一 問題の設定――なぜギリシアから始めるか
本論文は精神医学の発祥を1800年前後のピネル=ヘーゲル路線における「狂気における主体」の組み立てに位置づける。だがこの発祥論的命題は、ピネルが一冊の本を書くことによって組み立てた認識装置の哲学的・医学的前提条件として、ギリシア以来の長い伝統を背負っていることを認めなければ基礎づけられない。本章は四者(フーコー、エー、ケテル、スウェイン)のすべてが言及する古代――ギリシア医学と古代哲学の構築的瞬間――を、本論文の発祥論的視角から再構成する作業である。
ケテルは『狂気の歴史』第一部冒頭で書いている――「狂気について、魂の病について長く考察したのは、古典ギリシアが最初である。では、それ以前には何もなかったということだろうか。確かに理論的・思弁的な意味での狂気はなかった……しかし狂人は、確実に存在した。狂人のいない文明や社会が、たとえ原初的なものであっても、存在するだろうか。おそらく存在しないであろう[1]。」狂人と狂気の区別、すなわち経験的事実と理論的対象の区別が、ここで決定的に立てられる。狂人はあらゆる文化に存在する。だが狂気を「魂の病」として理論化することは、ギリシアにおいて初めて起こる出来事である。
この区別が立てられる場所は、本論文の発祥論的視角からは特別な重要性を持つ。なぜなら、われわれが第六章で同定した「狂気における主体」という認識装置――ピネルが1800年前後に組み立てた認識装置――は、まさに狂気を理論的対象として構成する作業の最終的結晶化だからである。狂気を理論的対象として構成すること、これが古代ギリシアで開始される。そしてこの構成は、二千年を経て、ピネル『精神疎外あるいは躁病に関する医学哲学的論考』初版(共和暦9年)に至るまで、本質的には同じ問題空間のなかで展開される。
ここで本章が取る方法的立場を二つ明示しておく。第一に、本論文はギリシア医学を「前精神医学 proto-psychiatrie」として読まない。古代ギリシアにおける狂気の理論化は、それ自体が独立した対象であって、近代精神医学への単なる準備段階ではない。第二に、しかし本章はギリシア医学を1800年前後の発祥点との関係において読む。それは「前精神医学」だからではなく、ピネル発祥点が立ち上げた問題空間――狂気と理性、身体と魂、医学と哲学の交差点――の最初の結晶化が古代ギリシアにあるからである。
アンリ・エーは1950年代に発表された『精神医学研究』Étude n°2「医学史の機械論的・力動論的リズム Le rythme mécano-dynamiste de l'histoire de la médecine」において、医学史を貫く構造的振動を定式化した。コス学派とクニドス学派の対立に始まる二極性――力動論 dynamisme と機械論 mécanicisme ――が、古代からルネサンスを経て17世紀の医原機械論、18世紀のシュタール/ホフマン/モンペリエ学派、19世紀の解剖臨床医学、20世紀の心身医学に至るまで、「永遠の振動 balancement éternel」として継続することを示した[2]。本章はこのエーの哲学的構造を批判的に継承する。本論文の発祥論的視角からは、エーの力動論/機械論の対立は、ピネルが1800年前後に組み立てた「狂気における主体」概念の遠い哲学的前提条件として読み直される。
そしてエー自身が、本論文の発祥論的命題と完全に同型の歴史的命題を、別の研究において明示的に定式化していることを、ここで指摘しておく必要がある。『精神医学研究』Étude n°3「精神医学における機械論的発展 Le développement « mécaniciste » de la psychiatrie」冒頭で、エーは精神医学の科学としての発祥を次のように描く――「確かに、精神医学的医学 Médecine mentale は既に二十五世紀前から存在していた。しかしその緩やかではあるが絶えざる進歩にもかかわらず、1800年以前には、大いなる発見の代わりとなりつつ、自らの対象と方法を意識する以前の科学を基礎づけるあの驚くべき好奇心という閃光が、まだ欠けていた。一瞬にして、ピネルとともに、閃光が走った D'un seul coup, avec PINEL, l'étincelle a jailli[3]。」二十五世紀の精神医学的医学の連続性と、1800年前後におけるその「閃光」的飛躍――この二重構造は、本論文がケテルから継承した「狂人」と「狂気」の区別と完全に同型である。ケテルが古代ギリシアにおいて狂気が初めて理論的対象として構成されたことを示したのに対し、エーは精神医学が科学として発祥した瞬間をピネルに同定する。両者の間には二千五百年の連続的問題空間がある――これが本論文の発祥論的視角の中核命題である。
エーは同箇所において、精神医学発祥の構造的条件を三重の根 triple racine として整理している。第一にモラル的根――ルネサンスと宗教改革以降の人間主義の展開のなかで、自由と責任の問題が突如として提起され、その帰結として狂気の境界問題が必然的に生じた(教皇の法医学者であったパオロ・ザッキアス Paolo Zacchias〔1582–1659〕の名がここでエーによって挙げられる)。第二に哲学的根――心身関係が神経生理学的平面に定位され、それらの関係についての理論に基づいた精神障害の科学が要請された(カバニス『心身関係論 Rapports du physique et du moral』1802年)。第三に慈善的根――精神病者への扶助の進歩、ピネルの博愛的(philanthropique)な身振り[4]。エーが書くように、「この三重の要求の結果こそが、医学にこの新しく動揺させるべき知の対象――狂気――を提供する必要性を、避けがたく差し迫ったものにした」。本論文の発祥論的視角は、エーのこの三重構造を継承しつつ、その三つの根のすべてが、本章で展開するように、すでに古代ギリシアの「医学・哲学的伝統 tradition médico-philosophique」のうちに準備されていたことを示すものである。
二 神々と神――前医学的環境における狂気
古典ギリシア以前の段階において、狂人は治療されていた。バビロニア文明、古代エジプト、古代ペルシアにおける医療を目的とした神殿のうちに彼らはいた。ケテルが描くように、「メンフィスの神殿は、医学校であると同時に病院でもあった。治癒を求める他の病人たちに混じって、狂人たちは何らかの奇跡的な儀式の順番を待っている[5]」。
古代エジプトにおける狂気の理解は、注目すべき構造を示している――「すべての座が『心臓』にあるとされ、この心臓が『逃げ去る』または『忘れられる』と、神的な力(悪魔の意味での)がそこに宿り、人はもはや責任を負わなくなる。『自分の心臓』を取り戻すと、同時に精神も取り戻す[6]」。ケテル自身がこの観念の重要性を指摘している――「自分自身に不在であるこの狂人の観念は、持続することになる。それは特に19世紀のまさに初頭、精神医学の誕生の際に、疎外 aliénation あるいは精神障害(alienare:他者にする、よそ者にする)の概念とともに再び現れることになる――他者にとってよそ者であるが、自分自身にとってもよそ者である[7]」。
古代エジプトの「自己への不在 absent à soi-même」と、ピネル発祥点における「精神疎外 aliénation mentale」とのあいだの接続は、しかし、外見以上に複雑である。エジプトの観念においては、狂人が自己に不在であるのは、心臓が逃げ去って神的・悪魔的な力が代わりにそこに宿るからである。狂気は他者(神的存在)による占有である。これに対してピネル=エスキロール路線の「精神疎外」概念においては、狂人は他者になるのではなく、他者であると同時に自己であり続ける。狂気における主体は、自己からの距離と自己への持続を同時に保持する「引き裂かれた主体性」である。同じ語(自己への不在)が異なる構造を指す。
バビロニア医学では、各病気がそれぞれの悪魔を持ち、狂気の原因となる悪魔は「イドタ Idta」と呼ばれた。医学的楔形文字文書において、すでに狂気のいくつかの形態が区別されている――「もし人が大発作または小発作のてんかんにしばしば苦しみ、迫害観念を持ち始め、神々が彼に怒っていると思い、あるいは幻覚を持ち、または恒常的な恐怖状態にあるならば……[8]」。診断的記述の最古層がここに出現する。バビロニア医学は呪術師(アシプ Asipu)と医師(アス Asu)の両方を動員し、時には両者を同時に動員する。
