第9章 神経認知障害群

高齢化する利用者の認知機能低下をどう見抜くか

コア層 約12分/全層(上級職向け解説含む) 約50分
この章で学ぶこと

知的障害児者施設の利用者の高齢化が進むにつれ、もともとの知的発達症に加えてアルツハイマー病などの神経認知障害が重なる方が少しずつ増えてきています。本章では、ICD-11に基づく神経認知障害群(せん妄・軽度神経認知障害・健忘症・認知症)の全体像と、知的発達症をもつ方における診断の特別な難しさ、そして職員の日常観察が医療的判断の基盤となる理由について解説します。

本章を貫く基本姿勢は、「その人自身のベースラインからの低下を見抜く」ことです。一般向けの認知機能スクリーニング検査はほとんど役に立ちません。長年その方を見てきた職員の観察こそが、最も重要な診断情報となります。

本章の読み方について

本章は主に知的障害児者施設(特に成人棟・高齢者対応棟)の職員を主たる読者として書かれています。児童養護施設においても、稀に高齢化した利用者や、ご家族の介護に関わる場面で参考となる内容があります。知的発達症のない方(児童養護施設利用者や一般の方)における症状の現れ方は、本章で記述する「ベースラインがすでに非定型である場合」とは異なりますので、該当箇所には傍注をつけています。

1. なぜ今、この章が必要なのか

当法人を含め、日本の知的障害児者施設の多くは、今、歴史的な転換点に立たされています。かつては「生涯を施設で過ごす」という想定が意味をもっていましたが、医療水準の向上とともに、知的発達症をもつ方々の平均寿命は大きく延びました。60代、70代、そして後期高齢者に入る80代以降の利用者を支えることが、今や施設の日常となりつつあります。

この高齢化は喜ばしいことである一方で、新しい臨床的課題をもたらしました。もともとの知的発達症に、加齢に伴う神経認知障害が重なるケースが増えてきたのです。アルツハイマー病、脳血管性認知症、レビー小体病による認知症 ― これらはどれも、施設の職員にとって長らく「外の世界の病気」でした。しかし今、私たちが日々支援している利用者の方の中に、こうした疾患が静かに入り込みつつあります。

知的発達症の方における神経認知障害 ― 最大の難問

なぜこの課題がそれほど難しいのか。それは一言で言えば、「もともとできなかったこと」と「最近できなくなったこと」の区別がきわめて困難だからです。

一般の高齢者の場合、数年前までは仕事をし、新聞を読み、家計を管理していた方が、ある時から同じことができなくなる ― この「変化」は比較的容易に捉えられます。しかし知的発達症をもつ方では、そもそも字を読まれない方、時計を読まれない方、お金の計算をされない方が多くおられます。こうした方に「認知症」の典型的サインとされる「計算が苦手になった」「新聞が読めなくなった」を適用することはできません。

同様に、外来診療で医師が使う認知機能スクリーニング検査(MMSEやHDS-Rなど)は、もともと学校教育を受けた一般成人を前提に作られています。知的発達症をもつ方にこれらを実施しても、多くの場合、初回から得点はきわめて低く、あるいは検査自体が成立しません。この場合、「検査で低得点だから認知症」と判断することはできません。もともとのベースラインがすでに低いからです。

職員が診断の鍵を握る理由

標準化された認知検査が使えない以上、診断の鍵を握るのは「数年前のこの方はどうだったか」を知っている人 ― すなわち、長年日々支援してきた施設職員です。外来の医師はその方の現在の状態しか見られませんが、職員は「5年前にはこの靴下の履き方ができていた」「去年までは夕食後に必ずお茶を入れていた」「一昨年までは仲良しのAさんの名前を呼んでいた」というベースラインの記憶をもっています。この情報こそが、医療スタッフの診断判断に不可欠な一次情報です。

本章は、この「職員こそが最重要の観察者である」という立場を前提に構成されています。医学的な診断を職員が下すためのものではなく、職員が適切な情報を、適切な言葉で、適切なタイミングで医療スタッフに伝えられるようになるための視点を提供します。

2. 神経認知障害群の全体像

ICD-11において、神経認知障害群(Neurocognitive disorders)は、記憶・注意・言語・視空間認知・処理速度・実行機能・社会的認知などの認知機能領域に影響を及ぼす一群の障害として定義されています。第1章で学んだ神経発達症群とは、根本的な違いがあります。

神経発達症群との根本的な違い

両者の違いは、ICD-11においてきわめて明瞭に示されています。

神経発達症群(第1章) Neurodevelopmental disorders 発達期(子どもの頃)から 存在する = その人の生来の特性 例:知的発達症、自閉 スペクトラム症、ADHD 「もともとそうである」状態 対比 神経認知障害群(本章) Neurocognitive disorders いったん獲得された機能が 後から低下する = ベースラインからの変化 例:せん妄、認知症 (アルツハイマー病など) 「変わってしまった」状態
図9-1 神経発達症群と神経認知障害群の根本的な違い
神経発達症は生来の特性、神経認知障害は後から生じる低下。この対比が本章の出発点です。

言い換えれば、神経発達症は「この方は最初からそうでした」という話であるのに対し、神経認知障害は「この方は以前はそうではありませんでした」という話です。後者を捉えるためには、「以前」を知っている必要があります。ここに、知的発達症をもつ方における認知症の発見の難しさが凝縮されています。

神経認知障害群の4つの下位分類

ICD-11は、神経認知障害群を大きく4つに分類しています。

分類 ICDコード 特徴と経過
せん妄 6D70 急性(数時間〜数日)に発症する意識・注意・認知の全般的混乱。日中変動し、夜間に悪化することが多い。原因は身体疾患・薬剤・物質など様々で、原因を治療すれば可逆的。医療的緊急事態。
軽度神経認知障害 6D71 認知領域の軽度の低下があるが、日常生活は自立レベルで保たれている状態。いわゆる「MCI」。ただし知的発達症をもつ方では判別がつきにくい(本章第5節参照)。
健忘症 6D72 記憶だけが突出して障害され、他の認知機能は比較的保たれる稀な状態。脳損傷、アルコール、薬剤などによる。
認知症 6D80 〜 6D85 2領域以上の認知機能の低下が持続的にあり、日常生活機能に明らかな影響を及ぼす状態。多くは慢性・進行性。アルツハイマー病が最も多いが、原因疾患は多様。

職員が日々の支援で最も遭遇しうるのは、せん妄と認知症の2つです。本章では、この2つに特に重点を置いて解説します。

もっと詳しく:ICD-11が評価する認知機能の7領域

ICD-11では、神経認知障害の評価において、以下の7つの認知領域を区別しています。これらは互いに独立しており、疾患によって影響を受けやすい領域が異なります。

  • 注意/集中力(attention):特定の刺激に意識を向け続ける能力。せん妄では最初に崩れる領域。
  • 記憶(memory):新しい情報を学習し、保持し、思い出す能力。アルツハイマー病で早期から障害される。
  • 言語(language):言葉を理解し、表出する能力。前頭側頭型認知症の原発性進行性失語では第一の症状となる。
  • 視空間・視知覚能力(visuospatial / perceptual-motor):空間の認識、物の位置関係の把握、手の動きの協調。レビー小体病による認知症で著明。
  • 処理速度(processing speed):情報を受け取ってから応答するまでの速さ。脳血管性認知症で低下しやすい。
  • 実行機能(executive functioning):計画を立て、問題を解決し、判断を下す能力。前頭葉機能。前頭側頭型認知症で早期から障害される。
  • 社会的認知(social cognition):他者の感情や意図を読み取る能力、社会的状況の理解。前頭側頭型認知症の行動変異型で崩れる。

