一 はじめに——なぜいまウスティノーワか
著者ユリア・ウスティノーワ(Yulia Ustinova)は、日本ではまだほとんど知られていない。レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれ、1988年にソ連科学アカデミー考古学研究所レニングラード支部で学位を取得したのち、イスラエルに移り、現在はベン゠グリオン大学(ネゲヴ)一般史学科の教授である。専門は古代ギリシア宗教、宗教の認知科学的研究、黒海北岸(ボスポロス王国)研究であり、その経歴は碑文学・考古学から認知宗教学へという明確な軌跡を描いている。第一の主著『The Supreme Gods of the Bosporan Kingdom』(Brill, 1999)[3]は黒海北岸の宗教碑文の研究であり、第二の主著『Caves and the Ancient Greek Mind』(Oxford University Press, 2009)[2]で、洞窟への降下と真理探求の結びつきという本書の原型となる主題に到達した。本書『Divine Mania』(2018)[1]はその延長線上で、対象を洞窟から「マニア」の全域へと拡大したものである。関連論文として、mania と mnêmê の同根性を論じた「Madness into Memory」(2012)[4]、意識変容研究の大家カルデーニャとの共著「Combat Stress Disorders and Their Treatment in Ancient Greece」(2014)[5]、そして精神医学史の専門誌に寄せた「Alteration of Consciousness in Ancient Greece」(History of Psychiatry, 2020)[6]があり、最後のものは本書の議論を精神医療の読者向けに自ら要約した恰好の入門となっている。
近い将来に邦訳が現れる見込みは乏しく、また本書の主題は古典学の内部にとどまらない。ギリシア人が意識変容をどう遇したかという問いは、精神障害の境界を文化がどう引くかという、現代の分類学(ICD-11 のトランス症・憑依トランス症の文化的除外規定)に直結する問いだからである。学説史の座標で言えば、ドッズ『ギリシア人と非理性』(1951)[13]が「非理性」をなおギリシア合理主義の側から説明されるべき問題として扱ったのに対し、およそ七十年を経た本書は、それを説明を要しない主流として描く——この転回こそ本書の学説史的位置である。評者は別稿「二つのマニア論」(本紀要に草稿公開中)において本書を概念史の柱として用いているが、本書自体の面白さは概念史の枠に収まらない。本稿はその面白さを、精神科医に限らず、心理士・精神保健福祉士を含む広い意味での精神医療関係者の読者に向けて紹介することを目的とする。以下、引用は本書からの評者訳であり、プラトンなどの古典からの引用は、クーパー編英訳版(Plato: Complete Works, Hackett, 1997)およびプレイヤード版仏訳を底本とする評者の重訳である(箇所はスティファヌス頁等で示し、鍵語についてはギリシア語原文の該当語を確認した)。〔 〕内は要確認の箇所を示す。
二 本書の構えと方法
出発点はプラトン『パイドロス』——ソクラテスが青年パイドロスと、アテナイ城壁外のイリソス川のほとりで恋と弁論術を語り合う対話篇——の一節である。「最大の善は、神からの贈り物としてのマニアを通じて訪れる」[7]。ソクラテスはマニアを人間的な病に由来するものと、神に由来するものとに二分し、後者を四神四種に分ける——予言的マニア(アポロン)、テレスティケー=秘儀的マニア(ディオニュソス)、詩的マニア(ムーサ)、恋のマニア(アプロディテとエロス)。先行研究には、この「狂気=祝福」をプラトン個人の発明とみなし、後世の西洋文化がそれを実体化したにすぎないとする見解がある。本書の中心テーゼはその反対である。プラトンは発明したのではなく、同時代ギリシアの文化的現実を凝縮し体系化した。本書の八章とエピローグは、この主張の実証にあてられる[1]。
