Bulletin · Editio princeps
YRIDEI Bulletin — 論文 XXII

1838年法体制からセクツール制へ
——アンリ・エーと戦後フランス精神医学の構造転換

エスキロール体制の解体と
地域基盤型精神医療の確立
De la loi de 1838 à la sectorisation :
Henri Ey et la transformation structurelle de la psychiatrie française d’après-guerre
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Editio altera · Augustus MMXXVI
Editio altera(2026年8月30日):紀要全体の術語方針(aliénéaliénation mentale を訳さず原語のまま用いる)に従い「被疎外者」の語を改め、あわせて紀要の現行体裁(目次・引用⇄文献の相互リンク、二段組 PDF)に合わせた。
要旨 Abstract

【日本語要旨】 エスキロール(Jean-Étienne Esquirol)が理論的基礎を提供し1838年に制定されたフランスの精神異常者法は、精神医療を、精神病院への強制的隔離か放置かという「オール・オア・ナッシング」の収容モデルとして、一世紀半にわたって規定した。本論文は、この体制が第二次世界大戦後に漸進的に解体され、地域基盤型の精神医療組織原理であるセクツール制(politique de secteur)へと置き換えられていく構造転換の全過程を、アンリ・エー(Henri Ey, 1900–1977)の闘士的活動を軸として再構成することを目的とする。先行する別稿「エスキロールと1838年法」[1]が同法の誕生とピネル神話の構築を扱ったのに対し、本稿はその解体過程を扱うものであり、両稿は1838年法体制の生成と消滅をめぐる対をなす研究を構成する。叙述は主としてパトリック・クレルヴォア(Patrick Clervoy)によるエー評伝[12]、ジャック・ポステル(Jacques Postel)の精神医学史[7]、およびマッセ=ウッサン(Massé & Houssin)のセクツール制度論[2]に依拠する。

第一部(第一〜四章)はセクツール制の成立過程を辿る。出発点に置かれるのは、ナチス占領下の「閉じ込め(renfermement)」を一国民として経験したことが、それまで「狂人」のみに課されてきた隔離の意味を集合的に開示したという認識である。トスケル(François Tosquelles)ら亡命・レジスタンス系精神科医が占領下サンタルバン病院で開始した施設内精神療法、解放直後のCTRS三大実験(シヴァドンのヴィル・エヴラール、エーのボンヌヴァル、ル・ギヤンのヴィルジュイフ)、1945年医療委員会とアベリ予備法案の挫折、1955年からのセクツール教義の理論的精緻化、1959年トゥール会議でのデュシェーヌ報告とミニョーによる定義(「分離排除(ségrégation)の拒否」)を経て、1960年3月15日通達がセクツール政策を公的に発足させる。本論文は、急進的な脱疎外主義(désaliénisme、ボナフェ、ル・ギヤン)とエーの器質力動論的統合主義との理論的緊張が、運動を分裂させるのではなくその生産的対話の源泉となったことを強調する。

第二部(第五〜七章)は1838年法廃止をめぐる45年にわたる長い闘争を辿る。エーの1964年論文「精神疾患の本質と1838年法」(「精神症者『に関する』法律」から「精神症者『のための』法律」への転換の要求)、1967年のエー=シヴァドン=ボナフェ三者共同声明、シモーヌ・ヴェイユ判事との協働による1968年無能力者保護法、病院精神科医組合の会長としての活動(1967年〜)、1969年シャバン=デルマス首相宛書簡、1965年『フランス精神医学白書』の編纂、そしてソ連の政治的精神医学拘禁に対する国際的倫理闘争(1971年世界精神医学会メキシコ動議の否決と1977年ホノルル動議の僅差での可決)を検討する。エーは1838年法の廃止を見ることなく1977年に死去したが、1985年セクトリザシオン法と1838年法を正式に廃止した1990年法によって、エスキロール体制の解体は彼の死後に完成する。

第三部(第八〜九章)は到達点としての制度状況と構造転換の主動因を論じる。マッセ=ウッサンに即して現代セクツール制を四つの柱(医療=社会チーム、家庭での対応、病院外組織、入院業務)に沿って整理したのち、ポステルの中心命題——精神病院を空にしたのは1952年クロルプロマジン登場以来の神経薬理学革命ではなく、セクツール政策である——を検討する。入院患者数が薬剤導入後も1965年頃まで増加し続けたという史実は、神経遮断薬が単独では収容モデルを解体しえなかったことを示す。本論文は、薬物療法とセクツール政策を対立仮説としてではなく「車の両輪」として——薬物療法を転換の必要条件、セクツール政策を転換を担った構造的動因とする非対称的相補性において——把握し、この統合的視座がエーの器質力動論(organo-dynamisme)と深く呼応することを論じる。結論では、本論文を貫く二つの主軸——複数の思潮の対抗と協働を通じた成立過程の複雑さ、および「行政文書による先行実装・法律による事後追認」という制度形成様式と成立後も持続した諸緊張——を総括する。

キーワード:1838年法、セクツール制、アンリ・エー、エスキロール、施設内精神療法、サンタルバン、トスケル、CTRS、désaliénisme、1838年法廃止運動、フランス精神医学白書、精神医学組合、シモーヌ・ヴェイユ、1968年無能力者保護法、1990年法、神経遮断薬、クロルプロマジン、世界精神医学会、ジャック・ポステル、パトリック・クレルヴォア、organo-dynamisme


校訂状態 De statu textus

本稿は初出版(editio princeps, 2026年8月17日)である。本紀要は、確定した稿のみを公表するのではなく、検証の途上にある事項をその旨明示したうえで公表し、以後の照合の結果を版として重ねていく方針を採る。読者の検証に供することが、書架に留め置くことに優る、という判断による。現時点で検証を継続している事項は次のとおりである。

これらはいずれも人名の綴り・年次・機関名称の細部にかかわるものであり、本稿の論旨——1838年法体制の解体とセクツール制の確立が、神経薬理学革命ではなく制度政治的闘争によって達成されたという命題——には影響しない。改訂の経緯は本稿末尾の版注記に記録する。

Abstract (English)

The French law on the insane (loi sur les aliénés) of 1838, whose theoretical foundations were furnished by Jean-Étienne Esquirol, governed French psychiatry for a century and a half as an "all-or-nothing" model of confinement: either compulsory segregation in the asylum or abandonment. This paper reconstructs the entire process by which this regime was gradually dismantled after the Second World War and replaced by the community-based organizational principle of the politique de secteur (sectorization), taking the militant activity of Henri Ey (1900–1977) as its axis. Whereas the companion study "Esquirol and the Law of 1838"[1] treated the birth of the law and the construction of the Pinel myth, the present paper treats its dissolution; the two together form a paired study of the genesis and extinction of the 1838 regime. The narrative draws principally on Patrick Clervoy's biography of Ey[12], the historical work of Jacques Postel[7], and the account of the sector system by Massé and Houssin[2].

Part One (Chapters 1–4) traces the emergence of sectorization. Its point of departure is the recognition that the collective experience of renfermement (confinement) under Nazi occupation disclosed, for an entire nation, the meaning of an isolation that had hitherto been imposed only on the "mad." From the institutional psychotherapy (psychothérapie institutionnelle) inaugurated under the Occupation at Saint-Alban by exiled and Resistance psychiatrists such as François Tosquelles, through the three great postwar CTRS experiments (Sivadon at Ville-Évrard, Ey at Bonneval, Le Guillant at Villejuif), the medical commission of 1945 and the failure of the Abély draft bill, the theoretical elaboration of sector doctrine from 1955, and Duchêne's report and Mignot's definition (the "refusal of ségrégation") at the 1959 Tours congress, the process culminates in the ministerial circular of 15 March 1960, which officially launched sector policy. The paper emphasizes that the theoretical tension between radical désaliénisme (Bonnafé, Le Guillant) and Ey's organo-dynamic integrationism became not a cause of division but a source of productive dialogue within the movement.

Part Two (Chapters 5–7) follows the forty-five-year struggle to abolish the law of 1838: Ey's 1964 article "Nature of mental illness and the law of 1838" (his demand to transform a law "concerning" the insane into a law "for" the insane); the joint declaration of Ey, Sivadon, and Bonnafé in 1967; the 1968 law on the protection of incapacitated adults drafted in collaboration with the magistrate Simone Veil; the activity of the psychiatrists' union (founded 1967, with Ey as its first president); the 1969 letter to Prime Minister Chaban-Delmas; the editing of the Livre blanc de la psychiatrie française (1965); and the international ethical struggle against the political abuse of psychiatry in the Soviet Union (the defeat of Ey's motion at the World Psychiatric Association congress in Mexico City in 1971 and its narrow adoption at Honolulu in 1977). Ey died in 1977 without seeing the abolition of the 1838 law; the dismantling of the Esquirol regime was completed after his death by the sectorization law of 1985 and the law of 27 June 1990, which formally repealed the law of 1838.

Part Three (Chapters 8–9) examines the resulting institutional configuration and the principal driving force of the transformation. After organizing the contemporary sector system into four pillars (the medico-social team, care within the family, the extra-hospital network, and inpatient services) following Massé and Houssin, the paper takes up Postel's central thesis: that it was not the neuropharmacological revolution begun with the introduction of chlorpromazine in 1952, but sector policy, that emptied the asylums. The historical fact that inpatient numbers continued to rise until around 1965 — well after the drug's introduction — demonstrates that neuroleptics alone could not dismantle the model of confinement. The paper construes pharmacotherapy and sector policy not as rival hypotheses but as the "two wheels of a single cart," in an asymmetrical complementarity in which pharmacotherapy was the necessary condition that made the transformation clinically possible, while sector policy was the structural agent that actually carried it out; and it argues that this integrative standpoint resonates deeply with Ey's organo-dynamisme. The conclusion synthesizes the two axes running through the paper: the complexity of a genesis achieved through the conflict and cooperation of several currents of thought, and the distinctively French mode of institution-building — "prior implementation by administrative circular, subsequent ratification by law" — together with the tensions that persisted even after the system was established.

Keywords: law of 1838, sectorization, Henri Ey, Esquirol, institutional psychotherapy, Saint-Alban, Tosquelles, CTRS, désaliénisme, abolition of the 1838 law, white paper on French psychiatry, psychiatrists' union, Simone Veil, 1968 law on incapacitated adults, law of 1990, neuroleptics, chlorpromazine, World Psychiatric Association, Jacques Postel, Patrick Clervoy, organo-dynamisme

はじめに

1838年6月30日、フランスは精神異常者の処遇に関する一つの法律を制定した。この「精神異常者法(loi sur les aliénés)」は、その理論的基礎をエスキロール(Jean-Étienne Esquirol)の医学的・行政的構想に負い、アジールの設置(または公私の既存施設との契約による確保)を各県に義務づけ、精神病院への強制入院(placement volontaire および placement d’office)を精神医療の制度的中心に据えた。先行する別稿「エスキロールと1838年法」[1]で論じたように、この法律は、ピネルが鎖を解いたという解放の神話を一方の支柱としながら、他方では精神障害者を社会から地理的・法的に隔離する閉じ込めの体制を確立した。その帰結として、フランス精神医療は一世紀半ものあいだ、精神病院への収容か放置かという「オール・オア・ナッシング」の二者択一によって規定されることになった。空間(隔離)と自由(剥奪)とが直接に対応づけられたこの体制は、それ自体ひとつの歴史的構築物でありながら、あたかも精神医療の自然な姿であるかのように受け取られていったのである。

本論文が扱うのは、この1838年法体制が第二次世界大戦後に解体され、セクツール制(politique de secteur)という地域基盤型の精神医療組織原理へと置き換えられていく構造転換の全過程である。先行論文が1838年法体制の生成とその神話化を主題としたのに対し、本稿はその消滅を主題とする。両者はあわせて、エスキロールが1838年に確立し1990年に正式に廃止されたひとつの体制の、誕生から死までを辿る対をなす研究を構成する。本稿で繰り返し参照される標語——精神症者『に関する』法律を精神症者『のための』法律へ[12]——は、この転換の倫理的核心を最も簡潔に言い当てている。問われているのは、閉じられた空間から開かれた地域社会へと精神医療の場を移すこと、そしてその空間的開放を通じて精神障害者の自由を回復することにほかならない[16]

この構造転換を一人の人物の活動を軸として描こうとする点に、本論文の方法的選択がある。その人物とは、アンリ・エー(Henri Ey, 1900–1977)である。1900年にカタルーニャ系カトリック農家に生まれ、1933年以来ボンヌヴァル精神科病院の医長を務めたエーは、器質力動論(organo-dynamisme)の体系化者として知られるが、本稿が照らし出すのはむしろ彼の闘士としての側面である。エーは、ボンヌヴァルCTRSの臨床革新者であり、サンタンヌ病院での「水曜講義」を約40年にわたって続けた教育者であり、1965年『フランス精神医学白書』の編纂者であり、1967年に病院精神科医組合の会長を務め、1838年法廃止運動の継続的提起者であり、1968年無能力者保護法をシモーヌ・ヴェイユ判事とともに起草した立法協働者であり、そして世界精神医学会において政治的精神医学拘禁に抗する動議を起草した倫理的闘士であった。注目すべきは、彼がこれだけ多面的な闘いを展開しながら、CGT・CFTC・医療労働組合連合のいずれにも加入しなかったという事実である[12]。この組織的非帰属性こそが、エーをフランス精神医学界の多様な潮流が結集しうる唯一の調停的中心たらしめた。クレルヴォアが的確に指摘するように、エーにとって「militer(闘士として活動する)」とは、ラテン語の語源的意味における奉仕——特定の党派へではなく、患者・精神医学・職業観への献身的奉仕——を意味していた[12]。本論文がエーを軸に据えるのは、彼を構造転換の唯一の作者として顕彰するためではなく、彼の活動が、複数の理論的潮流・行政・立法府・国際機関が交錯するこの転換の全局面を貫通する、特権的な観測点を提供するからである。

この方法的選択は、本論文の性格と限界とを同時に規定する。本論文は、一人の人物の活動を観測点とする個人史的叙述を意図的に採用している。したがって本稿に登場する行政史・法制史は、エーの活動と交差するかぎりにおいて扱われるのであり、セクツール制の行政的・法的全体史——通達群と政省令の網羅的分析、財政制度、県と省庁のあいだの行政過程——はそれ自体としては主題化されない。同様に、戦後フランスの社会科学が「地域」や「構造」をめぐって展開した理論的論議——国土整備(aménagement du territoire)論、福祉国家論、あるいはカステルが『精神医学の秩序』で展開したような権力分析[35]——も本論文の射程外であり、それぞれ独立の研究を要する主題である。個人史的観測点は全体史を代替しない。それが照らし出すのは、制度転換が一人の臨床家によって生きられ、闘われた一つの局面である。

あわせて、本論文の鍵語二つの用法をあらかじめ限定しておく。「構造転換」の「構造」は、1838年法体制からセクツール体制への制度配置の組み替えという通常の記述的意味で用いるのであって、構造主義的な理論的含意を負わせない。「地域」は secteur / politique de secteur にかかわる行政=臨床の単位を指す訳語であって、社会科学から借用された概念ではなく、セクツール制自身の公文書の語彙である——1972年3月16日通達第72-443号はセクツールを「純粋に抽象的・静態的な実体ではなく、所与の地理的圏域における一つのチームの活動によって定義される」ものと規定しており(第四章 4.3)、本論文の「地域」はこの一次資料上の用法に従う。

本論文の叙述は、大きく三つの部分に分かれる。第一部(第一〜四章)は、占領期の集合的「閉じ込め」経験を起点として、サンタルバンの施設内精神療法、解放直後のCTRS三大実験、セクツール教義の理論的精緻化を経て、1960年3月15日通達によるセクツール政策の発足に至る成立過程を辿る。第二部(第五〜七章)は、1945年から1990年におよぶ1838年法廃止運動の長い闘争を、三者共同声明・無能力者保護法・組合活動・白書編纂・国際的倫理闘争という諸戦線に沿って辿り、エーの死後における体制の最終的解体(1985年法・1990年法)に及ぶ。第三部(第八〜九章)は、マッセ=ウッサン[2]に基づいて到達点としての現代セクツール制度を四つの柱に整理したのち、ポステル[7]に基づいて構造転換の主動因を論じる。

この第三部で正面から取り組まれるのが、本論文の中心的問いである——精神病院を空にしたのは何か。一方には、1952年のクロルプロマジン(ラルガクチル)登場に始まる神経薬理学革命に決定的役割を帰す「神経薬理学的説明」があり、他方には、1955年から練り上げられ1960年通達によって発足したセクツール政策に決定的役割を帰す「制度政治的説明」がある。本論文はポステルに従い、入院患者数が薬剤導入後もなお1965年頃まで増加し続けたという史実を根拠として、神経薬理学的説明の単独性を退ける。ただしそれは薬物療法の臨床的意義を否定するためではない。薬物療法とセクツール政策は対立する二仮説ではなく、「車の両輪」——薬物療法が転換を臨床的に可能にした必要条件であり、セクツール政策が転換を実際に担った構造的動因である、という非対称的相補性において理解されるべきものである。身体的なものと精神的なもの、生物学的療法と制度的療法を不可分の統一において捉えるこの統合的視座は、本論文の主役であるエー自身の器質力動論と深く呼応している。