知的発達症をもつ方では、これらの領域のいくつかが発達期からすでに低い水準にあります。そのため、単純に「低い/高い」の評価では診断に直結せず、「この方にとっての通常水準から下がっているか」という個別的な評価が必要になります。この考え方が、次節「ベースラインからの低下をどう捉えるか」の核心です。

もっと詳しく:ICD-10からICD-11への変化

ICD-10では、認知症やせん妄などは「F00〜F09 症状性を含む器質性精神障害」という章にまとめられていました。ICD-11では、この章は廃止され、神経認知障害群(Neurocognitive disorders)という新しい独立章として再編されました。

変更のポイントは以下の3点です。

  • 「器質性(organic)」という用語の廃止:かつては「器質性」(身体的原因がある)と「機能性」(心因性)を対立させる考え方がありましたが、現代の神経科学の進展を受けて、すべての精神疾患に何らかの脳のメカニズムが関わると理解されるようになり、この二分法は意味を失いました。そのため「器質性」という語が診断分類から消えました。
  • 「認知」という共通軸による再編:従来は原因別(アルツハイマー、脳血管性など)に並んでいた諸疾患を、「認知機能の低下」という共通の臨床像で括り直しました。これにより、原因が不明な段階でも「神経認知障害」として記述することが可能になっています。
  • 軽度神経認知障害(mild neurocognitive disorder)の明確な位置づけ:従来「軽度認知障害(MCI)」と呼ばれていた状態が、独立した診断として正式に収載されました。認知症の前段階を早期に捉えるための枠組みです。

これらの変化は、アルツハイマー病などの神経変性疾患の早期発見と介入の重要性が認識されるようになった臨床的進展を反映しています。

3. ベースラインからの低下をどう捉えるか ― 本章の背骨

本節は、本章全体を通して繰り返し立ち返る背骨となる考え方を扱います。以降の節(せん妄、認知症、BPSD など)は、どれもこの考え方の上に成り立っています。新人の方も中堅以上の方も、この節だけは必ずお読みください。

本節の核心

知的発達症をもつ方の認知機能低下を見抜くには、その方自身の「通常」からの変化を捉えるしかありません。一般向けのスクリーニング検査は役に立たず、他の利用者や健常者との比較も意味をもちません。長年その方を支援してきた職員の観察と記録こそが、唯一の信頼できる手がかりです。

3-1. なぜ標準化されたスクリーニング検査が使えないのか

一般の高齢者外来では、認知症のスクリーニングに以下のような検査が使われます。

これらの検査は、学校教育を受けた一般成人の高齢期を対象として設計されています。したがって、知的発達症をもつ方に適用すると、次のような問題が生じます。

30点 15点 0点 MMSE/HDS-R得点 MMSE 認知症疑い(23/24点) HDS-R 認知症疑い(20/21点) 若年期 認知症発症後 一般高齢者:変化が検査に現れる 知的発達症の方:最初から低得点 ⇒ 変化が見えない ⚠ 検査得点だけでは「認知症になったかどうか」が判別できない
図9-2 スクリーニング検査の得点の推移
一般高齢者では若年期から認知症発症までの間で明瞭な得点低下が現れますが、知的発達症をもつ方ではもともとの得点が検査の下限付近にあるため、「変化」が検査の数値として現れにくい構造があります。
具体的に何が起きるか

これらの理由から、知的発達症をもつ方の認知機能評価に、一般向けの認知症スクリーニング検査を単独で用いることは適切ではありません。医療機関でこうした検査が実施されることがあっても、それは参考情報の一つに過ぎず、判別の中心にはなり得ません。

3-2. では、何を見るのか ― 適応行動のベースライン

検査が使えないとすれば、何が手がかりになるのか。答えは、その方の日々の生活における「いつもの姿」がどう変わっていったかです。検査室での数十分ではなく、何年にもわたる日常の中でゆっくり進んでいく変化こそが、知的発達症をもつ方の認知機能低下を捉える唯一の窓口です。

具体的に何を観察するかと言えば、日常生活を送るために必要な実践的な技能の総体です。これは一般に「適応行動(adaptive behaviour)」と呼ばれ、第1章で見た知的発達症の評価においても「知能水準」と並ぶ2本柱のひとつに位置づけられる観点です。施設の支援そのものが、まさにこの適応行動に関わっています。以下の6領域について、「数ヶ月前、1年前、数年前と比べて、どう変わったか」を観察していきます。

3-3. 観察すべき6領域のベースライン

この方の ベースライン 日常生活動作 食事・着替え・排泄 コミュニケーション 語彙・理解・表出 社会的交流 顔認識・関係性 興味・嗜好 好きな活動・食べ物 運動機能 歩行・バランス 睡眠・覚醒 夜間行動・日内変動
図9-3 ベースライン観察の6領域
「この方の通常の姿」を6つの領域に分けて観察します。どれも単独では変化と断定できませんが、複数領域にまたがる持続的な変化があれば、医療スタッフへの情報提供の対象となります。

領域① 日常生活動作(ADL・IADL)

最も基本的な観察領域です。食事、着替え、入浴、排泄、移動といった日常生活動作が、数ヶ月〜数年の単位でどう変化したかを見ます。

現場で最も参考になる指標 ― 自分の部屋のドアを間違える

横浜市の知的障害児者施設では、利用者の方は基本的に個室対応で生活されています。この環境において、「自分の部屋のドアを間違える」という行動は、認知機能低下の最も早期かつ有力な指標の一つとなります。

アルツハイマー病では、記憶障害とほぼ同時期に、あるいはそれに先立って空間認識能力の低下が始まることが知られています。何年も毎日出入りしてきた自分の部屋のドアを通り過ぎてしまう、隣の部屋のドアを開けてしまう、廊下で自分の部屋がどこか分からなくなって立ち止まる ― こうした観察は、その方の中で空間認識の機能が衰え始めていることを示すサインです。

この指標の大切な特徴は、職員が日々の業務の中で自然に観察できる点にあります。特別な検査も、構えた評価場面も要りません。朝の声かけ、夜間の見回り、食堂への誘導、入浴時の動線 ― その日常の中で捉えられます。「最近、◯◯さん、隣の部屋に入ってしまうことが週に2、3回あります」という短い一言が、医療スタッフにとっては貴重な情報になります。

領域② コミュニケーション

言葉の使い方、理解、表出の変化です。もともと言語を使われない方でも、非言語コミュニケーションに変化が現れます。

領域③ 社会的交流

周囲の人との関係性の変化です。これは本人の主観的な苦痛にも直結するため、特に丁寧な観察が必要です。

領域④ 興味・嗜好・こだわり

自閉スペクトラム症のこだわりとは別の次元の変化です。以前「好きだったもの」に対する関心が薄れるという現象に特に注意が必要です。

領域⑤ 運動機能

歩行・姿勢・巧緻動作の変化です。レビー小体病による認知症、血管性認知症、Parkinson病による認知症などでは、運動症状が認知症状に先行することがあります。

転倒は重大なサイン

高齢の知的発達症の方で転倒が増えたときは、単なる筋力低下としてではなく、認知機能低下・せん妄・Parkinson症候群・薬剤副作用などの可能性を含めて医療スタッフに情報提供してください。特に薬剤の副作用(眠剤・抗精神病薬など)による歩行障害は、薬の調整で改善可能な場合があります。

領域⑥ 睡眠・覚醒・夜間行動

睡眠覚醒リズムの崩れは、認知症の初期症状、あるいはせん妄の重要な警告サインです。

3-4. 変化の「時間軸」を捉える

上記の変化をどう解釈するかは、変化が起こった時間の長さによって大きく異なります。

数時間〜数日 数週間〜数ヶ月 半年〜1年 数年単位 ← 変化が起こった時間の長さ → ⚠ せん妄 医療的緊急事態 身体疾患を疑う 認知症の疑い 複数領域にわたる緩徐な低下 原因検索と長期的な対応が必要 中間域 鑑別に注意 急激な変化 → まず身体疾患を疑う(肺炎・尿路感染・脱水・薬剤変更など) 緩徐な変化 → 神経変性疾患・脳血管疾患を疑う
図9-4 変化の時間軸による見分け方
数時間〜数日の急激な変化はせん妄を疑い、数ヶ月〜数年の緩徐な低下は認知症を疑います。時間軸の判断が、医療対応の緊急性を大きく左右します。

