【日本語要旨】 1838年6月30日法は、なぜ収容の決定を司法ではなく行政に委ねたのか。本稿はこの問いを、法制史の内部からではなく、収容要求を下から生み出した社会経済的基盤——大革命後の小土地所有農民社会における世帯経済(household economy)の構造——から解明することを試みる。第一に、革命による土地改革はフランスに広範な小土地所有農民層を定着させ、イギリス型の急速なプロレタリア化を回避させた。この社会において伝統的世帯経済は、軽度の病者・非活動的な病者を家内に包摂する緩衝能を保持していた。第二に、しかしこの緩衝能には明確な限界があった。入院文書の実証研究が示すように、収容要求が発せられるのは病者が「暴力・興奮・自殺企図」によって世帯の存立そのものを脅かした時点であり、収容の第一の論理は治療的必要ではなく世帯と共同体の防衛であった。ただしこの世帯経済は一様ではない。第三版で新設した第二章は、相続慣行の地域差(西部・北部の均分主義と南部の一子相続)、ル・プレーとトッドの家族類型を地図として限定的に用いること、本稿の二つの資料体がいずれも修道会施設を出口とする西部のものであること、そしてパリ・セーヌ県の日雇い世帯では抱え込みそのものが成立せず収容が職権入院を主経路としたことを示し、農村型と都市型という二つの収容要求が1838年法という単一の装置に合流したことを論じる。第三に、この防衛要求の前に、ナポレオン民法典の禁治産手続は煩雑・高額・公開的という三重の障壁として立ちはだかっていた。1838年法の行政的収容——県知事の職権入院と施設長受理のヴォロンテール入院(placement volontaire)——は、カステルが示したように、この司法的障壁を迂回する制度的応答であり、その成立は、世帯経済の自衛限界という下からの圧力と、行政警察権の合理化という上からの要請とが交差した地点に位置づけられる。カステルが示したように、契約を基礎とする社会は、契約を結びえない者のために、契約的身分とは異なりかつそれを補完する第二の身分——後見(tutelle)——を必要とした。本稿は、この上からの要請を、下から収容を求めた世帯経済の側の実証と突き合わせることを試みるものである。あわせて新設の5-4では、1874年の公式報告により、第1条の「契約」条項のもとで自前のアジールを建てた県と隣県や修道会施設に委託した県の分布を示し、法を受け止める側の県の財政格差を実施の水準で確かめる。第四版(Editio quarta)では、ゴールドスタインの現物照合により、1837年時点で86県中48県が施設を欠いていたこと、1833年と1842年の県別調査、修道会施設に依存した県がブルターニュ・ノルマンディ・東部・中央山塊の篤信地域に集中していたことを 5-4 に加え、カーンのボン=ソヴールが世紀半ばまで研修医を拒んだ修道会施設であったという資料批判を 3-1 に置いた。結語では、上下二つの要請を一つの手続に翻訳した中間の層——精神医学の職能集団・行政官僚・司法専門職——を明示し、本稿の言う「契約」が主体の合意ではなく機能的な負担移転であること、患者本人がその翻訳のどの段階にも席をもたなかったことを述べる。統治機構の側と中間層の形成の分析は姉妹論文「エスキロールと1838年法」第七章に委ねる。
キーワード:1838年法、契約と後見(contrat et tutelle)、禁治産(interdiction)、職権入院(placement d'office)、ヴォロンテール入院(placement volontaire)、世帯経済、小土地所有、相続慣行の地域差、家族類型、都市と農村、県の財政格差、社会防衛、修道会施設、中間層、カステル、ゴールドスタイン
Why did the French law of 30 June 1838 entrust the decision to confine the insane to the administration rather than to the courts? This paper approaches the question not from within legal history but from the socio-economic base that generated the demand for confinement from below: the structure of the household economy in the post-revolutionary society of peasant smallholders. First, the revolutionary land settlement rooted a broad class of peasant proprietors in French soil and spared France a rapid proletarianization of the English kind. Within this society the traditional household economy retained a buffering capacity that kept the mildly and the inactively ill inside the home. That household economy was not uniform, however: a new Chapter II, added in the third edition, maps the regional diversity of inheritance customs (strict partibility in the West and North, single-heir succession in the South), uses the family typologies of Le Play and Todd only as a map and not as an explanatory variable, shows that both corpora used in Chapter III come from the West, where confinement passed through congregational asylums, and contrasts the rural pattern with the day-labour households of Paris, where no buffering was possible and confinement ran chiefly through the placement d'office. Two demands for confinement, rural and urban, thus converged on the single administrative apparatus of 1838. Second, that capacity had sharp limits. As the scholarship on admission records shows — Quétel's lexical analysis of the Bon-Sauveur registers at Caen, Le Bras's study of family petitions surrounding the Saint-Athanase asylum at Quimper — the demand for confinement arose at the point where the patient threatened the very existence of the household through violence, agitation or attempted suicide: the primary logic of confinement was not therapeutic need but the defence of household and community. Third, against this demand the interdiction procedure of the Napoleonic Civil Code stood as a threefold barrier — cumbersome, costly and public. (The figure of twenty-nine interdictions for a single year, widely repeated on Castel's authority and given in the first edition of this paper, is withdrawn: see reference 17.) The administrative committal instituted by the law of 1838 — the placement d'office ordered by the prefect and the placement volontaire accepted by the director of an establishment upon a medical certificate — was, as Robert Castel demonstrated, the institutional response that bypassed this judicial barrier; its enactment is located at the intersection of pressure from below (the defensive limit of the household economy) and the demand from above (the rationalization of administrative police power). As Castel showed, a society founded on contract required, for those unable to enter into contract, a second status — tutelle, guardianship — distinct from and complementary to the contractual status of citizens; this paper sets that demand from above against the evidence of the households that called for confinement from below. A new section 5-4 uses the official report of 1874 to show which departments built their own asylums and which contracted with neighbouring departments or religious congregations under the “contract” clause of Article 1, thereby measuring the fiscal inequality among the departments that received the law. The analysis of the state's side is left to the companion paper on Esquirol (Chapter VII). A comparative chapter re-examines Scull's thesis on England against its critics and reformulates the Franco-English contrast as a difference not in the presence or absence of proletarianization, but in the administrative channels — Poor Law apparatus versus departmental administration — that received the cases exceeding the household's defensive limit.
Keywords: law of 30 June 1838, contract and tutelle, interdiction, placement d'office, placement volontaire, household economy, peasant smallholding, regional inheritance customs, family types, town and country, departmental finance, social defence, Robert Castel, Jan Goldstein, Andrew Scull
はじめに——問いの設定
0-1 なぜ司法ではなく行政か
1838年6月30日法についての通説的記述は、各県へのアジール設置義務と入院手続の法定という「達成」を列挙して終わることが多い。しかしこの法律の最も特異な点は、個人の自由の剥奪という重大な決定を、裁判官の審査なしに、医師の証明書と行政官の署名だけで可能にしたことである。革命は拘禁令状(lettre de cachet)の恣意性を告発し、1790年3月の拘禁令状廃止法によってこれを廃止した。カステルが著書の冒頭に掲げるように、同法第9条は「狂気を理由に拘禁された者」について、裁判官による審尋と医師による診察を経て、釈放か治療かを決すべきことを定めていた——すなわち革命の立法者は、狂人の処遇をまず司法と医学の共同審査に委ねようとしたのである[1](Castel 1976, pp. 9, 35–36)。その国が、半世紀後には裁判所を経由しない拘禁の常設制度を作り上げた。この逆説はいかにして可能になったのか。
0-2 契約社会の裏面——本稿の理論的枠組
この逆説を、本稿はロベール・カステルが『精神医学的秩序』第一章で提示した枠組から出発して考える。カステルによれば、革命が打ち立てた新しい社会秩序は、一つの司法=行政的フィクションのうえに築かれている。「各市民は臣民(sujet)にして主権者である。すなわち彼は、国家装置がその不遵守を制裁する当の諸義務のそれぞれに服従させられていると同時に、法によって規制された諸活動に参加し、その遂行が彼の自由を定義するところの当の諸実践から自らの権利を引き出す主体(sujet)でもある」[1](Castel 1976, pp. 37–38)。ところが、この形式的な枠組にすべての者が問題なく収まるわけではない。
La véritable spécificité du fou est de résister à ce rabattement à tel point que, pour l’inscrire dans le nouvel ordre social, il va falloir lui imposer un statut différent et complémentaire du statut contractuel qui régit l’ensemble des citoyens.
