一 問題の設定――古典主義時代はなぜ発祥をめぐる主戦場なのか
本章が扱う「古典主義時代 l'âge classique」とは、フランス史学の用語法に従えば、ほぼ1650年前後から1780年代までの一世紀半を指す。すなわちルイ十四世の親政開始からアンシャン・レジーム末期に至るまで、デカルト的合理主義と絶対王政の財政・司法装置とが並走した時期である。精神医学の発祥という主題にとって、この時代区分は一義的な意味をもたない。むしろ、この古典主義時代をいかなる時代として読むか――合理主義の勝利の場とするか、慈善的バロックの残滓とするか、医学的革新の妊娠期とするか――こそが、四者の発祥論の対立を決定的に方向づけているのである。
ミシェル・フーコー Michel Foucault(1926–1984)が1961年の主著『古典主義時代における狂気の歴史 Histoire de la folie à l'âge classique』において、まさにこの時代を発祥の主舞台として選び取ったのは偶然ではない[1]。フーコーにとって古典主義時代とは、中世とルネサンスにおいて「自由に交流していた」狂気が、デカルト『省察』第一節における「狂気の排除」と1656年パリ一般施療院の創設という二重の出来事によって、決定的に理性から分離された時代であった。彼が「大いなる監禁 le Grand Enfermement」と呼ぶこの過程こそ、近代精神医学の前提条件をなす、と彼は主張する。
これに対しアンリ・エー Henri Ey(1900–1977)は、1971年の批判論文[2]において、フーコーの古典主義時代論を二重の意味で退ける。第一に、精神医学の発祥はルネサンスにおける「個人の発見」とともに開始されており、古典主義時代の収容実践は発祥の核心ではない。第二に、たとえ収容実践が制度的に拡大したとしても、それは「理性による非理性の客体化」という哲学的・象徴的事件ではなく、貧困処遇の経済的・行政的措置である。エーにとって古典主義時代は、ルネサンス以来の医学的認識の連続性のなかに位置づけられるべきであり、フーコーの言う「断絶」は哲学的虚構にすぎない。
クロード・ケテル Claude Quétel(1935–)は『古代から現代に至る狂気の歴史 Histoire de la folie de l'Antiquité à nos jours』(2009年)[3]において、エーとは別の方向からフーコーの古典主義時代論を解体する。ケテルの戦略は哲学的というよりも実証史学的である。すなわち、フーコーの「大いなる監禁」テーゼを、収容前史の同定、勅令の実態分析、収容者構成の数量的検証という三層の方法によって解体し、フーコーの壮大な物語が史料的根拠を欠くことを示すのである。
そしてグラディス・スウェイン Gladys Swain(1945–1993)とマルセル・ゴーシェ Marcel Gauchet(1946–)は、共著『人間精神の実践 La pratique de l'esprit humain』(1980年)[4]において、古典主義時代を「妊娠期 la période de gestation」として読解する独自の立場を提示した。彼らにとって古典主義時代は、フーコーの言うような「狂気を理性から分離する」時代ではなく、また単純な貧困処遇の継続でもなく、来るべきピネル革命を準備する潜在的な孕みの時代であった。
本章の課題は、これら四者の古典主義時代論を独立に並列比較し、強度においてもっとも堅牢な立場を見極めることにある。結論を先取りすれば、本章はスウェインの「妊娠期」読解こそがフーコー、ケテル、エーの三者の正当な側面を統合的に包摂すると主張する。そしてこの立場の確立こそが、第六章で展開するピネル発祥論の前提となるのである。
二 四者の古典主義時代観の梗概
四者の立場を比較する前に、それぞれの古典主義時代観の骨格を簡潔に整理しておく。
第一にフーコーである。フーコーは古典主義時代を「狂気の沈黙」の時代として規定する。中世とルネサンスにおいて「世界の経験」のなかに編み込まれていた狂気は、デカルトの『省察』第一節における「私が狂人ならぬことの確認」によって理性的思惟から排除され、1656年の一般施療院創設によって貧者・浮浪者・狂者を一括して収容する「大いなる監禁」の対象となった[1]。フーコーにとってこの収容こそが、近代精神医学の前提となる「狂気の客体化」の起源である。ピネルの1793年の「鎖を解く」身振りは、この客体化を医学的に正当化する第二段階にすぎない。フーコーの古典主義時代観は、要するに「断絶と排除」の時代である。
第二にエーである。エーは1971年論文においてフーコーの断絶テーゼを退け、精神医学の発祥はルネサンスにおける「自然と超自然の境界線の分節化」[2]にあると主張する。彼にとって古典主義時代は、ルネサンス以来の医学的認識の進展――ウィリスの神経学、シデナムの臨床観察――の連続線上にあり、収容実践はそれと並走する社会的副次現象である。エーは収容を否定しないが、それを発祥の核心とは見なさない。エーの古典主義時代観は、要するに「医学的連続性のなかの社会的挿話」である。
第三にケテルである。ケテルは『狂気の歴史』第三部「古典主義時代」(フーコーへの直接の応答として構想された部分)において、フーコーの「大いなる監禁」テーゼに三層の実証的批判を加える[3]。すなわち(一)1656年勅令以前にも、リヨンの慈善院(1614年)、マルセイユの慈善院(1640年)など、貧困処遇の収容施設は各地に存在しており、勅令は前史をもつ事象である。(二)勅令の本文は狂気の収容を主眼とせず、貧困と浮浪者の取締りを目的とする経済政策である。(三)サルペトリエール・ビセートルの収容者構成において、狂者の比率は六パーセント前後にすぎず、大多数は孤児、老衰、身体障害、貧困者である。ケテルの古典主義時代観は、要するに「バロック的慈善の延長と財政的破綻」である。
