一 問題の設定――ルネサンスはなぜ最大の係争点なのか
本論文の四者比較において、ルネサンス(14世紀末-17世紀初頭)は最大の解釈的係争点を構成する。フーコー『狂気の歴史』第一部第一章「Stultifera Navis」は、この時代を「狂気との対話」が成立していた特権的時代として描く[1]。エー1971年フーコー批判論文は、まさにこの同じ時代を「精神医学の誕生の場」として位置づけ、「精神医学の誕生の日付はルネサンスに対応する La date de la naissance de la Psychiatrie correspond à la Renaissance」と定式化する[2]。同じ時代について、本論文が比較する二人の主要解釈者が正反対の評価を下す――この事実が、本章の中心的問題を構成する。
ケテルは経験的歴史家として、両者の対立に介入する[3]。「狂気の船 la nef des fous」が文学的・図像学的テーマとして存在したことは認めるが、それを「実在の習慣」として一般化したフーコー的読解を実証史学によって解体する。スウェインは、これまでの章と同様に、ルネサンスを直接の発祥点とは見ない[4]。彼女にとって発祥点はピネル(1800年前後)であり、ルネサンスは前史的「妊娠期 la période de gestation」の構成要素として、構造的に「不在」の位置を占める。
本章の課題は、これら四者の異なる位置取りを整理しつつ、エーの中軸命題――ルネサンスにおける「自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化」――の正当性を、ヨハン・ウィエール対ジャン・ボダンの論争(1563–1585)を結節点として検証することにある。中世のトマス的調停(第二章五節)が、ルネサンスにおいていかに分節化されたか、そしてこの分節化が精神医学の発祥にとっていかなる意味を持つか――この問いに答えることが、本章の中心問題である。
本章は、第二章(中世)と第四章(古典主義時代)の間に位置し、本論文の発祥論的アーキテクチャの結節点をなす。中世が精神医学発祥の「閾」を構成したとすれば(第二章十一節)、ルネサンスはその閾を分節化することによって、近代古典主義時代の制度的変動(第四章で詳論する1656年「大いなる監禁」)と1800年前後のピネル発祥点(第六章)に至る通路を開く「閾の閾」を構成する。
二 四者のルネサンス観の梗概
フーコーのルネサンス観は、『狂気の歴史』第一部第一章「Stultifera Navis(狂者の船)」に展開される[1]。彼の中心命題は、ルネサンスを「狂気との対話」が成立した特権的時代として位置づけることである。中世末期の「狂気の船」イコノグラフィ(ヒエロニムス・ボッシュ、ピーテル・ブリューゲル)、エラスムスの『痴愚神礼讃』(1511年)、シェイクスピアの道化、セルバンテス『ドン・キホーテ』に至るまで、狂気は「世界の真理を逆説的に告げる声」として表象されていた。フーコーにとってこの時代は、近代理性の専制が確立される以前の、より開かれた認識の地平であった。
エーのルネサンス観は、1971年のフーコー批判論文(『精神医学の進化』誌、第36巻、243–258頁)に最も明確に展開される[2]。エーの中軸命題は短く明確である――「精神医学の誕生の日付はルネサンスに対応する」。彼にとってルネサンスは、狂気が独自の自然現象として現出するための哲学的・人間学的閾――自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化――が確立した時代である。第六章で論じたように、この発祥論的命題は、ヨハン・ウィエール(1515–1588)と『De praestigiis daemonum』(1563年)を結節点とする。
ケテルのルネサンス観は、フーコーとエーの両者に対する経験的歴史家としての修正の立場をとる[3]。フーコーに対しては、「狂気の船」が実在の習慣として一般化されていなかった事実を実証的に指摘する。エーに対しては、ルネサンスにおける「精神医学の誕生」を過大評価することなく、その時代における狂気の処遇の実態――宗教的解釈の継続、魔女裁判の頂点、医学的把握との並走――を記述する。ケテル『狂気の歴史』第二部後半および第三部冒頭が、本章の主要参照箇所となる。