古代ペルシアにおいては、健康と病気の対立は、善神アフラ・マズダと悪神アーリマンとの宇宙論的闘争と並走するゾロアスター教的二元論のなかに位置づけられる。三種類の医学が区別される――「メスの、植物の、言葉の」医学であり、「この最後のものは言うまでもなく聖なる言葉、『魂に恩恵をもたらす』言葉である[9]」。ここで重要なのはケテルの観察である。「しかし、魂とは正確には何であるかを定義することは、やはりギリシア人に委ねられることになる[10]」。
ヘブライ的伝統――旧約聖書のヤハウェの世界――は、これとは構造的に異質な狂気観を提示する。ヤハウェの世界においては、「狂気以上の罰があるだろうか。この文脈において、狂気は両義的で根本的に悲観的な性格を帯びる。狂人はまず罪に陥る者であり……『狂人の心が怒るのはヤハウェに対してであり、その狂気は救いようがない[11]』」。狂気と罪と不信仰が同一視されることによって、狂気は理論的考察の対象としての地位を失う。ケテルは決定的に書く――「狂気についてのこれほど悲観的な概念が、それについてのあらゆる理論的考察を前もって凍結させる程度を強調するためである。地理的には最も近いが、知的には対極にあるのが、古典ギリシアの思想家たち、そして彼らの後の古代ローマの思想家たちが、魂の病という根本的な概念から出発して専念した哲学的・医学的研究の態度である[12]」。
この対比は、本論文の発祥論的視角から見ると、エーが1971年フーコー批判論文で擁護したルネサンス起源論との接続を示唆する。エーが指摘したように、精神医学の哲学的・人間学的前提は「自然 nature と超自然 surnaturel の分節化、自然領域の自律化」にある。ヤハウェ的一神教の世界では、この分節化は構造的に不可能である――狂気はすべて超自然的なもの(神的罰)として読まれる。多神教の世界(ギリシア、メソポタミア、エジプト)では、神々が時に人間的・偶発的であり、神々の介入が「自然の中の出来事」として相対化されうる余地がある。この余地が、ギリシアにおいて初めて、狂気の理論的考察――「魂の病」概念――の出現を可能にする。
三 哲学の妖精――宇宙論から人間学へ
ケテルが『狂気の歴史』第一部第二章「魂の病」の冒頭で用いる隠喩は、深い射程を持つ――「ヒポクラテス以前から、アスクレピオンと体育館が医学の揺籃を構成していたことを見てきた。しかし一人の妖精がこれらの揺籃に身をかがめた。哲学の妖精である。一方で魔術・宗教的なものが並行して歩み続ける(そして紀元前4世紀のエピダウロス聖域の最盛期に頂点に達する)間に、哲学は自らを創造する[13]」。
「哲学の妖精」がギリシア医学の揺籃に身をかがめるという出来事は、本論文の発祥論的視角からは決定的な構造的閾を成す。哲学者たちは旅をし、学び、思索する。「彼らはその言葉のあらゆる意味で思索し、宇宙論(宇宙とは何か?)(紀元前600年から450年)から人間学(人間とは何か?)(紀元前450年から400年)へと移行する。彼らは自然を研究し、身体の構造や病気の起源も含めて研究する[14]」。
宇宙論から人間学への移行は、注意深く読まれなければならない。タレス、アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、エンペドクレス、デモクリトスらソクラテス以前の哲学者たちは、自然 phusis を、神々の意志からではなく内在的原理から説明することを試みた。この営みは、神話的世界観からの脱出 demythologization そのものであり、エーが1971年論文で指摘した「自然/超自然の分節化」の哲学的起源である。だが宇宙論的段階においては、人間は宇宙の一部として位置づけられるのであって、独立した探究対象として構成されていない。
紀元前5世紀後半、ソクラテスとともに探究の中心が宇宙から人間へと移行する。「人間とは何か」「魂とは何か」「徳とは何か」――これらの問いが哲学の中心を占めるようになる。プラトンの対話篇とアリストテレスの諸論考は、この人間学的転回 anthropological turn の体系化である。だがケテルが指摘するように、人間学の出現は宇宙論の放棄ではない。「魔術・宗教的なものが並行して歩み続ける」のと同じく、宇宙論的伝統もまた、人間学的探究と並走し、相互依存的に展開される。
この人間学的転回のなかで、「魂の病 maladie de l'âme」という概念が結晶化する。ケテルが定式化するように、この概念は「二重の自覚に基づいている。哲学的自覚、なぜなら問題となっているのは魂だからであり、医学的自覚、なぜなら病気を研究するからである。そこで長い間、二つの経験を結びつける医学・哲学的伝統が確立される。医学的精神病理学と哲学的精神病理学である[15]」。
本論文の発祥論的視角からは、この「医学・哲学的伝統 tradition médico-philosophique」が特別な重要性を持つ。なぜなら、ピネル『論考』のタイトル――『精神疎外あるいは躁病に関する医学哲学的論考 Traité médico-philosophique』――は偶然ではないからである。ピネルは自らを「医学・哲学的伝統」の継承者として明示的に位置づけた。そしてこの自己定位は、ヘーゲルが1817年に『精神哲学』においてピネルに与えた最大の感謝――「ピネルはこの点に関して最大の感謝に値する」――と同一の構造を持つ。ピネルにおいて結晶化する1800年前後の認識装置は、二千数百年前にギリシアで開始された「医学・哲学的伝統」の最終的洗練である。
四 魂とは何か――プラトン、アリストテレス、ストア派、そしてヒポクラテス的非二元論
魂 psyché(ラテン語 anima、文字通り「息」)とは何か。プラトン(紀元前428–348年)の定義はこうである――「生命の原理、思考の原理、またはその両方の原理であり、それが現れる身体とは区別される実在として考えられる限りにおいて[16]」。アリストテレス(紀元前384–322年)の定義はこうである――「自然的身体の形相またはエンテレケイア entelecheia [存在の完全な成就の状態]のような実体であり、その身体は可能態において生命を持つ[17]」。
プラトンとアリストテレスの定義の差異は、本論文の発祥論的視角からは、二つの軸を構成する。プラトンの定義は二元論的軸(魂は身体から区別される実在として考えられる)に立ち、アリストテレスの定義は形相・質料論的軸(魂は身体の形相であって、身体と分離されえない)に立つ。この二つの軸は、その後二千年以上にわたって魂の哲学を二極化し、最終的にピネルが採用するストア派的一元論への道を準備する。
プラトン的伝統において、人間は三つの魂を持つとされる。ガレノス(紀元129–210年頃)がヒポクラテスと共通する教説として受け継ぐところによれば、それらは「欲望的または植物的魂(欲望の原理)でその座は肝臓にあり、活力的または男性的魂でその座は心臓にあり、思考的または統率的魂でその座は脳にある。二つの非理性的魂と一つの理性的魂(神々は後者のみを持つ)[18]」。三つの魂にはそれぞれ徳が対応する――欲望的魂には節制 sōphrosynē、活力的魂には勇気 andreia、理性的魂には知恵と知識 sophia kai epistēmē。そしてこれら三つの魂の調和に正義 dikaiosynē が宿る。
アリストテレスは三つの魂説を採らない。彼にとって魂は単一であり、心臓に座を持つが、プラトンが三つの魂に分割した能力のすべてを単一の魂が備える。アリストテレス『デ・アニマ De anima』における魂の能力的構造――栄養的、感覚的、運動的、思考的――は、プラトンの「三つの魂」を解体して再統合する作業である。
ストア派は、魂と身体の関係について、プラトン的二元論ともアリストテレス的形相・質料論とも異なる第三の立場を取る。彼らにとっては、能力の区別のない単一の魂がある。「作用するものはすべて物体である(魂も含めて)。クリュシッポス(紀元前3世紀)によれば、魂は私たちと共に生まれた連続的な空気(プネウマ pneuma)であり、生命の調和が身体にある限り、全身に広がる[19]」。
ストア派的一元論は、本論文の発祥論的視角から特別な重要性を持つ。ケテルが第二章末尾で書くように――「ストア派はプラトン的な魂と身体の二元論の概念を拒否し、両者は彼らの目には分離不可能な『表裏一体 recto verso indissociable』を構成する。感情、情念、悪徳、狂気(もともと自己監視の欠如として)の間には、本質の違いではなく程度の違いしかない。ピネルは、今度は二元論的伝統と断絶して、この考えを力強く取り上げることになる。たとえ当時の医師が哲学者になる必要があったとしても[20]」。