本論文の主たる史料的基盤は、パトリック・クレルヴォア(Patrick Clervoy)によるエー評伝[12]、ジャック・ポステル(Jacques Postel)の精神医学史[7]、およびマッセ=ウッサン(Massé & Houssin)のセクツール制度論[2]の三著にある。これらに、エー自身の論文・書簡、関連する通達・法令、ならびに筆者の関連諸論考(自由概念論[16]、フーコー批判論[26]等)を交差させながら、戦後フランス精神医療の構造転換の全体像を再構成する。結論章では、本論文を貫く二つの主軸——複数の思潮の対抗と協働を通じて成立した過程の複雑さ、および「行政文書による先行実装、法律による事後追認」というフランス独特の制度形成様式と、成立後も持続した諸緊張——について総括する。

第一章 戦後改革の精神医学的文脈

1.1 占領と解放——「閉じ込め」の集合的経験

エチエンヌ・トリヤ(Étienne Trillat)は後年、戦後フランス精神医学の出発点を回顧しつつ、解放(La Libération)の音響的響きについて記している。「解放は誰にとっても明白な意味を持ち、その響きは『精神病院の壁を揺さぶる(ébranler les murs de l’asile)』ことになった」[7]。1944年8月のパリ解放を境として、フランス精神医学は1838年法体制の根本的見直しに向けた集合的運動を開始する。だがこの運動の起点は、単に行政的契機にあったのではない。それは、占領という4年間にわたる「閉じ込め(renfermement)」の集合的経験にあった。

ジャック・ポステルが指摘するように、ナチス占領下のフランスにおいて、すべてのフランス人は閉じ込めの状況を自ら体験することになった[7]。憲兵・軍隊・行政の二重支配の下、移動の自由、言論の自由、生存そのものの自由が剥奪された経験は、それまで「狂人」のみに課せられてきた閉じ込めの意味を、一国民の集合的経験として開示した。1838年法体制下の精神病院に課せられてきた閉じ込めが、占領期の閉じ込めと構造的相同性を持つということが、精神科医のみならず一般市民の意識の深層において了解されていく。これが戦後精神医学改革の不可欠の前提条件となった。

トリヤとポステルが共有するこの認識は、戦後フランス精神医学が単なる科学的進歩や行政的合理化の運動ではなかったことを明示している。それは、占領期の集合的トラウマを基盤として、隔離・閉じ込め・自由剥奪という制度的問題そのものに対する根本的批判運動として開始された。アンリ・エーが戦後の闘士的活動を1945年から開始するとき、彼が依拠していたのは、まさにこの集合的経験であった。

1.2 レジスタンスを生きた精神科医たち

クレルヴォアが指摘する重要な事実として、戦後フランス精神医学改革の声をあげた精神科医たちの多くが、元レジスタンスのメンバーあるいは戦争の退役軍人であった[12]。彼らにとって、占領下での抵抗運動と戦後の精神医療改革は、連続する一つの闘いとして経験された。ファシズムへの抵抗が、解放後には1838年法体制への抵抗として継承されたのである。

この連続性を最も鮮明に体現したのが、フランソワ・トスケル(François Tosquelles, 1912-1994)であった。カタルーニャ出身のこの精神科医は、スペイン内戦においてスペイン共和国軍の精神医学責任者として参戦し、フランコ派の勝利によってフランスへ亡命することになった[12]。同様に、ポール・トルビア(Paul Torrubia)もまたスペイン共和国軍の経験を持ち、対ファシズム闘争から直接にフランス精神医療改革へと連続する軌跡を描いた。両者ともに、エーと同じくカタルーニャ出身であったことは偶然ではない。本論文の第二章で詳述するように、トスケルがロゼール県のサンタルバン=シュル=リマニョール精神科病院において1940年から展開した施設内精神療法(psychothérapie institutionnelle)の実験は、戦後フランス精神医学改革の原型の一つとなる。

戦後組合運動が新政権の共感を得ることができた背景には、こうしたレジスタンス的・反ファシズム的背景があった。クレルヴォアが指摘するように、この共感は双方の共産主義者とも結びついており、戦後初期のフランス政府は精神科医の組合の改革要求に対して友好的態度をとった[12]。1945-1947年の短い期間、レジスタンス由来の道徳的権威と、共産党系政治勢力の影響力と、精神医学組合運動が三位一体的に結合した、稀有な歴史的条件が成立していたのである。

なお、本稿の主役であるアンリ・エーは、戦時下にこの組合運動の直接的構成員ではなかった。彼は1933年以来ボンヌヴァル精神科病院の医長を務めており、組合活動には積極的でありながらも、強力なCGT(Confédération générale du travail)、キリスト教民主系CFTC(Confédération française des travailleurs chrétiens)、あるいは医療労働組合連合のいずれにも加入することはなかった[12]。エーが自身の行動・思考・立場の自由を維持することを望んだからであり、また彼の独自の知的位置——多様な思想潮流の間の対話的調停者——を保つためでもあった。この組織的非帰属性こそが、後にエーが組合・行政・立法府の間で唯一の調停的人物として機能しうる前提となる。クレルヴォアの的確な観察によれば、エーにとって「militer(兵士として奉仕する、闘士として活動する)」という語は、ラテン語の語源的意味("militare"、"miles"=兵士に由来)における奉仕として理解されていた[12]。すなわち、特定の党派や組織への帰属としてではなく、患者・精神医学・職業観への奉仕としての闘士性である。

1.3 1945年パリ医学部「精神医学の日」とエーの「『狂気』と人間の価値」

戦後改革の精神医学的綱領が公の場で初めて提示されたのは、1945年、パリ医学部において開催された「精神医学の日(Journées psychiatriques)」においてである。この会合でアンリ・エーは、「『狂気』と人間の価値(La folie et les valeurs humaines)」と題する演説を行った[12]

クレルヴォアによれば、この演説においてエーは公的機関に向けて、当時のフランスにおける精神医療設備の貧弱さにもかかわらず、増大する精神科医療へのニーズに応えるために必要な措置を概説した[12]。すなわちこの講演は、純粋に学術的な発表ではなく、戦後復興期の国家に対する精神医学的政策提言として構想されていた。

題目の「『狂気』と人間の価値」という対句そのものが、戦後フランス精神医学の理論的・倫理的枠組みを予示している。「狂気(folie)」——1838年法以来の旧体制が「精神異常者(aliéné)」として隔離してきたもの——を、「人間の価値(valeurs humaines)」の地平において再定義しなおすこと。これは後にエーが「精神医学は自由の病理学である(La psychiatrie est une pathologie de la liberté)」として定式化することになるテーゼの胚芽である[16]。「狂気」の問題を「人間の価値」の問題として捉えなおすことは、占領期の閉じ込め経験が開示した「閉じ込められた人間の価値」という問いを、精神医療制度そのものへと折り返すことを意味する。

クレルヴォアの記述では、この1945年「精神医学の日」は、後の1965年『フランス精神医学白書』の「種子」が蒔かれた瞬間として位置づけられている[12]。種子はトスケル、ドメゾン、ボナフェ、そしてアンリ・エーといった行動的精神科医たちによって、戦後改革の最初期から蒔かれていた。1965年に開花することになる白書運動(本論文第六章)は、1945年のこの講演をその出発点の一つとする。

1.4 1945年9月4日医療委員会とアベリ予備法案

組合運動の組織化は、解放から半年あまりの間に急速に進んだ。1945年9月4日、医療委員会(commission médicale)が設置された[12]。この委員会の選出選挙は、戦後フランス精神医学の指導者層を明示することになる。グザヴィエ・アベリ(Xavier Abély)が124票、ジョルジュ・ドメゾン(Georges Daumézon)が123票、アンリ・エーが113票を獲得した。三巨頭の浮上である。委員会は精神医療資源の完全な目録作成を開始し、戦時中に閉鎖された28施設の再開、爆撃で消失した施設の再建、軍事用に徴発された施設の取り戻しを準備した[12]

委員会の最初の重要成果が、アベリ起草による「精神症患者の支援と入院に関する予備法案(Préprojet de loi sur l’aide et l’hospitalisation des malades mentaux)」である[13]。この予備法案は、1838年法体制を全面的に再編しようとする戦後最初の試みであった。エーはこの予備法案の中心メンバーの一人として、その起草過程に参加した。社会はそれまで、精神障害が最も顕著な人々を隔離して治療することにその行動を限定してきたが、予備法案は、これらの患者が社会復帰できるような社会的枠組みの中で、早期のスクリーニングと予防を促進することを企図した[12]。これは、本論文第三章で論じるセクツール思想の核心——隔離から地域社会復帰へ——を、1945年の段階で先取り的に定式化したものとして読むことができる。

しかし、戦後の好機は予想以上に短かった。クレルヴォアが冷静に指摘するように、1945年の段階で登場した医療関連の法律は、精神医学を「見事に無視」していた[12]。アメリカ軍がフランス領内に残していった医療機器——リネン、家具、医療・外科・レントゲン・医薬品を備えた5,000のベッド——を分配することになったとき、精神科病院は何も与えられなかった[14]。一方で、当局は精神科病院からの脱走の頻度を嘆き、周囲の壁や門の建設・修理に必要と思われる金額をできるだけ早く提供する用意を示した[15]。設備不足は無視され、閉鎖機能の強化のみが優先された。エーは後年、苦々しい筆致で記すことになる——「精神科医療に人間的価値を導入するための闘いは終わっていなかった」[12]

アベリ予備法案もまた、1946年の段階で完成しているように見えたものの、結局採用されることはなかった。クレルヴォアの指摘によれば、「この草案はあまりにも早すぎたし、当時、行政当局や司法当局は、この古い法律を改正する必要があるとは考えていなかったため、何の要望も出さなかった」[12]。戦後直後の高揚した雰囲気の中で構想された改革案は、行政の慣性によって棚上げされ、本格的な法改正は次の世代まで持ち越されることになる。

しかし、この最初の挫折は、戦後フランス精神医学の闘士たちにとっての終わりではなかった。むしろそれは、長期にわたる闘争の開始の合図であった。次章以下で見るように、サンタルバンでの施設内精神療法(第二章)、ボンヌヴァルでのCTRS実験(第二章)、1955-1960年のセクツール思想の理論的形成(第三章)、1960年3月15日通達による政策的誕生(第四章)、1838年法廃止運動の継続的展開(第五章)、1965年白書と組合活動の高揚(第六章)、そして1985年セクトリザシオン法と1990年法による制度的完成(第七章)——これらすべては、1945年の最初の挫折を出発点として、その後45年にわたって持続することになる長い闘争の各局面である。アンリ・エーは、この長い闘争のすべての局面に登場することになる。

第二章 サンタルバン・CTRS・désaliénisme

2.1 サンタルバンと施設内精神療法——占領下に始まった実験

戦後フランス精神医療改革の理論的・実践的原型は、解放を待たずして、占領期そのものの中で形成されていた。その舞台は、フランス本土の中央山岳地帯、ロゼール県のサンタルバン=シュル=リマニョール(Saint-Alban-sur-Limagnole)精神科病院である。フランソワ・トスケル(François Tosquelles, 1912-1994)、ポール・バルヴェ(Paul Balvet)、リュシアン・ボナフェ(Lucien Bonnafé)の三名が、1940年以降この施設で展開した実験は、後に「施設内精神療法(psychothérapie institutionnelle)」[19]と呼ばれる運動の発端となった[7]

カタルーニャ出身のトスケルは、第一章で触れたように、スペイン共和国軍の精神医学責任者として内戦に参加し、フランコ派の勝利によってフランスへ亡命してきた精神科医であった。彼がサンタルバンに到来したのは1940年であり、すなわちフランス陥落と占領開始の年である。トスケルがこの辺境の精神科病院で開始した実験は、占領下の物資窮乏とレジスタンス支援活動という二重の現実条件の中で、精神科病院そのものを治療の場へと変革しようとする試みであった[12]

クレルヴォアの訳注が要約しているように、トスケル主導の「施設内精神療法」は四つの革新的概念を導入した。すなわち、(1) 精神科病院の脱施設化、(2) 患者の集団活動への参加、(3) 病院の外部への開放、(4) 医療ケアを単なる医療行為としてではなく人間関係を通じて考えるアプローチである[12]。占領期の物資窮乏は、患者と職員が協同で生活物資を生産せざるをえない状況を作り出し、それが患者の集団労働への参加という施設内精神療法の中核的契機を生んだ。逆境が革新を強いたのである。

ポステルが指摘するように、サンタルバンの実験は1945年から全フランスの精神科医に知られるようになり、「精神病院内部の社会関係の変容、患者のための共同作業所の創設、外部への開放、集団療法、患者の地域社会への可能な限り迅速な再統合」という戦後改革の主要モチーフを先取り的に提示した[7]。それは「真の触媒的効果」を持ち、戦後CTRS運動の理論的源泉となった。占領という極限状況の中で、フランス精神医療改革の核心的な発想——患者を生活圏から切り離さない、医療を人間関係として理解する——が誕生していたのである。

2.2 戦後CTRS三大実験——ヴィル・エヴラール、ボンヌヴァル、ヴィルジュイフ

解放直後、社会保障(Sécurité sociale)の支援を得て、サンタルバンの実験を制度化しようとする三つのパイロット施設が創設された。「治療・社会復帰センター(Centres de traitement et de réadaptation sociale, CTRS)」と呼ばれるこれらの施設は、フランス精神医療改革の三大実験場となった。ポステルが列挙するように、ポール・シヴァドン(Paul Sivadon)によるヴィル・エヴラール(Ville-Évrard)、アンリ・エーによるボンヌヴァル(Bonneval)、そしてル・ギヤン(Le Guillant)によるヴィルジュイフ(Villejuif)の三施設である[7]

これら三施設の地理的・社会的特性は対照的であった。ヴィル・エヴラールはパリ東郊の伝統的な精神科病院、ヴィルジュイフはパリ南郊の大型施設(戦時中はアメリカ軍に占領されていた[12])、そしてボンヌヴァルはウール・エ・ロワール県の田園地帯にある修道院由来の中規模施設である。三施設のCTRS的変革は、それぞれの地域社会・人口・歴史的特性に応じた異なる形で展開した。シヴァドンは精神医学教育と専門医養成の組織化に重きを置き、ル・ギヤンは共産党系精神科医として労働者居住区の現実から出発し、エーは理論的・教育的・国際的活動を統合する位置に立った。

2.3 ボンヌヴァルCTRSの形成——1947年から1949年へ

ボンヌヴァル精神科病院は、1933年以来アンリ・エーが医長を務めていた施設である。クレルヴォアによれば、この古い修道院由来の施設は「将来の精神医学を発展させるための真の実験室」となり、「情熱的な議論の中で、新しい活動や教育の方法が夢想され、豊かな対立が繰り広げられた」[12]。1947年から1949年にかけて、エーはここに正式なCTRSを創設するための交渉と制度設計を進めた。

制度的決定的瞬間は1949年5月18日にやってくる。この日、エーはウール・エ・ロワール県、国、パリ地域社会保障基金との三者協定を締結し、4800万(旧)フランの予算を確保した。これは戦後フランスにおける精神科病院改革投資としては画期的な規模であった[12]。この予算によってボンヌヴァルCTRSは以下のような革新的特徴を実装することができた——男女混合病棟の導入(当時としては大胆な転換)、開放処遇の推進、作業療法とレクリエーション活動の充実、地域社会との連携強化、である。

これらの革新は、第八章で扱うマッセ=ウッサンが1983年時点で記述する制度状況(医療=社会チーム、家庭での対応、病院外組織、入院業務)の三十数年前の原型を構成している[2]。ボンヌヴァルCTRSにおける男女混合病棟・開放処遇・作業療法・地域連携という四つの革新は、後のセクツール制下の医療=社会チームの活動原理を実験的に先取りしていた。1949年5月18日の三者協定は、その意味で、1960年3月15日通達によるセクツール政策の正式発足を11年さかのぼる、制度的前史の決定的契機である。

ボンヌヴァルでの臨床革新と並行して、エーは1932年以来パリのサンタンヌ(Sainte-Anne)病院で毎週水曜日の講義を継続していた。「サンタンヌの水曜講義(les Mercredis de Sainte-Anne)」と呼ばれるこの教育活動は、約40年間にわたって続けられ、毎回100人以上の研修医を集めた[12]。講義はマニャン講堂(amphithéâtre Magnan)での2例の症例提示から始まり、その後医学図書館での理論的講義へと続いた。クレルヴォアが伝えるエピソードによれば、エーは講義を「与える(donner)」のではなく「捧げる(offrir)」と表現していたという[12]。この水曜講義は、戦後CTRSとセクツール制を実装することになる新世代の精神科医を継続的に養成する装置として機能した。臨床革新(ボンヌヴァル)と教育革新(サンタンヌ)の二重展開——これがエーの闘士的活動の方法的特徴である。

2.4 ボナフェ系 désaliénisme との理論的緊張

戦後CTRS運動は、決して一枚岩ではなかった。その内部には、共産党系の急進的潮流と、エーを中心とする統合主義的潮流との理論的緊張が存在していた。前者は「désaliénisme(脱疎外主義)」と呼ばれるべき立場であり、リュシアン・ボナフェ(Lucien Bonnafé)とル・ギヤンを代表的人物とする。後者はエーの器質力動論的統合主義である。