第四にスウェインとゴーシェである。両者は共著『人間精神の実践』において、古典主義時代を「妊娠期 la période de gestation」と規定する[4]。すなわち古典主義時代の収容実践は、フーコーの言うような「狂気の客体化」ではなく、また単純な貧困処遇の延長でもなく、後に1790年代以降のピネル革命において結実する「狂気における主体」の認識を準備する潜在的な過程である。古典主義時代に集積された臨床観察、医学的記述、施設運営の実践的経験こそが、ピネルがビセートルとサルペトリエールにおいて行った「主体の発見」を歴史的に可能にした。スウェイン=ゴーシェの古典主義時代観は、要するに「来るべき主体の妊娠期」である。
以下の各節において、まずフーコーの「大いなる監禁」テーゼをやや詳細に再構成し(第三節)、これに対するケテルの三層的実証解体を辿る(第四節)。次いで宗教的脈絡(第五節)と施設の実態(第六節)を確認したうえで、スウェインの「妊娠期」読解の射程を見極め(第七節)、そして当時の医学的革新(第八節)と精神疾患の分類学的萌芽(第九節)を経て、最後に四者の交差点を位置づけ(第十節)、第五章への移行を準備する(第十一節)。
三 フーコーの「大いなる監禁」テーゼ――1656年と一般施療院
フーコー『狂気の歴史』第二部冒頭の章「大いなる監禁」は、彼の発祥論の中軸をなす[1]。フーコーはこの章を、1656年4月27日のルイ十四世勅令――『パリ市および郊外における物乞いの貧者の収容のためのオピタル・ジェネラル設立に関する国王勅令』――の引用から開始する。勅令の文言は次のごとくである。
Édit du Roi portant établissement de l'Hôpital Général pour le renfermement des pauvres mendiants de la ville et faubourgs de Paris.
「パリ市および郊外における物乞いの貧者を収容するためのオピタル・ジェネラル(一般施療院)設立に関する国王勅令」[5]
フーコーはこの勅令の核心を「収容」の制度化に見る。彼が強調するのは、この勅令が単なる救貧措置ではなく、「貧者」「物乞い」「浮浪者」「狂者」「性風俗紊乱者」「冒涜者」――すなわち理性の規範から逸脱したあらゆる人間――を一律に同じ施設に閉じ込める総合的装置であったことである。フーコーにとってこの一括収容こそが、古典主義的理性が「自分以外のすべて」を「非理性 déraison」として外部化する象徴的身振りである[1]。
フーコーはこの「大いなる監禁」が1656年のフランスに限定された現象ではないことも指摘する。ロンドンのブライドウェル監獄(1553年創設)の収容機能の拡大、ハンブルクの労働院(1620年)、アムステルダムの Rasphuis と Spinhuis など、ヨーロッパ全土において16世紀末から17世紀にかけて類似の制度が成立した[1]。フーコーは古典主義的ヨーロッパが「狂気の収容」を構造的に必要としたと主張する。
フーコーの議論の哲学的核心は、この収容を単なる経済政策ではなく「理性による非理性の沈黙化」として読み解く点にある。彼によれば、収容された人びとは「労働しない者」「規範に従わない者」として一括され、その差異――貧困者と狂者の差異――は意識的に消去された。この差異の消去こそが、後に18世紀末の医学的再分類によって「狂者を貧者から分離する」必要を生み、ピネルの解放を歴史的に可能にしたのである。フーコーの古典主義時代論は、要するに「狂気の沈黙の前提条件」を構築する物語である[1]。
この「大いなる監禁」テーゼの力は、二重の意味で雄弁である。第一に、それは一見すると無関係な多数の歴史的事象――勅令、施設、医学的言説、文学的形象――を「狂気の客体化」という単一の構造に統合する。第二に、それはピネルの解放の革新性を「鎖を物理的に解いた」というよりも「自ら課した精神的監禁を内面化させた」と読み替えることで、近代精神医学の起源そのものを批判的検討の対象とする。フーコーの議論はその構造的雄弁さゆえに、刊行直後から20世紀後半の人文諸科学に深甚な影響を与えた。
しかしこの雄弁さこそが、続くケテルの実証的批判によって解体されることになる。次節において、ケテルが提示する三層の解体作業を辿る。
四 ケテルによる実証的解体――監禁の前史と漸進性
ケテルのフーコー批判は、彼の『古代から現代に至る狂気の歴史』第三部「古典主義時代」[3]の全体を貫いている。本節ではその批判を三層に整理する。
第一の解体は、収容前史の同定である。フーコーは1656年勅令を発祥の閾として描いたが、ケテルはこの勅令が突如として出現したのではなく、半世紀以上にわたる地方都市の貧困処遇実践を集約・国家化したものであることを示す[3]。リヨンの「慈善総合院 Aumône générale」(1531年創設、1614年に拡張)、マルセイユの慈善院(1640年)、トゥールーズの慈善院(1647年)、グルノーブルの慈善院(1649年)、オルレアンの慈善院(1651年)――これらの地方施設は、いずれも1656年勅令に先行し、地域の貧困者・浮浪者・身寄りなき者を収容していた。1656年勅令はこれらの地方実践を首都に集約し、王権の財政的・行政的枠組みのなかに位置づけ直したのである。フーコーが描いたような「断絶」はない。あるのは漸進的な拡大と統合である。
