第二章 中世の閾

理論・実践・表現の三重性
Le seuil du Moyen Âge
La triplicité de la théorie, de la pratique et de la représentation
松石竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Editio altera · MMXXVI

一 問題の設定――なぜ中世を「閾」として位置づけるか

精神医学史の概説書において、中世はしばしば「暗黒時代」として戯画化されてきた[1]。狂気は悪魔憑きと同一視され、患者は呪術師と聖職者の手に委ねられ、医学的合理性は古代の遺産とともに失われた――この常套句が、17世紀の啓蒙主義以降、繰り返し再生産されてきた。本論の四者比較において重要なのは、フーコー、エー、スウェイン、ケテルのいずれもが、この戯画化された中世像を採用していないという共通点である。四者は方法論的にも結論においても深く対立しているにもかかわらず、中世を「精神医学の暗黒の前史」として一蹴することにおいては一致して拒絶している。

しかし、四者が同様に拒絶する理由は同一ではない。フーコーにとって中世は、近代理性が狂気を排除する前の「狂気との対話」が成立していた時代であり、15世紀末から16世紀にかけての「狂気の船(Narrenschiff)」のテーマがそれを象徴する。ケテルにとって中世は、ガレノス医学の継承と病院制度の萌芽が認められる時代であり、彼の歴史記述はフーコー的なロマン主義を実証史学によって解体する。エーにとって中世は、ヒポクラテス医学のアラブ世界経由の継承を通じて、医学的精神病理学の連続性が保持された時代である。そしてスウェインにとっては――興味深いことに――中世はほとんど主題化されない。彼女の主体性論にとっての発祥点はピネルの「象徴的決断」(1793–1801)にあり、中世はその前史としても直接の関心の対象とならない。

本章はこれら四者の中世観の異同を整理した上で、検討を通じて、中世が精神医学の発祥にとってもつ意味を「閾(threshold)」として規定する。「閾」とは、それを越えれば新しい領域に入るが、それ自体は新しい領域ではない、という両義的な位置を指す。中世は精神医学を生み出さなかった――この命題に四者が同意するならば、何が中世にあって、何がそこに欠けていたか、を問うことができる。

本章で論じる中世の三重性とは、(一)理論――アラブ世界経由のガレノス医学の継承と神学的合理化、(二)実践――修道院医学から大学医学への移行、宗教施設と医療の交錯、(三)表現――文学・神秘思想・図像における狂気の現れ、を指す。これら三層がそれぞれに豊かでありながら、それらが「精神医学」を構成するに至らなかった理由を把握することが、本章の目的である。

二 四者の中世観の梗概――フーコー、エー、スウェイン、ケテル

フーコーの中世観は、『狂気の歴史』序論部および第一部の冒頭において提示される[2]。彼の中心命題は、中世末期から17世紀半ばまでの時期に、狂気が「世界の真理を語る声」としての象徴的地位を保っていた、というものである。「狂気の船」は実在の習慣としては実証されえない――この点はケテルが詳細に検証する――が、ボッシュやブリューゲルの絵画、エラスムスの『痴愚神礼讃』、シェイクスピアの道化に至るまで、狂気が真理を逆説的に告げる者として表象されていた事実をフーコーは重視する。彼にとって中世から近世初頭にかけての時期は、近代理性の専制が確立される以前の、より開かれた認識の地平であった。

ケテルの中世観は、これとは異なる経験的精度をもって構築される[3]。彼は中世を四つの局面に分けて記述する。第一に、初期中世(6–11世紀)におけるキリスト教化と狂気の悪魔学的解釈の優位。第二に、11–12世紀のアラブ医学のラテン世界への流入と医学的合理性の再導入。第三に、13–14世紀のスコラ哲学による神学と医学の調停。第四に、14–15世紀末の都市化と社会的施設の萌芽。ケテルは「中世は単一の時代ではない」という方法論的立場をとり、各局面における理論・実践・表現の重層性を記述する。彼のフーコー批判の核心は、中世末期の「狂気の船」が文学的・図像学的テーマとしては存在したが、実在の習慣として一般化されていたわけではない、という実証的指摘にある。

エーの中世観は、彼の精神医学史研究、とりわけ Études Psychiatriques 第2巻に収められた「精神医学の歴史的諸段階(Les étapes historiques de la psychiatrie)」のなかに見出される[4]。エーの基本的把握は、中世はヒポクラテス医学の連続性が保持された時代であり、医学的精神病理学――身体と魂の有機的関連にもとづく狂気の理解――が断絶していなかった、というものである。彼にとって重要なのは、中世医学がアヴィセンナ、ラージ、コンスタンティヌス・アフリカヌスを介してガレノスを継承し、メランコリア、マニア、フレニーティス、レタルギアといった古代の疾患分類が学校的に伝承されていた事実である。エーがしばしば言及する「ヒポクラテス主義はヘーゲル的に見える」という命題は、第一章でも論じたとおり、中世のスコラ的体系化を通過してはじめて意味をもつ。

スウェインの中世観は、彼女の主体性論において直接の主題ではない。Le sujet de la folie および La pratique de l'esprit humain のいずれにおいても、中世は前史として簡潔に言及されるにとどまる[5]。しかしこの簡潔さ自体が重要である。スウェインの命題――精神医学の発祥は「狂気における主体としての主体」の認識にある――が成立するためには、中世にこの認識が不在でなければならない。スウェインの中世観は否定的に、すなわち「主体性の不在」として規定される。本章は、この不在を検討によって積極的に確認する作業として位置づけられる。

これら四者の梗概を比較すると、ある重要な事実が浮かび上がる。フーコーは中世を「対話」として、ケテルは「経験的継承」として、エーは「医学的連続性」として把握する点で異なるが、いずれも中世それ自体には「狂気における主体」の把握が成立していなかったことを認めている。フーコーの「狂気との対話」は主体と主体の対話ではなく、人間と「世界の他者性」との対話である。ケテルの「経験的継承」は症候学的記述の蓄積であって、患者の主体性の認識ではない。エーの「医学的連続性」は身体的病理の把握であって、精神疾患を「主体の病」として捉えるものではない。スウェインが中世を主題化しない理由はここにある――彼女の立場からすれば、中世には「狂気における主体」が不在であるがゆえに、精神医学はまだ発祥していない。

このような四者の収斂は、本論の中軸命題――スウェイン立場の採用――にとって重要な含意をもつ。中世における主体性の不在をどう同定するか、これが本章の中心問題である。以下、理論・実践・表現の三層を順に検討する。