ボナフェは、サンタルバンでトスケル、バルヴェとともに施設内精神療法の創始者の一人となった後、コルベイユ(Corbeil)において自らセクトリザシオン実践のパイオニアの一人となった[7]。ポステルが「フランス精神科セクトリザシオンの先駆者の一人」として彼を挙げていることは、この理論的潮流の制度的成果を示している。ボナフェの立場は、ジョルジュ・ドメゾン(Georges Daumézon)とともに、精神病院内部での閉じ込め(internement)を「精神障害者に対する社会の原始的な行動(conduite primitive de la société devant le malade mental)」と特徴づける急進的批判に立脚していた[7]。すなわち、1838年法体制下の精神病院は、近代社会が精神障害者に対して採用した、近代以前の社会と本質的に区別されない原始的反応様式の延長であると見なされた。

同じくル・ギヤンは、ヴィルジュイフCTRSを担いつつ、共産党系精神科医として労働者居住区の社会的現実から出発する立場をとった。クレルヴォアが伝える後年のエピソードでは、ル・ギヤンは低所得者向け住宅(HLM)の開発によって人口が不均衡に膨張したヴィルジュイフ地区での困難を語っており、これに対してエーは「人口60万人のエリアはエリアではない。それは偽のセクターである」と応じている[12]。この対話は、ボナフェ=ル・ギヤン的な「現場の社会経済的現実への密着」と、エー的な「精神医療体系としての一貫性の擁護」との緊張を端的に示している。

しかしこの理論的緊張は、戦後CTRS運動を分裂させるものではなく、むしろ運動の生産的内部対話の源泉となった。デザリエニストたちが提供したのは1838年法体制への根本的批判の論拠であり、エーが提供したのは批判を建設的な制度設計と理論的統合に翻訳する力であった。1967年の「1838年法廃止を求める三者共同声明」(第五章で詳述)において、エー、シヴァドン、ボナフェが同一の声明文に署名するに至るのは、この二十年近い対話の蓄積の帰結である[12]。クレルヴォアの観察によれば、エーはフランス精神医学界において、これら多様な潮流が結集できる「唯一の人物」として機能した[12]。組織的非帰属性(第一章 1.2)に立脚するエーの闘士性は、まさにこの調停的機能において発揮されたのである。

第三章 セクツール思想の理論的形成(1955-1960)

3.1 1955年——理論的精緻化の出発点

戦後CTRS運動が提供した臨床的経験を、地域基盤型精神医療の体系的教義へと精緻化する作業は、1955年頃から本格化する。ポステルの記述によれば、「1955年頃にセクツール精神科の教義が精緻化された(C'est alors que vers 1955 s'est précisée la doctrine du secteur psychiatrique)」[7]。この理論的転換の中核にある発見は、明快である——患者を生活環境から切り離してはならない、可能な限り患者を彼の日常的生活圏内に留めるべきである、という認識である。

この発見は、戦後CTRS実験の臨床的成果から帰納された。ボンヌヴァル、ヴィル・エヴラール、ヴィルジュイフの三施設での実験は、いずれも精神科病院内部の革新として始まったが、まもなく精神科医たちは、より根本的な転換が必要であることを認識し始めた。ポステルが指摘するように、「精神障害者を彼の自宅にできるだけ近い場所で、可能な限り彼の日常的生活環境に留めながら治療する必要があると認識された」[7]。これがセクツール思想の中核的洞察である。1838年法体制下の精神病院は、患者を地理的・社会的に隔離することを前提としていたが、CTRS実験はこの前提そのものの放棄を要求した。

3.2 1959年トゥール会議——アンリ・デュシェーヌの規定的報告

セクツール教義が公的会合において理論的に提示された決定的瞬間は、1959年のトゥール(Tours)におけるフランス語精神医学・神経学会議(Congrès de psychiatrie et neurologie de langue française)である。ここでアンリ・デュシェーヌ(Henri Duchêne)が報告を行い[18]、ポステルの的確な表現を借りれば、「公的病院外精神医療サービス(services psychiatriques publics extrahospitaliers)に適用されるべきセクツールの真の教義」を明確に提示した[7][18]

デュシェーヌ報告の革新性は、セクツールを単なる地理的区分や行政組織として位置づけるのではなく、「病院外(extrahospitalier)」を主要な実践空間とする精神医療体制として規定した点にある。1838年法体制下の精神医療は精神病院内部に閉じられていたが、デュシェーヌが提示したセクツール教義は、病院外こそが精神医療の本来的場所であり、病院内入院はその一形態にすぎないと位置づけた。これは精神医療の空間的・概念的中心を移動させる根本的な転換であった。

3.3 H. ミニョーによるセクツール定義

デュシェーヌの教義は、続いて H. ミニョー(H. Mignot)によってその精神と目的が最も的確に定義された[7]。ミニョーの定義はセクツール思想の古典的定式化として残った。それは三つの命題から成る。

第一に、「セクツール政策は単なる衛生組織の独創的な形態ではなく、精神障害者に対する社会の態度の重大な変化を意味する(La politique de secteur n’est pas seulement une forme originale d’organisation sanitaire, elle implique une modification profonde de l’attitude de la société à l’égard des malades mentaux)」。第二に、「セクツールの精神とは、何よりもまず、精神障害者の分離排除(ségrégation)を拒否することである」。第三に、「その目的は、彼らが人間社会の中で自分の居場所を保ち、可能な限り自律性を回復できるようにすることである」[7]

ミニョー定義の核心は、セクツール制を「衛生組織の独創的形態」として捉える狭い行政的理解を退け、それを「社会の態度の重大な変化」として捉える広い倫理的理解を確立したことにある。これは、本論文第一章 1.3 で論じたエーの1945年講演「『狂気』と人間の価値」が示唆したテーゼ——「狂気」を「人間の価値」の地平において再定義する——の制度政策的展開である。1945年から1959年までの十四年間に、エー的な理論的方向性が、デュシェーヌとミニョーを介してセクツール制の公式教義として結実したのである。

3.4 エーの1964年論文「精神疾患の本質と1838年法——精神症者、空間と自由」

エー自身がセクツール思想の理論的基礎を最も明示的に展開したのは、1960年3月15日通達の公布から4年後の1964年3月、雑誌『L’Évolution Psychiatrique』に発表した論文「精神疾患の本質と1838年法——精神症者、空間と自由(Nature de la maladie mentale et la loi de 1838 (Les aliénés, l’espace et la liberté))」においてである[17]。クレルヴォアによれば、この論文においてエーは、「精神症者『に関する』法律」を「精神症者『のための』法律」に変えるよう求めた[12]。1838年法は精神障害者を閉じ込める空間を区切ったにすぎないため、この空間的制約を取り払い、安定した患者に世界を「開放」する必要がある——これがエーの主張であった。

論文題目の「精神症者、空間と自由(les aliénés, l’espace et la liberté)」という三項関係は、エーのセクツール思想の哲学的核心を提示している。1838年法体制下の精神症者は、精神病院という閉じられた空間に隔離されることによって、自由を剥奪されてきた。空間(隔離)と自由(剥奪)が直接に対応関係に置かれてきたのである。セクツール制が実現すべきは、この空間と自由の対応関係の解体である——閉じられた空間から、地域社会という開かれた空間へ。そしてこの空間的開放こそが、精神症者の自由の回復にほかならない。

クレルヴォアの示唆深い記述によれば、カタルーニャ人であるエーにとって、この論文の主張は、「フランス革命に典型的な人文主義的衝動」において、「ビセートルで落ち着きのない人々から鎖を取り去るというピネルのジェスチャーを再び行う」という問題であった[12]。1950年代から1960年代における問題は、1838年法体制の倫理的・政治的基礎の根源に立ち戻ることだったのである。先行論文「エスキロールと1838年法」[1]が論じたピネル神話の構築は、エーにとって解体されるべき神話ではなく、むしろ実現されるべき本来的契機として理解されていた——その本来的契機は、1838年法によってではなく、セクツール制によってこそ実現される、と。

3.5 ドメゾン=ボナフェの「原始的態度」批判

セクツール理論の精緻化過程において、ボナフェとドメゾンが提供した批判的視座は、運動の根本的方向性を規定した。ポステルが端的に表現するように、「セクツール理論はそれ自体、隔離(internement)への激しい問題提起から出発した」[7]。ドメゾンとボナフェは、内部閉じ込めを「精神障害者に対する社会の原始的な行動(conduite primitive de la société devant le malade mental)」と特徴づけた。この批判は、より発展した態度と精神科セクツールの組織化につながった——医療=社会チームは、決して7万人を超えてはならない人口を持つ社会共同体の中に設置されなければならない、という原則である[7]

「人口7万人」という数値は、セクツール制の運営単位を規定する政策的閾値として、その後の通達群に継承された(本論文第八章 8.1 で扱う活動的隊列概念および第四章で扱う1960年通達において具体化される)。この数値の選定には、医療=社会チームが「決して大規模になりすぎず」「人間関係の中で機能しうる」規模であるべきという、サンタルバン以来の施設内精神療法の経験が反映されていた。

第四章 1960年3月15日通達——政策的誕生

4.1 通達起草の行政的背景——ジャン教授、マムレ嬢、オージャル教授

セクツール政策の制度的誕生は、1960年3月15日に公布された通達「精神疾患対策のための県別組織化・設備計画に関する通達(Circulaire du 15 mars 1960 relative au programme d’organisation et d’équipement des départements en matière de lutte contre les maladies mentales)」によってもたらされた[3]。これは精神医学者の理論的構想が、保健行政の公式政策として制度化された最初の決定的瞬間である。

ポステルは、通達の起草過程について重要な行政的記録を伝えている。「これらのさまざまな行政的措置は、ジャン教授(Professeur Jean)とマムレ嬢(Mademoiselle Mamelet)に多くを負っており、彼らはオージャル教授(Professeur Aujaleu)の指導下の省内機能において、精神医学を住民の日常生活にできるだけ近づけるこの方向性を、大きな力動性をもって推進した」[7]。すなわち、1960年通達は単独の精神医学者の業績ではなく、行政内部のキーパーソン三名(ジャン教授、マムレ嬢、オージャル教授)と、精神医学界の理論的指導者たち(エー、デュシェーヌ、ミニョー、ボナフェ等)との協働の所産であった。

この行政=精神医学界の協働関係は、戦後フランスにおける専門職と国家の独特の連携形式を示している。フランス精神医学の組合運動は、自らの政策提案を保健省内の理解ある行政官と結びつけることに成功し、その結果として通達という法令未満の行政文書を通じて、新しい精神医療体制を実装することができた。1985年法による正式な法制化(本論文第七章)までの25年間、フランスのセクツール制度は、まさにこの通達群の連鎖によって運営されることになる。

4.2 1960年通達の制度的内容

1960年3月15日通達は、フランス精神医療体制を以下の原則に基づいて再編した。通達は政策全体の原理を一文で宣言している——「精神疾患対策の組織化の本質的原理は、患者をその家族と生活環境からできるかぎり切り離さないことにある(Le principe essentiel de l’organisation de la lutte contre les maladies mentales est en effet de séparer le moins possible le malade de sa famille et de son milieu)」[3]。第一に、各県は「セクツール(secteur)」と呼ばれる地理的単位に分割される。各セクツールの人口は、第三章 3.5 で扱ったボナフェ=ドメゾンの原則に従い、7万人を超えてはならない[7]。なお通達自体の文言では、この閾値は WHO 基準からの算出値として現れる——「目安として、男女両性の患者を受け入れ、自由診療部門を備えた200床の部門は、世界保健機関の定める人口1000人あたり3床の基準に基づき、約67 000人の下位セクツールを担当しうる(À titre indicatif, un service de deux cents lits, recevant des malades des deux sexes, comportant son service libre, peut prendre en charge, sur la base de trois lits pour 1 000 habitants fixée par l’Organisation mondiale de la santé, un sous-secteur de 67 000 habitants environ)」[3]。ポステルの伝える「7万人」という閾値は、通達の文言のうえでは、この「約67 000人」の丸めとして現れているのである。第二に、各セクツールには医療=社会チーム(équipe médico-sociale)が配置され、当該地域住民の精神医療を継続的に担当する。チームは医師、看護婦、ケースワーカー、心理職の四職種を中核として構成される(本論文第八章 8.1 で詳述)。第三に、医療=社会チームの活動は、入院治療のみならず、家庭での対応(第八章 8.2)、病院外組織での対応(第八章 8.3)、入院業務(第八章 8.4)の四つの形態を統合する。

これら三つの原則は、サンタルバン以来のフランス精神医療改革運動の中核的洞察を、行政文書として定式化したものである。1949年5月18日のボンヌヴァル三者協定が孤立した先駆的実験であったのに対し、1960年通達は同じ原則を全国的に展開する政策的枠組みを提供した。ボンヌヴァルCTRSの男女混合病棟・開放処遇・作業療法・地域連携という四つの革新(本論文第二章 2.3)は、1960年通達の医療=社会チームによる病院内外統合活動として一般化された。

1960年から1974年にかけて、複数の補足的通達が公布された。1961年1月18日通達(病院管理委員会、第八章 8.4)、1972年3月14日通達第431号(医療チーム定義、第八章 8.1。同日付で県別規則に関する政令・省令が併せて公布されており、三点セットをなす)、1972年3月16日通達(児童精神医学intersecteur)、1974年3月9日通達(入院業務、第八章 8.4)、1974年5月9日通達(病院外組織、第八章 8.3)——これらの通達群がセクツール制の実装枠組みを段階的に整備した[7]。ただし現行のオンライン法令目録(IGAS 2017年報告書付属年表等)に1974年3月9日付の通達は見当たらず、確認できるのは1974年5月9日通達(DGS/891/MS 1)のみである。3月(mars)と5月(mai)の転記混同により同一通達が二重に数えられている可能性があり、典拠との照合を要する(巻末「要確認」参照)。

4.3 児童精神医学intersecteurの創設——1972年3月16日通達

セクツール制の独自展開として特に注目すべきは、児童精神医学(psychiatrie infanto-juvénile)における「intersecteur(セクツール間)」の制度化である。これは複数の成人セクツールにまたがる広域的単位として児童精神医療を組織する制度であり、1972年3月16日通達によって正式に確立された[29]。同通達はセクツールの動的定義を明示している——「セクツールは純粋に抽象的・静態的な実体ではなく、所与の地理的圏域における一つのチームの活動によって定義される。その位置と画定は、ニーズの性質と直接の関係にある(celui-ci n’est pas pure entité abstraite et statique mais il se définit par l’action d’une équipe dans une aire géographique donnée dont la situation, la délimitation sont en rapport direct avec la nature des besoins)」[29]。ポステルは、この通達の起草において S. ルボヴィッシ(Serge Lebovici)と R. ミセス(Roger Misès)が果たした重要な役割を強調する[7]。両者は精神分析的児童精神医療の中心的人物であり、児童精神医学が成人精神医学とは異なる人口学的・教育的・発達的論理を持つことを通達に反映させた。

児童精神医学intersecteurは、成人セクツールと異なり、国民教育省(Éducation Nationale)所管の学校・教育機関、社会保障所管の児童福祉施設、司法省所管の少年保護機関等、複数の公的システムと接合する必要があった。ポステルが指摘するように、「私的・半私的諸機関と国民教育省サービスとの絡み合いは、運営に大きな複雑さをもたらすことがある」[7]。この複雑さは、児童精神医療セクツール制の特有の困難であると同時に、その固有の豊かさの源泉でもあった——障害児教育・施設教育とセクツール児童精神医療との接合は、戦後フランス社会福祉の重要な制度的達成の一つを構成している(この主題については別稿〔本研究所レビュー「フランスの精神障害者と知的障害児・者の教育・治療・福祉体制」〕において詳述する)。

4.4 通達の限界——1985年法までの「行政文書としての存在」

1960年3月15日通達によって誕生したセクツール政策は、その後25年間にわたって、行政文書のみに基盤を置く制度として運営された。これは制度的に脆弱な状態であり続けた。通達は省令未満の行政文書であり、法律としての強制力を持たない。各県当局や精神病院の協力に依存し、財源は社会保障基金から散発的に供給される。法律によって裏付けられたセクツール制は、1985年12月31日のセクトリザシオン法を待たなければならなかった。

ポステルが苦々しい筆致で記す通り、「1955年から1960年にかけて練り上げられたこの政策は、1985年まで法制化を待たなければならなかった——こっそりと、そして何という代価を払って!(à la sauvette, et à quel prix !)」[7]。この25年間の制度的脆弱さは、1990年法による精神医療体制の最終的法制化(本論文第五章および第七章)まで克服されることはない。1960年通達は政策の誕生であったが、それは法制化なき誕生であり、そこからの実装過程は、行政の継続的努力と精神医学組合の継続的圧力に依存し続けた。

このような制度的脆弱性が、本論文第五章で扱う1838年法廃止運動の長期化を強いる構造的条件となった。1960年通達がセクツール制を行政文書として実装した後も、依然として精神医療の基本法は1838年法のままであり続けた。セクツール制という新しい体制と、1838年法という旧体制とが、25年から30年にわたって法的・行政的に併存することになったのである。本論文第五章では、この奇妙な併存状態を解消するためのエーの闘い——1838年法廃止運動の継続的展開——を辿ることになる。

第五章 1838年法廃止運動——長き闘争(1945-1990)

5.1 1946年予備法案の挫折と1963年の再起動

第一章 1.4 で論じたとおり、アベリ予備法案(1945-1946)は採用されることなく棚上げされた。クレルヴォアが端的に評するように、「この草案はあまりにも早すぎたし、当時、行政当局や司法当局は、この古い法律を改正する必要があるとは考えていなかったため、何の要望も出さなかった」[12]。第二次世界大戦の余波の中で、国会議員たちは100年前の輝かしい先人たちよりも勇気を示すことはなく、1838年法は不動のまま残された。