方法論上の要点は三つある。第一に語彙論。ギリシア語 mania は madness や frenzy では覆えない。恍惚の予言から暴力的逆上まで、通常の意識状態からのあらゆる逸脱を指し、自発的か不随意か、病か賜物かを問わない。著者はそれゆえ訳さずに mania を用いる。語源も示唆的で、mania(狂気)・menos(精神力)・mnêmê(記憶)は同じ印欧語根 men- に発する同族語である——狂気と精神力と記憶の同根性は他言語に類を見ない[4]。第二に、変性意識状態(ASC)研究の導入。意識変容は人類普遍の生物学的潜在能力であり(ブルギニョンの調査では約五百の伝統社会の九割に制度化された ASC の形態がある)、ゆえに現代の認知科学・人類学の知見を——ギリシアの証拠を常に一次的な軸としたうえで——慎重に適用できる。推論は一本の鎖ではなく複数の撚り糸からなる「ケーブル」として組まれる。第三に、ポーランドの神経生理学者イェジ・コノルスキ(1903–1973)に由来する、問いの逆転である。ふつう幻覚は「なぜ見えるのか」を説明すべき異常事とされる。だがコノルスキは逆に問うた——脳は記憶からありありとしたイメージを生み出す装置をもともと備えているのに(現に睡眠中、外からの刺激が絶たれるたびに、われわれは夢を現実と信じて見ている)、なぜ覚醒中は絶えず幻覚を見ずにすんでいるのか、と。答えは、目や耳から流れ込みつづける感覚入力が、内側からのイメージ生成をたえず抑え込んでいるからである。したがって、暗闇・静寂・断食・単調な律動などによって感覚入力が決定的に制限されると、この抑えが外れ、脳から感覚器官へ向かう逆行性の活動が幻覚を生む——しかもそれは、体験者にとって外界の知覚と主観的に区別できない。洞窟・断食・暗闇・音楽・舞踏という誘発技法が文化を越えて似通うことも、幻視が体験者にとって圧倒的に実在することも、この一点から簡潔に説明される。
三 研究史のなかの本書——ギリシアの恍惚はどう論じられてきたか
ギリシア文化における恍惚やトランスを主題とする研究は、本書がはじめてではない。むしろ本書は、百五十年におよぶ研究史の合流点に立っている。その系譜を簡単に整理しておくことは、日本の読者が本書の位置と新しさを測るうえで無駄ではないだろう。
出発点は十九世紀後半のドイツにある。ニーチェ『悲劇の誕生』(1872)は、ギリシア文化をアポロン的なもの(形式・節度・明晰)とディオニュソス的なもの(陶酔・境界の溶解)との緊張として描き、恍惚をギリシア理解の中心に据えた最初の書物となった——ただしそれは実証というより哲学的直観であり、同時代の古典文献学からは激しい反発を受けた。この直観をはじめて学問の形にしたのが、ニーチェの親友であった文献学者エルヴィン・ローデの『プシュケー』(1890–94)である。ローデは魂の不死の観念の起源をディオニュソス的恍惚に求めたが、同時にその恍惚をギリシア本来のものではなくトラキアからの外来物とみなした。恍惚は説明を要する「異物」だという前提が、ここではまだ揺らいでいない。なお、ニーチェの二分法そのものは、後代の研究による訂正を必要とする。『パイドロス』が予言のマニアをアポロンに帰していたとおり、ピュティアの静かな enthousiasmos はまさにアポロン制度の中枢で生じる意識変容であって、陶酔はディオニュソス的なものの専有物ではない。実際ドッズは、アポロン的な憑依予言とディオニュソス的な集団恍惚とを早くから別類型として区別していたし、本書の描くギリシアでも意識変容は両神の領分にまたがっている——異なるのは神ではなく型(静かな単独の憑依か、集団の恍惚か)である。今日むしろ生き延びているのは、ニーチェが芸術衝動の対とした夢(Traum)と陶酔(Rausch)の区別のほうであろう。それは、本書が ASC の語彙で扱う二つの大きな系列——夢託・お籠りの系列と、憑依・恍惚の系列——のいち早い先取りとして読み直すことができる。