三 ギリシア医学のアラブ世界経由の継承――アヴィセンナと『カノン』

中世西方医学におけるギリシア医学の主要な伝達路は、9–12世紀のアラブ医学を経由するものであった[6]。バグダードのフナイン・イブン・イスハーク(Hunayn ibn Ishaq, 809–873)の翻訳事業を通じて、ガレノスの主要著作はギリシア語からシリア語、そしてアラビア語へと移植された。ラージ(Rhazes、アル・ラーズィー、865頃–925)、アヴィセンナ(イブン・スィーナー、980–1037)、アヴェロエス(イブン・ルシュド、1126–1198)が、これを継承し体系化した。

ラテン西方への伝達は、11–12世紀のサレルノ、トレド、シチリアにおける翻訳活動を通じて行われた。コンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus, 1020頃–1087頃)はモンテ・カッシーノ修道院においてフナイン経由のアラビア語医学書をラテン語に翻訳し、これがサレルノ医学派の基礎となる。トレドにおいてはクレモナのジェラルドゥス(Gerardus Cremonensis, 1114–1187)がアヴィセンナの『医学典範(Kitab al-Qanun fi al-Tibb)』をラテン語訳『Canon medicinae』として完成させた。これによりアヴィセンナはラテン西方の医学教科書の中心となり、その地位はパドヴァ・ボローニャの医学部において17世紀まで揺るがなかった。

『医学典範』第3巻第一篇は「頭部の諸疾患(De morbis capitis)」を扱い、メランコリア(malincholia)、マニア(mania)、フレニーティス(phrenitis)、レタルギア(lethargia)、リカントロピア、コリ等の精神疾患を体系的に記述する。アヴィセンナの記述はガレノスの体液論を継承しつつ、より精密化された四体液配合論を提示し、メランコリアの三型(脳由来、全身由来、消化器由来)の区分を確立する。重要なのは、彼が病因論において自然的原因(食物・気候・気質)と心理的原因(悲嘆・恐怖・愛欲)を区別しつつ、両者を体液変化を媒介として統合的に把握している点である。

しかしここで注意を要するのは、アヴィセンナの体系における「主体」の位置である。アヴィセンナにとって患者は体液配合の不均衡(discrasia humorum)という自然的状態の担い手であって、「狂気における主体」――自らの狂気を内側から経験し意味づける主体――としては概念化されていない。治療は患者の身体に対する処置であって、患者の自己理解への介入ではない。この点は、後にピネル=エスキロールが結晶化させる「道徳的治療(traitement moral)」――患者を主体として遇する治療――とは原理的に異なる。

第一章で見たヒポクラテス『聖なる病について』の自然主義的姿勢が、アヴィセンナにおいては高度に体系化されているが、しかしその体系の内部には、ピジョーが言うところの「他者が同一者に取って代わる」ような主体性の自己同一性問題は提起されていない[7]。中世医学がギリシア医学の連続性を保持したのは事実だが、それは古代医学の到達点を継承したのみであって、それを越える主体性の認識には至らなかった。エーが中世を「医学的連続性」として把握するとき、彼が言及しているのはまさにこの両義性――伝統の保持としての偉大さと、それを越えないことの限界――である。

四 ラテン中世における体液説の再受容――サレルノ学派とコンスタンティヌス・アフリカヌス

サレルノ医学派は、11–12世紀にイタリア南部の港町サレルノを中心として形成された医学的伝統である。コンスタンティヌス・アフリカヌスの翻訳活動を基礎として、ラテン医学はギリシア・アラブ医学の遺産を組織的に吸収した[8]。サレルノにおける医学教育は、修道院医学から徐々に独立し、世俗的な医学教育機関の萌芽となった。12世紀のサレルノは「ヒポクラテスの町(civitas Hippocratica)」と称され、ヨーロッパ各地から学生を集めた。

サレルノ学派の精神医学的記述のうち、特に重要なのが、コンスタンティヌスがフナインの『憂鬱論』をラテン訳した『De melancholia』である[9]。この書物において、メランコリアは「思考の倒錯」として定義される。

Melancholia est alienatio cogitationis ab altero cogitato in alterum, eo quod cogitatio retinetur in re una ultra solitam quantitatem, et propter hoc fit timor cum tristitia sine causa apparenti.

メランコリアとは、思考の一つの対象から他の対象への倒錯であり、思考が一つの事象に通常の時間を超えて固定されることによって生じる。そしてこのことから、見える原因なしに悲しみを伴う恐怖が生じる[9]

この定義の注釈として三点が重要である。第一に、「alienatio cogitationis」――思考の倒錯――という用語は、後の精神医学における「精神疾患(aliénation mentale)」の語源的祖型をなす。ピネルが1801年に著した『精神疾患の医学=哲学的論考(Traité médico-philosophique sur l'aliénation mentale)』のタイトルにあるこの語が、コンスタンティヌス経由のアラブ・ガレノス医学にまで遡る伝統用語であることは、確認しておく必要がある。第六章で論じたピネルの語彙選択は、彼の古典的教養と中世医学的伝統との交差点に位置づけられる。

第二に、「timor cum tristitia sine causa apparenti」――見える原因なしに悲しみを伴う恐怖――という定義は、ヒポクラテスの『箴言集(Aphorismi)』第6巻二三にすでに見られる定式(ἢν φόβος ἢ δυσθυμίη πολὺν χρόνον ἔχουσα διατελῇ, μελαγχολικὸν τὸ τοιοῦτον――もし恐怖あるいは憂鬱が長時間続くならば、それはメランコリックなものである)を継承しつつ、その因果的次元を「見える原因の不在」によって精緻化したものである。第一章で論じたコス学派の体液論的伝統がアラブ世界を介して中世西方に伝達された一例である。

第三に、しかしこの定義のなかにも、患者の主体性は問題化されていない。メランコリアは患者の認識装置の「客観的状態」として記述されるのであって、患者自身がメランコリアを「私の経験」として把握する次元は、欠如している。サレルノ学派の医学は高度に発達した症候学であったが、それはガレノス的体系の継承と精緻化であって、それを越える地平には到達しなかった。

サレルノ学派から大学医学への移行を象徴するのが、13世紀のベルナルドゥス・ゴルドニウス(Bernardus de Gordonio, 1260頃–1318頃)の『Lilium medicinae(医学の百合)』である[10]。モンペリエ大学で教鞭をとったベルナルドゥスは、コンスタンティヌス=アヴィセンナ伝統を継承しつつ、それを大学的・スコラ的に体系化した。彼の精神疾患論は、メランコリア、マニア、リカントロピア(狼狂症)、アモル・ヘレオス(amor hereos、恋愛狂)、フレニーティスを区別し、それぞれの体液論的病因、症候、治療法を網羅的に提示する。