特に重要なのは、「急激な変化=せん妄の可能性」という認識です。せん妄は身体疾患(肺炎、尿路感染症、脱水、薬剤副作用、便秘・尿閉など)の警告信号であり、見逃すと生命に関わります。詳しくは次節(9.4 せん妄)で扱います。

3-5. 記録の意義と職員交代への対応

「ベースラインからの変化」を捉える作業は、一人の職員が一人で完結できるものではありません。施設は複数の職員がシフトで支援する場であり、かつ職員の入れ替わりもあります。したがって、「この方の通常の姿」が施設全体の記録として共有されていることが決定的に重要です。

記録を活かすための実践
もっと詳しく:適応行動尺度(Vineland-IIなど)の臨床的位置づけ

知的発達症をもつ方の機能水準を評価するための標準化ツールとして、Vineland適応行動尺度(Vineland-II)ABAS-II(Adaptive Behavior Assessment System)などがあります。これらは、日常生活における実践的な技能を、情報提供者(本人を日常的に知る人)への聞き取り形式で評価する尺度です。

一般成人向けの認知機能検査(MMSEなど)と大きく異なるのは、次の3点です。

  • 検査場面での本人への直接実施ではなく、情報提供者への聞き取りで評価するため、本人に検査ストレスをかけない。
  • 日常生活の実際の姿(食事・着替え・移動・対人関係など)を評価するため、認知症による日常機能低下を捉えやすい。
  • 知的発達症をもつ方にも適用可能な規準・換算方法が用意されている。

ただし、これらも認知症「診断」のためのツールではありません。Vineland等は、時間をおいて同一尺度で再評価することで、同じ方の経時変化を比較するために用いることができます。数年おきにVineland-IIを施行し、発達年齢が保たれているか低下しているかを追跡することは、一部の専門機関では知的発達症の高齢者の追跡評価として行われています。

施設でこれらを日常的に実施することは現実的ではありませんが、「ベースラインを何らかの形で客観化しておくこと」の重要性は共有されるべきです。職員の記録、ケア記録、家族からの聞き取りを総合して、「この方の通常機能」を施設全体の共有知として残していくことが、適応行動尺度の精神に近いアプローチと言えます。

なお、Down症候群の方の高齢期認知機能評価に特化した尺度(DMR:Dementia Questionnaire for Mentally Retarded persons、DSDS:Dementia Scale for Down Syndromeなど)も海外では用いられていますが、日本語版の整備や信頼できる規準は十分ではありません。詳細は9.9節(Down症候群による認知症)で扱います。

もっと詳しく:「どこまでが元からの特性か」という倫理的問い

ベースラインからの低下を捉える作業には、一つの倫理的な問いがつきまといます。それは、「この方の『通常』とは、そもそも何を指すのか」という問いです。

知的発達症をもつ方は、生涯を通じて固定した一つの状態にあるわけではありません。青年期・壮年期・中年期とともに、その方なりの成熟や変化があります。支援技術の向上や、環境の調整、本人の努力によって、獲得された技能もあります。一方で、加齢に伴う自然な変化(意欲の低下、活動量の減少など)は、認知症ではなくても起こり得ます。

したがって、「数年前にはできていたが今はできない」という事実だけでは、必ずしも神経認知障害があるとは言えません。次のような要素を合わせて考える必要があります。

  • 低下の範囲:一つの技能だけの低下か、複数領域にわたる低下か。神経認知障害では、複数領域にわたる変化が特徴です。
  • 低下の速度:数ヶ月〜1年の間に比較的明瞭に進んでいるか、数年かけてごく緩やかに変化しているか。
  • 環境要因の影響:職員の交代、居室の変更、親しい人の不在など、環境の変化による影響ではないか。
  • 身体要因の影響:うつ状態、痛み、睡眠不足、薬剤副作用など、認知機能を一時的に低下させる要因はないか。

これらをすべて考え合わせたうえで、それでも「神経認知障害の可能性がある」と判断される場合に、医療スタッフへの情報提供を行います。職員が「認知症だ」と診断を下すのではなく、「認知症を含めた可能性を検討してほしい」と医療スタッフに伝えるのが、本マニュアルの立場です。

本節のまとめ

知的発達症をもつ方の神経認知障害は、一般向けの検査では捉えられません。職員が日常の支援を通じて捉える「いつもと違う」という感覚 ― それを6領域(日常生活動作・コミュニケーション・社会的交流・興味/嗜好・運動・睡眠)の具体的観察に翻訳し、時間軸(急激か緩徐か)で整理したうえで、記録として残し、医療スタッフに伝える。この一連の作業が、神経認知障害の早期発見と適切な医療介入を可能にします。

次節からは、この背骨の上に、せん妄・軽度神経認知障害・健忘症・認知症の各論を積み重ねていきます。

4. せん妄(6D70) ― 見逃し厳禁の医療的緊急事態

せん妄は、本章で扱うすべての症候の中で最も緊急性が高く、最も可逆性の高いものです。見逃せば生命に関わる一方、早く気づいて原因を治療すれば元の状態に戻ります。この「気づけば戻る/見逃せば進む」という性質ゆえに、職員の観察力がまさに生命線となります。

4-1. せん妄とは ― 「半分夢を見て寝ぼけている状態」

せん妄という言葉は医療現場で使われる専門用語ですが、その中身は私たちの誰もが経験したことのある感覚と地続きです。一言で言えば、「半分夢を見て寝ぼけている状態が続いているようなもの」です。

朝、目が覚めたばかりのとき、あるいは夜中にトイレで起きたとき、一瞬、自分が今どこにいるのか、今が何時なのか、はっきりしない感覚を味わったことがあるはずです。周りの景色がまだ夢の続きのように感じられ、話しかけられても内容がすぐには頭に入らず、体がぼんやりしている ― この感覚です。

通常、この「寝ぼけ」は数秒から数分で消え、私たちは完全な覚醒状態に戻ります。ところが、何らかの理由でこの寝ぼけた状態が数時間、あるいは数日にわたって続き、しかも時間帯によって波があるとき、それがせん妄です。

「半分夢を見ている」という部分が大切です。せん妄の中にいる方は、実際にはないものが見えることがあります。部屋の壁の模様が虫のように動いて見えたり、天井から知らない人が覗いているように見えたり、亡くなった家族が枕元にいるように見えたりします。本人にとっては夢の続きのようなもので、「嘘を言っている」のでも「作り話をしている」のでもなく、本当にそう見えている・感じているのです。

せん妄は「体の警告信号」

せん妄は、それ自体が独立した病気というより、体の中のどこかで何かが起こっているという警告信号です。肺炎、尿路感染症、脱水、薬の副作用、低血糖、便秘や尿閉、転倒による頭部打撲 ― こうした身体的な異変が脳に影響を与えた結果として、せん妄という形で表に出てきます。したがって、せん妄に気づいたらできるだけ早く原因を突き止めて治療することで、多くの場合は元に戻るのです。逆に、見逃して放置すれば、原因疾患の進行によって命に関わることもあります。

4-2. せん妄の二つの顔 ― 高活動型と低活動型

せん妄というと、「興奮して暴れる」「わけのわからないことを叫ぶ」といった劇的なイメージを持たれる方が多いかもしれません。これは高活動型せん妄(hyperactive delirium)と呼ばれる形で、確かに存在します。しかし、実はもう一つ、そしてしばしば見逃される形があります ― 低活動型せん妄(hypoactive delirium)です。

