Bulletin · YRID — Paper XVII

第 五 章

アンシャン・レジーム末期

発祥の前夜


La fin de l'Ancien Régime

— la veille de la naissance

松石 竹志
Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.

Editio altera · MMXXVI

一 問題の設定――「妊娠期」の最終段階としてのアンシャン・レジーム末期

本章が扱う「アンシャン・レジーム末期」とは、フランス史学の通例に従って、1760年代から1790年前後までのおよそ三十年を指す。すなわち、ルイ十五世晩年からルイ十六世治世を経て1789年大革命直前に至る、フランス絶対王政の最終局面である。第四章で論じた古典主義時代の「妊娠期」が最終段階を迎え、医学的・哲学的・制度的諸契機が急速に結晶化していく特異な時期である。

第四章末尾において提示した命題を想起する。古典主義時代を「妊娠期 la période de gestation[1]として規定するスウェインとゴーシェの読解によれば、この時代には来るべきピネル革命を準備する四つの平行的過程――施設運営の経験的蓄積、医学理論の刷新(シュタール=ホフマン=モンペリエ学派の連鎖)、分類学的試み(ソヴァージュとカレン)、哲学的・人間学的言説の深化――が進展していた。本章で論じるアンシャン・レジーム末期は、これら四つの過程が「臨界点」に到達する局面である。

決定的なのは、この三十年間に、独立して進展していた諸契機がはじめて相互に交差し始めるという事実である。テノンの病院改革報告(1788年)は、コロンビエとドゥブレの行政指示(1785年)と直接的対話関係を結ぶ。ダカンの『狂気の哲学』(1791年)は、革命前夜の啓蒙的医学観の集大成として、ピネル『論考』(1800年)の最も近い前駆をなす。キアルージの『狂気論』(1793–94年)は、トスカーナ大公国の制度的革新(1774年保護法、1788年サン・ボニファーツィオ病院)を理論的に総括するイタリアの平行的発展として、ピネルがビセートルに赴任するまさにその年に刊行される。テューク家のヨーク・リトリート(1796年)は、英国における独立した平行的発展として、フランス革命期のピネル革命と相補的関係を持つ。ライルの『精神病治療法に関するラプソディ』(1803年)は、ドイツ語圏において精神医学的認識を理論的に整理する最初の試みとして、ピネル『論考』とほぼ同時期に出現する。

これらの諸事象は、ばらばらに観察するならば単なる「並走する出来事」にすぎない。しかし把握するならば、それらは「妊娠期」の最終局面において一つの認識論的閾を形成する不可分の総体である。本章の課題は、この閾の形成過程を、フランス・イタリア・英国・ドイツ語圏の四つの文化圏において並列的に再構成することにある。なお本章はあくまで「発祥の前夜」を扱うものであり、ピネル発祥点そのものは次章(第六章「ピネル発祥論」)の主題となる。本章の終着点は、ピネルがビセートル監察医として赴任する1793年8月の直前、すなわち1790年代初頭である[2]

本章の構成は以下のとおりである。まず啓蒙期医学の総体的精神を把握し(第二節)、行政的精神医学の起点としてのコロンビエ=ドゥブレ指示(第三節)とテノンの病院改革報告(第四節)を検討する。次いでフランス啓蒙の周縁における二つの独自の試み――ダカンの『狂気の哲学』(第五節)とベロムの私的療養所(第六節)――を取り上げる。続いてイタリア・英国・ドイツ語圏における平行的発展――キアルージとトスカーナの制度的革新(第七節)、テューク家のヨーク・リトリート(第八節)、ライル『ラプソディ』(第九節)――を位置づける。最後に革命期の医学的制度再編(第十節)と哲学的環境(第十一節)を確認し、ピネル発祥点への移行を準備する(第十二節)。

二 啓蒙の医学的精神――『百科全書』とその医学項目

アンシャン・レジーム末期の医学的精神を把握するための第一の入口は、ディドロとダランベールの『百科全書 Encyclopédie』(1751–1772年)[3]である。全二八巻に及ぶこの大事業は、啓蒙期フランスの知的総体を体系化する野心的試みであり、その医学項目群は、当時の医学的認識の到達点と未解決の問題を証言している。

『百科全書』の医学項目の主たる執筆者は、モンペリエ学派の医師たちであった。テオフィル・ド・ボルドゥー Théophile de Bordeu、アンリ・フーケ Henri Fouquet、ガブリエル=フランソワ・ヴナル Gabriel-François Venel、ジャン=ジャック・メニュレ・ド・シャンボー Jean-Jacques Menuret de Chambaud らがそれぞれ医学・生理学・薬学・症候学関連の主要項目を執筆した[3]。第四章第八節で論じたモンペリエ生気論は、こうして『百科全書』を介して啓蒙期フランス全土の知識人に伝達されることになる。

精神疾患関連の項目においては、メニュレ・ド・シャンボーが「躁病 Manie」「メランコリー Mélancolie」「狂気 Folie」などの中心的項目を執筆した。これらの項目に共通する特徴は、第一に、伝統的な体液論的説明(黒胆汁過剰、脳室の体液停滞)を簡潔に紹介しつつ、第二に、モンペリエ学派的な力動論的説明――神経の興奮性、生命原理の不均衡――を新たな解釈枠組みとして提示し、第三に、症例観察と臨床経験を実証主義的に重視する点である。これは古典的医学観から啓蒙期医学への過渡期の最も明瞭な証言である。

ディドロ自身もまた、医学的問題に深い関心を持っていた。彼の『ダランベールの夢 Le Rêve de d'Alembert』(1769年執筆、生前未刊)[4]はモンペリエ生気論を哲学的・文学的に展開した著作であり、ボルドゥーが主要対話者として登場する。ディドロはここで、精神と身体、感覚と思考、自我と無意識のあいだの境界を問い直し、後に19世紀精神医学が直面することになる問題群を予示している。

啓蒙期医学のもう一つの特徴は、医療実践の社会的・政治的次元への新たな注目である。18世紀後半において、医療は単に個人の病気を治すだけでなく、人口・公衆衛生・教育・刑罰制度に関わる社会的事業として再定義されつつあった。コンドルセの確率論、ラヴォアジェの呼吸計測、ラプラスの数理生理学――これらの動向は、医療を国家事業として把握する新たな視座を準備していた。後にピネルの1790年代の活動は、まさにこの国家的医療観の枠組みのなかで展開されることになる。