スウェインのルネサンス観は、彼女の主体性論において直接の主題ではない[4]。『Le sujet de la folie』および『La pratique de l'esprit humain』のいずれにおいても、ルネサンスは「妊娠期」の一部として簡潔に言及されるにとどまる。これは第二章で確認した中世観と同じ構造である――スウェインの命題、すなわち発祥点をピネル(1800年前後)の「狂気の主体」の組み立てに見出す立場は、ルネサンスにこの組み立てがまだ存在しなかったことを必然的に含意する。
これら四者のルネサンス観の整理から、ある重要な観察が浮上する。四者は、(一)ルネサンスを「対話の時代」とするフーコー、(二)ルネサンスを「精神医学の誕生の場」とするエー、(三)両者の極端を経験的に修正するケテル、(四)ルネサンスを発祥の「前史」として控えめに位置づけるスウェイン――というように、それぞれ異なる位置取りをするが、いずれもルネサンスを精神医学史において決定的な時代として認めている。この共通承認の上に、四者の対立を再構成することができる。
三 エーの第二期発祥論――ルネサンス起源論の構造
エーの1971年フーコー批判論文を改めて読み直すならば、彼のルネサンス起源論は二段階の構造を持つ。第一段階は、精神医学の哲学的・人間学的前提の同定である。第二段階は、この前提が結晶化する歴史的契機の同定である。
第一段階の前提を、エーは以下のように定式化する。西洋の文化的伝統を特徴づけるのは、人間的条件とその宇宙的・超自然的環境との分離である[2]。彼の表現を借りれば、精神疾患(aliénation mentale)は人間の「誕生」と本質的に結びついており、その「誕生」とは、人間が自らを宇宙的・超自然的環境から分節化する歴史的契機を意味する。第一章九節で論じたストア派的情念論、第二章五節で論じたトマス的調停は、いずれもこの分節化のプロセスにおける中間段階を構成するが、それを完成させるのはルネサンスである。
ここで重要なのは、エーが指摘する「分離」が、人間の神からの独立や悪魔からの解放ではないという点である。引継ぎメモにおいてすでに修正を加えたように、ヨハン・ウィエール、ミシェル・マレスコ、フアン・ルイス・ヴィヴェスら16世紀ヒューマニストたちは、いずれも信仰者であり、神からの独立を主張したわけではない。厳密な修正命題は、「人間の神と悪魔からの独立」ではなく「自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化」となる。
この修正命題のもとで、エーの第一段階の哲学的・人間学的前提は以下のように再定式化される。中世のトマス的調停(第二章五節)は、医学的(自然的)狂気と神学的(超自然的)狂気を区別したが、両者を統一的な人間学の枠内に保持していた。境界線がどこに引かれるかは、原理的な公的論争の主題とはならなかった。ルネサンスにおいて生起するのは、この二領域の境界線が初めて明示的に分節化され、自然領域が独自の認識的・実践的自律性を獲得するという出来事である。
第二段階の歴史的契機を、エーはウィエール対ボダンの論争(1563–1585)として同定する[5]。ウィエール『De praestigiis daemonum』(1563年)は、魔女として告発された女性たちの多くがメランコリアという自然的疾患の患者であることを医学的に診断し、彼女たちを宗教的・法的処罰の対象から医学的観察の対象へと移行させる試みである。ボダン『De la démonomanie des sorciers』(1580年)[6]は、ウィエールに対する直接的反論として、超自然的領域の独自性を強硬に擁護する。両者の論争は、ルネサンスにおける自然/超自然の分節化が、未解決のまま緊張のなかに置かれていたという事実を象徴的に示す。
エーの発祥論は、この緊張それ自体を精神医学の誕生の場として読む。狂気が独自の自然現象として現出する可能性は、自然と超自然の境界線が明示的に問題化されたときにのみ開かれる。ウィエール対ボダンの論争は、まさにこの境界線の問題化を、ヨーロッパ知識人の公的論争の主題として確立した。エーの命題「精神医学の誕生の日付はルネサンスに対応する」は、この事実を背景として読まれる必要がある。
四 ヨハン・ウィエールと『De praestigiis daemonum』(1563年)
ヨハン・ウィエール(Johann Weyer, ラテン名 Wier または Wierus, 1515–1588)は、ネーデルラントのフラント出身の医師である。若年期にハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイム(Heinrich Cornelius Agrippa von Nettesheim, 1486–1535)の弟子となり、彼から自然哲学と医学を学んだ[8]。後年、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公爵領の宮廷医として仕え、1550年以降そこに長期間滞在する。