狂人の真の特異性は、この〔契約の枠組への〕還元に抵抗する点にあり、その度合いはきわめて大きく、彼を新しい社会秩序のうちに書き込むためには、市民全体を規律する契約的身分とは異なりかつそれを補完する身分を彼に課さねばならないほどである。[1](p. 39)
狂気は、こうしてブルジョワ社会の創設期において「契約秩序の一つの欠落」を具体的に露呈させた。「司法的形式主義はすべてを統制することはできず、司法=警察装置が用いうる手段以外の道によって無害化されねばならない個人のカテゴリーが少なくとも一つ存在する」(pp. 55–56)。その欠落を埋めるために発明されたものが、カステルのいう新しい後見(tutelle)である——「狂気の問題をめぐって、その医学化を介して、契約社会の機能にとって本質的な新しい後見の身分が発明されたのである」(p. 37)。1838年法とはその制度化であり、アジールとはその場所であった。この視角からすれば、収容決定が司法ではなく行政に委ねられたことは制度設計上の逸脱ではなく、契約社会がその外部を処理するために要請した第二の身分の必然的な形式ということになる。
この枠組は、本稿の問いに二つの前提を与える。第一に、狂人の処遇をめぐる権力は、革命以前からすでに司法・行政・家族の三者に分掌されており、医学はそこに「他の三者の政治的不均衡化によって開かれた亀裂に楔のように入り込む」第四の権力として参入した(pp. 33–34)。第二に、その三者の分掌にはもともと階級的な分業が織り込まれていた。アンシャン・レジーム下の立法の一般的精神は狂気を可能なかぎり「家族の問題」にとどめることにあり、そこには「富者には司法の保障を、貧者には執行権力の代理人による抑圧を」という分業が素描されていた(pp. 27–28)。1838年法が司法を迂回したとき、それはこの古い分業を廃止したのではなく、行政の側の経路を万人に開いたのである。
ただしカステルの分析は、この後見の要請を統治の側から——すなわち上から——描くものである。契約社会がなぜ後見を必要としたかは説明されるが、誰が、いつ、どのような事情でその後見を実際に発動させたのかは、彼の枠組の関心の外にある。本稿が付け加えようとするのは、まさにこの下からの水準である。収容を求める声は行政の合理性からではなく、病者を抱えきれなくなった世帯から発せられた。1838年法の成立は、契約社会が上から要請した後見の形式と、世帯経済が下から突き上げた排除=救済の需要とが交差した地点に位置づけられる。
0-3 本稿の位置
本稿の位置は、姉妹論文「エスキロールと1838年法」との分業によって定まる。1838年法は、それを必要とした国家の側と、収容を求めた世帯と地域の側との、上下二つの要請が、この二十年に形成された中間の層——精神医学の職能集団、内務省の行政官僚、禁治産の関門を守った司法専門職——の手において出会った地点に成立した。姉妹論文はその上の側——七月王政の統治理念、内務省と県知事の行政国家、司法権と行政権の管轄争い、民法典の私法秩序への公法的介入——と中間層の形成とを扱う(同稿第七章、とくに 7.5)。本稿は下の側、すなわち法を受け止めた社会の側を扱う。分析の焦点は、(1)世帯経済の包摂能力とその限界、(2)相続慣行・家族類型・都市と農村の地域差(第二章)、(3)民法典の禁治産手続という司法的障壁、(4)両者の交点としての行政的収容とその財政、(5)法を受け止めた県の実施状況(5-4)、の五点に置く。「ピネルからクレペリンへ」が素描した独仏の制度的覇権移動は、この上下二層のさらに外側にある比較の枠である。第二帝政期以降のアジール人口の膨張とセーヌ県の展開は、本稿の射程外とし、続編に委ねる。
本稿および紀要の関連諸稿では、aliéné・aliénation mentale・aliéniste を訳さず原語のまま用いる。これらは一時期の制度に固有の語であり、現代語を当てると、その語が本来もっていなかった含意が紛れ込むからである。とりわけ「精神疎外者」「疎外者」という訳語の「疎外」は、現代日本語ではマルクス以来の哲学的含みを負っており、法が定めた地位の名としては誤解を招く。
aliéné は、何よりもまず法的・行政的な地位の名であった。1838年法は、各県に収容施設を置くことを義務づけ、ヴォロンテール入院と職権入院という二つの手続を定めて、その対象となる者の地位を明文化した(第五章)。民法典の禁治産(interdiction)が財産管理能力の剥奪を司法手続によって宣告するものであったのに対し、1838年法の aliéné とは、身体の自由の制限を行政の判断によって受ける者の名である。デュフォールが法案の含意を「隔離すること、禁治産にしないこと(isoler, ne pas interdire)」と要約したとき(第五章)、語られていたのはこの二つの地位の分離にほかならない。aliéné は病像の名ではなく、手続の名なのである。
aliéniste は、その施設を担う職業の名である。エスキロールを起点として精神疾患に生涯を捧げるキャリアが成立し、その集団が行政と結びついて1838年法を準備した(第五章、および拙稿「エスキロールと1838年法」)。この語は médecin des aliénés(精神病者の医師)という職務の記述から生まれた呼称であって、学問領域の名ではない。学問領域の名は psychiatrie——ドイツ語 Psychiatrie の借用——であり、両者はしばらく併存した。
そして両語は二十世紀前半に姿を消す。行政用語としての決定的な区切りは、asile d’aliénés を hôpital psychiatrique と改称し、médecin des asiles を médecin des hôpitaux psychiatriques と改めた1937年の措置であり〔要確認:法令の種別・番号・日付〕、以後 aliéné の語は公文書から退いて malade mental に置き換えられ、aliéniste は psychiatre に譲った〔要確認:語の交替の時期と psychiatre のフランスにおける定着過程〕。1838年法そのものも1990年の法律によって置き換えられている〔要確認:法律の番号と日付〕。すなわち aliéné と aliéniste は、それが名指していた制度とともに現れ、制度とともに退いた語であった。この点で両語は、日常語として今日まで残る fou/folie とも、内容を入れ替えられながら名を保った manie・mélancolie とも、来歴を異にする。語がどの層——日常語か、状態像の名か、制度の名か——に属していたかが、その後の生死を分けたようにみえるが、この点の論証は別稿を要する。
第一章 小農社会と世帯経済——収容を遅らせた構造
1-1 革命後の土地所有構造
大革命は国有化された教会財産・亡命貴族財産の売却を通じて、フランスに小土地所有農民層を広範に定着させた[8]。19世紀前半のフランスは人口の約四分の三が農村に居住する社会であり続け(農村人口は1840年代に約2,700万人の最大値に達する)、都市人口が農村人口を上回るのは1931年国勢調査を待たねばならない[9]。イギリスで囲い込みと救貧法改革が生み出したような、土地から切断された賃労働者の大量出現は、フランスでは起こらなかった。
1-2 世帯経済の概念と包摂の様態
ここで「世帯経済」とは、生産と消費が世帯単位で統合され、成員の労働配分が市場賃金ではなく世帯の存続論理に従う経済形態を指す(チャヤーノフ=ブルンナー系譜の概念。定式化はクリードテ/メディック/シュルンボーム[7])。この形態において、完全な労働能力を持たない成員——老人、障害者、そして軽度の精神病者——は、水汲み、番、子守、家畜の世話といった補助的労働に配置されることで、世帯の内部に位置を持ち続けることができた。ユフトンが18世紀の貧民について「やりくりの経済(economy of makeshifts)」と呼んだ生存様式は[6]、周縁的成員の包摂をその一部として含んでいた。
ただし、フランス農村世帯が病者を「補助労働力」として体系的に活用したことの直接的実証は乏しく、本稿の主張はより慎重な水準——在宅維持——に置かれるべきである。時期は下るが、ル・ブラがカンペールのサン=タタナーズ施設の患者書類から示したところによれば、19世紀後半のブルターニュにおいてなお、家族は「危険でない」病者の処遇の第一の担い手(primary locus of care)であり続け、在宅での抱え込みが施設収容に長く先行していた[4]。1838年以前の世帯についてこの構造を仮定することは、後代への残存からの逆推論ではあるが、少なくとも「世帯経済の包摂能力」を在宅維持の水準で語ることは実証と矛盾しない。
1-3 均分相続と世帯の脆弱性
他方、民法典の均分相続原則(第745条)は土地の細分化を進め、個々の世帯の経済的余力を薄くした。ル・プレーが「家族の解体」として批判したこの構造は[10]、世帯経済の包摂能力が決して余裕のあるものではなく、一人の成員の労働不能化や、まして破壊的行動が、世帯の再生産をただちに危機に晒すものであったことを意味する。包摂の広さと防衛限界の低さは、同じ構造の両面であった。ただし、均分相続の効果も世帯の包摂能力も、フランスの全土で一様であったわけではない。この点を次章で分節する。
第二章 モザイクとしてのフランス——相続慣行・家族類型・都市の地域差
前章は「大革命後の小土地所有農民社会」を一つの構造として描いた。しかしフランスは一枚岩ではない。均分相続の効果も、世帯の包摂能力も、共同体の互助の強さも、地域によって大きく異なり、都市——とりわけパリ——の世帯は農村の世帯とはまったく別の力学のもとにあった。本章は、前章の図式を地域と都市の差異によって分節し、第三章で用いる二つの資料体がフランスのどの部分を代表するのかを明示する。あらかじめ限定を付しておく。以下に引く家族史・相続史の研究は、その多くが1838年より後の時代、あるいは民法典以前の時代を対象としており、1838年前後の状況は両側からの推論によって再構成されるにすぎない。本章の主張は、地域差の存在とその方向を示す水準にとどまり、地域ごとの収容需要の差を入院文書によって実証する段階には至っていない。
2-1 相続慣行の地図——民法典以前と以後
民法典の均分相続(第745条)は、全国一律に同じ世帯を生んだわけではない。法典以前のフランスには相続慣行の地理的な多様性があり、法典はそれを上書きしたのではなく、その上に重ねられた。イヴェールの慣習法地理学が示した図式によれば、旧体制期の相続慣行は大きく三つの型に分かれる。西部——ノルマンディ、アンジュー、メーヌ、ブルターニュ——の慣習法は厳格な均分主義をとり、生前贈与を受けた子にも相続時の持ち戻しを強制した。パリ・オルレアン圏の慣習法は「選択(option)」の原理をとり、贈与を受けた子は相続を放棄することでそれを保持できた。そして南部の成文法地域(pays de droit écrit)はローマ法の遺言自由を継受し、親が一子を相続人に立てる(institution d'héritier)ことを認めた[24][25]〔要確認:イヴェールの三類型の呼称と該当頁。ル・ロワ・ラデュリの要約論文で照合する〕。
