外の大部分ではない。しかもブロイラーはヤスパースに指摘されるまでもなく、自らの構成物が図式であることを繰り返し明言している(S. 305, 306, 314, 315, 322, 338)。この自己認識の存在は、両者の対立を「独断的体系家対批判的方法論者」という図式で描くことを困難にする。
第三に、第四章 4-1 節の書誌的記述を一点訂正すべきである。本紀要論文は本書の記憶痕理論を「ヘリング(Ewald Hering)とゼモン(Richard Semon)の記憶痕理論」と記しているが、ヘリングの名は本書に一度も現れず、巻末索引にも立項がない。ヘッケルも同様である。本書が明示的に依拠するのはゼーモンのみであり、S. 81 の註に「Nomenklatur nach SEMON.」と明記されている。ヘリングを記憶論の思想史的先駆として挙げること自体は正当であるが、ブロイラーの依拠先として並記するのは正確でない。
第四に、「連合弛緩」の語をめぐる記述に一段の精密化が可能である。本書に Lockerung der Assoziationen という語は存在しない。Lockerung が現れるのは切替緊張の弛緩を論じる一箇所のみであり(S. 308/9)、思考論の側では「連合複合体の解けやすさ」(S. 200)、「習慣と経験によってもはや縛られていない」(S. 202)、「連合緊張の減弱」(S. 156)という語彙が用いられる。この語彙の移動が示すのは、ブロイラーにとって緩むのは連合そのものではなく連合を選択する機構だ、ということである。本紀要論文第三章 3-4 節が「連合弛緩とは人間的思考を成立させる条件そのものの崩壊についての主張である」と述べた点は、本書によって字義通りに裏づけられる。崩れるのは連合の在庫ではなく、在庫のなかから選ぶ力である。そしてその力は、本書において自我の統一そのものの原因とされている(S. 187)。