ウィエールの主著『De praestigiis daemonum, et incantationibus ac veneficiis』(『悪魔の幻惑、呪文、毒薬について』、初版1563年バーゼル、その後数次の改訂版)は、六巻構成(後に七巻に増補)の大著であり、その中心的主張は、魔女として告発される女性たちの多くがメランコリアという自然的精神疾患の患者である、というものである[5]。ウィエールの議論の核心を翻訳すれば、以下のように要約される。
これらの哀れな女性たちは、自らの幻覚と想像によってひどく苦しめられ、自分が実際には全く行っていないことをすべて行っているかのように思える――そしてこれらの体験はすべて、メランコリアという自然的疾患から生じうる[5]
ウィエールの議論の構造を整理すると、以下の三層構造を持つ。第一層は神学的留保である。ウィエールは悪魔の実在性、その人間を欺く能力、神の許しのもとでの限定的な悪魔的作用の可能性を一貫して肯定する。彼は当時の他のヒューマニストたちと同様、信仰者であり、自然主義者ではない。彼が否定するのは、魔女たちが告白するような超自然的な能力――飛行、変身、サバトへの参加、性的交渉、子供の犠牲――が現実に存在することである。彼の解釈によれば、これらの「告白」は、悪魔がメランコリアに罹った女性たちの想像力を歪曲し、彼女たちを内的幻覚のなかに閉じ込めた結果として生じる。すなわち悪魔は実在し、欺く能力を持つが、その効果は犠牲者の精神内的領域に限定される。
第二層は医学的観察である。ウィエールは、実際の魔女裁判の被告人たちを直接観察した経験から、彼女たちの「告白」の多くが内的幻覚と外的暗示の産物であることを指摘する。彼が用いるのはガレノス的体液論――メランコリア(黒胆汁の過剰)が想像力を歪曲し、患者を妄想的体験のなかに閉じ込めるという病態論――である。これは第二章四節で論じたコンスタンティヌス=ベルナルドゥス的中世医学の体液論的伝統の直接的継承であり、ウィエールが伝統的医学体系の枠内で作業していたことを示す。彼が達成したのは、新しい医学体系の創出ではなく、既存の体液論を魔女現象に応用するという拡張である。
第三層は法的・実践的帰結である。ウィエールは、メランコリア患者として診断された女性たちに対する処罰の中止を要求する。彼女たちは罰せられるべきではなく、医学的治療を受けるべきである。これは決して「魔女狩りの全面的否定」ではない――真の悪魔的犯罪(例えば実際の毒薬使用 veneficium)に対する処罰は擁護される――が、当時の魔女狩りの大多数の対象に対する革新である。
ウィエールの議論の重要性は、これら三層構造の同時性にある。彼は信仰者でありながら、医学的観察に基づいて自然領域の自律性を主張する。彼にとって、超自然的領域(悪魔の存在)の肯定と、自然領域の医学的・経験的自律性の主張とは、矛盾しない。これこそ、エーが「自然と超自然の境界線の分節化」と呼んだ事象である。中世のトマス的調停においては、二領域は区別されつつも統一的人間学の枠内に保持されていた。ウィエールにおいて、二領域の境界線が初めて明示的に問題化され、自然領域が独自の認識的自律性を獲得する。
五 ジャン・ボダンと『De la démonomanie des sorciers』(1580年)
ジャン・ボダン(Jean Bodin, 1530–1596)は、フランスの法学者・政治哲学者である[6]。彼の主著『国家論六巻 Les six livres de la République』(1576年)は近代政治理論の古典として知られるが、本論文の文脈では別の著作――『悪魔狂者の論 De la démonomanie des sorciers』(1580年パリ)――が決定的な意義を持つ。
『悪魔狂』はウィエール『De praestigiis daemonum』への直接的反論として書かれた。ボダンの中心命題は、ウィエールの「寛容な」立場が、実は社会の根底を揺るがす危険な思想であるということである。彼の批判は、ウィエールが信仰の名のもとに無神論者の議論を密輸入している、というかなり鋭い性質のものである。ボダンの議論を翻訳すれば、以下のように要約される。