しかし精神科医たちは、改革の必要性を行政に納得させるための言説を辛抱強く再開していった。クレルヴォアによれば、「アンリ・エーもその一人であり、1963年に新たなプロジェクトが立ち上げられたとき、再び最初の一人となった」[12]。1945-1946年の最初の挫折から17年後、1838年法廃止運動はようやく第二の波を迎えることになる。1960年3月15日通達によるセクツール政策の発足から3年、1965年白書運動の前夜という、改革気運が最大化する歴史的瞬間に、エーは再び立ち上がったのである。

5.2 1964年エー論文「精神疾患の本質と1838年法」

1964年3月、エーは『L’Évolution Psychiatrique』誌に論文「精神疾患の本質と1838年法——精神症者、空間と自由」を発表した[17]。本論文第三章 3.4 で扱ったこの論文は、1838年法廃止運動の理論的綱領となるものであった。

クレルヴォアの整理に従えば、エーは「彼らしいシンプルで力強い言葉で、精神症者『に関する』法律を精神症者『のための』法律に変えるよう求めた」[12]。1838年に制定された法律は精神障害者を閉じ込める空間を区切ったにすぎない以上、その空間的制約を取り払い、安定した患者に世界を「開放」する必要がある——第三章 3.4 で論じたこの主張が、ここでは廃止運動の綱領として機能した。

エーの怒りを買ったのは、法改正計画から精神医学の専門家たちが排除されていたことであった。クレルヴォアが引用する1964年論文の一節において、エーは次のように述べている。「1838年に制定された由緒ある法律を適用する責任を負う医師団体が、再び『警戒状態』に陥っている。患者や当局との関係を規定する法的・行政的地位を改革しようという話が出ている。〔……〕30人の行政官や弁護士のうち、たった3人の医師しかいない精神障害者に関する法律を制定したり改正したりする委員会を招集する勇気が、いったいどの時代に、あるいはどの国にあったであろうか」[17][12]。1838年法の改正は精神医学者抜きで行政当局のみによって構想されつつあり、エーはその排除に憤激したのである。

5.3 1966年第2回白書会議——「私たちは患者の利益を擁護している」

1966年3月の第2回白書会議において、エーは「大改革」の切断にすぎないような部分的解決策を何としても避けたいと考えていた。地理的問題の解決策としてセクター化を提示した発言者に対して、エーは無愛想に応じた——「セクター化とは決められた地区の患者だけを受け入れることではなく、標準的な人口からすべての患者を受け入れることだ」[12]。地理的限定を超えた、人口全体への責任の引き受けこそがセクツール制の核心である。これは本論文第三章 3.3 でミニョーの定義を扱った際に確認した「分離排除の拒否」と同一の原則である。

講演者が専門家の利益を擁護しているように見えた瞬間、エーの怒りが爆発した。「あなた方は自分たちの利益を擁護しているのであって、私たちはそんなことに興味はありません〔……〕私たちは患者の利益を擁護しているのです!」[12]。この一言は、エーの闘士的姿勢の本質を最も鮮明に示している。1838年法改正運動は、精神科医の専門職利益のためではなく、患者の利益のための闘いである——この原則的立場こそが、エーがフランス精神医学界の調停的中心人物として機能しえた倫理的基盤であった。

同年、エーは1838年法廃止を正式に提起した。「1838年に制定された法律は、当時の構造やケアのレベルに適応した模範的なものであったが、現在では画一的で余計なものとなっていた」[12]。1966年において、自分の意思に反して自分の利益のために治療を受けることを余儀なくされた患者は、この法律によって押しつぶされ、まだ可能なうちに自分の資産を管理することができない状態にあった。エーは、精神科医が「患者の保護、防護、治療措置の選択についてより大きな責任を自ら負うと同時に、〔……〕必要となるあらゆる解決策を促進し、推進するために必要な近代的な物質的資源を当局に要求する」ことを可能にする、より適切な法的手段の導入を求めた[12]

5.4 1967年三者共同声明——シヴァドン、ボナフェ、エー

1967年1月21日、フランス精神医学を代表する三人の精神科医——アンリ・エー、ポール・シヴァドン、リュシアン・ボナフェ——が、医学誌『Le Concours Médical』に共同で声明を発表した。題目は挑発的である——「1838年に制定された『精神異常者』に関する法律を『改正』する必要があるか?」[20]。三人の答えは明確であった——改正ではなく廃止を求める、と。

この三者共同声明の歴史的意義は、本論文第二章 2.4 で論じたボナフェ系 désaliénisme とエーの統合主義との理論的緊張が、1838年法廃止という具体的政治目標において最終的に合流したことにある。20年近い対話と論争を経て、急進派と統合派が同一の声明文に署名するに至った。クレルヴォアは、改革当初からのパートナーで最初の四人の署名者の一人であったはずのグザヴィエ・アベリが、この共同声明の発表時には既に他界していたことを記録している[12]。アベリの死後も、彼が1945年に開始した運動は、エー、シヴァドン、ボナフェの三人によって継承された。

三者共同声明の根本的論点は、1838年法のもとでは「条文の精神ではなく文字だけが変更される」可能性への警戒であった。エーらは、法改正によって患者が「隔離と疎外の範疇に置き去り」にされることを恐れた[12]。すなわち、表面的な近代化のもとで、本質的な閉じ込め構造が温存されることへの警戒である。これは、後に1990年法が部分的に実現することになる「自由入院原則の確立」と「強制入院の限定的維持」のバランスをめぐる、エーの先見的問題提起であった。

5.5 1967年医学心理学会報告——「1838年法を廃止する」

1967年10月23日、エーは医学心理学会(Société Médico-Psychologique)において重要な報告を行った。題目は明示的である——「精神科医療支援の効果と進歩の条件にもとづいて 1838年に制定された例外法の主要条項を廃止する」[21]。これは1838年法廃止を学術的にも公式に提起した最初の包括的報告であった。

クレルヴォアによれば、エーの報告は1838年法のいくつかの不幸な条項を批判した。その一例が財産保護制度である。この制度は、あたかも病気が通常永続的なものであるかのように、「永続的に」自己の利益を守ることが不可能な患者にのみ適用されるものであったが、ほとんどの場合、それはすでに一過性の障害の問題であった。オーディシオが証言したように、精神科医は、常に治療に同意していた患者であっても、患者の利益を守るための取り決めから利益を得ることができないがために、収容命令を求めることにまで追い込まれることがあった[12]

エーは精神科医が患者と財産の保護に責任を持てるような法改正を求めた。「精神科医がドアを閉め、そして開けることに全責任を持つことができるような措置」の検討を求めたのである[12]。これは、それまで知事・警察・行政の権限であった入退院の決定を、医学的判断に基づくものへと転換させる根本的提起であった。1838年法が入退院の決定権を行政に置き、医師をその執行者の位置にとどめた構造——姉妹論文「1838年法の政治経済学」および「エスキロールと1838年法」[1]に詳しい——への、正面からの挑戦である。

5.6 1968年無能力者保護法——シモーヌ・ヴェイユ判事との協働

1967年の理論的提起は、翌年に具体的な立法成果を生み出した。クレルヴォアによれば、「アンリ・エーが法務省に呼ばれ、無能力な成人の保護に関する文章を、シモーヌ・ヴェイユという名前の判事とともに起草した」[12]。当時シモーヌ・ヴェイユ(Simone Veil, 1927-2017)は法務省(Garde des Sceaux)の判事として勤務していた。後に1974年に保健大臣として中絶非犯罪化法(通称「ヴェイユ法」)を提出し、欧州議会初代議長となる彼女と、エーが1967-1968年に立法協働を行ったことは、フランス精神医学史と政治史の交差点を示す象徴的瞬間である[12]

クレルヴォアは、シモーヌ・ヴェイユの個人的印象を伝えている。「シモーヌ・ヴェイユは、アンリ・エーの人柄、彼が放つ安心感、バランス感覚、輝き、教条主義を排した実際性、そして問題に対する膨大な知識にすぐに感銘を受けた。ボンヌヴァルに招かれた彼女は、病院の静けさと夫妻の温かい歓迎に誘惑され、その場所から漂う幸せな雰囲気に驚きそうになった」[12]。法務省判事と精神科病院医長との立法協働が、ボンヌヴァルでの私的訪問を伴いつつ進められたという情景は、当時のフランスにおける専門職の協働文化の一端を示している。

協働の最初の構想は人と財産の保護を包括的に扱うものであったが、当時精神医学界を席巻していた動きによって、「すぐに財産の保護のみに限定せざるを得なくなった」[12]。1968年1月3日に公布された「成人無能力者の保護に関する法律(loi du 3 janvier 1968 portant réforme du droit des incapables majeurs)」[22]は、以下の三つの保護制度を確立した——(1) 司法保護(sauvegarde de justice):原則として患者の能力をそのまま保ち、保護期間中の不利益行為のみ取り消し可能とする、(2) 後見(tutelle):本人の法的能力のほとんどを免除し、後見人が市民生活のすべての行為において本人を法的に代理する、(3) 保佐(curatelle):市民生活の行為において助言または管理を必要とする者に適用される[12]

これらの保護制度は、それ以前の遡及的保護(行為時に病気が存在したことを証明しなければならない、常に困難な制度)に対する、予防的保護への根本的転換であった。1968年法は、1838年法の財産保護条項を根本的に近代化したが、人格保護(自由・住居・職業選択など)には及ばなかった。クレルヴォアの的確な観察によれば、「この法律は物質的な問題を解決しているに過ぎず、財産は新しい法式で保護されるが、個人に関する法文は変更されないまま」だった[12]。1838年法体制の解体は、財産から始まり、人格には及ばず——人格保護の立法は、1990年法を待たなければならなかった。

5.7 1969年シャバン=デルマス首相宛書簡と組合活動の挫折

1967年5月、フランス精神科医組合(Syndicat des Psychiatres Français)が発足し、エーも同年、組合の会長に選出された(本論文第六章 6.4 で詳述。エーが率いた組合の同定については文献[31]を参照)[12][31]。組合長として、エーは1967年から1969年にかけて、保健大臣ロベール・ブーラン(Robert Boulin)と書簡を交わしたが、返事はなかった[12]。1968年5月の出来事に続く政治的激動は、精神科医の要求を後景に追いやった。

1969年、エーは緊急性を増す事態を前にして、ジャック・シャバン=デルマス(Jacques Chaban-Delmas)首相に直接書簡を送る決断をした。クレルヴォアが原文を引用するこの書簡の冒頭は、危機の深さを伝えている——「親愛なる首相。精神科病院の医師たちの極度の不満についてご報告することを光栄に思います。この不満は数年来着実に高まっており、ここ数カ月で、急速に破局的な事態を招きかねないレベルの反応に達している」[23]。「破局的事態」という強い表現は、エーの危機感を端的に示している。

数日後、組合総会は無制限の行政ストライキを決議した。1838年法で義務づけられている24時間証明書と状況証明書の作成が、退院証明書を除いて拒否された。社会保障基金との覚書への署名も拒否された。翌日、厚生省近くでデモが組織され、その4日後、ブーラン保健大臣自身と技術顧問がようやく組合代表団を迎えた[12]。代表団の苦情説明に対して、大臣はなだめるような安心させる言葉を返した。しかし問題は根本的には解決されず、組合活動は1970年代を通じて継続することになる。

クレルヴォアが引用する関係者の証言によれば、「『不可能なことだけが現実である』という1968年5月の学生スローガンを、アンリ・エーは自分のものにすることもできた。しかし健康を犠牲にした」[12]。この闘争の終わりに、エーは疲れ果ててボンヌヴァルに戻り、「文字通りボロボロになり、初めて心が折れそうになった」[12]。それでも、彼が医長を退く頃には、フランスの精神医学は変わっていた——「彼はアジール(asile[34]の世界を変えようとし、成功した」[12]

5.8 エーの死と1990年法——エスキロール体制の最終的解体

アンリ・エーは1977年に死去した。本論文第七章 7.6 で詳述するホノルル世界精神医学会大会での動議可決の数か月後である。彼は1838年法の最終的廃止を見届けることなく逝った。しかし、1838年法体制の最終的解体は、彼の死後13年を経て1990年に実現する。

1990年6月27日法(loi du 27 juin 1990, dite « loi sur les hospitalisations psychiatriques »)[24]は、1838年法を正式に廃止し、フランス精神医療の入院制度を全面的に再編した。1990年法は以下の三類型の入院形態を確立した——(1) 自由入院(hospitalisation libre, HL):患者の同意に基づく一般入院、これが原則となる、(2) 第三者要求入院(hospitalisation à la demande d’un tiers, HDT):家族等の第三者の要求と二通の医学証明書に基づく強制入院、(3) 職権入院(hospitalisation d’office, HO):知事命令による強制入院、公共秩序または他者の安全への危険がある場合に限定される。

1990年法の歴史的意義は、自由入院を原則とし強制入院を例外として位置づけ直したことにある。1838年法体制下では、強制入院(placement volontaire と placement d’office)が制度の中心であり、自由入院は周縁的位置にあった。1990年法はこの構造を反転させた。これは、エーが1964年論文以来主張し続けた原則——「精神症者『に関する』法律」から「精神症者『のための』法律」への転換——の制度的実現である。

1990年法は、自由入院患者の市民的・社会的権利を明確に保障し、強制入院の場合にも司法的事後審査の権利を確立した。後に2011年7月5日法が、全日入院の継続について自由・拘禁判事(juge des libertés et de la détention)による司法審査を入院後15日以内に義務づけ、さらに2013年9月27日法がこの期限を12日に短縮した(2014年9月1日以降の入院決定に適用)[24]。あわせて HDT は SDT(soins psychiatriques à la demande d’un tiers)に、HO は SDRE(soins psychiatriques sur décision du représentant de l’État)に名称変更されるなど、精神医療体制はさらなる近代化を遂げた[1]。これらの2010年代の改革は、本論文の射程を超えるが、エーが1945年に開始した闘争の歴史的延長線上にある。

1838年法から1990年法への移行は、1世紀半にわたる構造転換の到達点である。エスキロールが1838年に確立した体制(本論文先行論文「エスキロールと1838年法」[1]を参照)は、エーを中心とする闘士たちの45年にわたる闘いによって解体され、自由入院を原則とする近代的精神医療体制に置き換えられた。本論文第一章で論じた1944-1945年の解放期から1990年法までの45年間こそが、フランス精神医療が「閉じ込めの体制」から「自由の体制」へと根本的に転換した時期なのである。第八章および第九章で扱うセクツール制(地域基盤型精神医療の制度)と、本章で扱った1838年法廃止運動(精神医療法制の自由化)の二重展開が、この構造転換の二本の柱を構成している。

第六章 1965年白書と組合活動

6.1 1965年『フランス精神医学白書』——精神医学進化グループによる集合的著作

1838年法廃止運動と並行して、1960年代のエーが推進したもう一つの戦線が、『フランス精神医学白書(Livre blanc de la psychiatrie française)』[25]の編纂事業である。第三章 3.4 で言及した雑誌『精神医学進化(L’Évolution Psychiatrique)』を母体とするグループが、1965年6月「精神医学の日」において、白書のための最初の討論会を開催した。クレルヴォアによれば、エーはこの会合の冒頭で、精神科医の同僚と、その場にいた公衆衛生省および国民教育省の代表者たちに向けてスピーチを行い、「過剰な依存と過剰な自律の両方によって脅かされている精神医学の統一と団結を呼びかけ、その対象である患者と精神疾患を中心に組織化する必要があると述べた」[12]

白書編纂事業の特徴は、その包括性にある。「精神医学を豊かにするあらゆる理論的方向性から、老若男女、公私を問わず、精神医学を牽引するすべての力を協力に招き、膨大な研究プログラムの土台を築いた」[12]。1838年法廃止運動が法制度の改革を目指したのに対し、白書は精神医学そのものの体系的再構築を目指す事業であった。

6.2 白書の主要寄稿

クレルヴォアが伝える白書の章構成は、戦後フランス精神医学の主要論点を網羅している。アンドレ・グリーン(André Green)、マルタン、ポール・シヴァドンは精神医学の教育と精神科医の養成の問題を、ミシェル・オーディシオは精神科医療支援の再編成の問題を提示した。バロンは制度上の実践を、ミニョー(Mignot)は立法上の問題を、ミセス(Roger Misès)は児童精神神経医学の組織について述べた。サンペ(Sempé)は様々な実践と私的機関の位置づけについて、ブリッセ(Charles Brisset)は精神医学と医学の関係について、ジェンドロ(Gendrot)とロセラン(Losserand)は一般医師と特に神経科医との関係について述べた。クペルニク(Cyrille Koupernik)は生物学的療法について、ミセスは再び精神療法について、リュシアン・ボナフェは施設療法について語った。クロード・ブラン(Claude Blanc)は精神医学における研究の問題を示し、ガイヤー(Gallier)は学会について論じた。最後に、クロード・ヴェール(Claude Veil)が、精神医学と行政や社会保障との関係について論じている[12]

この章構成は、1965年時点のフランス精神医学が直面する全領域を網羅するものであった。教育・養成、制度実践、立法、児童精神医学、私的・公的の区分、医学全般との関係、神経学との関係、生物学的療法と精神療法、施設療法、研究、学会、行政との関係——これらすべての論点が、戦後改革の20年間の経験を基盤として、1965年に体系的に整理されたのである。