特に注目すべきは、アモル・ヘレオス――愛欲による狂気――の体系化である。ベルナルドゥスは、過度の性的欲望が脳の前室における判断能力の毀損を引き起こし、患者が一人の対象に固定されることによって生じる病態として記述する[10]。これは、第六章で論じたエスキロールの「モノマニー(monomanie)」概念の遠い先駆をなす。もっとも、エスキロールが患者の「主体的観念」としてモノマニーを記述するのに対し、ベルナルドゥスはあくまで体液論的・客観的状態として記述する点で、両者には決定的な距離がある。同じ臨床現象(一つの対象への固定)を、一方は患者の主体的固定として、他方は体液の客観的不均衡として把握する――この差異が、ピネル発祥論を成立させる前提をなす。

五 神学と医学の境界線――トマス・アクイナスにおける自然と恩寵

中世の精神疾患の理解において、医学的記述と神学的解釈は並列していた。重要なのは、両者が原理的に対立していたわけではなく、むしろ13世紀のスコラ哲学において体系的に調停されたという事実である[11]。トマス・アクイナス(Thomas Aquinas, 1225頃–1274)の『神学大全(Summa Theologiae)』第一部第八四問および第二部-一第八〇問は、人間の精神能力とその障害について論じる。彼の基本的立場は、「自然は恩寵を破壊せず、これを完成させる(gratia non tollit naturam, sed perficit)」という原則のもと、医学的(自然的)狂気と神学的(超自然的)狂気を区別しつつ、両者を統一的に位置づけることである。

医学的狂気――体液論的に説明される精神障害――は、自然的原因にもとづく自然的現象である。トマスはこれをアリストテレス的・アヴィセンナ的体液論の枠内で位置づけ、医師の管轄下に置く。一方、悪魔憑き(possessio daemoniaca)は超自然的原因にもとづく超自然的現象であり、教会の管轄下に置かれる。両者の区別は重要である――トマスは両者を混同せず、それぞれに固有の認識論的・実践的領域を認めた。

しかし、この区別は決して安定したものではなかった。境界事例の判定は、聖職者と医師の共同作業に委ねられた。ベルナルドゥス・ゴルドニウスの『Lilium medicinae』は、メランコリアの一型として、患者が「自分は悪魔に憑かれている」と訴える状態を記述するが、これを体液論的疾患として扱うべきか悪魔憑きとして扱うべきかは、症候学的判定の対象となる[10]。エーが中世を「医学的連続性」として把握するとき、彼が指摘するのはこの自然主義的判定の枠組みが中世全体を通じて保持されていたという事実である[4]

この聖職者と医師の共同的判定という事態は、1215年の第四ラテラノ公会議によって制度的な基礎を与えられる。同公会議の教令第二十一条「Omnis utriusque sexus」は、分別の年齢(annos discretionis)に達したすべての信徒に年一回の告解を義務づけた最初の普遍的立法であるが、この条文において告解司祭は「魂の医師(medicus animarum)」と規定され、悔悛者の罪という傷を、熟練した医師のごとく診断し治療する者として位置づけられた[19]。これに続く第二十二条は、逆に身体の医師に対して、治療に先立って患者に司祭を呼び霊的健康を顧みるよう勧告することを義務づける。罪を魂の疾患とみなし、その治癒(cura)を司祭の管轄とするこの発想は、グレゴリウス一世『Regula pastoralis』以来の「魂の配慮(cura animarum)」の伝統に連なり、さらに遡ればヘレニズム哲学の「精神指導(psychagogia)」にまで系譜を辿りうる。実際、告解への医学的言語の適用は1215年に突如始まったのではなく、神学と医学理論の双方を学んだ12世紀パリ学派の聖職者世代のもとで、その半世紀前から準備されていた[23]。トマスにおいて理論的に調停された医学と神学の境界は、こうして告解という実践の場では、聖職者を「魂の医師」とする制度的隠喩のうちに具体化されていたのである。この制度的隠喩が、しかし「狂気における主体」の成立を意味するものではないことは、第十節において改めて検討する。

ここで本論にとって重要な観察が成立する。エーの第二期発祥論――ルネサンスのウィエール対ボダン論争(1563–1585)を「自然/超自然の分節化の結節点」とする論――において、中世のトマス的調停は、まだ完全な分節化に至っていない分節状態である。トマスは医学と神学を区別したが、両者を統一的な人間学の枠内に保持した。彼の人間学において、知性、意志、感情はそれぞれ独自の機能をもつが、同時に超自然的恩寵による完成へと方向づけられている。狂気もまた、自然的次元と超自然的次元の両面から把握されうる。

ウィエール(Johann Weyer, 1515–1588)が『De praestigiis daemonum』(一五六三)において、やがてなすことになる極論的主張――「悪魔的とされる現象のほとんどはメランコリアという自然的疾患である」――は、トマスにはまだ存在しない。トマスにとっては、悪魔憑きは現実の超自然的事象であり、医学的疾患と区別されつつも、それと並列する独自の領域である。エーが「自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化」を発祥論の核心とするとき、彼が示唆しているのはこの中世から近世への決定的移行である。中世のトマス的調停は、この分節化の不完成性として規定される。

しかし本論文の発祥論的視角からは、トマスの位置はもう一つの長期的構造のなかで読み直されるべきである。エーは『精神医学研究 Études Psychiatriques』Étude n°4「精神医学の医学諸科学における位置」p. 74 において、力動論的・生命論的視角の哲学的系列を「世界と同じく古い aussi vieille que le monde。それはアリストテレス、聖トマス Saint Thomas、より近くではヘーゲルとベルクソンの哲学を通じて、その様々な提示様態を辿ることができる。それは医学において真のヒポクラテス的精神 le véritable esprit hippocratique と不可分である」と定式化する[18]。アリストテレス→聖トマス→ヘーゲル→ベルクソンという四点の哲学的系列を、エーは「真のヒポクラテス的精神」と明示的に同一視している。

この観察のもとで、トマス・アクイナスは二重の発祥論的位置を持つ。第一に、彼は本章で論じたように、自然と超自然の境界線の未完成な調停者として、エー第二期発祥論(ルネサンス Wier-Bodin 論争)の前史を構成する。第二に、しかし同時に、エー Étude n°4 の系列においては、彼はアリストテレス的形相論的単一性をスコラ哲学的に継承し、ヘーゲル弁証法(1817年『精神哲学』におけるピネル承認、第六章四節で詳細に論じた)を経由してエーの器質力動論的精神医学(20世紀中葉)に至る「真のヒポクラテス的精神」の中世段階としての位置を占める。トマスの中世的位置のこの二重性――一方では未完成な調停者、他方ではヒポクラテス的精神の中世的継承者――は、本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」が長期的構造として基礎づけ、第六章ピネル章が1800年前後の発祥点として同定した連続体の中世段階を成すものである。