ピネルがストア派的一元論を採用したという命題は、本論文の発祥論的視角からは決定的な接続点を成す。ピネルは『論考』初版において、狂気を魂の単独の病としても身体の単独の病としても理解しなかった。狂気は魂と身体の交差点における病である――この立場は二元論的伝統(プラトン、デカルト、近代の哲学的二元論)からは導かれない。ストア派的一元論によってのみ哲学的に整合する立場である。第六章で構築した「狂気における主体」概念――狂気が主体の全体に関わるが、しかしその全体を破壊することなく、主体がそのようなものとして自らを支える能力を動揺させる――は、まさにこのストア派的一元論の帰結として読まれる。
だが本論文の発祥論的視角からは、ここでもう一つの軸を導入することが必要である。それはエーが『精神医学研究』Étude n°4「精神医学の医学諸科学における位置――『精神疾患』概念 La position de la psychiatrie dans le cadre des sciences médicales (La notion de « maladie mentale »)」p. 74 で定式化した次の命題によって明示される――「[力動論的・生命論的視角は] 世界と同じく古い aussi vieille que le monde。それはアリストテレス、聖トマス、より近くではヘーゲルとベルクソンの哲学を通じて、その様々な提示様態を辿ることができる。それは医学において真のヒポクラテス的精神 le véritable esprit hippocratique と不可分である[21]」。
エーが定式化するアリストテレス→トマス→ヘーゲル→ベルクソンという四点の哲学的系列を、彼は「医学において真のヒポクラテス的精神と不可分」と明示的に同定する。これは前段で本論文が三項対立(プラトン的二元論/アリストテレス的形相論的単一性/ストア派的物質的一元論)として整理した魂論において、アリストテレス的形相論的単一性を、後の中世のトマス的アリストテレス受容、ヘーゲル弁証法、20世紀のベルクソン的生気論を経由して、ヒポクラテス主義の哲学的中核として再読することを要請する。
すなわち、ヒポクラテスの「魂 ψυχή」は、エーが Étude n°2 p. 25 の脚注で明示的に指摘するように、二元論的軸の中で考えられるべきではない――「バセット M. Baissette は、ヒポクラテスにおいて魂が物質的諸力の働きから分離されていないという事実を強調する。これ以上に正しく、これ以上にアリストテレスからベルクソンに至る大いなる伝統に適合するものはない[22]」。ヒポクラテス的「魂」は、エーによれば、すでに「アリストテレスからベルクソンに至る大いなる伝統」のうちにあり、プラトン的二元論からは構造的に区別される。
この観察は、本論文の発祥論的視角が単純化される危険を予防する。ピネル『論考』初版がストア派的一元論を採用したという命題は、しかしストア派的一元論「のみ」をピネルの哲学的祖型とすることを意味しない。ピネル発祥点には少なくとも二つの流れが収斂している――第一にストア派的物質的一元論(魂と身体の物質的不分離性、プネウマ pneuma としての魂)、第二にアリストテレス=ヒポクラテス的形相論的非分離性(魂が身体の機能的展開を内側から組織する原理として、身体から「分離されない」)。両者は構造上、デカルト的二元論の回避という共通点を持つが、形而上学的基礎を異にする。ストア派的流れは物質的継続性によって、アリストテレス=ヒポクラテス的流れは形相的・機能的不可分性によって、それぞれ二元論を回避する。
エーが『精神医学研究』Étude n°7「精神医学の器質力動論的構想の諸原理 Principes d'une conception organo-dynamiste de la psychiatrie」p. 175 で自らの器質力動論的立場を「弁証法的運動 mouvement dialectique」として定式化するとき、彼が継承するのはまさにこの第二の流れ――アリストテレス→トマス→ヘーゲル→ベルクソン系列――である。ピネル発祥点は、本論文の長期的歴史構造観からは、この二つの流れの結晶化として読まれることになる。そしてこの両流れが、第十一章結語で示すように、エーの自己定位において再び収斂し、ヒポクラテス=ピネル=エーの連続体を形成する。
五 ヒポクラテス『聖なる病について』――脳の中心性と神々の排除
ヒポクラテス(紀元前約460–377年)の名のもとに集成された『ヒポクラテス集成 Corpus Hippocraticum』七六論文のうち、本論文の発祥論的視角からもっとも重要なのは『聖なる病について Peri hierēs nousou』である。「聖なる病」とはてんかんを指す。だがこの論文の中心的主張は、てんかんは聖なる病ではない、ということである。
それは他の病気よりも神的でも聖なるものでもないように私には思われる……おそらく経験不足と驚異のゆえに、人々はその性質と原因を何か神的なものと見なしたのである。実際、それは他の疾患とは何も似ていない[23]。
さらに著者は雄弁に主張する――「私は、てんかんを神性に捧げた人々を、神々と交流し、他の人間より多くを知っていると信じ込ませたがる、いわゆる魔術師、呪術師、詐欺師、偽信者と同じ種類の人々と見なしている。彼らは自分たちの無能さを神性のマントで覆った[24]」。
本論文の発祥論的視角からは、この『聖なる病について』の宣言は、精神医学発祥論の最古層を成す決定的瞬間である。それは精神医学の発祥そのものではない――それは発祥点(1800年前後)からはるか遠い前史的閾である――が、発祥点が立ち上げる問題空間の哲学的・医学的可能性条件の最古の表現である。狂気を神々の罰として読むことが拒否されたとき、初めて狂気を「自然 phusis の中の出来事」として読む可能性が開かれる。エーが1971年フーコー批判論文で「自然と超自然の分節化、自然領域の自律化」と呼んだ哲学的革命の最古の医学的表現が、ここにある。
そしてこの論文のもう一つの主張は、脳の中心性である――
脳は、他のすべての非常に大きな病気と同様に、この疾患の起源である。私たちが考え、理解し、見て、聞き、醜いものと美しいもの、悪と善を知るのは、それによってである……私たちが狂い、錯乱するのもまた、それによってである[25]。
脳の中心性の命題は、本論文の発祥論的視角からは慎重に読まれなければならない。それは「すべての精神疾患は脳の病気である」という現代の生物学的精神医学的命題と単純に同一視されてはならない。『聖なる病について』が言っているのは、脳が「思考と感覚」の場所であり、また「狂気と錯乱」の場所でもあるということである。これは脳に対する機能的・解剖学的特権の付与であり、フランス革命後の解剖臨床医学やパストゥール/ベイユ/クレペリン以降の神経解剖学的精神医学のはるか遠い前提条件である。
だが同時に、エーが Étude n°2 で示したように、ヒポクラテス集成全体は脳一元論には立たない。コス学派のヒポクラテス主義は、四つの基本側面――生気論 vitalisme、体液説 humorisme、危機論(コクション)crise et coction、自然主義 naturisme ――を統合する全体論的システムであって、機能を単独の解剖学的部位に還元する立場ではない。エーが書くように、「ヒポクラテス主義はその哲学において、ヘラクレイトス的『対立物の弁証法』に倣う自然哲学である……それが今日のわれわれにとってどれほど『現代的』かつ『ヘーゲル的』に見えるかが把握される[26]」。
ここでエー自身が引いた並走――「ヒポクラテス主義は現代のわれわれにとってヘーゲル的に見える」――は、本論文の発祥論的視角からは決定的な命題である。第六章で構築したヘーゲル=ピネル接続――ヘーゲル『精神哲学』1817年が「狂気は理性の内部における矛盾である」と定式化することによってピネルに最大の感謝を表明したこと――は、エーの命題のもとで、ヒポクラテスにまで遡る長期的構造の最終結晶化として読み直される。ヘラクレイトス的「対立物の弁証法」とヒポクラテス主義の動的統一の形而上学とは、二千数百年後にヘーゲル『精神哲学』を経由してピネル発祥論に接続する。