第二の解体は、勅令本文の実態分析である。ケテルは1656年勅令の文言を字句通りに読むよう要請する[5]。勅令の主眼は「物乞いの貧者 pauvres mendiants」の収容にあり、本文中に「狂者 fou」「精神疾患者 insensé」への言及はきわめて少ない。勅令の目的として明示されているのは、(一)公共秩序の維持、(二)貧者の精神的・道徳的矯正、(三)労働力の動員、(四)信仰生活への復帰、の四点である。狂気の収容は、これら四目的のいずれにも構造的に組み込まれていない。狂者が施療院に収容されたのは、彼らが貧困者であるか、家族による扶養が不能であるか、公共秩序を乱す行為に及んだ場合に限られる。フーコーの言う「狂気の組織的収容」は、勅令本文においては読み取れない。
第三の解体は、収容者構成の数量的検証である。ケテルはサルペトリエールの18世紀史料を渉猟し、収容者の内訳を具体的に提示する[6]。1790年時点のサルペトリエール収容者約八千名のうち、狂者として登録された者はおよそ六パーセントにすぎず、残る大部分は孤児(約三六パーセント)、老衰女性(約三〇パーセント)、身体障害者および慢性病者(約一一パーセント)、その他の貧困女性であった。ビセートルも同様の構成を示す。財政面でも一般施療院は創設後一〇年以内に深刻な債務危機に陥り、1666年までに二億二千五百万リーヴルの負債を抱えていた。フーコーが描いたような「狂気の壮大な監禁」の実態は、財政的に破綻した不完全な救貧制度であった。
ケテルはこの三層の解体を踏まえて、決定的な定式化に到達する。
L'avènement de l'âge classique ? Plutôt les derniers feux du baroque. Le siècle classique tant aimé par Foucault, en somme, plutôt qu'il n'a inventé l'Hôpital général, l'a empêché.
「古典派時代の到来というよりも、バロックの最後の火種と言うべきだろう。フーコーがこよなく愛した古典主義の時代は、結局のところ、一般施療院を創り出したというよりも、それを妨げたのである。」[3]
ケテルのこの定式化は、フーコーの古典主義時代論そのものの時代区分を転倒させる。フーコーにとって古典主義時代は「理性の勝利」の時代であったが、ケテルにとってそれは「バロック的慈善の残滓と財政的破綻」の時代である。一般施療院は古典主義的理性の所産ではなく、ルネサンスとバロック以来の慈善実践が制度的に集約された結果であり、しかもその集約は十全に成功することなく、繰り返し財政破綻と機能不全に陥った。
しかしここでな慎重さが要求される。ケテルの実証的批判は、フーコーの哲学的物語の前提を解体するが、フーコーの議論の全面的な否定ではない。収容実践が制度的に拡大したこと、収容のなかに狂者が含まれていたこと、施設の運営において狂者の処遇が独自の問題を呈したこと――これらの事実は依然として残る。次節以下において、これらの事実を位置づける。
五 ヴァンサン・ド・ポールとカトリック慈善の構造――宗教的脈絡
17世紀フランスの収容実践を理解するためには、それをカトリック慈善の構造のなかに位置づける必要がある。ここで決定的な人物がヴァンサン・ド・ポール Vincent de Paul(1581–1660)である[8]。ヴァンサンは反宗教改革(カトリック改革)期のフランスにおいて、貧者・病者・捨て子の組織的救済を司牧的使命として制度化した司祭であり、ラザリスト会(1625年創設)と慈愛の娘会(1633年創設、ルイーズ・ド・マリヤックと共同創設)を通じて、近代フランスの慈善ネットワークの基盤を築いた。
ヴァンサンの慈善思想において、貧者は単なる救済の対象ではなく、「キリストその人」として遇されるべき存在であった。彼は書簡集において繰り返し、「貧者の中にキリストを見る serviteurs des pauvres qui sont nos maîtres」[8]と説いている。この神学的枠組みは、貧困処遇を経済政策としてのみ理解する近代的視点とは異質である。17世紀フランスの収容施設は、王権の財政・行政装置であると同時に、カトリック改革期の救済神学の制度的表現でもあった。
1640年代以降、ヴァンサンとラザリスト会は、サン=ラザール施設(パリ、もとはハンセン病療養所)において、一部の精神錯乱者と「家族からの請願 lettres de cachet de famille」によって収容された者を引き受けた[8]。サン=ラザールにおける処遇は、後の18世紀末に医学的批判の対象となるが、当初それは司牧的配慮――「迷える羊」を共同体へと回帰させる魂の救済――として構想されていた。ここで重要なのは、宗教的慈善実践と世俗的処遇のあいだに明確な区別は存在しなかったということである。両者は同じ施設、同じ運営者、同じ神学的枠組みのなかで遂行されていた。
ロベール・カステル Robert Castel は『精神医学的秩序 L'Ordre psychiatrique』(1976年)[10]において、フーコーの「大いなる監禁」テーゼを継承しつつも、宗教的慈善の役割を独自に位置づけた。彼によれば、17世紀の収容は「世俗化された慈善」と「司牧的配慮の制度化」の二重構造として把握される。狂者の収容を理性による非理性の排除としてのみ読む解釈は、この宗教的次元を脱落させる。
