過密の時代

1838年法体制下のアジール人口とセーヌ県、1838–1874
Le temps de l'encombrement
La population des asiles sous le régime de la loi de 1838 et le département de la Seine, 1838–1874
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Editio princeps · Augustus MMXXVI
〈閉鎖の三部作〉第二部。第一部 「1838年法の政治経済学——世帯経済・禁治産・行政収容」、 第三部 「ピネルからクレペリンへ——精神医学の覇権移動とその政治経済的背景」(いずれも公開済)。
要旨 Abstract

【日本語要旨】 1838年6月30日法体制下のフランスで、アジール収容人口は1834年の約一万から1874年の四万二千七十七へ、四十年で四倍に膨張した。本稿はこの膨張の内実を、内務省精神病者事業総監察官コンスタン、リュニエ、デュムニルによる1874年の公式報告(1878年刊、564頁)の通読と統計表の検算とにもとづいて再構成する。管見のかぎり本報告書を正面から対象とした研究はなく、カステルも総論部分を六箇所引くにとどまり、第二部の財政表と県別記述には触れていない。得られた像は次のとおりである。第一に、増加を作ったのは法ではない——監察官自身が法の即座の効果を否定している。増加を規定したのは施設の建設速度と、住民が「アジールの救助を求める習慣」を身につける速度であり、その習慣は「アジールが近いほど速く」広がった。そして建設は行政権の配置に従って律動した。知事が主導権を握った帝政期の十四年間に十四施設、財政決定権が県会へ移った1866年以後の八年間に新規の建設決定は二県にとどまる。第二に、増大は入口の広がりよりも出口の閉塞によって生じた。十年間の退出者の四割は死亡によるものであり、治癒率は低下しつつあった。監察官たちは収容者の一割以上について「アジールにいるべきではない」と認めながら、危険性の論拠と、救護院の日額のほうが高いという財政の論理とが、二重に出口を塞いでいた。第三に、四十年で諸県が真に創設したアジールは十八にすぎず、設置義務は旧修道院の転用・救護院の一角・私立施設への委託という最小限の費用で履行され、建設を回避した県は単価の上昇として支払った。費用の連鎖は家族(1860年6.30%→1872年5.65%)から公費へ滑り、施設そのものは五年間で三百八十万フランの経常黒字を計上していた。第四に、セーヌ県の県外移送は1844年——オスマンの県知事就任の九年前——に、明示的に過密(encombrement)を理由として始まり、1874年、首都は被扶助精神病者七千七十二名のうち三千九百五十三名を地方へ送り出すことで辛うじて均衡を保っていた。英仏比較は水準の差(フランスの収容率はイングランドの半分以下)と勾配の一致(十数年で二割前後)を示し、イギリス型の司法的・専門的監視(ルナシー・コミッショナーズ)の導入は、知られ、審議され、そして費用を理由に斥けられた。前稿が「契約社会の後見(tutelle)」の制度化として読んだ1838年法は、四十年の運用のうちに、解除されない身分と事実上の公費負担制度になっていたのである。

キーワード:過密(encombrement)、1874年総報告(コンスタン=リュニエ=デュムニル)、アジール、1838年法、セーヌ県、日額単価(prix de journée)、職権入院(placement d'office)、家族同意入院(placement volontaire)、行政権の配置、英仏比較、後見(tutelle)、カステル


Abstract (English)

Between 1834 and 1874 the population confined in French asylums quadrupled, from some ten thousand to 42,077. This paper reconstructs the anatomy of that growth from a source which, to the best of our knowledge, has never been made the frontal object of a study: the Rapport général à M. le ministre de l'Intérieur sur le service des aliénés en 1874 by Constans, Lunier and Dumesnil, inspectors-general of the service (Paris, Imprimerie nationale, 1878, 564 pp.), here read in full, with its statistical tables recomputed and its French quotations collated against page images; even Robert Castel cited it only six times, never touching its financial tables or its departmental descriptions. The findings are as follows. First, the law of 1838 did not itself produce the growth — the inspectors say so expressly. Growth was governed by the pace of asylum construction and by the spread of “the habit of claiming the relief of the asylum,” a habit which spread “the faster, the nearer the asylum”; and construction followed the distribution of administrative power — fourteen asylums in the fourteen years when the prefects held the initiative (1852–66), decisions in only two departments in the eight years after financial power passed to the conseils généraux. The series of confinements, meanwhile, registered changes of political regime hardly at all. Second, the increase came less from a widening entrance than from a blocked exit: forty per cent of the decade's departures were deaths, cure rates were falling, and although the inspectors themselves acknowledged that more than a tenth of the inmates did not belong in an asylum, the argument of dangerousness (“harmless today, dangerous tomorrow”) and the logic of cost — hospice rates exceeded asylum rates — kept them inside. Third, in forty years the departments truly founded only eighteen new asylums, discharging their statutory obligation through converted convents, hospice wards and private contractors, and paying for that avoidance through rising prix de journée; the chain of payment instituted by the law slid from the families (6.30% of expenditure in 1860, 5.65% in 1872) towards public funds, while the asylums themselves ran an operating surplus of 3.8 million francs over five years. Fourth, the Seine began transferring its patients to provincial asylums in 1844 — nine years before Haussmann's prefecture — explicitly because of encombrement; by 1874 the capital preserved its equilibrium only by sending away 3,953 of its 7,072 assisted insane, while in Paris admission ran not through the two channels of the law but through the dépôt of the prefecture of police, “the true admissions office.” An Anglo-French comparison shows a difference of level (the French confinement rate less than half the English) but not of slope (both grew by roughly a fifth in ten to fifteen years); and the English model of salaried, professional, judicial inspection — the commissioners in lunacy — was known in France, debated in 1872–73, and rejected on grounds of cost. The tutelle which the preceding paper read as the second status required by contract society had become, after forty years of operation, a status rarely rescinded and a de facto system of public charge.

Keywords: encombrement, Constans–Lunier–Dumesnil report of 1874, asylums, law of 30 June 1838, département de la Seine, prix de journée, placement d'office, placement volontaire, distribution of administrative power, Anglo-French comparison, tutelle, Robert Castel

凡例・訳語

【資料と頁】本稿の統計と引用はすべて Constans, Lunier et Dumesnil, Rapport général à M. le ministre de l'Intérieur sur le service des aliénés en 1874, Paris, Imprimerie nationale, 1878[1] に拠り、本文中の(p. N)は同書の印刷頁を示す。他の文献への参照は[番号]で文献表に対応させた。

【引用】引用は仏語原文と拙訳を併記する。原文は Google Books 全文版のテキスト層から採取し、明らかな光学式文字認識の誤り(fixésurfixé surGetCet 等)および原本の分綴ハイフンは正字に改めた。引用末尾の脚注番号は省き、省略は[…]で、原本の段落の切れ目は/で示した。仏語引用および本稿が用いた統計表は、原本頁の画像と逐語照合・検算済みである(2026年8月15–16日)。なお原本は、フランの略号を上付きの f で組む(« 0f 017 »)ほか、百分率記号を « 0/0 » と組んでいる。引用にあたっては前者を « 0 fr. 017 » の形に統一した。

【原本の誤植】検算により原本側の誤植・計算不整合と判明した数値(第一章1-5の「961」、第二章2-4の「3,90」、第四章4-6の「4フラン」等)は、原文のまま引用したうえで、その箇所に訂正値ないし不整合の内容を注記する。誤りの規模はいずれも総計の0.1〜1.3%にとどまり、傾向の議論には影響しない(0-4参照)。

【訳語】1838年法[9]が定めた二つの入院経路のうち、placement d'office は県知事(パリでは警視総監)の命令によるものであり、本稿では職権入院と訳す(日本の現行法では措置入院に相当するが、原語に即してこの訳を採る)。もう一方の placement volontaire は、直訳すれば「任意入院」となるが、この訳語は避ける。同法第8条は、申請書に「申請者と収容を求められる者との親等の表示、それを欠く場合には両者のあいだに存在する関係の性質」を記載することを求めており、法は親族を標準形として想定している。そして患者本人の同意は要件としてどこにも現れない。すなわち volontaire は、本人の意思ではなく私人の申請の自発性——職権によらないこと——を指す。日本の現行法の任意入院は本人の同意による入院であり、本人が退院を求めうる別制度である。1838年法のこの経路に機能的に対応するのは、日本の医療保護入院(1987年改正前の呼称では同意入院)である。したがって本稿では家族同意入院と訳し、原語を併記する。ただし同法第25条により県知事の許可を得て行われる場合は、申請者が親族に限られないため「私人申請による入院」と訳し分ける。


はじめに——問いの設定

0-1 前稿の到達点と本稿の問い

前稿は、1838年6月30日法が収容の決定を司法ではなく行政に委ねた理由を、二つのベクトルの交点として説明した。下からは、世帯経済がその防衛限界を超えた事案を処理する、迅速で安価で家名を傷つけない経路への需要。上からは、契約を基礎とする社会が、契約を結びえない者のために要請した第二の身分——カステルのいう後見(tutelle)——の制度化である。1838年法とは、この上下二つの要請が同じ一点で出会ったことの記録であり、その一点に置かれたのが県知事の署名と医師の証明書であった。

本稿の問いは、その次に来る。開かれた経路に、実際に何が、どれだけ流れ込んだのか。そして流れ込んだものを、制度は受けとめられたのか。

0-2 一次資料としての1874年公式報告——その性格

この問いに答えうる資料が一つある。1878年に国立印刷所から刊行された、内務省精神病者事業総監察官コンスタン、リュニエ、デュムニルの三名による『1874年の精神病者事業に関する内務大臣あて総報告』である[1]。564頁からなり、第一部が精神病者立法の歴史、第二部が1874年時点の事業の状況(施設・職員・衛生と治療・財政・県別の組織)、第三部が統計にあてられ、巻末に十の統計表、七葉の施設図面、そして四葉の県別分布図が付されている。

まず確認しておくべきは、これが学術的な研究書ではなく行政監察報告書だということである。執筆者は全国の認可施設を巡視する権限をもつ現職の総監察官であり、宛先は所管大臣である。したがって本書は、事業の実態を報告する文書であると同時に、事業の拡張を要求する文書でもある。この二重性は本稿の随所で問題になる。

そして本書は単発の文書ではない。本文には「われわれの1864年についての第一次総報告」(notre premier rapport d'ensemble pour l'année 1864)への言及が二箇所あり(pp. 215, 464)、さらに「われわれの1866年の報告」への言及もある(p. 173)。同じ監察官団が先行する総報告を出していたのであり、本書はその系列の一冊である。第四章で扱う1864年と1874年の比較が可能なのは、比較の両端が同一の機関・同一の方法によって作られているからにほかならない。

0-3 先行研究における位置

本報告書は1971年に復刻されており、フーコー以後に精神医学史が再興した時期に、研究者の手の届く場所に置かれていた。

ロベール・カステルは『精神医学的秩序』(1976年)でこれを繰り返し引用している[2]。ただし引用は六箇所——第3章注37(本報告書 pp. 1–9)、第4章注21(p. 160)、第5章注3(p. 22)、第6章注5・6(pp. 54–64)、注26(p. 186)、注51(p. 153)——にとどまり、用いられているのは主として総論部分と若干の個別数値である。第二部の財政表と県別記述には一度も触れていない。

クロード・ケテルは、古代から現代に至る長期通史においてこれを用いていない[3]。同書の論争の相手はフーコーの古典主義時代論であり、第三共和政前夜の行政統計は叙述の軸に噛まないためと考えられる。

十九世紀のアジール入院書類を扱うフランス社会史の一連の研究が、背景数値として本報告書を引いている可能性はある。しかしそれは各自の県別研究の枠を示すための引用であって、管見のかぎり、本報告書そのものを正面から対象とした研究は見当たらない。本稿は、第二部の財政表と県別記述を含めて本書を通読し、統計本体から読み直すことを方法上の主張とする。

0-4 資料としての信頼性——四つの根拠と二つの限界

本稿は本報告書の数値に大きく依拠する。したがって、その信頼性についての判断をあらかじめ示しておく。

第一に、内部整合性である。十年間(1865–1874年)の総動態表(p. 451)は、在院34,880に入院126,541を加えた治療人口161,421から、治癒32,124・改善13,435・その他退院25,722・死亡48,063の計119,344を差し引くと、残余42,077——1874年12月31日現在の在院者数——に一致する。男女別でも一致し、延日数から割り戻した平均人口も一致する。数字を作っていれば、この水準では合わない。

第二に、自らに不利な事実が記されていることである。法は増加に即座の効果をもたなかった(p. 63)。入院の遅れは家族ではなく県当局の責任である(p. 67)。法の明文に反する監禁が三箇所ある(pp. 78–79)。県が真に創設したアジールは十八にすぎない(p. 80)。収容者の一割以上は本来アジールにいるべきでない(p. 82)。シャラントンが報告してきた数字は信用できない(p. 478)。いずれも、事業の拡張を求める立場からすれば書かないほうが得な事実である。

第三に、独立系列との照合が可能なことである。報告書自身が『フランス一般統計』を引き、1835年について9,770名という数値を示している(p. 33)。同じ年について本報告書の系列は10,539名であり、二つの独立した公式系列の差は約7%にとどまる。また1872年国勢調査(精神障害者87,968名)との対比において、本報告書は自らの領域を小さく見せる方向に働いている——収容されているのは精神障害者の半数以下だと自ら書いているからである。

第四に、算術上の誤りの規模が測定可能なことである。本稿は原本頁の画像により統計表を検証し、いくつかの誤植を特定した。TABLEAU N° 6 の総計行には食費と「その他」の二箇所に誤植があり、合計で180,000フランの齟齬を生じているが、これは総計13,543,212フランの1.3%である(各行の数値自体は正確であり、列合計によって訂正値を確定できた)。p. 251 の本文には4フランの誤植がある(2,597,732フラン94サンチーム、正しくは2,597,736フラン94サンチーム)。誤りは存在するが、その規模は総計の0.1〜1%台にとどまり、しかも検算によって特定・訂正が可能である。傾向の議論には影響しない。

他方、限界も明瞭である。

第一の限界は、原理的な過小評価である。本報告書が数えるのは認可施設の収容者であり、法外の監禁(pp. 78–79 に三箇所が名指しされている)と在宅の者は含まれない。彼らが数え上げた特殊施設は104であるが、そこには統計に含めなかった施設——セーヌ=エ=オワーズ県プティ=プレの留置所、ル・アーヴルの救護院付属病棟、ブザンソンのベルヴォー病棟——が別に存在する(p. 441)。以下に扱う数値は、いずれも下限として読まれるべきである。なおこれは資料の欠陥というより収容統計という形式の性質であり、報告書自身がそれを断っている。

第二の限界は、数値の採取にではなく提示に宿る恣意性である。具体的には三点に集約される。(1) 治癒率の分母の選択——同じ年の同じ治癒数について、報告書は六通りの比率を計算し、その値は5.60%から24.8%まで四倍以上動く(第二章2-5)。(2) 増大を文明の代償として正当化する修辞——「進歩の負傷者」(第二章2-3)。(3) 施設建設の遅れを批判者の責任に帰す論法(第三章3-4)。