三 コロンビエとドゥブレの1785年指示――行政的精神医学の起点

アンシャン・レジーム末期の精神医学的革新を検討するうえで、最初の決定的事象が1785年8月20日付の王令『精神病者の処遇に関する指示 Instruction sur la manière de gouverner les insensés et de travailler à leur guérison dans les asiles qui leur sont destinés[5]である。この指示はジャン・コロンビエ Jean Colombier(1736–1789)とフランソワ・ドゥブレ François Doublet(1751–1795)の連名で起草され、国王の名において全国の精神病者収容施設に発せられた。

コロンビエは王立軍医監察官 Inspecteur général des hôpitaux civils et militaires として、フランス全土の病院・施療院を視察する立場にあった。ドゥブレは若手の医師として、コロンビエの下で精神病者処遇の専門家として活動していた。両者は数年にわたって全国の収容施設を視察した経験に基づき、当時のアンシャン・レジーム末期における狂者処遇の悲惨な実態を把握していた[5]。1785年指示は、この経験的基盤の上に立てられた行政的精神医学の最初の体系的試みである。

指示の本文はいくつかの決定的革新を含んでいる。第一に、それは「狂者は治療可能である curables」という前提を明確に打ち出す。古典主義時代の収容実践において、狂者は基本的に「不治の患者 incurables」として処遇されてきた。コロンビエとドゥブレはこの前提を覆し、適切な医学的処遇によって相当数の患者が治癒可能であることを行政指示の中軸命題として明示した。

第二に、指示は施設の構造的改善を要求する。狂者用の独立した区画の設置、性別と病型による分離、清潔な居住環境、適切な食事と運動、暴力的拘束の最小化――これらの要求は、後にピネルが『論考』[14]において体系化する施設原則の直接的前駆をなしている。

第三に、指示は医師と監督官(後にピネルが gouverneur(管理官)や surveillant(監督官)と呼ぶ職)の役割を区別する。医学的処置は医師に、日常的監督は経験豊富な監督官に委ねる――この区別は、1800年前後のピネル=ピュサンの関係(医師ピネルと監督官ピュサンの分業)に直接接続する。事実、ピュサン Jean-Baptiste Pussin はコロンビエ=ドゥブレ指示の時代にビセートルの監督官として勤務しており、彼が後にピネルに伝えた実践的知の多くは、この1780年代の行政的精神医学の経験に根ざしている[6]

コロンビエ=ドゥブレ指示の意義をどう評価すべきか。一方では、それは行政文書であり、医学理論としての体系性を持たない。力動論的医学観の哲学的基盤、精神疾患の分類学、症候学的記述――これらの理論的次元は、指示の主題ではない。他方では、それは1785年というアンシャン・レジーム末期の特異な時点において、精神病者の処遇を「治療すべき医学的問題」として国家行政の議題に位置づけた最初の公式文書である。ピネル革命の制度的前提の一つは、まさにここに見出される。

四 テノンの病院改革報告(1788年)――医学的眼差しの制度化

コロンビエ=ドゥブレ指示から三年を経て、1788年にもう一つの決定的文書が刊行される。ジャック・テノン Jacques Tenon(1724–1816)の『パリ市の病院に関する覚書 Mémoires sur les hôpitaux de Paris[7]である。テノンはパリ王立外科学院 Académie royale de chirurgie の会員であり、アカデミー・デ・シアンス(フランス科学アカデミー)の委嘱を受けて、パリ市内の主要病院・施療院の状況を1785年から1788年にかけて詳細に調査した。彼の報告は当時パリの病院制度全体の改革を構想する国家事業の核心文書として刊行された。

『覚書』は多層的な文書である。それは第一に、当時のパリの病院の物理的・医学的・行政的状況を実証的に記述する詳細な調査報告である。建物の構造、病室の換気、患者の収容密度、死亡率、医療スタッフの構成、財政状況――これらが具体的数値とともに記録される。第二に、それは病院の構造的改革に関する具体的提言を含む実践的文書である。テノンは病室の設計、患者の分類、医療と看護の組織、医療データの記録方法に至るまで、後の近代病院の原型となる構想を提示している。

テノンの『覚書』はサルペトリエールとビセートルにおける狂者処遇についても重要な記述を含んでいる。彼はサルペトリエールの「狂女区画」を実地に視察し、収容者の不衛生な状況、独房の暗さ、医療的処置の欠如を具体的に記録した。同様にビセートルの男性狂者区画についても、彼は同時代の他のいかなる文書よりも詳細な記述を残している[7]。これらの記述は、後にピネルが1793年8月にビセートルに、1795年5月にサルペトリエールに着任する直前の施設の状態を証言する一次資料である。

テノンの哲学的・方法論的立場は、フーコーが『臨床医学の誕生 Naissance de la clinique』(1963年)[8]において分析した「医学的眼差し regard médical」の制度化の先駆をなしている。テノンの眼差しは、伝統的な医学的観察――個別の患者の症状を見る眼差し――を超えて、病院制度全体を医学的観察の対象とする新たな様態をとっている。患者の身体だけでなく、施設の空間、人員の組織、財政の流れ、医療データの管理――これらすべてが医学的眼差しの対象となる。後にピネルが『論考』において提示する「臨床と統計の方法」は、まさにテノン的眼差しの精神医学的展開として読むことができる。

テノン『覚書』とコロンビエ=ドゥブレ指示は、1785–1788年の三年間に集中して出現した文書群として、アンシャン・レジーム末期における精神医学的認識の制度的成熟を証言する。これら二つの文書は、ピネル『論考』(1800年)のわずか十二―十五年前という近接した時点に位置している。ピネル自身、テノンの『覚書』を熟読していたことが書簡から確認されている。アンシャン・レジーム末期の行政的・実証的革新は、ピネル発祥点の直接的な前史を構成している。

五 ダカン『狂気の哲学』(1791年)――サヴォワにおける早期改革

フランス啓蒙の中心地パリから離れた周縁において、アンシャン・レジーム末期に独自の精神医学的革新が進展していた。その最も顕著な事例が、サヴォワ公国(当時独立国、現在のフランス・サヴォワ地方)のシャンベリーにおいて活動した医師ジョゼフ・ダカン Joseph Daquin(1732–1815)[9]である。ダカンは1780年代からシャンベリーの慈善院 Hôtel-Dieu の主任医師として精神病者の治療にあたっており、その経験を1791年に『狂気の哲学 La philosophie de la folie』として刊行した。