民法典第745条はこの多様性の上に均分を強制した。しかし南部では、生前贈与と遺留分の運用、婚姻契約による持参金の設定、非相続子の放棄といった手段によって、実質的に一子への家産の集中——直系家族(famille souche)の再生産——が維持されたことを、地域モノグラフが示している。ブルデューがベアルンで観察したのは、長子(あるいは選ばれた一子)が「家(maison)」を継ぎ、他の子は持参金と引き換えに権利を放棄するか、未婚のまま家に留まるという婚姻=相続戦略であり[26]、コロンがオート・プロヴァンスの村落で再構成したのは、父の権威のもとに既婚の相続子が同居する「父の家」の構造である[27]。オーギュスタンはこれらを、家系の存続をどの水準——家産か、家名か、家屋か——で図るかによって分岐するヨーロッパ農民社会の類型論として整理した[28]。
この地図は、本稿の枠組にとって一つの含意をもつ。前章1-3が述べた「均分相続による土地の細分化と世帯の脆弱化」は、均分の慣行が民法典以前から根づいていた西部と北部において最も直接に妥当し、直系家族の継承が実質的に維持された南西部・ピレネー・中央山地南部においては、家内に成員を留め置く構造がより強固に残ったと推測される。すなわち、世帯経済の防衛限界は一様に低かったのではなく、細分化の進んだ地域で低く、家産の集中が維持された地域で相対的に高かった、と仮説的に定式化できる。ただしこれは家族類型からの演繹であって、地域ごとの収容需要の差を示す実証は乏しい。本稿はこの仮説を、次節以下で扱う資料体の代表性を限定するための座標として用いるにとどめる。
2-2 ル・プレーとトッドの家族類型——使い方と限界
前章1-3で引いたル・プレーは、この地域差を最初に体系化した人物である。『ヨーロッパの労働者』(1855年)と『家族の組織』(1871年)において、彼は不安定家族・直系家族・家父長制家族の三類型を立て、民法典の均分相続がフランスの直系家族を解体していると批判した[10]。ル・プレーの類型は同時代の均分相続批判という政治的文脈を負っており、本稿はそれを実証としてではなく、1838年法の成立から二十年後の観察者が地域差をどう見ていたかの証言として用いる。
この類型を現代の人口史に接続したのがル・ブラとトッドの『フランスの発明』(1981年)と、トッドの一連の著作である[29]。彼らはフランスを、パリ盆地・北部・地中海沿岸の平等主義的核家族、南西部・ピレネー・アルザスなどの直系家族、中央部の共同体家族といった家族類型のモザイクとして地図化した〔要確認:類型の地域配分の詳細は『フランスの発明』新版(2012年)到着後に照合する〕。本稿がこの地図を用いるのは、「フランス農民社会」を一括りにしないための座標としてであって、家族類型から社会行動を演繹するためではない。トッドの類型論には、類型を説明変数として政治行動や宗教実践を導く決定論的な傾きがあり、人口史・社会史の側から批判がある〔要確認:代表的な批判の特定〕。本稿の主張はその決定論に依存しない。必要なのは、相続慣行と世帯構造に地域差が存在したという事実と、その差が世帯の包摂能力に方向性をもって作用したという蓋然性であり、この二点はトッド以前の慣習法研究と地域モノグラフによって支えられている。
2-3 西部——二つの資料体が代表するもの
次章で用いる二つの資料体——ケテルが分析したカーンのボン=ソヴール施設の入院記録([3])と、ル・ブラが分析したカンペールのサン=タタナーズ施設の患者書類([4])——は、いずれも西部のものである。カルヴァドス県とフィニステール県は、前節の地図の上では厳格な均分慣行の地域に属し、カトリックの共同体的互助が強く、そして修道会の経営する施設が収容を担った地域である。この三つの特性は互いに無関係ではない。
修道会による収容は西部に集中していた。1874年の公式報告が「公立アジールの機能を果たす私立アジール」として挙げる修道会施設十六のうち、カーンのボン=ソヴール会はカーン、ポン=ラベ(マンシュ県)、アルビ、ベガール(コート=デュ=ノール県)の四施設を、サン=ロのボン=ソヴール会はサン=ロとディナン(同)の二施設を経営しており、ノルマンディとブルターニュがこの型の中心であった[37](pp. 77–78)。カステルは、1838年法以前にすでに「保守的名望家と修道会のもう一つのフランス」が「公権力の介入を排して家族と直接に取引する」並行的な救済網を築いていたことを指摘し、ボン=ソヴールを「当時の模範的アジールの一つ」に育てたジョーメ師と、カンペールを含む各地に私立アジールを創設したイラリオン修道士の活動をその代表例に挙げている[1](Castel 1976, pp. 215–216)。西部の家族が病者を「もはや家に置けない」と判断したとき、その先にあったのは県知事の職権による公立施設ではなく、修道会の施設との私的な、あるいは県を介した契約であった。
この事実は、次章の資料体の読み方を限定する。ケテルとル・ブラが示す「疲れ果て、あるいは破産して」はじめて収容に至る家族の像は、均分相続によって細分化され、共同体の互助に支えられ、修道会施設を出口として持つ西部農村の像である。それをフランス全土の世帯経済の像として読むことはできない。直系家族が維持された南西部では抱え込みはより長かった可能性があり、逆に次節で見る都市では、抱え込みそのものが成立しなかった。西部の資料体は、農村型の収容需要の一つの型——おそらくは最も典型的な型——を示すものとして位置づけられる。
2-4 都市——パリ・セーヌ県の日雇い世帯
農村の世帯が土地を守るために病者を抱え込み、防衛限界において排除を求めたのに対し、都市の労働者世帯は抱え込む余力そのものを欠いていた。七月王政期の同時代調査は、この余力の不在を記録している。ヴィレルメが1840年にリール、ルーアン、ミュルーズなどの紡績工業都市の労働者について描いた『実態図』は、日雇い賃金で生きる世帯が、稼ぎ手一人の労働不能によってただちに生存の危機に陥ることを示した[30]。同年、ビュレはパリとイギリスの「勤労諸階級の貧困」を比較し[31]、警視庁の官吏フレジエは大都市の「危険階級」を行政の視線から分類した[32]〔要確認:三書とも Gallica による原文照合前。該当章・頁を付す〕。シュヴァリエが『労働階級と危険階級』で示したように、この時期のパリは地方からの流入民によって膨張し、住居の狭隘、季節的失業、世帯の不安定が、貧困を病理として語る言説を生んでいた[33]。
この条件のもとでは、収容の力学は農村型と逆転する。農村の家族が「暴力・興奮・自殺企図」という閾値を超えてはじめて村長や警察署長のもとに出頭したのに対し(第三章3-2)、都市の世帯では、稼ぎ手の脱落、住居の狭隘、近隣との軋轢が、閾値を待たずに世帯を破綻させた。収容は防衛限界の記録ではなく、世帯の即時的な解体の帰結であった。さらにパリでは、収容の経路そのものが農村と異なっていた。1838年法以前からセーヌ県のaliénésはビセートルとサルペトリエールに集められ、その入口には警視庁が置かれていた。法の施行後も、パリの入院は圧倒的に職権入院によって行われた——1853年、パリでは入院の八割が職権入院であり、同年の全国の入院数は職権入院6,473に対しヴォロンテール入院2,609であった[1](Castel 1976, p. 239。典拠は Brierre de Boismont 1865)。カステルはこの職権入院の優位を、法が「行政と警察の法律」として運用され、精神疾患が危険性にほぼ排他的に指標づけられ続けたことの証拠と見る(同書 p. 240)。都市の収容は、家族の申請によるヴォロンテール入院よりも、路上と警察を経由する職権入院として現れたのである。リパがセーヌ県の女性患者について示した像——家族と警察と施設のあいだで、貧困と逸脱と狂気の境界が定まらないまま収容される女性たち——は、この都市型の経路の具体像である[34]〔要確認:該当章〕。
ただし本節は、七月王政期から法成立期までのパリに限定される。第二帝政期におけるセーヌ県のアジール網の建設、収容人口の膨張、そして世紀末に「家族の戦略」としてのヴォロンテール入院が職権入院を上回る過程(プレストウィッチ[5])は、続編「過密の時代」の主題である。
2-5 二つの収容要求が一つの装置に合流する
農村型と都市型の収容要求は、力学を異にしながら、一つの点で一致していた。いずれも、迅速で、安価で、家名を傷つけない排除=救済の経路を求めていたことである。農村の家族は禁治産の費用と公開性を避けたかった。都市の世帯には禁治産を申し立てる財産も時間もなかった。1838年法の行政的収容は、この二つの需要を単一の装置——県知事の署名と医師の証明書——で受け止めた。カステルが1837–38年の議会審議を「農村フランスと都市フランス、伝統的名望家とブルジョワジー……の闘争の一局面」と呼んだとき(Castel 1976, pp. 218–219)、争われていたのはまさに、この二つのフランスの収容需要をどのような施設網——修道会の私立施設か、県の公立アジールか——に導くかであった。
ただし合流は均質ではなかった。同じ装置の内部で、都市では県知事=警察の職権入院が主経路となり、農村では、本来県知事の職権に属するはずの職権入院を家族が村長や警察署長のもとに出頭して発動させるという、事実上の家族発動の職権入院が主経路となった(ル・ブラ、第三章3-2)。そして1872年の国勢調査がなお、施設内のaliénés 36,964名に対して在宅のaliénés 51,004名を数えていたことは[1](Castel 1976, p. 236, n. 7。典拠は Roussel 1884)、法の成立後三十年を経てもなお、農村の世帯が——カステルの言葉では「主として農村の近隣の回路」が——多数の病者を抱え込み続けていたことを示している。1838年法は農村型と都市型の需要を一つの装置に合流させたが、その装置が実際に受け止めたのは、都市の路上と、農村の防衛限界を超えた事案とであり、それ以外の広大な部分は世帯のうちに留まったのである。前章と本章の図式——包摂の広さと防衛限界の低さ——は、この在宅人口の大きさによって裏づけられる。
第三章 防衛限界の記録——入院文書が語るもの