これは、第三章(ルネサンスの章)の予告である。中世の閾的位置は、この分節化の不完成性として把握される。中世は自然的領域と超自然的領域を区別したが、それらをまだ完全には分離しなかった。エー的発祥論にとっての重要な歴史的契機は、この未分離状態の解消、すなわち自然領域の自律化である。

六 修道院医学から大学医学へ――実践の制度化

中世前期の医学的実践は、ベネディクト会修道院を中心に展開した[12]。聖ベネディクトゥス(Benedictus Nursinus, 480頃–547頃)の『戒律(Regula)』第三六章「病める兄弟について(De infirmis fratribus)」は、病者の看護を修道生活の中核的義務として位置づける。

Infirmorum cura ante omnia et super omnia adhibenda est, ut sicut revera Christo ita eis serviatur, quia ipse dixit: Infirmus fui et visitastis me.

病める者の世話は、すべてに先んじてかつすべてを超えて為されなければならない。彼らに対しては、まさにキリストに対するごとくに仕えるべきである。なぜならキリスト自身が「私は病めるときに、汝らは私を訪ねた」と語られたからである[12]

この精神に基づき、修道院は薬草園、医療室(infirmaria)、施療所を備え、医学知識を体系的に保存・伝承した。9世紀のサンクト・ガレン修道院の設計図には、医療施設の詳細な配置が示されている。モンテ・カッシーノ修道院は、すでに述べたとおり、コンスタンティヌス・アフリカヌスのラテン訳活動の本拠地であった。

しかし重要なのは、修道院医学が精神疾患について体系的記述を残していないという事実である。修道院の文脈において、精神的混乱の主要な解釈枠組みは「アケーディア(acedia、霊的怠惰)」であった[13]。エヴァグリオス・ポントス(Evagrius Ponticus, 345–399)以来、アケーディアは「正午の悪霊(daemon meridianus)」として記述され、修道士を襲う一種の精神的危機を指す。これは医学的疾患ではなく、霊的試練として理解された。アケーディアの記述は驚くほど精密で、現代の臨床的「うつ病」の症候とほぼ完全に重なる――食欲の喪失、無気力、社会的引きこもり、自己嫌悪、絶望感――しかしそれは医学的疾患としてではなく、修道生活の霊的危機として、すなわち治療ではなく精神的指導の対象として把握された。

この事実は本論の中軸命題にとって示唆的である。中世の修道院は、後に精神医学が記述することになる現象を、驚くほど精密に観察し記述していた。しかしそれを「精神疾患」として、すなわち医学的治療の対象として構成する地平には到達しなかった。アケーディアは霊的指導と祈りと労働によって克服されるべきものであり、医師の管轄下にはない。同じ臨床現象を、後の精神医学は「うつ病」として医学化することになる――この転換が中世にはまだ起きていない。

12世紀以降、医学的実践の中心は修道院から大学へと移行する。サレルノ、モンペリエ、ボローニャ、パリ、オクスフォードに医学部が設立され、医師は世俗的職業として確立される。第三ラテラン公会議(1179年)および第四ラテラン公会議(1215年)は、聖職者の医学実践に制約を加え、医学を世俗的領域として明確化した。

この移行は、精神疾患の医学的把握にとって重要な制度的基盤を提供した。大学医学部における体系的教育は、アヴィセンナ、コンスタンティヌス、ベルナルドゥスの著作を教科書として、精神疾患の症候学的記述を学校的に再生産した。しかしここでも観察が成立する――大学医学部の医学教育は、ガレノス=アラブ的体系を体系的に伝授することにはきわめて成功したが、それを越える新しい認識を生み出すことはなかった。中世大学医学は伝統の継承であって、伝統の革新ではない。

七 収容施設の前史――ベツレヘム、サンタ・マリア・ヌオーヴァ、ヴァランシエンヌ

精神病院(asylum)の前史として、しばしば言及されるのが、13世紀イングランドのベツレヘム聖マリア病院(1247年創設)である[14]。後にベドラム(Bedlam)として悪名を博すことになるこの施設は、創設当初は十字軍に関連する宗教施設であり、精神病者の収容を主要任務としていたわけではない。アンドリュース(Jonathan Andrews)らの実証的研究によれば、ベツレヘムが精神病者の収容に特化するのは14世紀末以降のことである。1403年の王室調査委員会の報告書において、はじめて「精神錯乱者(mente capti)」六名の在籍が記録される。

中世の都市における精神病者の処遇は、地域差が大きかった。フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院(1288年創設)は総合病院として精神病者をも収容したが、彼らに対する特別な治療法は存在しなかった。ヴァランシエンヌの「狂者の塔(Tour aux fous)」は14世紀の都市行政の産物であり、社会的隔離を主目的とした。これらは現代的意味での「精神病院」ではなく、社会的厄介者の収容施設である。

ケテルの実証的歴史記述が反フーコー的に重要な論点を提示するのは、ここである[3]。フーコーが『狂気の歴史』において、1656年の「大監禁(Grand Renfermement)」を分水嶺として、それ以前は狂気が「対話」のもとに置かれていたと主張するとき、ケテルは中世末期からすでに収容実践は萌芽していた事実を指摘する。「大監禁」は突発的事件ではなく、漸進的傾向の制度的固定にすぎない――この立場は、第四章(古典主義時代の章)で詳論する。

しかし本章で重要なのは、これら中世末期の収容実践が、いかなる意味でも医学的治療制度ではなかったという事実である。狂者の塔は刑罰的・社会防衛的施設であり、医師の関与は最小限であった。サンタ・マリア・ヌオーヴァは慈善病院であり、精神病者は身体病者と同じく救護の対象であったが、彼らに対する特別な治療理論は存在しなかった。ベツレヘムにおいても、15世紀の記録は鎖と独房と粗末な食事を主とする監護的処遇を示しており、医学的治療の場ではなかった。中世の収容実践は精神医学の制度的前史をなすが、それはまだ精神医学的実践ではない。

ピネル発祥論にとってこの事実は重要である。第六章で論じたとおり、ピネルが1793–1801年に行った「象徴的決断」――鎖からの解放と道徳的治療の制度化――は、収容施設そのものの新設ではない。ビセートル病院もサルペトリエール病院も、ピネル以前から存在した。彼の革新は、既存の収容施設の内部に、精神病者を「治療の対象」として遇する新しい認識を持ち込んだことにある。中世末期からの収容実践の延長として、しかしそれを質的に転換するものとして、ピネル発祥論は成立する。