『狂気の哲学』は注目すべき著作である。それはピネル『論考』(1800年)の九年前に出現し、しかも独立した思考の系譜のなかで、ピネル『論考』の中軸的命題を予示している[9]。ダカンの主要命題を整理する。第一に、狂気は道徳的・宗教的悪ではなく医学的疾患である。第二に、それは原理的に治療可能であり、適切な処遇によって相当数の患者が回復しうる。第三に、治療は身体的拘束ではなく、医師の権威に裏付けられた人格的働きかけ――後にピネルが「精神療法 traitement moral」と呼ぶ実践――を中心に据えるべきである。第四に、狂気にも「保存された理性の核」があり、患者は完全に理性を喪失した存在ではなく、内的に分裂した主体である。

第四の命題が最も重要である。ダカンが「保存された理性の核」と呼ぶものは、後にスウェインとゴーシェが「狂気における主体」[1]として定式化することになる認識の早期表現である。ダカンはピネルに先立って、しかも臨床医として独立に、狂気のなかの主体性の発見に到達していた。これはアンシャン・レジーム末期の「妊娠期」が、その最終段階において、複数の地点で同時に類似の認識を生み出していた事実の決定的証言である。

ピネルはダカンの『狂気の哲学』を読んでいた。両者のあいだには直接の書簡往復が知られており、ピネルは『論考』第二版(1809年)[14]をダカンに献辞している。「貴下の Philosophie de la folie は、人類愛の精神に貫かれ、私が同じ困難な問題について試みた省察と一致するものと拝察いたします」――ピネルからダカン宛の書簡(1805年)の有名な一節である。これはきわめて重要な証言である。ピネルは自らの発祥的貢献を、ダカンとの先行する対話のなかに位置づけている。

ダカンの位置をどう評価すべきか。彼はピネルの先駆者であるが、ピネル自身ではない。彼の『狂気の哲学』はピネル『論考』のような体系的著作ではなく、むしろ哲学的・倫理的省察と臨床的経験の混合的記述である。彼には『論考』のような分類学的精緻さも、症候学的記述の完成度も、統計学的厳密さもない。しかし、彼が示したのは、アンシャン・レジーム末期の周縁において、フランス革命前夜の特異な時代精神のなかで、独立した思考の系譜が同種の認識を準備していたという事実である。ピネル発祥点は孤立した出来事ではなく、複数の準備の系譜の収斂点である――これがダカンの教訓である。

六 ベロム療養所――私的施療の革新

アンシャン・レジーム末期のもう一つの独自の革新は、私的精神病療養所 maison de santé の出現である。その代表的事例がジャック=エティエンヌ・ベロム Jacques-Étienne Belhomme(1737–1824)[10]が1769年にパリ郊外シャラントンに開設した私設療養所、通称「ベロム療養所 Pension Belhomme」である。

ベロム療養所は独自の性格を呈していた。それは公的な収容施設(一般施療院、ビセートル、サルペトリエール)でも、伝統的な修道院的慈善施設でもなく、有償の私的療養施設であった。富裕な患者の家族が施療費を支払うことで、患者を比較的快適な環境で処遇する――これは現代の精神科クリニックの原型に近い形態である。療養所の規模は比較的小さく(数十名程度)、患者は個室または少人数の部屋で生活し、運動・娯楽・知的活動が許可されていた[10]

ベロム療養所の意義は二重である。第一に、それは精神病者の処遇が大規模公的施設の独占から離れて、多様な施設形態を許容しはじめた過渡期の証言である。これは後の19世紀における民間精神科病院の発展の前史をなす。第二に、それは「快適な環境と人格的処遇」が精神病者の回復に資するという認識――後にピネルとテュークが理論化する命題――の早期実践である。ベロム自身は精神医学の理論的著作を残していないが、彼の実践はこの命題を先取りしていた。

フランス革命期において、ベロム療養所は特異な歴史的役割を演じた。革命の恐怖政治期(1793–1794年)において、貴族・聖職者を含む被拘束者の家族たちは、家族成員を「精神病」と申告することで、ベロム療養所に移送させ、ギロチンから救出することを試みた[10]。ベロム自身もこの「治療を装った保護」に関わったとされる。これは複雑な現象である。精神病療養所が政治的避難所として機能したという事実は、当時の精神医学的施設が法的・社会的にどのような位置にあったかを照らし出すとともに、革命期のフランスにおいて「精神病」というカテゴリーが新たな社会的意味を帯びはじめていたことの証言でもある。

ベロム療養所の事例は、本論文全体の立場にとって重要な含意を持つ。アンシャン・レジーム末期から革命期にかけて、精神病者の処遇は単一の制度的論理によっては把握できない多層的な現象として展開していた。コロンビエ=ドゥブレ指示の行政的精神医学、テノンの病院改革構想、ダカンの周縁的革新、そしてベロム療養所の私的実験――これらすべてが、1790年代のピネル革命の制度的・実践的・思想的基盤を構成していた。スウェイン=ゴーシェの言う「妊娠期」の最終段階は、まさにこのような多層的な現象として実現していたのである。

七 キアルージとトスカーナの制度的革新――イタリアにおける平行的発展

フランスの行政的・周縁的革新と英国のリトリートとのあいだに、第三の系譜としてイタリア――正確にはトスカーナ大公国――を置かなければならない。この系譜を精神医学史のなかに正当に位置づけ直したのが、ガラベ編のピネル論集(ビセートル赴任二百周年、1993年)に収められたランテリ゠ロラの論文「V・キアルージの著作と aliénation mentale の概念」[22]である。最後のメディチ家断絶(1737年)ののちロレーヌ家に移ったトスカーナ大公国では、大公ピエトロ・レオポルド(在位1765–1790年、のち神聖ローマ皇帝レオポルト二世)が、フリードリヒ二世・エカチェリーナ二世・兄ヨーゼフ二世に倣う啓蒙専制君主として、とりわけ病院の領域で世俗的博愛政策を展開した。1774年、彼は精神病者を保護する法律――ヨーロッパ最初期の精神病者保護立法――を公布し、1788年には、貧富を問わず精神病者の医学的治療のみに充てられ、治安的配慮を排して治療的展望に立つサン・ボニファーツィオ病院をフィレンツェに開設した。同時期、主権国家ルッカ共和国もまた、1773年以降、サン・ルーカ・デッラ・ミゼリコルディア施療院(のちフレジョナイア)をまったく同じ精神で精神病者専用に転換している。ランテリ゠ロラが明言するとおり、これらの事実は「大いなる閉じこめを近代精神医学の起源とみなすフーコーのテーゼが、ニュアンスを加えられねばならず、啓蒙のヨーロッパにおいてこの時期に生じていたことの全体を説明する資格を持ちえない」ことを示している[22]。本論文が第六章で検討するフーコー批判の系譜に、ここでイタリア制度史からの傍証が加わる。

