横浜基礎研究所 紀要論文──精神医学史
Commentarius · Historia psychiatriae

二つのマニア論

——マニアの二千五百年:名前の行方と概念の変遷——
Les deux manies : deux mille cinq cents ans de mania, ou le destin du nom et la mutation du concept
松石 竹志 Takeshi Matsuishi, M.D., Ph.D.
Draft v1.6 · September MMXXVI
In statu nascendi — 草稿として公開

本稿は第一次草稿(v1.4——副題を改め、序に読者への案内とヒーリーの位置づけに関する断り書きを加え、コノルスキの説明を補い、ICD-11 のコード・章名表記を訂正した。経緯は編集注記参照)であり、あえて公開欄に置いて補訂を継続する。ギリシア側の背景や研究史に馴染みのない読者は、先に『神的マニア』案内——とくにその研究史の章——を、近代精神医学史の側は『マニー』案内を先にお読みいただくと、本稿は格段に読みやすくなるはずである。第三章のうち、ローマにおけるラテン語への翻訳(キケロ)と、アレタイオスからガレノスに至る正典化の過程は、ピゴーの著作を主題とする別稿の紹介・解説論文(準備中)に委ねた。〔要確認〕を付した箇所は原典照合前であり、引用・頁数は未確定である。巻末の編集注記に残作業の一覧を掲げた。

要旨 Abstract

【日本語要旨】 デイヴィッド・ヒーリー『Mania』(2008)とユリア・ウスティノーワ『Divine Mania』(2018)は、同じギリシア語を書名に掲げながら、まったく異なる歴史を語る。前者は双極性障害へと至る医学的マニアの系譜を批判的に描き、後者は前 6〜4 世紀ギリシアにおいて mania の名で呼ばれた文化的に承認された意識変容の諸形態を復元する。本稿は両者を対にして読み、次のテーゼを提示する。ギリシア語 mania の意味の広がり——病的錯乱から神的霊感までを覆う「基準的意識状態からの逸脱」の連続体——は、医学化の過程でその一部だけが切り出され、2000 年余を経て、現代の国際分類 ICD-11 において二つの系譜へ分岐した。すなわち気分症群の躁エピソード(それ自体は独立のコードを持たず、双極症I型 6A60 を定義する)と、解離症群のトランス症・憑依トランス症(6B62/6B63)である。しかも後者の診断要件に置かれた文化的除外規定——集合的な文化的・宗教的実践として受容された状態は障害としない——は、共同体が是認した意識変容は病ではないというギリシア的態度の、2000 年後の条文化として読むことができる。マニアの両義性をめぐるプラトンの洞察は、医学の外へ失われたのではなく、障害定義の陰画として現代分類のなかに残存している。医学的マニアの系譜の内部では、とりわけピネルとクレペリンにおける用語法の転変——1801 年に精神疾患の総称であった manie が、1809 年の第二版で délire を核とする一種に限定され、クレペリン(1899)において一疾患の一相へと降格される過程——を、両者自身の症例記述(manie sans délire の症例群、『臨床精神医学入門』の二症例)に即して跡づける。

Abstract.  David Healy’s Mania (2008) and Yulia Ustinova’s Divine Mania (2018) bear the same Greek word in their titles yet tell entirely different histories. Reading them as a pair, this paper argues that the semantic field of Greek mania — a continuum of deviations from baseline consciousness stretching from morbid frenzy to divine inspiration — was narrowed by medicalisation and, two millennia later, split into two lineages in ICD-11: the manic episode of the mood-disorders chapter (defining bipolar type I disorder, 6A60) and trance and possession trance disorders of the dissociative chapter (6B62/6B63). The cultural exclusion clause of the latter — states accepted as part of collective cultural or religious practice are not disorders — codifies, after two thousand years, the Greek stance that communally sanctioned alteration of consciousness is not disease. Plato’s insight into the ambivalence of mania survives within modern classification as the negative space of a disorder definition. Within the medical lineage, particular attention is paid to the shifting use of the term in Pinel and Kraepelin — from manie as a generic name for mental alienation (1801), through its restriction to one species of general delirium (1809), to its demotion in Kraepelin (1899) to a mere phase of a single disease — traced through their own case histories. (Draft, under continuing revision.)