6.3 神経精神医学の分離——ブリッセ報告の歴史的意義

白書の中で特に歴史的意義を持ったのが、シャルル・ブリッセによる「精神医学と神経学の関係」報告である。ブリッセは二学問分野の根本的相違を強調した。神経学の対象が神経系であるのに対し、精神医学の対象は行動である。神経学の方法は解剖学的・臨床的であり、すべての神経科医がすぐに理解しあえるコンセンサスを得ることができるのに対し、精神医学の方法は対人理解に基づくものであり、学派間の伝達が困難である。神経学や他の臨床医学分野とは対照的に、精神科の診療は主に精神療法的であり、精神科医だけが用いる特定の臨床基準に基づいており、患者はしばしば無制限の期間治療される。神経学の目的が解剖学的・臨床的な回復や病巣損傷の是正であるのに対し、精神医学の目的は判断が難しく、「治癒とは何か」という根本的問いが残る。神経学は大学での理論的トレーニングと病院での実践的トレーニングという伝統的方法で教えられているのに対し、精神医学は対人関係のトレーニングが大部分を占め、これは大学レベルでは教えられておらず、ケアチームが実践的トレーニングの役割を担う[12]

ブリッセ報告の含意は、19世紀以来の「神経精神医学(neuropsychiatrie)」という統合カテゴリーの解体である。フランスにおいて、戦前から戦後初期にかけて、精神科医はしばしば神経精神科医として養成され、神経学とのダブル資格を持っていた。これが、精神科の専門医養成において神経学が優位を占める構造を生み、純粋な精神医学的養成の不足を招いていた。エーは白書編纂を通じて、神経学と精神医学の制度的分離と、それぞれの独自の養成体系の確立を強く主張した。この方向性は1968年以降の精神医学アグレガシオン制度の整備として実現していくことになる。

6.4 1967年——フランス精神科医組合の設立とエーの会長就任

白書事業と並行して、1967年5月、フランス精神科医組合(Syndicat des Psychiatres Français)が発足した——「白書の諸会合とその成功によって自覚された職業的防衛のために」[12][31]。組合の目的は、フランスの精神科医全員を結集し、自分たちの職業を守ることにあった。それまで、公的機関への助言は、大学の神経精神医学団体や、神経学・神経外科・脳波学・神経生理学などを集めた神経専門家組合を通じて間接的に行われていたが、これらはアジール(asile)の精神科医の大部分を代表していなかった。エーは、純粋に精神医学の利益を代表する組合の必要性を訴えた。

ドムス・メディカで開かれた第1回総会において、「カンメラー(Théophile Kammerer)が短期間会長職を務めたのち、アンリ・エーが会長に選出された。それはほとんど自明のことと見えた」[12]。ただしエーがこの時期に率いた組合が、いま発足したフランス精神科医組合なのか、それとも病院精神科医の組合(Syndicat des médecins des hôpitaux psychiatriques、1945年創設。のちの Syndicat des psychiatres des hôpitaux)なのかは、クレルヴォアの叙述からは一義に定まらない。1969年のブーラン保健大臣宛書簡でエー自身が「われらが組合が唯一かつほぼ全員一致の代表者である700名の精神病院医師の名において」と署名し、クレルヴォアも別の箇所で彼を端的に「Président du Syndicat des Médecins des Hôpitaux Psychiatriques」と呼んでいることからすれば、以下に記す闘いの主体は病院精神科医の組合と解するのが整合的である[31]。組合長として、エーは以下の改革を推進した——精神科医の地位向上、報酬の改善、「精神病院(asile d’aliénés)」から「精神科病院(hôpital psychiatrique)」への正式名称変更[33]、労働条件の改善。これらの改革は、第五章 5.7 で論じたシャバン=デルマス首相宛書簡の背景を構成している。

6.5 「ル・ミリオン」——精神科医報酬の改善

組合活動の最初の具体的成果が、病院精神科医の報酬改善である。改革以前、アジールの精神科医の基本報酬は、個人開業医の4分の1にすぎなかった。組合活動の結果、当時平均で年間約2万フランであった基本給に、年間1万フランの補足給が上乗せされた。この暫定的な50%増が「ル・ミリオン(Le Million)」と通称されたものである[12]。クレルヴォアによれば、「この手当を受け取った者は皆、間接的にアンリ・エーがこの手当を獲得してくれたおかげであることを知っていた」[12]。エーの闘士としての一面は、こうした具体的待遇改善の闘いをも含んでいた。

しかしこの恩恵は一時的なものに過ぎず、精神科医の地位は完全には回復されなかった。社会省は組合を支持していたが、財務省はその動きを妨害し、社会保障基金は手当の支給停止を脅かした。地域によっては補償手当の支給が停止された。組合は象徴的な行政ストを組織し、入院証明書(certificat d’entrée)と状況証明書(certificat de situation)の作成を拒否した。精神科医は、毎年行われる医師大会の選考に参加することを拒否した[12]。1969年の無期限ストライキ(第五章 5.7)は、こうした断続的な抵抗運動の頂点であった。

6.6 1967年6月——第3回「精神医学の日」とエーの議長役

1967年6月3-4日、エーが精神医学進化(L’Évolution Psychiatrique)グループの事務局長として議長を務める第3回「精神医学の日」がパリで開催された[12]。この会合では、国のニーズと精神科医の養成数の問題(エンヌ)、公的精神医学と私的精神医学の関係(ブリッセ)、小児神経精神医学を再編成するための基礎(ミセス)、精神科医を養成する問題(カンメラー)、精神科医を養成するために利用可能な選択肢(グリーン)、医師の心理学的・精神医学的訓練(ジェンドロ)など、戦後改革の主要論点が継続的に検討された。1965年白書の集合的編纂事業は、1967年「精神医学の日」を通じて継続的な討論プロセスとして展開し、1960年代後半のエーの闘士的活動の知的中心を構成したのである。

第七章 制度的完成と国際的闘い(1971-1990)

7.1 1971年世界精神医学会メキシコ大会——動議の起草

1970年、エーは哲学者ガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel)から、ソ連の精神科病院に収容されているソ連知識人の劇的な状況について警告を受けた。それは内務省直属の特別施設における、政治的反対派への精神医学的拘禁という事態であった[12]。冷戦下のソ連において、ヴラジーミル・ブコフスキー(Vladimir Bukovsky)の調査文書、レオニード・プリオシュッチ(Leonid Plyushch)事件、ヴラジーミル・ボリソフ(Vladimir Borisov)事件などを通じて、精神医学的診断(とりわけ Andrei Snezhnevsky 系の「緩慢分裂病」概念)が政治的拘禁の道具として使用されていることが、徐々に西側に伝わりつつあった。

1971年初め、エーは世界精神医学会(World Psychiatric Association, WPA)の総会に提出するための動議を起草した[12]。動議は三項からなる。第一項——「世界精神医学会は、政治的イデオロギーに触発された反精神医学的抗議キャンペーンが、精神医学に社会的抑圧の道具という、本来の役割ではない役割を担わせる危険性を糾弾する」。第二項——「世界精神医学会は、精神医学が精神疾患の予防と治療に応用される医学の主要な一分野であり、またそうであることしかありえないことを主張し、精神医学の本質的な医学的性格と、精神医学の行為と施設の専ら治療的利用について、各会員、世論、各国政府の注意を喚起するよう、すべての加盟学会に明示的に勧告する」。第三項——「世界精神医学会は、精神医学の実践に特有の概念、方法、制度を、精神障害者の利益以外の目的に、すなわち政治的に利用することを非難する」[12]

動議の構造は周到である。第一項は反精神医学運動(本論文ではフーコー批判の別稿[26]で扱う)への警戒を表明することで、第三項のソ連精神医学批判に対する西側からの「冷戦的偏向」批判を予防する。すなわち、エーは反精神医学運動とソ連政治的拘禁を、いずれも「精神医学を本来の医療的役割から逸脱させる」二つの極として等距離に批判する立場を取ったのである。これはエーの理論的・倫理的厳密性の表れである。

7.2 メキシコシティ大会での否決とエーの退会

エーはこの動議を1971年11月にメキシコシティで開催されるWPA大会に提出するため、自ら「南米」へ赴いた[32]。大会議長を務めるスペイン人の長年の友人ロペス=イボル(López Ibor)の支持を期待してのことであった[12]。しかし総会は、ソ連代表団の離脱を恐れてこの動議を否決した。

クレルヴォアの描写によれば、「アンリ・エーは、道徳的な臆病とまではいかなくとも、後退した一歩と見なしたことに憤慨し、20年ほど前に創設した組織は、もはや自分の『高邁な道徳的責任』を行使するに値しないと考え、退会した」[12]。エーは1961年から1967年までWPAの事務局長を務めた人物であり、1971年メキシコでの動議否決とそれに続く退会は、彼の国際的地位の自発的放棄を意味した。動議の倫理的内容は、政治的便宜よりも重要である——これがエーの選択であった。

エーは、彼とともにメキシコに来ていたフランスの精神科医たちから支持されるだろうと考えていた。しかし、「精神医学進化」のメンバーが、事前に承認されていると思っていた動議について(会員間の)票決を組織するとは思っていなかった[12]。すなわち、メキシコでの孤立は、ソ連代表団の影響だけでなく、フランス代表団内部の動揺にも一因があった。エーの倫理的厳格性は、フランス精神医学界の内部においても全面的に共有されてはいなかったのである。

7.3 1975年——ダイナミック協会総会での再確認

1971年メキシコでの挫折の後、エーは1975年11月、ダイナミック協会(Association dynamique de psychiatres)総会において、シリル・クペルニク(Cyrille Koupernik)の議長下で再び立場を表明した[12]。エーはメキシコシティで否決された動議の主旨を繰り返したが、重要な留保を付した——精神科医として、有効な精神医学的診断を裏付ける徹底的な臨床検査なしに、抑留の個々の事例を糾弾することは不可能である、と。

この留保は、エーの方法論的厳格性を示している。彼は恣意的な抑留に対する抗議行動に参加することを常に拒否してきたが、それは抗議内容への反対ではなく、「個別事例の正当性を個人的に評価する立場になかった」ことを理由とするものであった[12]。したがってエーが主張したのは、「公的で厳粛な行動を通して、精神科医が自ら議論を起こすべきだ」ということであり、前回のWPAでの彼の主導的行動こそが、その模範であった。

この討論会には、ドメゾン、ボナフェをはじめとする多くの精神科医が参加した。彼らはフランスにおける「精神異常者」の組織的な抑留を非難し、自分たちの見解では、この抑留も同様にスキャンダラスな抑圧の一形態であると強調した[12]。特に言及されたのは、裁判所によって無責任と宣告された後、本人の意思に反して収容された非行精神症者のケースである。すなわち、フランス国内における1838年法体制下の強制収容と、ソ連における政治的拘禁とが、構造的に同種の問題として認識されることになった。本論文第五章で扱った1838年法廃止運動が、この国内的対応の延長線上にある。

7.4 1977年——プリオシュッチ事件・ボリソフ事件と最後の闘い

1970年代後半、ソ連における精神医学的拘禁の個別事例が、フランス精神医学界の関心を集めるようになった。レオニード・プリオシュッチは1972年1月に逮捕され、モスクワのセルブスキー研究所で行われた二回の精神科検診で、「救世主主義的」「改革主義的」思想を伴う潜在性統合失調症と結論づけられた。彼はドニエプロペトロウシクの特別精神病院(ソ連の спецпсихбольница)に収容され、神経弛緩剤投与とインスリンによる昏睡状態を繰り返すなどの強制的治療を「宣告」された[12]。クペルニクは、プリオシュッチに対する手続きは、フランスの1838年法の体制に匹敵するような強制収容ではなく、裁判所の命令によるものであったことを指摘した。

同じ頃、ボリソフ事件もフランスの精神科医の関心を集め、シャルル・ブリッセ、シャルル・デュラン(Charles Durand)、ガストン・フェルディエール(Gaston Ferdière)、シリル・クペルニクらによるグループが結成され、抑留中の反体制派に面会した[12]。彼らの立ち会いのもと、3度目の抑留を受けたボリソフを治療していた精神科医は、面会に来た妻の質問に次のように答えた——「彼は我々のリストに載っている。普通の人ならただの意見にすぎないことが、ご主人の病気の症状なのです」[12]。ティモフェーエフ(Timofeev)教授の声明にあるように、「異論は、発病が非常に遅く目立たない大脳の病気によって引き起こされる可能性があり、他の症状は自覚できない」。「異論を病気の症状とする」という公式医学的言説の存在が、ソ連精神医学の政治的利用の核心であった。

7.5 1977年8月——バニュルス・デル・アスプレでの「最後の散歩」

1977年夏、シャルル・デュランは2度目の心臓発作から回復した友人エーを見舞うため、エーの故郷バニュルス・デル・アスプレ(Banyuls-dels-Aspres、カタルーニャ国境近くの村)を訪れた。クレルヴォアが伝えるエピソードは、本論文全体の中で最も印象的な情景の一つである。「アンリ・エーは、絶対安静を勧める医学的アドバイスには無頓着で、友人を連れてブドウ畑を散歩した。その途中、彼は小さな村の下にある墓地に彼を連れて行った。『シャルル、僕の人生はここで終わるんだ。〔……〕もし私が知恵を振り絞って死ねるなら、不幸になる必要はない』」[12]。「知恵を振り絞って死ぬ」とは、脳を損傷して逝った友人ピエール・マールの死を念頭に置いた言葉である。

カタルーニャの祖先の地に戻ったエーは、自らの死を予感していた。長年の友人ピエール・マール(Pierre Mâle)の脳損傷による死を意識しつつ、「知恵を振り絞って死ねるなら、不幸になる必要はない」と語ったエーの言葉は、1900年カタルーニャ系カトリック農家に生まれ、77年にわたる精神医学者としての生涯を、フランス精神医療改革への奉仕に捧げた者の、静かな精神的覚悟を示している。

7.6 1977年8月末——ホノルル大会での最後の勝利

1977年8月末、シャルル・デュランは WPA ホノルル大会に向かった。彼は6年前にエーが起草した動議を再び提出した[12]。今回、状況は変わっていた。プリオシュッチ事件、ボリソフ事件などを通じて、ソ連の精神医学的拘禁の実態が西側に広く認識されており、各国代表団の意見も成熟していた。動議はわずか2票差で可決された。

クレルヴォアの言葉を借りれば、「老ライオンは去ることができた。彼はついにこの最後の戦いに勝利したのだ」[12]。1971年メキシコでの孤立した動議提出から6年、エーの倫理的厳格性が、国際精神医学界の集合的意志として最終的に承認された瞬間である。1977年ホノルル動議は、その後の国際精神医学倫理規範(マドリッド宣言1996年など)の出発点となり、政治的目的のための精神医学的拘禁を国際的に違法化する制度的基盤を提供した。

アンリ・エーは、ホノルル大会の数か月後、1977年に死去した。彼の人生の最後の闘いの勝利は、彼自身が見届けることなく、しかし彼の起草した動議の形で、後世に残された。

7.7 1985年セクトリザシオン法——25年遅れの法制化

エーの死後、フランス精神医療の制度的完成は段階的に進められた。1985年12月31日法(loi du 31 décembre 1985)が、ようやくセクトリザシオンを正式に法制化した[27]。これは、1960年3月15日通達によるセクツール政策の発足から25年後のことである。本論文第四章 4.4 および第九章 9.5 で論じたように、ジャック・ポステルはこの25年遅れの法制化を皮肉に表現している——「1955年から1960年にかけて練り上げられたこの政策は、1985年まで法制化を待たなければならなかった——こっそりと、そして何という代価を払って!」[7]

1985年法は、それまで通達群によって実装されてきた制度を法的に追認するものであり、根本的な革新を含むものではなかった。しかし、行政文書から法律への昇格は、セクツール制の制度的安定性を初めて確立した。これに続き、1986 年 3 月 14 日のデクレ(décret n° 86-602)とアレテが、1985 年法のもとでセクトリザシオンの組織を具体化した。さらに 1990 年 3 月 14 日通達「精神保健政策の方向づけ(orientations de la politique de santé mentale)」が、医療を超えた予防・促進・地域支援へと射程を広げ、「santé mentale(精神保健)」概念をセクツール制の枠組みに正面から導入した。

7.8 闘士エーの遺産——1838年法体制からセクツール制への構造転換の完成

1990年6月27日法(本論文第五章 5.8)と1985年12月31日法は、ともにエーの死後に成立した。1990年法が1838年法を正式に廃止し自由入院原則を確立したこと、1985年法がセクトリザシオンを正式に法制化したこと——この二つの立法事件は、エーが1945年から始めた45年にわたる闘いの制度的完成である。

本論文第一章から第七章までの歴史叙述は、エーを中心とする闘士たちの長期にわたる闘争を再構成してきた。第八章はマッセ=ウッサンに基づき、1980年代における制度的到達点を示した。第九章はポステルに基づき、この構造転換が神経薬理学革命ではなく制度政治的闘争によって達成されたことを論証した。ここで本論文は、エスキロールが構築した1838年法体制(先行論文「エスキロールと1838年法」[1])の最終的解体と、セクツール制を主軸とする新しいフランス精神医療体制の確立という、一世紀半にわたる構造転換の全体像を提示しえたことになる。