二十世紀に入ると、ケンブリッジのジェイン・ハリソン(『ギリシア宗教研究序説』1903)ら儀礼学派が祭儀と恍惚の実践を宗教の古層に据える。そして戦後、決定的な転回点としてドッズ『ギリシア人と非理性』(1951。邦訳・みすず書房、1972)[13]が現れる。人類学と心理学を古典学に本格的に導入したこの書物は、第三章「狂気の祝福」をまるごと『パイドロス』の四種のマニアの検討に充てており、本書の骨格が定礎された場所と言ってよい。ただし一章で述べたとおり、ドッズにとって「非理性」はなおギリシア合理主義の側から説明されるべき問題であった。なお、ドッズの構想の全体と、その後の批判史——第五章のシャーマニズム伝来説に対するブレマーらの反証を含む——については、評者による紹介論文[16]で詳しく扱ったので、併せて参照されたい。ドッズ以後は、ビュルケルト『古代の秘儀』(1987)やヴェルナンらのフランス学派が、秘儀・ディオニュソス祭儀といった個々の領域を掘り下げていく。
これと並行して、人類学の側からの流れがある。ブルギニョンの比較調査(1973)とルイス『恍惚の宗教』(1971)は、憑依とトランスを人類に普遍的な、社会的に組織される現象として定式化した(ルイスの中心的憑依/周辺的憑依の区別は、評者がシャーマニズム論考[15]で用いた座標系である)。ルジェ『音楽とトランス』(1980)は音楽による誘導の理論を与えた。これらをギリシアの史料に適用する試みは1970年代末から相次ぐ——碑文からマイナディズムの史実性を復元したヘンリクス(1978)、ピュティアを憑依の人類学で読み直したマウリツィオ(1995)、ニンフ憑依の碑文を論じたコナー(1988)、『バッコスの信女』のアガウエの場面を心理療法として分析したドゥヴルー(1970)などである。本書の各章は、こうした個別研究の成果を土台にしている(デルポイの「気」をめぐる発掘と地質学の百年論争については、次章で述べる)。
『パイドロス』の解釈史に限っても、系譜は厚い。リンフォース(1946)は、コリュバンテス儀礼とテレスティケー・マニアをめぐる二篇の古典的論文で、プラトンの四分類は文学的構成物であって同時代の宗教的現実の記述ではないと論じた——本書が全体を通じて反駁する「プラトンの発明」説の代表格である。他方、哲学の側では、クロワサン『アリストテレスと秘儀』(1932)が恍惚体験の哲学的受容を跡づけ、ピーパー『神的狂気』(1962)は『パイドロス』のマニア論を近代合理主義への抗議として正面から擁護した。フェラーリ(1987)やユニス(2011)の研究・注解が現在の標準的な読みを与えている。要するに、プラトンの四種マニアを修辞や皮肉とみなす読みと、実在した宗教的実践の反映とみなす読みとの対立は古くからあり、ウスティノーワは後者の立場を、文学解釈によってではなく歴史的証拠の集積によって支えるのである。
戦場のマニアをめぐっては、ヴェトナム帰還兵の治療経験から『イリアス』を読み直したシェイ『ヴェトナムのアキレウス』(1994)以来、古代の戦闘トラウマ研究が一つの分野をなしており(トリトル2000、マイネックとコンスタン編2014)、古代人に PTSD を認めうるかをめぐる普遍主義と相対主義の論争(クロウリー2012は懐疑側の代表である)がいまも続いている。本稿第十章で述べる遡及診断への方法的自制は、この論争を踏まえたものでもある。また、エレウシスの秘儀体験を麦角アルカロイドに帰した『エレウシスへの道』(ワッソン、ホフマン、ラック1978)以来の幻覚剤仮説も一般によく知られるが、ウスティノーワは薬理ではなく感覚遮断と儀礼的誘導の神経心理学を軸に取る点で、この系統とは一線を画す。彼女自身の前著『洞窟と古代ギリシアの心性』(2009)[2]はその方法の最初の全面適用であり、パルメニデスと地下降下をめぐってはキングズリー(1999)の先行研究がある。
まとめれば、デルポイ、マイナス、秘儀、戦場、ニンフといった個々の領域には、それぞれ研究の蓄積があった。本書の新しさは、それらを mania という一つのギリシア語の射程のもとに束ね、認知科学の枠組みで貫いた総合にある。文化的に承認された意識変容の全域を一冊で扱った研究書は、実質的に本書が最初である。研究史関連の文献は、巻末の参考文献に補遺として掲げた。
四 予言のマニア——制度化された憑依