一 序——同じ名を持つ二冊の書物

二冊の書物がある。一方は精神薬理学史家デイヴィッド・ヒーリーの『Mania: A Short History of Bipolar Disorder』(2008)[1]、他方は古代史家ユリア・ウスティノーワの『Divine Mania: Alteration of Consciousness in Ancient Greece』(2018)[2]。ともに mania を書名の中核に置きながら、両者が語る歴史はほとんど接点を持たない。ヒーリーの主人公は疾患単位としての躁であり、その物語は古代医学をごく短い前史として通過したのち、19 世紀フランスの循環狂論争、クレペリンの躁うつ病、リチウム、そして「双極性障害」の現代的膨張へと進む。ウスティノーワの主人公は神々が送るマニアであり、デルポイの巫女、秘儀参入者、マイナス、霊感を受けた詩人と哲学者たちが登場する。両著はほぼ相互に参照しない〔要確認:Ustinova の書誌に Healy への言及があるか〕。

この非対称こそが本稿の出発点である。問いはこうである——現代精神医学の「躁」は、ギリシアの mania の正嫡の子孫なのか。両著者はそれぞれの側から、事実上「否」と答えている。ヒーリーは近代の側から:現在の双極症概念は、われわれが考えるよりはるかに新しい構築物である。ウスティノーワは古代の側から:mania と呼ばれたものの大半は、そもそも医学的対象ではなかった。本稿はこの二つの否定を組み合わせて、一つの積極的な主張として述べ直す。すなわち、mania の意味の広がりは歴史のなかで二つに分岐した。一方の系譜は気分症群の躁であり、他方の系譜は解離症群のトランス症・憑依トランス症である。両系譜は ICD-11 という同じ屋根の下、別々の章に住んでいる。

本稿の全体の見取図を、あらかじめ図 I.1 に掲げておく。以下の各章は、この図の各段を順に検討するものである。

【古代ギリシア】広義の mania ——病理と祝福が未分化の「意識変容の総称」
  ① 病的錯乱 ② 暴力的逆上(fureur)
  ③ 恍惚・預言 ④ 秘儀的マニア ⑤ 詩的霊感 ⑥ 恋のマニア
    ↓ 自然原因への付け替え(医学化)——第三章
【ギリシア後期〜ローマ】医学的マニアの切り出し
  『聖病論』:神罰から身体原因へ/『ティマイオス』:魂の病=身体的原因
  『問題集』第三〇巻:黒胆汁との連結
  ローマ:意識操作の実践を「去勢された形」でしか容認せず
  → 神的マニアは制度的基盤を失い、医学的マニアのみが残る
    ↓ 近代精神医学の成立——第四章
【18〜19 世紀】ピネル/クレペリンによる再編
  ピネル 1801:manie = 精神疾患の総称(類)にして一種(種)
        興奮・逆上が中心、気分の高揚は要件でない
  ピネル 1809:manie = délire général + 興奮・逆上の一種
        manie sans délire は種の地位を失う
  クレペリン 1899:Manie = 躁うつ病の一相/経過と転帰による分類
    ↓ 20 世紀の分類体系——第五章
【ICD-11】三つの行き先
  A 気分症群:躁エピソード(双極症 I 型 6A60)——医学的マニアの到達点
  B 解離症群:トランス症・憑依トランス症(6B62/6B63)
    ——神的マニアの系譜の再配置
    ——「文化的除外規定」=ギリシア的態度の条文化
  C fureur の行き先(四章補注)
    ——衝動制御症群(6C73)・非社会的行動症群・カタトニア
図 I.1——mania の系譜:本稿の見取図