したがって本稿の構えは次のようになる。数値は信頼して用い、提示の仕方は分析の対象とする。前者については上記四つの根拠が支え、後者については報告書自身の言葉を史料として読む。

0-5 行政権の配置という変数

本稿の分析軸を、あらかじめ一つ宣言しておく。

報告書は、1838年法体制の三十六年を三つの時期に区分している。

« De ce moment au jour présent, l'existence du nouveau service peut être divisée en trois périodes : De juillet 1838 au 25 mars 1852 ; De 1852 au 18 juillet 1866 ; Et la troisième, dans laquelle il est encore, depuis cette dernière date. »(p. 42)

この時から今日まで、新しい事業の存続は三つの時期に分けることができる。1838年7月から1852年3月25日まで。1852年から1866年7月18日まで。そして第三の時期——この最後の日付以来、事業は今なおそのなかにある。

注意すべきは、この区切りの根拠である。医学説の交代でも、収容人口の節目でもない。1852年3月25日のデクレと1866年7月18日の法律——いずれも行政権の配置を定めた法令である。前者は知事にイニシアティヴを与え、後者は「それ以前は知事に委ねられていた決定の大部分を、とりわけ精神病者に関するすべての財政問題の絶対的議決権を、県会に渡した」(p. 60)。監察官たちにとって、事業の歴史とは行政権の配置の歴史であった。

この区分に施設建設の数字を当てはめると、鋭い対比が現れる。第二期、知事が主導権を握った十四年間に、報告書は「建設され、建設が開始され、創設され、あるいは再建された」アジールとして十四施設を列挙する(p. 55)。第三期、財政決定権が県会に移ってからの八年間に、新アジールの建設を決定した県は二つ——ローヌとセーヌ=アンフェリユール——にとどまる(p. 60)。この間にも開設は続いたが、報告書は釘を刺している——「他のアジールが開設されたとすれば、それはその建設が以前に開始されていたか、少なくとも議決されていたからである。たとえばセーヌ県のものがそうである」(同)。第一章1-7で見るセーヌ県三施設の開設(1867–69年)も、決定は第二期に属する。

中央集権が施設を作り、地方分権が施設を止めた。そして収容人口は、時期を問わず増えつづけた。本稿が「過密」と呼ぶものは、この二つの曲線——行政権の配置に従って律動する建設と、それに従わない収容——の差である。

この軸を採ることの傍証として、逆の事実も挙げておく。収容の系列は、政体の交代をほとんど感知していない。1835年から1842年の系列は七月王政下で滑らかに伸び、屈折は1830年の革命ではなく1842年の「組織化の端緒」に来る(第一章1-2)。1848年の二月革命と第二共和政について、報告書の立法史はほぼ完全に沈黙している——pp. 42–53 において1848年は二度しか現れず、いずれも行政上の出来事である。7月22日の国務院意見(救助住所不明の患者の費用負担の裁定)と、11月25日のアレテ(総監察官を一名から二名+補佐一名に増員し、パルシャップを任命)である。革命の年として事業史に記録されたのは、監察官のポストが一つ増えたことであった。系列が明確に折れるのは1870–71年だが、それは政変によってではなく、戦争が行政を麻痺させたからである(第一章1-4)。政体の交代は曲線を動かさず、行政法の改正だけが曲線を動かす——トクヴィルが『旧体制と大革命』で示した行政の連続性のテーゼは[4]、精神病者事業において最も純粋な形で検証される。

ただし一つの留保を置く。「地方分権が建設を止めた」という見方は、県会の裁量を掣肘できない立場にあった監察官たち自身の見方でもある。本稿はこれを無批判に採用するのではなく、第二章以降で用いる手続き——彼らの説明を読み、彼ら自身の数字が別の説明を許すかを検討する——をここでも適用する。この軸の帰結は、第三章(建設の実態)、第四章(単価と財政)、第六章6-7(監視の司法化の挫折)で、それぞれ検証される。

第一章 数字の骨格——収容人口の四十年

1-1 出発点——1838年の一万二千人

1838年、法の公布の時点で、フランスに精神病者を収容していた施設がいくつあったのかを、政府自身が知らなかった。報告書はこう書いている。

« En 1838, au moment de la promulgation de la loi, on était encore, avons-nous dit, très-inexactement fixé sur le nombre des établissements qui renfermaient des aliénés ; d'après les uns, il y en avait 126, 146 suivant les autres. »(p. 63)

1838年、法の公布の時点において、われわれが述べたように、精神病者を閉じ込めていた施設の数についてはなおきわめて不正確にしか把握されていなかった。ある者によれば126、他の者によれば146であった。

そして収容者の数についても、こう述べる——« La plupart étaient bien peu importants assurément, puisque, d'après les plus fortes évaluations, le nombre des séquestrés ne dépassait pas 12,000. »(同)。すなわち「それらの大半は確かにきわめて小規模なものであった。というのも、最も高い見積りによっても、隔離された者の数は12,000を超えなかったからである」。

前稿第4章で見たように、1838年法は各県にアジールの設置または契約による確保を義務づけた(第1条)。その義務が課された時点における全国の収容人口が一万二千人であったこと、しかもその数字が「最も高い見積り」であったことは、以下の四十年を測るための原点として記憶されねばならない。

1-2 法は即座には効かなかった

ここで報告書は、本稿にとって決定的な一文を置く。

« La loi n'eut point, comme on le croit généralement, un effet immédiat sur l'accroissement de ce chiffre, d'abord parce qu'on ne pouvait, du jour au lendemain, créer des places dans les établissements, et ensuite parce qu'il fallut un temps assez long pour que les populations prissent l'habitude de réclamer les secours de l'asile et pour que les administrations départementales elles-mêmes se missent bien au courant du nouveau service. »(p. 63)

法は、一般に信じられているのとは違い、この数字の増加に即座の効果をもたなかった。まず第一に、施設のなかに病床を一夜にして作り出すことはできなかったからであり、次に、住民がアジールの救助を求める習慣を身につけるまでに、また県当局自身が新しい事業に習熟するまでに、かなり長い時間を要したからである。

内務省の監察官が、法の効果を自ら否定しているのである。増加を規定したのは法の施行ではなく、二つの遅い変数——施設の建設速度と、住民の側の習慣の変化——であった。

この証言は、前稿の枠組をそのまま裏づける。前稿は、収容要求が行政の合理性からではなく、病者を抱えきれなくなった世帯の側から発せられることを、ケテルの語彙分析とル・ブラの入院書類研究によって論じた[8]。1874年の公式報告は、同じことを行政の側から、しかも法の効果への幻滅として述べている。「アジールの救助を求める習慣」(l'habitude de réclamer les secours de l'asile)という表現に注意したい。収容は権利としてではなく救助として、そして制度としてではなく習慣として、住民の側に定着していったのである。

報告書はこの主張を年次の数値で裏づける。1835年から1842年にかけて、アジールにおける精神病者の数は次のように推移した(p. 63)。

収容者数前年増
183510,539
183611,091552
183711,429338
183811,982553
183912,577595
184013,283706
184113,887604
184215,2801,393

法が公布された1838年の前後で、増加の傾きは変わっていない。むしろ1837年の増加(338)は前後の年より小さい。目に見える屈折が現れるのは1842年(1,393)である。そして報告書は、この屈折の意味を明示している。

« Ce ne fut donc qu'à cette dernière date que le mouvement ascensionnel s'accentua réellement, époque qui est précisément celle à laquelle nous avons constaté que le service avait acquis un appréciable commencement d'organisation. »(p. 63)

したがって、上昇の運動が現実に際立ったのはこの最後の年次〔1842年〕においてであり、それはまさしく、事業が組織化の見るべき端緒を獲得したとわれわれが確認した時期にほかならない

屈折点は法の公布年ではなく、行政が事業を動かせるようになった年である。増加を作ったのは立法ではなく組織化であったと、監察官たちは言っているに等しい。

1-3 十年ごとの四倍増

長期の系列は、十年刻みで示される(p. 64)。

時点(各12月31日現在)18341844185418641874
収容者数10,00016,25524,52434,91942,077

四十年で四・二倍である。そして報告書は続けてこう注記する。

« et il faut noter que ce chiffre de 42,077 serait plus élevé, si nous avions encore, comme dans les périodes précédentes, les malades de l'Alsace et de la Lorraine ; il dépasserait 43,000. »(p. 64)

そしてこの42,077という数字は、以前の期間と同様にアルザスとロレーヌの病者をなお有していたならば、より高いものとなるであろう。43,000を超えるであろうことに注意せねばならない。

普仏戦争による領土喪失が統計に落とした影を、監察官たちは明示している。1872年1月1日の時点で、メレヴィル(男142、女206)とステファンスフェルト(男345、女440)の « en tout 1,133 malades » がドイツ政府の勘定に移った(p. 444)。なお同頁の注は、1872年10月22日にステファンスフェルトからメレヴィルへ移されたフランス国籍の患者15名(男10、女5)を記録している。

なお、この十年刻みの系列のうち1864年の34,919という数値は、従来の研究において典拠を示さずに「約三万五千」として流通してきたものである。本報告書はその原典であり、本稿はこれをもって確定する。

1-4 年次への精密化——戦争という断層

第三部の統計は、この十年刻みを年次に分解する。各年1月1日現在の在院者総数は次の通りである(pp. 443–444)。

年(1月1日)収容者総数前年差
186534,942
186635,532+590
186736,444+912
186837,390+946
186938,417+1,027
187039,153+736
187138,945−208
187237,273−1,672
187339,167+1,894
187440,810+1,643
187542,077+1,267

※ 1865年の数値は、その年に廃止された三施設(エヴルー病棟、ロング=ザヴォワーヌ、モランジ)の62名を加算した補正値である(p. 443)。1872年の減少のうち1,133名はアルザス=ロレーヌの分離による。これを戻せば38,406となり、前年比は−539にとどまる(p. 444)。

この系列は、単なる精密化以上のものを与える。普仏戦争と分離が、意図せざる自然実験として作用しているのである。

戦前の五年間(1865→1870)の年平均増加は842人であった。報告書自身がそう計算している。ところが戦争と敗戦の二年間、系列は初めて下降する。そして1873年1月1日以降、「上昇が再び現れ、1875年1月1日まで続く」。この三年間の年平均増加は1,601人——戦前の約二倍である(p. 444)。

十年全体(1865→1875)でみれば増加は7,135名、年平均713名にすぎない。しかしその内訳は、戦前の緩やかな上昇、戦争による二年間の減少、そして戦後の急激な回復という三つの局面から成る。

この形は、収容人口が「狂気の量」の関数ではないことを強く示唆する。戦争と占領が精神障害の発生を減らしたとは考えにくい。減ったのは、収容を受理し、移送し、費用を支弁する行政の能力である。

報告書自身が、行政の側の混乱を証言している。統計表の作成にあたって監察官たちは、入院数から移送数を控除することを断念した。理由はこうである。

« Dans le tableau nº II, A à E, nous avons dû inscrire le chiffre des admissions sans déduction des transfèrements, parce qu'en dehors des causes que nous venons d'indiquer, la perturbation que les événements de 1870-1871 ont apportée dans le service a rendu cette distinction à peu près impossible. »(p. 450)

表第II、AからEにおいて、われわれは移送を控除せずに入院数を記載せざるをえなかった。というのも、いま指摘した諸原因のほかに、1870年から1871年の出来事が事業にもたらした攪乱が、この区別をほとんど不可能にしたからである。

数えることができなくなるほどに事業が乱れたという事実そのものが、系列の下降を説明する。統計の欠損が、統計の内容を説明しているのである。

なお同じ箇所の脚注は、この十年間(1865年1月1日から1874年12月31日まで)にセーヌ県の勘定で地方のアジールに移送された同県の病者を 6,974名(男3,153、女3,821)としている(p. 450 注1)。内訳はビセートル1,422(男)、サルペトリエール1,727(女)、サンタンヌ1,291・1,441、ヴォークリューズ187・359、ヴィル=エヴラール253・294である。移送そのものが、統計を撹乱するほどの規模に達していたのである。この6,974という数字は、第五章で扱うセーヌ県の県外委託の十年間の総量にあたる。

そして能力が回復したとき、系列は戦前の水準へ復帰するのではなく、抑制されていた分を上乗せして跳ね上がった。前稿が論じた「行政による収容決定」という制度選択は、ここで統計的な形を取って現れている。収容の量を決めているのは、需要でも病理でもなく、経路の通過能力である。

1-5 人口比——分母が縮んでも比率は上がる

絶対数の増加は人口増加によるものではない。報告書は三時点の比率を示す(pp. 447–448)。

時点フランス人口収容者人口10万対
186538,011,36834,94291.92
187236,102,92137,273103.22
187536,448,79342,077115.44

十年で25.6%の上昇である。しかも1872年から1875年にかけては、アルザス=ロレーヌの喪失によって分母そのものが縮んでいる。人口が減少する局面において収容率が上昇したという事実は、収容の増加を人口動態で説明する余地を残さない。

なお報告書は1872年について « 1 aliéné séquestré sur 961 habitants » と記すが、36,102,921÷37,273=968.6であり、同じ文の「10万対103.22」から逆算しても968.8となる。原本の頁画像を確認したところ、印字は確かに「961」であり、これは原本側の計算または植字の誤りである(1865年の「1,087」は計算と一致する)。本稿では原文のまま引用し、正しくは968である旨を注記する。

なお男女別の年次内訳は本文に示されない。本文が与えるのは両端の二時点——1865年(男16,773/女18,169)と1875年(男19,914/女22,163)——であり、十年間の増加の男女別(男3,141/女3,994)はこれと整合する。十年間の増加は女性が男性を四分の一ほど上回っている。

1-6 収容は依然として少数派である

ここまでの数値は、収容された者だけを数えている。在宅の者を含めた精神障害者の総数は、別の桁になる。

1872年の国勢調査は、フランスの精神障害者を87,968名と数えた。その内訳は「真の狂人」52,835名と、痴愚・白痴・クレチン35,133名である(pp. 64–65)。同じ1872年1月1日の収容者は37,273名であるから、「真の狂人」に限っても、収容されていたのは七割程度、精神障害者全体でみれば四割強にすぎない。

報告書はこの国勢調査の数字すら過小と見る。« Qui pourrait même garantir l'exactitude du chiffre 87,968 ? Pour nous, il est encore au-dessous de la réalité ; et la division de ce chiffre en 52,835 fous et 35,133 imbéciles, idiots et crétins, est-elle plus exacte ? »(p. 65)——「87,968という数字の正確さを、いったい誰が保証しうるであろうか。われわれにとって、それはなお現実を下回っている。そしてこの数字を52,835の狂人と35,133の痴愚・白痴・クレチンとに分割することは、より正確であろうか」。そして執筆者の一人による1869年時点の推計として、在宅の者を含めれば「住民412人につき1人の精神病者」という比率を挙げ、それでもなお過小評価であろうと述べる(p. 448)。