この制度的革新の中心人物が、ヴィンチェンツォ・キアルージ Vincenzo Chiarugi(1759–1820)である。エンポリの医師の家に生まれ、1779年にピサ大学で学位を取得したキアルージは、1782年からフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院の当直医 medico astante として精神病理学の経験を積み、1786年、大公レオポルドのほぼ直接の指揮下でサン・ボニファーツィオ病院の改築事業に参画、1788年に同病院の医長 primario となった。翌1789年には『サンタ・マリア・ヌオーヴァおよびボニファーツィオ王立病院規則』[23]を公刊する。この規則は、隔離と日常生活の秩序とを治癒の一般的条件として明文化した施設運営の法典であり、コロンビエ=ドゥブレ指示(第三節)のイタリアにおける正確な対応物をなす。そして1793–94年、主著『狂気総論および各論――医学分析的論考、百例の観察を付す Della pazzia in genere, e in specie. Trattato medico-analitico. Con una centuria di osservazioni』全三巻[23]がフィレンツェで刊行される。ピネル『論考』(1800年)に七年先立ち、ピネルがビセートルに赴任するまさにその年の出来事である。

『狂気論』の理論構成を、ランテリ゠ロラの読解に従って要約する[22]。キアルージは狂気 pazzia を「慢性かつ持続的な、発熱を伴わない譫妄」として定義し、一時的な奇行や、熱病・中毒に続発する症候性譫妄を峻別して、狂気を独自の一次的疾患――脳の疾患――として医学の内部に確立する。その病態論の要には sensorium commune(共通感覚の座)が置かれる。それは非物質的で不変の霊魂と身体的機械とが相互作用する境界面であり、狂気とはこの境界面の機能的変調にほかならない――「霊魂は、非物質的存在として、その本質において変化しえず、その実体において不変であるから、物質が服し疾患を構成するこれらの変調に陥ることはできない」。疾病分類においてはカレンに従い、単一の狂気がとる三つの臨床的様相として、部分的狂気としてのメランコリー、情動を伴う全般的狂気としてのマニー、情動を欠く全般的狂気としての amentia を区別する。病因論と治療論はブラウンの興奮理論に依拠し、神経流体の過剰または不足に応じて鎮静的治療と刺激的治療が対置される。

しかし決定的なのは、この一見スコラ的な体系の内部に現れる治療論の一節である。メランコリーの治療に関してキアルージは書いている――薬学的・食餌的手段は「道徳的手段 moyens moraux と協働しないならば、いやそれに首位を譲らないならば、十分に有効ではありえない」。治療を指揮する者は患者の「心を勝ち取り、その親密と信頼を虜にし cattivandosene la confidenza e la fiducia」、正面から対立することなく、忍耐と穏やかさをもって誤った印象を正しい原理へと導かねばならない――それは「哲学者にふさわしい困難な術」である[22]。ここにあるのは、ピネルが「精神療法 traitement moral」と呼ぶことになる実践への、独立した到達である。ダカン(1791年)、テューク(1796年)と並んで、イタリアもまた、1790年代の同じ認識論的閾に独自の経路で到達していた。

ではなぜキアルージは、精神医学史の記憶からかくも長く後退していたのか。ランテリ゠ロラの論文の出発点はまさにこの問いにある。ピネルは『論考』初版序論において、時間的に遠い先人(ヒポクラテス)を賞賛する一方、同時代人をぞんざいに遇し、なかでもキアルージを最も手厳しく扱った――「常に踏み固められた道を辿り、狂気一般について教条的な口調で語り、ついで狂気を各論的に考察し、原因・診断・予後・充足すべき適応というあの古いスコラ的秩序に立ち返ること、これがキアルージの果たした仕事である。探究の精神は、彼が公刊した百ほどの観察のうちにしかほとんど示されておらず、しかもそのうち決定的な帰納を導きうるものはごくわずかである」[14, 22]。ランテリ゠ロラはこの一節に、発祥点の人物自身が自らの最も近い並走者の消去に加担したという事態を読む。キアルージの歴史記述上の不可視性は、部分的には、次章で検討するピネル伝説――スキピオン・ピネルによる解放神話――と同じ神話化作用の裏面なのである。

最後に、キアルージの位置の評価を誤らないための一つの区別を置いておく。キアルージの体系において霊魂は形而上学的に保護されている――病むのは sensorium commune であって、霊魂そのものは不変のまま疾患の外に置かれる。これは、狂気のただなかに保存された主体性を見出すこと――ダカンの「保存された理性の核」、そして次章で検討するスウェインの「狂気における主体」――とは似て非なる操作である。前者は霊魂を疾患から免除することによって救済し、後者は病んだ精神の内部に主体を発見する。キアルージが証言するのは、制度的水準と治療実践の水準における完全な並走であって、第六章がピネルに定位する認識論的再編そのものではない。ランテリ゠ロラ自身、キアルージをピネルの尺度で測ることの不毛を戒め、両者をともに「百科全書派とヴォルテールの精神を19世紀へ延長した啓蒙の世紀の人間」として読むことを提案している[22]。イタリアの系譜は「前夜」の多元性を最も鮮明に証言するが、発祥点の位置は動かさない――これが本節の結論である。

八 テューク家とヨーク・リトリート(1796年)――英国における平行的発展

アンシャン・レジーム末期のフランスにおける諸革新と並走して、英国においては全く独立した思考の系譜から類似の発展が進展していた。その最も重要な事例が、テューク家 the Tukes of York のヨーク・リトリート York Retreat である[11]

ヨーク・リトリートは1796年、クエーカー教徒の茶商人ウィリアム・テューク William Tuke(1732–1822)の発案により、ヨークシャー州ヨーク郊外に設立された。設立の直接的契機は、1790年にヨーク精神病院 York Asylum に収容されていたクエーカー教徒の女性ハンナ・ミルズ Hannah Mills が、悲惨な処遇のなかで死亡した事件であった。テュークは同教徒団のなかでの相互扶助の精神に基づき、クエーカー教徒の精神病者のための独立した療養施設の設立を構想した[11]

リトリートの運営原理は独自であった。第一に、施設はクエーカー教徒のための私的施設として設計され、商業的利潤を目的としない。第二に、処遇の中心に「家族的環境 family-like environment」が据えられた。患者は監督者・看護者・他の患者と「家族」のように共同生活を営み、暴力的拘束は最小化される。第三に、宗教的・道徳的働きかけが医学的処置と並行して行われる。第四に、施設の運営にはクエーカー教徒の信徒会が直接関与し、医師は補助的役割にとどまる。これは後の英国精神医学において「道徳療法 moral treatment」と呼ばれることになる実践の体系化である。