あらかじめ本稿の範囲を限定しておく。問題は mania という概念の境界——何が mania と呼ばれ、誰がその線を引いたか——であり、躁うつ病概念内部の類型論(混合状態、経過型、スペクトラム論など)には立ち入らない。また、狂気への態度の歴史的変遷を近代にまで延長する大きな物語も本稿の課題ではない。扱うのは古代ギリシアという一断面と、現代の分類体系というもう一つの断面、そして両者をつなぐ細い医学的水路である。なお、両著それぞれの内容の詳細な紹介は、本紀要の文献案内に別稿として掲げた——ヒーリーについては『マニー』案内[21]、ウスティノーワについては『神的マニア』案内[22]である。本稿は紹介を両案内に譲り、議論に徹する。

もう一つ、あらかじめ断っておきたいことがある。ヒーリーは、SSRI をめぐる論争や製薬産業と精神医学の関係への批判で知られた論客であり、その反骨的な姿勢ゆえに、精神科医のあいだでは一定の警戒感をもって受け取られることも少なくない。評者自身、その批判に首肯できる面があることは認めるが、彼の精神医学観のすべてに同調するわけではない。それでも本稿が『Mania』を軸に据えるのは、思想的な共鳴によるのではなく、書誌上の事情による——マニアの概念史を古代から現代まで一冊で通観した学術書は、管見のかぎり本書のほかに見当たらないのである(本書自体は、ジョンズ・ホプキンズ大学出版局の「疾患の伝記」叢書の一冊として書かれた学術書である)。概念史の個々の区間については、ベリオスによる古典的な資料研究[27]、アングストとマルネロスによる双極性概念史[28]、ケンドラーによる 1780〜1900 年の精神医学テキストの網羅的分析[29]など、より中立的な研究が存在する。本稿の記述がヒーリー一人の見立てに依存しないよう、これらを対照として文献に掲げ、判断の分かれうる箇所では、系譜の事実(誰が、何年に、何を記述したか)と、彼の評価(現代の双極症概念は構築物であり市場の産物でもあるという診断)とを区別して扱う。

二 ウスティノーワの神的マニア——mania の意味の広がり

ウスティノーワの方法的出発点は語彙論にある。ギリシア語 mania は英語の madness や frenzy では捉えきれない。それは恍惚とした予言から暴力的な逆上まで、通常の意識状態からのあらゆる逸脱を指し、自発的か不随意か、病か神の賜物かを問わない。それゆえ彼女は訳語を放棄し、ギリシア語をそのまま用いる[2]。語源も示唆的である。mania は印欧語根 men-(能動的精神力)に発し、ギリシア語では mania(狂気)・menos(精神力)・mnêmê(記憶)が同族語をなす——狂気と精神力と記憶が同じ根から生えるこの語の配置は、他の言語に類例を見ないという。

概念の核にあるのはプラトン『パイドロス』である[3]。ソクラテスはマニアを人間的な病に由来するものと、神による慣習からの解放としてのものとに二分し、後者を四神四種——予言的マニア(アポロン)、テレスティケー=秘儀的マニア(ディオニュソス)、詩的マニア(ムーサ)、そして最善とされる恋のマニア(アプロディテとエロス)——に分ける。これらを貫くのがエピプノイア、神の吹き込みとしての霊感である。先行研究には、「狂気=祝福」はプラトン個人の発明であって同時代ギリシアの信念ではなかったとする見解があるが、ウスティノーワは書物全体を通じてこれに反論する。プラトンは発明したのではなく、同時代の文化的現実を凝縮し体系化した。デルポイをはじめとする霊感予言の制度、コリュバンテスやバッコスの秘儀、詩人の霊感の観念は、プラトン以前から広く共有されていた。

この転回の学説史的な位置を確かめておく必要がある。ギリシアの意識変容を正面から論じた先行者は E. R. ドッズであり、『ギリシァ人と非理性』(1951)第三章「狂気の祝福」は『パイドロス』の四つのマニアを章題に掲げ、コリュバンテス儀礼やディオニュソス的舞踏を狂気の「儀礼的治療」(『法律』790d)として論じた[35]。ウスティノーワの「治療としてのトランス」はこの章を出発点にしている。だが枠組みは正反対である。ドッズにとって非理性はギリシア的理性の裂け目であった——理性の伝統が達成した「開かれた社会」の重荷に人々が耐えかね、ヘレニズム期に占星術・魔術・神働術へと退却していく「自由への怖れ」(同書第八章)——のであり、その説明はフロイトと人類学に依拠した心理学的なものであった。ウスティノーワはこの「理性 対 非理性」の二分法そのものを退ける。トランスは理性の裂け目ではなく、理性の民が主流の制度として保持した実践であり、そこに説明を要する「退却」はない。ドッズの枠を明示しておくことは、ウスティノーワの転回の大きさを測るためにも、また本稿の四章以下——医学がマニアからトランスの側面を切り落としていく過程——が、ドッズの言う退却の物語とは別の系譜であることを示すためにも、必要である。