第1章は霊感予言を扱う。読みどころは、担い手の主観的経験を軸とした三類型——神殿付きの予言職、聖所で神託を受ける一般人、神殿に属さない独立予言者——の整理である。なかでも中心はデルポイである。背景を補っておくと、デルポイはギリシア中部パルナッソス山の中腹にあるアポロンの聖地で、植民や戦争や祭祀といった重大事に際して各地の都市国家や個人が伺いを立てた、ギリシア世界で最も権威ある神託所であった。神託を告げるのはピュティアと呼ばれる地元出身の女性神官で、神殿最奥の小室で三脚の台に座し、神に憑かれた状態で問いに答えた。そして古代の証言は口を揃えて、この小室では大地の裂け目から気(プネウマ)が立ちのぼり、ピュティアはそれを吸って恍惚に入ったと伝えている——晩年にデルポイの神官を務めたプルタルコスも、地理学者ストラボンも同趣旨を記す。このピュティアをめぐっては、二十世紀の学史そのものが一個の症例である。1892年に始まったフランス隊の発掘が神殿下にいかなる裂け目も見出せなかったため、古代の一致した伝承は「作り話」と宣告され(オッペの1904年論文が転換点となった)、以後およそ百年、標準的な研究書はガス説を退けつづけた。事態が再逆転するのは2001年である。地質学者ド・ブーアと考古学者ヘイルらの調査が、神殿直下でちょうど二本の断層が交差していること、その下の瀝青質の石灰岩層からガスが生じうること、聖域の泉の水などからエチレン等の炭化水素ガスが検出されることを報告したのである——エチレンは甘い香りをもつ麻酔性のガスで、プルタルコスの伝える神託所の「甘い香り」とも符合する。著者の扱いは慎重である——ガスは単独の原因ではなくトリガーであり、断食、聖水、暗い内奥聖所、三脚台、被暗示性の高い人格の選抜といった要因の複合が憑依状態を生んだ。図像と文献がともに伝えるピュティアの姿は、バッコス的狂乱ではなく、静かで集中した enthousiasmos(神が内にある状態)である。
一般人が神託を受けるトロポニオスの地下聖所——ボイオティア地方レバデイアにあった、伺いを立てる者自身が地下に降りる型の神託所——(数日の準備、隔離、冷水浴、夜間の降下、「渦に吸い込まれる」感覚、帰還後の放心——「トロポニオスに伺いを立てた者は笑わなくなる」という諺)や、有毒ガスの洞窟に病者を絶食のまま置いて治療的幻視を得させた小アジアのアカラカのカローン洞窟——医療神託所——の記述は、感覚遮断による幻覚誘発の装置化として読める。著者の指摘が鋭いのは、一般人には「重砲」(過酷な準備・地下・毒気・長期絶食)が必要だったのに対し、訓練された職業霊媒はより穏やかな手段で同じ状態に入れた、という対比である。熟練は意識操作の効率を上げる。他方、シビュラやカッサンドラのような独立予言者はアルカイック期の終わりとともに姿を消し、霊感予言はポリスの運営する神託所へと制度化されていく。著者はこれを抑圧ではなく、ポリス社会がこの不可解な領域に対してなしえた最大限の「監督」とみる。
五 治療するマニア——「狂気を狂気で治す」
精神医療関係者にとって本書の白眉は、意識変容が治療装置として運用されていた記述群であろう。第2章のコリュバンテス儀礼はその典型である。フリギア起源とされるこの治療的恍惚儀礼は、「狂気を狂気で治す」(korybantismos)という発想に立つ。犠牲と沐浴ののち、治療者を兼ねる指導者が患者を椅子に座らせ(トロノーシス)、太鼓とアウロス(甲高い音を出す二本一組の笛)の轟音と舞踏で恍惚に追い込む。心拍の亢進、落涙、恍惚の舞踏を経て、患者は「コリュバント化された」状態——すなわち正常な精神状態——を取り戻す。ただし効果は一時的で、定期的な再参加を要した。著者はこれを現代人類学が記述するザールやボリの憑依治療儀礼と比較し、「似たものが似たものを治す」という認知的図式に基づく治療モデルとして分析する。重要な留保も付される——参加者の大半は病者ではなく、音楽への強い感受性を持つ健常者だったとみられる(現代の音楽神経科学の「ディープ・リスナー」研究と対応する)。
治療的マニアの例は他の章にも散在する。第6章末尾には、南イタリアのロクリとレギオンで、原因不明の狂気に苦しむ女性たちが六十日間毎日十二回、計七百二十回のパイアン(讃歌)を歌うことで治癒したという逸話が引かれる——古代の集団音楽療法の記録である。第3章では、エウリピデス『バッコスの信女』[8]の末尾、獅子の子を殺したと信じるアガウエが父カドモスとの対話を通じて段階的に現実へ引き戻される場面が、解離からの「言葉による治療」の一例として読まれる。そして『パイドロス』のテレスティケー・マニアの定義そのもの——古い罪の報いとして病と苦難が家系に降りかかるとき、マニアが入り込み、浄めと秘儀を通じて「正しく狂った」者に解放をもたらす——が、治療としての恍惚という制度の哲学的定式化にほかならない。