結論章では、本論文の二つの主軸——成立前期の政治闘争の詳細と、実施後も維持された制度的緊張——について総括する。

第八章 マッセ=ウッサンによる現代フランスのセクツール制度

本章では、マッセとウッサンによるフランス精神医療体制論[2]の第4章「治療形態(Les formes du traitement)」に基づき、セクツール制の制度的構造を四つの柱——医療=社会チーム、家庭での対応、病院外組織、入院業務——に沿って整理する。マッセとウッサンの記述は1970年代後半から1980年代にかけてのフランス精神医療を対象とするものであり、第一〜七章で論じた構造転換の到達点としての制度状況を提示するものである。1960年3月15日通達以降に蓄積された一連の通達群と、その下で形成された医療実践の実態が、本章の検討対象となる。

8.1 医療=社会チーム(L’équipe médico-sociale)

マッセとウッサンは、本章の冒頭をオーディシオ(M. Audisio)の以下の言葉によって開始する。すなわち、「精神医学は危機的状況にあると言われたことがある。これは科学として危機的状況にあるということではない。〔……〕すでに1世紀も前から、当時の社会—政治的ならびに文化的状況を考えに入れた入院体制の確立が見込まれていた。今日においても、精神科医達は、精神科薬物療法の発展によってもたらされた結果を利用できる状況になっても、社会的ならびに精神療法的な次元に関わる事柄も重要視している。それゆえ、精神医学は方法論的な危機的状況にあると言えるのである」。[2]

この方法論的危機への応答としてセクツール制は構想された。その実質は「医療=社会チーム」という新しい職業的単位の創出にある。1972年3月14日通達の付帯条項1において、「小区域精神科医療チーム」という用語は、しばしば実情とは極めてかけ離れた理想的なものを指すために使われている用語であると明記されている[30]。医療チームの構成形態は一義的に明示しえない。それは、各地域の小区域の広がり、人口密度と分布、県の一般医療状況、施設内の慢性患者比重、医師の教育的機能、看護指導力の差異等によって、それぞれに対応せざるをえないからである。

基本的な構成として、成人精神科の医療=社会チームは医師、看護婦、ケースワーカー、心理職の四職種を含む。児童精神医学のセクツール(intersecteur)では、これに教師や特別再教育係などの専門職が加わる。1974年通達は重要な原則を導入した。すなわち、医学的ならびにパラメディカルな人材の配置密度は入院病床数によるのではなく、入院の有無とは無関係に小区域の範囲内で治療を必要とする患者の総数に比例して決められる、という原則である。これがセクツール制特有の概念である「活動的隊列(file active)」である[2]。すなわち、入院床ではなく、地域内で精神医療を必要とする住民の総数こそがチーム規模を規定する。これは1838年法体制下での精神病院床数中心の発想からの根本的な転換を意味する。

1974年通達はさらに、チーム配備密度を決定する三要因として、(1) 活動の場の再編成・分布状況、(2) 公立および私立の施設の質と分布状況、(3) 精神科医や精神科医療チームの関与を求められる他施設(老人施設等)の数、を挙げている。チーム運営は次の四つの機能を含む。すなわち、(1) 医療チームの医長と副医長、(2) 三、四名の医師団、(3) 介護のための看護婦と看護人、特別再教育係、(4) チームの庶務を担う書記、である[2]

マッセとウッサンは、このようなチーム編成が当初から円滑に機能しえなかったことを率直に指摘する。「あらかじめ定義された枠の中で真の治療的チームを作り上げることは到底なし得るものではないということがわかる。一緒に仕事する人々は必ず双方向のチームを徐々に作っていくのである」[2]。これは、セクツール制の制度的枠組みが、それを担う職業集団の文化的形成と並行してしか実現されえないという、本質的な制約を示唆している。

8.2 家庭での対応(La famille)

マッセとウッサンは家庭での対応の節をル・ギオン(L. Le Guion)の挑発的な言葉で開く。「しかしながら、錯乱状態にあったり、幻覚や、「迫害性」の妄想をもっていたり、重篤な性格障害を示している患者を診察室だけで待っているというのは、全く馬鹿げている」[2]。診察室を待ち続ける精神医療から、患者の生活圏に出向く精神医療へ——これがセクツール制が体現する根本的な姿勢転換である。

家庭での対応は二つの形態をとる。家庭訪問と、家庭を入院状況と同等に扱うことである。Ph. ポメル(Ph. Pomel)によれば、「習慣的な生活環境の中で、患者とその近親者の間の特異的な環境の中に現れる第三者、すなわち医療チームの存在が重要となる。介護の必要性がはっきりとしているにも関わらず、それが受けられない患者は、沈黙している場合であれ、自己表現できる場合であれ、実際には医療チームを必要とし、以前から知っている介護者のもとに戻ってくるものである」[2]。患者の沈黙ないし非協力は、しばしば過去の不適切な医療体験への防衛反応であり、それを乗り越えるためには医療チームが患者の生活空間に入って継続的接触を保つほかない。

家庭での対応は、通常、医師、ソーシャル・ケースワーカー、看護婦の三職種によってなされる。マッセとウッサンは、医師の家庭訪問が不要であるという議論を退ける。「医者がいつも参加しなくてもよいという議論が、この領域の中立性を保つために主張されるが、われわれには説得力があるとは思えない」[2]。精神科医療チームでの経験において、各職種は相互補完的に機能する。当初は数回の訪問を医師が行い、その後は社会福祉上の問題や身体的問題に応じてケースワーカーや看護婦が訪問する、という分担が標準的である。

D. トリスラン(D. Trislan)が指摘するように、家庭訪問の実態は単純な「住居訪問」にとどまらない。患者と廊下やスーパーマーケットで会うことを何と呼ぶか、精神医療に関係した特定の場所で会うことに抵抗をもつ家族と多機能小社会福祉センターで会うことを何と呼ぶか——こうした境界事例こそが、セクツール制下での「家庭での対応」の実質を構成する[2]

マッセとウッサンは、接触を保つための家庭訪問・住居介入を三類型に整理する。第一は、精神障害を疑わせる行動異常を示す患者をめぐる介入である。周囲の人々は警察や市町村の下部担当局に連絡することがあり、しばしば両価的感情からの密告という形をとる。第二は、精神科非専属の社会機関を利用している患者をめぐる介入である。若い患者は社会復帰や仕事の問題、老年患者は家庭内の世話の問題を抱える。第三は、患者の家族環境が困難に陥っている場合である[2]

家庭訪問が必要となるケースとして、(1) 治療必要性が予想されるケース、(2) 病院での治療と退院後の自宅での経過観察を含むケース、(3) 老人や身体疾患のため移送不可能なケース、が挙げられる。緊急介入を要する場合としては、(1) 身体的状態の急変、(2) 緊急対応を要する急性精神病的状態、(3) 自他害行為に発展しうる重症の行動障害、がある。マッセとウッサンは、家族の要請の前に、まず患者の最後に述べた意向を尊重し、勝手な行動への移行を防止するよう注意を促している[2]

家庭療法については、Hochmann グループのシステミック・アプローチがパロ・アルト派の影響下で発展していることが言及される。家族治療は、家族間のコミュニケーションと人間関係の根本にあるものとして、患者の社会復帰計画の有機的部分となる。これが「集団的水準」での治療概念である[2]。さらに、ネットワークに基づく対応(Speck/Ruveni のアメリカ的ケースワーク)は、家族環境を超えた相互関係の組み替えに直接働きかける新しい方法として紹介される。

8.3 病院外組織(L’extra-hospitalier)

G. バイヨン(G. Baillon)の言葉が、この節の指針を示す。「12人前後の患者数が、治療の統一性を保つ上で、治療者の潜在能力を最もよく発揮できると考える」[2]。病院外組織の本質は、医療チームの規模を「治療の継続性が確保される単位」に保つことにある。これは大規模病棟の論理とは対照的な、小集団的・継続的ケアの論理である。

病院外組織は、中核的組織を中心に、その周囲で互いに連結する形で構成される。この中核は一般に精神科無料診療所(centre médico-psychologique, CMP)あるいは「受け入れセンター」と呼ばれ、(1) 様々な診療・相談の場とグループ活動の場、(2) 社会福祉業務部の設置場所、(3) 救急時の治療の場、という三機能を併せ持つ[2]

8.3.1 精神科無料診療所(CMP)

1960年3月15日通達は、CMPの整備について以下を要求する。県庁所在地には精神衛生センターをあらかじめ備える必要があり、それは独立して設置されてもよいが、多機能をもったCMPの中に設置されることが望ましい。人口2万人以上の都市にはすべて、多機能を有するCMPが1か所は設置されなければならない。人口密度の低い県においては、人口1万人以上の大きな人口集積地域や町村に、精神衛生センターをもったCMPか、あるいは多機能をもったCMPの中に担当専門課が設置されなければならない[3]。最後に、診察は頻度の差はあるにせよ、どこかの市町村でなされることが保証されていなければならない。

1974年5月9日通達は、新たな設置形態として以下を許容する。(1) 地域病院の建物の中、(2) アパートの中での設置(電話、秘書、慢性患者の小グループ、限られた時間内の治療)[4]。マッセとウッサンの観察によれば、現実のCMPは場所により大きな差がある。「場所も広くて毎日開いており、週日は午後9時までと土曜日の診察もできるようになっているような、本当の意味でのCMPもあれば、地方の行政機関の中に設置された3室宛ぐらいしかないような類のものや、市庁舎の中に置かれていることが一番多い多機能をもったCMPのようなものもある」[2]。J. ハックマン(J. Hachmann)はヴィルジュイフの小区域精神科医療チームについて、この制度の運用形態の一例として報告している。

8.3.2 デイホスピタル

デイホスピタル(hôpital de jour)あるいは中間的な治療組織は、入院せずに治療を行うことが基本的な目的であるような場所として定義される。社会的・経済的観点に従って、患者は夜間は家族の住居で過ごす[2]。精神医学的には、このような過程を踏むのは大部分が統合失調症患者であり、急性的な状態の人々の治療の一環としてこの制度は利用される。それゆえ、これは入院治療と外来治療との中間的な場所なのである。このような臨界状況においては、医療の安全保障とパッセージの確実性が必要となる。

当初、デイホスピタルは入院治療の延長として捉えられていたが、近年では病院外で生活する可能性が不確定な状態の患者を対象として、より積極的な治療目標が設定されるようになった。簡単な意思表現の仕事、手作業、料理の調理等を組織化して継続することで、家庭との間で深い信頼関係を再構築することが目指される[2]

8.3.3 治療共同体的アパート・クラブ・保護ホテル

セクツール制の病院外組織は、CMPとデイホスピタルに加えて、治療共同体的アパート、クラブ、保護ホテル、作業所等を含む。これらは、入院から地域生活への漸進的移行を可能にする一連の中間施設である。実際の運営においては、地域病院内、独立アパート内、市庁舎内等、様々な形態が並行している。

8.4 入院業務(L’hôpital)

マッセとウッサンは入院業務の節を E. トリヤ(E. Trillat)からの引用で始める。「すべての収容は専断的なものであり、すべての退院は時期尚早になされるものである」[2]。これは入院業務に内在する根本的な逆説の指摘である。セクツール制が病院外組織を発展させたとしても、入院の原則的な適応は依然として存続する。

マッセとウッサンは、入院が必要となる三つの理由を以下のように整理する。(1) より正確な診断的接近を必要とし、医療的・保護的な環境の中で治療をはるかに有効な軌道に乗せる必要性がある時、(2) 障害に対してあまりにも受容的すぎる周囲の人々から患者を隔離する唯一の方法として、(3) 患者が自分自身を傷つける(自殺)危険性がある時や、他人に対しても危険な場合[2]

1974年3月9日通達は、入院業務の構造化について明確な指針を示した。「現行の精神病院の病床数の増加はもはや黙認されることができない。〔……〕入院業務は25床の単位で組織化されていなければならず、この中には十分な数の個室を含む必要がある。共同寝室はともかく廃止されなければならない」[5]。これは、19世紀以来の大規模病棟主義からの明確な決別を意味する。同通達はさらに、「集中的なケアのための小規模治療単位を設置する機会について検討するように提起されている。この治療単位は時に応じて閉鎖してもよい」と規定し、必要に応じて閉鎖治療単位を設けることを認めた。これは1950年6月5日通達第109号に規定されたカテゴリー3の患者(対応困難な患者、強制入院を要する症例)への対応を可能にするためである[2]

マッセとウッサンの示す統計は、1970年代を通じてのセクツール制の効果を端的に示している。

区分1970年1978年
入院患者数120,000104,000
院外通院患者数169,000269,000
退院患者数166,000270,000

このデータは、セクツール制下のフランス精神医療において、入院患者数が漸減する一方で、院外通院患者数と退院患者数がほぼ倍増していることを示す。すなわち、医療提供は閉鎖空間から地域空間へと重心を移動させたのである。ただし、マッセとウッサンは「入院の領域での改善は緩やかなものである。すなわち、12万人のうち5万人は依然として旧来のままであるからである」と冷静に指摘する[2]。1838年法体制下で形成された大規模精神病院の構造的慣性は、容易には克服されえない。

マッセとウッサンが提起する根本的な問いは、「精神病院は破壊すべきものであるか」というイタリア・バザーリア派的な問いに対する応答である。彼らの回答は明確であり、精神病院の単純な破壊ではなく、その内部にセクツール制を発展させることが重要であるとされる。「精神病院の業務は、小区域精神医療チームに分け与えることができ、そうでない場合は本来の振り分けのみの場として機能しているような実態にであってはならない」[5]。1960年3月15日通達以来、病院の床における運営化された精神医療と重なる部分の発展が認められるようになってきた。1961年1月18日通達では、病院の管理委員会は、精神科の分野に対して当該の権限を発揮するように呼び掛けている[6]

マッセとウッサンは、コルマンの主張を引きながら、地理的に隔離された精神病院の建設を中止し、病院の中に精神科の分野を設けるべきだとする立場を支持する。フランスにおいて緩やかな進展が認められる。新しい施設は徐々に増加しているが、旧来の大規模精神病院の解体には至っていない。「総合病院の入院床」と「精神病院の入院床」の比率は、1966年の段階では精神病院がなお圧倒的多数を占めていたが、漸進的に総合病院内精神科の比重が増しつつある[2]

マッセとウッサンが結論として示すのは、セクツール制下の入院業務が、(1) 近年の若年患者の予後改善、(2) 看護婦と看護人の人員構成、(3) 老人や小児精神科患者を含む明確な配備、(4) 各精神科施設の地域社会化、(5) 危険な患者・特別治療を要する患者への治療体制、という五点において継続的改善を要するという認識である[2]。J. ホックマン(J. Hochmann)が断じるところに従えば、「精神科医は、その仕事のすべてにおいて、病的な対象を操作する技術者と、精神科医の信用の場合に人に関わるものとの間にあるのである」[2]。これは、セクツール制が精神科医の自己理解そのものを問い直す制度であることを示している。

第九章 神経遮断薬かセクツール政策か——ポステルの歴史的評価

20世紀後半のフランス精神医療において、精神病院の人口が漸減し、患者が「地域社会へと戻る」という構造転換が生じたことは、誰もが認める事実である。しかし、この転換を何が引き起こしたのか——という問いに対しては、互いに排他的な二つの説明が並立している。一方は、1952年のラルガクチル(クロルプロマジン)登場に始まる神経薬理学革命に決定的役割を帰す。他方は、1955-1960年に練り上げられ1960年通達によって発足したセクツール政策に決定的役割を帰す。前者を「神経薬理学的説明」、後者を「制度政治的説明」と呼ぶことができる。

歴史家ジャック・ポステル(Jacques Postel)は『Éléments pour une histoire de la psychiatrie occidentale』(L’Harmattan, 2007)所収の「神経遮断薬とセクツール実践それぞれの役割(Rôles respectifs des neuroleptiques et de la pratique de secteur)」[7]において、両説明の対立を歴史的データに基づいて検討し、神経薬理学的説明の単独性を退け、制度政治的説明の優位を論証した。本章は、その論証を整理し、本論文全体の主題——1838年法体制からセクツール制への構造転換が何によって担われたか——への中心的回答とする。

9.1 1952年ラルガクチル登場の歴史的事実

クロルプロマジン(商品名ラルガクチル)の精神科臨床への導入は、1952年のジャン・ドレー、ピエール・ドニケル、J.M. アルル(Delay, Deniker, Harl)による『Annales médico-psychologiques』誌掲載論文に始まる[8]。しかしポステルが強調するのは、この導入が後の公式版とは大きく異なる経緯をたどったという事実である。クロルプロマジンはもともと抗ヒスタミン剤として開発され、その危険な副作用ゆえに最初の実験者たちから拒絶された薬物であった[7]。一部の精神科医がこの「拒絶された抗ヒスタミン剤」に関心を持ったのは、まさにその副作用——患者を「鎮静化」する作用——に着目したからであった。

クロルプロマジンの作用機序についての理論は当初混迷していた。神経節遮断作用から、より拡散的な神経抑制作用、さらには機序の定かでない「神経遮断薬(neuroleptique)」効果へと、説明モデルは次々と移行した。「神経遮断薬」という用語そのものが、Delay と Deniker によって1955年に造語されたものである[7]。すなわち、この薬剤が登場した時点では、その薬理学的本性は十分には理解されておらず、後にこの薬剤を中心として再編される説明枠組み自体が、薬剤導入と並行して形成されていったのである。