本章で用いる二つの資料体——カーンのボン=ソヴール施設とカンペールのサン=タタナーズ施設——は、いずれも西部のものである。その代表性の限定については第二章2-3で述べた。
3-1 ケテルの語彙分析再訪
ケテルによるボン=ソヴール施設(カーン)の入院記録分析によれば、入院動機の46%は「暴力・騒々しさ・興奮・各種発作・危機・自殺企図」の語彙で記述されており、実際の比率はさらに高いと推定される[3]。拙稿「ピネルからクレペリンへ」1-2節でこの数値を社会防衛の論理の証拠として引いたが、本稿はこれを一歩進めて、世帯経済の防衛限界の記録として読み直す。「暴力」「興奮」「自殺企図」とは、行政官の分類語である以前に、家族が「もはや家に置けない」と判断した閾値の言語化である。
ただし、この資料体の性格について一つの留保を置かねばならない。カーンのボン=ソヴールは修道女会が所有・運営する施設であり、ケテル自身が別稿で示したように、1838年法が修道会施設にも常勤医師と研修医を義務づけたにもかかわらず、同院は世紀半ばまで研修医の受入れを拒みつづけた[2](Goldstein, p. 320 n. 129;Quétel, « Garder les fous dans un asile de province au XIXe siècle : Le Bon-Sauveur de Caen », Annales de Normandie, 1979, p. 101)。したがって入所記録の「暴力」「危険」の語彙は、精神医学の診断語彙というより、家族の申立てと行政の認可要件と修道会の受入れ判断とが交わる場で書かれたものである。それが家族の経験の語であると同時に収容を正当化する制度の語でもあるという両義性は、資料の性格そのものに由来する。しかもこの両義性には起源がある。エスキロールは1832年の隔離論で、在宅の精神病者が「彼らの狂暴の犠牲者であった人々——通常は家族——の存在によって絶えず刺激される」と書き、下層階級の精神病者は「一般に隔離されるべきである。その親族は監視と治療のあらゆる手段を奪われているのだから」と述べていた[2](Goldstein, pp. 290–291)。世帯の防衛限界は、法の六年前に、医学的適応として語彙化されていたのである。
3-2 家族による収容要請の実証研究
ル・ブラはフィニステール県カンペールのサン=タタナーズ施設の患者書類(県文書館所蔵の入院登録簿・書簡群)の分析から、収容要請が家族の「無秩序(désordre)」の経験——家計の破壊、近隣との軋轢、暴力の恐怖——から発せられる過程を再構成した[4]。そこで示されるのは、家族が収容を軽々に選ばなかったこと、収容が「最終手段としての調整(régulation en dernier recours)」であり、家族は「疲れ果て、あるいは破産して(épuisées ou ruinées)」はじめて施設に向かったこと、そして本来県知事の職権に属するはずの職権入院すら、実際には家族が村長や警察署長のもとに出頭して発動させていたことである。ただし限定を付しておく。ル・ブラの資料体は19世紀後半、すなわち1838年法体制が確立した後のものであり、法以前の状況への遡及適用は構造的類推にとどまる。とはいえ、法体制の確立後においてすら世帯の在宅維持がこれほど強靱であったという事実は、収容の制度的経路が未整備であった1838年以前において、世帯の抱え込みがなお長く深かったであろうことを強く示唆する。
3-3 閾値としての「危険性」
以上から、1838年法以前の状況は次のように定式化できる。世帯経済は病者を長く抱え込む。しかし病者が世帯の存立を直接脅かした瞬間、包摂は反転して排除の要請となり、共同体は防衛限界を超えた事案を上位審級——国家——に委ねようとする。問題は、この要請を受け止める制度的経路が、1838年以前のフランスには整備されていなかったことである。
第四章 司法的障壁——民法典の禁治産手続
4-1 1790年から1838年までの制度的空白
1790年3月の拘禁令状廃止法は精神病者の司法=医学的審査を予告したが、それを受け止める制度は作られなかった。その後の半世紀、収容の法的根拠は断片的な規定の寄せ集めのままであった。すなわち、市町村当局に「放置された狂人・狂暴者による災厄」の予防を委ねた1790年8月16–24日法、家族に監視義務を課し違反に軽罪刑を定めた1791年7月19–21日法(刑法典第475・479条に継受)、そして民法典の禁治産規定である[1](Castel 1976, pp. 51–54)。カステルが示すように、この三つの経路——行政・家族・司法——はいずれも単独では狂気の問題系を覆えず、司法大臣たちは県知事による法外の収容実務を繰り返し戒めながら、これを止めることができなかった[1](pp. 51–52)。エスキロールの1818年報告が全国の惨状——監獄・救護院・私設留置所に混在する病者——を告発したのは、この空白の帰結である。
4-2 禁治産手続の三重の障壁
民法典(第489–512条)が用意した正規の経路は禁治産宣告であった。「習慣的な痴愚、狂気または狂暴の状態にある成年者は、明晰な間歇期があっても禁治産に付されなければならない」(第489条)。しかしこの手続は、(1)煩雑——家族会(conseil de famille)の招集、裁判所への申立、審尋を要し、時間がかかる。(2)高額——訴訟費用は小農世帯の負担能力を超える。(3)公開——手続の公示は家系に「狂気の家」の烙印を押し、婚姻戦略と信用を毀損する。この三重の障壁はすでにアンシャン・レジーム期から知られており、家族が拘禁令状を選好したのはまさに「禁治産訴訟の不名誉(と費用)を免れる」ためであった[1][2](Castel 1976, pp. 29, 51–52;Goldstein 1987, ch. 8)。帰結は統計に現れている。アンシャン・レジーム末期において、狂気を理由とする監禁のうち「司法の命令(ordres de justice)」に属したものは、禁治産とその他の司法的経路を合算してもおよそ四分の一にすぎなかった[1](pp. 24–25)。革命はこの比率を改善しなかった。ジョルジェは1825年に「ほとんどすべての精神病者は禁治産宣告なしに収容されている」と証言している[16]。なお本稿初版は、これに続けて「平年である1835年に全フランスで言い渡された禁治産判決はわずか29件であった」と記したが、この数値は撤回する[17]。個別施設の水準でも同じ像が現れる。1821年、ビセートルには治癒不能と判定された651名の精神病者に対し、禁治産者はわずか18名しか数えられない(p. 170)。セーヌ県知事は1806年の書簡で、裁判所が定められた訪問と尋問に着手しながら「現行の諸法律が要求する方式の数と、各々の禁治産が生ぜしめるべき相当額の費用とは、今日に至るまで一件たりとも完結せしめることを許さなかった」と報告し、精神喪失者の収入が費用の支払に足りないために手続の停止を余儀なくされたことまで記していた(p. 170)。興奮した病者を今夜どうするかという世帯の切迫に対して、禁治産は構造的に応答できなかったのである。
この障壁が貧困世帯にとって何を意味したかは、ゴールドスタインが引く共和暦11年(1802–03)の一件が示している。コート=デュ=ノール県の貧困農業日雇いイヴ・ロベールは妻子に繰り返し暴力を振るっていたが、政府が費用を負担する禁治産訴訟——小郡治安判事の証言のみで fou et furieux と宣告された——を経なければ、レンヌのサン=メアンに送ることができなかった[2](Goldstein, p. 286 n. 35, p. 287 n. 37;AN F15 2604)。禁治産は「最も多くは富裕な家族が精神病の相続人の無責任な行為から財産を守るために起こすもの」であり、危険な貧困精神病者を収容するには政府が訴訟を起こし費用を負担しなければならなかった(同 p. 286)。法成立前の、西部の、世帯内暴力から禁治産の障壁を経て公的訴訟に至るこの連鎖は、本稿第三章が後代の資料から逆推論した構図が1838年以前にも公文書に記録されていたことを示す一例である。数字も同じ方向を指す。1835年、ビセートルの613人の収容者のうち事前の禁治産を得ていた者は19人にすぎず、地方の大半では「公共施設は受入れを拒み、判事は禁治産が宣告されない限りその入所に反対する」とガスパランは議会で述べている(同 p. 285;Arch. parl. 2e sér., t. 106, pp. 267, 271)。
4-3 障壁の帰結——法外の実践
その結果、1838年以前の収容実務は、県や市町村の場当たり的な行政措置、施設側の裁量、家族の私的取引によって担われる法外の領域に留まった。カステルの示す行政文書の系列がこの実態を伝えている。共和暦12年のポルタリス通達は「複数の県知事が自己の権限で狂人を逮捕させ、懲治場(maisons de force)に監禁させている」ことを戒め、1821年11月の司法大臣書簡は、禁治産が宣告されても収容が当然には帰結しない以上「行政当局は危険がある限り彼を監獄に留置しうるし、またそうすべきである」と認めざるをえなかった[1](pp. 51–52)。中央の対応は麻痺と再起動を繰り返した。1820年から1833年まで精神病者に関する内務省通達は一通も発出されず、1822年の内部覚書が「人道は呻吟し、公共の静穏は脅かされている」と訴えても動きはなかった。転機は1833年9月14日のダルグー内務大臣通達(実態調査の指示)、1835年6月25日通達(新立法の必要の公認)、1836年の精神病者事業特別監察官職の創設(フェリュス)、同年7月18日財政法(貧困病者費用の県経常費への暫定的算入)であり、この準備作業の上に1837年1月6日、ガスパラン内務大臣が法案を代議院に提出する[1](pp. 197–198)。この無規律状態こそ、立法を要請する行政側の動機であり、同時に「恣意的監禁」スキャンダルの温床として司法統制論の論拠でもあった。
第五章 行政的解決——1838年法の構造と成立
5-1 法律の二本柱
1838年法は、(1)各県にアジールの設置(または公私の既存施設との契約による確保)を義務づけ(第1条)、(2)入院手続を職権入院(placement d'office:県知事の命令、「公共の秩序または人身の安全」への危殆を理由とする。第18–19条)とヴォロンテール入院(placement volontaire:私人の申請+医師の証明書+施設長の受理。第8条。訳語については文献[19]を参照されたい。日本の現行法にいう「任意入院」とは正反対の内容であるため、本稿は訳さずカタカナ表記を用いる)の二本立てで法定した[19]。いずれの経路も裁判所を経由しない。禁治産は入院の要件から切り離され、司法は事後的統制——検事によるアジール定期視察(第4条)と、何人でも申し立てうる退院請求の裁判管轄(第29条)——の位置に退いた[1][14](Castel 1976, pp. 220, 243)。カステルの総括を借りれば、この法律の法的達成とは「禁治産なき隔離の合法化」にほかならず、書面上周到に用意された事後的な司法統制は、実際にはほとんど機能しなかった[1](p. 243)。