エレウシス——アテナイ近郊の聖地で、デメテルとペルセポネの秘儀が毎秋催され、ギリシア世界の全域から参入者を集めた——をはじめとする啓示型の秘儀については、プルタルコスの伝える大秘儀の体験構造——果てしない暗闇の彷徨、極度の恐怖、身震い、汗、そして驚異の光の顕現と清らかな草地——が、現代の臨死体験(NDE)研究の記述とほぼ同型であることが示される。参入者は「何かを学ぶのではなく、何かを経験し、しかるべき状態になる」(アリストテレス)。著者はこの一致を、秘儀の核心が教義の伝授ではなく誘導された意識変容の体験そのものであったことの証左とする。
六 荒野と戦場のマニア——観察された臨床像
第3章はバッケイア——ディオニュソス(バッコス)の祭儀における集団的恍惚——を扱う。山野を彷徨して舞い狂う女性信者はマイナス(「狂える女」の意)と呼ばれ、その実践がマイナディズムである。著者はこれを文学的空想から史実へと引き戻す。プルタルコスは、デルポイでディオニュソス祭儀を担った女性集団テュイアデスが実際に冬山を彷徨し、疲労困憊してアンフィッサの市場で眠り込んだ実話を伝える。アテナイは隔年でテュイアデスの代表団をデルポイに公式に派遣していた——私的な逸脱ではなく、ポリスが公認し組織した儀礼である。ミレトスの前3世紀碑文は女性神官のみに「オーモパギオン(生肉)を投げ入れる」権利を認め、近代の学者が「上品化」しがちな儀礼の生々しさを裏づける。アッティカ陶器のマイナス像——後屈した背、上げられた顎、振り乱された髪——について著者は、その姿勢が解離状態の臨床的特徴と一致することを指摘し、画家たちが実際の儀礼を観察していたとみる。中世ヨーロッパの舞踏病が、社会的苦難の後に自然発生した集団トランスからやがて制度化された年中行事へと馴化していった過程が、マイナディズムの発展モデルとして援用される。
第4章(戦場と行軍のマニア)は、リュッサ(狂戦的激情)とポボス/パン(根拠なき恐怖)という両極を扱う。狂戦の側から見よう。『イリアス』のヘクトルは口から泡を吹き、目は炎のように燃え、敵から「狂犬」と呼ばれる。アキレウスの軍勢は「生肉を食う狼」に喩えられ、ヘクトルの死に際には敵の肉を生で食らいたいという願望さえ語られる——著者はこれをバッケイアの男性版として読み、裸での戦闘や盾を投げ捨てる所作など、印欧諸文化の「戦士団の狂乱」(ベルセルク型)に連なる要素をギリシア資料に拾い出す。笛と戦舞踏(ピュリケー)、飲酒は士気を高める意識変容の技法として公認されており、マラトンで武装のまま長駆突撃したアテナイ軍をペルシア側が「マニアと自滅行為」と評した逸話を、著者は極度のストレス下での集団的な意識変容として解釈する。
恐怖の側の記述は、症候学的にいっそう具体的である。ホメロスの英雄たちはしばしば恐怖の瞬間に膝が崩れ、四肢が動かなくなる——詩人はこれを神による「金縛り」として語るが、これは今日の外傷学が周トラウマ反応として記述する緊張性不動(凍りつき)の正確な描写にほかならない。個別症例として最も名高いのは、ペルシア戦争を記録した前5世紀の歴史家ヘロドトス[11]の伝えるマラトンの重装歩兵エピゼロスである。彼は乱戦のさなか、巨大な幻影の武者——その髭は盾を覆い隠すほどであった——が眼前を通り過ぎ、隣の戦友を斃すのを見た。その瞬間から彼は、身体のどこにも傷を負わないまま生涯にわたって失明した。外傷なき突発性の視覚喪失というこの事例は、現代の用語では機能性(転換性)視覚障害の、そして周トラウマ期の解離性幻覚の、古代における最も鮮明な症例記録であり、戦闘関連の転換症状の記述としてはおそらく史上最古のものである。集団の水準では、前279年、デルポイ防衛戦のあとのガリア軍の夜営を、後2世紀の旅行記作家パウサニアス[12]が描く——夜半に理由なき恐怖が陣中を襲い、兵士たちは味方の言葉を聞き分けられず、自軍を敵と誤認して同士討ちを演じた。急性ストレス下の解離性の知覚変容と、恐怖の集団的伝染との複合である。さらに、伝令ペイディッピデスがアルカディアの荒野で牧神パンと遭遇した逸話は、二日に及ぶ長距離走破の果ての脱水・低血糖・極度の疲労という条件を考えれば、消耗状態の幻視として読める。極限状況の集団が共有する「感知された存在(sensed presence)」——サラミスやプラタイアイの戦場顕現——は、今日でも遭難者や単独行の登山家が報告する現象と同型である。