ヒポクラテス的システムにおいて、魂 ψυχή の構造そのものが、第四章で論じた非二元論的性格を確証する。エーが Étude n°2 p. 25 でヒポクラテス集成から要約しているように、「魂は火と水の混合である L'âme est un mélange de feu et d'eau。それはすべての部分の発展を主宰する……人間の魂は死に至るまで絶えず再生される。病気が魂を熱するとき、それは身体を貪り尽くすことに貢献する[27]」。火と水という基本元素の動的混合としての魂、身体の発展を内側から組織する原理としての魂、病気の進行に対して能動的に反応する魂――これらの規定はすべて、プラトン的二元論的軸ではなく、第四章でエーが同定したアリストテレス=ベルクソン的形相論的軸の中で読まれるべきものである。ヒポクラテス的「魂」は、すでに「物質的諸力の働きから分離されていない」(バセット)。
六 コス対クニドス――エーが捉えた医学史の二極性
アンリ・エーは『精神医学研究』Étude n°2 において、医学史を貫く構造的振動を同定した。コス島のヒポクラテス学派とクニドスの医学派――両者は近接するエーゲ海の島と小アジア沿岸都市にありながら、医学思想の二極を構成した――の対立を起源とする「力動論 dynamisme と機械論 mécanicisme の永遠の振動 balancement éternel」である[28]。
エーは自分の師ポール・ギロー P. Guiraud との対話から書き出している――「ある日、この優れた精神は私に言った――『つまるところ、患者を前にしたとき、私は《彼は病気を持っている il a une maladie》と言う。あなたは、《彼は病んでいる il est malade》と言う』。私は彼に、この根本的対立こそが医学諸学説の進化の全長を通じて常に争い、交替してきた二つの精神態度の所在であることを指摘した[29]」。
「患者が病気を持つ」と「患者が病んでいる」の対立は、エーにとって決定的な区別である。前者は、病気を患者から独立した「実体 entité」として捉える――独立した同定可能な存在として、患者の身体に侵入する「外来体 corps étranger」として、機械論的・分析的に研究されるべき対象として。後者は、病気を患者全体の状態として捉える――患者の生命の総体的反応として、内部から発する不均衡として、力動論的・総合的に研究されるべき過程として。
エーが要約するように、力動論 dynamisme は「生気論的、生物学的、体液論的、全体論的な構想であって、病気を『外来体』として考えることに比較的無関心である総合的病理学である」。機械論 mécanicisme は「機械論的、解剖学的、固形論的、原子論的な構想であって、『実体』『病気』を孤立化することを目指す分析的病理学である[30]」。
コス学派――ヒポクラテス、ポリュビオス、テナトス、ドラコン、ディオクレス・カリュステイオス、プラクサゴラス――は力動論の起源を成す。クニドス学派――クテシアス、エウリュピオン、クリュシッポス(紀元前336年、ストア派の哲学者とは別人)――は機械論の起源を成す。クニドス学派は解剖学者であり、形態学に関心を持ち、経験主義を採り、実体的疾患の孤立化と特定的医薬を目指した。これに対してコス学派は、患者全体の生気的反応として病気を捉える総合的医学を実践した[31]。エーが付随的に指摘するように、クニドスは「神託が切断を禁じた地峡によってアジア小細亜に繋がれており、その対岸にライバルであるコスが聳えていた」(テオポンポス Théopompe はこの対立について十二巻の書物を書いたという)。
ヒポクラテス自身がクニドス学派の方法を批判している。ヒポクラテス集成本文から、エーが Étude n°2 p. 25 で引用する一節は決定的である――「『各疾患の多様性を厳密に同定しようとして、彼ら〔クニドス学派〕は道を踏み外した。なぜなら、おそらく、ある疾患の種への分割の性格について、ある症例が他の症例とどう異なるかを研究し、この原則によれば同一に見えない各々の罹患に同一でない名を課そうとするならば、計数は容易ではないであろうから』[32]」。疾患を細目に分割し、各細目に異なる名称を与えること――この方法論的立場へのヒポクラテス自身による拒否は、本論文の長期的歴史構造観から決定的な一次資料を提供する。クニドス的「疾患の分類学」と、コス的「患者の総体的反応の構造分析」との二極性は、後の段落で示すように、21世紀の精神医学診断論争の遠い起源を成す。
エーはヒポクラテス的全体論を、ギリシア哲学的概念「ヒュロゾイズム hylozoïsme[物活論]」と同定している――「この『ヒュロゾイズム』は、全体を構成するヒポクラテス的有機体観のうちに見出される[33]」。物活論は、エレア派・ヘラクレイトス的形而上学に通じる前ソクラテス的立場で、物質と生命を分離せず、宇宙全体に内在的生命を認める。コス的力動論の哲学的基底は、現代的「全体論」「動的システム論」のような近代的概念よりも、この古代的ヒュロゾイズムにこそ求められるべきである。エーがここで指摘するように、ヒポクラテスの自然哲学は「エレア派に対するヘラクレイトス的対立物の弁証法」の影響下にあり、それは「生成と世界の動的統一の形而上学 une métaphysique du Devenir et de l'unité dynamique du monde」である。
エーは、この対立がギリシア哲学のより広い枠組みのなかに位置づけられることを示している――
古代ギリシア・ラテン医学の学説体系は、コス島のヒポクラテス医学をヘラクレイトスとエレア派の思弁に深く結びつけ、クニドスの医学派をアブデラ学派の原子論的機械論に結びつける。ポリュビオスの有名な『独断論 dogmatisme』はプラトンに、『気息論 pneumatisme』はゼノン[ストア派の祖]に、アスクレピアデスの『方法論 méthodisme』はエピクロスに[接続される][34]。
本論文の発祥論的視角からは、この並走の表が決定的な意味を持つ。気息論 pneumatisme がストア派(ゼノン)に接続される――これは前節で見たストア派的魂論(魂はプネウマ pneuma としての連続的空気である)と医学的気息論との同根性を示している。そしてピネルがストア派的情念論を採用したという事実は、エーの整理のもとで、彼が力動論的伝統に立つことを意味する。
エーが L. Robin『ギリシア思想 La pensée grecque』(1923年、p. 409)から引いて整理するように、エピクロスとゼノンの間の対立は複層的である――「エピクロスとゼノンの間においては、『対立は至るところにある、唯物論の地平における生気論と機械論の間に、前ソクラテス的後ろ盾の選択(ヘラクレイトスかデモクリトスか)において、つまり偶発的結合の代わりに目的論を……単純なものの集積の代わりに全的混合を。要するに、それらは差異というよりも反応であり、二つの哲学の corps à corps(肉迫)のようなものである』[35]」。ストア派的気息論(ヘラクレイトス=ヒポクラテス系列)と、エピクロス派的方法論(デモクリトス=クニドス系列)との対立は、こうして単なる学説的差異ではなく、「二つの哲学の肉迫」として描かれる。
後の歴史的展開もエーの整理に従う。ヘレニズム期、共通紀元直前に、気息論(アガトン、アルキゲネス・アパメイア、カッパドキアのアレタイオス)と方法論(アスクレピアデス、テミソン、エフェソスのソラノス)の対立が再現する。共通紀元1世紀のケルススと二世紀のガレノスは折衷主義 éclectisme を採ることで、両極を結合しようとした[36]。ルネサンスにおいても、パラケルススの新ヒポクラテス的化学医学 chimiatrie に対して、Harvey, Sanctorius, Borelli らの医原機械論者 iatromécaniciens がデカルトの機械論の覆いの下に避難する。エーが引用するバリーヴィ Baglivi の怒りは印象的である――「胃を蒸留器、心臓をバネ、内臓を篩、動脈を水力管、肺を鞴、筋肉を綱としか見ない者たちに対して」。