八 幻視と医学の交差点――ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの『フィシカ』『カウサエ』

中世における精神現象の表現として、しばしば過小評価されるのが、ベネディクト会修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098–1179)の医学的・神秘的著作である[15]。彼女の『フィシカ(Physica)』および『カウサエ・エト・クラエ(Causae et curae、原因と治療)』は、修道院医学の到達点を示しつつ、同時に幻視的・神秘的経験を医学的記述と区別なく包含する。

ヒルデガルトの精神疾患記述のうち、特に注目すべきは「精神錯乱(insania)」の分類である。彼女は、メランコリア(憂鬱型)、フレネーシス(狂躁型)、アメンティア(無心型)、霊的混乱(spiritualis turbatio)を区別する。最後の型は、悪霊の作用による狂気を医学的疾患と区別する点であり、トマス的調停の修道院的先駆をなす。彼女の記述は、修道院医学が単なる伝承的継承ではなく、独自の臨床的観察を含んでいた事実を示す。

しかしヒルデガルトにおいて重要なのは、彼女自身の幻視体験(visiones)が、医学的記述と並存しつつも、それと区別される領域として保持されていたという事実である。彼女は『スキヴィアス(Scivias、汝の道を知れ)』および『リベル・ディヴィノルム・オペルム(Liber divinorum operum、神的働きの書)』において、自らの幻視を詳細に記述するが、それを病的状態とは認識せず、神からの啓示として認識した。

この自己認識は重要である。ヒルデガルトは自らの異常な経験を「内側から」――主体として――把握する稀有な事例を示すが、しかしこの主体性は宗教的・神秘的領域に閉じられており、医学的記述の対象とはならない。彼女は他者の精神錯乱を医学的に記述し、自らの幻視を神学的に記述する。この二領域は、彼女の意識のなかで明確に分離されていた。

ピネル=エスキロール的な「狂気における主体としての主体」――患者が自らの狂気を主体として把握しつつそれを医学的観察の対象とすること――の認識は、ヒルデガルトにはまだ成立していない。彼女が示すのは、宗教的主体性と医学的客体性の並列であって、両者の交差ではない。第六章で論じたピネル=エスキロールの「道徳的治療」が成立するためには、患者の主体性が医学的観察の対象として認識される必要がある。中世の最も精緻な精神現象記述者であるヒルデガルトにおいても、この交差はまだ起きていない。

九 文学における狂気――宮廷文学・民衆文学・トリスタンとイヴァン

中世文学における狂気の表現は、医学的記述と並行しつつ、しばしばより豊かな心理学的洞察を含んだ[16]。クレチアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)の『ライオン騎士イヴァン(Yvain, le chevalier au lion)』(1177–1181頃)において、主人公イヴァンは妻ローディーヌに見捨てられた後、森に入って狂気に陥る[17]

Une si grant ire et tel duel ot / Que il en perdi le sans. / Si grant duel a, qu'il ne sot mot, / Que il fuit ses gens et fuit son sens.

それほどの怒りと悲嘆を抱き、彼はそれによって正気を失った。それほどの悲嘆を抱き、彼は何も知らずに、人々から、自らの理性から逃げた[17]

このイヴァンの狂気は、過度の感情――怒りと悲嘆――による「正気の喪失(perdi le sens)」として記述される。狂気はもはやガレノス的体液論ではなく、人間的経験のドラマの一部として現れる。イヴァンは森で半年を過ごし、隠者の助けと魔法の軟膏によって正気に戻る。彼の狂気は身体的疾患ではなく、過度の感情による魂の混乱として描かれる。

トリスタン伝説における「狂気のトリスタン(La Folie Tristan)」もまた、同様の構図を示す。トリスタンは恋人イゾルデに再び会うため、意図的に狂人を装って王宮に潜入する。狂気は文学的装置として、社会的境界を越える特権を提供する。フーコーが『狂気の歴史』において狂気の「真理を語る声」としての象徴的地位を強調するとき、彼が念頭においているのはまさにこの種の文学的伝統である[2]

しかしここでも注意が必要である。中世文学における狂気の表現は、確かに患者の内的経験への接近を提示するが、それは文学的・修辞的な接近であって、医学的・治療的な認識ではない。イヴァンの狂気を治療したのは医師ではなく隠者と魔法であり、トリスタンの狂気は実在の狂気ではなく演技された狂気である。中世文学は狂気を語ることを可能にしたが、それを医学的に把握する地平を生み出すことはなかった。

この点は、第一章で論じたヴェルギリウス『アエネイス』第4巻のディドとの比較において、明確になる。ディドは古代後期において、後の精神医学が「情念の病理」として記述することになる現象の文学的先駆をなす。ピネルが1785年の弟宛書簡においてディドを参照したのは、まさにこの文学的形象を臨床的に再構成する企図においてであった。中世文学のイヴァンやトリスタンと、近代精神医学が参照することになる古代文学のディドの差異は、文学的豊かさの差ではなく、その後の医学的受容の有無の差である。中世文学は狂気を語ったが、それを医学化する歴史的回路はまだ開かれていなかった。

十 中世における主体性の不在――スウェイン立場からの検証

以上の三層――理論、実践、表現――の検討を通じて、中世における「狂気における主体としての主体」の不在が確認される。本節では、これを総合的に整理する。

理論の層において、アヴィセンナからベルナルドゥスに至るスコラ的医学は、狂気を高度に体系化された症候学的対象として把握したが、患者を主体として遇する地平には到達しなかった。患者は体液配合の不均衡という客観的状態の担い手であって、自らの狂気の内側からの語り手ではない。スコラ的医学は症候学の精密化において卓越したが、患者の経験を医学的記述の対象とする視角を欠いていた。

実践の層において、修道院医学から大学医学への移行は、医学を社会的職業として制度化することに成功したが、精神病者の処遇は宗教施設と社会的隔離施設に分散され、医学的治療制度として統合されることはなかった。中世末期の収容実践は精神医学的実践ではなく、社会的厄介者の処理であった。ベツレヘム、サンタ・マリア・ヌオーヴァ、ヴァランシエンヌは精神医学の制度的前史をなすが、それはまだ精神医学的実践の場ではない。

表現の層において、ヒルデガルトの幻視および文学における狂気の表現は、患者の内的経験への接近を提示したが、これらの接近は宗教的・文学的領域に閉じられており、医学的把握の対象とはならなかった。狂気を語ることと、狂気を医学的に治療することは、中世においては別個の領域であった。両者の交差は、近代精神医学の発祥――ピネル=エスキロールの「道徳的治療」――を待たねばならない。