5-2 審議過程——司法統制派との攻防
議会審議(1837年1月–1838年6月)では、収容決定への司法関与を求める修正論が繰り返し提起されたが、迅速性と行政責任を盾に退けられた[1][2][15](Castel 1976, pp. 219–222;Goldstein 1987, ch. 8)。司法統制派の最も雄弁な論客は代議士イザンベールであった。フランソワ=アンドレ・イザンベール(1792–1857)は、職業政治家である前に法律家である。王政復古期には国王顧問会議・破毀院付き弁護士(1818–30)として、王政復古の政治司法=警察機構を相手取る大事件の弁護を歴任した——帝政復活を企てたとされ処刑されたカロン中佐の弁護(1822)、ラ・ロシェルの四軍曹事件の報道で訴追されたアルマン・カレルの弁護(1824)、そしてマルティニーク有色自由人流刑事件。政治文書の流布を理由に終身漕役刑を宣告されたビセットらの判決を1826年に破毀させたこの最後の事件が、彼の名を一躍高からしめた。かたわら司法専門紙『ガゼット・デ・トリビュノー』に協力し、5世紀から革命までの法令を集成する『フランス古法令集成』全29巻(1821–33)を主宰した法制史家でもある。七月革命後は破毀院判事(刑事部、1830年8月–)と代議士(1830–48、立憲野党)を兼ね、1834年にはフランス奴隷制廃止協会を創設してその書記となった[23]。カステルはこの人物を「王政復古期に『下級警察(basse police)』の実践に対する新聞キャンペーンのゆえに有罪判決を受けていた」経歴の持ち主として紹介する[1](p. 201。ただしこの有罪判決は標準的な議員名鑑・伝記に確認できない。文献[23]参照)。有罪判決の真偽はどうあれ、この経歴の意味は明瞭である。拘禁令状の記憶がなお生々しい王政復古の十五年間、行政=警察権力の恣意と弁護人席から対峙し続けた人にとって、精神病者の収容決定権を知事と内相に集中する1838年法案が何と映ったかは、経歴そのものが語っている——医学の言葉をまとって回帰する、あの機構である。彼は法案の本質を「巨大な権力の移転」と見抜き、「これは民法典を覆し、最も重大な場合において禁治産の必要的統制を廃止する法律である。……問題となっているのは拘禁令状の原理そのもの、いやその実物の復活である。……憲章第4条が保障する人身の自由、その基礎をなす司法的保障が破壊されようとしている」と論じた[1][18]。
では彼は、司法関係者の圧力ないし要請を代弁していたのか。事実はむしろ逆である。立法の出発点に立つ1835年6月のティエール内相通達(本稿4-3)は、公共の安全はなお放置された貧困病者に脅かされており、司法は「行政当局の協力」を求めていると記していた——狂気の処理に窮していたのは司法自身であり、裁判所は行政に救援を求める側にいたのである[3](Quétel 2009, p. 287)。イザンベール自身、破毀院の現職判事でありながら、演説の冒頭で「委員会および政府自身と、本質的な諸点において意見を同じくする」と反対の範囲を限定し、「裁判所は……禁治産以前には、人身の自由について暫定的にすら裁定することをあえてしない。他方、隔離の緊急性は多くの場合、禁治産手続の結果を待つことを不可能にするほどである」と、司法手続が機能していないという事実そのものを承認していた[18](AP CIX, p. 343)。すなわち彼が代弁したのは司法官団の職業的利害ではなく、憲章第4条と民法典に体現された司法的保障の自由主義的伝統であり、争点は事実認識ではなく、そこから何を導くかにあった。革命は二つの相互に矛盾する遺産を残していた——政府と委員会が依拠したのは市町村警察権の系譜(1790年8月16–24日法)であり、イザンベールが対置したのは司法審査の系譜(1790年3月法。彼はその第9条を議場で全文朗読した)である。1838年法とは、この二つの遺産のうち警察権の系譜を選択する行為にほかならなかった。彼の修正案は、公共の安全が要求する場合の収容を「司法の単純な命令(une simple ordonnance de justice)」に係らしめるものであったが、撤回と否決に終わる。委員会案が禁治産に代えて置いた暫定的後見の装置を、彼は「これは小型の禁治産である——ただし民法典が求める諸保障を欠いた(C'est une interdiction au petit pied, moins les garanties voulues par le Code civil !)」と評した[18](p. 345)——カステルが140年後に「後見(tutelle)」の概念で1838年法を特徴づけるより先に、当の議場で同じ診断が下されていたのである。1837年4月7日、代議院第一読会は投票230・白球183・黒球47で法案を可決した[15](AP CIX, p. 488)——約二割の反対票に、この抵抗の規模が現れている。ゴールドスタインはこの演説に、司法的保障の自由主義的伝統の代弁と同時に、「暗黙に自らの職能集団の特権を擁護する」水準を読み取り、反対票が『Courrier français』によれば「もっぱら」判事に代えて県知事が市民の自由を裁定することへの異議に由来したことを指摘している[2](Goldstein, p. 296)。ガスパラン法案は「司法に対し二度決定した」——収容の前提としての禁治産を廃し、非禁治産者の収容を監督する官吏としても判事を置かなかった——のであり、イザンベールの司法保障論はこの二重の排除に対する巻き返しであった(同 p. 292)。司法専門職は、行政官僚層と精神医学層の同盟に対して管轄と職能の双方を守ろうとした第三の層であり、その抵抗は少数派に終わった(姉妹論文 7.5)。
対する推進側は、提案者ガスパラン内務大臣、代議院報告者ヴィヴィアン、そしてアリエニストの代弁者デュフォールとカルマール=ラファイエットである。デュフォールは新しい知の含意をこう要約した——「隔離すること、禁治産にしないこと(isoler, ne pas interdire)。法が奨励するこの二つの新しい観念」[1](p. 222)。エスキロール、ファルレ、フェリュス、スキピオン・ピネルら著名アリエニストも議会委員会に聴取された[15]。とりわけジャン=ピエール・ファルレ(1794–1870。ピネルとエスキロールの弟子、サルペトリエール医師、医学アカデミー会員)は、代議院委員会に意見を求められた機会に所見を書面にまとめ、『精神病者に関する法案への所見』として1837年の『ガゼット・メディカル』に公刊した[22]。その第一の争点の立て方が、この文書の性格を決めている——「隔離は禁治産に従属させられうるか、させられるべきか」。答えは医師たちの全会一致を背にした否である。「禁治産は本質的に、病者の財産、その親族の財産、彼と取引関係をもつすべての者の財産の保全を目的とする司法的措置である。隔離は逆に、デリールが発現した環境の影響から病者を解き放つことを目的とする医学的措置である」——両者は「まったく異なる秩序」に属し、しかも禁治産は「それに伴う司法的装置によって……治癒への障害」ですらある[22]。この原理から、政府原案への具体的批判が導かれる。在院二年をもって病者の禁治産を強制する構想には「なんという混同か。不幸な者たちの治療を目的とする隔離を継続するために、財産の管理を守ることしか結果しない禁治産を発動するとは」と迫り、セーヌ県だけでビセートルとサルペトリエールの2400名を直ちに、以後年300名を順次禁治産に付すことの「道徳的不可能」を突きつけた。治癒不能と認定された者を治療施設から別施設へ移す構想(内相提案理由書)には、三重の害——病者自身を害し(不治と分類された途端に親族と友人は見舞いと世話を打ち切る)、家族の善意を麻痺させ、症例の歴史を分断して医学の進歩を遅らせる——をもって反対し、不治の宣告が恣意的でありうること、「しばしば理性の一部を保持したまま」宣告を悟る病者の苦悶を挙げた[22]。ケテルの要約を借りれば、彼はさらに、司法・行政当局のかたわらで「医学の知」がほとんど顧慮されていないことを難じ、行政が「医師と家族のあいだの信頼の契約」に干渉して道徳療法の成功を脅かすと批判し、「不治」という名称そのものを「人間性への侮辱」と斥けている[3](p. 288)。そしてこの報告書が「当初提案された政府案を実質的に台無しにすることに寄与し、下院の委員会がそれを大幅に変更することになった」(ケテル)[3](p. 288)。ファルレ自身、四半世紀後にこの文書を著作集に再録した際の緒言で、当の法案は「討議のあいだにほとんど完全に消滅した」と回顧している[22]。
では「大幅な変更」とは、具体的に何が変わったのか。政府原案の姿は、批判者たちのテクストから復元できる。そこには少なくとも、(1)家族の申請による入院にも県知事の事前許可を要求する規定——「政府委員は、行政当局がつねに介入することを欲する。職権で命令する場合であれ、家族の申請にもとづく隔離を許可する場合であれ」(エスキロールの要約)——、(2)知事が入院・退院の命令を発する前に諮問される視察委員会、(3)在院二年をもって病者の禁治産を強制する規定、(4)治癒不能者を治療施設から救護院系の施設へ移す構想、が含まれていた[15][22](Esquirol, Examen, pp. 11–12)。1837年3月18日に机上配付されたヴィヴィアン報告の委員会案は、このうち中核の(1)を削除する——家族の責任と迅速の要請を理由に、ヴォロンテール入院から知事の事前許可を外し、医師の証明書を添えた申請の施設長による受理と、事後の届出・統制という、成立法第8条の骨格に置き換えたのである[15]。(3)(4)も委員会審査の過程で消え、禁治産は「例外的な場合のために留保」され(ファルレの回顧[22])、財産の保全は禁治産によらない暫定管理(成立法第31条以下。本稿5-1)に委ねられることになる。(2)の視察委員会も最終的に法から消えた。ヴィヴィアン報告は、この再設計の原理を禁治産と入院の分離として定式化している——「禁治産の請求の直接かつ主要な対象は、精神病者の人身が対象となりうる措置とは無縁である。……禁治産がとりわけ視野に収めるのは物質的利益、すなわち財産の管理であり、人身に向けられる措置は、疾病の治療に、病者の安全とその親族の安全に結びつく」[15]。行政的規制の骨組みを残したまま、その重心を警察的な事前許可から医学的証明へ移すこと——委員会の仕事はこの一語に尽きる。次段落以下で逐条審議を追う第8条は、まさにこの置き換えの産物である。