この一点は、本稿全体の遠近法を規定する。四十年で四倍に膨れ上がったアジール人口は、それでもなお、精神障害者の一部を収容したにすぎない。前稿が世帯経済の包摂能力として論じたもの——病者を長く家に抱え込む力——は、1874年の時点でもなお、収容よりはるかに多くの者を家に留めていた。過密は、需要が満たされた結果として生じたのではない。需要のごく一部を受け入れただけで、制度は飽和したのである。

1-7 供給の側——施設は104に増えた

最後に供給側を確認しておく。1874年末時点の特殊施設は104である(p. 439)。

種別施設数
シャラントン国立施設1
公立特殊アジール45
救護院付属病棟16
公立アジールの機能を果たす私立アジール18
療養所24
104

1864年からの十年間で、公立特殊アジールは40から45に増えた。内訳は、ステファンスフェルトの喪失(−1)と、六つの新設——ブルティ=ラ=クーロンヌ1865年、エヴルー1866年、プレモントレ1867年、サンタンヌ1867年、ヴィル=エヴラール1868年、ヴォークリューズ1869年である(pp. 439–440)。

末尾の三つがすべてセーヌ県のものであることに注意したい。第二帝政末期に新設された公立アジールの半数は、セーヌ県一県のものであった。なお、これらの開設は1866年の権限移譲の後に続いたが、0-5で見たとおり、建設の決定はいずれもそれ以前に属する(p. 60)。この事実が何を意味するかは、第五章で論じる。

第二章 増大の原因——報告書の説明と、その読み替え

第一章は、四十年で四倍という数字と、その形を確認した。本章が問うのはその原因である。ただしここで採る手続きは、外部の理論を当てて説明することではない。報告書自身が増大の原因として何を挙げたかを先に読み、そのうえで、同じ報告書の統計が別の説明を許すかどうかを検討する。監察官たちの説明と彼ら自身の数字とのあいだに隙間があるとすれば、その隙間こそが本稿の論点となる。

2-1 監察官が挙げる六つの原因

増大の原因について、報告書は明快である。まず前提として、精神障害そのものが増えているという見解を採る。狂人の数は « doit augmenter, augmenter toujours, tant que progressera ce qu'on appelle la civilisation »——「増加せねばならず、つねに増加せねばならない。文明と呼ばれるものが進歩するかぎり」(p. 66)。遺伝の役割、そして「世紀は神経質である」(Le siècle est nerveux)という同時代の診断がこれを支えている。

しかし監察官たちは、この一般的増加だけでは足りないことを認める。

« Réelle ou non, cette augmentation du nombre total des aliénés ne saurait être la cause unique de l'accroissement toujours ascendant de la population des asiles. Cet accroissement a certainement plusieurs origines, et elles sont connues. »(p. 66)

現実であれそうでないであれ、精神病者総数のこの増加が、アジール人口の絶えざる上昇の唯一の原因でありうるはずがない。この上昇は確かにいくつもの起源をもっており、それらは知られている。

そして六つを列挙する(pp. 66–67)。

(1) 精神病者のための博愛運動——« au mouvement philanthropique en faveur des aliénés, qui, malgré tout, domine encore le désir, quelquefois trop accentué, de restreindre la dépense »(それは、支出を制限しようとする、時に度を越した願望を、なお凌駕している)。

(2) 住民がアジールの救助を求める習慣の増大——« A l'habitude plus grande des populations de réclamer les secours de l'asile, habitude qui s'étend et se généralise d'autant plus vite que l'asile est plus voisin »(この習慣は、アジールが近いほど速く広がり一般化する)。

(3) 治癒への希望——« Mais souvent également à l'espoir d'une guérison, qu'on croyait autrefois impossible »(かつては不可能と信じられていた治癒への希望)。

(4) 当初は治癒可能であった病者の入院の遅れ。

(5) 事業の各部門の改善による死亡率の低下——« aux améliorations successives de toutes les parties du service des asiles qui, bien qu'incomplètes souvent encore, ne sont pas moins immenses en général et ont diminué la mortalité »。

(6) 無害とされる者、老人性痴呆、白痴の入院と維持——« l'admission, peut-être plus fréquente, et le maintien de quelques malades réputés inoffensifs, souvent à tort ; des déments séniles, des idiots »(しばしば誤って無害とされた病者の、おそらくより頻繁になった入院と、その維持。老人性痴呆者、白痴者)。

このうち (4) に注意を促したい。報告書はこう書いている。

« A l'admission tardive des aliénés d'abord curables, ce qui diminue leurs chances de guérison et éternise leur séjour à l'asile ; et ceci, nous l'avons déjà dit, bien plus par la faute des administrations départementales que par celle des familles ; »(p. 67)

当初は治癒可能であった精神病者の入院の遅れ。それは彼らの治癒の見込みを減らし、アジールでの滞在を永続化させる。そしてこのことは、すでに述べたように、家族の責任というよりもはるかに県当局の責任である

内務省の監察官が、入院の遅れの責任を家族にではなく県当局に帰しているのである。前稿は、家族が収容を軽々に選ばず、在宅維持が限界に達するまで施設を回避したことを、ル・ブラの入院書類研究によって論じた。1874年の公式報告は、同じ事態を行政の側から——しかも自己批判として——記述している。「家族が病者を施設に投げ込んだ」という物語は、公式報告自身によって否定されている。

原因 (2) に付された条件節にも注意しておきたい。習慣は「アジールが近いほど速く」広がる、と監察官たちは書く。すなわち需要は施設に先立って完成しているのではなく、施設の存在そのものが需要を作る。供給が需要を喚起するというこの認識は、第三章で見る施設整備の実態と、第五章で見るセーヌ県のアジール網の効果を測るために、報告書自身が与えた尺度である。

そして遅れた入院は滞在を永続化させる。原因 (4) は、実は増大の原因であると同時に、次節以降で見る滞留の構造の起点でもある。

2-2 排除できない者たち——不治者をめぐる問答

報告書は、アジール人口を減らすための提案を一つ検討し、これを斥ける。その検討の仕方が、1838年法体制の論理を露わにする。

« Quelques auteurs, pour restreindre la population des asiles, ont proposé d'en exclure tous ces individus, tous les incurables ; l'idée n'est pas nouvelle, elle est d'Esquirol. / Mais où les placer ? Faut-il les conduire dans les hospices, ou les laisser dans leurs familles ? / Dans leurs familles ? Ils seraient cause de bien des accidents, car trop souvent ils ne sont pas constamment aussi inoffensifs qu'on veut bien le dire. Inoffensifs aujourd'hui, ils peuvent devenir dangereux demain ; la presse n'a que trop souvent à enregistrer les actes épouvantables de ces aliénés prétendus inoffensifs, et, comme tels, laissés en liberté ; »(p. 67)

アジール人口を制限するために、これらの個人すべて、不治者すべてをそこから排除することを提案した著者たちがいる。この考えは新しいものではない。それはエスキロールのものである。/だが彼らをどこに置くのか。救護院に連れて行くべきか、それとも家族のもとに残すべきか。/家族のもとに? 彼らは多くの事故の原因となるであろう。というのも、あまりにしばしば、彼らは人が言いたがるほど恒常的に無害ではないからである。今日無害であっても、明日には危険になりうる。無害と称され、そのゆえに自由に放置されたこれらの精神病者の恐るべき行為を、新聞はあまりにもしばしば記録せねばならない。

エスキロールに由来する提案が、エスキロールの後継者たちによって拒否されている。しかも拒否の論拠は治療ではなく危険性である。

前稿は、1838年法の職権入院が「公共の秩序または人身の安全」への危殆を要件としたこと、そして収容の第一の論理が治療的必要ではなく世帯と共同体の防衛であったことを論じた。四十年後、その論理は、いったん収容した者を外に出さないための論拠として作動している。入口で収容を正当化した危険性の言語が、出口を塞ぐ言語に転化しているのである。

さらに報告書は、救護院への移送も現実的でないとして、驚くべき理由を挙げる。

« Dans des localités où cette pénurie de places est moins absolue, nous voyons souvent l'administration départementale elle-même envoyer ou maintenir à l'asile plutôt qu'à l'hospice, parce que l'hospice est communal et qu'il faut, pour tout ce qui est étranger à la commune, payer un prix de journée toujours supérieur à celui de l'asile. »(p. 68)

場所の不足がそれほど絶対的でない土地では、県当局自身がしばしば、救護院よりもアジールへ送り、あるいはアジールに留めるのを目にする。なぜなら救護院は市町村のものであり、当該市町村に属さないすべての者については、つねにアジールのそれより高い日額を支払わねばならないからである。

すなわち、老人性痴呆の患者がアジールに滞留するのは、医学的判断によってではなく、県にとってアジールのほうが安上がりだからである。前稿第4章で見た費用負担の連鎖——県と市町村のあいだの分担——が、患者の配置を決めている。この一文は本稿第四章の主題に直結するので、そこで改めて扱う。

2-3 「進歩の負傷者」——増大を正当化する論法

第一部第7章は、次の一段で閉じられる。

« Les armées en campagne ont des ambulances, parce qu'elles savent bien qu'elles auront des blessés ; que la société fasse donc comme les armées, et plus encore, car sa campagne, à elle, durera autant qu'elle-même ; qu'elle ne marchande pas les ambulances, qu'elle ne craigne pas de les multiplier ou de les faire plus vastes, pour y panser les blessés du progrès ; si ce n'est un droit pour ceux-ci, c'est au moins un devoir pour ceux que la lutte n'a pas brisés, et qui, restés sains et saufs, jouissent du triomphe. »(p. 69)

傷病者が出ると承知しているからこそ、野戦の軍隊は野戦病院をもつのである。ならば社会も軍隊のようにせよ、いやそれ以上にせよ。というのも社会の戦役は、社会そのものと同じだけ続くのだから。野戦病院を出し惜しみするな、それを増やすことを、より広くすることを恐れるな。進歩の負傷者たちをそこで手当てするために。それが彼らにとって権利でないとしても、少なくとも、闘いに打ち砕かれることなく、無傷のまま勝利を享受している者たちにとっての義務ではあるのだから。

この一段の直前で報告書は、収容者の増加を嘆く者に向かってこう問い返している——科学や商業や産業の進歩を、豊かさがより多くの人に及ぶことを、嘆くのか。« car ce progrès c'est la face de cette belle et grande médaille qui s'appelle civilisation, liberté, et la folie tient une large place dans son revers »——「というのもこの進歩は、文明、自由と呼ばれるこの美しく大きな勲章の表の面であり、狂気はその裏面に広い場所を占めているからである」(同)。

ここで生じているのは、増大の説明から増大の正当化への移行である。アジール人口の膨張は、制度の失敗ではなく文明の代償として位置づけ直される。そして結論は施設の増設——「野戦病院を増やせ」である。過密は、それ自体が増設を要求する根拠となる。

前稿は、エスキロールの「治療装置としてのアジール」論が1838年法の行政的解決に治療的正当化の言語を提供したことを論じた。「進歩の負傷者」の修辞は、その四十年後の対応物である。ただし正当化の対象は変わっている。1838年に正当化されたのは自由の剥奪であった。1874年に正当化されているのは、剥奪された者たちが出て行かないことである。

2-4 出口から見る——十年間の動態

ここで説明の側から数字の側に移る。1865年から1874年までの十年間の総動態は次の通りである(p. 451)。

項目両性
1865年1月1日在院34,880
十年間の入院(移送・区分変更を含む)126,541
治療人口 計161,421
退院:治癒32,124
退院:改善13,435
退院:その他事由25,722
死亡48,063
退出 計119,344
1874年12月31日在院42,077

※ この表は完全に閉じている(内訳の和が総計と一致することを確認)。1865年に廃止された四施設の動態は資料がなく除外されているため、起点は第一章1-4の補正値34,942ではなく34,880である(p. 451)。

十二万六千の入院に対し、十一万九千の退出。一見すると回転しているように見える。しかし退出の内訳を見ると像が変わる。退出者の40.3%は死亡による。治癒による退出は26.9%、改善によるものは11.3%にすぎない。

十年間の比率を平均人口(38,207)に対して取れば、年あたり治癒8.41%、改善3.51%、死亡12.58%である(p. 452)。なお改善の欄は男3,99・女3,90・両性3,51と印字されており、両性の値が男女双方を下回るという数学的に成立しない組み合わせになっている。原本の頁画像で確認したところ印字は確かに3,90であり、本来は3,09であろう。治癒と死亡の行はいずれも整合するため、この一行のみの原本の誤植と判断される。

死亡率が治癒率を上回っている。アジールから出る最も確実な道は、治癒ではなく死である。

2-5 治癒率という指標——分母が四倍を動かす

もっとも、この「治癒率」という数字は慎重に扱わねばならない。報告書自身が、1874年単年について、同じ治癒数に対して六通りの比率を計算しているからである(pp. 459–461)。

1874年の治癒は2,936名(男1,496、女1,440)。これを何で割るかによって、比率は次のように動く。

分母両性の比率
治療人口(全移送を控除、52,654)5.60% ※原本の印字(男5,83・女5,32からの整合値は5.58)
平均人口(41,659)7.04%
平均人口(地方で治療されたセーヌ県患者の在院日数を控除)7.72%
入院総数(13,061)22.4%
入院数(地方受入のセーヌ県患者を控除)23.9%
入院数(すべての移送を控除、11,844)24.8%

同じ年の同じ施設群について、治癒率は5.60%から24.8%まで、四倍以上の幅で動く。そして報告書は、セーヌ県の患者を控除した数値のほうが合理的であると述べて、より高い側の数値を採る根拠を用意している。

19世紀の精神医学統計における「治癒率」が、分母の選択によっていかようにも作れる指標であったことを、これほど明瞭に示す資料は少ない。本稿は、この分母の選択そのものを史料として扱う。監察官たちが何を分母に選びたがったかは、彼らが何を示したかったかを教える。

そしてどの分母を採るにせよ、方向は一つである。報告書は認めている——« Ces résultats sont moins avantageux que ceux qui ressortent de la période décennale résumée plus haut »(これらの結果は、上に要約した十年間から導かれるものより有利でない)(p. 460)。十年平均の8.41%に対し、1874年は7.04%。治癒率は下がっている。

ちなみに監察官たち自身、セーヌ県の患者の存在が統計を歪めることを明言している——« L'envoi des malades de la Seine dans les asiles de province jette des éléments considérables de perturbation […] dans l'appréciation des résultats statistiques, notamment en ce qui concerne les guérisons »(セーヌ県の病者を地方のアジールへ送ることは、統計的結果の評価に、とりわけ治癒に関して、相当な攪乱の要素を投げ込む)(p. 459)。

そしてこの節の数値のなかに、本稿の主題を一行で示すものがある。

« Pendant l'année dont nous nous occupons, par exemple, sur les 4,265 aliénés de ce département traités dans les divers établissements de province où il entretient des malades assistés, il n'est sorti définitivement que 50 individus (20 hommes et 30 femmes). »(p. 459)

たとえばわれわれが扱っている年に、この県〔セーヌ〕が救助患者を扶養している地方の諸施設で治療された4,265名の精神病者のうち、確定的に退所した者は50名(男20、女30)にすぎない