リトリートの理論的整理は、ウィリアムの孫サミュエル・テューク Samuel Tuke(1784–1857)の『リトリートの記述 Description of the Retreat』(1813年)[11]によって行われた。サミュエル・テュークはこの著作のなかで、リトリートの運営原理を医学界に向けて公式に提示し、英国精神医学の参照点としての地位を確立した。同書は19世紀英国の精神病院改革運動の核心文書となり、またはピネルの「精神療法 traitement moral」と英国「道徳療法 moral treatment」とのあいだの相互翻訳・相互参照の基盤となった。

ここで決定的な問いが浮上する。テューク家のリトリート(1796年設立)とピネルのビセートル革命(1793年)は、独立した発展なのか、それとも相互に影響しあったのか。スウェインとゴーシェ[1]、およびスカル Andrew Scull[12]らの検証によれば、両者は基本的に独立した発展である。テューク家はピネルの著作を知らずにリトリートを開始し、ピネルもまたリトリートの存在を知らずにビセートル・サルペトリエールの革新を進めた。両者の相互参照はサミュエル・テューク『記述』(1813年)以降、すなわちピネル『論考』第二版(1809年)以降に開始される。

この事実――独立した平行的発展――の含意は重大である。1790年代という特異な時点において、フランスと英国という独立した文化圏で、独立した思考と実践の系譜が、ほぼ同種の精神医学的革新に到達した。これは個人の天才の偶然の所産ではなく、ヨーロッパ全体の「妊娠期」が同じ時期に類似の臨界点に到達したことの証言である。ピネル発祥点は孤立した出来事ではなく、複数の独立した系譜の収斂点として理解されなければならない。

九 ライル『精神病治療法に関するラプソディ』(1803年)――ドイツ語圏の理論的整理

フランスと英国に続く第三の系譜が、ドイツ語圏において展開していた。その最も重要な著作が、ヨハン・クリスティアン・ライル Johann Christian Reil(1759–1813)の『精神錯乱への精神療法の適用に関するラプソディ Rhapsodieen über die Anwendung der psychischen Curmethode auf Geisteszerrüttungen』(ハレ、1803年)[13]である。

ライルはハレ大学医学部の教授であり、第四章第八節で論じたシュタール[4: 第四章]の力動論的医学観の伝統に立脚する解剖学者・生理学者・臨床医であった。ライルは現代医学における重要な革新を複数達成しており、「Psychiatrie 精神医学」という術語自体を1808年に最初に提唱したのが彼である[13]。本論文の主題である「精神医学の発祥」の用語論的起点は、まさにライルにある。

『ラプソディ』はその表題が示すとおり、体系的論文ではなく、自由な省察・症例記述・理論的提言を緩やかに組織した文書である。しかしその内容には決定的な革新が含まれている。第一に、ライルは精神疾患の治療を「身体的方法(薬物・瀉血など)」「精神的方法(言葉・暗示・人格的働きかけ)」「混合的方法」の三層に体系的に区別する[13]。これは後の19世紀ドイツ精神医学における精神療法 Psychotherapie 概念の起点をなす。第二に、ライルは精神医学が解剖学・生理学・臨床医学を統合する独自の医学分野であることを明示的に主張し、独立した医学的専門領域としての精神医学の確立を構想する。

ライルとピネルの関係は複雑である。ライルはピネル『論考』第一版(1800年)[14]をドイツ語圏に最初に紹介した医師の一人であり、『ラプソディ』には『論考』への明示的参照が含まれている。他方、ライル自身の精神医学理論はピネルとは異なるドイツ的伝統――シュタール力動論、カント哲学、ロマン主義的自然哲学――に立脚しており、その方向性はピネル=モンペリエ的生気論とは区別されるべきである。

ライルの意義をどう評価すべきか。彼はピネルに次いで「精神医学の発祥」を準備した第二の中心人物であり、ドイツ語圏における精神医学の独立的・並走的成立を証言する。彼が1808年に「Psychiatrie」という術語を最初に用いたことは、ドイツ語圏において精神医学が独立した学問領域として認識されはじめた時点を画定する。本論文がピネル発祥論を採用する一方で、ライルの貢献を保持することは重要である。なぜなら精神医学はフランスにおいてのみ発祥したのではなく、イタリア(キアルージ)・英国(テューク家)・ドイツ(ライル)の独立した系譜と並走しながら、複数の中心において同時的に成立したからである。エーが器質力動論[15]において継承するシュタール的力動論の系譜は、まさにライルを介してドイツ語圏精神医学のなかに保持されることになる。

ピネル、キアルージ、テューク家、ライル――この四者が「精神医学の発祥」の四つの軸をなす。本論文がピネルを発祥点として採用する根拠は、フランスにおける系譜の体系性・継続性・哲学的射程の故であって、キアルージ、テューク家やライルの貢献を否定するためではない。本章のここまでの検討は、この多元的発祥の構造を明示することにある。

十 革命期の医学的再編――1790–1795年の制度的変動

1789年7月14日のバスティーユ襲撃以降、フランス革命の急進的展開はアンシャン・レジームの諸制度を解体し、新たな国家・社会・医学制度の構築を要請した。本節ではピネル発祥点(1793年8月のビセートル赴任)の直接的な制度的前提となる、1790–1795年の医学的再編を整理する。

第一の決定的事象は、1790年の医学的諸制度の解体である。革命議会(憲法制定議会、続いて立法議会)は、アンシャン・レジームの医学教育制度(パリ医学部、王立外科学院、王立医学協会)を順次解体した。1792–1793年にはこれらの伝統的医学組織の活動が停止され、医学教育の継続性は大きく断絶した[16]。この空白期において、医療実践は事実上の自由化状態にあり、医師資格の管理体制も崩壊した。

第二の事象は、1794年12月4日(共和暦3年雪月14日)の三つの「健康学校 Écoles de santé」の創設である。パリ、モンペリエ、ストラスブールに開設されたこれらの新しい医学教育機関は、革命期の医学的再建の中軸となる。パリ健康学校(後にパリ医学校 École de médecine、さらに後にパリ医学部)は、フランス革命がもたらした医学制度の最大の制度的革新であり、後にビシャ Marie François Xavier Bichat、コルヴィザール Jean-Nicolas Corvisart、ラエネック René Laennec、ピネル自身を含む19世紀フランス医学の主要人物たちの活動の場となる[16]

第三の事象は、慈善・収容施設の革命的再編である。革命議会は1790年9月以降、アンシャン・レジームの宗教的慈善制度(修道院、慈善会、家族的請願制度)を順次解体した。一般施療院、ビセートル、サルペトリエール、シャラントンなどの伝統的収容施設は、宗教的運営から世俗的・国家的運営へと移行した。この移行は重要である。ヴァンサン・ド・ポール以来のカトリック的慈善の構造(第四章第五節)はここで決定的に断絶し、収容施設の医学化への道が制度的に開かれた[16]