しかし、こうした寄与にもかかわらず、千ページを超える議事録の中でピネルへの言及がわずか5行にすぎなかったこと(ケテル)[3](p. 287)に象徴されるように、精神医学が議論を主導したわけでは決してない。ではエスキロールは——イザンベールと逆の岸から——司法の介入に賛成していたのだろうか。否である。遅れて刊行された『法案検討』(1838年。刊年については文献[15]書誌注を参照)は、その冒頭近くで行政優位の原則をむしろ全面的に承認している——「行政当局の諸性格は、隔離が口実となりうる濫用を予防するための措置の性質と秩序に、卓越して適合している。……この当局は迅速と慎重をもって行動する。過つことがありうるにしても、その過誤は司法当局の統制に服する。司法当局はといえば、その形式の緩慢と荘重のゆえに、病者に最も好都合な諸条件を欠いている——措置の執行における迅速を欠き、病者の精神状態を公にすることで秘密を欠くのである」[15](Examen, p. 11)。法案全体の要約においても是認は明瞭である——「禁治産は、司法的形式ほど緩慢でも荘重でもない合法的諸経路によって置き換えられる」(p. 19)。司法は事前の関門としては排除され、過誤の事後的統制者として残る——エスキロールが承認したこの構図は、成立法の構図(第4条の検事視察・第29条の退院請求管轄。本稿5-1)そのものである。彼の不満は司法の排除にではなく、まったく逆の方向に向けられていた。標的は、貴族院委員会案が積み上げた「存在しないと誰もが認める濫用に対する、予防的規定と視察と統制の贅沢(un luxe de prescriptions préventives, de visites et de contrôles)」(p. 19)である。公立施設は政府ではなく病院行政の下に置くべきこと、職権入院の発動は知事より現場に近い市長に委ねるべきこと(ファルレも同意見)、視察当局が多すぎること——「なんと多くの訪問!なんと多くの訪問者!誰もが隠そうとしている病気の秘密に、なんと多くの人々が入れられることか」——、月次の医学観察を含む登録簿は適切に記帳されないゆえに無用であること……批判の目録は長いが、そのすべてが過剰な行政的規制に向かい、司法的保障を求める項目は一件もない[3][15](Quétel 2009, p. 289)。結論も同じ向きである——この案は家族の利益を十分に考慮せず、あまりに多くの義務が法律を適用不能にする、と。著名アリエニストのうち司法統制の側に立ったのはフェリュスただ一人であり——「医師のこの排他的な権限は、私にはつねに過大なものに思われてきた」——、ケテルは彼を「司法当局に従属した収容を主張するほぼ唯一の人物」と評している[3](p. 288)。かくして戦線は、司法(イザンベール)対 医学(アリエニスト)という単純な対峙ではなかった。司法自身は手を引くことを望み、アリエニストは司法の関門も過剰な行政的統制も望まず、医師と家族の裁量を望んだ。成立法の基本構図——行政優位、医師の証明、事後の司法統制——は、エスキロールが承認したまさにその構図であり、彼の不満はこの構図にではなく、その上に積まれた統制の量に向けられていたのである。
もっとも、審議に立った争点は司法統制だけではなかった。1837年4月5日、ヴォロンテール入院の要件を定める委員会案第5条(政府案第1・2条、成立法第8条)の逐条審議において、代議士シャラモール(Charamaule)は、条文が誰が入院を申請しうるかを一切定めていないという一点を突いた。委員会案が施設長に要求したのは、「1° 入院を実行させる者が署名した入院申請書」「2° 引渡しの15日前までに交付された、本人の精神状態を確認する医師の証明書」「3° 出生証書・旅券その他本人を特定しうる書類」「4° 禁治産宣告があればその判決の抄本」の四点にすぎない。「委員会の文言を検討する労をとるならば、この欠落に打たれるであろう。親族の意見の表明を何ら要求していないのである」——「かくしてこの証明書さえあれば、行きずりの者(la première personne venue)が他人を捕らえ、精神病者として拘禁させることができる」。彼の警告の内実は、本稿第一・三章が論じた世帯経済の力学そのものである。シャラモールは親族を等級に分けた。配偶者・卑属・尊属についてはなお「情愛の絆」による保護を期待しうる。しかし傍系親族しかいない場合、「しばしば利害は分岐し対立する(souvent les intérêts sont divergents et opposés)」——「有利な処分を期待する者は、その親族が十全に理性を享受していると考えたがる。廃除されることを恐れる者は、その親族が老いに伴う何らかの衰えをすでに帯びているなら、幼児期に立ち戻る寸前だと考えたがる。かくして家族は分裂する。遺言者の死後、『遺言者は精神健全ではなかった』との口実で遺言処分の無効を求める訴えがしばしば起こるのを人は見る」。彼が恐れたのは、新法がこの争いを遺言者の生前に前倒しすることであった——「私はこの法律が、これらの争いを急がせ、しばしば遺言者の存命中に爆発させることになりはしないかと恐れる」。ゆえに彼の修正案第5号は、配偶者・成年子・尊属の同意を要件とし、それを欠く場合は親族会の決議を求め、親族会に不一致があるときは第一審裁判所長の急速審理命令(ordonnance de référé)による認可を要求した。「傍系親族の多数決に〔病者の〕運命を委ねるのか。むしろ公正無私の司法官(un magistrat impartial)に付託し、傍系の分岐した意見を司法官の良心的な判断に従属させるほうがよい」[20](pp. 410–411)。
この提案は否決された。翌6日にかけて、家族の同意を入院要件に組み込もうとする試みはさらに二度——ラ・ロシュフーコー=リアンクールの「本入院は家族または配偶者の署名した同意によらなければ確定しえない」とする修正案、グレ=ビゾワンの、扶養義務者の同意またはその拒否理由を申請書に添付させるという緩和案——提起され、いずれも否決された[20](pp. 416, 423)。報告者ヴィヴィアンの拒否理由は三つに整理できる。第一に家名——「精神疾患は一種の烙印であり、それに冒された者の属する家族に投げつけられる一種の屈辱である。……この正当な懸念に配慮し、家族を安堵させるためには、法が公開性を招きかねない手続を要求してはならない」。第二に迅速性——医師たちが一致して「隔離が第一の治療である」と述べている以上、諸形式に訴える必要から生じる遅滞は「病者の状態を損ない、その状態を悪化させ、重篤な性格をもたなかった精神錯乱を、激烈な、ときに致命的な狂乱へと変質させる危険がある」。第三に、これが最も明瞭であるが、そもそも司法的な法律を作る意思がなかった——「われわれは司法的な法律、手続の法律、訴訟沙汰の法律(une loi de chicane)を作ることを欲しなかった。破滅的で、負担が重く、われわれの見解に反する諸形式を課すことを欲しなかった。われわれはまず病者の利益を考慮した。法はその利益のために作られているからである」[20](pp. 413–414)。申請者の資格については、短い応酬が記録に残っている。シャラモールが「委員会は入院を要求する者の署名した申請書を求める。ではその人物とは誰なのか。条文は言わない。親族でなければならないのか。それも要求していない」と述べ、ヴィヴィアンが条文を読み上げると、シャラモールは重ねて問うた——「誰によってか(Par qui ?)」「そしてその人物とは誰になるのか(Et quelle sera cette personne ?)」。ヴィヴィアンの答えは、資格を定義しないことをそのまま原則として述べるものであった——「それは血の絆によって、また場合によっては不幸にも精神疾患に冒された者の置かれた状況によって、その措置をとるべく呼ばれる者であろう。すべての場合を予見することは不可能である」(p. 415)。なお、家族の同意要件に反対する論拠として、家族の利害は逆向きにも働きうることが指摘されている点は見落とすべきでない。グレ=ビゾワンは自らの緩和案を説明して、シャラモール案は行き過ぎだと述べた——「親族が一致して、ある種の偏見から、あるいは扶養料を負担しなければならないという恐れから、同意を拒むということも起こりうる」(p. 423)。同意を強要される家族と、費用を恐れて同意を拒む家族。1838年法が扶養義務者への費用転嫁を明文で組み込んだこと(第25–28条。本稿5-3)を思えば、この危惧は抽象的なものではない。
では立法者は、家族の証言が利害に汚染されうるという危険を認識しながら、何をもってそれに代えたのか。ヴィヴィアンの答えは明快であり、かつ1838年法の性格を決定づけた。司法官でも親族会でもなく、相互に独立した複数の医師の視線である。「入院前に証明書を交付すべき医師、施設付きの医師、そして最後の診察のために知事から委嘱される医師——この三者がそろって、存在しない精神錯乱を証明するなどと想定しうるだろうか。」だからこそ彼は、正気の者が収容されるという懸念を「笑うべきもの(dérisoire)」と斥けえたのである[20](p. 413)。ただし、この「三重の視線」には同じ審議のうちに穴が開いている。第8条第2項——「公立施設は、入院前に医師の証明書の提出を要求することを免れうる」——が異議なく可決されているからである(p. 423)。施設外の医師による事前の証明が必須なのは私立施設についてであって、県が設置する公立アジールでは省略しえた。ヴィヴィアンの論拠が完全な形で妥当するのは、営利の疑いを向けられていた私立施設に対してである。また三つの視線のうち第二のもの(施設付きの医師)は、収容の継続に施設自身の収入がかかる位置にあり、独立とは言いがたい。事前に、かつ利害の外から本人を診るのは、実質的には第一の医師ひとりである。成立法第8条が、入院前の証明書について「引渡しの15日前より古いものであってはならない」「施設付きの医師が署名したものであってはならない」「署名医が施設の長もしくは所有者、または入院を実行させる者の二親等以内の親族・姻族であってはならない」という三重の除斥を課したのは、この設計の帰結である[14]。医師を利害から切り離すことが、家族を統御することの代わりに置かれた。そしてこの選択は、1838年法そのものが廃止されたのちも残った。1990年6月27日法の第三者要求入院(HDT)は「15日以内の日付をもつ、詳細な二通の医学証明書」を要求し、「第一の証明書は、患者を受け入れる施設で診療していない医師によってのみ作成されうる」と定め、さらに両医師が相互にも、施設長とも、入院を要求した者とも、患者本人とも「四親等以内の親族・姻族であってはならない」とした[21]。「15日」「施設外の医師」「親等による除斥」という三つの要件は、152年を隔てて逐語的に反復されている。——議会は危険を知らなかったのではない。知ったうえで、司法的保障ではなく医学的複数性という別種の保障によってそれを引き受けたのである。そしてこの選択には、代償があった。医師を利害から遠ざけることはできても、利害そのものを裁定する権能が医師に与えられたわけではない。ヴォロンテール入院の経路には診察はあるが、審尋がない。複数の医師が本人を診る。しかし本人の言い分を当事者の主張として聴取し、対立する陳述のいずれが事実かを確定する手続は、条文のどこにも置かれていない。シャラモールが「公正無私の司法官」に委ねようとした機能——分岐した証言のあいだで事実を決すること——は、1838年法において誰にも帰属しないまま残されたのである。