ラルガクチルの使用拡大は急速であった。1952年に428グラムであった消費量は、1957年には2トン以上に達した[7]。Nozinan、Tementil、Majeptil、Piportil(以上 Rhône-Poulenc)、Melleril(Sandoz)、Haloperidol(Janssen、新クラスであるブチロフェノン系の最初)、Dogmatil(Delagrange)など、類似作用薬が次々と市場投入された。これらは、Delay と Deniker が「神経遮断薬」を特徴づける五基準として提示したものに概ね合致する形で位置づけられた[28]

ポステルは、ラルガクチル導入後の病棟の変化を皮肉な比喩で言い表す。「『鎖』はこうして見えないものとなり、aliéné の身体の内部そのものに固定された」[7]。物理的拘束の消滅と化学的鎮静の内面化とを重ね合わせる指摘である。

9.2 入院患者数の推移——「神経薬理学が病院を空にした」テーゼの反証

ポステルが提示する歴史的データは、神経薬理学的説明に対する決定的な反証である。1952年のラルガクチル登場以降、その後の12年間において、精神科施設における入院患者数の減少は観察されない。むしろ逆である。「入院患者数は旧セーヌ県では1965年まで、ある地方の県では1967年まで、つまりDelay、Deniker、Harl の最初の発表から15年後まで増加し続けた」[7]。クレルモン=ド=ロワーズでは、この時期に患者数が4000人を超えていた。

もし神経薬理学が単独で精神病院を空にしうるのであれば、ラルガクチル使用量の急増(1952年428g → 1957年2t)と並行して入院患者数の減少が観察されるはずである。しかし現実には逆であった。すなわち、神経遮断薬は——少なくとも単独では——精神病院を空にする力を持たなかった。

のみならず、神経遮断薬の臨床効果そのものについても、批判的検討が早期から積み重ねられていた。1959年、バルヴェ(Balvet)は高用量神経遮断薬の使用が患者に「受動性症候群(syndrome de passivité)」を引き起こすことを警告した[7]。J. オリー(J. Oury)と J.M. ミュヤール(J.M. Muyard)は、精神薬理学が制度的生活に与える影響を研究し、「向精神薬の活動閾値(seuils d’activité des psychotropes)」が制度的パラメータに依存することを明らかにした。彼らの研究は、神経遮断薬単独では慢性精神病患者を治癒させえないことを示し、しばしば高用量処方が逆に慢性化要因となることを指摘した[7]

ポステルの結論は明快である。神経遮断薬は、それ単独では精神病院を空にしえなかった。それを可能にしたのは、神経薬理学ではなく、別の歴史的動因——セクツール政策——であった。

9.3 セクツール政策の系譜と理論的形成

セクツール政策の歴史的源流は、ポステルによれば、神経薬理学の登場よりはるかに遡る。1896年、マランドン・ド・モンティエル(Marandon de Montyel)はすでに以下のように予言していた。「革命は私たちの戸口で響いているが、私たちはそれを疑っていないように見える……それはついに私たちの兵営的な精神病院と、私たちの呪わしい隔離方法を一掃するだろう。私たちの現在の精神病院は、私たちが患者に課している隔離によって、不治者を製造する工場である」[7]。19世紀末においてすでに、1838年法体制下の精神病院は「治癒させない」のみならず「慢性化させる」と認識されていた。英国人が1870年に記述した「asylum dementia(精神病院認知症)」もまた、この認識を裏付けるものであった。

こうした認識を受けて、フランスでは1890年に Dun-sur-Auron(A. マリー)、続いて Ainay-le-Château に家族コロニーが開設された。1900年には Grenoble の Bonnet 医師が Isère 県の分散村落に新しいタイプの家族収容を構想した。1922年、É. Toulouse がサンタンヌの周辺に最初の自由入院サービス Henri Rousselle 病院と外来診療のための無料診療所を開設した[7]。これらは、1838年法体制への内部からの漸進的修正の試みであった。

もっとも、こうした前史が散発的な試みにとどまったのに対し、精神病院の本格的な開放は第二次大戦後を待たねばならなかった。その戦後の系譜——占領下サンタルバンの施設内精神療法(バルヴェ、ボナフェ、トスケル)、解放直後のCTRS三大実験(シヴァドンのヴィル・エヴラール、エーのボンヌヴァル、ル・ギヤンのヴィルジュイフ)、そして1955年頃のセクツール教義の精緻化からデュシェーヌの1959年トゥール報告、ミニョーによる定義へ——は、本論文第二章から第三章ですでに辿ったとおりであり、ポステルの叙述もこれと軌を一にする。ここで確認すべき要点は一つである。すなわちセクツール思想の系譜は、19世紀末の批判から戦後CTRSと1959年の教義化に至るまで、1952年の神経薬理学革命とは独立に、しかもそれに先行して形成されていたという事実である[7]

9.4 制度的展開——通達群と地域実験

この系譜が制度へと翻訳される過程——隔離を「精神障害者に対する社会の原始的な行動」と断じたドメゾン=ボナフェの批判、人口七万人を上限とする医療=社会チームの原則、1960年から1974年にかけての一連の通達、それを省内で推進したオージャル=ジャン=マムレの行政的働き、そして1972年の児童精神医学インターセクトゥールの創設——は、本論文第三章 3.5 および第四章で詳述した[7]。ポステルもこれらを政策実装の要として記録している。

このセクツール実践の最良の例として、ポステルは具体的な地域実験を列挙する。シャンベリー=バサンス(Lambert, Vermorel)、パリ13区(Paumelle)、ラ・ロッシュ=シュル=ヨン(Pennée, M. & N. Horassius)、リヨン(Hochmann グループ)、Seine-Maritime(Audisio)、Roanne(Berthelier)、Corbeil(フランス精神科セクトリザシオンの先駆者の一人 L. ボナフェ)、Champigny-sur-Marne(UDSM の枠組みでの G. Amado)[7]。これらの地域実験こそが、セクツール制を抽象的政策から現実的医療実践へと転換させた具体的担い手であった。

結果は明確である。1965年以降、精神病院は漸進的に「混雑を解消(se désencombrer)」し始めた。サンタンヌのような中央病院では、15年間で精神病患者人口が1500人から800人へと減少した[7]。1960年以降に新設された一部の病院は満床になることがなかった。WHOが当初保持していた人口千人あたり3床の規範は、1床、さらにそれ以下にまで降下しえた。これは、神経薬理学の発見そのものではなく、神経薬理学を含みつつそれを超えるセクツール政策の実装が、1838年法体制下の大規模収容モデルを内側から崩壊させたことを示している。

9.5 「flikiatrie」の警戒と1985年法の困難

ポステルの記述は単純なセクツール礼讃ではない。彼はセクツール政策の発展に伴う新たな危険についても警告を発している。「セクツールによる、住民のすべての心理的・社会心理学的問題の引き受けを無際限に拡大しようとしてはならない」[7]。この態度は、警察との共謀によって、ある人々が告発した真の「flikiatrie(警察=精神医学)」へとつながりかねない。「全能性の幻想(illusion de toute-puissance)」は、ある種の「psychocratisme(精神医学独裁)」をもたらしうる——精神科医がチリやある種の東側諸国で罠にかけられたように。これは、本論文第七章で扱ったエーの世界精神医学会での闘い(1971年メキシコ動議、1977年ホノルル採択)と直接的に呼応する論点である。

ポステルはさらに、薬物療法の拒絶もまた誤りであると警告する。「身体医学、したがって精神病院に送り返すという口実で薬物療法を拒絶することは、それらが医学的ではないと主張して心理療法的・社会療法的技術を排除することと同じく有害である」[7]。良い治療計画においては、両者を統合的に用いて患者の不安と道徳的苦痛を緩和することが求められる。これは、エーの器質力動論的統合主義と本質的に同じ立場である。

むしろポステルが警戒するのは、ある種の規範化・修復のイデオロギーである。「秩序維持のイデオロギーは幸いにもフランスの精神科医たちにはほとんど育まれていないように見えるが、修復・補綴のイデオロギーは、行政当局のみならず、一部の支持者を持っているように思われる(1975年の法律、統合に関する通達を考えよ)」[7]。「私たちの使命は、人々を正道に戻すことや、学校・行政・司法・家族といった第三者からの多くの要求に応えることにあるのではない」[7]。精神科医の本来の役割は、患者個人の苦悩の緩和と、彼ら独自の軌道の尊重に限定されるべきであり、その役割は、十分かつ多様化されたセクツールの設備があってこそ可能になる。

ポステルは最後に、1985年セクトリザシオン法の運命について苦々しい認識を示す。1985年9月、生物学的精神医学の権威であるジネステ(Ginestet)でさえ、神経遮断薬単独では精神障害者の社会復帰を保証できないと認めざるをえなかった[9]。1975年までは、病院構造と病院外構造、患者の退院とアフターケアを保証する公私の相談ネットワークの間に「相対的均衡」が確立されていた、と彼は記している。アメリカ精神医学会も、入院精神障害者数が1955年の55万9千人から13万2千人に減少した一方で、精神病患者が浮浪者人口の25-50%を占めているという「大きな社会的悲劇」を指摘した[10]。フランスにおいても、50万人の浮浪者のうち少なくとも30万人は精神科患者——特に統合失調症患者と慢性幻覚性精神病患者——であると推定されている[11]。脱施設化は、セクツール制という受け皿が機能しなければ、新たな疎外を生み出すのである。

ポステルが本章を閉じる言葉は、本論文全体の主題への決定的応答である。「ここに、ドニケルの忠実な弟子の一人〔ジネステ〕によって、セクツール政策を維持する必要性が証明されている。しかし、1955年から1960年にかけて練り上げられたこの政策は、1985年まで法制化を待たなければならなかった——こっそりと、そして何という代価を払って!(à la sauvette, et à quel prix !)」[7]。1985年12月31日のセクトリザシオン法は、四半世紀前から実装されてきた精神医療組織の事後追認にすぎなかった。それにもかかわらず、この政策が精神障害者を精神病院から脱出させ、社会生活を取り戻させたことは事実である。しかし、その本格的展開を見る前に、すでにこの政策は——あまりに高価あるいは空想的と見なす人々によって、すなわち生物学的精神医学にその関心と財源を留保する同じ人々によって——疑問視されているのである。

9.6 構造転換の主動因——本論文の中心的回答

ポステルの歴史的検討は、本論文の中心的問いに対する明確な回答を提供する。1838年法体制からセクツール制への構造転換は、神経薬理学革命によって自動的に達成されたものではない。それは、精神科医、政治家、行政官、看護職、ソーシャル・ケースワーカーらが結集した、半世紀近くにわたる制度政治的闘争の所産である。アンリ・エーは、この闘争の中心人物の一人——おそらく最も持続的かつ多面的な活動を展開した人物——として、本論文の主題的地位を占める。

本論文が第五章以下で展開する歴史叙述は、この前提に立つ。すなわち、エーの闘士的活動を脇役的なエピソードとしてではなく、20世紀後半フランス精神医療の構造転換そのものを担った中心動因の一つとして位置づける。1838年法廃止運動(第五章)、白書と組合活動(第六章)、制度的完成(第七章)——これらすべては、ポステルがここで論証した「セクツール政策こそが構造転換の主動因である」という命題の、エーを中心とした個別史的展開なのである。

9.7 薬物療法という第二の車輪——必要条件と十分条件

ここまでの論述が退けてきたのは、神経薬理学的説明の単独性であって、薬物療法の臨床的役割そのものではない。この二つは次元を異にする。精神病院を空にしたのは何かという歴史的説明の次元においては、神経薬理学的説明と制度政治的説明とが競合し、本章はポステルに従って前者の単独性を退けた。だが臨床的実践の次元においては、神経薬理学とセクツールはそもそも対立してなどいなかった。両者は、フランス精神医療の構造転換を支えた車の両輪——いずれを欠いても荷車は動かない相補的条件——として理解されるべきものである。ポステル自身が 9.5 で警告したとおり、薬物療法の拒絶は、心理療法的・社会療法的技術の排除と同じく有害なのであった[7]

ただし、両輪は対等ではない。その役割には明確な非対称がある。薬物療法は構造転換の必要条件であった——急性症状の制御、発作期間の短縮、外来での維持的処方を臨床的に可能にしたのは神経遮断薬であり、これなくして開放処遇と地域基盤型ケアの運営は考えにくい。しかしそれは十分条件ではなかった。9.2 で見たように、薬理学的車輪は 1952 年にすでに装着されていたにもかかわらず、入院患者数は 1965 年まで増加し続けた。荷車が実際に動き出したのは、もう一方の車輪——1955 年から練り上げられ 1960 年通達によって装着された制度政治的車輪——が組み上がってからである。すなわち薬物療法は転換を可能にした臨床的条件であり、セクツール政策は転換を担った構造的動因であった。本章が神経薬理学的説明の単独性を退けるのは、薬理学の臨床的意義を否定するためではなく、まさにこの非対称——一方の車輪だけでは荷車は動かないという事実——を明らかにするためである。

看過してはならないのは、この相補性が後年の和解や「薬理学陣営からの譲歩」として生じたのではなく、ドレー=ドニケル学派の出発点にすでに胚胎していたという点である。そもそも、薬物療法に一元化した「陣営」なるものは存在しなかった。クロルプロマジンを 1952 年に導入したドニケルその人が、四半世紀ののち、すなわちセクツール体制が現実に展開した時期に、ドレー学派の向精神薬運用の臨床的教義を一書にまとめている[28]。その『臨床精神薬理学』は、最小用量で最大の効果を、副作用は最小限に、という抑制的な処方原則を一貫して説き、薬物療法の成果と限界の双方に目を配り、精神療法・心理療法への言及をも欠かさない(訳者あとがきに評したとおりである)。受容体機序を前景化する今日の網羅的な精神薬理学とは、その出発点における慎みと統合志向において、明らかに性格を異にするのである。

この抑制と統合の学風は、学派の領袖ジャン・ドレー(Jean Delay, 1907–1987)その人に体現されていた。「精神医学と文学」を二十歳の目標に掲げ、アンドレ・ジッドの心理伝記やソルボンヌに提出した記憶病論によってアカデミー・フランセーズ会員にまで列したこの碩学は、科学的探究と人文的教養を一身に兼ねた人物であった。そして注目すべきは、生物学的精神医学の本拠と制度的精神医学の本拠とが、文字どおり同じ屋根の下に共在していたことである。サンタンヌの講座主任はそのドレーであったが、本拠をボンヌヴァルに置き大学に席をもたなかったエーは、同院で毎週水曜日、若手医師を前に研究会(cercle d'études)を主宰しつづけた——大学精神医学がラカンには同院の階段講堂を閉ざしたのと対照的な事実である[12]

こうした学風を背景に置くとき、『臨床精神薬理学』の共著者ダニエル・ジネステ(Daniel Ginestet)が 1985 年に「薬理学の進歩は施設生活に知覚しうる変化をもたらすか(Les progrès de la pharmacologie entraînent-ils une modification perceptible de la vie institutionnelle ?)」と問い、神経遮断薬単独では患者の社会復帰を保証しえないと記した[9]ことの意味も、おのずと定まる。それは薬理学者が不本意に漏らした告白でも、「敵側からの証言」でもない。もともと統合的であったこの学派の精神の、ごく自然な延長として読むべきものである。9.5 で引いたように、ポステルがこの言明を承けてセクツール政策の必要を説く[7]とき、その重みは、フランス精神医学の生物学的翼と制度的翼とが——薬理学の本流においてすら——同じ統合的確信を分かちもっていたという事実にこそ存している。本章の標題が掲げた「神経遮断薬かセクツール政策か」という二者択一は、歴史的説明の次元では正当な問いでありえても、臨床的実践の次元では、フランスにおいてそもそも成り立っていなかったのである。

この相補性の認識は、本論文の主題的中心であるアンリ・エーの器質力動論(organo-dynamisme)と深く呼応する。身体的なものと精神的なもの、生物学的療法と制度的療法を不可分の統一において捉えるエーの統合主義は、薬理学と制度政治とを択一的な競合者とみなす図式をあらかじめ退けている。ポステルがその歴史的検討の結論において到達した統合的立場[7]は、エーが理論的に体系化した立場の、制度史的次元における確証にほかならない。

結論——フランス・セクツール制の生成と緊張

本論文はフランス・セクツール制の成立を、理論体系としてではなく、長期の政治闘争の所産として記述してきた。最後に、本論文を貫く二つの主軸——成立過程の複雑さと、実施後も持続した緊張——を総括する。

第一の主軸は、成立過程の複雑さである。占領期サンタルバンの施設内精神療法(1940年)から1960年3月15日通達までの二十年は、一直線の進歩ではなく、レジスタンス系精神科医、共産党系 désaliénisme、エー的統合主義という複数の潮流の対抗と協働の所産であった(第一〜四章)。とりわけフランス的な特異性は、政策的誕生(1960年通達)と法的完成(1985年法)との二十五年の懸隔にある。セクツール制は四半世紀のあいだ法律ではなく通達群によって運営され、1985年法はその事後追認にすぎなかった——「行政文書による先行実装、法律による事後追認」という制度形成様式である(第四章 4.4、第七章 7.7)。

第二の主軸は、制度的完成(1985–1990年)に至ってもなお、セクツール制が複数の緊張を内に抱え続けたことである。生物医学的説明とセクツール的説明の競合(第九章)、ボナフェ系 désaliénisme とエー的統合主義の対話的対抗(第二章 2.4)、専門職利益と患者利益の緊張(第五章 5.3、第六章 6.5)、そしてポステルが警告した「flikiatrie」「psychocratisme」の危険(第九章 9.5)。国際的次元でも、1971年メキシコ動議の否決と1977年ホノルル動議の二票差での可決(第七章)は、倫理的合意の脆さを物語る。