エーが描く長期的歴史は、本論文の発祥論的視角からは、ピネル発祥点に至る前史の構造的枠組みを提供する。力動論的伝統は古代から中世、ルネサンスを経て17世紀末のヴァン・ヘルモントとイギリスのヒポクラテスと呼ばれたシデナム、18世紀のシュタール・ホフマン・モンペリエ学派(バルテーズ)に至るまで、機械論的伝統と振動しながら継承される[37]。ピネルが1800年前後に立ち上げる「狂気における主体」認識装置は、この長期的振動のなかで、力動論的・全体論的立場を採る。狂気は実体(クニドス的解剖学的部位の病変)ではなく、患者の全体的状態(コス的全人的不均衡)として捉えられる。これが第六章で構築した「狂気は主体の全体に関わるが、しかしその全体を破壊することなく、主体がそのようなものとして自らを支える能力を動揺させる」というスウェイン的定式化の哲学的・医学的前提である。
コス/クニドス対立の射程は、しかし古代ギリシアとルネサンスに留まらない。本論文の発祥論的視角からは、エーが『精神医学研究』Étude n°3 で展開する決定的な命題を導入する必要がある――「医学諸学説の歴史は、機械論がもっとも本物の対立者であるヒポクラテス的伝統が、コスがクニドスに対立した闘い以来、常に『特定の実体 entités spécifiques』への興味の薄さを特徴としてきたこと、反対に、19世紀における反ヒポクラテス的医学の発展とともに、無数の解剖臨床的実体が必然的に開花することになったことを、常に示してきた[38]」。
すなわち、19世紀末から20世紀初頭の機械論精神医学――Wernicke, Meynert, Cramer, Westphal, Kahlbaum 達による「神経機械論的精神医学」――は、本論文の発祥論的視角からは、コス/クニドス対立におけるクニドス側の正統的継承者として同定される。エー自身が Étude n°3 において、19世紀機械論精神医学の三つの構造的特徴を同定している。第一に症候学の原子論的粉砕 pulvérisation atomistique――幻覚論の解体(Baillarger, Hagen, Michea, Kahlbaum, Kandinsky, Séglas)、強迫の細分化、症候の dissection。第二に機械論的病因論 genèse mécanique――失語症モデル(centres d'images)の精神病理一般への敷衍的拡張。第三に臨床的「実体」の nosographie――Bayle の進行麻痺発見以降、各精神病を独立した実体として同定しようとする試み[39]。これら三つは、ヒポクラテスがクニドス学派を批判した「疾患を細目に分割し、各細目に異なる名称を与える」立場の、二千年後の体系的洗練に他ならない。
本論文の長期的歴史構造観からは、コス/クニドス対立は古代の論争にとどまらず、ピネル発祥点以降の精神医学そのものを構造化する永遠の振動である。ピネル発祥点が力動論的伝統(コス的継承)に立つこと、1890年代のフランス精神医学がエーが述べる「乾燥化 desséchement」に向かってクニドス的継承へと逸脱したこと、20世紀器質力動論的精神医学(Moreau de Tours → Jackson → Janet → Bleuler → Ey)がヒポクラテス的源泉へ回帰したこと――これらすべては、エー Étude n°2 の「永遠の振動 balancement éternel」の二千五百年に渡る具体的諸相である。本章のコス/クニドス章は、こうして本論文全体の発祥論的視角の根幹を構成する。
七 体液説、気質論、危機論――19世紀へ続く構造
ヒポクラテス集成の生理学は、四つの体液の理論に立つ――粘液 phlegma、血液 haima、黒胆汁 melaina cholē、黄胆汁 xanthē cholē。これらに対応するのが、四つの器官(脳、心臓、脾臓、肝臓)、四つの気質(リンパ質、多血質、憂鬱質、胆汁質)、エンペドクレスの四元素(水、空気、土、火)、四つの性質(冷、湿、熱、乾)である[40]。
「体液の正しい混合 krasis、すなわち良好な健康の条件は、煮熟 pepsis によって行われる。『煮熟を受けたということは、体液にとって、混合され、互いに調和され、一緒に煮られたということである。』体液のクラース krasis の乱れ、すなわちディスクラジア dyskrasia が病気を引き起こす[41]」。
体液説は本論文の発祥論的視角から二重の重要性を持つ。第一に、それはヒポクラテス的力動論の中核を成す哲学的・医学的構造である。エーが Étude n°2 で書くように、体液説 humorisme は力動論 dynamisme の不可欠な側面であり、機械論 mécanicisme の固形論 solidisme(病気は固形組織における局所的変化である、という立場)と対立する。
第二に、体液説は19世紀の精神医学に至るまで、しばしば形を変えながら継承される。ピネルが『論考』初版で展開する情念論は、伝統的体液説と直接的に接続するわけではないが、ストア派的一元論を経由して、感情と身体の不可分性を主張する点で力動論的伝統の継承者である。19世紀後半のエスキロール、エドゥアール・グリージンガー、退化論的精神医学(モレル、マニャン)、ヤスパース、シュナイダーに至るまで、「気質 tempérament」概念は、形を変えて持続する。クレッチマーの体型気質類型論(1921年)、シェルダンの体型類型論(1940年代)も、ヒポクラテス=ガレノス的気質論の現代的継承形態として読みうる。
ただし本論文の発祥論的視角からは、ヒポクラテス的気質論を、クレッチマー・シェルダン的体型類型論の静的構成主義と区別する区別が必要である。エーが Étude n°2 p. 25 で要約するヒポクラテスの本来的気質観は、徹底して動的である――「気質とは存在の様態、すなわちその進化のある瞬間における個人の全機能的活動である。各個人の気質は瞬間ごとに変化する Le tempérament de chaque individu change à tout instant。だからこそヒポクラテスは人間を四季に比した。自然・歴史・人間・宇宙のすべてが、誕生・成長・成熟・死の諸相を通過するからである[42]」。気質の瞬間的変動性と、人間と四季との同型性――これらはピネル発祥点における力動論的継承の本来の形態であって、後の19世紀末から20世紀の体型類型論の静的構成主義はそこからの逸脱でもある。
ヒポクラテス的多因子的病因論もまた、本論文の発祥論的視角から重要である。エーが整理するように、ヒポクラテスは疾患の原因として「食事と運動の不均衡、風、沼地、水、空気、寒暖の変化、遺伝、伝染、生活条件、富と貧困、性的過剰、星辰と季節の運動[43]」を列挙する。遺伝と伝染がここに含まれている事実は、ピネル後の19世紀退化論的精神医学(モレル、マニャン)への前史としても、20世紀の細菌学的精神医学への前史としても重要である。ヒポクラテス的病因論はすでに、後にコス的継承(力動論的・体質論的)とクニドス的継承(機械論的・外来体的)に分岐する両潜勢力を、未分化のまま全体論的に統合している。
本論文の発祥論的視角からとくに重要なのは、メランコリーの系譜である。ヒポクラテスは『箴言集』で簡潔に定義した――「恐れと悲しみが長く続くなら、それはメランコリー状態である Si la crainte et la tristesse persistent longtemps, c'est un état mélancolique[44]」。メランコリーは black bile(メライナ・コレ)からの語源を持つ。黒胆汁の過剰が憂鬱質を生み、長く続けば病的メランコリーに転じる。
ケテルが指摘するように、「魂の病の中で最も哲学的なものは、ついに、メランコリーであり、魂と身体の関係の病そのものである……黒胆汁(メランコリア)は自分自身とその反対(甘苦い doux-amer)でありうるもので、嵐と凪を生み出す[45]」。アリストテレス『問題集』第30巻の有名な命題――「なぜ哲学、政治、詩、芸術において卓越したすべての人々は明らかにメランコリー質なのか?[46]」――は、メランコリーを単なる病理ではなく、創造性の根源とする哲学的読解の最古の表現である。
本論文の発祥論的視角からは、メランコリー概念の長期的持続が決定的な観察を成す。ヒポクラテスからアレタイオス、ガレノス、エフェソスのルフスを経て、中世のラテン医学に継承され、ルネサンスのフィチーノ、デューラー、バートンの『メランコリーの解剖 Anatomy of Melancholy』(1621年)、近代のキェルケゴール、ボードレール、ベンヤミンに至るまで、メランコリー概念は持続する。そしてピネル『論考』初版において、メランコリーはマニア、痴呆、白痴とともに精神疎外の主要種を構成する。第六章で論じたように、エスキロールはメランコリーを単一妄想症 monomanie の枠組みで再構成し、19世紀後半にファルレが循環性狂気(後の躁うつ病)の輪郭を描く際、メランコリーは抑うつ状態として再定式化される。クレペリン1899年の躁うつ病概念、ヤスパース・シュナイダー的内因性うつ病概念、現代の DSM 大うつ病概念に至るまで、ヒポクラテスの一文――「恐れと悲しみが長く続くなら、それはメランコリー状態である」――の影は持続している。