率にして1.2%である。首都から地方へ送られた患者は、事実上そこに留まった。

2-6 滞留する人口の構成

治癒しにくい患者が増えていれば、治癒率の低下は当然である。報告書の統計は、その内訳を示す。1874年12月31日現在の在院者42,077名のうち——

区分人数全在院者比
白痴・痴愚(imbécillité, idiotie)5,29812.58%
アルコール性精神病3,2707.77%
麻痺性痴呆(paralysie générale)2,6196.22%

白痴・痴愚は年内に215名増えた(p. 475)。麻痺性痴呆は73名の増加である(p. 474)。クレチンは1864年の42名から1874年末の80名へ倍増しており、そのほぼ全員が公立特殊アジールと救護院付属病棟にいて、療養所には一人もいない(p. 476)。

老人性痴呆については、報告書は自らの数字を疑っている。

« Pouvons-nous, par exemple, accepter comme exacts les chiffres produits par la maison de Charenton, qui, pour une population de 568 personnes, au 31 décembre 1874, aurait 87 déments séniles non aliénés (47 hommes et 40 femmes) ! »(p. 478)

たとえば、1874年12月31日に568人の人口に対して87人の非精神病性老人性痴呆(男47、女40)があるとするシャラントン施設の提示した数字を、われわれは正確なものとして受け入れられようか。

「精神病者ではない」と施設自身が認める者が、収容者の一割五分を占めている。監察官がこれを疑うのは数字の正確さについてであって、そうした者がアジールにいること自体ではない。

滞留する人口の構成は、2-1で見た原因 (6)——無害とされる者、老人性痴呆、白痴の入院と維持——を数値で裏づけている。そして2-2で見たように、彼らを外に出す経路は、危険性の論拠と費用の論理の双方によって塞がれていた。

原本の頁画像による確認の結果、報告書の数値には二つの不整合が残ることが判明した。第一に、麻痺性痴呆の年内入院1,871名について、報告書は入院総数に対する比率を13,71%と印字するが、男19,97%・女8%から合成すれば14,32%にしかならない(p. 474)。第二に、p. 464 は1874年の麻痺性痴呆による入院を1,355とし、p. 474 の1,871と516の開きがある。母集団を限定する記述は本文になく、巻末総括表(p. 553)の内訳のいかなる部分和も1,355にならない。本稿では両数値を原本のまま示し、不整合を指摘するにとどめる。なお p. 475 は1864年の728男・232女を「公立アジールに在院していた麻痺性痴呆患者」とするのに対し、p. 464 は同じ960を「入院数」と呼んでおり、この二重記述が不整合の一因である可能性がある。

白痴・痴愚について報告書は「12月31日現在に収容された男性の数は、他の性のそれを 9,5%上回っていた」とする(p. 476)。1874年末の算出値(男2,774、女2,524)からは、女を基準にすれば9.9%、男を基準にすれば9.0%となり、いずれとも一致しない。両性の平均(2,649)を基礎にすれば9.44%となり印字値に近い。原本の印字は9,5であることを確認済みであり、基準の明示がないまま概数が示されたものと解される。

2-7 施設の種別による格差

最後に、滞留が施設の種別によって偏っていたことを確認しておく。十年間の平均人口に対する比率は次の通りである(p. 453)。

施設治癒改善死亡
シャラントン国立施設8.095.1313.75
公立特殊アジール8.292.8911.95
救護院付属病棟9.225.3215.55
公立代替私立アジール7.121.7511.50
療養所(maisons de santé)14.2215.6314.30

二つの極が目を引く。公立代替私立アジールは、治癒が最も少なく、改善が際立って少なく、そして死亡も最も少ない。出ることも死ぬことも最も少ない施設、すなわち最も滞留する施設である。他方、有産階級を受け入れる療養所は、治癒14.22%、改善15.63%と、他の施設の数倍の成績を示す。

同じ対比は、費用の負担者別にも現れる。« Si l'on compare, au point de vue des guérisons, d'un côté les malades assistés, et de l'autre les malades au compte des familles et de l'État, on trouve que la proportion pour cent est, pour les malades assistés, de 4,91, et, pour les autres, de 7,77. »——治癒の観点から救助患者と、家族および国庫負担の患者とを比較すると、百分比は前者4.91、後者7.77である(pp. 464–465)。施設別に見ても、公立特殊アジールで5.18対7.62、救護院付属病棟で5.41対9.05、公立代替私立アジールで3.75対7.29と、一貫して自費患者が上回る。

同じ施設のなかで、支払う者と支払われる者とのあいだに、治癒の見込みの差があった。前稿が世帯経済の防衛限界として論じたもの——病者を家に抱えきれなくなった世帯が国家に排除を要請する構造——は、1874年の統計において、治療機会の階級的格差として現れている。

2-8 小括——治療装置から滞留装置へ

本章の結論は次のように定式化できる。

報告書が挙げた六つの原因のうち、監察官たちが最も強調したのは入口の側の変化——博愛の進展、住民の習慣、治癒への期待——であった。しかし彼ら自身の統計が示すのは、出口の側の閉塞である。退出者の四割は死亡による。治癒率は十年平均を下回り、下降しつつある。滞留する人口の四分の一以上は、白痴・痴愚と麻痺性痴呆という治癒を期待しがたい範疇で占められている。不治者を外に出す提案は、危険性の論拠と、県にとってアジールのほうが安上がりだという財政の論理によって、二重に封じられていた。

エスキロールが治療装置として構想し、1838年法が制度化したアジールは、四十年後、入ることはできるが出ることの難しい場所になっていた。監察官たちはこれを制度の失敗としてではなく、文明が生む「進歩の負傷者」の増加として語り、野戦病院の増設を求めた。過密は、それ自体が増設の根拠となる自己増殖的な論理を獲得したのである。

この論理が、実際にどれだけの施設と、どれだけの費用を生んだか。次章と第四章はそれを扱う。

第三章 法の擬似適用——なぜ床が足りなかったか

第二章の末尾で監察官たちは、社会に向かって野戦病院を増やせと求めた。「野戦病院を出し惜しみするな、それを増やすことを、より広くすることを恐れるな」(p. 69)。ではその求めに対して、四十年のあいだに何が作られたのか。本章はその実態を数え、報告書自身が挙げる遅れの理由を検討する。

結論を先に述べておく。1838年法が各県に課したアジール設置義務は、四十年を経てなお、法が想定した形では履行されていなかった。履行されたように見えるのは、既存の建物の転用と、法的性格を異にする施設の寄せ集めと、そして法の外に置かれた監禁とによってである。

3-1 県が真に創設したアジールは十八

1874年末の公立特殊アジールは45を数える。しかしその内実は、報告書自身の記述によって解体される。

« 24 de ces établissements seulement ont été construits pour leur destination spéciale ; les 21 autres sont d'anciens édifices, généralement d'anciens couvents, restaurés, augmentés et plus ou moins bien appropriés à leur nouvelle destination. »(p. 80)

これらの施設のうち24だけが専用目的で建設され、他の21は旧建築、一般には旧修道院を修復・拡張し、多かれ少なかれ新用途に適合させたものである。

さらに、その24からも差し引かれるものがある。二つ(ラ・ロシェル近郊のラフォン、ル・マン)は1838年法の公布にすでに完成し使用されていた。四つ(バサンス、マルセイユ、バイユール、ポー)は旧施設の代替にすぎず、県費で建設されたものではない。

« Depuis 1838, 4 autres, les asiles de Bassens, Marseille, Bailleul et Pau, qui n'ont fait que remplacer d'anciens établissements, n'ont pas été construits au frais des départements, qui n'ont fondé en réalité que 18 asiles nouveaux, y compris les 3 de la Seine. »(p. 80)

1838年以後、他の四——バサンス、マルセイユ、バイユール、ポーのアジール——は旧施設を代替したにすぎず、県費で建設されたものではない。諸県が実際に創設した新アジールは、セーヌ県の三を含めて十八にすぎない。

四十年をかけて、フランスの86県が新たに創設したアジールは18。しかもその内訳は時期的に一様でない。0-5で見たとおり、建設は知事が主導権を握った第二期(1852–66年)に集中し、財政決定権が県会へ移った1866年以後、新規の建設決定は二県にとどまった。十八という数字は、四十年の蓄積というより、実質的には帝政期十四年の産物である。しかもそのうち三つ——サンタンヌ、ヴィル=エヴラール、ヴォークリューズ——はセーヌ県一県のものである。十八分の三、すなわち六分の一が首都圏に集中していた。

報告書はこの数字から、意外な結論を引き出す。

« Si donc il est vrai de dire que les aliénés sont aujourd'hui une lourde charge pour les départements, on voit qu'un petit nombre seulement ont fait réellement de grandes dépenses pour les établissements destinés à les recevoir. »(p. 80)

したがって、今日、精神病者が諸県にとって重い負担であると言うのが真実だとしても、これを収容するための施設に真に大きな支出をした県はごく少数にすぎないことが分かる。

前稿第4章で見たように、1838年法は第1条で各県にアジールの設置または契約による確保を義務づけ、費用を県の経常費に課した。四十年後、監察官たちは、多くの県がその義務を建設によってではなく、他の手段によって果たしたことを認めている。「重い負担」という県会の常套句そのものが、ここで疑われている。

3-2 四つの法的カテゴリーという寄せ集め

では、建設しなかった県はどうしたのか。答えは施設の法的構成に現れている。1875年1月1日現在、総監察の巡視に服し統計に現れる施設は104。それは二つの法的地位に分かれる。

« Les établissements qui, à la date du 1er janvier 1875, avaient une existence légale ou, plus exactement, étaient soumis aux visites de l'inspection générale, et dont la population figure dans nos tableaux statistiques, étaient au nombre de 104, à savoir : 1° Établissements placés sous la direction de l'autorité publique (art. 2 de la loi) …… 46 ; 2° Établissements placés sous la surveillance de l'autorité publique (art. 3) …… 58. ENSEMBLE. 104 »(p. 76)

1875年1月1日現在、法的存在を有する——より正確には総監察の巡視に服し、その収容人口がわれわれの統計表に現れる——施設は104であった。すなわち、1° 公権力の指揮下に置かれた施設(法第2条)46、2° 公権力の監督下に置かれた施設(法第3条)58、合計104。

「指揮」下の46は、シャラントン国立施設1、県有38、独自の法人格をもつもの7。「監督」下の58は、救護院付属病棟18と私立アジール40である(p. 76)。

このうち、貧困な被扶助精神病者を受け入れる——すなわち1838年法が県に義務づけた機能を実際に担う——施設は79にとどまる。

種別施設数
公立特殊アジール45
病院・救護院に付属する病棟16
私立アジール18
79

残る25は、シャラントンを含め、家族または国の負担による有料患者しか受け入れない(p. 79)。

なお、p. 76 の法的分類(指揮下46/監督下58)と第一章1-7で掲げた p. 439 の種別分類(シャラントン1・公立特殊アジール45・救護院付属病棟16・私立アジール18・療養所24)とは、合計こそ104で一致するが、区分線が完全には対応しない——救護院付属病棟は前者で18、後者で16と数えられている。報告書は両分類の対応関係を明示しておらず、本稿は各分類をそれぞれの文脈でのみ用いる。

ここに1838年法の履行の実態がある。法は「各県にアジールを」と命じた。四十年後、その機能を担っていたのは、県が建てたアジールだけではなく、救護院の一角を仕切った病棟16と、宗教共同体や私人の所有する私立施設18とを含む、法的性格を異にする三種の施設の集合であった。前稿は1838年法を「世帯経済が担いきれない危険と費用の県への移転」と定義したが、県はその移転を受け止めるにあたり、自ら建てるかわりに、既存の救護院と私立施設に再委託したのである。

3-3 法の外に残った監禁

そして、104という母集団の外にも精神病者はいた。監察官たちはそれを隠していない。

« Mais ces 104 établissements ne sont pas les seuls qui reçoivent et gardent des aliénés ; on en conserve encore pendant des mois et même des années, tantôt sous le prétexte de mise en observation, tantôt comme n'étant ni curables ni dangereux, dans des hôpitaux, des hospices ou des dépôts de mendicité. Nous citerons notamment : les hôpitaux de Besançon, du Havre et le dépôt de mendicité de Montreuil-sous-Laon, où des aliénés sont séquestrés et maintenus contrairement aux prescriptions formelles de la loi. »(pp. 78–79)

しかしこれら104施設だけが精神病者を受け入れ拘留しているのではない。ある者は観察のためという口実で、ある者は治癒可能でも危険でもないという理由で、なお数ヶ月、いや数年にわたって、病院・救護院・乞食収容所に留め置かれている。とりわけ次を挙げよう。ブザンソンおよびル・アーヴルの病院、そしてモントルイユ=スー=ラオンの乞食収容所。そこでは精神病者が法の明文の規定に反して隔離・拘留されている。

前稿第3章は、1838年以前の収容実務が「県や市町村の場当たり的な行政措置、施設側の裁量、家族の私的取引によって担われる法外の領域」に留まっていたことを、共和暦12年のポルタリス通達と1821年の司法大臣書簡によって示した。1874年、その法外の領域はなお残っている。しかも今度は、法を執行する側の総監察自身が、三つの施設を名指しで告発している。

前稿は、1838年法が収容決定への司法審査を捨てた代わりに、認可施設の一覧と総監察という行政的統制を選んだことを論じた。本章が示すのは、その統制装置が四十年後においてなお、自らの管轄外での監禁を数え上げることしかできなかったという事実である。そして統計に現れる42,077という数字は、原理的にこの法外の監禁を含まない。第一章1-6で述べた「収容は依然として少数派である」という留保は、ここでも効いている。

3-4 遅れの説明——報告書は誰を責めたか

なぜ建設は進まなかったのか。報告書の説明は、われわれが予想するものとは違う。財政でも、県会の抵抗でもない。

« Parmi les causes qui ont concouru en France, et nous pourrions dire presque partout en Europe, à arrêter ou à ralentir la construction de nouveaux asiles et l'agrandissement de ceux qui existaient, il faut mettre en première ligne l'indécision que sont venus jeter dans le public de prétendus novateurs, par leurs critiques, aussi peu consciencieuses que peu étudiées, sur le mode de traitement et d'assistance institué, ou plus exactement organisé par la loi de 1838. »(p. 81)

フランスにおいて——ほとんど全ヨーロッパにおいてと言ってもよいが——新アジールの建設と既設アジールの拡張を止め、あるいは遅らせることに与った原因のうち、第一に挙げるべきは、1838年法によって設けられた(より正確には組織された)治療と扶助の様式について、自称革新家たちが、その不誠実かつ不勉強な批判によって公衆に投げ込んだ逡巡である。

遅れの第一原因は、批判者たちだとされている。ここで名指しされているのは、ベルギーのゲール(Gheel)に倣った家族的コロニーの提唱者たちである。監察官たちは、ベルギー人自身がこのコロニーを保存しながらも模倣しないことによって「制度としては裁いた」のだと反論する(p. 81)。