ウィエールのように、これらはメランコリーや夢想であり、神が時にそれらをそのような誤りに留めることを許される、と言ってはならない。というのも、神の許しに別の誤り、すなわち有罪を無罪と見なし、無罪を有罪と見なす誤りを加えてはならないからである[6]
ボダンの議論の重要性は、それが単に保守的反動ではないという点にある。彼は政治哲学者として、社会秩序の維持と魔術的犯罪の処罰との関係を体系的に理論化する。彼にとって、ウィエールの「医学化」は、犯罪を「病気」として無罪化することによって、社会の自衛能力を毀損する危険な企てである。さらに重要なのは、ボダンが、ウィエール自身も信仰者であるという外見の下に、実は「無神論者の言説」を持ち込んでいる、と告発する点である。ボダンにとって、悪魔の能力を限定することは結果として神の世界統治の認識を歪めることと等価であり、したがって信仰の核心を脅かすものである。
ボダンの議論の構造もまた三層構造を持つ。第一層は神学的肯定である。悪魔は実在し、人間と契約を結ぶことができ、その契約者(魔女)は真に超自然的能力を発揮する。第二層は法的構造である。魔術的犯罪は通常の犯罪規則を超える特殊な性質を持ち、通常の証拠規則の緩和(証言の単独性、被告人の自白の優先など)が正当化される。第三層は政治的帰結である。社会の自衛のため、魔女裁判は容赦なく続行されなければならない。
ウィエール対ボダンの両者を比較すると、両者の対立が単純な「合理 vs 迷信」の対立ではないことが明らかになる。両者ともキリスト教信仰者であり、両者とも悪魔の実在性を肯定する。両者の対立は、自然領域と超自然領域の境界線をどこに引くか、という極めて精密な問題である。ウィエールは境界線を自然側に大きく押し広げる――超自然的とされる現象の大多数は実は自然的(医学的)である。ボダンは境界線を超自然側に保持する――超自然的現象は実在し、社会の脅威である。
この境界線をめぐる対立それ自体が、エーの言う「自然と超自然の分節化」の事象である。中世のトマス的調停においては、自然と超自然は区別されつつ統一的人間学の枠内に保持されていた。境界線がどこに引かれるかは、原理的な公的論争の主題とはならなかった。ルネサンスにおいて、この境界線が初めて明示的な公的論争の主題として浮上する――これがエーの発祥論的命題の内実である。
六 ウィエール対ボダン論争の構造――1563–1585
ウィエール対ボダンの論争は、両者の二著作の間の直接対決にとどまらない。1563年のウィエール『De praestigiis daemonum』初版から、1585年頃までの二〇年余りの期間において、ヨーロッパの知識人世界は、この論争を中心に分極化する。
ウィエールの陣営には以下が含まれる。師アグリッパは早くも1519年にメッツで魔女として告発された女性を弁護し、ウィエールの先行者となった[8]。レジナルド・スコット(Reginald Scot, 1538–1599)はイングランドにおいて『The Discoverie of Witchcraft』(『魔術の発見』、1584年)を著し、ウィエールの議論をプロテスタント世界へ展開した[7]。フランスではロワ・ル・カロン(Louis Le Caron)が、ドイツではコルネリウス・ロース(Cornelius Loos)が同様の立場を取る。
ボダンの陣営はより広く強力であった。マルティン・デルリオ(Martin Del Rio)の『Disquisitionum magicarum libri sex』(『魔術探究六巻』、1599–1600年)は、カトリック反宗教改革における魔女狩りの理論的基盤を提供した[14]。ペーター・ビンスフェルト(Peter Binsfeld)、ニコラ・レミ(Nicolas Rémy)、アンリ・ボグエ(Henri Boguet)らが続いた。北部ドイツでは『Malleus Maleficarum』(『魔女に与える鉄槌』、ドミニコ会士ハインリヒ・クラーマー[ヘンリクス・インスティトリス]著、1487年初版、その後何度も再版)[15]が依然として影響力を保った。
両陣営の対立の構造を整理すると、三つの軸が浮かび上がる。第一の軸は、悪魔の能力の範囲をめぐる神学的問題である。ボダン陣営は悪魔の広範な能力(飛行、変身、性的交渉)を肯定し、ウィエール陣営はこれらを多くの場合「幻覚」として診断する。第二の軸は、証拠規則の特殊性をめぐる法学的問題である。ボダン陣営は魔術犯罪における証拠規則の緩和を正当化し、ウィエール陣営はこれを批判する。第三の軸は、医学的診断の射程をめぐる病理学的問題である。ウィエール陣営はメランコリア概念を広範に適用し、ボダン陣営はこれを犯罪の隠蔽として批判する。