高活動型せん妄 hyperactive delirium 目立つ・気づかれやすい ・興奮、落ち着かない ・大声、叫ぶ ・ベッドから起きようとする ・幻が見えて怖がる ・人や物をつかもうとする ・眠らない・不眠 ・攻撃的になることもある 気づかれる可能性は高いが、 「BPSD」「問題行動」と誤解される危険 低活動型せん妄 hypoactive delirium 静か・見落とされやすい ・ぼんやりしている ・うとうとしている ・話しかけても反応が遅い ・目の焦点が合わない ・食事が進まない ・表情が乏しい ・動かず、じっとしている 「今日はおとなしい」で流されやすい ⚠ 知的発達症の方では特に見逃されやすい
図9-5 せん妄の二つの顔
高活動型は目立つため発見されやすい一方、「問題行動」と誤解される危険があります。低活動型は静かなために見落とされやすく、特に普段から活動量が少ない利用者では気づかれないまま進行する危険があります。
「今日はおとなしいな」という違和感を大事にする

低活動型せん妄が知的発達症の方で特に危険なのは、普段から活動量が少ない方、言葉での訴えが少ない方の場合、低活動型の「静かさ」が日常の姿と区別しにくいからです。その結果、せん妄が進行する数日間、誰にも気づかれないまま過ぎてしまうことがあります。「今日はおとなしいな」「いつもより元気がないな」という職員の直感的違和感こそが、しばしば最初の手がかりになります。この違和感を漠然とした印象のまま流さず、具体的な観察と記録に結びつけることが鍵です。

4-3. せん妄を疑うサイン ― ベースラインからの急変

知的発達症の方でせん妄を疑うべきサインは、必ずしも典型的な「叫ぶ」「暴れる」ではありません。前節(9.2)で述べた「ベースラインからの変化」のうち、数時間から数日という短い時間で起こった変化に注目してください。以下のいずれかが、数時間〜数日の単位で現れたときは、せん妄を疑います。

これらのサインはどれか一つが決定的というものではなく、組み合わせと時間経過で判断します。特に重要なのは、「数日のうちに変わった」という時間軸です。同じ症状でも、数ヶ月〜数年かけて現れた場合は認知症を疑いますが、数時間〜数日で現れた場合は、まずせん妄として対応します。

4-4. 何がせん妄を引き起こすのか

せん妄の背後にある原因は、ほとんどの場合身体的なものです。代表的な原因を挙げます。

カテゴリー 具体例
感染症 肺炎(誤嚥性肺炎を含む)、尿路感染症、胆のう炎、皮膚感染症、敗血症など。高齢の方では発熱しないまま進行することがある。
水分・栄養・代謝 脱水、電解質異常(ナトリウム・カリウム等の乱れ)、低血糖、高血糖、ビタミン欠乏、低酸素、貧血。
排泄のトラブル 便秘、宿便、尿閉。知的発達症の方では本人が訴えないためにせん妄が唯一の手がかりになることがある。
薬剤 特に新しく始めた薬、用量を増やした薬、逆に急に中止した薬の前後に注意。抗コリン作用薬、ベンゾジアゼピン系眠剤・抗不安薬、オピオイド鎮痛薬、ステロイド、抗ヒスタミン薬など。
外傷・急性疾患 転倒後の頭部打撲(硬膜下血腫に注意)、骨折、心筋梗塞、脳卒中、痙攣発作後。
環境変化 入院、居室変更、親しい職員・利用者の不在、眼鏡や補聴器の紛失。これらだけでせん妄になるわけではなく、上記の身体要因があるところに環境変化が加わると発症しやすい。
「沈黙の危険因子」 ― 便秘と尿閉

知的発達症の方のせん妄で、しばしば見逃される原因が便秘と尿閉です。一般の高齢者であれば「お腹が張って苦しい」「尿が出なくて辛い」と訴えますが、知的発達症の方はこれを言葉にできません。本人は強い苦痛の中にいるのに、周囲には「なんとなく不穏」「ぼんやりしている」としか見えません。せん妄を疑ったときは、排便・排尿の状況を必ず確認することが基本です。排便が数日ない、尿量が極端に少ない、下腹部が膨らんで硬い ― こうした所見があれば、医療スタッフに必ず伝えてください。

もっと詳しく:薬剤性せん妄 ― 多剤併用への注意

知的発達症の方は、発達障害関連の薬、てんかん薬、抗精神病薬、睡眠薬、便秘薬、降圧薬、糖尿病薬など、多くの薬を併用している(多剤併用、polypharmacy)ことが少なくありません。高齢化に伴って処方がさらに増え、10種類を超えることも珍しくありません。この多剤併用は、せん妄の大きな誘因です。

特に注意すべき薬剤のカテゴリーは以下の通りです。

  • 抗コリン作用をもつ薬:第一世代抗ヒスタミン薬、三環系抗うつ薬、一部の抗精神病薬、過活動膀胱治療薬、胃腸薬(ブチルスコポラミン等)、抗パーキンソン薬の一部。複数の薬がそれぞれ弱い抗コリン作用をもつ場合、合算されてせん妄を誘発することがあります(抗コリン負荷)。
  • ベンゾジアゼピン系:眠剤(ブロチゾラム、トリアゾラム、ゾルピデム等)、抗不安薬(ロラゼパム、エチゾラム等)。高齢者では代謝が遅れ、持ち越し効果によって日中のせん妄を起こす。
  • オピオイド鎮痛薬:痛み止めとして処方されたものが認知機能に影響することがある。
  • ステロイド:高用量で使用すると、せん妄や精神症状を誘発することがある。
  • 抗けいれん薬の血中濃度変動:知的発達症の方で併存することの多いてんかんの薬が、体重変化・他剤併用・食事摂取低下などで血中濃度が変動すると、せん妄様の症状が出ることがある。

職員として重要なのは、「新しい薬が始まった/用量が変わった/急に中止された」という事実を記録しておき、その前後で利用者の様子に変化があれば医療スタッフに伝えることです。多剤併用の整理(減薬)は医師の判断ですが、職員の観察情報がなければその判断の材料が集まりません。

もっと詳しく:せん妄と認知症の見分け方

せん妄と認知症は、どちらも「認知機能の低下」として現れるため、混同されがちです。しかし、両者は病態も対応も全く異なります。下記の対比で基本を押さえておくことが有用です。

観察項目 せん妄 認知症
発症 急激(数時間〜数日) 緩徐(数ヶ月〜数年)
経過 日内変動あり、波がある 比較的一定、ゆっくり進行
注意 集中が保てない、散漫 比較的保たれる(進行期は別)
意識レベル もうろう、低下、変動 通常はクリア
幻覚・妄想 急に出現することが多い 進行期に出現(DLBでは早期から)
可逆性 原因治療で戻る 原則戻らない(一部の二次性は別)
緊急性 高(身体疾患の警告) 長期的な対応が必要

重要なのは、認知症のある方にも、新たにせん妄が重なることがあるという点です。普段は穏やかな認知症の方が急に錯乱状態になった場合、それは認知症の「進行」ではなく、身体疾患によるせん妄の合併である可能性が高いのです。この場合、身体疾患を治療すればせん妄部分は改善し、元の認知症状態に戻ります。認知症だから仕方ない、と片付けないことが大切です。

4-5. 知的発達症の方におけるせん妄の特別な難しさ

知的発達症の方のせん妄には、支援者側が特に意識すべき難しさがあります。

したがって、知的発達症の方のせん妄では、本人からの訴えを待っていてはいけません。職員が積極的に「いつもと違う」を探しに行く姿勢が必要です。具体的には次のような観察と記録を日常に組み込みます。