この一段は、1874年の公式報告が論争の文書でもあることを示している。第二章2-3で見た「進歩の負傷者」の修辞と合わせて読めば、報告書の構えが見えてくる。増大は文明の必然であり、対応はアジールの増設であり、増設を妨げているのは無責任な批判者である——過密の時代の公式教説は、この三段によって完結している。

3-5 在宅扶助の否定

批判者たちが提唱したもう一つの代案が、在宅扶助である。報告書はこれを、試行の失敗によって斥ける。

« Ce système a été essayé, sur une petite échelle, dans le Rhône, dans les Vosges et quelques autres départements ; mais on a dû bien vite y renoncer. Dès qu'ils ont su ce qu'étaient les aliénés, la plupart des nourriciers se sont hâtés de se débarrasser de ceux qu'on leur avait confiés, les autres les traitaient comme des bêtes de somme, et il a fallu les leur retirer. »(p. 81)

この制度はローヌ県、ヴォージュ県その他若干の県で小規模に試みられたが、ただちに断念せざるをえなかった。精神病者がどういうものかを知るや否や、里親の大半は委ねられた者を急いで厄介払いし、他の者たちは彼らを駄獣のように扱ったので、引き取らねばならなかった。

そして断定が置かれる。

« Ainsi généralisée, la question du traitement et de l'assistance des aliénés à domicile est une pure utopie. »(p. 81)

このように一般化されたものとしては、精神病者の在宅における治療と扶助の問題は純粋な空想である。

家族への補助金についても同様である。

« A part de trop rares exceptions, les subventions accordées aux familles contribuent à améliorer le sort de ces familles, mais presque jamais celui des aliénés qu'elles sont autorisées à garder ou à reprendre. »(p. 82)

あまりにも稀な例外を除いて、家族に与えられる補助金はその家族の境遇を改善することには寄与するが、家族が留め置きあるいは引き取ることを許された精神病者の境遇を改善することは、ほとんどない。

この判断は、本稿の枠組にとって重要である。前稿は、1838年法以前の世帯経済が病者を長く在宅で抱え込んでいたこと、そして収容の要求が世帯の防衛限界の突破点で発せられたことを論じた。1874年の報告書は、在宅という選択肢を制度としては全面的に否定する。世帯は、四十年を経て、病者を託しうる相手ではなくなった——少なくとも公式の教説においては。

第二章2-1で見た原因 (4)——入院の遅れは「家族の責任というよりもはるかに県当局の責任である」——と、この在宅扶助の否定とを並べると、報告書の家族観は一貫している。家族は病者を抱え込みすぎるのでも、投げ出しすぎるのでもなく、そもそも病者を委ねる相手として想定されていない。残るのはアジールだけである。

3-6 ただし一つの例外——「知能の不具者」

もっとも、監察官たちはこの原則に一つの例外を認めている。それは彼ら自身の分類の内側に亀裂を入れるものである。

まず慢性精神病者については、断固としてアジール内に留める。

« Si l'on entend par cette expression les aliénés chroniques, nous n'hésitons pas à déclarer qu'ils doivent être placés à côté des autres, dans des quartiers distincts, si l'on veut, mais dans les mêmes établissements. »(p. 82)

この表現〔治癒不能かつ無害な者〕によって慢性精神病者を意味するのであれば、われわれは躊躇なく宣言する——彼らは他の者たちの傍らに、望むなら別の病棟にではあれ、同じ施設のなかに置かれねばならない、と。

しかし「知能の不具者」——白痴、痴愚、精神薄弱、クレチン、そして老年痴呆と片麻痺性痴呆——については、断定を控える。

« Un certain nombre de ces infirmes, assurément, sont dangereux pour la sécurité publique et doivent être internés dans des asiles spéciaux, mais il en est un plus grand nombre encore qu'il serait plus rationnel de laisser dans leur famille, surtout dans les campagnes, ou de les placer dans des hospices ordinaires. »(p. 82)

これらの不具者の一定数は確かに公共の安全にとって危険であり特殊アジールに収容されねばならないが、それ以上に多くの者については、家庭に——とりわけ農村では——留めるか、普通の救護院に置くほうが合理的であろう

第二章2-6で見たように、この「知能の不具者」は1874年末の在院者42,077名のうち5,298名(12.58%)を占め、老年痴呆を加えればさらに増える。監察官たち自身が、収容者の一割以上について「アジールにいるべきではない」と判断していたことになる。

にもかかわらず彼らは外に出さなかった。第二章2-2で見た二つの理由——今日無害でも明日危険になりうるという危険性の論拠と、救護院の日額のほうが高いという財政の論理——がそれを妨げた。そして結論はふたたびアジールに戻る。

« c'était encore dans l'asile, tel qu'on le conçoit aujourd'hui, tel du moins que nous le concevons, qu'il était le plus rationnel de placer l'immense majorité des aliénés de toutes catégories. »(p. 83)

結局のところ、あらゆる範疇の精神病者の圧倒的多数を置くのに最も合理的なのは、今日考えられているような、少なくともわれわれが考えるようなアジールなのである。

3-7 小括——「擬似適用」とは何か

カステルは『精神医学的秩序』第6章に「法の擬似適用」(La pseudo-application de la loi)という表題を与えた。本章が示したのは、その内実を1874年の公式報告によって数え直したものである。

四十年のあいだに諸県が真に創設したアジールは18。義務の残りは、旧修道院の転用と、救護院の一角と、私立施設への委託とによって埋められた。法の外での監禁はなお残り、総監察自身がそれを名指ししている。建設が進まなかった理由を、報告書は財政にではなく批判者たちの逡巡に帰し、代案としての在宅扶助を「純粋な空想」として斥けた。そして収容者の一割以上について「アジールにいるべきではない」と認めながら、彼らを外に出す経路は用意しなかった。

過密とは、需要が供給を上回った状態のことではない。第一章1-6で見たように、収容されていたのは精神障害者の一部にすぎず、需要はまだ大半が家のなかに留まっていた。過密とは、法が課した義務を県が最小限の費用で履行し、しかも出口を塞いだまま入口だけを開いていたことの帰結である。

その費用が実際にどう配分されていたかを、次章で見る。

第四章 誰が払っていたか——1864年と1874年

第三章の末尾で、監察官たちの一文を引いた。精神病者が諸県にとって重い負担だというのが真実だとしても、「これを収容するための施設に真に大きな支出をした県はごく少数にすぎない」(p. 80)。本章はこの一文を出発点に、費用がどこから出て、どこへ流れたのかを追う。

前稿第4章は、1838年法の費用条項を後順位の連鎖として読んだ。まず本人の資産、次に民法典第205条以下の扶養義務者、それも欠けるか不足する場合にはじめて公的慈善——県・市町村・救護院——が負う(第25–28条)。中央政府は一銭も負担しない。本章の課題は、この法文上の連鎖が三十六年後に実際どう作動していたかを、金額で確かめることである。

4-1 法文上の連鎖——報告書による確認

まず報告書自身が、この連鎖を法の言葉で確認している。

« En principe, en effet, les dépenses de transport et d'entretien des aliénés dans les asiles sont à la charge des personnes placées, et, à défaut, à la charge de ceux auxquels il peut être demandé des aliments, aux termes des articles 205 et suivants du code civil (article 27, § 1er, de la loi du 30 juin 1838) ; ce n'est qu'à défaut ou en cas d'insuffisance de ces ressources que les aliénés sont à la charge de la charité publique, c'est-à-dire, suivant les cas, des départements, des communes ou des hospices. »(p. 276)

原則として、アジールにおける精神病者の移送費および扶養費は収容された者自身の負担であり、それが欠ける場合には、民法典第205条以下の規定により扶養を求めうる者の負担である(1838年6月30日法第27条第1項)。これらの資源が欠けるか不十分である場合にはじめて、精神病者は公的慈善の負担、すなわち場合に応じて県、市町村または救護院の負担となる。

法文どおりである。そして報告書は、本人の資産の充当範囲についても注記する——1839年8月5日の回状は、資本の利子・産物と資本そのものとを区別しておらず、「いくつかの状況において、精神病者の滞在費の支払に、彼らが所有するすべてが充てられた」(p. 276)。ただし今日ではほぼ常に本人の収入と親族の給付のみを充てる、とも付け加えられている。

前稿が法文から読み取った「後順位の連鎖」は、四十年後の運用においても法の建前としては維持されていた。問題は、その建前が金額の上でどう現れるかである。

4-2 支出総額の推移——十五年で六割増

まず総額を見る。

« Le montant total des dépenses ordinaires occasionnées par le service des aliénés a été : […] L'augmentation depuis quinze ans a donc été, en moyenne, de 365,791 francs par année. »(p. 273)

精神病者事業に起因する経常支出の総額は〔次のとおりであった〕。……したがって十五年間の増加は年平均365,791フランである。

原本では金額が四行の表の形で組まれている(p. 273)。

経常支出総額(フラン)1864年=100
18608,819,60282.3
186410,713,097100
187213,445,839125.5
187414,306,475133.5

十五年で62%の増加である。同じ期間の収容人口は、1864年34,919から1874年42,077へ20.5%の増加であった(第一章1-3)。支出の伸びは人口の伸びを大きく上回っている。

ただしこの数字が何を含むかに注意が要る。報告書は明示している——ここに含まれるのは経常支出、すなわちアジール・救護院・留置所での扶養費、在宅救護費、移送費のみであり、「建設費・什器費も、単価とは別に県がアジールに交付した例外的補助金も算入していない」(p. 273)。第三章で見た十八のアジールの建設費は、この総額の外にある。

4-3 誰が実際に払ったか

では、この総額を誰が負担したのか。報告書は負担者ごとに数字を与えている。

救護院。1838年法第28条第2項は救護院に補償金を課した。1872年におけるその総額は——

« En 1872, la part des hospices dans la dépense des aliénés s'est élevée à la somme de 67,961 francs »(p. 274)

六万七千九百六十一フラン。同年の総支出13,445,839フランに対して、0.51%にすぎない。しかもその内訳を見ると、オート=ガロンヌ県の20,000フランとローヌ県(リヨンの救護院)の30,000フランで四分の三を占め、残りは十県に分散する。アン県は120フラン、ブーシュ=デュ=ローヌ県は95フラン、ベルフォール郡は87フランである(p. 274)。法が定めた救護院の分担は、事実上機能していない。

市町村。こちらは大きい。

« En 1860, la part contributive des communes représentait 23,10 0/0 de la dépense totale du service des aliénés ; en 1872, la proportion était de 27,50 0/0. L'augmentation est assez importante pour être notée. »(p. 275)

1860年、市町村の分担部分は精神病者事業の総支出の23.10パーセントに相当していた。1872年には、その比率は27.50パーセントであった。この増加は、記録に値するほど重要である。

家族。そしてここに、本章で最も重要な数字がある。

« En 1860, la part contributive des familles dans les frais d'entretien des aliénés assistés était de 6,30 0/0 ; en 1872, elle n'était plus que de 5,65 0/0. Elle varie d'ailleurs dans de très-fortes proportions suivant les départements ; nulle ou presque nulle dans les uns, les Alpes-Maritimes, la Corse, les Landes, la Corrèze, elle atteint dans d'autres des chiffres relativement importants. »(p. 276)

1860年、被扶助精神病者の扶養費における家族の分担部分は6.30パーセントであったが、1872年にはもはや5.65パーセントにすぎなかった。しかもこの比率は県によってきわめて大きく変動する。ある県——アルプ=マリティーム、コルシカ、ランド、コレーズ——では皆無かほとんど皆無であり、他の県では相対的に重要な数字に達する。

三者を並べると、1838年法の連鎖の実態が現れる。総支出に占める比率は次のとおりである(1872年の金額は本稿が総支出13,445,839フランに比率を乗じて算出した概算)。

負担者1860年1872年1872年の概算額
家族(および本人)6.30%5.65%約759,700フラン
市町村23.10%27.50%約3,697,600フラン
救護院〔不明〕0.51%67,961フラン(実額)
県(残余)〔約70.6%〕約66.3%約8,920,600フラン

法が第一順位に置いた家族の負担は、絶対額では増えているが、比率では下がっている。そして第二順位以下の公費——とりわけ市町村——の比率が上がっている。

前稿は、1838年法の費用条項を「救済は権利としてではなく、他のすべての扶養資源が尽きた地点で発動する後見として設計された」と定式化した。1872年の数字が示すのは、その設計が三十五年のあいだに、事実上の公費負担制度へと滑っていったということである。家族から取り立てる建前は残ったが、取り立てられた額の比率は下がりつづけた。

この滑りには制度的な後押しもあった。1871年8月10日法第58条第8項により、市町村の分担金は県の経常収入に計上されるようになり、事業支出の総額が県予算に記載されることになった(p. 275)。それ以前は、県会は「県に帰属する部分のみを予算に計上し、市町村および家族の分担部分をアジールに支払うのは、その徴収が完了するのを待つのが一般であり、しばしばかなり長い遅延を要した」(同)。徴収の不確実性が、そのまま施設の資金繰りの遅延になっていたのである。

4-4 単価の格差——建てた県と建てなかった県

第三章で見たように、四十年で自らアジールを創設した県は十八にすぎなかった。建てなかった県はどうしたか。他県のアジール、救護院の病棟、私立アジールに患者を委ねた。その代価が、1日あたりの単価(prix de journée)に現れる。

« Nous avons vu, dans un chapitre précédent, que le prix de journée payé pour leurs aliénés par les départements qui possèdent des asiles n'avait augmenté, de 1864 à 1874, que de 0 fr. 017 ; l'augmentation est bien autrement importante pour ceux dont les malades sont entretenus soit dans des asiles privés ou des quartiers d'hospice, soit même dans des asiles départementaux étrangers. »(p. 264)

先の章で見たとおり、アジールを所有する県が自県の精神病者について支払う1日単価は、1864年から1874年にかけて0フラン017しか上昇しなかった。私立アジールや救護院の精神病棟、あるいは他県の県立アジールに患者を委ねている県では、上昇ははるかに大きい。

委託先1864年1874年上昇
自県所有のアジール+0 fr. 017
他県の県立アジール1 fr. 151 fr. 202+0 fr. 052
救護院の精神病棟1 fr. 1061 fr. 136+0 fr. 03
私立アジール0 fr. 9491 fr. 053+0 fr. 104
全アジール平均1 fr. 0381 fr. 154+0 fr. 116
同(セーヌ県の新設三アジールを除く)1 fr. 0381 fr. 111+0 fr. 073

十年間の単価上昇は、自ら建てた県では六分の一にとどまり、私立アジールに依存した県では六倍であった。私立アジールの単価は1864年には最も安く(0 fr. 949)、1874年には自県アジールとほぼ並ぶ(1 fr. 053)。安価な委託先という選択は、十年で消えたのである。

ここに、第三章と本章をつなぐ論点がある。建設を回避した県は、短期的には支出を免れたが、長期的には単価の上昇として支払った。そして0-5で見たとおり、建設の可否を決める権限は1866年以後、県会の側にあった。単価の格差は、地方分権の価格であったとも言える。そして建設した県は、第三章で見たとおり十八にすぎない。監察官が「真に大きな支出をした県はごく少数にすぎない」と書いたとき、彼らは同時に、残りの県が別の形で支払っていたことを知っていたはずである。