もう一つの重要な構造は、危機 crise と煮熟 coction の概念である。ヒポクラテス主義においては、病気は単なる外来的災難ではなく、生体の防衛反応である。コクション(煮熟)は、体液が病的状態から健康な混合状態へと変容する過程である。クリーゼ(危機)は、この変容がどちらの方向に決着するかの決定的瞬間である。エーが Étude n°2 で書くように、「『ヒポクラテスは』とブルセは書く、『急性疾患のうちに、生きている身体全体の総合的火災のようなものを見るようである。それは時に一つの領域でより強く発現して膿瘍を生じさせることを脅かし、時にすべての器官を等しく消尽するように見える』……自然は治療者である Natura medicatrix[47]」。
本論文の発祥論的視角からは、「自然は治療者である」というヒポクラテス的命題が、ピネル『論考』に至るまで継承される力動論的伝統の核心を成す。ピネルが採用する「道徳的治療 traitement moral」は、医師が治癒を産出する技術ではない――それは患者自身のうちにある自然的回復力を活性化する技術である。第六章で論じたピネルの「精神疎外者の見解に入り込む entrer dans les vues des aliénés」という治療的態度は、ヒポクラテス的「自然は治療者である」の遠い継承である。医師は外側から狂気を排除するのではなく、内側から狂気における主体と関係を結ぶ。これは「狂気は自然の中の出来事である」という古代以来の前提の最終的洗練である。
八 哲学から医学の分離――ケルススが書いたこと
ローマの医師アウルス・コルネリウス・ケルスス Aulus Cornelius Celsus(紀元1世紀、アウグストゥス帝時代)は、その『医学について De medicina』において重要な命題を残した――「ヒポクラテスが最初に、医学を哲学から分離した hippocrates primus medicinam a philosophia separavit」[48]。
この命題は本論文の発祥論的視角からは慎重に読まれなければならない。ケテルが指摘するように、「もし『クニドスの格言集 Sentences cnidiennes』のような先行する作品や、ヒポクラテスと同時代のソクラテスの考察を無視すれば、彼らも同様に医学と哲学を分離している。別の意味で、ヒポクラテスから哲学者という美しい名前を完全に取り去ることはできない。彼が『人生は短く、技術は長く、機会は逃げやすく、経験は欺き、判断は困難である』(『箴言集』)と書くときには[49]」。
医学と哲学の分離は、両者の絶縁ではなく、両者の関係の構造的再編である。ヒポクラテス以降、医学と哲学は別個の知的領域として自律しながら、しかし「医学・哲学的伝統 tradition médico-philosophique」のなかで相互に参照し合う。この構造は、本論文の発祥論的視角からは、第六章で構築したピネル『論考』のタイトル――「医学・哲学的論考 Traité médico-philosophique」――の遠い起源を成す。ピネルは医学と哲学の分離後の伝統に立ちながら、その両者を「医学・哲学的」結合として再統合する。
ケテルが第三章末尾で書くように、「マニアは紀元後2世紀後半から、診断に属する特定の病気として構成されるが、ヒポクラテスにおいてはむしろ症状であった……いずれにせよ一つの原則が獲得された。それは哲学の領域である魂の病と、医学の領域である身体的病気との区分である――たとえマニアにおいて魂への影響があるとしても。その時『医師は哲学することを控える』(ジャッキー・ピジョー)。こうして、カエリウスはマニアについて書いている――『最後に、この病気が本質的に魂の病気であり、二次的に身体の病気であると考える人々も間違っている。なぜならいかなる哲学者もこの病気を治したことがないからである。』要するに、狂気は医師たちのものである[50]」。
「狂気は医師たちのものである la folie appartient aux médecins」という命題は、本論文の発祥論的視角からは、決定的な前提を成す。だがこの命題には注意深い解釈が必要である。狂気が医師たちのものであるとは、狂気が哲学者から医師へ移管されたことを意味しない。むしろ、狂気が「医学・哲学的伝統」のなかに位置づけられたことを意味する。哲学者は魂の哲学を行い、医師は魂の医学を行う。そして両者は同じ問題空間――狂気の問題空間――を共有する。ピネルが1800年前後に「医学・哲学的論考」を書くとき、彼は二千年続いたこの問題空間の最終的洗練を試みているのである。
九 ストア派の情念論――ピネルへの遠い接続
本章のここまでの分析が収斂する場所は、ストア派の情念論である。ストア派――ゼノン、クリュシッポス、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス――は、魂の病を情念 pathos と同一視した独自の哲学的立場を展開した。
ストア派的情念論の中心命題は、ケテルが要約するように、「魂の病について最も考察したのはストア派で、それを情念と同一視した。ストア派はプラトン的な魂と身体の二元論の概念を拒否し、両者は彼らの目には分離不可能な『表裏一体』を構成する。感情、情念、悪徳、狂気(もともと自己監視の欠如として)の間には、本質の違いではなく程度の違いしかない[51]」。
もう一人のストア派であるセネカ(紀元後1世紀)は明確に書く――「精神は別個の座を持たず、外から情念を観察するのではない mais se change lui-même en passion[精神は自ら情念に変化するのである][52]」。
情念の構造は、ストア派にとって、魂の単独の能動的状態ではない。情念は魂が外的刺激に対して取る誤った判断 krisis の結果である。怒り、悲しみ、恐怖、欲望――これらすべては、外的事物を「善」または「悪」と判断する魂の認識的活動である。問題はこの判断が誤っていることである。ストア派の賢者 sophos は、外的事物に対して情念を起こさないが、それは情念を抑圧するからではなく、情念を生む判断を行わないからである。
本論文の発祥論的視角からは、ストア派的情念論の二重性が決定的な重要性を持つ。第一に、情念は魂全体の状態である――それは魂の一部の機能不全ではなく、魂が世界に対して取る総体的な誤った関係である。第二に、情念は同時に身体的状態でもある――ストア派的一元論において、情念は魂と身体の交差点における動揺である。
この二重性が、ピネル『論考』初版の中心的命題を予示する。第六章で論じたように、ピネルは狂気を「主体の全体に関わるが、しかしその全体を破壊することなく、主体がそのようなものとして自らを支える能力を動揺させる」ものとして捉えた。これはストア派的情念論の構造そのものである――情念(狂気の最も基底的な形態)は主体の全体に関わるが、主体を破壊しない。情念は判断の誤りであり、したがって原理的に正しい判断によって治癒されうる。だが情念は同時に身体的状態でもあるから、純粋に哲学的な治療(議論による説得)だけでは不十分である。情念は医学・哲学的伝統のなかで――身体と魂の交差点における処置によって――治療されなければならない。
ケテルが第六章で論じたピネルの自己定位を引用しよう――「ピネルは情熱に起源を持つ狂気についてのストア派の理論を採用していた……ちなみにピネルは、情熱を根絶しようとするストア派に従わない。彼は『情熱を互いにバランスさせる』ことを提案する[53]」。
ピネルがストア派の情念論を採用しながら、しかし「情熱を根絶する」というストア派的禁欲主義は採らないという命題は、本論文の発祥論的視角からは、2000年の哲学史を凝縮する瞬間である。ピネルは古代ストア派的一元論を継承しながら、その規範的次元(情熱の根絶=賢者の理想)を放棄する。彼が継承するのは構造的次元(情熱は魂と身体の交差点における動揺である)のみである。この取捨選択によって、ピネルは古代の哲学を現代の臨床医学へと変換する。