4-6. せん妄を疑ったら ― 医療スタッフへの伝え方

「せん妄かもしれない」と気づいたら、できるだけ早く医療スタッフに連絡します。そのとき医療スタッフが必要としている情報は、次の5点です。

  1. いつから変化が始まったか(最も重要。「昨日の夕食後から」「今朝から」など、できるだけ具体的に)
  2. 何か変わったことがあったか(新しい薬の開始、用量変更、発熱、転倒、食事摂取の変化、便通の変化、環境の変化など)
  3. どのように「いつもと違う」か(「ぼんやりしている」「反応が遅い」「目が合わない」「うとうとしている」「興奮している」「急に怖がる」など、具体的な言葉で)
  4. バイタルサイン(測定できれば体温・脈拍・呼吸数・血圧)
  5. 排尿・排便の状況(最終排便日、最終排尿時刻、尿量、便の性状)
救急対応が必要なサイン

以下のいずれかがあれば、医療スタッフにただちに連絡し、必要に応じて救急搬送も検討してください。

せん妄中の支援の基本

医療的対応と並行して、せん妄の中にいる利用者への支援そのものも重要です。基本は「安全を確保し、安心させ、刺激を減らす」の三点です。

せん妄は、早期発見・早期対応ができれば、多くの場合数日から1〜2週間で元の状態に戻ります。職員の「何かおかしい」という気づきが、文字通り利用者の命を守ることにつながります。

5. 軽度神経認知障害(6D71

軽度神経認知障害(mild neurocognitive disorder)は、かつて「軽度認知障害/MCI(Mild Cognitive Impairment)」と呼ばれていた状態を、ICD-11が正式な診断名として収載したものです。ただし、この診断を知的発達症をもつ方に当てはめることは、実務上きわめて困難です。本節では、その理由と、職員が現場でどう捉えればよいかを整理します。

5-1. 一般高齢者における軽度神経認知障害の位置づけ

一般の高齢者における軽度神経認知障害は、「正常な加齢よりは明らかに認知機能が下がっているが、まだ認知症とまでは言えない」という中間段階を指します。物忘れが増えた、複数の用事を同時にこなすのが苦手になった、計算が遅くなった ― といった変化があるものの、日常生活は基本的に自立している段階です。

この段階を捉える意義は、アルツハイマー病などの神経変性疾患の早期発見にあります。軽度神経認知障害の方のうち、一定割合は数年のうちに認知症へと進行します。早期に気づくことで、生活調整・家族支援・将来設計の準備を始めることができます。

5-2. なぜ知的発達症の方では診断が困難なのか

しかし、この「正常加齢と認知症の中間」という位置づけを、知的発達症をもつ方に適用しようとすると、複数の困難に突き当たります。

軽度神経認知障害の診断が困難な理由

実務上は、知的発達症の方において「軽度神経認知障害」という診断名がつくことはあまり多くありません。症状が明らかになってから医療機関を受診し、そのときには既に認知症に相当する状態へ進行していた ― というのが典型的な経過です。後から振り返って「数年前の時点では軽度神経認知障害に相当していたのだろう」と推測されることが多いのです。

5-3. 職員にとっての実践的な意味

以上を踏まえて、職員が日常の支援で意識すべきことは、以下の3点に絞られます。

  1. 「軽度神経認知障害」という診断名を目標にしない。診断を付けること自体が目的ではなく、その方の生活の変化を捉えることが目的です。医師が「軽度神経認知障害」と診断を下すかどうかは医療側の判断であり、職員はその判断材料を提供する立場にあります。
  2. 微細な変化を記録し続ける。9.2節で扱った6領域(日常生活動作・コミュニケーション・社会的交流・興味/嗜好・運動・睡眠)について、たとえ「気のせいかもしれない」程度の小さな違和感でも、日付とともに記録する習慣をもつ。数ヶ月〜1年後に振り返って初めて、その記録が経過を示してくれることがあります。
  3. 「進行しているか」を半年〜1年の単位で見直す。一度気になった方について、半年後・1年後に「より明らかになっているか/変わらないか/改善しているか」を評価する習慣をつける。明らかな進行があれば、医療相談のタイミングです。
「気のせい」を記録する価値

「以前より少し食べるのが遅くなった気がする」「前ほど自分から話しかけてこなくなった気がする」 ― こうした印象は、単独では取り上げるほどのものに見えません。しかし、記録として残しておくと、半年後・1年後に振り返ったときに「やはりあのときから始まっていた」という経過が見えてきます。「気のせい」と流さずに記録しておくことが、軽度の段階での気づきを可能にする唯一の方法です。

もっと詳しく:知的発達症の方の高齢期認知機能を追跡する特別な尺度

国際的には、知的発達症をもつ方の加齢に伴う認知機能変化を追跡するための専用尺度がいくつか開発されています。いずれも、一般向けの認知機能検査とは異なり、本人への直接実施ではなく、情報提供者(本人を日常的に知る人)への聞き取り形式で評価する点が共通しています。

  • DMR(Dementia Questionnaire for Persons with Mental Retardation):知的発達症の方一般を対象にした古典的な情報提供者評価尺度。
  • DSDS(Dementia Scale for Down Syndrome):Down症候群の方に特化した尺度。アルツハイマー病による認知機能低下の徴候を経時的に追跡することを目的とする。
  • CAMDEX-DS(Cambridge Examination for Mental Disorders of Older People with Down's Syndrome and Others with Intellectual Disabilities):情報提供者面接と本人評価の両方を組み合わせた、より包括的な評価体系。

これらは日本の施設で日常的に使用されるツールではありませんが、「情報提供者に繰り返し同じ項目を尋ね、経時的に比較する」という発想は、職員の日常記録にそのまま活かせます。過去の記録と現在の状態を対照させるとき、「同じ項目について、半年前の自分たちはどう書いていたか」を意識するだけで、変化を捉える視点が鋭くなります。

6. 健忘症(6D72

健忘症(amnestic disorder)は、記憶だけが突出して障害され、他の認知機能は比較的保たれているという珍しいパターンを示す神経認知障害です。一般的な認知症が複数の認知領域にわたって低下するのに対し、健忘症では「最近のできごとを覚えていない」「新しいことを学習できない」という記憶の問題が際立っており、会話の流暢さ、判断力、身辺自立などは比較的保たれているのが特徴です。

6-1. 健忘症の主な原因

健忘症を引き起こす主な原因は以下です。

6-2. 施設における実務上の位置づけ

知的障害児者施設で「健忘症」という独立した診断がつくことは多くありません。その理由は2つあります。第一に、上記の原因疾患自体が施設の利用者では比較的稀だからです。第二に、もともと記憶や学習に特性のある方では、「記憶だけの選択的な障害」というパターンを臨床的に抽出しにくいからです。

むしろ職員として実務的に重要なのは、健忘症という診断名そのものよりも、以下の2つの場面を認識しておくことです。

職員が意識すべき2つの場面
  1. ベンゾジアゼピン系薬剤の長期使用中の方:抗不安薬・眠剤として処方されているベンゾジアゼピン系薬剤(ロラゼパム、エチゾラム、ブロチゾラム、トリアゾラムなど)は、長期使用により記憶障害を含む認知機能への影響が出ることがあります。「急に物覚えが悪くなった」と感じたとき、この薬剤の影響の可能性を医療スタッフと共有することは有用です。
  2. 頭部打撲後の記憶の混乱:転倒で頭を打った後、直後は意識がしっかりしていても、数時間〜数日経ってから「さっきのことを覚えていない」「直前のできごとを繰り返し尋ねる」といった状態が出ることがあります。これは慢性硬膜下血腫や脳震盪後症候群の可能性を示すサインで、医療機関への相談が必要です。