ブロックリスとジョーンズ Brockliss & Jones 『近世フランスの医学世界 The Medical World of Early Modern France』(1997年)[9]は、17世紀フランスの医療と慈善の制度的絡み合いを詳細に分析している。彼らの研究によれば、地方の慈善院・施療院は、医師・薬剤師・外科医・看護に従事する修道女・聖職者・行政官の複合的ネットワークとして機能しており、医学的処置と宗教的配慮はしばしば同一の身振りのなかで遂行されていた。狂者の処遇もこのネットワークの一部として行われており、独自の「精神医学的」処置の領域は未だ分化していなかった。
この宗教的脈絡を保持することは、本論文全体の方針にとって決定的である。なぜなら、第六章で論じるピネルの革新は、しばしば「宗教的慈善の世俗化=医学化」として描かれるが、これは過度の単純化であるからである。ピネルがビセートルとサルペトリエールにおいて出会った狂者たちは、すでに数世代にわたる慈善的処遇の文脈のなかに置かれていた。ピネルの革新は、この文脈を全面的に否定したのではなく、その内部で「医学的眼差し」を分化させたのである。
六 ビセートルとサルペトリエール――施設の実態
ここで第六章のピネル発祥論への接続を準備するため、ビセートルとサルペトリエールの古典主義時代における実態を整理しておく[7]。両施設は1656年勅令の下に設立された一般施療院の主要な二翼であり、後に18世紀末にピネル革命の現場となる場所である。
ビセートル Bicêtre は男性収容施設として、1656年に旧城館の用地に設立された。創設当初の収容定員は約二千名、18世紀末には約四千名に拡大した。収容者は六つのカテゴリーに分類されていた――(一)「強制収容者 forçats」(裁判による収容者)、(二)「家族請願による収容者」、(三)老衰者・身体障害者、(四)狂者、(五)性病患者、(六)孤児と捨て子[7]。狂者用の区画は施設の一部に限定されており、彼らはしばしば独房に拘束された。狂者の独房はサン=プリ館 Saint-Prix と呼ばれる建物に集約されていた。
サルペトリエール Salpêtrière は女性収容施設として、もとは火薬製造工場(salpêtre は硝石を意味する)の跡地に1656年に設立された。収容定員は最大時で約一万名に達し、ヨーロッパ最大の収容施設であった[7]。サルペトリエールの収容者構成は、前述のとおり狂女が全体の六パーセント前後にすぎず、大部分は孤児、老衰女性、貧困女性、性風俗紊乱者、罹病者であった。狂女用の区画は La Force と呼ばれる独房群に集約されていた。
両施設において、狂者の処遇は複雑な性格を呈していた。一方では、彼らは「不治の患者」「危険な錯乱者」として独房に拘束され、鎖につながれることもあった――フーコーが描いた「大いなる監禁」の現実的相貌である[1]。他方で、施設には医師が定期的に巡回しており、シャロワ Charrois、ピネル直前のピュサン Jean-Baptiste Pussin(1745–1811、ビセートルの監督官)など、狂者の処遇に独自の経験的観察を蓄積した実務家が存在した。ピュサンは医学的な専門教育を受けていなかったが、長年の現場経験から狂者の分類と処遇に関する独自の知見を発達させており、後のピネルはこのピュサンの実践的知から決定的な影響を受ける(第六章で詳述)。
ここで注目すべきは、ビセートルとサルペトリエールの両施設において、医学的処置と慈善的処遇と治安的拘束の三層が、同じ施設の内部で並存していたことである。この三層構造は古典主義時代を通じて変化せず、1790年代のフランス革命期に至るまで持続した。ピネルがビセートル監察医として赴任したとき(1793年8月)、彼はこの三層構造の只中において、医学的処置の層を組織的に拡張し、慈善的処遇と治安的拘束から自律させる作業に着手することになる[9]。
この確認された施設実態は、フーコーの「大いなる監禁」テーゼに対するケテルの三層的解体を裏付けると同時に、フーコーが見落とした重要な事実をも明らかにする。すなわち、収容施設の内部にはすでに医学的処置の萌芽が存在しており、ピネルの革新はこの萌芽を組織的・制度的に拡張する作業であった。古典主義時代を「医学的なものの不在の時代」として描くフーコーの図式は、施設史の細部によって反駁されるのである。
次節において、この施設史を踏まえつつ、スウェインとゴーシェが提起する「妊娠期」読解の射程を評価する。
七 スウェイン「妊娠期」読解――ピネル前夜への展望
スウェインとゴーシェの『人間精神の実践』(1980年)[4]が古典主義時代に与える性格規定は、フーコーともケテルとも異質である。彼らはこの時代を「妊娠期 la période de gestation」と呼ぶ。すなわち、表層においては貧困処遇の延長と慈善実践の集約という相貌を呈しながら、深層においては来るべき精神医学的認識――1790年代以降にピネルが結実させる「狂気における主体」の発見――を可能にする条件が潜在的に成熟していく時期である。
スウェイン=ゴーシェのこの読解の強度はどこにあるのか。第一に、彼らはフーコーの「断絶」テーゼを退ける。古典主義時代に「狂気が理性から決定的に分離された」という劇的なドラマトゥルギーは、史料的に支持されない。第二に、彼らはまた、ケテルの実証的還元――「古典主義時代は単にバロック慈善の延長にすぎない」――をも超える。ケテルの解体はフーコーの哲学的虚構を破壊するが、その代償として、古典主義時代に何が実際に生起しつつあったかという問いを十全に展開できない。