第四の事象は、ピュサン Jean-Baptiste Pussin(1745–1811)の昇進である。ピュサンは前章第六節で論じたとおり、コロンビエ=ドゥブレ指示の時代からビセートルの「狂者区画」の監督官として勤務してきた実務家であった。1784年に正式に「精神錯乱者区画 quartier des aliénés」の長に任命され、その後長年にわたって狂者の処遇に関する実践的知を蓄積していた。1793年6月、ピュサンは部分的な改革――一部の患者の鎖からの解放、独房の改善――を独自に開始した。これはピネルがビセートルに赴任する二か月前の出来事である[14]

革命期の医学的再編は、二重の含意を持つ。一方では、それはアンシャン・レジームの伝統的医学・慈善制度の解体という消極的・破壊的契機である。他方では、それは新たな国家的医学制度の創設、収容施設の世俗的・医学的再編、そして実務家ピュサンの独自的革新という積極的・構築的契機である。ピネル発祥点は、まさにこの二重の運動の臨界点において出現する。1793年8月、革命政府がピネルをビセートル監察医として任命したとき、彼は単独の医師として狂者の処遇に向かったのではなく、すでに動き出していた一連の改革の流れに合流し、これを哲学的・医学的に総合する役割を担うことになったのである。

十一 哲学的環境――カバニス、デステュット・ド・トラシ、観念学派

アンシャン・レジーム末期から革命期にかけて、フランスの哲学的環境にも決定的な変動が生じていた。本節ではピネル発祥点を哲学的に準備した思想的諸要素を整理する。中軸となるのは、ジャン=ピエール・ジョルジュ・カバニス Pierre Jean Georges Cabanis(1757–1808)とアントワーヌ・ルイ・クロード・デステュット・ド・トラシ Antoine Louis Claude Destutt de Tracy(1754–1836)を中心とする「観念学派 idéologues」である[17]

観念学派は、ジョン・ロックの『人間知性論』、エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック Étienne Bonnot de Condillac の感覚論、エルヴェシウスとドルバックの唯物論を継承し、革命期フランスにおいて新しい人間学・心理学を構想した哲学集団である。彼らの中心命題は、人間の精神は感覚から発する観念の組み合わせから構成されており、その変調――精神疾患――もまた感覚と観念連合の障害として理解されうる、というものであった。

カバニスの主著『人間の身体的なものと道徳的なものの関係 Rapports du physique et du moral de l'homme』(1796年口頭発表、1802年刊行)[17]は、観念学派の最も体系的著作である。カバニスはここで、人間の精神現象が身体的・生理的基盤に根ざすことを論証し、生理学と心理学・道徳哲学の統合的人間学を構想した。重要なのは、カバニスがモンペリエ大学医学部の出身であり、第四章第八節で論じたバルテーズの生気論を哲学的に発展させた人物であるという事実である。観念学派の唯物論は機械論的還元主義ではなく、モンペリエ生気論を媒介とした独自の身体性の哲学であった。

本書第六章ピネル章六-(二)で同定したように、エーは『精神医学研究』Étude n°3 p. 51-52 において、精神医学発祥の構造的条件を三重の根 triple racine として整理し、精神医学発祥の哲学的根 racine philosophique として、まさにこのカバニス『心身関係論』1802年を決定的な一次資料として挙げている[21]。エーが明示するように、この第二の根は「心身関係が神経生理学的平面に定位され、それに基づく精神障害の科学が要請された」ことを意味する。カバニス『心身関係論』とピネル『論考』初版(共和暦9年=一八〇〇/1801年)との二年違いの並走は、偶然ではない。両著作は、エーが整理する三重の根のうち哲学的根の結晶化を、文字通り同時代的に表現したものである。本節で扱う観念学派は、エー Étude n°3 三重の根の第二の根――哲学的根――の内実を構成する。

同様に重要なのは、エー三重の根の第一の根(モラル的根)と第三の根(慈善的根)が、本論文の章構造のそれぞれ別の場所で扱われることである。第一の根(モラル的根)は本書第三章「ルネサンスをめぐる解釈の対立」の Wier-Bodin 論争(1563–1585)で詳細に検討される。第三の根(慈善的根)は本書第八節でテューク家ヨーク・リトリート(1796年)と関連して論じ、また第六章ピネル章でピネル=プッサンの博愛的(philanthropique)な身振り(1793–1798)として詳論される。本論文の発祥論的アーキテクチャは、エー三重の根の三層を同定し、本章はその第二層――哲学的根の中軸を構成する。

デステュット・ド・トラシの『観念学の諸要素 Éléments d'idéologie』(1801–1815年)[17]は、観念学派の方法論的著作である。彼はここで、観念の生成・組み合わせ・記号化・伝達の体系的分析を提示し、新たな科学的人間学の枠組みを構想した。

ピネルと観念学派の関係は密接である。ピネルは1790年代に観念学派の中心人物たち――カバニス、デステュット・ド・トラシ、ヴォルネ Constantin-François Volney――と直接的交流を持ち、1796年に設立された国立学士院 Institut national の道徳・政治学部門の会員として活動した。観念学派の哲学的枠組みは、ピネル『論考』(1800年)における精神疾患の力動論的把握――感覚と観念連合の障害としての狂気――の哲学的基盤を提供した[14]

ここで決定的なのは、ピネルが観念学派の単なる哲学的応用者ではなかったという事実である。ピネルはモンペリエ学派の医学的経験と、観念学派の哲学的枠組みと、ビセートル・サルペトリエールにおける長年の臨床観察とを総合する独自の発祥的貢献を行った。観念学派の哲学的環境は必要条件であったが、十分条件ではない。スウェインがピネルにおける「狂気における主体」の発見と呼ぶものは、哲学的枠組みからの演繹ではなく、臨床的観察と哲学的省察の交差における飛躍として理解されなければならない。

また、観念学派の運動はナポレオン期に政治的に弾圧され、19世紀前半に衰退する。しかし、その哲学的遺産はピネルを介して精神医学のなかに保持され、エスキロール、フェリュス、ルーレ、モローらの後継者を経由して、19世紀フランス精神医学の中軸的伝統を形成することになる。観念学派の思想史的位置を保持することは、フランス精神医学の哲学的系譜を正しく把握するために不可欠である。