方法論において本書は、伝統的歴史学に神経科学・認知科学・人類学の成果を組み合わせる。変性意識状態(ASC)はルートヴィヒの古典的定義——覚醒時の一般的規範から主観的経験や心理的機能が十分に逸脱していると本人または観察者が認識できる精神状態——によって導入され、ブルギニョンの調査——世界約五百の伝統社会のうち約九割が文化的に型づけられ制度化された ASC の形態を持つ——が、意識変容を人類普遍の生物学的潜在能力として位置づける。個々の推論は「鎖」ではなく「ケーブル」として撚り合わされ、ギリシアの証拠が常に一次的な軸とされる。理論面で彼女が最も頼りにするのは、ポーランドの神経生理学者イェジ・コノルスキ(1903–1973)による問いの逆転である。ふつう幻覚は「なぜ見えるのか」を説明すべき異常事とされるが、コノルスキは逆に問うた——脳は記憶からありありとしたイメージを生み出す装置をもともと備えているのに(現に睡眠中、外からの刺激が絶たれるたびに、われわれは夢を現実と信じて見ている)、なぜ覚醒中は絶えず幻覚を見ずにすんでいるのか、と。答えは、感覚入力の絶えざる流れが、内側からのイメージ生成を抑え込んでいるからである。それゆえ感覚入力が決定的に制限されると、この抑えが外れ、脳から感覚器へ向かう逆行性の流れが幻覚を生む——しかもそれは、知覚された世界と主観的に区別できない。この洞察は、洞窟・断食・暗闇・音楽といった誘発の技法が文化を越えて似通うことも、幻視が体験者にとって完全に実在することも、簡潔に説明してくれる。

本書のエピローグは、比較文化史的な問いで閉じる。恍惚的実践を主流の宗教活動として保持した複雑社会は、古代地中海世界においてギリシアのみである。エジプトには意識変容の証拠がなく、メソポタミアでは恍惚的預言は常に周縁的であり、ローマは戦場の猛りと詩的霊感を除けば意識操作の実践を外来の体制転覆的なものとみなし、「去勢された形」でしか容認しなかった。ギリシアの独自性は「寛容」ですらない——不快感を抱きつつ容認したのではなく、そもそも不快感が存在しなかったのである。マニアを伴う実践は祖先伝来の遺産であり、それを経験する者は「他者」ではなく「われわれ」あるいは「われわれの妻たち」であった。オズボーンの言う「多様性の神学」——全ポリスを統括する宗教的権威も祭司階級も正典も持たないギリシア宗教の構造——のもとで、ギリシアの文化モデルは、ソレンセンの比喩を借りれば、意識変容を抑圧しその社会的影響を最小化する「免疫機構」を発達させなかったのである。

そして結論部でウスティノーワは、本稿にとって要となる一文を記している。2000 年の知識の蓄積を経てなお、われわれの「意識変容」概念はギリシア語の mania におおむね対応する——どちらも「基準となる意識状態からの逸脱」という一点を共有する多様な現象を指す総称なのだ、と〔要確認:Perlego で該当頁を確定〕。

三 医学的マニアの切り出し——自然化という蝶番

三・一 第一の自然化——病因の付け替え(『聖病論』)