もう一つの接続――ピネルがキケロ『トゥスクルム荘対談集 Tusculanae disputationes』の熱心な読者であったという事実――は、この接続をさらに鮮明にする。キケロは『トゥスクルム』第3巻と第4巻で、ストア派的情念論を体系的に展開した。とりわけ第3巻におけるメランコリーと悲しみの分析、第4巻における情念の分類(欲望、恐怖、苦痛、快楽)は、ピネルが『論考』初版の情念論的考察のなかで参照したストア派的体系である。ピネルにおいて結晶化する「狂気における主体」認識装置の遠い祖先は、キケロ『トゥスクルム』を経由するストア派的情念論にある。
ジャッキー・ピジョー Jackie Pigeaud が『魂の病――古代医学・哲学的伝統における魂と身体の関係についての研究 La Maladie de l'âme: Étude sur la relation de l'âme et du corps dans la tradition médico-philosophique antique』(1981年、2006年再版)において同定したように、悲劇のメデイアにおける情念=疎外の構造は、本論文の発祥論的視角からは決定的な観察を提供する――
情念は疎外に等しい passion vaut aliénation、と悲劇は例証している。メデイアは……『私はどんな不幸/罪を犯そうとしているか理解している』と、エウリピデスは彼女に言わせる。しかし彼女の内臓は理解力よりも強く語る。彼女は他者になった。『他者が同一者に取って代わった、抑えきれない動きの中で。疎外はこのように理解しなければならない L'autre s'est substitué au même, dans un mouvement irrépressible. C'est ainsi qu'il faut comprendre l'aliénation』[54]。
ピジョーの定式――「他者が同一者に取って代わった、抑えきれない動きの中で。疎外はこのように理解しなければならない」――は、ピネル=エスキロール路線の「精神疎外 aliénation mentale」概念の最古の表現である。エウリピデス『メデイア』において、メデイアは自己でありながら同時に他者である――自分が何をしようとしているかを完全に理解しながら、抑えきれない動きの中でその行為に駆り立てられる。これは第六章で引用したエスキロール1814年「妄想 délire」項目――「妄想状態にある個人が震撼するのは他者の名誉のためではなく、自分のためである……このように理解の最も完全な混乱でさえ、自殺においてさえ、常に自我に還元することができる。それにもかかわらず、妄想状態の人間は自分自身の存在について内的感覚によって欺かれているのである」――の2000年前の予示である。
ストア派的情念論からピネル=エスキロール的精神疎外論への通路は、こうして明らかになる。ピジョーが指摘したように、エウリピデス=ストア派的「他者が同一者に取って代わった」という疎外の構造は、ピネル発祥論的視角からは、「狂気における主体」概念の最古の萌芽として読まれる。狂気における主体とは、自己でありながら同時に他者である主体である。自己と他者の分離が完了しないところに、ストア派からピネル=エスキロールに至る「医学・哲学的伝統」の中心的問題系がある。
十 古代の治療――道徳的治療の系譜
ケテルは第一部第四章「狂人は常に治療されてきた On a toujours soigné les fous」を以下のように開始する――「狂気についてのギリシア人とラテン人の理論的考察の豊かさは、劣らず豊かな治療的精緻化をもたらした。ヒポクラテスは、いつも彼から始めなければならないが、病気を記述するや否や、すぐにその治療法を示さずにはいられない。結局のところ、問題は病人なのである[55]」。
古代の治療体系は、本論文の発祥論的視角からは、ピネル『論考』に至る道徳的治療 traitement moral の遠い前史を成す。ヒポクラテス的医学において、治療は二極を持つ。第一極は身体的治療であり、これは体液の不均衡を是正するための排出剤(瀉血、吸い玉、蛭、ヘレボルスの根)、刺激剤(腐食剤、発赤剤、発疱剤)、緩和浴、塗油、浣腸を含む。
本論文の発祥論的視角から特別に重要なのは、ヒポクラテスの継承者たちが「狂気の治療のために、保持しているこれらの薬物療法に加えて、関係性療法全体を精緻化した thérapie relationnelle[56]」という事実である。ケテルがカエリウス・アウレリアヌスを引いて記述するように、その関係性療法は以下の要素を含む――
(一)患者を興奮させることを避ける。
(二)「固定観念から引き離す」ことで気を紛らわせる。
(三)能動的運動と受動的運動(カエリウスの言う gestatio、吊り下げたベッドでの揺動、でこぼこ道での輸送)を併用する。
(四)旅行を通じて「考えを変える」。
(五)音楽と演劇(アリストテレス『詩学』のカタルシス概念に立つ)を治療的に用いる。
(六)患者と理を尽くして話し合うが、反対したり、あまりに迎合的であってはならない。
これらの古代的関係性療法の要素のすべては、ピネル=エスキロール路線の道徳的治療において再現する。ピネル『論考』初版が処方する道徳的治療――精神疎外者の生活環境の組織化、医師の患者に対する権威と慈愛の併用、患者の固定観念への内側からの介入、規則的な労働と気晴らし――は、古代のカエリウス的関係性療法の継承であり、近代的洗練である。エスキロールが1838年に展開する精神病院装置 dispositif asilaire は、古代の家族内的関係性療法を、制度化された大規模空間における集合的・体系的関係性療法へと変換するものである。
もう一つの観察として、古代の治療には道徳的治療と権威的・暴力的治療の二重性が含まれることを指摘しておかねばならない。ケテルが書くように、「狂気の『治療』におけるこの力の伝統は、自分に似ていないものを拒絶する用意が常にある民衆の声だけでなく、狂気も情念と同様に自己責任であるとするストア派の学派からも生じている……医師であるにもかかわらず、ケルススは『医学について』という論文で、必要な時、特に『患者の大胆さを抑える』必要がある時には、叱責、飢餓、鎖、鞭、殴打に訴えることを恐れない。しかしこれは治療手段でもありうる。『恐怖、突然の恐れ、一言で言えば精神を著しく乱すことができるすべてのものは、この病気において有用である』[57]」。
ケルススの権威主義的治療法と、カエリウスがそれを批判する記述は、本論文の発祥論的視角から重要である。第六章で論じたように、ピネル『論考』第二版およびエスキロールの臨床的実践には、道徳的治療と権威的・暴力的治療(威圧、シャワー浴、鎖、拘束衣)の二重性が含まれていた。この二重性は、ケルスス=カエリウスの古代的論争の継承である。狂気を主体として扱うこと(道徳的治療)と、狂気を制圧する対象として扱うこと(権威的治療)の緊張は、二千年の医学・哲学的伝統のなかで反復される構造的問題である。
セネカは『ルキリウスへの手紙』第九四書簡で、永続するべき美しい命題を残した――「医学がすべてを治さないからといって、何も治さないわけではない sed non ideo nihil sanat quia non omnia[58]」。この古代ストア派的謙虚は、本論文の発祥論的視角からは、ピネル『論考』初版の慎重な治療観への前提を成す。ピネルは狂気の全症例を治癒可能と主張したのではない。彼が主張したのは、狂気が原理的に主体との関係において接近可能であり、したがって治療的試みが原理的に有意義であるということである。セネカ的「すべてではないが、何かは」という慎重な治療観は、ピネルが受け継いだ古代以来の道徳的治療の哲学的基盤である。
十一 結語――ギリシア的前提とピネル発祥点への接続、そしてエー器質力動論の自己定位
本章で展開してきた分析の到達点を整理しよう。
ギリシアにおいて、紀元前5世紀から紀元後2世紀までの7世紀の間に、精神医学発祥のための哲学的・医学的可能性条件のほぼすべてが結晶化した。ヒポクラテス『聖なる病について』が宣言した「狂気は神々の罰ではない、自然 phusis の中の出来事である」という構造的命題。プラトン・アリストテレス・ストア派が展開した魂の哲学。コス対クニドスの対立がもたらした力動論 dynamisme と機械論 mécanicisme の永遠の振動。ヒポクラテス=ガレノス的体液説と気質論。ストア派的情念論。古代の関係性療法――これらすべてが、二千年後にピネル『精神疎外あるいは躁病に関する医学哲学的論考』初版において結晶化する「狂気における主体」認識装置の遠い哲学的・医学的前提を構成する。