これらの三層の総合として、中世は「狂気における主体としての主体」の認識を生み出さなかった、と結論することができる。これは中世の欠陥ではなく、その固有の在り方である。中世は古代医学を継承し、それを神学的・哲学的に再構成し、文学的に表現することに成功した。しかし、これらすべての営みは古代的・継承的・統合的な枠組みのなかで遂行されたのであって、それを越える新しい認識――患者を主体として遇する「道徳的治療」の認識――を生み出すことはなかった。

ここで、この結論に対して提起されうる最も強力な反論を検討しておかねばならない。それは告白=告解の系譜に基づく反論である。フーコーは、晩年の一連の仕事――『性の歴史Ⅰ 知への意志』における「告白する科学(scientia sexualis)」の分析、コレージュ・ド・フランス講義『Du gouvernement des vivants』(1979–80)、および死後刊行された『肉の告白(Les aveux de la chair)』(『性の歴史Ⅳ』、2018年)――において、内面を言語化し自己を審問する告白の技術こそが、西欧的主体の形成、ひいては精神医学・精神分析を含む人間諸科学の系譜的母胎をなすと論じた[20]。とりわけ第五節で見た第四ラテラノ公会議が義務づけた年一回の告解は、ドゥルモーが浩瀚な研究で示したように、西欧人の良心を内省的に精緻化し、比類なき「自己認識(connaissance de soi)」の装置として機能した[21]。テントラーもまた、告解という制度が「罪責を生み出すと同時に罪責を癒す(to cause guilt as well as cure guilt)」心理的――文字どおり心理学的な――機構であったことを論じている[22]。さらに十一・12世紀における「個人の発見」を主題化する一連の中世史研究は、告解の内面化が西欧的個人意識の成立に与えた影響を強調してきた[24]。もしこれらの議論が正しいなら、中世はむしろ内面化された自己審問の主体を産み出していたのであって、本節の「主体性の不在」という結論は撤回されねばならないのではないか。

しかし、この反論は本論の言う「主体」の概念を取り違えている。告解が産み出したのは罪の主体(sujet de la faute)――自らの罪過を内省的に言語化し、司祭の媒介を通じて赦しへと向かう、道徳的・悔悛的主体――である。これは確かに内面性の主体ではあるが、スウェインの言う「狂気における主体」とは構造を異にする。決定的なのは次の点である。告解の前提は理性の使用であった。第四ラテラノ第二十一条が告解義務を「分別の年齢に達した後(postquam ad annos discretionis pervenerit)」と限定したように、有効な告解には理性と分別の働きが不可欠であり、理性を欠く者――幼児および狂者(amentes, furiosi)――は告解の主体たりえなかった[19]。すなわち告解の主体は構成的に理性的主体であり、狂者はまさに狂者であるがゆえにこの主体から排除されていた。告解が精緻化したのは、罪を犯し、それを内省し、赦しを乞いうる理性的良心の主体であって、狂気のただ中にありながらなお理性の残余を保ち、施療者の語りかけに応じうる「狂気における主体」ではない。前者の成立は後者を少しも含意しない。むしろ、狂者を理性的主体の領域から排除するこの構造こそ、スウェインの命題――「狂気における主体」の認識が中世に不在であったこと――を、否定するどころか裏側から確証するものである[5]。フーコー的告白系譜が描くのは精神医学の前史の一断面ではあっても、それは罪と良心の主体の系譜であって、狂気の主体の系譜ではない。両者の混同こそ、ピネル=エスキロールの「道徳的治療」における質的断絶――狂者をなお対話可能な主体として遇するという象徴的決断――の新しさを見えなくするものであり、本論がフーコー的連続主義に与しない理由の一つもここにある。

スウェインの中世観の簡潔さは、この認識に基づく。彼女が中世を主題化しないのは、中世が無視できる時代だからではなく、中世が彼女の主体性論にとって構成的に「不在」の時代だからである。スウェインの命題――精神医学の発祥は「狂気における主体としての主体」の認識にある――が成立するためには、中世にこの認識が不在でなければならず、検証はこの不在を肯定的に確認する。

この不在の確認は、本論の四者比較構造において重要な含意をもつ。フーコーは中世末期の「狂気の船」を、近代理性の専制以前の対話的時代として浪漫化する。ケテルはこれを実証史的に解体する。エーは中世医学の連続性を強調することで、ヒポクラテス=アヴィセンナ=ピネルの「医学的連続性」を主張する。スウェインは中世を主題化しないことで、ピネルの「象徴的決断」の質的新しさを際立たせる。これら四者の中世観の異同を整理すると、四者比較の構造そのものが浮かび上がる――中世における主体性の不在は、四者すべてに共通する認識でありながら、四者それぞれの発祥論において異なる役割を果たす。

十一 結語――閾としての中世から、ルネサンスの分節化へ

中世は精神医学の「閾」をなす。この閾は、それを越えれば精神医学に入るが、それ自体は精神医学ではない、という両義的な位置を指す。中世医学はアラブ世界を経由してガレノス的精神疾患学を継承し、スコラ哲学はこれを神学的に統合し、修道院医学から大学医学への移行はこれを制度的に伝承した。これらすべては、後の精神医学の発祥の物質的・知的・制度的前提をなした。

しかし、これらの前提は精神医学そのものではない。何が中世にあって、何がそこに欠けていたか――この本章冒頭の問いに対する回答は、次のように定式化することができる。中世にあったのは、(一)古代医学的体系の継承、(二)神学による合理的調停、(三)社会的施設の萌芽、(四)文学的・神秘的表現の豊かさである。そこに欠けていたのは、(一)「狂気における主体としての主体」の認識、(二)医学的治療を制度として組織化する地平、(三)医学と神学と文学を「精神医学」という統一的領域として再構成する歴史的契機である。

これら三つの欠如のうち、最初の――主体性の認識の不在――こそが、スウェインの命題の核心をなす。第二・第三は、ピネル発祥論の制度的・歴史的前提として、第六章ですでに論じた。中世の閾は、これら三つの欠如を同定するための回顧的観点として機能する。

本章で論じなかった重要な歴史的事件として、14–15世紀の黒死病(1347–1351)と、それに続く中世末期の社会的変動がある。シェーデル(Hartmann Schedel)が『ニュルンベルク年代記(Liber chronicarum)』(一四九三)に記録するように、15世紀末のヨーロッパは「世界の終末」の予感と「狂気の船」のテーマが交錯する時代であった。フーコーが『狂気の歴史』においてこの時代を分水嶺として扱うのは、ある程度まで正当である――これは中世から近世への移行期であり、新しい認識の地平が萌芽する閾の閾である。