スウェインとゴーシェの「妊娠期」読解は、この二つの限界を同時に超克する第三の道である。彼らによれば、古典主義時代において進展していたのは、(一)施設運営の長期的経験の蓄積(前節で見たピュサンのごとき実務家の経験的知)、(二)医学理論の段階的な刷新(次節で論じるシュタール、ホフマン、モンペリエ学派)、(三)疾病分類学の野心的試み(第九節で論じるソヴァージュ、カレン)、(四)哲学的・人間学的言説の深化(ロックの『人間知性論』における「白紙状態」と「観念連合」、コンディヤックの感覚論、ルソーの自然主義的人間学)、という四つの平行的・相互浸透的な過程であった[4]。これら四つの過程は、いずれも単独では「精神医学の発祥」を構成しないが、その総体が18世紀末に至って一つの認識論的閾を形成し、ピネルにおいて結晶化することを可能にした。
スウェイン自身が1977年の博士論文『狂気における主体 Le Sujet de la folie』[4]において提示した命題――「主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気 la folie comme problématisation du sujet en tant que sujet」――は、古典主義時代の終わりに突如として出現したのではなく、長期にわたる妊娠の結果として誕生した。妊娠期の隠喩はここで単なる修辞ではない。それは歴史的時間の独自の構造――潜在的なものが顕在化に至るまでの時間――を把握するための概念装置である。
ここでゴーシェの1997年序文「アイデンティティの革命 Une révolution de l'identité」[18]の議論を簡潔に参照する。ゴーシェはこの序文において、古典主義時代に進展していた認識論的変動を「他性の体制 régime de l'altérité のコペルニクス的革命」として規定する。中世とルネサンスにおいて、狂気は「神に対する人間の脆弱性の啓示者」であった。すなわち狂者は、人間が究極的に自分自身ではなく超越的他者(神、悪魔、運命)に依存する存在であることを暴露する形象であった。これに対し古典主義時代の進展において、神に対して自律化された世界が形成されるなかで、狂気の地位は徐々に再編される。狂気はもはや超越的他者の啓示者ではなく、「人間が自分自身にとってなりうる他者」の啓示者となっていく。
この「他者性の体制の革命」は、古典主義時代を通じて潜在的に進展し、1790年代のピネル革命において顕在化する。ピネルが『精神疾患に関する医学哲学論考』(共和暦9年=1800年)[19]第一版において、「周期性または間欠性躁病」の症例から出発して『論考』全体を構築したことの意味は、まさにこの「内なる他者」としての狂気の発見にある。狂者は理性を完全に喪失した「絶対的他者」ではなく、理性と非理性のあいだに揺れ動く「内的に分裂した主体」として認識されるのである。この認識論的転換が可能になる条件こそ、古典主義時代という妊娠期に形成されたものである。
本論文のとる立場は、このスウェイン=ゴーシェの「妊娠期」読解こそが、フーコー、ケテル、エーの三者の正当な側面を統合的に包摂する、というものである。フーコーの言う収容実践の制度的拡大は事実として存在する(しかしそれは「狂気の客体化」というよりも、来るべき認識を成熟させる場であった)。ケテルの言うバロック慈善の延長と財政的破綻もまた事実である(しかしその延長の只中で、新たな認識の条件が形成されていた)。エーの言う医学的認識の連続性も事実である(しかしそれは単なる連続性ではなく、後にピネルにおいて飛躍を遂げる積み重ねであった)。三者がそれぞれ捉えた事実を否定することなく、その総体を「妊娠期」という時間構造のなかに位置づける――これがスウェインとゴーシェの達成である。
次節以下、この妊娠期に進展していた医学的・分類学的な具体的内容を確認する。
八 古典主義医学の刷新――シュタール、ホフマン、モンペリエ学派
古典主義時代において、精神医学の発祥を準備する医学理論的革新は、ドイツのハレ学派とフランスのモンペリエ学派において進展した。本節ではこの二つの学派の動向を整理し、ピネルへの接続を準備する。
ハレ学派の中心はゲオルク・エルンスト・シュタール Georg Ernst Stahl(1659–1734)とフリードリヒ・ホフマン Friedrich Hoffmann(1660–1742)である。両者はハレ大学医学部を共同で創立した同僚であったが、その医学的立場は対極をなしていた。
シュタールは『真の医学理論 Theoria medica vera』(1708年)[11]において、生命現象を機械論的に説明することを退け、「霊魂 anima」を生命過程の能動的原理と見なす立場――後にアニミスム animisme と呼ばれる立場――を提示した。シュタールにとって霊魂は単なる宗教的概念ではなく、身体の組織化、生理的恒常性の維持、病的状態への反応のすべてを統括する力動的原理である。病気はこの霊魂が身体の異常に対して発する反応であり、医師の使命はこの霊魂の自然治癒力を支援することにある。シュタールのこの力動論的医学観は、後のモンペリエ学派の生気論 vitalisme に直接的影響を与えた。
ホフマンは『医学の基礎 Fundamenta medicinae』(1695年)[12]において、シュタールとは対照的に、生命過程を機械論的・水力学的に説明する立場を提示した。彼にとって身体は流体力学的システムであり、健康は流体の循環の調和、病気はその障害である。ホフマンの立場は18世紀のドイツ医学において主流をなしたが、シュタールの力動論的批判もまた根強い影響を保持していた。