では、この意味の広がりのなかから、いかにして「医学的マニア」が切り出されたのか。最初の一歩はヒポクラテス集成『聖病論』にある[5]。てんかん——「神聖病」——は他のいかなる病より神的でも神聖でもなく、脳の粘液過多という自然的原因を持つ。著者は浄め師や呪術師(kathartai, magoi)を、無知を神々の衣で覆う者として痛烈に批判する。ここで注意すべきは、この批判が、テレスティケー・マニア——浄めと秘儀による治療的恍惚——を主流の実践として是認した同じ文化の内部から発せられていることである。ウスティノーワが強調するとおり、「医学=自然的原因、民衆=ダイモーン憑依」という古い三分法は現実を単純化しすぎている。ヘロドトスはカンビュセスの狂気の原因を先天的疾患か神々の怒りか決めかねており、劇作家も観客も複数の原因論を並行して保持した。医学化は置換ではなく、並存する説明様式の一つとして始まった。

ヒポクラテス派の正気の基準は環境の整合的認識である。人や場所を認識し外的刺激に整合的に反応する者は「自分の内にある」。この基準は素人にも共有されていた——メデイアは冷静に自覚をもって子を殺すがゆえに(倫理的怪物ではあれ)文字通りの狂人ではなく、息子を獅子と取り違えて引き裂くアガウエだけが literal な意味で狂っている。体液論はマニアの性質を規定する:粘液に由来する狂気は静かで、胆汁に由来する狂気は騒がしい〔要確認:『聖病論』該当章〕。

三・二 第二の自然化——魂の病の身体化(『ティマイオス』)

第二の、そして決定的な一歩はプラトン自身が踏む。『ティマイオス』86b以下は、魂の病(nosêmata psuchês)を anoia(痴愚)と規定し、それを mania と amathia(無知)の二種に分けたうえで、その発生を胆汁や粘液の蒸気といった身体的条件に帰する——「悪人は自ら好んで悪いのではない」[4]。『パイドロス』で神的マニアを称揚した同じ著者が、魂の病の身体的原因論を定式化している。ピゴーが示したように、この定式化は医学と哲学の双方に決定的な帰結をもたらした[7]。プラトンは神的マニアの命名者であると同時に、その医学的回収の先駆けでもある。

三・三 第三の自然化——神的マニアの体質化(『問題集』第三〇巻)

第三の一歩が、本稿の見立てでは分水嶺である。偽アリストテレス『問題集』第三〇巻第一問[6]は、「哲学・政治・詩作・芸術における傑出者はなぜみなメランコリコイ(黒胆汁質)なのか」という問いから始まり、ヘラクレス、アイアス、エンペドクレス、ソクラテス、プラトンを黒胆汁質の系列に並べる。黒胆汁はワインのように、その熱冷の程度に応じて多様な状態を生む。シビュラやバキス——ウスティノーワ第一章の独立予言者たち——は、疾患によってではなく生来の気質によって神懸り(enthousiastikoi)となる。ここで『パイドロス』の構図が正確に繰り返され、そして裏返される。予言も詩作も恍惚も保持されるが、その原因は神々から身体内の黒胆汁へと付け替えられる。天与の狂気から体質としての天才へ——ウスティノーワ自身、エピローグをこの文書の分析で閉じている。神的マニアの自然化はここに完成し、以後ヨーロッパの天才論はルネサンスのメランコリー流行からデューラーを経て 20 世紀に至るまで、この転倒の長い残響のなかにある。

三・四 ローマへの移行——制度的断絶

ギリシアからローマへの移行において、本稿にとって決定的なのは制度の側の断絶である。ウスティノーワが描くとおり、ローマは恍惚的実践の制度的基盤を継承しなかった[2]。神的マニアはその社会的な座を失い、海を渡ったのは医学的マニアだけであった。分岐の第一段階は、ギリシアとローマのあいだで起こったのである。