いずれも、独立した診断としての「健忘症」というよりは、薬剤性の認知機能低下頭部外傷後の遅発性症候として捉えるほうが実践的です。本章の背骨である「ベースラインからの変化」の枠組みで、記憶に関する変化を他の領域と並べて観察していけば十分に対応できます。

7. 認知症の一般的診断要件と重症度

せん妄(急性の変化)、軽度神経認知障害(軽い低下)、健忘症(記憶だけの障害)を見てきました。本節からは、神経認知障害群の中で最も頻度が高く、かつ施設の日常にもっとも深く関わる認知症について解説します。まず本節で認知症の一般像と重症度の枠組みを扱い、次節で原因疾患別の特徴を見ていきます。

本節の要点

認知症とは、一言で言えば「2つ以上の認知領域の低下が続き、日常生活に目に見える影響が出ている状態」です。多くは数年をかけて徐々に進行し、知的発達症の方では既存の特性の上に重なる形で現れます。重症度は軽度・中等度・重度の3段階で、それぞれ必要な介護の内容が大きく異なります。

7-1. 「認知症」とは何を指すのか

ICD-11での認知症の捉え方はシンプルで、以下の4条件を柱としています。

「2領域以上」という条件が大切です。記憶だけの低下は健忘症、注意だけの一過性の混乱はせん妄、というように、単一領域の障害は認知症とは呼ばれません。認知症は複数領域にわたる持続的な低下です。

知的発達症の方で「2領域以上」をどう確かめるか

前述の通り、知的発達症の方では標準化検査による認知領域ごとの定量評価は困難です。その代わりに、職員の観察で複数領域にまたがる変化が同時期に出てきているかを見ます。たとえば、「食事の仕方が崩れてきた(日常生活動作)」+「顔なじみの職員がわからなくなってきた(社会的認知)」+「夜間の徘徊が出てきた(睡眠覚醒)」のように、3領域にわたって新しい変化が揃っていれば、認知症の併存を疑う強い手がかりになります。一つの領域だけの変化は、他の要因(体調不良、環境変化、薬剤の影響など)であることも多いので、慎重に判断します。

7-2. 認知症の重症度 ― 軽度・中等度・重度

認知症は、その時点で介護にどれだけの手がかかるか、本人がどこまで自立した生活を送れているかによって、3段階で表されます。ICD-11では以下のコードで記載されます。

たとえばアルツハイマー型認知症の中等度の場合、6D80&XS0Tというようにアンパサンド(&)で連結して記載されます。職員がこれらのコードを日常で使うことはありませんが、医療機関からの診断書にこの形で書かれていることがあります。

重症度ごとの特徴を、一般高齢者と知的発達症の方の両方の視点で整理します。

段階 一般高齢者の典型像 知的発達症の方で現れやすい姿
軽度
XS5W
複雑な判断や計算は難しくなるが、基本的な日常生活は自立。買い物・金銭管理で混乱が出る。見守りがあれば一人暮らしも何とか可能。 これまで自分でできていた日課(特定の作業、着替え、食事、入浴の一部)が部分的に崩れ始める。自分の部屋のドアを間違える・食堂への道順で迷うなどの空間認識の低下が早期のサインとして現れやすい。親しい職員の顔はまだわかる。
中等度
XS0T
基本的な日常生活にも介助が必要。着替え・入浴・トイレで介助。失禁が出始める。家の中でも迷う。家族の名前が出てこないことがある。 食事・着替え・入浴のすべてに何らかの介助が必要。尿便失禁が増える。顔なじみの職員と初対面の人を混同する。言葉による意思疎通が減る。夜間の徘徊・不穏が出る。
重度
XS25
ほぼ全面的な介護が必要。歩行困難、寝たきりに近づく。嚥下障害が出る。会話はほとんど成立しない。人の識別が極めて困難。 日常生活のすべてに全面介助。食事は介助で一口ずつ、嚥下困難が出始める。尿便失禁は恒常化。発語がほぼなくなる、あるいは単音のみ。痰の吸引・誤嚥性肺炎予防など医療的ケアの比重が増す。
重症度は進行する ― 「今のこの方」ではなく「数年後のこの方」も見据える

認知症の多くは進行性です。軽度の段階で気づき、次に中等度、数年後に重度へと段階が進んでいきます。したがって施設側は、「現在のこの方」だけを見て支援を組み立てるのではなく、「この方は今後さらに変わっていく」という前提で、環境の連続性・顔なじみの関係の維持・日課のリズムの保持を早くから意識することが重要です。

7-3. 環境の連続性 ― 認知症の進行への備え

認知症の方は、新しいことを学ぶ力が弱っていきます。新しい場所、新しい人、新しい手順を記憶することが困難になるため、馴染みのある環境の連続性が本人の安心と機能維持の大きな支えになります。

もっと詳しく:重症度評価の実際と経過の記録

ICD-11の重症度コード(XS5W/XS0T/XS25)は、医療機関での評価時に付けられるものですが、一度付けられたら固定ではありません。経過とともに重症度は上がっていくのが通常です。

施設では、医療機関から受け取る診断書の記載の変化を経時的にまとめておくと、本人の進行経過が可視化されます。また、施設側の独自の記録として以下を継続的に残すことも重要です。

  • 食事摂取の形態と量(普通食 → きざみ食 → ペースト食 → 経管など)
  • 移動の手段(自立歩行 → 杖 → 車椅子 → ベッド上)
  • 発語・応答の変化(文での応答 → 単語 → うなずき → 無反応)
  • 夜間睡眠と日中覚醒の状況
  • 薬剤の種類と量の変化

これらの情報は、定期診察時に医療スタッフに提供することで、重症度評価と治療方針の見直しに貢献します。また本人のご家族に対しても、経過を具体的な事実として共有する基礎資料となります。

8. 原因別の認知症

本節の目的

認知症には原因となる脳の病気がさまざまあり、それぞれに進行の速さ、現れる症状、対応の要点が異なります。本節では、施設で遭遇しうる代表的な原因別の認知症を概観します。職員が診断するためではなく、「原因によって経過も対応も違う」という感覚を身につけるためです。特に治療で改善可能なものを見逃さない視点を強調します。

8-1. アルツハイマー病による認知症(6D80

最も頻度が高い認知症で、高齢者の認知症の半数以上を占めます。

「自分の部屋のドアを間違える」を入り口の指標に

当法人の知的障害児者施設は基本的に個室対応になっており、一人ひとりに「自分の部屋」があるという前提で生活が組み立てられています。この環境は、アルツハイマー病の初期を捉えるうえで大きな強みになります。

アルツハイマー病では、記憶とほぼ同じ時期に、あるいはそれに先立って、空間認識能力の低下が起こります。脳の中で、場所を記憶・認識する役割を担う海馬周辺や頭頂葉が早い段階で障害されるためです。一般高齢者向けの認知機能検査では「日付がわからない」「単語を覚えていない」などを問いますが、これらは言語による問答を必要とするため、知的発達症の方には使えません。一方、「自分の部屋のドアを間違える」「他の方の部屋に入ってしまう」「食堂から自室に戻れない」といった行動は、言語によらない直接的な徴候です。職員が毎日の生活の中で自然に観察できる、最も実践的な指標の一つといえます。

「あの方、最近、部屋を間違えることが増えていませんか」という職員間の会話が、認知症の気づきの入り口になりえます。

8-2. 脳血管性認知症(6D81

脳梗塞や脳出血、目に見えないほど小さな血管病変の積み重ねによって生じる認知症です。

8-3. レビー小体病による認知症(6D82

アルツハイマー病に次いで頻度の高い認知症です。

レビー小体病と抗精神病薬 ― 重大な薬剤感受性

レビー小体病の方は抗精神病薬に対する感受性が極めて高いという特徴があります。BPSDへの対応として抗精神病薬(ハロペリドール、リスペリドンなど)を投与すると、ごく少量でも著しいパーキンソン症状の悪化、意識レベルの低下、嚥下障害、時には重篤な全身状態の悪化が起こりえます。幻視・不穏が見られる利用者では、BPSDとして薬物対応する前に、まずレビー小体病の可能性を医療スタッフと共有し、薬剤選択・用量を慎重に判断することが大切です。