ここで第一章六節で確立したエー Études n°2 のリズム――コス対クニドス、力動論対機械論――を想起する必要がある。シュタール対ホフマンの対立は、まさにこの力動論対機械論のリズムが古典主義時代のドイツ医学において再演されたものである。エーが器質力動論 organodynamisme を構築するにあたり、シュタールに哲学的祖先を見出したのは偶然ではない。シュタールの力動論的医学観は、20世紀のエーの器質力動論への系譜をなしている。
18世紀後半において、シュタールの力動論的遺産はモンペリエ学派 École de Montpellier によって独自の発展を遂げた。モンペリエ大学医学部はパリ大学に並ぶ古い医学校(1220年創設)であり、伝統的に解剖学・臨床医学・植物学に強みを持っていた。18世紀のモンペリエ学派の中心人物はテオフィル・ド・ボルドゥー Théophile de Bordeu(1722–1776)とポール=ジョゼフ・バルテーズ Paul-Joseph Barthez(1734–1806)である。
バルテーズは『人間学の新要素 Nouveaux éléments de la science de l'homme』(モンペリエ、1778年)[13]において、シュタールの「霊魂」をより慎重に再定式化した「生命原理 principe vital」の概念を提示した。バルテーズにとって、この生命原理は身体的でも純粋に霊的でもなく、両者の中間に位置する独自の能動的原理である。彼の生気論 vitalisme は、機械論への素朴な回帰でもなく、神学的霊魂論への退行でもない、第三の道として構想されていた。
ここで決定的なのは、ピネル Philippe Pinel(1745–1826)が1774年から1778年にかけてモンペリエ大学医学部に学び、バルテーズの直接的影響下で医学教育を受けたという事実である[13]。1778年は『新要素』刊行の年であり、ピネルは生気論の確立的著作の出現を学生として目撃した。後にピネルが『論考』(1800年)[19]において提示する精神疾患の力動論的把握――精神機能の量的減弱・質的逸脱・周期的変動――は、バルテーズの生命原理論の精神医学的応用として読むことが可能である。古典主義時代の医学的革新と、1800年のピネル発祥論を結ぶ系譜の鎖は、ハレ=モンペリエ学派という具体的な経路を通って描かれるのである。
シュタールからホフマン、ホフマンへの反動としてのモンペリエ学派、そしてバルテーズからピネルへ――この鎖は、エーが器質力動論において継承した遺産でもある。古典主義時代を「医学的不毛の時代」として描くことは、この具体的な医学史的鎖を脱落させることにほかならない。スウェインとゴーシェの言う「妊娠期」の核心の一つは、まさにこの医学理論的革新の連鎖である。
この医学史的鎖の意義は、エー自身が後年に明示的に表明した自己定位によって決定的に確証される。エーは『精神医学研究』Étude n°7「精神医学の器質力動論的構想の諸原理 Principes d'une conception organo-dynamiste de la psychiatrie」p. 174 において、自らの器質力動論的精神医学の哲学的・医学的源泉を次のように定式化している――「一般病理学において、われわれは病気の力動論的構想に依拠している、そのヒポクラテス的源泉に遡る en remontant à sa source hippocratiqueのである」[21]。本節で同定したシュタール→ホフマン批判→モンペリエ学派→バルテーズ生気論→ピネル発祥点(1800年)→エー器質力動論(20世紀中葉)という連続体は、エー自身が「ヒポクラテス的源泉」と呼ぶ二千五百年の長期的構造――本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」が基礎づけた「コス的継承」――の古典主義時代における具体的諸相を成すものである。
古典主義時代の医学的革新は、こうして、本論文の発祥論的視角からは、長期的連続体における決定的中継地点として位置づけられる。第一章で論じたコス/クニドス対立におけるコス的継承(力動論的・生気論的伝統)が、Stahl-Hoffmann 論争(17世紀末から18世紀初頭のドイツ)、モンペリエ生気論(18世紀後半のフランス)、バルテーズ「生命原理」論を経由して、ピネル『論考』(1800年)における精神疾患の力動論的把握へと結晶化し、20世紀中葉のエー器質力動論において自己意識的な立場として再定式化される。
九 精神疾患の医学的分類の萌芽――ソヴァージュとカレン
古典主義時代の医学的革新と並走するもう一つの重要な動向が、疾病分類学 nosologie の野心的試みである。本節では、ピネル『論考』の直接的な批判的継承の対象となる二人の分類学者――フランソワ・ボワシエ・ド・ソヴァージュ François Boissier de Sauvages(1706–1767)とウィリアム・カレン William Cullen(1710–1790)――の業績を整理する。