十二 結語――ピネル発祥点へ

本章はアンシャン・レジーム末期から革命初期にかけての三十年間を、精神医学の発祥前夜として検討してきた。結論として三つの命題を提示する。

第一の命題。アンシャン・レジーム末期は、第四章で確立した「妊娠期」の最終段階として、複数の独立した革新の同時的進展を特徴とする。コロンビエ=ドゥブレの1785年指示[5]における行政的精神医学の起点、テノンの1788年病院改革報告[7]における医学的眼差しの制度化、ダカン『狂気の哲学』(1791年)[9]における周縁的・哲学的革新、ベロム療養所[10]における私的施療の実験、キアルージとトスカーナの制度的・理論的総合(1774–1794年)[22]におけるイタリア的並走、テューク家のヨーク・リトリート(1796年)[11]における英国的並走、ライル『ラプソディ』(1803年)[13]におけるドイツ的並走――これらすべてが、1780–1800年代の二十年間に集中して出現する。

第二の命題。これらの諸事象は独立した複数の系譜であるが、その総体は単一の認識論的閾の形成を構成する。「精神病者は治療可能であり、その治療は身体的拘束ではなく人格的働きかけ――精神療法/道徳療法――を中心に据えるべきである」「狂気は理性の全的廃棄ではなく、保存された理性の核を内に含む内的分裂である」「狂気の処遇は宗教的慈善でも刑罰的拘束でもなく、独自の医学的領域として体系化されるべきである」――これら三つの命題が、1780–1800年代の二十年間にフランス、イタリア、英国、ドイツ語圏において独立に到達された認識である。

第三の命題。ピネル発祥点(1790年代)はこれらの諸系譜の単なる継承ではなく、その総合的結晶化である。ピネルが独自の貢献をなすのは、モンペリエ学派の医学的伝統、観念学派の哲学的枠組み、ビセートル・サルペトリエールの臨床経験(ピュサンによる先行的改革を含む)、ダカンを介した先行的省察、そしてフランス革命の政治的・制度的条件、これらすべてを一つの体系的著作――『精神疾患に関する医学哲学論考』(1800年)[14]――において統合した点にある。本論文がピネル発祥点を採用する根拠は、彼の孤立した天才性によるのではなく、彼が複数の系譜の収斂点としての位置を占めるという事実による。

次章(第六章「ピネル発祥論――スウェイン立場の採用」)においては、本論文全体の中軸命題が確立される。本章までの五章を通じて構築された基盤――古代ギリシアからの長期的系譜(第一章)、中世の閾(第二章)、ルネサンスにおける「個人の発見」(第三章)、古典主義時代の妊娠期(第四章)、そしてアンシャン・レジーム末期の臨界(本章)――の上に、ピネルにおける「狂気における主体」の組み立てが発祥点として位置づけられる。スウェインとゴーシェが提示した立場の正当性が、本論文の長い予備的作業の結論として確立されることになる。

本章をもって、精神医学の発祥に至る歴史的諸契機の検討は閉じられる。発祥点そのものの分析は次章の主題である。第六章はすでに editio princeps(原典初版)として完成しており、本論文全体の二極(第一章=ギリシア起源、第六章=ピネル発祥)の構造のなかで、本章は両極を結ぶ最終的な橋渡しの役割を果たしている。