8-4. 前頭側頭型認知症(6D83

前頭葉・側頭葉の萎縮による認知症で、記憶よりも先に性格・行動・言語が崩れるという他の認知症とは異なる経過をとります。比較的若年(50-60代)で発症することが多いのも特徴です。

前頭側頭型と知的発達症・ASDの特性の見分け

前頭側頭型認知症の行動変異型は、知的発達症や自閉スペクトラム症の行動特性と表面的に似ることがあります。両者を分ける決定的な点は「いつから出現したか」です。

「以前はこうではなかったのに、最近変わってきた」という時間軸の観察が、この鑑別の鍵になります。これもまた、本章を貫く「ベースラインからの変化」の枠組みに従う観察です。

8-5. 薬剤・物質による認知症(6D84) ― 治療可能性に注目

施設の利用者で特に注意が必要な原因です。薬剤を調整すれば改善する可能性があるため、見落としを避けたい類型です。

薬を「減らすと良くなる」認知症がある

知的発達症の方は、若い頃から長期にわたって向精神薬を服用していることが少なくありません。その方が高齢期に入り、認知機能の低下が疑われたとき、もし薬剤性の要素が混じっていれば、慎重に薬を減らすことで本人の認知機能が回復することがあります。職員として「この方、薬が多すぎるのではないか」という気づきは、医療スタッフに相談する価値の高い観察です。ただし急な中止は離脱症状を起こすため、必ず医療判断のもとで漸減します。

8-6. その他の疾患による認知症(6D85

以下の疾患がICD-11で独立に挙げられています。施設での遭遇頻度はまちまちですが、特に治療で改善可能なものは見逃しを避けたいところです。

原因疾患 コード 特徴 治療可能性
Parkinson病による認知症 6D85.0 パーキンソン症状(手の震え、動作緩慢)が先行し、1年以上あとから認知低下が加わる。レビー小体病と病理的に関連。 Parkinson病自体の治療でQOL維持は可能。認知低下自体は進行性。
Huntington病 6D85.1 遺伝性。舞踏運動(不随意運動)+認知低下+精神症状。30-40代発症が多い。 根治治療はなく、対症療法。
重金属・毒物による認知症 6D85.2 鉛・水銀・マンガンなどの曝露による。 曝露を絶てば改善することがある
HIVによる認知症 6D85.3 HIV感染の経過中に出現。皮質下型の認知低下。 抗レトロウィルス療法で進行の抑制。
多発性硬化症による認知症 6D85.4 脱髄病変の積み重ね。処理速度・注意・記憶の障害。 原疾患の治療で進行抑制。
プリオン病による認知症 6D85.5 クロイツフェルト・ヤコブ病など。数ヶ月で急速に進行 治療法なし。施設で遭遇は稀。
正常圧水頭症(NPH) 6D85.6 歩行障害・尿失禁・認知低下の3徴。脳脊髄液の循環異常。 シャント手術で劇的に改善することがある。見逃し厳禁。
頭部外傷後の認知症 6D85.7 転倒・交通事故などの後に出現。慢性硬膜下血腫は遅発性(1-3ヶ月後)。 血腫があれば手術で改善する
ペラグラによる認知症 6D85.8 ビタミンB3(ナイアシン)欠乏による。偏食・吸収障害・一部の薬剤が原因。 栄養補給で完全に改善する。
Down症候群による認知症 6D85.9 次節(9節)で独立に解説。 進行を止める治療法はない。
見逃してはならない「治療で戻る認知症」

上記の表の中でも、以下は見逃さずに医療機関の評価につなぐことで、大きく回復する可能性がある重要なものです。「認知症だから仕方がない」と諦めてしまう前に、これらの可能性を考慮してください。

もっと詳しく:認知症と紛らわしい「うつ状態による偽認知症」

「認知症のように見えるが、実は別のもの」という状態があります。代表がうつ状態による偽認知症(pseudodementia)です。高齢者の重いうつ状態では、反応が鈍く、注意が集中できず、記憶も悪くなり、表情も乏しくなり、身辺自立も落ちます。これらは認知症の症状と非常によく似ています。

両者を分けるポイントは以下の通りです。

  • うつ状態による偽認知症:本人に「わからない」「できない」というつらさ・自覚がある。過去への罪悪感や自責感を訴える。症状の進行が比較的急(数週〜数ヶ月)。
  • 認知症:本人は自覚が乏しい。作話(実際と違うことを話す)が混じる。症状は数ヶ月〜数年かけてゆっくり進む。

知的発達症の方では、うつ状態そのものが言語化されにくく、見分けがいっそう難しくなります。「急に食べなくなった」「活動に参加しなくなった」という変化がうつによるものである可能性は、常に念頭に置いておく必要があります。

偽認知症はうつ状態の治療(抗うつ薬、環境調整、関わりの工夫)で改善します。見逃さずに医療機関で評価してもらうことで、本人のQOLを大きく回復できる可能性があります。

9. Down症候群による認知症(6D85.9

本節の要点

Down症候群の方には、40歳代から早めにアルツハイマー型の認知症が現れてくることがよく知られています。年齢の進んだDown症候群の利用者については、「認知症が併存してくる」という前提で支援を組み立てていくのが現実的です。

9-1. Down症候群の方にアルツハイマー病が加わりやすい理由

Down症候群は21番染色体が1本多い(トリソミー21)ことによる先天性の疾患です。この21番染色体には、アルツハイマー病の原因物質であるアミロイドβの前駆体タンパク質(APP)の遺伝子が載っています。そのため、Down症候群の方では通常の1.5倍のAPPが作られ続け、脳にアミロイド斑が早期から蓄積します。これが40歳代からアルツハイマー型の病理が現れはじめる根本的な理由です。

Down症候群の方の平均寿命は医療の進歩とともに延び、現在では60歳前後に達しています。これは同時に、認知症と向き合う時間が生涯のかなりの部分を占めることを意味します。Down症候群の方の約半数以上が、人生のどこかでアルツハイマー型認知症を併発すると言われています。

9-2. Down症候群の方の認知症の現れ方 ― 性格と行動の変化が先行

興味深いのは、Down症候群の方の認知症は、一般のアルツハイマー病と少し異なり、記憶障害よりも先に「性格と行動の変化」が現れる傾向があることです。

その後、日常生活動作の崩れ、尿便失禁、嚥下困難、歩行障害などが加わっていきます。

Down症候群の方では若いうちから「ベースライン」を記録しておく

Down症候群の方の認知症併存を早期に捉えるには、若いうち(20-30代)からの詳細なベースライン記録が決定的に重要です。以下を施設の記録として整えておくことをお勧めします。

これらは、10年後、20年後にその方の変化を捉えるための、唯一の基準点となります。

9-3. 支援の要点 ― 「早めの準備」が鍵

Down症候群の方が40歳を超えたあたりから、施設側はおおよそ次のような備えを意識し始めます。

10. 認知症に伴う行動・心理症状(BPSD、6D86

本節の要点

認知症の方には、認知機能の低下そのもの以外にも、行動や心の面でさまざまな症状が現れます。これらは総じてBPSD(behavioural and psychological symptoms of dementia、認知症の行動・心理症状)と呼ばれます。介護の現場では、認知機能の低下そのものよりも、BPSDへの対応が大きな課題になることが多くあります。知的発達症の方ではもともとの行動特性とBPSDの見分けが特に難しく、ていねいな観察が要となります。