ソヴァージュはモンペリエ大学医学部の教授であり、1768年(没後刊)に『方法的疾病分類学 Nosologia methodica』[14]を全五巻として刊行した。彼の野心は、リンネ Carl von Linné(1707–1778)が植物学において達成した分類学的体系化[16]を医学の領域に移植することにあった。リンネの『自然の体系 Systema naturae』(1735年初版、以後改訂継続)は、属・種の二名法 binomial nomenclature と階層的分類体系によって博物学を体系化したが、ソヴァージュはこの方法を医学に応用し、疾病を綱 classis・目 ordo・属 genus・種 species の階層に分類しようと試みた。彼の体系では精神疾患は第八綱「精神異常 Vesaniae」に分類され、その下に痴呆 dementia、躁病 mania、メランコリー melancholia などの属・種が体系化された。
カレンはエディンバラ大学医学部の教授であり、『医学実践初歩 First Lines of the Practice of Physic』(エディンバラ、1777年)[15]において、ソヴァージュとは異なる原理に基づく医学的分類体系を提示した。カレンの体系では、精神疾患は「神経症 Neuroses」の綱に分類される。ここで「神経症」とは、現代の精神医学用語法における「神経症」(精神病ではない軽度の精神疾患)ではなく、文字通り「神経系の疾患 maladies du système nerveux」を意味する。カレンの用法において、神経症は癲癇・舞踏病・破傷風などの神経学的疾患と、躁病・メランコリー・痴呆などの精神疾患を包括する広い分類カテゴリーであった。
ピネルはこの両者の業績に深く精通していた。彼は『論考』第一版(1800年)[19]の冒頭において、ソヴァージュとカレンの分類学を詳細に検討し、そのな貢献を認めつつ、決定的な批判を加えている。ピネルの批判の核心は、ソヴァージュとカレンの分類が「症状の表層的列挙」にとどまり、「精神疾患の力動論的本質」を捉えていないという点にある。ピネルにとって、躁病・メランコリー・痴呆・白痴の四大分類は、リンネ的な属・種の階層ではなく、精神機能の量的・質的・時間的な変動様式の根本的差異として把握されるべきものであった。
特に決定的な革新は、ピネルが「妄想なき躁病 manie sans délire」[19]の概念を導入したことである。古典的分類学において、躁病は本質的に「妄想を伴う錯乱状態」として定義されていた。ソヴァージュもカレンも、この古典的定義を踏襲していた。これに対しピネルは、ビセートルとサルペトリエールにおける長年の臨床観察から、「知的能力は完全に保持されているにもかかわらず、抗いがたい衝動に支配される」患者群の存在を同定し、これを「妄想なき躁病」として独立に記述した。この概念は、後にエスキロールにおける「単一狂気 monomanie」概念に発展し、さらに後の衝動制御障害・人格障害・反社会性障害の長い系譜の起源となる。
ここで確認すべきは、ピネルの「妄想なき躁病」概念が、ソヴァージュ=カレン的な分類学の枠組みを超える革新でありながら、まさにその分類学的試みとの対決のなかで生まれたものであるということである。ピネルはソヴァージュとカレンを否定したのではなく、彼らの分類学的野心を継承しつつ、それを力動論的精神病理学によって深化させた。ここでもまた、古典主義時代の分類学的努力は、ピネルにおける飛躍の準備としての「妊娠期」の役割を果たしているのである。
なおリンネの『自然の体系』と分類学的精神への影響は、第五章「アンシャン・レジーム末期」において再び主題化される。18世紀後半の博物学的精神は、医学のみならず哲学的人間学(カント、ヘルダー)、政治経済学(重農主義、スコットランド啓蒙)、そして社会思想全般を貫いていた。古典主義時代から18世紀末への移行は、この分類学的精神の臨界点を含んでいる。
十 四者の交差点――エーの位置を評価する
以上の七節(三節―九節)における検討を踏まえ、本節では本章冒頭で設定した四者の古典主義時代論を再評価し、それぞれの正当な側面と限界を整理する。
フーコーの「大いなる監禁」テーゼは、その雄弁さと哲学的深さにおいて20世紀後半の人文諸科学に決定的影響を与えた。しかしケテルの三層的実証解体(第四節)が示すように、その史料的根拠は脆弱である。1656年勅令は前史をもち、勅令本文は狂気の収容を主眼とせず、収容者構成において狂者は少数派にとどまる。フーコーの「断絶」テーゼは哲学的虚構として批判される必要がある。しかし同時に、フーコーが指摘した収容実践の制度的拡大という事実そのものは残る。保持すべきは、フーコーの哲学的物語ではなく、彼が注目を喚起した制度的事実である。
ケテルの実証主義的解体は、フーコーの哲学的虚構を破壊するうえで決定的に有効である。しかしケテルの限界は、解体作業を完遂した後に、古典主義時代を「単なるバロック慈善の延長」へと還元してしまう傾向にある。古典主義時代に進展していた医学理論的革新(第八節)、分類学的試み(第九節)、哲学的・人間学的言説の深化を、ケテルの実証主義は十全に主題化することができない。ケテルの達成は、フーコー批判としては卓越しているが、独自の発祥論を提示するうえでは不十分である。
エーの1971年論文[2]は、フーコーの「社会発生論」を哲学的に退け、精神医学の発祥をルネサンスにおける「個人の発見」に遡らせる。この立場は本論文全体の方向性と一致している(第三章でウィエール対ボダン論争を結節点として論じた立場)。しかしエーの論文には、観点から修正を要する側面が二つある。
第一に、エーは古典主義時代の社会政治的契機――収容実践の制度的拡大、宗教的慈善の構造、施設の運営実態――を周辺要素として過小評価する傾向がある。彼の関心はもっぱら医学的認識の連続性にあり、ピネルの革新を支える社会制度的・経験的基盤を主題化することが少ない。これはフーコーの「社会発生論」への反作用としてある程度理解可能だが、古典主義時代の独自の位置を把握するうえで限界となる。