注目すべきは、古代人自身がこれらへの対処法を持っていたことである。クセノポンやアイネイアス・タクティコスら軍事著述家は、パニックに際して兵士を小テントに留めること、ルーティン作業に集中させること、そして「これはパニックにすぎない」と全軍に布告することを勧めている——刺激の統制、行動の構造化、そして心理教育。現代の心理的応急処置(サイコロジカル・ファースト・エイド)の三原則が、ほぼそのまま出揃っている。著者はこれを、古代人がパニックの内発性——外の敵ではなく内なる過程であること——を直観的に理解していた証拠とみる。カルデーニャとの共著論文[5]は、こうした戦慄・自律神経徴候・茫然自失から幻覚様体験・回避に至る古典史料の記述群を、現代の戦闘ストレス障害・PTSDの症候学と体系的に突き合わせたものであり、本章と併読する価値がある〔同論文の具体的症例配列は要確認〕。
第5章はニュンフォレプシー——泉や洞窟に宿る精霊ニンフに「捕えられた」状態——を扱い、本書で最も具体的な一次資料を提供する。アッティカのヴァリ洞窟には「テラ島のアルケダモス、ニンフォレプトス(ニンフに憑かれた者)、ニンフの指示によりこの洞窟を作った」という碑文が残り、彼は何十年もかけて洞窟を整備した。テッサリアのパンタルケスは二十行の韻文で「ニンフが自分を良き人間にした」と刻んだ——著者はこれを、洞窟での至福体験を通じたメタノイア(回心)の記録として読む。結論部で著者は、洞窟という環境そのもの——暗闇、静寂、時折の水滴音、明滅する灯火、音の反響——が感覚遮断を通じて幻覚を誘発する装置であったと論じる。荒野に独りある人間の心は、自らの内側からイメージを生み出しはじめ、それが「ニンフの声」や「パンの命令」として解釈されたのである。
七 エロスのマニア——最も原始的な情動の、最も高い座
第7章は、四種の神的マニアのうち現代の読者に最も意外に映るであろうもの——恋のマニア——を扱う。ギリシアの詩人たちは、恋愛感情を一貫して「狂気」「病」「災厄」として描いてきた。その最も克明な記録が、前600年頃レスボス島で活動した詩人サッポーの断片31番[9]である。恋する相手を目にした瞬間に起こることを、詩人は次のように歌う(第7〜16行)。
あなたをほんの一瞬見るだけで、もう声はまったく出なくなる。舌は沈黙のうちに砕け、細い火がたちまち肌の下を走り、目には何ひとつ見えず、耳はごうごうと鳴る。冷たい汗が流れ落ち、震えが全身を捕え、私は草よりも青ざめて——死からわずかに隔たるだけだと、私自身に思われる。(断片31番 7–16行。訳は評者〔底本:Voigt 本文。Battistini 仏訳による照合待ち〕)
著者はこの症状の列挙を、詩的誇張ではなく、恐慌発作やアドレナリン反応にも比せられる実際の生理的動揺の記述として読む。悲劇も同じ経験を語る。エウリピデス劇のパイドラ(『ヒッポリュトス』)は義理の息子への抑えがたい欲望を恥じながら理性で制御できず破滅し、メデイア(『メデイア』)は愛が反転した激情のなかで我が子を殺し、クレタ王妃パシパエは異常な情欲に取り憑かれる[8]。エロスは当人の意志と理性を凌駕して外部から到来する力であり、比喩としてではなく、実際に人を狂気の淵へ追いやるものとして経験されていた。ギリシア文学にはしばしば「二つのエロス」——天上的な愛と、肉体的・破壊的な愛——の主題が現れ、後者は病理そのものとして描かれる。