10-1. ICD-11における7種類のBPSD指定子

ICD-11では、認知症の診断コードに加えて、以下の7種類のBPSD指定子を組み合わせて記載します。どの症状が前面に出ているかを示すものです。

コード 症状群 具体的な現れ
6D86.0精神病症状幻覚、妄想(「物を盗られた」「誰かがいる」など、事実でないものを強く信じる)
6D86.1気分症状抑うつ、易怒、高揚、気分の極端な変動
6D86.2不安症状落ち着かない、人についていきたがる、一人でいられない
6D86.3アパシー(無気力)何にも興味を示さない、発語が減る、活動への参加がなくなる
6D86.4焦燥・攻撃性落ち着かず歩き回る、叫ぶ、介助を拒否する、手を上げる、物を投げる
6D86.5脱抑制社会的な制御が利かない行動、大声、人前での不適切な言動、食べ物でないものを口にする
6D86.6徘徊目的なく歩き回る、施設から出ていこうとする、帰宅願望

10-2. とくに見落とされやすいBPSD ― アパシー

BPSDというと、叫ぶ・暴れる・徘徊するといった目立つ症状に注意が向きがちです。しかし実は、施設で最も見落とされやすく、最も本人のQOLを損なっているのはアパシー(無気力)です。

「おとなしくなった」「手がかからなくなった」という表現でしばしば肯定的に捉えられがちですが、本人の中では興味・喜び・人との関わりが失われていく深刻な状態です。気分症状(抑うつ)と重なることも多く、言葉にならない苦痛として本人を覆います。

「静かになった」を警戒する

手のかからない利用者が、ある時期から急に「静かになった」「大人しくなった」と感じたら、介護の観点では好ましい変化に見えるかもしれませんが、その背景にアパシー・抑うつ・身体疾患・認知低下が隠れている可能性を考えてください。長年のにぎやかさが失われることは、必ずしも「落ち着いた」を意味しません。

10-3. 知的発達症の方のBPSD ― もとからの行動特性との見分け

自閉スペクトラム症や知的発達症の方には、もともと以下のような行動特性があることが多くあります。

これらは、その方の発達期からの特性であって、BPSDではありません。両者を見分けるポイントは以下です。

もとからの行動特性 発達期からずっとあるもの ・パターンが長年一貫している ・生涯にわたって持続 ・急な変化や崩れはない → BPSDではない BPSD 加齢とともに新たに出現 ・以前はなかった行動 ・他の変化と時期が重なる ・もとのパターンが崩れている → BPSDの可能性
図9-5 もとからの行動特性とBPSDの見分け
「以前からずっとあるか」「最近新たに出てきたか」という時間軸が決定的な鍵になります。

また、第7章(強迫症または関連症群)で扱った反復行動や、付録のカタトニアでも、同じような表面像を示すことがあります。鑑別が難しいときは、必ず医療スタッフに情報提供してください。

10-4. BPSD対応の基本 ― まず環境と関わり、薬は最後の手段

BPSDへの対応の第一選択は非薬物的対応です。薬物療法は、本人と周囲の安全を守るためにやむを得ない場合の選択肢であり、最初から薬ではありません。

非薬物的対応の基本
BPSD対応での抗精神病薬 ― 慎重な判断を

BPSDの焦燥・攻撃性に対して抗精神病薬(リスペリドン、ハロペリドールなど)が使われることがあります。有効な場合もありますが、以下のリスクがあります。

職員としては、「まず環境と関わりで対応し、それでも困難な場合に医療相談」という順序を意識することが大切です。処方された場合も、副作用の観察(転倒、歩行の変化、傾眠、嚥下の低下)を続け、変化を医療スタッフと共有します。

11. 職員の日常観察と医療連携 ― 本章のまとめ

本節の要点

本章を通して繰り返し述べてきたことを、ここで実務的な形に整理します。職員の日々の観察を具体的な記録に翻訳し、適切なタイミングで、適切な医療者に、適切な情報として伝える ― この一連のつながりが、利用者の認知機能低下を早期に捉え、可能な対応へとつなげていく道筋です。

11-1. 観察を記録にする ― 具体的な事実として残す

「最近元気がない」「なんとなく違う」という職員の直感は、重要な一次情報です。しかしそのままでは医療連携の場面で使いにくいので、具体的な事実に翻訳していきます。

記録を「使える情報」にするための4つのコツ
  1. 具体的な事実で書く:「食欲がない」→「10月15日の夕食、主食半分、副菜は手つかず」
  2. 日付と時間を残す:「最近」「この前」ではなく「10月15日の朝食から」
  3. 頻度と持続を書く:「時々」ではなく「週3回程度、過去1ヶ月」
  4. 比較の基準を書く:「普段はお代わりをされる方だが、先月から最初の1杯を半分残されるようになった」のように、ベースラインとの対比を書く

11-2. 医療スタッフに伝える ― 話し方のテンプレート

診察の機会や嘱託医への報告で、何を話すかの基本形があります。以下の順で組み立てると、限られた時間の中でも核心が伝わります。

  1. 主訴:「この方に、最近こういう変化が出ています」(一言で)
  2. 時間経過:「○月頃から徐々に/○月○日から急に」
  3. 具体的エピソード:「たとえば、先週は〜〜ということがありました」(1〜2個)
  4. 背景の変化:最近の薬剤変更・環境変化・身体症状
  5. 相談事項:「認知症の可能性を検討していただけないでしょうか」「薬剤の影響の可能性はありますか」など、具体的に

11-3. どの医療者にいつつなぐか

状況 つなぐ先 タイミング
急な変化(意識・行動)救急、あるいは嘱託医即時
緩やかな変化が数ヶ月続いているかかりつけ医、嘱託医次回定期診察、あるいは早めに予約
身体疾患の合併が疑われる内科、必要により神経内科気づいてから1週間以内
気分・不安・精神病症状精神科医症状の持続が2週間以上で相談
転倒後の変化脳外科、整形外科即時〜数日以内
薬剤の見直しが必要と感じる処方医次回診察で具体的に相談

11-4. 家族との関係

ご家族は、本人の若い頃・壮年期・中年期を知っておられる、かけがえのない情報源です。また、認知症が進んでいく経過を、家族も一緒に受け止めていく必要があります。

11-5. 本章を閉じるにあたって ― 「その人」を見続けること

認知症が併存してきても、その方がその方であることは変わりません。名前で呼び、目を見て、手を握り、長年その方と関わってきた関係性を保つ ― これらの基本は、言葉が減り、認識が薄れていく中でも、本人に届きます。むしろ、認知機能が失われていく中では、こうした非言語のつながりがいっそうの重みを持ちます。

認知機能の低下は、本人にとっても「以前できていたことができない」という深い苦痛を伴います。それは、本人から見れば自分自身の一部が失われていく体験です。この苦痛に寄り添い、安心と尊厳を保てる環境を用意することが、職員の仕事の根幹です。ICD-11という国際的な共通言語は、そのために使う道具であって、目的ではありません。

この章のまとめ

知的発達症をもつ利用者の高齢化に伴い、アルツハイマー病などの神経認知障害が併存してくる方が増えてきています。一般向けの認知症スクリーニング検査は役に立たず、職員による「ベースラインからの変化」の観察こそが、唯一の信頼できる手がかりです。急な変化はせん妄(医療的緊急事態)を、緩やかな変化は認知症を疑います。対応の中心は非薬物的な関わりであり、環境の連続性・日課の維持・身体的不快の除去・穏やかな関わりが鍵となります。

本章を通じて強調したのは、施設職員こそが最も重要な観察者であるということです。何年、時には何十年にわたって本人と関わってきた職員の「いつもと違う」という気づきに、代わるものはありません。その気づきを具体的な事実として記録し、適切な医療者に伝えること ― これが、神経認知障害の早期発見と適切な介入を可能にします。