第二に、エーの発祥論はルネサンスからピネルへの直接的接続を強調する傾向があり、古典主義時代を「中間期」として相対的に軽視する。エーの論文においては、シュタールからモンペリエ学派、バルテーズからピネルへの医学的系譜(第八節)が十分に展開されていない。エー自身の器質力動論はシュタール的力動論の後裔であるにもかかわらず、彼はその系譜を体系的に主題化することなく、ルネサンス起源論の哲学的議論に集中している。これはエー論文の発表が1971年という、フーコーへの直接応答という論争的文脈にあったことから理解可能だが、独立した発祥論として読むときには修正を要する。
スウェインとゴーシェの「妊娠期」読解こそが、フーコー、ケテル、エーの三者の正当な側面を統合的に包摂する立場である。彼らはフーコーの言う収容実践の制度的拡大を事実として認めつつ、それを「狂気の客体化」ではなく「来るべき認識の妊娠期」として読み替える。ケテルの実証的解体を踏まえつつ、それを単なる否定的作業に終わらせず、古典主義時代の積極的な意味を展開する。エーの言うルネサンスからの連続性を継承しつつ、古典主義時代に進展した独自の認識論的変動――ゴーシェの言う「他性体制のコペルニクス的革命」――を主題化する。スウェインとゴーシェの 統合 の達成は、本論文全体の中軸命題を支えるものである[4]。
ここでエーとスウェインの関係を明確化する必要がある。両者はともに精神科臨床医であり、精神医学的認識の内部から発祥論を構築する点で本質的に近い立場をとっている。エーの「精神疾患は自由の病理である」という命題と、スウェインの「主体がまさに主体であるという資格において問題化されるところの狂気」という命題は、異なる定式化のもとに同一の認識を表現している――狂気は主体の全的廃棄ではなく、主体の内的緊張である、という認識である。エーとスウェインの差異は、エーが哲学的議論の水準において発祥をルネサンスに置くのに対し、スウェインが歴史的成熟の構造を重視して発祥点をピネルに置く、という強調点の差異である。本論文はこの両者の補完関係を肯定する。
結論として、本章の立場を整理する。古典主義時代は、精神医学の発祥点そのものではない(発祥点はピネルにおける1790年代である、これが第六章で確立する命題)。しかし、ピネル革命を可能にした歴史的妊娠期として、古典主義時代は不可欠の役割を果たした。フーコーの「大いなる監禁」テーゼは哲学的虚構として批判される必要があるが、収容実践の制度的拡大という事実は残る。ケテルの実証的解体は不可欠だが、それを超える積極的な発祥論にはスウェイン=ゴーシェの「妊娠期」読解が必要である。エーのルネサンス起源論は本論文の基盤をなすが、古典主義時代の独自の位置を主題化するためには、エー以外の論者の助けを借りる必要がある。
十一 結語――古典主義時代から発祥点へ
本章は古典主義時代の精神医学的諸相を、四者比較の枠組みのなかで検討してきた。結論として三つの命題を提示する。
第一の命題。古典主義時代を発祥点とするフーコーの立場は、史料的根拠において脆弱である。ケテルの三層的実証解体(1656年勅令の前史、勅令本文の実態、収容者構成の数量的検証)は、フーコーの「大いなる監禁」テーゼの哲学的雄弁さの背後にある史料的空白を暴露する[3]。一般施療院は古典主義的理性の所産ではなく、バロック的慈善の制度的集約であり、しかもその集約は財政的に破綻した不完全な救貧制度であった[20]。
第二の命題。古典主義時代は単なるバロック慈善の延長ではない。スウェインとゴーシェの「妊娠期」読解が示すように、この時代は来るべき精神医学的認識を準備する四つの平行的過程――施設運営の経験的蓄積、医学理論の刷新(シュタール=ホフマン=モンペリエ学派の連鎖)、分類学的試み(ソヴァージュとカレン)、哲学的・人間学的言説の深化――の交差点であった。これらの過程の総体が18世紀末に至って認識論的閾を形成し、ピネルの革新を歴史的に可能にした。
第三の命題。古典主義時代の医学的系譜は、エーが器質力動論において継承した系譜と一致する。シュタールの力動論的医学観[11]は、モンペリエ学派の生気論を経由してバルテーズの『新要素』[13]に至り、ピネル『論考』[19]の精神疾患の力動論的把握として結実する。そして20世紀においてエーがこの系譜を器質力動論として再構築する。この長い鎖の起源の一つが、古典主義時代のハレ大学とモンペリエ大学にあることは、本論文全体の中軸命題――精神医学の発祥は把握可能な系譜の問題である――を支えるものである。
次章(第五章「アンシャン・レジーム末期――発祥の前夜」)においては、本章で確立した「妊娠期」の最終段階、すなわち1770年代から1780年代のフランス啓蒙期、テネオン Tenon の病院改革報告(1788年)、コロンビエ Colombier とドゥブレ Doublet の精神病者処遇に関する指示(1785年)、革命前夜の医学制度改革の構想を検討する。これらの動向は、ピネル革命の直接的な前夜をなすものであり、本論文全体の論証構造のなかで古典主義時代と発祥点との橋渡しの役割を果たす。
そして第六章「ピネル発祥論――スウェイン立場の採用」において、本論文の中軸命題が確立される――1800年前後のピネル=ヘーゲル路線における「狂気における主体」の組み立てこそが、精神医学の発祥点である、という命題である。古典主義時代の長い妊娠の果てに、1790年代のフランス革命の特異な歴史的条件下において、この発祥点は誕生する。それを準備したのが、本章で検討してきた一世紀半の出来事の総体である。