プラトンの独創は、この民衆的・詩的な「エロス=狂気」観を否定せずに、転倒させたことにある。『パイドロス』でソクラテスはまず「恋しない者」の立場から恋する者を批判する演説を行い、そののちパリノーディア(撤回の歌)を歌う——恋のマニアこそ、魂を天上のイデア界の記憶へと導き、真の美への欲求を呼び覚ます、人間に与えられる最大の祝福の一つである。地上の美しい肉体のうちに、魂はかつて見た「美そのもの」を想起し、翼が生え、上昇を望んで疼く——恋の狂おしさの正体はこの疼きだ、と。『饗宴』では巫女ディオティマが、卑近な肉体的欲望から出発して美しい魂、美しい知識、そして「美そのもの」の観照へと至る階梯を説く。つまり、四種の神的マニアのうち最も身体的で、最も原始的で、病理に最も近いこの情動が、序列の最善に据えられるのである。予言や詩作のマニアが特別な者(巫女、詩人)にしか訪れないのに対し、恋のマニアは万人に開かれた、日常のなかの超越への入口であった——著者はここに、恍惚の民主化ともいうべきプラトンの再定位を読む。この性愛の語彙は第8章で再び現れる。『国家』でソクラテスが真理の把握を「交わり」「生む」という語で語るとき、真理との神秘的合一はエロス的合一の言葉で表現されているのである。
八 詩人と哲学者のマニア
第6章(詩作のマニア)の要点は、ムーサが記憶の女神ムネモシュネの娘であることの意味である。詩人に与えられるのは事実の想起ではなく、自ら経験していない過去を「思い出す」能力であり、著者は mousa の語根をも men- に遡らせて、知覚・記憶・狂気が未分化な一つの意味領域をなしていた可能性を示す。プラトン『イオン』の磁石の比喩——ムーサが詩人を、詩人が朗誦者を、朗誦者が聴衆を連鎖的にエントゥシアスモスへ導く——は、意識変容の社会的伝染の理論として読み直される。ただし著者は重要な留保を付す。プラトンの言う「正気を失う」は完全な自己喪失ではない。マニアには段階があり、詩人は変性意識のさなかでも一定の自己統御と周囲への意識を保ちうる。
第8章(哲学者のマニア)は、本書で最も大胆な章である。ソクラテスが夕食への道すがら他人の家の玄関先に立ち尽くし、ポテイダイアの陣中では一昼夜同じ場所に立ち続けたという、ソクラテスに心酔した青年アルキビアデスの証言、幼少期から彼を制止しつづけた「ダイモニオン」の声。「あるものはある」の存在論で知られる前5世紀の哲学者パルメニデスが、その哲学詩の序歌で語る冥府への旅——闇から光への急速な移行の果てに女神が「揺るぎなき真理の核心」を明かす——と、臨死体験研究のいわゆるトンネル体験との構造的一致。数十年の眠りを伝えられるクレタのエピメニデス、矢に乗って世界を巡ったと伝えられるアバリスら、魂の飛翔を伝えられるアルカイック期(前8〜前6世紀)の賢者たち。著者はこれらを「発見の文脈」と「正当化の文脈」の区別によって枠づける。デカルトの夢、ケクレの炉辺のまどろみ、ラマヌジャンの女神が示すように、着想がいかに訪れるかと、それを論理的に検証することとは別の営みであり、両者は矛盾しない。ギリシアの哲学者たちの合理的な体系の背後にも、しばしば非論理的な閃きの瞬間があった——ただし、自らの哲学的探求を「マニア」と明示的に呼んだのはプラトンのソクラテスのみである。
九 エピローグ——免疫機構なき社会
エピローグの比較文化史的展望が、本書の最終的な主張を担う。恍惚的実践を主流の宗教活動として保持した複雑社会は、古代地中海世界においてギリシアのみである。エジプトの膨大な史料は意識変容について沈黙し、メソポタミアの恍惚的預言は常に周縁的で、ローマは戦場の猛りと詩的霊感を除き、意識操作の実践を外来の体制転覆的なものとして「去勢された形」でしか容認しなかった。ギリシアの態度は「寛容」ですらない——古代史家ガーンジーの定義する寛容とは不快感を抱きつつ行動しないことだが、ギリシアにはそもそも不快感が存在しなかった。マニアを伴う実践は祖先伝来の遺産であり、その担い手は「他者」ではなく「われわれ」あるいは「われわれの妻たち」であった。著者はこの独自性の構造的根拠を、全ポリスを統括する宗教的権威も祭司階級も正典も持たないギリシア宗教のあり方(ギリシア史家オズボーンの言う「多様性の神学」)に求め、ギリシアの文化モデルは意識変容を抑圧する「免疫機構」を発達させなかった、と定式化する。問うべきは「なぜギリシアで恍惚が許容されたか」ではなく、「なぜ大半の複雑社会はそれを抑圧するのか」なのである。