しかし、フーコーの記述は中世末期のテーマを過剰に強調する傾向にある。「狂気の船(Narrenschiff)」の実在性についてのケテルの実証的検証――それが文学的・図像学的テーマとして存在したことは確かだが、実在の習慣として一般化されていたわけではないという指摘――は、フーコー的ロマン主義に対する重要な修正である[3]。本章で論じた中世の三重性――理論・実践・表現の重層性――は、このロマン主義的単純化を解体するための資源を提供する。

次章(第三章「ルネサンスをめぐる解釈の対立」)においては、エーがルネサンスを「自然と超自然の分節化、自然領域の自律化」の時代として、フーコーがこれを「狂気の排除」の前史として把握する対立を検討する。ウィエール対ボダンの論争(1563–1585)が、エー的発祥論の結節点として浮上する。中世のトマス的調停が、ルネサンスにおいていかに分節化されたか――この問いに対する四者の回答の異同が、次章の中心問題をなす。中世の閾を越えた先に何が起こったか。本章はこの問いの前提を整備する作業として位置づけられる。

Notes
[1] 中世を「暗黒時代」とする戯画化された見方に対する実証的修正の概観については以下参照。Roy Porter, Madness: A Brief History, Oxford University Press, 2002, chap. 2 "Gods and Demons"。同様の修正は Andrew Scull, Madness in Civilization: A Cultural History of Insanity, Princeton University Press, 2015 にも見られる(引用箇所:一章)
[2] Foucault, M. Histoire de la folie à l'âge classique. Paris: Plon, 1961; 再版 Gallimard "Tel", 1972. 序論部および第一部第一章「狂気の船(La nef des fous)」(特に pp.15-56, Gallimard版)。中世末期の「狂気の船」表象に関するフーコーの論述は、本論第三章および第四章でも引き続き検討する(引用箇所:二章、九章、十一章)
[3] Quétel, C. Histoire de la folie de l'Antiquité à nos jours. Paris: Tallandier, 2009. 特に第二部「中世(Le Moyen Âge)」第一章~第四章。ケテルによるフーコー批判の核心は、「狂気の船」が文学的・図像学的テーマとしては存在したが、実在の慣行として一般化されていなかったという実証的指摘にある。本章では主としてケテルの整理に依拠した(引用箇所:二章、七章、十一章)
[4] Ey, H. Études Psychiatriques. Tome II. Paris: Desclée de Brouwer, 1950. 特に Étude n° 20 "Les étapes historiques de la psychiatrie"。エーの中世観は、医学的精神病理学の連続性を強調する立場として、本論全体を通じて重要な対比軸をなす(引用箇所:二章、五章)
[5] Swain, G. Le sujet de la folie. Naissance de la psychiatrie. Toulouse: Privat, 1977. および Swain, G. & Gauchet, M. La pratique de l'esprit humain. L'institution asilaire et la révolution démocratique. Paris: Gallimard, 1980. 後者の序論「精神医学の主体(Le sujet de la psychiatrie)」がスウェイン立場の方法論的提示として参照される(引用箇所:二章、十章)
[6] Pormann, P. E. & Savage-Smith, E. Medieval Islamic Medicine. Edinburgh: Edinburgh University Press, 2007. アラブ医学のラテン世界への伝達過程の標準的概説。フナイン・イブン・イスハーク、コンスタンティヌス・アフリカヌス、クレモナのジェラルドゥスの翻訳事業の詳細を含む(引用箇所:三章)
[7] Pigeaud, J. Folie et cures de la folie chez les médecins de l'antiquité gréco-romaine. La manie. Paris: Les Belles Lettres, 1987. 「他者が同一者に取って代わる」というピジョーの命題は、第一章九節および第六章五節で詳論したとおり、古代から近代への狂気概念の連続性と断絶を考えるための重要な装置である(引用箇所:三章)
[8] Siraisi, N. G. Medieval and Early Renaissance Medicine: An Introduction to Knowledge and Practice. Chicago: University of Chicago Press, 1990. 中世大学医学の制度史および知識史の標準的概説。サレルノ学派からモンペリエ、ボローニャ、パリへの医学教育の伝播を扱う(引用箇所:四章)
[9] Constantinus Africanus. De melancholia. Editio: Garbers, K. Ishaq ibn Imran: Maqala fi-l-malihuliya (Abhandlung über die Melancholie) und Constantini Africani Libri duo de melancholia, Hamburg: Helmut Buske Verlag, 1977. なおコンスタンティヌスの『De melancholia』はイスハーク・イブン・イムラーン(Ishaq ibn Imran, 9世紀末-10世紀初)のアラビア語著作のラテン訳であり、その先祖はフナインのガレノス翻訳に遡る。本章引用箇所の和訳は校訂版ラテン語テクストからの拙訳(引用箇所:四章)
[10] Bernardus de Gordonio. Lilium medicinae. 初版 Naples ca. 1480; 標準参照版 Venice: Bonetus Locatellus, 1496. 現代学術版は McVaugh らによる校訂作業中。アモル・ヘレオス論については Mary Wack, Lovesickness in the Middle Ages: The Viaticum and its Commentaries, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1990 が標準的研究(引用箇所:四章、五章)
[11] Thomas Aquinas. Summa Theologiae. Pars I, qq. 75-90 (人間の魂と知性について); Pars II-I, qq. 22-48 (情念について); Pars II-II, q. 175 (脱魂について). 校訂版 Leonine Edition, Rome, 1888-。仏訳および和訳は多数存在。トマスにおける医学と神学の調停については以下参照。Pierre Michaud-Quantin, La psychologie de l'activité chez Albert le Grand, Paris: Vrin, 1966(引用箇所:五章)
[12] Benedictus Nursinus. Regula, cap. 36 "De infirmis fratribus". 校訂版 Hanslik, R. (ed.) Benedicti Regula, CSEL 75, Wien: Hoelder-Pichler-Tempsky, 1960. 和訳は古田暁訳『聖ベネディクトの戒律』(すえもりブックス、2000年)等。修道院医学の概観については Carole Rawcliffe, Medicine and Society in Later Medieval England, Stroud: Sutton, 1995 参照(引用箇所:六章)
[13] Evagrius Ponticus. De octo spiritibus malitiae; Antirrheticus. アケーディアの精神医学的・歴史的考察については以下参照。Stanley W. Jackson, Melancholia and Depression: From Hippocratic Times to Modern Times, New Haven: Yale University Press, 1986. 第三章「中世の melancholia と acedia」。アケーディアと現代「うつ病」概念の連続性問題については本論第三章でも扱う予定(引用箇所:六章)
[14] Andrews, J., Briggs, A., Porter, R., Tucker, P. & Waddington, K. The History of Bethlem. London: Routledge, 1997. 特に第一-三章がベツレヘム病院の中世から近世初頭にかけての制度史を扱う。中世末期の収容施設史については以下も参照。Roy Porter, Mind-Forg'd Manacles: A History of Madness in England from the Restoration to the Regency, London: Athlone, 1987(引用箇所:七章)