これら三軸のうち、本論文の発祥論的視角から最も重要なのは第三軸――医学的診断の射程――である。ウィエールが拡張するメランコリア概念は、後の精神医学が継承する資源である。彼の議論を通じて、後に「精神疾患」と呼ばれる現象群――幻覚、妄想、強迫観念、抑うつ、躁状態――が、自然的・医学的・観察可能な領域に組み込まれる通路が開かれる。
しかし注意すべきは、ウィエール自身は決して「精神医学」を確立したわけではないという事実である。彼の医学的診断は、伝統的ガレノス的体液論の枠内にとどまり、新しい認識装置の組み立てには至らない。彼が達成したのは、超自然的とされてきた現象群の自然的領域への移行であり、これ自体は精神医学の発祥の必要条件であって十分条件ではない。エーがウィエールに見出すのは、まさにこの必要条件としての位置である。
七 ルネサンス・ヒューマニストたち――ヴィヴェス、エラスムス、その他
ウィエール対ボダンの論争を、より広いルネサンス・ヒューマニズムの脈絡に位置づけることが、重要である。ヒューマニストたちは、古代ギリシア・ラテンの古典の再発見を通じて、人間学的探究の独立性を主張した。彼らのうち、本論文の発祥論的視角から特に重要なのは、フアン・ルイス・ヴィヴェス、エラスムス・フォン・ロッテルダム、そして関連する数人の人物である。
フアン・ルイス・ヴィヴェス(Juan Luis Vives, 1493–1540)は、スペイン出身のヒューマニストで、後にオックスフォードで教鞭をとった[9]。彼の主著『De anima et vita』(『魂と生について』、1538年)は、ルネサンスにおける心理学的探究の代表作の一つである。ヴィヴェスは、アリストテレス的伝統に依拠しつつ、感情、記憶、想像力、認識能力を体系的に論じる。
精神医学史の文脈で特に注目すべきは、ヴィヴェスが『De subventione pauperum』(『貧者救済について』、1526年)において展開した精神病者処遇論である。彼は、精神病者に対する慈悲深い処遇、彼らの隔離された環境での看護、そして彼らの個別的状態に応じた治療を提唱した[9]。これは16世紀における精神病者処遇論の最も早い体系的展開の一つであり、後にピネル=エスキロールに至る道徳的治療思想の遠い先駆をなす。第二章六節で論じたベネディクト会修道院における病者看護の伝統が、ヴィヴェスにおいて世俗的・市民的・人道主義的形態へと変換される過程として読まれる。
エラスムス・フォン・ロッテルダム(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466頃–1536)の『痴愚神礼讃 Encomium Moriae』(1511年)は、フーコーが『狂気の歴史』においてルネサンス的「狂気との対話」の象徴として用いる著作である[10]。「狂気」(モリア)が一人称で語るというこの諷刺的レトリックは、確かにフーコーが指摘するように、狂気を「真理を逆説的に告げる声」として表象する伝統に位置づけられる。
しかし注意が必要である。エラスムスの『痴愚神礼讃』における「狂気」は、医学的・病理学的狂気ではない――それはギリシア的アテ(atē、人間の判断を狂わせる神々の力)、ローマ的ストゥルティティア(stultitia、愚かさ)、キリスト教的「神の愚かさ」(パウロ『コリント前書』第一章二五節 stultum Dei sapientius est hominibus「神の愚かさは人間の知恵よりも賢い」)を継承する哲学的・神学的レトリックの「狂気」である。エラスムスの著作は、ルネサンス文学における狂気のテーマの豊かさを示すが、これが精神医学的発祥に直接接続するわけではない。フーコーがエラスムスを「狂気との対話」の象徴として用いるとき、彼は文学的・象徴的次元と医学的・臨床的次元を混同する傾向にある。
その他のヒューマニストたちのうち、ピエトロ・ポンポナッツィ(Pietro Pomponazzi, 1462–1525)は『De incantationibus』(『呪文について』、1520年頃執筆、1556年刊行)[11]において、超自然的とされる現象群の自然主義的説明を試みた。アンドレアス・ラウレンティウス(André du Laurens, 1558–1609)は『Discours de la conservation de la veuë: des maladies mélancoliques』(1597年)の第二部においてメランコリーの医学的・心理学的論考を展開した[12]。これらの著作は、ウィエールと並走しつつ、ルネサンス的「自然主義的拡張」の局面を構成する。