これら二つの主軸の中心に、闘士アンリ・エーがいた。器質力動論の体系化者であると同時に、ボンヌヴァルの臨床家、サンタンヌ水曜講義の教育者、白書編纂者、病院精神科医組合の会長、1838年法廃止運動の提起者、シモーヌ・ヴェイユ判事との1968年法共同起草者でもあった。クレルヴォアの言う「militer」——兵士として何ものかに奉仕すること——の闘士性は、いずれの党派・組合にも属さなかったエーの非帰属性(第一章 1.2)と表裏をなす。特定の帰属を持たなかったがゆえに、彼は多様な潮流が結集しうる調停的中心となりえた。

1944年解放期から1990年法までの四十五年間に、エスキロールの1838年法体制は段階的に解体され、セクツール制を主軸とする新しい体制に置き換えられた。エーは1838年法廃止も1985年法も見届けず1977年に逝ったが、彼が起草した1971年動議の1977年採択、彼の死後も運用された1968年無能力者保護法、白書構想の1990年法への結実は、その活動が生涯を超えて持続したことを示している。セクツール制は半世紀の闘争の所産であり、静的に確立された制度ではなく、複数の緊張を抱えたまま持続的に追求されてきた動的な構築物である。これらの緊張はその弱点ではなく、制度を生かし続けてきた構造的特徴にほかならない。クレルヴォアによれば、エー自身、「不可能なことだけが現実である」という1968年5月のスローガンに自らを重ねることができた[12]

References
参考文献
[1]拙稿「エスキロールと1838年法——精神医学における神話・制度・権力の形成」;あわせて拙稿「1838年法の政治経済学——世帯経済・禁治産・行政収容(引用箇所:要旨、はじめに、第三章 3.4、第五章 5.5、5.8、第七章 7.8)
[2]Gérard Massé, Xavier Houssin: Service Social et psychiatrie de Secteur, ESF Éditeur, Paris, 1983, ch. 4 « Les formes du traitement » : §1 « L’équipe médico-sociale », §2 « La famille », §3 « L’extra-hospitalier », §4 « L’hôpital ». 邦訳: G. マッセ、X. ウッサン『フランスの精神医療体制』桑原寛・菅原道哉・松石竹志訳、株式会社 EXP、2001 年初版.(引用箇所:第八章 8.1、8.2、8.3、8.4)
[28]Pierre Deniker, Daniel Ginestet, Henri Lôo: Maniement des médicaments psychotropes, Doin éditeurs, Paris, 1980. 邦訳: P. ドニケル、D. ジネステ、H. ロー『臨床精神薬理学』松石竹志・菅原道哉・桑原寛・酒井正雄・千頭孝史訳、星和書店、1994 年.(引用箇所:第九章 9.1、9.7。神経遮断薬の分類と臨床的運用に関する Delay・Deniker 系の標準的成書。)
[3]Circulaire n° 310 du 15 mars 1960 relative au programme d’organisation et d’équipement des départements en matière de lutte contre les maladies mentales (政令・通達、官報未掲載).(引用箇所:第四章 4.2、第八章 8.1、8.3.1、8.3.3。全文は M. Caire 編「フランス精神医学史」サイト所収:psychiatrie.histoire.free.fr/legisl/sector/1960.htm——本文 4.2 の逐語引用二箇所はこれに拠る。訳は筆者)
[4]Circulaire du 9 mai 1974 relative à l’équipement et au fonctionnement des dispensaires d’hygiène mentale (政令・通達).(引用箇所:第八章 8.3.1)
[5]Circulaire DGS 891 MS 1 du 9 mars 1974 relative à l’organisation des services de psychiatrie hospitaliers (政令・通達).(引用箇所:第八章 8.4)
[6]Circulaire du 18 janvier 1961 relative aux commissions administratives des hôpitaux psychiatriques (政令・通達).(引用箇所:第八章 8.4)
[29]Circulaire n° 72-443 du 16 mars 1972 relative au programme d’organisation et d’équipement des départements en matière de lutte contre les maladies et déficiences mentales des enfants et des adolescents (政令・通達、官報 1972 年 4 月 21 日、p. 4209). 起草: R. ミセス(Roger Misès)。(引用箇所:第四章 4.3。児童精神医学インターセクトゥール制を確立。全文は dcalin.fr/textoff/troubles_mentaux_1972.html 所収——本文 4.3 の逐語引用はこれに拠る。訳は筆者)
[30]Circulaire n° 431 du 14 mars 1972 fixant les modalités du règlement départemental de la lutte contre les maladies mentales (政令・通達、官報 1972 年 4 月 21 日).(引用箇所:第八章 8.1。「医療=社会チーム(小区域精神科医療チーム)」の定義を含む。)
[7]Jacques Postel: « Rôles respectifs des neuroleptiques et de la pratique de secteur », in Éléments pour une histoire de la psychiatrie occidentale, L’Harmattan, Paris, 2007, pp. 329–343.(引用箇所:第九章 9.1、9.2、9.3、9.4、9.5、9.6、9.7)a b
[8]J. Delay, P. Deniker, J.M. Harl: « Utilisation en thérapeutique psychiatrique d’une phénothiazine d’action centrale élective (4560 RP) », Annales médico-psychologiques, 110, 1952, p. 112-117.(引用箇所:第九章 9.1)
[9]D. Ginestet: « Les progrès de la pharmacologie entraînent-ils une modification perceptible de la vie institutionnelle ? », Synapse, septembre 1985.(引用箇所:第九章 9.5、9.7。著者はドレー=ドニケル学派の薬理学者 Daniel Ginestet(本欄 [28] Maniement des médicaments psychotropes の共著者)。Postel op. cit.(p. 342 注)では頭文字を付さず « Ginestet » とのみ記されるが、人物同定により D. を補った。)
[10]« Statistiques de l’American Psychiatric Association », Quotidien du médecin, 19 septembre 1984; Synapse, 10 février 1985.(引用箇所:第九章 9.5)
[11]Données françaises sur la population sans abri et la psychiatrie, citées in Postel op. cit., p. 343.(引用箇所:第九章 9.5)
[12]Clervoy, P. Henri Ey, 1900–1977 : cinquante ans de psychiatrie en France. Le Plessis-Robinson : Les Empêcheurs de penser en rond / Institut Synthélabo pour le progrès de la connaissance, 1997.(松石竹志訳、準備中。本論文における引用・参照は主として第6章「闘い」〔Luttes〕により、第一章では第3章・第4章にも拠る。引用箇所:第一章から第七章まで、および第九章 9.7。)a b
[13]Xavier Abély: « Préprojet de loi sur l’aide et l’hospitalisation des malades mentaux », L’Information Psychiatrique, 1945, pp. 103–111, 161–167, 188–193, 213–220.(引用箇所:第一章 1.4。Clervoy 第6章注 171 による。)
[14]Loi du 31 août 1945〔臨時政府期の法令につき正式タイトル未特定(Clervoy 第6章注 172 の参照に依拠)。アメリカ軍の残置医療機器分配に関する法律。〕(引用箇所:第一章 1.4。Clervoy 第6章注 172 による。)
[15]Loi du 29 janvier 1945〔臨時政府期の法令につき正式タイトル未特定(Clervoy 第6章注 173 の参照に依拠)。精神科病院の壁・門の修復に関する予算法。〕(引用箇所:第一章 1.4。Clervoy 第6章注 173 による。)
[16]拙稿「アンリ・エーの精神病理学における自由概念——ヨーロッパ精神史の系譜から臨床精神医学へ(ブルガの研究を踏まえた改訂版)」(引用箇所:第一章 1.3。エーの「精神医学は自由の病理学である」というテーゼの哲学的系譜については本拙稿を参照。)
[17]Henri Ey: « Nature de la maladie mentale et la loi de 1838 (Les aliénés, l’espace et la liberté) », L’Évolution Psychiatrique, n° 1, mars 1964.(引用箇所:第三章 3.4。本稿の引用は現時点では Clervoy 第6章注 175 を介した重引であり、原典入手後に直接引用へ切り替える。)a b
[18]Henri Duchêne: Rapport du Congrès de psychiatrie et neurologie de langue française, Tours, 1959. 公的病院外精神医療サービスに関するセクツール教義の規定的提示.(引用箇所:第三章 3.2。Postel op. cit. p. 337 による。)a b
[20]Henri Ey, Paul Sivadon, Lucien Bonnafé: « Faut-il "réformer" la loi de 1838 sur les "aliénés" ? », Le Concours Médical, 21 janvier 1967, n° 3, pp. 533–537.(引用箇所:第五章 5.4。Clervoy 第6章注 178 による。なお本文は La Revue Pratiques(pratiques.fr)にオンライン再録されており、原典確認のうえ直接引用へ切り替えうる。)
[21]Henri Ey: « L’abrogation des dispositions essentielles de la loi d’exception de 1838 fondée sur les conditions de l’efficacité et du progrès de l’assistance psychiatrique médicale », communication à la Société Médico-Psychologique, séance du 23 octobre 1967, Annales Médico-Psychologiques, 2, 1967.(引用箇所:第五章 5.5。本稿の引用は現時点では Clervoy 第6章注 179 を介した重引であり、原典(Annales Médico-Psychologiques, 2, 1967)入手後に直接引用へ切り替える。)
[22]Loi n° 68-5 du 3 janvier 1968 portant réforme du droit des incapables majeurs, Journal officiel de la République française.(引用箇所:第五章 5.6。シモーヌ・ヴェイユ判事と Henri Ey の協働の所産。司法保護・後見・保佐の三保護制度を確立。)
[23]Henri Ey: 首相 Jacques Chaban-Delmas 宛書簡, 1969 年. Clervoy 第6章に原文引用あり.(引用箇所:第五章 5.7。「破局的事態を招きかねないレベル」の表現を含む。)
[24]Loi n° 90-527 du 27 juin 1990 relative aux droits et à la protection des personnes hospitalisées en raison de troubles mentaux et à leurs conditions d’hospitalisation, Journal officiel de la République française.(引用箇所:第五章 5.8。1838 年法を正式に廃止し、自由入院 HL・第三者要求入院 HDT・職権入院 HO の三類型を確立。後の 2011 年・2013 年改正によりさらに近代化。)
[25]Livre blanc de la psychiatrie française, Éditions Privat, Toulouse, 1965–1967.「精神医学進化」グループによる集合的著作.(引用箇所:第六章 6.1、6.2。Clervoy 第6章に詳細記述あり。)
[26]拙稿「フーコー『狂気の歴史』への批判——四本の柱と二つの型:アンリ・エーの哲学的反駁、クロード・ケテルの史料実証、スウェインとゴーシェのピネル再評価、およびロベール・カステルの『否認せざる批判』」(引用箇所:第七章 7.1。エーの反精神医学批判の哲学的内実については本拙稿を参照。)
[27]Loi n° 85-1468 du 31 décembre 1985 relative à la sectorisation psychiatrique, Journal officiel de la République française, 1er janvier 1986.(引用箇所:第七章 7.7。1960 年 3 月 15 日通達以来のセクトリザシオンを正式に法制化。適用は 1986 年 3 月 14 日デクレ(n° 86-602)等による。)
[31]組合の同定について——Syndicat des Psychiatres Français(SPF)および Syndicat des médecins des hôpitaux psychiatriques(1945年7月9日創設。のちの Syndicat des psychiatres des hôpitaux, SPH)。
〔注記〕クレルヴォアは第6章で「同じ勢いのうちに、1967年5月にフランス精神科医組合が誕生する(« Dans le même élan, le Syndicat des Psychiatres Français voit le jour en Mai 1967 »)」と記し、続けて第1回総会で「カンメラーの短い会長職ののちアンリ・エーが会長に選出された」と述べる。ところが同じ章の後段では、彼を端的に「« Il est alors Président du Syndicat des Médecins des Hôpitaux Psychiatriques »」と呼んでおり、また引用されるエー自身の1969年書簡は「« au nom des 700 Médecins des H.P. dont notre Syndicat est le représentant unique et quasi unanime »」と締めくくられている。すなわちクレルヴォアの叙述において「組合」の指示対象は一義的でない。外部資料もこれを裏づける——SPF は自ら創設を1967年1月27日とし(SPF。クレルヴォアの「5月」と一致しない)、その会長職はテオフィル・カンメラーが1967年から1982年まで務めたと記録される(アルザス人名辞典)。他方 SPH の公式沿革は「1967年、アンリ・エーは SPH の会長である(En 1967, Henri Ey est président du SPH)」と明記する(SPH 沿革)。これらを総合すれば、1967年にカンメラーが会長となったのは SPF、エーが会長を務めたのは病院精神科医の組合と解するのが最も無理がない。本稿は、SPF の発足と第1回総会に関するクレルヴォアの記述をそのまま伝えたうえで、以下に記す待遇改善・行政ストの闘いの主体を病院精神科医の組合と同定した。初稿はこれを「1967年設立の SPF の初代会長エー」と一本化していたが、この記述は撤回する。〕(引用箇所:第五章 5.5、第六章 6.4)
[32]〔原文について〕クレルヴォアの原文は « Il se rend donc en Amérique du Sud pour présenter cette motion » と記す。しかし1971年のWPA世界大会の開催地はメキシコシティであり、メキシコは北米に属する。「南米」は原著者の筆の誤りと解されるが、本稿は訳文を原文どおりとし、この注記を付すにとどめた。(引用箇所:第七章 7.2)
[33]〔補注〕クレルヴォアは、新組合が最初に求めた改革の一つが « la disparition de la dénomination d’« asiles d’aliénés » au profit de celle d’« Hôpitaux psychiatriques » » であったと記す。ただし行政上の改称そのものは、これに30年先立つ1937年の通達によってすでに行われている。したがって1967年の組合が求めたのは、名称変更の新規導入ではなく、現場および関係法令における呼称の徹底——すなわち1937年通達の実効化——であったと解される。(引用箇所:第六章 6.4)
[34]〔訳語について——asile〕本稿は asile を「アジール」とカタカナ表記し、初出に原語を併記する。本紀要の姉妹論文「1838年法の政治経済学」「エスキロールと1838年法」も同じ表記を用いる。
〔理由〕19世紀フランスの asile d’aliénés は、(1) 1838年法第1条により各県に設置を義務づけられた公的施設であって、日本語の「精神病院」が想起させる医療機関一般とは制度的位置が異なり、(2) 同時に、エスキロールの構想においてそれ自体が治療装置と観念された施設であって、単なる収容所でもない。「避難所」「収容所」「精神病院」のいずれの訳語も、この二重性のどちらか一方を落とす。そこで訳さずカタカナ表記とし、制度史上の固有名詞として扱う。なお1937年通達以降、行政上の呼称は hôpital psychiatrique(精神科病院)に改められており、本稿が「アジール」を用いるのは、原著者が asile の語を選んでいる箇所、および旧体制の施設をその制度的性格において指す箇所に限られる(本稿6.4 および文献[33]を参照)。本稿初稿は「精神症院」の訳語を用いていたが、この方針により改めた。ケテル『狂気の歴史』邦訳(2026年刊)の訳語との照合を経て、将来さらに改める可能性がある。〕(引用箇所:第五章 5.7 における初出時。以下同じ。)
[35]Castel, R. L’Ordre psychiatrique : l’âge d’or de l’aliénisme. Paris : Les Éditions de Minuit, 1976.(本論文が射程外とする社会科学的・権力分析的アプローチの代表例として挙げるにとどめる。引用箇所:はじめに)
[19]訳語に関する注記——psychothérapie institutionnelle。本論文では「施設内精神療法」の訳語を採用するが、2016年に春秋社から刊行された廣瀬浩司・原和之訳『精神医学と制度精神療法』(ジャン・ウリ著、原題 Psychiatrie et psychothérapie institutionnelle : traces et configurations précaires、1976年初版・2001年再版)以降、日本の学術文献における標準的訳語は「制度精神療法」となっており、国立国会図書館の書誌登録もこの形を採る。institutionnelle の含意は二重であり、狭義には病院・施設という物理的場(institution = établissement)を、広義には社会的制度・慣行・関係構造(社会学的概念としての「制度」)を指す。トスケル=ウリ系の理論的核心は、病院という物理的施設を批判するだけでなく、その内部の関係構造——職員間の階層性、医師=患者関係の固定性等——そのものを「制度」として分析・変革することにあり、この概念的射程の広さが「制度精神療法」訳の根拠となっている。一方、本論文の文脈はクレルヴォアがエー評伝においてサンタルバンという具体的施設の革新性に焦点を当てて言及する場面であり、ウリのラ・ボルド病院での理論的展開とはやや位相が異なる。本論文では、(1) 拙訳クレルヴォアにおいて確定した訳語との一貫性、(2) サンタルバンでの臨床実践という具体的文脈の伝達、を優先して「施設内精神療法」を採用した。(引用箇所:第二章 2.1 における初出時。)

本研究所内の関連論文

松石「フランスの精神障害者と知的障害児・者の教育・治療・福祉体制(本研究所レビュー所収。本稿が 1838 年法からセクツール制への歴史的成立過程をアンリ・エーの活動を軸に論じるのに対し、同論文は 1975 年障害者基本法・2005 年法、IME・ITEP・CMPP・SESSAD、MAS・FAM 等、現行の制度体系を共時的に概観する。本稿の到達点たる現行制度の見取り図として参照されたい。児童については両稿とも制度面に限定し、自閉症の病因論には立ち入らない点も共通する。)
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