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Notes & References

註 および 主要参考文献

[1] Swain, Gladys & Gauchet, Marcel: La pratique de l'esprit humain. L'institution asilaire et la révolution démocratique, Gallimard, Paris, 1980. および Swain, G.: Le Sujet de la folie: naissance de la psychiatrie, Calmann-Lévy, Paris, 1977, nouvelle édition 1997. 第四章で詳論した「妊娠期」読解の理論的基盤。(引用箇所:一章、五章、八章)
[2] Postel, Jacques & Quétel, Claude (éds.): Nouvelle histoire de la psychiatrie, Dunod, Paris, 1994 [reissue]. ピネルのビセートル赴任(1793年8月25日)およびサルペトリエール赴任(1795年5月13日)に関する第一級史料に基づく記述。(引用箇所:一章)
[3] Diderot, Denis & d'Alembert, Jean Le Rond (éds.): Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, 17 vol. de texte + 11 vol. de planches, Paris, 1751-1772. モンペリエ学派による医学項目の主要分析として Roselyne Rey: Naissance et développement du vitalisme en France de la deuxième moitié du 18e siècle à la fin du Premier Empire, Voltaire Foundation, Oxford, 2000 参照。(引用箇所:二章)
[4] Diderot, Denis: Le Rêve de d'Alembert(1769年執筆、1830年生前未刊として刊行). モンペリエ生気論の哲学的・文学的展開。ボルドゥーが主要対話者として登場。批判的版として Œuvres complètes, éd. DPV, Hermann, Paris, t. XVII, 1987 を参照。(引用箇所:二章)
[5] Colombier, Jean & Doublet, François: Instruction sur la manière de gouverner les insensés et de travailler à leur guérison dans les asiles qui leur sont destinés(1785年8月20日付), Journal de Médecine, Chirurgie, Pharmacie, etc., t. LXIV, 1785, pp. 529-583. 解題として Foucault, M. (éd.): Les Machines à guérir, Mardaga, Bruxelles, 1979 を参照。(引用箇所:三章、十二章)
[6] Weiner, Dora B.: Comprendre et soigner: Philippe Pinel (1745-1826), la médecine de l'esprit, Fayard, Paris, 1999. ピュサン Jean-Baptiste Pussin の生涯とビセートルにおける改革についての基準的研究。(引用箇所:三章)
[7] Tenon, Jacques: Mémoires sur les hôpitaux de Paris, Paris, Pierres, 1788. 復刻版 Mémoires et observations sur les hôpitaux, Doin, Paris, 1998. 解題として Foucault et al.: Les Machines à guérir(前掲注 5)参照。(引用箇所:四章、十二章)
[8] Foucault, Michel: Naissance de la clinique. Une archéologie du regard médical, Presses Universitaires de France, Paris, 1963. 「医学的眼差し」概念の理論的提示。本論文での位置づけについては別稿『フーコー批判論文』を参照。(引用箇所:四章)
[9] Daquin, Joseph: La philosophie de la folie, ou Essai philosophique sur le traitement des personnes attaquées de folie, P. Cleaz, Chambéry, 1791; 2e éd. augmentée, Paris, 1804. 復刻版あり。ピネルからダカンへの書簡(1805年)については Postel, J.: Genèse de la psychiatrie. Les premiers écrits psychiatriques de Philippe Pinel, Synthélabo, Le Plessis-Robinson, 1998 を参照。(引用箇所:五章、十二章)
[10] Belhomme, Jacques-Étienne: 著作なし(療養所運営記録のみ). ベロム療養所の史的研究として Lacoste, Anne: La Pension Belhomme. Une prison de luxe sous la Terreur, Tallandier, Paris, 2010 を参照。革命期における療養所の特異な役割についての重要な研究。(引用箇所:六章)
[11] Tuke, Samuel: Description of the Retreat, an Institution near York, for Insane Persons of the Society of Friends, W. Alexander, York, 1813. リトリート設立の経緯と運営原理に関する基本文書。設立者ウィリアム・テュークの孫サミュエルが医学界に向けて公式に提示した著作。(引用箇所:八章、十二章)
[12] Scull, Andrew: Museums of Madness. The Social Organization of Insanity in Nineteenth-Century England, Allen Lane, London, 1979. および Madness in Civilization. A Cultural History of Insanity from the Bible to Freud, from the Madhouse to Modern Medicine, Princeton UP, Princeton, 2015. 英国精神医学史および「道徳療法」運動についての基準的研究。(引用箇所:八章)
[13] Reil, Johann Christian: Rhapsodieen über die Anwendung der psychischen Curmethode auf Geisteszerrüttungen, Curt'sche Buchhandlung, Halle, 1803. 「Psychiatrie 精神医学」術語の最初の提唱は Reil: « Über den Begriff der Medicin und ihre Verzweigungen », in: Beyträge zur Beförderung einer Curmethode auf psychischem Wege, Bd. 1, 1808 にある。ライルの全体的位置づけについては Marneros, A. & Pillmann, F.: Das Wort Psychiatrie wurde in Halle geboren, Schattauer, Stuttgart, 2005 参照。(引用箇所:九章、十二章)
[14] Pinel, Philippe: Traité médico-philosophique sur l'aliénation mentale, ou la manie, Richard, Caille et Ravier, Paris, an IX (1800). 第二版 Traité médico-philosophique sur l'aliénation mentale, J. Ant. Brosson, Paris, 1809. 第六章で詳論。アンシャン・レジーム末期の諸契機を統合する発祥的著作。(引用箇所:三章、五章、七章、九章、十章、十一章、十二章)
[15] Ey, Henri: Études psychiatriques, tome I, Étude n°2 « Esquisse d'une conception organo-dynamique de la structure, de la nosographie et de l'étiopathogénie des maladies mentales », Desclée de Brouwer, Paris, 1952. シュタール=ライル系のドイツ的力動論との連結。(引用箇所:九章)
[16] Foucault, Michel: Naissance de la clinique(前掲注 8), 第四章「臨床の年齢」、第五章「病院のレッスン」. 革命期の医学制度再編に関する基本的分析。補完的研究として Vess, David M.: Medical Revolution in France 1789-1796, University Presses of Florida, Gainesville, 1975 を参照。(引用箇所:十章)
[17] Cabanis, Pierre Jean Georges: Rapports du physique et du moral de l'homme, 2 vol., Crapart, Caille et Ravier, Paris, an X (1802). および Destutt de Tracy, A.L.C.: Éléments d'idéologie, 4 vol., Courcier, Paris, 1801-1815. 観念学派の総体的研究として Moravia, Sergio: Il pensiero degli idéologues. Scienza e filosofia in Francia (1780-1815), La Nuova Italia, Firenze, 1974 を参照。ピネルと観念学派の交流については Staum, Martin S.: Cabanis. Enlightenment and Medical Philosophy in the French Revolution, Princeton UP, Princeton, 1980 参照。(引用箇所:十一章)
[18] Quétel, Claude: Histoire de la folie de l'Antiquité à nos jours, Tallandier, Paris, 2009. 特に第四部「啓蒙の精神医学 La psychiatrie des Lumières」。アンシャン・レジーム末期の総体的把握について有用な記述。(引用箇所:一章、十二章)
[19] Gauchet, Marcel: « Préface. À la recherche d'une autre histoire de la folie », in Swain, G.: Le Sujet de la folie, nouvelle édition, Calmann-Lévy, Paris, 1997, pp. I-LVIII. 「他性体制のコペルニクス的革命」概念および「妊娠期」の最終段階としてのアンシャン・レジーム末期の位置づけ。(引用箇所:一章、十二章)
[20] Goldstein, Jan: Console and Classify. The French Psychiatric Profession in the Nineteenth Century, Cambridge UP, Cambridge, 1987. アンシャン・レジーム末期から19世紀フランス精神医学の制度的形成までの包括的研究。本章で扱った諸契機を19世紀的展開へと連結する補完的視座を提供する。(引用箇所:十章、十二章)
[21] Ey, Henri: « Le développement « mécaniciste » de la psychiatrie à l'abri du dualisme « cartésien » », Études Psychiatriques, t. I, Étude n°3. Paris: Desclée de Brouwer, 1948; rééd. CREHEY 2006, p. 51-52. 精神医学発祥の三重の根 triple racine(モラル的根、哲学的根、慈善的根)の定式化。哲学的根として Cabanis『心身関係論』1802年が明示的に挙げられる点が本章にとって決定的である。本論文第三章 Wier-Bodin(モラル的根)、第六章ピネル=プッサン(慈善的根)と本章カバニス=観念学派(哲学的根)は、エー三重の根の三層に対応する(引用箇所:十一章)
[22] Lantéri-Laura, Georges: « L'œuvre de V. Chiarugi et la notion d'aliénation mentale », in Garrabé, Jean (éd.): Philippe Pinel, Les empêcheurs de penser en rond / Institut Synthélabo, Le Plessis-Robinson, 1994, pp. 19-32. ピネルのビセートル赴任二百周年(1993年)を機に編まれた論集所収。キアルージの制度的経歴と『狂気論』の理論構成の分析、ピネル『論考』序論におけるキアルージ冷遇の指摘、およびトスカーナ=ルッカの制度史がフーコーの大監禁テーゼに加えるべきニュアンスの指摘。本章第七節の基盤文献。(引用箇所:七章、十二章)
[23] Chiarugi, Vincenzo: Regolamento dei Regi Spedali di Santa Maria Nuova e di Bonifazio, G. Cambiagi, Firenze, 1789. および Della pazzia in genere, e in specie. Trattato medico-analitico. Con una centuria di osservazioni, 3 vol., L. Carlieri, Firenze, 1793-1794(復刻版 Vecchiarelli, Roma, 1991). 前者はサン・ボニファーツィオ病院の運営法典、後者はピネル『論考』に七年先立つ理論的主著。本章での引用は注22のランテリ゠ロラ論文を介する(原典頁の照合は今後の課題とする)。(引用箇所:七章)