4-5 県間の分散——25パーセントの平均の下で

負担の増加は全国一様ではなかった。人口10万人あたりの被扶助精神病者の数は、次のように動いた。

« En 1864, la proportion des aliénés assistés par 100,000 habitants était en moyenne de 71,7 ; en 1874, elle était de 89,7 ; il y a donc eu une augmentation de 25 0/0. »(p. 270)

しかし平均の下の分散は大きい。最高はセーヌ県の245から304へ、最低はコルシカ県の11から15.6へ。上位と下位の間には二十倍の開きがある。十年間の増加率で見ると、ウール県123%、ジュラ県123%、ロット県113%、バス=ザルプ県104%、アルプ=マリティーム県101%と倍増した県がある一方、ヴォージュ県は30.20%の減少、オート=ザルプ県22.62%減、ソンム県19.77%減と、減った県も十県以上ある(pp. 270–271)。

同じ法の下で、同じ十年に、被扶助者の比率が倍増した県と三割減った県が並存している。これは病理の分布ではなく、県会の財政方針と施設の有無を反映していると考えるほかない。第二章2-1で見た原因(2)——習慣は「アジールが近いほど速く」広がる——が、県別の数字として現れているのである。

なお報告書は、ヴォージュ県の減少について、同県が1872年国勢調査では人口10万対249と全国有数の精神障害者比率を示す県であることを挙げ、支出の削減は「きわめて合理性を欠く」と批判している(p. 271)。監察官は県会の裁量を掣肘する立場にはなく、批判を書き記すことしかできない。

4-6 アジールは黒字であった

最後に、費用の議論を裏側から照らす事実を挙げる。1874年時点で県会が「重い負担」と呼んでいた事業は、施設の会計としては黒字だったのである。

巻末の「TABLEAU N° 7. — RÉSULTATS FINANCIERS DE LA PÉRIODE QUINQUENNALE 1870-1874.」(pp. 246–249)は、四十二のアジールについて五年間の財政結果を集計している。総計行は次のとおりである。

項目金額
経常予算 収入(五年計)59,427,377 fr. 63 c.
経常予算 支出(五年計)55,623,929 fr. 87 c.
差引+3,803,447 fr. 76 c.
1870年以前の繰越(収入超過−支出超過)+2,597,736 fr. 94 c.
臨時収入1,802,939 fr. 44 c.
臨時支出5,550,507 fr. 99 c.
1874年度末残高(収入超過−支出超過)+2,653,616 fr. 05 c.
決算に計上されない債務2,235,963 fr. 50 c.

本文はこれを要約して、四十二施設のうち三十七が黒字であったと述べる。赤字は五施設——プレモントレ、エヴルー、トゥールーズ、アランソン、ラ・ロシュ=シュル=ヨン——にとどまり、その額は2,784フラン5サンチームから31,972フラン71サンチームである(p. 251)。

五年間で三百八十万フランの経常黒字。単価は原価を上回るように設定されており、施設は自らの運転資金を生み出していた。第二章2-6で見た滞留する不治者は、会計の側から見れば、確実に単価を生みつづける存在でもあった。もっとも、決算に計上されない債務が二百二十三万フラン残っている点は、この黒字の性格に留保を要する。

〔本節に用いた総計行は、原本頁の画像により確定した。表7については E−F と G−H、J−K と L−M がいずれも完全に一致し、表として閉じている。なお p. 251 の本文は繰越の収入超過を「2,597,732フラン94サンチーム」と印字するが、同じ表の C 列と D 列から算出すれば 2,597,736フラン94サンチーム であり、4フランの誤植である。〕

4-7 小括——連鎖の実態

本章の結論は三点である。

第一に、法が第一順位に置いた家族の負担は、比率では後退していた。1860年の6.30%から1872年の5.65%へ。前稿が論じた「他のすべての扶養資源が尽きた地点で発動する後見」という設計は、三十五年のあいだに事実上の公費負担へと滑っていた。滑った先は主として市町村(23.10%→27.50%)であり、法が期待した救護院の分担は0.51%で機能していない。

第二に、建設しなかった県は、単価の上昇として支払った。自らアジールをもつ県の単価上昇が十年で0フラン017であったのに対し、私立アジールに依存する県では0フラン104。第三章で見た「県が真に創設したアジールは十八」という事実の経済的な裏面が、ここにある。

第三に、施設そのものは黒字であった。五年間で三百八十万フランの経常黒字、四十二施設中三十七が黒字。「重い負担」という言葉が指していたのは、施設の赤字ではなく、県予算に占める割合の増大である。

そしてこの三点は、一つの像に収斂する。1838年法が作った費用の連鎖は、四十年をかけて、家族から公費への、そして建設から委託への、二重の移転を実現した。過密とは、この移転が飽和した状態の別名である。

その移転が最も極端な形をとった場所を、次章で見る。セーヌ県である。

第五章 セーヌ県——過密の原因にして、過密への応答

5-1 なぜセーヌ県に一章を割くか

第三章で見たように、1838年法の公布後に諸県が真に創設したアジールは十八にすぎない。そのうち三つ——サンタンヌ(1867年)、ヴィル=エヴラール(1868年)、ヴォークリューズ(1869年)——はセーヌ県一県のものである。十八分の三、六分の一が首都圏に集中していた。

第四章で見た単価の統計も、同じ重みを示している。1864年から1874年にかけての全アジール平均の単価は1フラン038から1フラン154へ上がるが、報告書は但し書きを付す——「1864年に存在しなかったセーヌ県の新アジールを除けば」1フラン111にとどまる、と(p. 264)。一県の三施設が、全国平均を四分の一ほど押し上げていた。

そして被扶助者の比率でも、セーヌ県は突出している。人口10万人あたりの被扶助精神病者数は、全国平均が1864年71.7から1874年89.7へ動くなかで、セーヌ県は245から304へである(p. 270)。最下位のコルシカ県(11→15.6)との開きは二十倍に達する。

本章はこの一県を、全国の縮図としてではなく、制度の限界事例として扱う。過密がどこよりも早く現れ、どこよりも大規模な対応が試みられ、そしてなお解決しなかった場所だからである。

5-2 1844年——過密が移送を生んだ

セーヌ県の県外移送は、第二帝政期の産物ではない。報告書は開始の事情を明記している。

« Tous les aliénés de la Seine furent dès lors réunis, les hommes à Bicêtre, les femmes à la Salpêtrière, et il en fut ainsi jusqu'en 1844. / A cette époque, l'encombrement de ces deux établissements était devenu tel, qu'on dut se décider à en transférer un certain nombre dans des asiles de province. Ces transfèrements, qui ne tardèrent pas à prendre une grande extension, ont continué à peu près sans interruption, même après la création des asiles de Sainte-Anne, Ville-Évrard et Vaucluse. »(p. 373)

セーヌ県のすべての精神病者はそれ以来、男はビセートルに、女はサルペトリエールに集められ、1844年までそうであった。/この時期、これら二施設の過密(encombrement)はきわめて甚だしくなり、その一定数を地方のアジールへ移送することを決断せざるをえなくなった。この移送は間もなく大規模なものとなり、サンタンヌ、ヴィル=エヴラール、ヴォークリューズの各アジールの創設ののちも、ほぼ中断なく続いた。

1844年である。オスマンがセーヌ県知事に任命される九年前、第二帝政の成立の八年前である。しかも決断の理由は明示的に encombrement——過密——であって、治療上の判断でも都市計画上の構想でもない。

この時系列は、本稿の主題にとって決定的である。セーヌ県は、都市改造が始まるはるか以前から床が足りなかった。文献調査の段階で立てた「オスマン改造がアジールを生政治的清掃装置として動員し過密を生んだ」という作業仮説は、ここで因果の向きを逆にせねばならない。この点は5-7で改めて論じる。

5-3 県外委託の展開——三十の協定と三千九百五十三名

移送は協定(traité)の形をとった。報告書はセーヌ県が「約三十の公私アジール」と結んだ最初の協定の日付と、1874年12月31日現在それらが収容していた同県の患者数とを、一覧表にして掲げている(pp. 373–374)。

最初の四件は1845年10月に集中する——アルマンティエール10月23日、ファン10月24日、メレヴィル10月25日、サン=ヴナン10月28日。1844年の決断から一年足らずで、四つの県立アジールと協定が結ばれた。その後、協定は1846年に四件、1850年代に四件、1860年代に十件以上と積み重なり、最後は1874年7月1日のラ・ロシュ=ガンドンに至る。

この表は三十四行からなるが、うち九行は「協定更新せず(Traité non renouvelé)」として全欄が空白である。実数をもつのは二十五施設である。なお原本のこの表には合計行が印刷されていないため、以下の合計は本稿が二十五行を集計したものである。

集計すると男1,246、女2,116、計3,362となる。そしてこの数値は、報告書の別の箇所——1874年12月31日現在のセーヌ県被扶助精神病者の配置を示す総括表(p. 378)——に印刷された値と一致する。

ところが第三部の脚注は、別の数値を挙げている。

« A la fin de l'année 1874, le total des aliénés, au compte du département de la Seine, placés dans les établissements de province, était de 3,953 (1,464 hommes, 2,489 femmes), tandis qu'il n'était que de 2,760 (1,241 hommes, 1,519 femmes) le 1er janvier 1865. »(p. 446 注1。同じ数値が p. 454 注1 にも現れる)

1874年末、セーヌ県の勘定で地方の諸施設に置かれた精神病者の総数は3,953(男1,464、女2,489)であったが、1865年1月1日にはわずか2,760(男1,241、女1,519)にすぎなかった。

3,953と3,362。差は591である。この食い違いは、母集団の広狭による。p. 378 の総括表には「協定なきアジール(asiles sans traités)」の欄があり、そこに男218、女373、計591が計上されている。3,362+591=3,953、男1,246+218=1,464、女2,116+373=2,489。性別内訳まで完全に一致する。すなわち3,362は協定を結んだ施設のみ、3,953は協定の有無を問わず地方の全施設である。両者とも公費負担の患者に限られる点は共通する。

この確定によって、十年間の推移が読めるようになる。

時点
1865年1月1日1,2411,5192,760
1874年12月31日1,4642,4893,953
増加+18.0%+63.9%+43.2%

女性の増加が男性の三倍以上である。第一章1-4で見たとおり、同じ十年間にセーヌ県が地方へ移送した患者は累計6,974名(男3,153、女3,821)であった(p. 450 注1)。移送の累計でも女性が多い。この非対称は、県内施設の構成——サルペトリエールが女子のみ、ビセートルが男子のみを収容する——と関係する可能性があるが、報告書はこの点を論じておらず、本稿もこの非対称の解明は今後の課題として記すにとどめる。なお第一章1-5で見たとおり、全国の十年間の増加も女性(3,994)が男性(3,141)を上回っており、女性優位の増加はセーヌ県固有の現象ではない可能性が高い。

5-4 1874年の需給——千八百床の不足

セーヌ県の被扶助精神病者は、1874年12月31日現在で7,072名を数える(p. 378)。うち3,953名は地方に置かれ、残りが県内の五施設にいる。

その県内施設の収容力を、監察官たちは自ら実測した。

« Or, lors de notre inspection de 1874, nous n'avons trouvé dans les divers établissements de la Seine, en réservant un certain nombre de lits pour le mouvement et le service des infirmeries, que 3,215 places réelles »(pp. 378–379。頁の切れ目は « un certain nombre de ‖ lits » の位置)

ところが1874年のわれわれの視察の際、セーヌ県の諸施設において、患者の出入りおよび病室の用に一定数の病床を留保したうえでは、3,215の実収容定員しか見出されなかった。

施設実収容定員
サルペトリエール725
ビセートル660 ※
サンタンヌ(入院事務局を含む)610
ヴォークリューズ600
ヴィル=エヴラール620
3,215

これに対する必要数の見積りが示される。

« Nous estimons que le nombre des places destinées aux aliénés assistés à Paris et dans un rayon de 25 à 30 kilomètres devrait être de 5,000 environ »(p. 378)

われわれは、パリおよび半径25ないし30キロメートル圏内における被扶助精神病者用の収容定員数はおよそ5,000であるべきだと考える。

そして結論。

« En admettant même que l'on se décidât à conserver, en les améliorant, les quartiers de la Salpêtrière et de Bicêtre, il resterait encore, dès aujourd'hui, 1,800 places à fonder. »(p. 379)

サルペトリエールおよびビセートルの〔精神病者〕区画を、改善のうえ存置すると決したと仮定してさえ、今日ただちに1,800の定員をなお新設せねばならないであろう。

※ ビセートルの床数は報告書内で三つの値が並存する——本総括表の660、p. 384本文の673、同頁内訳表の総計671。サルペトリエール(725)は両所で一致するため、食い違いはビセートルに限られる。総括表の660は施療室分をさらに控除した値と推測されるが、確定できない。本稿は総括表の系列(計3,215)を採り、この不一致を注記する。

過密が、はじめて数値として定義される。5,000から3,215を引けば1,785であり、報告書の「1,800」はその丸めである。しかもこの1,800は、老朽化したサルペトリエールとビセートルの病棟を存置するという最も甘い前提を置いたうえでの不足数である。

さらに監察官は、この不足が縮まらないことを示す。セーヌ県の被扶助精神病者は「毎年250から300ずつ増加する」(p. 378)。視察後にヴォークリューズで二十ほど、建設中のサンタンヌの二病棟で二百から二百五十の定員が加わる見込みだが、それらは「1875年および1876年における被扶助精神病者数の増加を埋め合わせるにもかろうじて足るにすぎない」(p. 379)。

新設は、増加に追いつくためだけに費やされる。第三章で見た「野戦病院を増やせ」という結論は、セーヌ県においては、増設しても不足は縮まらないという形で現れていた。

5-5 オスマンの構想と、監察官の評価

こうした状況に対して構想されたのが、パリ周辺のアジール網であった。報告書はオスマンの名を挙げて、その規模を記録している。

« M. Haussmann avait projeté de construire autour de Paris une douzaine d'asiles de 600 malades et d'y réunir tous les aliénés du département. Ce projet était grandiose assurément ; mais, si nous en jugeons par ce qu'ont coûté les établissements déjà construits, sa réalisation eût entraîné à des dépenses considérables et hors de proportion, croyons-nous, avec les résultats qu'on eût pu en obtenir. »(p. 377)

オスマン氏は、パリの周囲に六百人収容のアジールを十二ほど建設し、そこに県のすべての精神病者を集めることを構想していた。この計画はたしかに壮大であった。しかし、すでに建設された諸施設に要した費用から判断するなら、その実現は多額の、そしてわれわれの考えでは、そこから得られたであろう成果とは不釣り合いな支出を招いたであろう。

「十二ほど(une douzaine)の、六百人収容のアジール」——合計すればおよそ七千二百床である。1874年の必要数の見積り5,000を四割上回る。構想の年次は本段落には示されないが、同じ頁の直前に「1861年に構想されたもの」という言及があり(pp. 376–377)、サンタンヌの記述も「1861年に構想された総合計画」に触れている(p. 386)。