ヒューマニストたちの貢献を総合すると、ルネサンスにおける「自然と超自然の境界線の分節化」が、ウィエールの神学=医学的論争のみに限定されない、より広い知的潮流であったことが浮上する。古代古典の再発見、人間学的探究の独立、観察的経験論の台頭、自然哲学の自律化――これらすべてが、エー的発祥論の哲学的・人間学的前提を構成する。
八 フーコーのルネサンス読解――「狂気の船」と「絶対的経験」
フーコー『狂気の歴史』第一部第一章「Stultifera Navis」は、ルネサンス的狂気理解の独自性を、二つの中心テーマを通じて提示する。第一テーマは「狂気の船 la nef des fous」のイコノグラフィである。第二テーマは「狂気の絶対的経験 expérience absolue de la folie」という哲学的命題である。
「狂気の船」のテーマは、ゼバスティアン・ブラント(Sebastian Brant, 1457–1521)の『愚者の船 Das Narrenschiff』(1494年バーゼル、ドイツ語版、その後ヤコブ・ロッヒャー[Jakob Locher]によるラテン語訳『Stultifera Navis』、1497年)に文学的起源を持つ[13]。ヒエロニムス・ボッシュ(Hieronymus Bosch, 1450頃–1516)の同名の絵画(パリ・ルーヴル美術館蔵)、ピーテル・ブリューゲル(父)(Pieter Bruegel de Oude, 1525頃–1569)の諸作品が、このテーマを視覚的に展開した。フーコーはこれらの作品群を、ルネサンスにおける狂気の象徴的中心性の表現として読む。
フーコーの命題は、ルネサンスが狂気と「対話」を維持していた最後の時代である、というものである。「狂気の船」は、狂者を都市から追放して水上を漂流させる象徴的儀礼として、狂気を排除しつつ同時に世界の他者性として承認する両義的構造を持つ[1]。ルネサンスは狂気を排除したが、それを完全に客体化することはなかった――この主張が、フーコーのルネサンス読解の核心である。
第二テーマである「狂気の絶対的経験」は、より哲学的に複雑である。フーコーは、ルネサンスにおける狂気が「コスモスの絶対的他者性」として経験されていたと主張する。狂気は単に医学的疾患ではなく、世界の限界経験――理性が把握しえない深淵への接近――として認識されていた。エラスムス、シェイクスピアの道化、セルバンテス『ドン・キホーテ』など、ルネサンス文学の「狂気」の主題群が、この絶対的経験の表現として読み解かれる。
しかし、本論文の発祥論的視角からは、フーコーのルネサンス読解には留保が必要である。第一の留保は、彼が「狂気の船」のイコノグラフィを実在の習慣として描く傾向にある点である。彼が引用する1490年代から1510年代の「狂者の追放」記録は、決して一般的・体系的習慣ではなく、限定的事例の集積である。次節で論じるケテルが実証的に指摘するように、「狂気の船」は文学的・図像学的テーマとしては鮮明に存在したが、ヨーロッパ規模の現実的習慣としては誇張されている。
第二の留保は、フーコーが「狂気との対話」と「狂気の排除」を強く対比させすぎる点である。中世のトマス的調停(第二章五節)においても、狂気は完全に排除されてはおらず、医学的・神学的・実践的多元性のなかに位置づけられていた。古典主義時代(第四章で扱う)においても、フーコー自身が認めるように、狂気は完全に客体化されたわけではなく、新しい認識的・実践的緊張のなかに置かれた。「ルネサンスのみが対話の時代であった」というフーコー的命題は、厳密ではない。
第三の留保は、フーコーがエラスムスの『痴愚神礼讃』、シェイクスピアの道化、セルバンテス『ドン・キホーテ』を「狂気との対話」の象徴として並列する点である。これらの作品の「狂気」は、すでに見たように、医学的・病理学的狂気ではなく、哲学的・神学的・文学的レトリックの「狂気」である。フーコーの広い狂気概念は、文学的次元と医学的次元の区別を曖昧にする。これはエーがフーコー批判論文で繰り返し指摘する点でもある――「狂気」という単語の意味論的射程が、フーコーにおいては制御を失う傾向にある。
九 ケテルによるフーコー的ロマン主義の解体
ケテル『狂気の歴史』第二部後半・第三部冒頭は、フーコー的ルネサンス読解への経験的歴史家としての修正の立場を明示する[3]。ケテルの基本的姿勢は、フーコーの哲学的洞察を一定程度承認しつつ、その経験的基礎を検証することにある。