本章の構築は、しかし、ギリシアを単純な「前精神医学」として読むことを拒否する。古代ギリシアにおける狂気の理論化は、それ自体として独立した現象であり、ピネル発祥点への単純な準備段階ではない。ヒポクラテス『聖なる病について』が立てた構造的命題は、ピネル『論考』初版が立てた構造的命題と「同じ」ではない。両者の間には、二千年の哲学史と医学史の沈殿がある。だが二つの構造的命題の間には、本論文の発祥論的視角から同定しうる連続的問題空間がある。
この連続的問題空間が、本論文の発祥論的視角からは、エーの命題――「ヒポクラテス主義は現代のわれわれにとってヘーゲル的に見える」――の射程を明らかにする。エーが Étude n°2 で書いたこの命題は、ヒポクラテスとヘーゲルが「同じ」ことを言ったということを意味しない。それは、ヘーゲル『精神哲学』1817年が定式化した「狂気は理性の内部における矛盾である」という命題が、ヒポクラテス主義の動的統一の形而上学を哲学的に再構成するものだということを意味する。そしてヘーゲルがピネルに最大の感謝を表明したという事実は、ヘーゲル=ピネル接続が同時にヘーゲル=ヒポクラテス接続でもあることを意味する。ピネル発祥論的視角からは、ピネル=ヒポクラテスの接続は、エーの長期的歴史構造のなかで読まれる。
そしてこの長期的構造観は、エー自身の哲学的自己定位によって明示的に authorize される。エーは Étude n°7「精神医学の器質力動論的構想の諸原理 Principes d'une conception organo-dynamiste de la psychiatrie」p. 174 において、自らの器質力動論的精神医学の哲学的・医学的源泉を、明示的にヒポクラテスに置いている――「一般病理学において、われわれは病気の力動論的構想に依拠している、そのヒポクラテス的源泉に遡る en remontant à sa source hippocratiqueのである。すなわち、病気とは身体的有機体の改変、病態であり、そこで偶発と反応とが、その構造的組織化によって、症候を形成する[60]」。自らの器質力動論を「ヒポクラテス的源泉に遡る運動」として自己定位するエーの宣言は、本論文の長期的歴史構造観に対する、エー自身による確証である。
Étude n°7 末尾(p. 186)で、エーはさらに踏み込んで、器質力動論の「貴族証 lettres de noblesse」を以下のように定式化する――
「以上が、医学の最も古い伝統に結びつく aux plus anciennes traditions de la science médicale se rattacheある教義的運動の貴族証である。精神医学において、それは19世紀の機械論的発展によって文字通り窒息させられ littéralement étouffé、次いで機械論精神医学への激しく必然的な反応のなかで精神発生論的(psychogéniste)理論によって覆われたが、これまで体系的仮説の形を見出しえなかったとはいえ、われわれの科学の優れた先駆者たちによって擁護されてきた。Moreau de Tours は、中毒物の影響下における精神活動の水準低下を『根本的事実 fait primordial』として明らかにし、Jackson はてんかんの解離運動を研究し、Janet は精神神経症の機能的劣化を分析し、Bleuler は分裂病過程における自閉の複雑な働きを発見した[61]。」
この一節において、エーは器質力動論的精神医学の長期的構造を、三つの位相に整理している。第一に、「医学の最も古い伝統」すなわちヒポクラテス的力動論への結びつき。第二に、19世紀機械論精神医学による「窒息 étouffement」――本章第六章末尾で論じたコス的継承からクニドス的継承への離反。第三に、Moreau de Tours - Jackson - Janet - Bleuler 系列を経由する器質力動論的回帰――エー自身による、ヒポクラテス的源泉への回帰。本論文の発祥論的視角は、まさにこのエーの自己構造化と完全に同型である。
そしてエーは Étude n°4 p. 74 において、自らの力動論的・生命論的立場を、世界と同じく古い哲学的系列の中に位置づける――第四章で引用したこの一節は、ここで本章結語の文脈において再度想起されるべきである――「[力動論的視角は] 世界と同じく古い。それはアリストテレス、聖トマス、より近くではヘーゲルとベルクソンの哲学を通じて、その様々な提示様態を辿ることができる。それは医学において真のヒポクラテス的精神と不可分である[62]」。アリストテレス→トマス→ヘーゲル→ベルクソンという四点の哲学的系列を、エーは「真のヒポクラテス的精神 le véritable esprit hippocratique」と明示的に同一視している。
本論文の発祥論的視角は、ここでエーの長期的構造観の中に完全に統合される。ヒポクラテス(前5世紀)→アリストテレス(前4世紀)→聖トマス(13世紀)→ヘーゲル(19世紀初頭)→ピネル(1800年前後)→ Moreau de Tours, Jackson, Janet, Bleuler(19世紀末〜20世紀初頭)→エー(20世紀中葉)――この連続体は、本論文がギリシア章において構築した「医学・哲学的伝統 tradition médico-philosophique」の二千五百年に渡る具体的展開である。本章のギリシア章は、本論文の他章(第二章中世、第三章ルネサンス、第四章古典主義時代、第五章革命前夜、第六章ピネル発祥点)への基盤を提供するのみならず、エー自身が器質力動論的精神医学の自己定位として明示的に整理した長期的構造を、その最古層において基礎づけるものである。
そしてエー自身が Étude n°3 p. 52 で明示するように、この二千五百年の連続的問題空間のうちに、ピネル発祥点という決定的な構造的閾が存在する――「精神医学的医学は既に二十五世紀前から存在していた。しかしピネルとともに一瞬にして閃光が走った D'un seul coup, avec PINEL, l'étincelle a jailli」。本論文の発祥論的視角の中核命題――ピネル1800年前後における「狂気における主体」認識装置の組み立て――は、エーの長期的構造観のうちに、本論文を超えて持続するエーの哲学的・医学的伝統のうちに、基礎づけられている。本論文がギリシア章で展開した発祥論的視角は、エーの個人的解釈の一つを継承するというより、エー自身の歴史認識の中核命題そのものを、その最古層的可能性条件において再構成する作業である。
本章を、ケテルが第二章末尾で引用したジャッキー・ピジョーの言葉で閉じよう――
古代人は魂の病の哲学的治癒についても考察した。それはエウテュミア euthymia である。セネカ(『心の平静について De tranquillitate animi』)はそれを『自分自身に対して好意的な魂 une âme bienveillante à l'égard d'elle-même』と定義し、ディスティミア dysthimia[自分自身を嫌うこと。自分と共にいることを楽しまないこと]の対極に置く。ジャッキー・ピジョーはエウテュミアに、哲学から医学への最も進んだ先端を見る pointe la plus avancée de la philosophie vers la médecine。『ヒポクラテスへの手紙』と題された哲学小説において、デモクリトスはヒポクラテスに、哲学の知識は医学の姉妹であり『同じ屋根の下に住んでいる sœur de la médecine et vit sous le même toit』と答える[59]。
哲学と医学が同じ屋根の下に住んでいるという古代の命題は、本論文の発祥論的視角からは、ピネル『医学哲学的論考』のタイトルに至る通路の最古の表現である。そしてセネカ的エウテュミアの概念――「自分自身に対して好意的な魂」――は、第六章で構築した「狂気における主体」概念の哲学的遠縁である。狂気における主体とは、自己からの距離と自己への持続を同時に保つ主体である。エウテュミアの主体とは、自己と平和な関係を結びうる主体である。両者の構造的並走は、偶然ではない。そしてエーが器質力動論の自己定位において、自らの臨床医学的立場の「源泉ヒポクラテス」への回帰として宣言したものは、まさにこの「哲学と医学が同じ屋根の下に住む」古代的命題の、20世紀中葉における再活性化に他ならない。