注目すべきは、監察官たちの評価が否定的なことである。壮大ではあったが、費用が成果に見合わなかったであろう、と。第三章で見たように、彼らは施設の増設を一貫して要求してきた。その彼らが、実際に提示された最大規模の増設計画を、費用対効果を理由に斥けている。増設を求める言説と、実現可能な増設の規模とのあいだには、はっきりした落差があった。

もう一つ、セーヌ県の負担をめぐる論点が記録されている。首都に親族も利害関係ももたない者を県が抱え込むのは合理的でない、として、報告書はこう書く。

« […] et qui, pour la plupart, ne seraient pas à la charge du département de la Seine, si la durée du séjour nécessaire pour acquérir le domicile de secours était portée d'un an à trois ans, comme le conseil général de la Seine l'a demandé en 1874. »(p. 377)

〔…〕しかもそれらの者の大部分は、救助住所を取得するのに必要な居住期間が1年から3年に引き上げられていたならば、セーヌ県の負担とはならなかったであろう。セーヌ県会が1874年に要求したとおりに

これは実現した制度改正ではない。条件法で語られる仮定であり、1874年にセーヌ県会が要求した——すなわち要求にとどまった——提案である。前稿第4章で見た費用負担の連鎖は、県のあいだでは救助住所(domicile de secours)の取得要件をめぐる争いとして現れていた。地方から流入した者の費用を誰が負うか。首都の県は、その線引きを一年から三年へ動かすことで負担を地方へ押し戻そうとしたのである。

5-6 入院の経路——警視庁の留置所

セーヌ県が全国と異なるのは、規模だけではない。入院の手続そのものが違っていた。

« L'admission des aliénés dans les asiles ne se fait pas à Paris comme dans les autres départements. Ils y sont placés par le préfet de police, en vertu de l'article 18 de la loi, et tous, à l'exception de ceux, en petit nombre d'ailleurs, qui sont envoyés des hôpitaux, sont tenus de passer par le dépôt de la préfecture de police, d'où ils sont dirigés sur le bureau d'admission de Sainte-Anne. Il n'y est jamais fait de placements volontaires, ni directement par les familles, ni indirectement avec l'autorisation de l'administration préfectorale, en vertu de l'article 25 de la loi de 1838. »(p. 379)

パリにおける精神病者のアジールへの入院は、他の諸県におけるようには行われない。彼らは法律第18条にもとづき警視総監によって収容され、しかも、もっとも少数である病院から送られてくる者を除いてすべての者が、警視庁の留置所を経由することを義務づけられ、そこからサンタンヌの入院事務局へ送られる。そこでは家族同意入院(placement volontaire)は一切行われていない。家族による直接のものも、1838年法第25条にもとづく県知事行政の許可による間接のものもである。

前稿が論じた1838年法の二本立て——県知事の職権入院と、施設長が受理する家族同意入院(placement volontaire)——のうち、パリでは前者しか作動していなかった。しかも職権入院の窓口は県知事ではなく警視総監であり、経路は必ず警視庁の留置所を通る。

監察官たちはこれを批判している。扶養費を支払えない者が親族の収容を当局に請願したとき、あらかじめ留置所へ移送して一日ないし数日観察下に置くのは「あらゆる点で不合理」であり、留置所へ連行されるべきは「公共の秩序または安全にとって危険なものとして逮捕された者」(法第18・19条)に限られるはずだ、と(p. 380)。

そしてサンタンヌの記述において、彼らは決定的な一文を書く。

« Quant au bureau d'admission, il n'a guère été, jusqu'ici, qu'un bureau de répartition, et il en sera de même tant que les aliénés ne pourront être admis qu'après avoir passé par le dépôt de la préfecture de police, qui est, en fait, le véritable bureau d'admission. »(p. 386)

入院事務局はといえば、それは今日まで、振分事務局にすぎなかった。そして精神病者が警視庁の留置所を経たのちでなければ入院しえないかぎり、事情は同じであろう。その留置所こそが、事実上の真の入院事務局なのである。

1861年の総合計画において、サンタンヌは臨床教育のためのアジールであると同時に「入院と振分けの事務局」であるはずだった(p. 386)。実際には、入院を決めていたのは警視庁であった。

前稿は、1838年法の核心を「県知事の署名と医師の証明書」という一点に見た。パリにおいては、その一点の手前に警察の留置所が置かれていた。医学的判断は、警察的選別を通過した者に対してのみ行使される。首都においては、行政的収容の「行政」とは警察であった。

5-7 因果の向きの訂正

以上から、本稿の当初の作業仮説を訂正しておく。

オスマンによる都市改造がアジールの過密を生んだ、という説明は成り立たない。セーヌ県の過密は1844年にすでに移送を強いており、それはオスマンの県知事就任に先立つ。そして1861年に構想されたアジール網は、過密の原因ではなく、過密に対する行政的応答であった。監察官たちがその構想を費用の点から斥けたことは、応答の側にも限界があったことを示す。

したがって、都市改造とアジール網整備の関係は、因果としてではなく同一の行政的合理性の二つの現れとして定式化すべきである。衛生、治安、そして首都の体面——同じ論理が、街路の貫通とアジールの建設とを同時に要求した。1861年の総合計画が、街路と病床を同じ図面の上で構想していたことは、その端的な現れである。

そしてこの応答は成功しなかった。1874年、必要数5,000に対して実床3,215、不足1,800、しかも毎年250から300ずつ増加する。首都は、自らの被扶助精神病者7,072名のうち3,953名を地方へ送り出すことによって、辛うじて均衡を保っていた。第一章で見た全国の四倍増という数字の内側には、この移送の流れが含まれている。地方のアジールの人口増加の一部は、パリの過密の輸出であった。

第六章 英仏比較の更新

6-1 前稿の到達点

前稿第五章は、アンドリュー・スカルのイギリス論[5]——賃労働市場の成立が世帯から扶養能力を奪い、収容の需要を生んだ——を検討し、鈴木晃仁[6]とピーター・バートレット[7]による批判を踏まえて、次のように定式化した。英仏の差は「プロレタリア化の有無」という経済決定論ではなく、防衛限界を超えた事案を受け止める行政経路の違い——救貧法体制対県行政体制——として理解すべきである。

この定式は、当時のわれわれにとって二次文献に基づく推論であった。1874年の公式報告は、これを同時代の公式統計によって検証する機会を与える。監察官たちは第三部の随所で、イギリス・アイルランド・スコットランド、さらにプロイセンとスイスの数値を自国のそれと並べているからである。

6-2 収容率——フランスは低い

まず水準を確認する。報告書が挙げる各国の収容率は次のとおりである(pp. 448–449)。

国・地域収容者一人あたり人口人口10万対(本稿の換算)
イングランド+ウェールズ18731 / 382262
スコットランド18731 / 431232
プロイセン18711 / 463 ※216
アイルランド(施設内のみ)18721 / 493203
フランス18751 / 866115
スイス(参考)「数年前」1 / 325、クレチンを含めれば 1 / 202

※ プロイセンについて報告書は52,000名/人口24,000,000として「1/463」と記すが、除算すれば461.5である。また報告書自身が「この国では、この点に関する統計はなお望むところが多いようである」と留保を付している(p. 448)。アイルランドを施設外の者を含めて数えれば18,177名、比率は1/298となる(同)。

フランスの収容率は、イングランド・ウェールズの半分に満たない。第一章1-5で見たとおり、フランスは1865年の人口10万対91.92から1875年の115.44へ、十年で25.6%上昇した。それでもなお、イングランドの水準の半分以下である。

この一点だけを取れば、スカルの図式——賃労働市場が発達した国ほど収容が進む——と整合するように見える。しかし報告書の他の数値を並べると、像は複雑になる。

6-3 「回転」の差——入院件数はイングランドが上回る

監察官たちは、収容率ではなく動きを比較する。

« En effet, le mouvement du service est autrement rapide, on le comprend, dans un pays dont la population générale, quoique inférieure à la nôtre, a fourni, sans parler des établissements de l'Irlande, 14,333 admissions d'aliénés en 1874, quand nous n'en avions que 11,844. »(p. 455)

実際、われわれより人口の少ない国が、アイルランドの施設を別としても1874年に14,333件の精神病者の入院を提供したのに対し、われわれは11,844件しかなかったのだから、当該国の事業の回転がまるで速いことは理解される。

在院者数ではフランスがイングランドを大きく下回るのに、年間の入院件数ではイングランドが上回っている。しかも報告書はイングランドの人口がフランスより少ないことを明示している。

同じ年の在院者数はこうである。

« Au 1er janvier 1874, il y avait pour l'Angleterre et le pays de Galles seuls, 54,752 aliénés internés, dont 6,856 pensionnaires. En France, à la même époque, on ne comptait que 40,810 malades internés, dont 8,062 au compte de leurs familles. »(p. 455)

1874年1月1日、イングランドおよびウェールズだけで収容精神病者は54,752人、うち自費患者6,856人であった。フランスでは同時期、収容患者は40,810人にすぎず、うち8,062人が家族負担であった。

在院者数はイングランド・ウェールズがフランスを三割上回る。ところが入院件数の差は二割強である。在院者一人あたりで見れば、イングランドのほうが入れ替わりが速い。

第二章2-4で見たように、フランスでは十年間の退出者の四割が死亡によるものであった。滞留の度合いが、両国の差の主要な部分を占めていると考えられる。前稿の定式——英仏の差は行政経路の違いである——は、ここで「入口の広さの差ではなく、出口の狭さの差」として具体化できる。

6-4 救貧院という境界線

しかしこの比較には、重大な留保が要る。報告書は、イングランドについてもう一つの数値を記録している。

1874年1月1日、イングランドおよびウェールズの救貧院(workhouses)には15,018名の精神病者がいた(p. 455 周辺)。

この数はアジール収容者54,752名の27%に相当する。すなわちイングランドの「収容率」は、救貧院にいる精神病者を含まない数字である。これを加えれば、イングランドの水準はさらに上がる。

そしてこの事実は、前稿がバートレットに依拠して立てた論点——イギリスの収容は資本主義一般ではなく救貧法行政の構造によって駆動された——を、1874年の公式統計の側から裏づける。イギリスにおいて精神病者は、アジールと救貧院という二つの制度に分割して収容されていた。「アジール収容者数」という指標は、その分割線をどこに引くかによって大きく動く。

フランス側にも同種の問題がある。第三章3-3で見たように、報告書は法の明文に反して病院・救護院・乞食収容所に留め置かれている精神病者の存在を認めており(pp. 78–79)、統計に含めなかった施設を三つ名指ししている(p. 441)。両国とも、公式統計は制度の境界線の内側だけを数えている。

したがって英仏の収容率の差は、社会の差である以前に、制度分類の差でもある。この留保を置いたうえで、なお残る差をどう説明するかが問題となる。

6-5 増加の速度は似ている

水準ではなく変化率を見ると、両国は接近する。

期間増加率
イングランド+ウェールズ1859年〜1874年末21.63%
スコットランド1863〜1873年18.60%
フランス(人口10万対)1865〜1875年25.6%

期間が完全には揃わないため厳密な比較はできないが、十数年で二割前後という増加の速度は、両国でほぼ同水準である。アイルランドはさらに急で、地区アジールの収容者は1862年の4,426名(16施設)から1872年の7,140名(22施設)へと十年で六割増えた。しかも同じ期間にアイルランドの人口は39万人減少している(p. 449)。

人口が減る国で収容者が六割増える。第一章1-5でフランスについて確認した事実——分母が縮んでも収容率は上がる——が、アイルランドではさらに極端な形で現れている。収容の増加を人口動態で説明することは、いずれの国においてもできない。

6-6 治癒と再発——比較の限界

報告書は治療成績も比較しているが、ここでは第二章2-5で見た問題——分母の選択——がそのまま国際比較に持ち込まれる。

イングランドの主要施設に1874年1月1日に在院した31,371名のうち、治癒可能と判断されたのは2,293名、比率にして7.31%である〔報告書の印字は7,39であるが、除算すれば7.31となる。1と9の判読の問題である可能性が高い。p. 464〕。前年は8.12%であった。

再発については、イングランド・ウェールズの1873年の入院11,279件のうち1,499件が再発であり、13.2%。アイルランドは18.80%、その地区アジールでは21%に達する(p. 472)。

これらの数値は、フランス側に対応する系列がないため、直接の比較ができない。報告書はフランスについて再発の全国統計を示していない。国際比較が可能なのは、収容者数・入院件数・増加率といった量的指標に限られ、治療成績の比較は資料の制約により成立しない。この限界は明示しておくべきである。

6-7 入口の権力と事後の監視——司法化の要求とその挫折

英仏の対比には、収容率と動態のほかに、もう一つの制度的次元がある。入口に立つ権力の性格である。前稿が論じたように、フランスは収容の決定を裁判官の審査なしに、知事の署名と医師の証明書に委ねた。イングランドでは、貧困精神病者の収容に治安判事(justice of the peace)の命令を要し、施設の上には有給の専任監察官——ルナシー・コミッショナーズ——が置かれていた。フランスの入口には行政官が、イングランドの入口には司法官が立っていたのである。

もっとも1838年法も、司法を全面的に排除したわけではない。第4条は検事によるアジールの定期視察を定め、第29条は退院請求の裁判管轄を開いていた。問題は、この書面上の保障が実際に作動したかである。

作動しなかったことを、報告書自身が——意図せずして——証言している。1867年以後に政府が設置した改革検討委員会(ブーデ委員会)の到達点を、監察官たちは次のように記録する。委員会は1870年の事変で解散し議事録も失われたが、三つの決議に傾いていた。第一に、家族同意入院の医師の証明書に小郡の治安判事による認証を要求すること。第二に、1852年デクレで削られた大臣の任命権を回復すること。そして第三——

« 3º Assurer la stricte exécution des prescriptions de l'article 4 de la loi de 1838, en ce qui concerne les magistrats. Pour atteindre ce but, inviter les chefs du parquet à adresser, après chacune de leurs visites, un rapport que le Procureur général du ressort transmettrait, en substance ou par analyse, au Ministre de la justice. »(p. 495)

第三に、司法官に関する1838年法第4条の規定の厳格な執行を確保すること。この目的を達するため、検察の長たちに対し、各視察の後に報告書を作成するよう求め、管区の検事長がそれを要旨または分析の形で司法大臣に送付すること。

「厳格な執行を確保せよ」という決議は、執行されていないものについてしか発せられない。1838年法が用意した事後的な司法統制——検事の定期視察——は、1870年の時点で、政府の委員会自身が立て直しを要するほどに形骸化していた。カステルが「書面上周到に用意された事後的な司法統制は、実際にはほとんど機能しなかった」と総括したこと(前稿第4章)の、これは同時代の公的な裏づけである。