ただし、この立法過程の帰結について、カステルは通説的な図式を一つ修正している。しばしば1838年法はアリエニストが行政と結んで作らせた法として語られるが、事の順序はむしろ逆であった。内務大臣の当初案は「純粋に行政的な論理に発想を得ており、知事に権限の大半を与えようとしていた」——前々段落で復元したとおり、事前許可・視察委員会・二年後の強制禁治産・不治者の救護院送りが、その論理の中身である。それを「根底から変形させることに寄与した」のが、両院における精神科医たちの代弁者デュフォールとカルマール=ラファイエットの度重なる発言だったのである。変形の中身は、二つの水準で特定できる。第一に、司法排除の医学的正当化。デュフォールは1837年4月7日の演説で、禁治産手続そのものを治療の敵として描いた——病者を「法廷へ呼び出し、尋問に付し、あの司法的装置一式で取り囲むこと」は「しばしば症状の危険を増大させ、ときにその状態を治癒不能にする」。しかも民法典の障壁が除かれれば「親族はもはや、精神病者たる縁者の財産を保全する手立てのために禁治産を発動する必要がなくなり」、「一個の財産の保全のために、一個の理性を、一個の意志を、一個の道徳的生の全体を危うくするあの致命的な措置」を避けうる[15](AP CIX, p. 482)。前出の「隔離すること、禁治産にしないこと」は、この論証の結語である——行政の要求(隔離)を医学の理由(治療)で全面的に引き受け直す、カステルの言う「治療的隔離」による置換の、議場での実演にほかならない。第二に、公的救済義務の書き込み。討論の冒頭からデュフォールが提出した修正案は、各県に精神病者のための公立施設を義務づけるものであり、これが成立法第1条となった——狂気の収容と治療が公権力の法定義務となった、フランス法史上最初の瞬間である。医師出身の代議士カルマール=ラファイエットはこれを急進化させ、「1819年にエスキロール氏が最初に提示し、1834年に老練なフェリュス氏がなお推奨する体系こそが、実り豊かな結果に導きうる唯一のものである」として、フランスを4〜6県ごとの区域に分かち、各区域に400〜500床の中央施設を置く全国配置を説いた[1](p. 224。なお、この区割りの発想が120年後のセクトリザシオンを遠望させることは、注記に値する)。ゴールドスタインの再構成は、この転換に日付と数字を与える。ガスパラン原案とヴィヴィアン委員会の修正案はアジール制度の確立を規定しておらず、1837年4月、カルマール・ド・ラファイエットが「86県中48県が治療施設を欠くのに全県知事に遅滞なき収容を命じる」という法案の内部矛盾を突き、政府の医学的言明を額面通りに受け取って施設設置義務を要求したとき、この「非難しようのない論拠」が議会に容れられ、立法は「政府の手続規定を包摂しつつはるかに超える」方向へ転じた[2](Goldstein, pp. 297–298)。彼の集権案——「フランスは26の司法管区、21の軍管区、13の教会管区、20の森林区に分かれ、中央監獄もすでにある。同じ原理で公的精神病施設を創れ」——は、貴族院でダルトン=シェ伯がエスキロール、フェリュス、レリュ、ロンドの四人に諮って示した300〜500床の国立施設案(県当たり平均精神病者数はわずか141人)に引き継がれたが、モンタランベールの反対に遭って退けられた(同 pp. 298–299)。カステルはこの転換を一句に凝縮している——「こうして『警察と財政の法律』は『慈恵と公的救済の法律』となった」[1](p. 219)。すなわち行政的解決は法案の出発点であって到達点ではなく、医学的正当化はむしろ議会審議の産物であった。この順序は本稿の枠組にとって重要である。「上からの要請」とはまず警察と財政の要請であり、治療の言語はその要請を議会で通過させるために後から接ぎ木された。ただしカステルは、その結果を勝利ではなく「いくつもの水準で労苦のうちに交渉された妥協であり、精神医学の将来の発展の可能性を保証すると同時にそれを封じもするもの」と評価している(同)。妥協の刻印は、勝利の条文であるはずの第1条自身に読める。デュフォール案は「その内容の半分を空洞化する方向で」修正を受け、県は自前のアジールを建設する義務を負わず、他県の公私の施設、あるいは行政の認可と統制を受けた自県の私立施設と契約することで足りるとされた。カステルの言うとおり、この一項のゆえに法は公立アジール建設への決定的な推進力とはならず、既存の私立システムの本質的部分が温存(reconduit)される。アリエニストが望んだ「治療の絶対的独占を行使する均質な公的組織」の野望は、ここで挫折した[1](pp. 226–227)。貧困病者の費用負担を県と市町村に義務づけた第28条(本稿5-3)をカステルが「はじめて承認された治療への権利」と呼ぶこと(p. 228)と併せれば、「慈恵と公的救済の法律」の内実は、この二つの条文——施設を確保する義務を負う県と、貧者の費用を支払う県——に集約されている。
5-3 財政構造——誰が払うか
法の第三節「精神病者事業の費用」(第25–28条)は、負担の連鎖を明文で定めた。入院費用はまず被収容者本人の資産に、それを欠くときは民法典第205条以下の扶養義務者——すなわち家族——に課され、いずれも欠くか不足する場合にはじめて、病者の属する県の経常費に充てられた付加税(centimes)により、住所地市町村の分担金を併せて支弁される(第27–28条)[14]。ここに本稿の枠組の要点がある。すなわち1838年法は、扶養能力の審査を組み込んだ費用移転の装置であり、世帯経済が担いきれなくなった貧困病者の扶養費用だけが県財政へ移転される。「排除」と「救済」が同一の財政操作の両面であった。この費用配分の設計が自明のものでなかったことは、その思想的前提を見れば明らかになる。18世紀後半、富を労働に結びつける関係が発見されて以降——「長らく賢者の石が探し求められてきた。それは見出された、労働である」——、富はもはや主権者から与えられ施しによって再分配される贈与ではなく、交換の産物とみなされるようになった。カステルが引く同時代人はここから扶助政策の帰結を引き出している。「したがって公的救済の問題は、道徳の問題でも純粋な慈恵の問題でもない。それは警察と行政の問題である。貧しい病者を救済することはしたがって徳ではない。それは政府の義務であり、それどころか、国家の必要なのである」[1](pp. 127–128)。扶助への権利は繰り返し否認され(テルミドール反動期のドゥルクロワ、1830年代のデュシャテル)、その空白を埋めたのが、カステルの言う「観念と実践的イニシアティヴの実験室」としての慈善事業(philanthropie)である(pp. 134–135)。1838年法の費用条項が、まず本人資産、次に扶養義務者、最後に県という後順位の連鎖として組まれたのは、この文脈においてである。救済は権利としてではなく、他のすべての扶養資源が尽きた地点で発動する後見として設計された。ただしカステルが強調するように、中央政府は自らは一銭も負担せず、県会と市町村会の交渉に配分を委ねた(第28条)。施行通達(1838年7月28日・1839年8月5日)は早くも県に対しアジール新設への「慎重」を説いており、立法への執念とは対照的な適用への無関心が、後年の施設不足と過密の一因となる[1](pp. 234, 243)。貧困病者の入院費を県が負担する構造は、(続編で論じる)収容人口の膨張が県財政問題として現れる伏線となる。ただしゴールドスタインは、政府が可決後は施行に関心を持たなかったというカステルの命題(pp. 235, 241–243)を、内務省 F15 系列の文書によって明確に退けている——1838年9月にはモルビアン県知事が「去る6月30日の法の違反」(留置場での狂暴者の拘禁)で叱責され、1839年から41年にかけて一連の通達が施行を指示した[2](Goldstein, p. 307 n. 91, nn. 92–93)。無関心であったのは施設新設の財政負担についてであり、収容手続の施行についてではない。
5-4 実施の地理——建てた県、委託した県
前節までは、費用と施設確保の義務を法文の水準で見た。第1条が県に課したのは「アジールを設置する」義務ではなく、「設置するか、または公私の既存施設と契約する」義務であった(5-2)。この一項が実際に何を生んだかは、法の成立から三十六年後に監察官コンスタン、リュニエ、デュメニルが内務大臣に提出した1874年の総合報告によって、県ごとに確かめることができる[35]。
ただし1874年より早い三つの時点が、この地理の読み方を定める。第一に1837年4月、カルマール・ド・ラファイエットが議会で示した「86県中48県が施設を欠く」という法成立時点の基準値[2](Goldstein, p. 297)。第二に1833年、ダルグー通達への県の回答を集計してフェリュス『精神病者について』(1834)巻末に折込表として公刊された県別所在表——「1833年9月14日の精神病者に関する通達によって提示された15の質問に対する県知事諸氏の回答の概要表」(同 p. 159 n. 33, p. 309 n. 98)〔要確認:Gallica で入手し照合する〕。第三に1842年8月31日通達による第二次調査で、集計・公刊はされなかったが県知事の回答が AN F15 3906 に現存し、ゴールドスタインはそこから、県が公的資格で用いた修道会施設13を県別に表にしている(同 pp. 310–312, Table 8.1)。その分布は、ブルターニュ(コート=デュ=ノールのルオン、マンシュのサン=ロ——イル=エ=ヴィレーヌは自県のサン=メアンを補完するために協定した)、ノルマンディ(カーンのボン=ソヴール——カルヴァドスとウールに奉仕)、東部(マレヴィル——七県に奉仕)、中央山塊(ラ・スレット——六県に奉仕)に集中し、のちの宗教社会学が篤信地域と同定した地域とほぼ重なる(同 p. 314)。本稿が第二章で家族類型の地図として描いた西部は、この宗教実践の地図の上では、修道会施設に依存した帯である。1837年の議会でカルヴァドス選出の代議員がカーンのボン=ソヴールを持ち出し、修道会施設が地方の貧困精神病者をすべて引き受けているのだから県立アジールの負担は冗長で、公立は「十倍の費用」がかかると論じたことは(同 p. 302)、本稿第三章の資料体が「建てなかった県」の側の記録であることを示している。しかも精神科医と行政の側から見れば、この依存は暫定であった。1839年8月5日と1840年8月16日の内相通達は、私設または他県施設との協定を1年以内に限るか、3〜6か月の予告で解除できる権利を留保するよう県知事に命じており(同 pp. 316–317)、行政は「均一に公立・世俗のアジール制度」の理想を保持していた。1874年図の「モザイク」は、こうして、貴族院多数派が意識的に選んだ「公立と修道会の恒久的パッチワーク」(同 p. 304)と、内務省が暫定と見なした間に合わせとのあいだで生まれたものである。