ケテルの修正は三層をなす。第一層は、「狂気の船」イコノグラフィの再評価である。ケテルは、ブラント『愚者の船』が文学的・道徳的諷刺の作品であって、実在の慣習の記述ではないことを指摘する[13]。フーコーが引用する「狂者の追放」記録(15世紀末-16世紀初頭のニュルンベルク、フランクフルト、その他の事例)は、決して一般化された習慣ではなく、限定的・例外的事例にすぎない。象徴的・図像学的に強い印象を残す出来事を、フーコーは時代の一般的慣行として誇張する傾向にある。
第二層は、ルネサンスにおける狂気の処遇の実態の記述である。14世紀末から17世紀初頭にかけてのヨーロッパにおいて、狂気の処遇は決して「対話」の特権的時代ではなかった。むしろこの時代は、魔女裁判が頂点に達した時代(1550–1650年)である[18]――処刑された「魔女」の総数は控えめな推定でも数万人に達する。ブライアン・レヴァック(Brian Levack)らの実証的研究によれば、ヨーロッパ全体で約四万人から六万人の処刑が確認される。ルネサンス=「対話の時代」というフーコー的命題は、この事実と整合しがたい。
第三層は、医学的・宗教的・社会的多元性の記述である。ルネサンスにおいて、狂気はウィエール的医学的解釈、ボダン的悪魔学的解釈、ヴィヴェス的人道主義的解釈、エラスムス的諷刺的解釈、ブラント的道徳的解釈――という複数の解釈枠組みのもとに同時的に置かれていた。これら諸解釈は、緊張のなかで並走し、相互に競合しつつ展開された。「ルネサンス=狂気との対話」という単一の命題に還元することは、この多元性を隠蔽する。
ケテルの修正は、しかし、フーコー的読解を全面的に拒否するものではない。ケテル自身が認めるように、ルネサンス文学・図像学における狂気の主題的豊かさ――エラスムス、シェイクスピア、セルバンテス、ボッシュ、ブリューゲル――は重要な事実である。これらの作品群が示すのは、ルネサンスが狂気を文学的・象徴的次元において積極的に主題化した時代であった、という事実である。だがこの事実は、当時の狂気の処遇の現実――魔女狩り、宗教的処罰、社会的隔離――と並走する事実であって、それを置換するものではない。
本論文の発祥論的視角からは、ケテルの修正はフーコー的読解の「絶対化」を解体しつつ、ルネサンスの多元性を保存する作業として評価される。ルネサンスを「対話の時代」とも「排除の時代」とも単純に規定することはできない――この時代は、複数の解釈枠組みが緊張のなかで並走する時代であり、その緊張の中核にウィエール対ボダンの論争が位置づけられる。エーの発祥論はこの緊張の哲学的・人間学的意義を同定し、ケテルの経験的記述はこの緊張の歴史的実態を検証する――両者は対立ではなく、相互補完の関係にある。
十 四者の交差点――スウェイン立場からの観察
これまでに展開した四者のルネサンス観の整理を、改めてスウェイン立場の観点から再構成する必要がある。スウェイン自身がルネサンスを直接の主題としていないという事実は、彼女の発祥論にとって決して欠陥ではなく、構造的意味を持つ。
スウェインの中心命題――発祥点をピネル1800年前後の「狂気の主体」の組み立てに見出す立場――は、ルネサンスを必然的に「不在の時代」として位置づける。ルネサンスにおいて、「狂気の主体としての主体」という認識装置はまだ組み立てられていない。ウィエールにおいても、ボダンにおいても、ヴィヴェスにおいても、エラスムスにおいても、狂気はそれぞれ異なる仕方で把握されるが、いずれも患者を「自らの狂気を内側から経験し意味づける主体」として遇する地平には到達していない。
ウィエールにとって、メランコリア患者は伝統的ガレノス的体液論の枠内における自然的疾患の担い手である。彼が患者の体験を「内側から」記述しようとする努力は、まだ症候学的記述の精緻化の段階にあって、患者の主体性の認識的構成には至らない。彼が魔女と告発された女性たちを保護する人道主義的姿勢は確かに重要だが、それは医師の外側からの慈悲深い眼差しであって、患者を治療的対話の主体として遇する関係性ではない。
ボダンにとって、魔女は超自然的犯罪の主体ではあるが、これは自らの行為について意識的に責任を負う犯罪者としての主体であって、第六章で論じた「狂気の主体」とは構造的に異なる。ボダンの主体概念は、刑事責任論的・法学的なものであって、精神病理学的なものではない。
ヴィヴェスとエラスムスの位置はより複雑である。ヴィヴェスの精神病者処遇論は、患者を慈悲の対象として遇する点で、後のピネル=エスキロール的道徳的治療の遠い先駆をなす。しかし、ヴィヴェスにおいてもまた、患者は依然として外側から世話される対象であって、患者と医師の対話的関係を通じて治療が成立する構造には至っていない。エラスムスの『痴愚神礼讃』における「狂気」は、すでに見たように、文学的・神学的レトリックであって、医学的・臨床的次元の主体性の問題ではない。