さらに報告書は、1872年7月25日に国民議会へ提出された法案——1873年3月21日に審議に付すことが可決され、その後放棄された——を詳しく紹介している。比較立法協会に由来するこの案は、県ごとに常設委員会——民事裁判所が指名する医師二名、共和国検事、弁護士、公証人、県会議員——を置き、その統制を「司法当局の決定にも行政当局の決定にも」及ぼそうとするものであった(p. 496)。監察官たちは、この案の出自を明記している。

« Les auteurs du projet s'étaient évidemment inspirés, tout à la fois, des lois belge et anglaise. / Empruntant à cette dernière l'institution des commissionners in lunacy et celle des visitors de Londres, des bourgs, des comtés, pour les réunir en une seule, ils espéraient imposer gratuitement chez nous un service qui, en Angleterre, est confié à des fonctionnaires richement rétribués, auxquels il est, d'ailleurs, interdit d'exercer leur profession. »(p. 496)

法案の起草者たちは、明らかにベルギー法とイギリス法の双方に着想を得ていた。後者からルナシー・コミッショナーズの制度と、ロンドン・都市・州のヴィジターズの制度を借り、両者を一つに束ねて、イングランドでは手厚く俸給を受け、しかも本業の従事を禁じられた官吏に委ねられている職務を、わが国では無償で課そうと望んだのである。

イギリス型の司法的・専門的監視は、フランスでも知られており、模倣が試みられ、そして斥けられた。斥けた論拠は費用と実行可能性である——「国家と県のいずれが、この新たな負担を引き受けるのか」。

そして監察官たちは、より根本的な反論を置く。恣意的監禁の危険はそもそも存在するのか、と。

« Ces risques sont-ils donc réellement si grands ? Nous ne le croyons pas. / Pas plus que nous, nos prédécesseurs Ferrus et Parchappe, malgré leurs investigations les plus minutieuses, n'avaient jamais pu constater de séquestrations arbitraires. »(p. 497)

この危険は、それほど現実に大きいものなのか。われわれはそうは思わない。われわれの前任者フェリュスとパルシャップも、最も細心な調査にもかかわらず、われわれと同様、恣意的監禁を一度も確認しえなかったのである。

論拠として、1862年のバックニル——「健常者が施設に監禁される恐れは純然たる妄想であることは、議会の調査によって余すところなく証明された」——と、フィラデルフィアのカークブライド、そしてベルギー政府の第十次報告——数多の監視機関を列挙した末に「求められる結果は、家族と当局の信頼に値する一人の人間、すなわち医師によってしか得られない」——が引かれる(p. 497)。

この防衛の構造は、注意して読む必要がある。監察官たちは、自らが視察する制度の司法化に反対する当事者である。恣意的監禁を「一度も確認しえなかった」のは総監察自身であり、その総監察の実効性こそが、常設委員会案が問うたものであった。イギリスの制度への反論も、原理ではなく費用に置かれている——高給の専任官吏には払えない、と。第三章で見た「最小限の費用による履行」の論理は、監視の制度についても貫かれていたのである。

かくして英仏の対比は、入口だけでなく全経路にわたる。イングランドは入口に司法官を置き、監視に金を払った。フランスは入口に行政官を置き、監視を検事の無償の付随業務とし、その形骸化が明らかになったのちも、司法化の費用を拒んだ。1865年から1873年までの改革論議は、フランスがこの選択を再考する機会であったが、報告書の結論が示すとおり——「この案はわれわれには実際的に適用可能とは思われない」(p. 497)——機会は閉じられた。1838年法は、その後なお百年以上、改正されないまま残ることになる。

6-8 前稿第五章の再定位

以上を踏まえて、前稿の定式を次のように改める。

前稿は、英仏の差を「防衛限界を超えた事案を受け止める行政経路の違い」として定式化した。1874年の公式統計は、この定式を三つの点で精密化する。

第一に、差は入口の広さにある。フランスの収容率はイングランドの半分以下である。しかしその差の一部は制度分類の産物であり、イングランドの救貧院にいた15,018名を勘定に入れれば差はさらに開く。両国とも、法が定めた施設の外に相当数の精神病者を抱えていた。

第二に、差は出口の狭さにもある。在院者数の差が三割であるのに対し、入院件数の差は二割強にとどまる。フランスの施設は、入れる速度よりも出す速度が遅い。第二章で見た死亡による退出四割という数字が、その内実である。

第三に、増加の速度は両国で同水準である。十数年で二割前後。制度が違い、水準が違い、経済構造が違っても、増加の勾配は似ている。この一致は、前稿がスカル・テーゼに対して置いた留保——収容の拡大を単一の経済的原因で説明することはできない——を、比較の側から補強する。

そして本稿の主題に戻れば、第二章で見た監察官たちの説明——住民がアジールの救助を求める習慣は「アジールが近いほど速く」広がる——が、国際比較においても示唆的である。収容の量を規定していたのは、いずれの国においても、需要でも病理でもなく、受け止める装置の側の容量と近接性であった。

結語 空間的閉鎖の内部で

本稿が確かめたこと

前稿「1838年法の政治経済学」は、1838年6月30日法が収容の決定を司法ではなく行政に委ねた理由を、二つのベクトルの交点として説明した。下からは、世帯経済がその防衛限界を超えた事案を処理する、迅速で安価で家名を傷つけない経路への需要。上からは、契約を基礎とする社会が、契約を結びえない者のために要請した第二の身分——後見(tutelle)——の制度化である。1838年法とは、この二つの要請が同じ一点で出会ったことの記録であり、その一点に置かれたのが県知事の署名と医師の証明書であった。

本稿は、その経路に何がどれだけ流れ込んだかを、内務省総監察官の1874年報告によって追跡した。得られた像は次のとおりである。

第一に、収容人口は四十年で四倍に膨れたが、それを作ったのは法ではなかった。1834年の約一万から1874年の四万二千七十七へ。しかし監察官たち自身が、法は「一般に信じられているのとは違い、この数字の増加に即座の効果をもたなかった」と書き、上昇の屈折が現れた1842年を「事業が組織化の見るべき端緒を獲得した時期」と特定している。増加を規定したのは立法ではなく、施設の建設速度と、住民がアジールに救助を求める習慣の定着速度であった。そしてその習慣は「アジールが近いほど速く」広がる。需要は施設に先立って完成していたのではない。

第二に、増大は入口の広がりよりも出口の閉塞によって生じた。十年間に十二万六千の入院があり、十一万九千の退出があったが、退出者の四割は死亡による。治癒率は十年平均を下回りつつあった。滞留する人口の四分の一以上は、白痴・痴愚と麻痺性痴呆という治癒を期待しがたい範疇で占められていた。監察官たちは収容者の一割以上について「アジールにいるべきではない」と認めながら、彼らを外に出さなかった。危険性の論拠——今日無害でも明日危険になりうる——と、救護院の日額のほうが高いという財政の論理とが、二重に出口を塞いでいた。

第三に、法が課した設置義務は、最小限の費用で履行されていた。四十年で諸県が真に創設したアジールは十八にすぎず、残りは旧修道院の転用と、救護院の一角と、私立施設への委託とによって埋められた。法の外での監禁はなお残り、総監察自身が三箇所を名指ししている。そして建設を回避した県は、十年間の単価上昇として——自ら建てた県の六倍の速度で——支払っていた。

第四に、費用の連鎖は家族から公費へ滑っていた。法が第一順位に置いた家族の負担は、1860年の6.30%から1872年の5.65%へ後退し、市町村の分担が23.10%から27.50%へ上がった。救護院の分担は0.51%で事実上機能していない。そして施設そのものは五年間で三百八十万フランの経常黒字を計上していた。「重い負担」という県会の言葉が指していたのは、施設の赤字ではなく、県予算に占める割合の増大である。

第五に、この構造が最も極端な形をとったのがセーヌ県であった。同県の県外移送は1844年に始まる——オスマンの県知事就任の九年前、第二帝政成立の八年前である。理由は明示的に過密であった。1874年、県内の実収容定員は三千二百十五、必要数の見積りは五千、不足は千八百。しかも被扶助精神病者は毎年二百五十から三百ずつ増える。首都は、七千七十二名のうち三千九百五十三名を地方へ送り出すことによって、辛うじて均衡を保っていた。

第六に、英仏の差は水準の差であって勾配の差ではなかった。フランスの収容率はイングランド・ウェールズの半分に満たない。しかし増加の速度は十数年で二割前後と、両国でほぼ同水準である。そして水準の差の一部は制度分類の産物である——イングランドの救貧院には、アジール収容者の27%にあたる一万五千十八名の精神病者がいた。

第七に、建設の律動は行政権の配置に従い、監視の司法化は費用を理由に拒まれた。報告書自身が事業史を行政法の改正——1852年デクレと1866年法——で区切っており、知事が主導権を握った十四年間に十四の施設が建てられ、財政決定権が県会へ移った八年間に新規の建設決定は二県にとどまった。収容の系列が政体の交代をほとんど感知しない一方で、行政法の改正には鋭敏に反応する。そして1865年以後の改革論議がイギリス型の司法的監視の導入を試みたとき、それを斥けた論拠もまた費用であった。検事の定期視察という1838年法自身の司法的保障は、政府の委員会が「厳格な執行の確保」を決議せねばならないほどに形骸化していた。

過密とは何であったか

これらを重ねると、「過密」という語の内実が変わる。

過密とは、需要が供給を上回った状態のことではない。1872年の国勢調査は精神障害者を八万七千九百六十八名と数え、そのうち収容されていたのは半数に満たなかった。需要の大半はなお家のなかに留まっていた。前稿が世帯経済の包摂能力として論じたもの——病者を長く家に抱え込む力——は、1874年の時点でもなお、収容よりはるかに多くの者を家に留めていたのである。

過密とは、法が課した義務を県が最小限の費用で履行し、しかも出口を塞いだまま入口だけを開いていたことの帰結である。需要のごく一部を受け入れただけで、制度は飽和した。

そして飽和は、それ自体が拡張の根拠となった。監察官たちは増大を文明の代償として語り——「進歩の負傷者たち」——、社会に向かって野戦病院を増やせと求めた。1838年に正当化されたのは自由の剥奪であった。1874年に正当化されているのは、剥奪された者たちが出て行かないことである。過密は、それ自体が増設を要求する自己増殖的な論理を獲得していた。

後見の体制について

前稿はカステルに従って、1838年法を、契約社会が契約を結びえない者のために発明した「新しい後見の身分」の制度化として読んだ。本稿が示したのは、その後見が四十年の運用のうちに何になったかである。

法文の上では、後見は最後の手段であった。まず本人の資産、次に扶養義務者、それらが尽きた地点ではじめて公的慈善が発動する。ところが1872年の数字において、家族の負担は5.65%にすぎない。後見は補充的なものであることをやめ、事実上の公費負担制度になっていた。しかもその費用は、県ではなく市町村へ、そして地方の施設へと転嫁されつづけた。セーヌ県が救助住所の取得要件を一年から三年へ引き上げるよう求めたことは、その転嫁の争いの一つの局面である。

同時に、後見は解除されない身分になっていた。1838年法は退院請求の裁判管轄と検事の定期視察を定め、司法を事後的統制の位置に置いた。しかしその視察は形骸化し(第六章6-7)、本稿が見た数字において、アジールから出る最も確実な道は治癒でも司法でもなく、死であった。契約社会が用意した第二の身分は、いったん与えられれば、実際にはほとんど返上されなかったのである。

残された問い

本稿は1874年で筆を措く。監察官たちが依拠した統計はそこまでであり、それ以上を語れば別の資料が要る。

しかし報告書自身が、次の時代の輪郭を示している。収容者は毎年増えつづけ、新設は増加を埋め合わせるだけに費やされ、治癒率は下がりつづける。この趨勢がその後の四半世紀にどこまで進み、そこに変質論という新しい説明がどう接続したかは、続く論考の主題となる。

前稿は、1838年法を「小農社会の世帯経済がその防衛限界において国家と取り結んだ契約の文書」と定義した。本稿が跡づけたのは、その契約が四十年間作動した結果である。契約の一方の当事者——世帯——の負担は軽くなり、他方——国家——の負担は重くなった。しかし契約の対象となった者たちにとって、変わったのは費用の出所だけであった。拙稿「ピネルからクレペリンへ」が論じた「空間的閉鎖」は、この四十年のあいだに、閉鎖であることをやめないまま、その内部を人で満たしていったのである。

References
参考文献
[1]Constans, Lunier et Dumesnil (Inspecteurs généraux du service des aliénés). Rapport général à M. le ministre de l'Intérieur sur le service des aliénés en 1874. Paris: Imprimerie nationale, 1878. 564 p.+巻末統計表・図面・県別分布図(Google Books 全文版により通読。1971年に復刻あり)。本文中の(p. N)はすべて本書の印刷頁を指す。1872年国勢調査および『フランス一般統計』(Statistique générale de la France)の数値も本書の引用(pp. 33, 64–65, 448)による。(引用箇所:全章)
[2]Castel, R. L'Ordre psychiatrique : l'âge d'or de l'aliénisme. Paris: Minuit, 1976.(英訳:The Regulation of Madness, Berkeley: University of California Press, 1988.)本報告書への言及は第3章注37、第4章注21、第5章注3、第6章注5・6・26・51。「法の擬似適用」(La pseudo-application de la loi)は同書第6章の表題。(引用箇所:はじめに、第三章、第六章、結語)
[3]Quétel, C. Histoire de la folie. De l'Antiquité à nos jours. Paris: Tallandier, 2009.(引用箇所:はじめに)
[4]Tocqueville, A. de. L'Ancien Régime et la Révolution. Paris: Michel Lévy frères, 1856.(行政の連続性のテーゼ。とくに第2部第2〜7章)(引用箇所:はじめに0-5)
[5]Scull, A. The Most Solitary of Afflictions: Madness and Society in Britain, 1700–1900. New Haven: Yale University Press, 1993.(引用箇所:第六章)
[6]Suzuki, A. Madness at Home: The Psychiatrist, the Patient, and the Family in England, 1820–1860. Berkeley: University of California Press, 2006.(引用箇所:第六章)
[7]Bartlett, P. The Poor Law of Lunacy. London: Leicester University Press, 1999.(引用箇所:第六章)
[8]Le Bras, A. « L'asile d'aliénés et le « désordre des familles » ». Revue d'histoire du XIXe siècle, 53, 2016/2, pp. 171–187.(引用箇所:第一章、第二章)
[9]Loi du 30 juin 1838 sur les aliénés(とくに Art. 1–4, 8, 18–19, 25–29。全文は Castel [2] 巻末 pp. 316–324 に再録、Gallica でも入手可)。(引用箇所:凡例・訳語、第三章、第四章、第六章)
〔関連拙稿〕本稿は〈閉鎖の三部作〉第二部であり、第一部「1838年法の政治経済学——世帯経済・禁治産・行政収容」(前稿)、第三部「ピネルからクレペリンへ——精神医学の覇権移動とその政治経済的背景」と相互に参照し合う。1838年法の成立過程における精神科医の役割は「エスキロールと1838年法」、フーコー以後の精神医学史記述におけるカステルの位置は「フーコー『狂気の歴史』への批判——四本の柱と二つの型」補論を参照。
※ ※ ※