[15] Hildegard von Bingen. Causae et curae. Editio: Kaiser, P. (ed.) Hildegardis Causae et curae, Leipzig: B.G. Teubner, 1903. および Moulinier, L. (ed.) Beate Hildegardis Cause et cure, Berlin: Akademie Verlag, 2003 (Rarissima mediaevalia 1). Physica: Editio: Hildebrandt, R. & Gloning, T. (eds.) Hildegard von Bingen: Physica, 3 Bde., Berlin: De Gruyter, 2010. ヒルデガルトの精神医学的記述については Victoria Sweet, Rooted in the Earth, Rooted in the Sky: Hildegard of Bingen and Premodern Medicine, London: Routledge, 2006 参照(引用箇所:八章)
[16] Doob, P. B. R. Nebuchadnezzar's Children: Conventions of Madness in Middle English Literature. New Haven: Yale University Press, 1974. 中世英文学における狂気の主題的分析の古典的研究。Sylvia Huot, Madness in Medieval French Literature: Identities Found and Lost, Oxford: Oxford University Press, 2003 がフランス文学を扱う対応する研究(引用箇所:九章)
[17] Chrétien de Troyes. Yvain, ou le Chevalier au Lion. Édition critique: David F. Hult (éd.), Chrétien de Troyes: Le Chevalier au Lion (Yvain), Paris: Le Livre de Poche "Lettres gothiques", 1994. 引用箇所は vv. 2806-2809 付近の古フランス語原文に基づく拙訳。トリスタン伝説の「狂気のトリスタン」については以下参照。Joseph Bédier (éd.), Les deux poèmes de la Folie Tristan, Paris: Société des Anciens Textes Français, 1907(引用箇所:九章)
[18] Henri Ey. « La position de la psychiatrie dans le cadre des sciences médicales (La notion de « maladie mentale ») ». Études Psychiatriques, t. I, Étude n°4. Paris: Desclée de Brouwer, 1948; rééd. CREHEY 2006, p. 74. 力動論的・生命論的視角の哲学的系列をアリストテレス→聖トマス→ヘーゲル→ベルクソンとして整理し、「真のヒポクラテス的精神 le véritable esprit hippocratique」と医学において不可分と定式化する箇所。本論文第一章四節および結語、第六章四節および結語においても参照されるエーの長期的構造観の中軸命題(引用箇所:五章)
[19] Concilium Lateranense IV (1215), Canon 21 « Omnis utriusque sexus » および Canon 22. 校訂テクストは Tanner, N. P. (ed.), Decrees of the Ecumenical Councils, vol. 1, London / Washington D.C.: Sheed & Ward / Georgetown University Press, 1990, p. 245(ラテン語・英語対訳)。第二十一条はすべての信徒に年一回の告解を義務づけた最初の普遍的立法であり(それ以前に告解そのものを義務化する規定は存在しなかった)、告解司祭を「魂の医師(medicus animarum)」と規定する。告解義務を「分別の年齢に達した後(postquam ad annos discretionis pervenerit)」と限定する文言は、有効な告解の前提として理性の使用を要求するものであり、第十節の議論の鍵をなす。なお、告解制度の起源を325年・787年のニケーア公会議に求める通俗的理解は誤りであり、義務的個人告解の制度的画期は本第四ラテラノ公会議(一二一五)に求められる(引用箇所:五章、十章)
[20] Foucault, M. Histoire de la sexualité I : La volonté de savoir. Paris: Gallimard, 1976(「告白する科学 scientia sexualis」をめぐる議論); Du gouvernement des vivants. Cours au Collège de France 1979-1980. Paris: Gallimard / Seuil / EHESS, 2012; Histoire de la sexualité IV : Les aveux de la chair. Éd. Frédéric Gros. Paris: Gallimard, 2018. 告白=告解(aveu)を西欧的主体および人間諸科学の系譜的母胎とするフーコーの議論。ただし『肉の告白』が主として扱うのは2–5世紀の教父であり、中世の義務的告解制度については主として『知への意志』および講義録を参照した。フーコー的告白系譜への本論の批判的距離は、別稿のフーコー『狂気の歴史』批判と連動する(引用箇所:十章)
[21] Delumeau, J. L'aveu et le pardon. Les difficultés de la confession, XIIIe-XVIIIe siècle. Paris: Fayard, 1990. および同 Le péché et la peur. La culpabilisation en Occident, XIIIe-XVIIIe siècles. Paris: Fayard, 1983. 13世紀以降の義務的告解が西欧人の良心を精緻化し「自己認識(connaissance de soi)」の装置として機能する一方、scrupule(疑念癖)の病をも生み出したとするドゥルモーの大著。告解が「自己認識への比類なき寄与」であったとする評価は本論の反論の前提をなす(引用箇所:十章)
[22] Tentler, T. N. Sin and Confession on the Eve of the Reformation. Princeton: Princeton University Press, 1977. 告解を「罪責を生み出すと同時に罪責を癒す(to cause guilt as well as cure guilt)」心理的機構として分析する古典的研究。告解の心理学的機能を強調する点で本論第十節の反論側の論拠を構成する(引用箇所:十章)
[23] 告解司祭を医師に擬する「魂の医師(medicus animarum)」「魂の配慮(cura animarum)」の伝統については以下参照。Biller, P. & Minnis, A. J. (eds.), Handling Sin: Confession in the Middle Ages, York: York Medieval Press, 1998; Hamilton, S. The Practice of Penance, 900-1050, Woodbridge: Boydell, 2001. 罪を魂の疾患とみなす発想はグレゴリウス一世『Regula pastoralis』(「魂の統治は技術中の技術なり ars est artium regimen animarum」)に遡り、さらにヘレニズム哲学の「精神指導(psychagogia)」と結ばれる。告解への医学的言語の適用が1215年以前、12世紀パリ学派において準備されていた点については近年の中世医学・宗教史研究が論じている(引用箇所:五章)
[24] 告解の内面化と「個人の発見」をめぐる中世史の議論については以下参照。Morris, C. The Discovery of the Individual, 1050-1200, London: SPCK, 1972; Kramer, S. R. Sin, Interiority, and Selfhood in the Twelfth-Century West, Toronto: Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 2015. これらは告解実践と結びついた自己認識の変容を論じるが、その「内面性の主体」は罪の主体(sujet de la faute)であって、本論の言う「狂気における主体」とは区別されねばならない(引用箇所:十章)
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