エピローグは偽アリストテレス『問題集』——アリストテレスの名で伝わるが実際には学派後代の手になる問答集——第30巻[10]の分析で閉じる。「哲学・政治・詩作・芸術における傑出者はなぜみなメランコリコイなのか」——ここで神的マニアは黒胆汁という地上的原因に付け替えられ、天与の狂気は体質としての天才に変換される。シビュラやバキスは、疾患によってではなく生来の気質によって神懸りになるとされる。プラトンの洞察——マニアは苦悩と超人的霊感の両方の源泉である——は、この自然主義的転轍を経て、ルネサンスのメランコリー流行からデューラーの銅版画《メレンコリア I》(1514)を経由し、二十世紀にうつ病へ「最も論じられる精神障害」の座を譲るまで、ヨーロッパ文化を貫流することになる。
十 精神医療関係者のための読みどころ——評者の覚え書き
最後に、精神科医としての読後の見立てを、方法的自制とともに記しておきたい。まず自制の側から。本書の史料が与えるのは行動と語りの断片であり、症状の経過でも構造でもない。ヤスパース由来の区別を保つなら、われわれが遡及的に語りうるのは状態像の類似までであって、診断ではない[15]。著者自身、「異常」と記述される様々な個人に同じ行動パターンを無差別に帰属させることを戒めており、シャーマン研究の教訓——変性状態を示す人々は概して共同体で最も健康な部類に属する——を繰り返し想起させる。実際、コリュバンテス儀礼の参加者の大半は病者ではなく、音楽感受性の高い健常者だったとみられるのである。
そのうえで、あえて状態像の対応を素描するなら次のようになろう。第一に、治療の対象となった「狂気」のうち、家系に降りかかる災厄として現れ、浄めと秘儀を経て寛解する一過性の病像——プロイトスの娘たち(狂気に陥って野を彷徨し、浄めによって癒されたと伝わるアルゴスの王女たち)の神話型、ロクリとレギオンの女性たち——には、急性一過性精神症(ICD-11 6A23、DSM-5-TR の短期精神症に相当)の像が最も近い候補として浮かぶ。発症の急性、経過の短さ、完全寛解という輪郭が、「治りうる狂気」としてのマニア観と整合するからである。第二に、アガウエの子殺し(行為の無自覚と段階的な現実復帰)やマイナスの図像に描かれた恍惚の姿勢は、解離性の病像——現代の分類で言えばトランス症・憑依トランス症の圏域——を思わせる。第三に、エピゼロスの外傷なき失明は機能性(転換性)症状の、ホメロスの「神による金縛り」は緊張性不動の、ガリア軍の同士討ちや「感知された存在」は急性ストレス反応の、それぞれ古典的な記述である。第四に、幸福な妄想者トラシュロス——ピレウスに入る全船を自分のものと信じ、治癒後に「妄想の中でこそ最も幸福だった」と嘆いた男——は、誇大的な気分と妄想の結合という点で躁病像を想起させるが、これも状態像の類似にとどめるべきであろう。第五に、サッポー断片31番に列挙される恋の身体症状——自律神経系の嵐としか言いようのない急性の動揺——と、悲劇が描く恋の強迫的とらわれは、現代の用語では恐慌発作と限局的な強迫的没入(いわゆるリメレンス)の圏域に対応し、恋のマニアという範疇が単なる文学的修辞でなく経験に根ざしていたという著者の主張を、臨床の側から支持する。
治療機構についても一言する価値がある。コリュバンテス儀礼の構造——文化的に共有された病因論(憑依)、権威ある治療者、儀礼的枠組みのなかでの制御された意識変容の誘導、集団の支持、そして効果の一時性ゆえの定期的な再参加——は、文化的に整合的な治療装置の見本のような組み立てである。効果が持続せず反復を要したという記述は、治療の失敗ではなく、慢性疾患に対する維持療法の発見として読むこともできる。そして本書全体が示すのは、この治療装置が機能する条件——共同体が当の意識変容を承認していること——である。ICD-11 がトランス症・憑依トランス症の診断要件に「集合的な文化的・宗教的実践の一部として受容されていない」という除外規定を置いたとき[14]、分類学は期せずして、この古代の条件を条文化した。この論点は別稿「二つのマニア論」(本紀要に草稿公開中)で正面から論じている。
十一 むすび
本書は、古典学の書物であると同時に、精神医学の境界問題についての書物である。ギリシアを理性の民とする通念を、本書は反証の列挙によってではなく、恍惚が主流であった社会の全体像を淡々と復元することによって覆す。デルポイの断層ガスから金箔文書、ヴァリ洞窟の碑文、七百二十回のパイアンまで、素材の具体性がこの本の説得力の源泉である。邦訳の実現を願いつつ、それまでの間、本稿がその一端を伝える橋となれば幸いである。