報告によれば、1874年時点でaliénésを収容する認可施設は104を数え、うち公立アジールの機能を果たすものは79であった。その内訳は、県の所有する特別アジール38(他に国立のシャラントンと、独自の法人格をもつ7施設を加えて45)、救護院の一角を充てた「救護院区画(quartiers d'hospice)」16、そして公立アジールの機能を果たす私立アジール18——うち16が修道会の経営——である(pp. 76–79)。「特別」施設として新築されたものは45のうち24にすぎず、残る21は旧修道院などの古い建物を転用したものであった。しかも24の新築のうち2つ(ラ・ロシェル近郊のラフォン、ル・マン)は1838年法以前に完成しており、法の施行後に県が自らの費用で新設したアジールは、セーヌ県の3施設を含めて18にとどまる(p. 80)。カステルが「1838年から1852年までに設立された新しいアジールは7つにすぎず、うち真の新設は3つ」と述べ、「1874年になお、八十八県のうち四十県しか特別施設を備えていない」と総括したのは、この報告に拠っている[1](Castel 1976, p. 235)。
では、施設を持たない県は何をしたのか。報告は1864年の県別統計を検討して、次のように述べている。ウール県は「1864年には特別施設を持たず、そのaliénésのほとんどすべてを隣接諸県のアジールに委託していた」ため、扶助されたaliénésの人口比では第53位に位置しながら、支出の比では第5位に置かれる。ヴァール、モゼル、オート=ソーヌの各県も同様である。扶助率の最も低い二十県のうち、自前のアジールを持つのはバス=ピレネー、ジュラ、アヴェロンの三県のみで、「他の十七県は1864年、そのaliénésを隣接県の施設または私立アジールに委託していた」(pp. 269–270)。報告はここから、施設を持たない県が有利な条件にあるという結論を退け、これらの県の多くが人口密度の低い県であり、「比較的無害なaliénésの収容が最も必要でない」県であって、「まさにこれらの事情のゆえに、これらの県はアジールの建設を考えなかった」と説明している(p. 270)。逆に、扶助率の最も高い二十県のうち十一県は「早くから公立の特別アジールを持つ」県——セーヌ=アンフェリユール、ブーシュ=デュ=ローヌ、ヴォクリューズ、メーヌ=エ=ロワール、コート=ドール、ロゼール、ムルト、アリエ、ムーズ、サヴォワ、アリエージュ——であり、四県は救護院区画、二県(ロワール、カルヴァドス)は私立アジールにaliénésを委ねていた(p. 269)。
この分布は、第1条の「契約」条項が、法の適用を県の財政能力と人口密度の関数に変えたことを示している。人口稠密で富裕な県、あるいはセーヌ県のように都市の収容需要に迫られた県は自前の施設を建て、人口の希薄な貧しい県は隣県または修道会との契約で済ませた。中央政府はこの格差を是正しなかった。施行通達(1838年7月28日・1839年8月5日)はむしろ県に対し、施設の新設は「県の財政状況の十分な検討ののちにのみ」議決すべきであり、「各県が精神病者のための特別救護院を設置し維持する負担を負うことは決して望ましくない」と説いていた[1](Castel 1976, pp. 234–235)。ルノーダンが二十年後に、多くの県会が「新しい事業の組織に対して当初から体系的な敵意」を示したと回顧したのは、この文脈においてである(同書 p. 234)。
実施の地理には、もう一つの次元がある。セーヌ県である。人口と収容需要の最も大きいこの県は、サンタンヌ、ヴィル=エヴラール、ヴォクリューズの三施設を建設してなお収容しきれず、余剰の病者を全国の県立・私立アジールに送り出していた。1874年の報告は、「資源の不足と利益の魅力に押されてセーヌ県と契約する」地方アジールが、収容能力を顧みず「aliénésを狭すぎる施設に詰め込んでいる」ことを告発し、監察官たちが「あらゆる地点で、セーヌ県のaliénésから、南部出身者が北へ、北部出身者が南へ移送されたことについての多数の苦情を受けた」と記している(pp. 482–483)。都市の収容需要は、県の境界を越えて、施設を持つ地方の県に財政上の機会を与え、病者には遠隔地への移送を強いた。第二章2-5で述べた農村型と都市型の合流は、施設の地理においては、パリの病者が地方の修道会施設に送られるという形で現れたのである。
以上を要するに、1838年法が「制度を受け止める側」に残した格差は、法文の水準(本章5-3の費用の後順位連鎖)と実施の水準(本節)の二層をなす。前者は世帯から県への費用移転の順序を定め、後者はその県がどの程度の負担を引き受けるかを、県の財政能力と人口密度と、修道会施設の有無に委ねた。1838年法体制下の収容の地理は、この二層の格差の合成として理解されねばならない。その帰結——収容人口の膨張とセーヌ県の過密——は続編の主題である。
5-5 行政的解決の意味——下からの圧力と上からの要請
かくして1838年法の成立は、二つのベクトルの交点として理解できる。下からは、世帯経済の防衛限界を超えた事案の処理要求——迅速で、安価で、家名を傷つけない排除=救済の経路への需要。上からは、法外状態の規律化と警察権の合理化という行政の要請。禁治産の司法モデルはどちらの要求も満たせず、行政=医療モデルがその隙間を埋めた。エスキロールの「治療装置としてのアジール」論は、この解決に治療的正当化の言語を提供したのである。
第六章 比較の視座——スカル・テーゼとフランスの特殊性
6-1 スカルのイギリス論
スカルは、イギリスの施設収容の拡大を賃労働市場の成立に結びつけた。労働力が商品化された社会では、働けない成員を抱える余力が世帯から失われ、「処理」の需要が施設に向かう[11]。本稿の枠組は一見この裏返し——フランスでは世帯経済の残存が収容を遅らせた——だが、単純な対称は成り立たない。
6-2 スカル・テーゼへの批判と限定
鈴木晃仁はイギリスにおいてすら家族が在宅ケアの主体であり続けたことを示し[12]、バートレットは収容の駆動力を資本主義一般ではなく救貧法行政の構造に求めた[13]。これらの批判を踏まえるなら、英仏の差は「プロレタリア化の有無」という経済決定論ではなく、防衛限界を超えた事案を受け止める行政経路の違い——救貧法体制(教区・救貧組合)対 県行政体制(1838年法)——として定式化するのが精確である。
6-3 フランスの特殊性の再定位
フランスの特殊性は、(1)小農社会の存続により防衛限界の突破が「点」として(大量現象としてではなく)発生し続けたこと——ただしその様相は、相続慣行と家族類型の地域差、および都市と農村の二重構造によって分節される(第二章)——、(2)その処理経路が司法でも救貧行政でもなく、県知事の警察権と医師の証明書の結合に置かれたこと、の二点に求められる。この制度選択が後年いかなる帰結——収容人口の膨張と第二帝政期の過密——を生んだかは、続編の主題である。
結語
1838年法は、精神医学の勝利の記念碑である以前に、小農社会の世帯経済がその防衛限界において国家と取り結んだ契約の文書である。治療の言語で書かれたこの契約の実質は、世帯が担いきれない危険と費用の県への移転であり、その迅速な執行のために司法は迂回された。しかしこの移転が可能であったのは、契約社会がその成立の時点ですでに、契約を結びえない者のための第二の身分——司法的でも家族的でもない後見——を必要としていたからである。カステルが「契約社会の機能にとって本質的な新しい後見の身分」と呼んだものは、上からの統治の要請としては1790年代にすでに輪郭を得ていた。それが1838年に法の形を取ったのは、下から、世帯経済の防衛限界が同じ経路を求めたからである。1838年法とは、この上下二つの要請が同じ一点で出会ったことの記録であり、その一点に置かれたのが県知事の署名と医師の証明書であった。
この署名と証明書は、抽象的な「国家」と「医学」のものではない。世帯の防衛限界を国家に接続したのは、村長の報告を受けて職権入院を命じた県知事であり、ヴォロンテール入院の申請に証明書を添えた地方の医師であり、そしてその医師の多くを地方施設に配置した精神医学の職能集団——エスキロールが1817年の講義から作りはじめ、1838年法が内相の任命する官吏の身分に変えた層——であった(姉妹論文 7.5)。本稿が「契約」と呼んだものは、したがって、国家と世帯が主体として合意した契約ではない。それは、契約を結びえない者をめぐって、契約社会が要請した後見の形式と世帯経済が突き上げた排除=救済の需要とを、中間の層が一つの手続に翻訳した、機能的な負担移転である。患者本人は、この翻訳のどの段階にも席をもたなかった。1838年法が判事を医師と患者のあいだから取り除いたとき、精神医学の職能集団が得たのは「診察はあるが審尋がない」構造(5-2)であり、それは同時に、患者が自らの収容について語る唯一の公式の場が消えたことを意味した。貴族院が「家族の自由」の名で混合施設の禁止を葬り第5条を書き換えたとき、立法過程に直接現れた「下から」の声は、恥ずべき秘密を隠す権利を求める富裕家族のものであって、貧困世帯のものではなかった[2](Goldstein, p. 301)。本稿が扱った世帯経済の需要は、法文に痕跡を残さず、中間層の手続を通じてのみ制度に達したのである。
拙稿「ピネルからクレペリンへ」が論じた「空間的閉鎖」は、この契約によって制度化された。空間的閉鎖の内部で収容人口がいかに膨張し、都市の変貌——オスマンのセーヌ県アジール網を含む——がこれにいかに合流したかは、続編で論じる。