これらの観察から、スウェイン立場の核心的命題が再確認される。ルネサンスは、自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化、医学的観察の精緻化、人間学的探究の独立――精神医学の発祥にとって必要なすべての前提――を準備した。しかし、これらの前提だけでは、精神医学はまだ発祥していない。発祥するためには、もう一つの閾――「狂気の主体としての主体」の認識装置の組み立て――が必要である。この閾を越えるのは、二〇〇年余りの後、1800年前後のピネル=ヘーゲル路線においてである。
エーの発祥論との関係において、本論文がスウェイン立場を採用するのは、エーが正しいと認めた前提条件論――ルネサンスの哲学的・人間学的閾――を保存しつつ、その上にもう一つの閾を同定するためである。エーの1971年論文の中軸命題は有効である――しかし、それは発祥論の十分条件としてではなく、必要条件として有効である。ルネサンスは精神医学の哲学的・人間学的前提を確立したが、精神医学そのものを発祥させたわけではない。
十一 結語――閾の閾としてのルネサンス、古典主義時代への移行
中世が精神医学発祥の「閾」を構成したとすれば(第二章十一節)、ルネサンスは「閾の閾」を構成する。すなわち、中世のトマス的調停を分節化することによって、精神医学発祥のためのもう一つの閾――近代古典主義時代(第四章)の制度的・認識論的変動、そして1800年前後のピネル発祥点(第六章)――への移行を可能にする時代である。
本章で展開した分析の到達点を整理しよう。第一に、ルネサンスはエーが正しく同定したように、精神医学発祥のための哲学的・人間学的閾を構成した。自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化が、ウィエール対ボダンの論争(1563–1585)を結節点として確立された。ヒューマニストたち――ヴィヴェス、エラスムス、ポンポナッツィ、ラウレンティウス――の貢献は、この分節化をより広い知的潮流のなかに位置づける。
第二に、しかしフーコーが捉えた「狂気との対話」のロマン主義的読解は、ケテルの実証的修正によって解体される。ルネサンスは決して「狂気との対話」の特権的時代ではなかった――それは魔女裁判の頂点と、医学的・人道主義的・諷刺的解釈群が緊張のなかで並走する多元的時代であった。「狂気の船」は文学的・図像学的テーマであって、実在の習慣ではなかった。
第三に、スウェイン立場からは、ルネサンスは「狂気の主体としての主体」の認識装置がまだ組み立てられていない時代として規定される。ウィエール、ボダン、ヴィヴェス、エラスムス――いずれも、患者を「自らの狂気を内側から経験し意味づける主体」として遇する地平には到達していない。ルネサンスは精神医学発祥の必要条件を確立したが、十分条件ではない。
これら三つの命題の総合として、ルネサンスは精神医学発祥の「閾の閾」として規定される。それは中世の閾(自然と超自然の統一的調停)から、近代古典主義時代の閾(フーコー的「大いなる監禁」、ケテルの実証的解体、スウェインの「妊娠期」読解)への移行点であり、その更に向こうに1800年前後の「狂気の主体」発祥点(ピネル=ヘーゲル路線)が位置する。
本章はまた、本論文の四者比較構造の特徴的事例を提供する。ルネサンスにおいて、フーコーとエーが正反対の読解を提出し、ケテルが両者を実証的に修正し、スウェインが構造的「不在」の位置を取る――この四者の異なる位置取りが、それぞれ独立の価値を持ちつつ、それらの組合せによって時代の重層性が初めて把握される。本論文がスウェイン立場を採用するのは、これら四者の立場の単純な選択ではなく、四者の交差点における理論的整合性の評価による。
次章(第四章「古典主義時代――フーコー対ケテル」)においては、ルネサンスにおける自然/超自然の分節化を継承しつつ、それを社会政治的次元において展開する17世紀の「大いなる監禁」を検討する。フーコーが発祥点として立てる1656年の一般施療院設立令を、ケテルが「漸進的傾向の制度的固定」として実証的に解体する対立を再構成する。中世の閾を越え、ルネサンスの分節化を経て、古典主義時代の制度化に至る――この長期的構造の最終段階として、第四章は本論文の発祥論的アーキテクチャの結節点をなす。