この移行には、もう一つ語の側の道筋がある。キケロはクリュシッポスの一元論的情念論を二元論的枠組みに移し替え、insania(広義の不健全)と furor(重度の狂乱)を区別したうえで、furor をギリシア語の melancholia と同定した——ギリシア語からラテン語への翻訳が、すでに概念の変形である[7][9]。さらにアレタイオス[10]からソラノス/カエリウス・アウレリアヌス[11]、ガレノス[12]に至る過程で、mania は「無熱性の慢性錯乱」として医学の内部に正典化され、その輪郭のまま近代へ受け継がれていく。いずれもピゴーの一連の著作が主題としてきた領域である[7][8]。ただし、これを本稿の水準で扱うには、キケロの情念論そのものの解説から始めねばならず、本稿の軸から離れて相当の分量を要する。したがってこの二つの道筋——ラテン語への翻訳による概念の変形と、アレタイオスからガレノスに至る正典化——は、ピゴーの著作を主題とする別稿の紹介・解説論文に委ねる〔準備中〕。本稿は、ヒーリーとウスティノーワの内容紹介を二つの案内に譲ったのと同じ趣旨で、ここでは制度的断絶の確認にとどめる。

四 ヒーリーの系譜学——医学的マニアから双極症へ

ヒーリーの『Mania』は、この医学的マニアが近代においてたどった運命の批判的系譜学である。彼の中心的主張は書名の反語に込められている:双極性障害の歴史は「短い」。われわれが自明の疾患単位とみなすものは、比較的最近の、しかも部分的には商業的な力によって形成された構築物である[1]。ただし彼の関心は、疾患単位としての双極症がどのように形成されたかにある。ピネルへの言及は第二章の二箇所(p. 33、pp. 37–38)と第三章の付随的な二箇所にとどまり、その思想や実践そのものを主題として論じた段落はない。第二章のピネルは、神経症をなお「魂の情念」によって説明していた古い枠組みの人としてカレンと並べられ、その分類が器質的発見にすぐ取って代わられたことが述べられる。もう一箇所では、「鎖からの解放」という華々しい公的イメージがエスキロール以降の精神科医たちの寄与を覆い隠してきたと指摘され、精神医学への永続的な貢献はむしろエスキロールの側にあるとして、その名声が差し引かれる。第三章では、ファルレがピネルとエスキロールの影響で精神科医になったという経歴の記述(pp. 54–55 付近)と、バイヤルジェが「ピネル、エスキロール、ギスランもまた躁と鬱の移行を報告している」と引く文(p. 57 付近)に名が現れるにすぎない[1]〔第三章の二箇所は原著索引からの推定であり、頁付きの版で照合を要する〕。すなわちヒーリーにとってピネルは、有名ではあるが通過点的な人物であって、躁うつ病概念の成立にとっての実質的な寄与者ではない。それゆえ、本稿がこれから追う語の水準の運動——版を追う書名の変更、および manie sans déliremanie avec délire における manie の用法——は、彼の分析の対象になっていない。以下では、この語の水準の運動を、ピネルとクレペリン自身の記述に即して跡づける。

四・一 ピネルにおける manie——総称としての最後の姿

系譜の近代的起点はピネルに置くことができる。共和暦 9 年(1801)の主著の初版書名は『Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie』——書名そのものにおいて manie は aliénation mentale の同格語、すなわち精神疾患の総称である[13]。ここには、ガレノス以来「無熱性の慢性錯乱」として受け継がれてきた医学的マニアが、最後にもう一度その範囲をいっぱいに広げた姿がある。ギリシア語 mania がかつて意識の逸脱の全体を覆ったように、ピネルの manie は——神的な半身をすでに失った医学の内部で、ではあるが——狂気の全体を覆う。しかも同じ書物の分類の水準では、manie は五種の一つ(ないし二つ)でもある。初版の種別は、メランコリー、manie sans délire、manie avec délire、痴呆、白痴の五種であり、manie の語は類(書名)と種(分類)の二役を担っている。注意すべきは、種としての manie を定義するのが気分の高揚ではなく、興奮と逆上(agitation et fureur)だということである。ピネルの manie は気分の障害ではない。それは錯乱と激発の疾患であり、現代の躁エピソードの必須要件たる「高揚・拡大性ないし易刺激性の気分」は、定義のどこにも要求されていない。

このことを最も鋭く示すのが、初版が manie sans délire の核心例として掲げる症例である。知的能力・記憶・判断力にいかなる障害も認められないまま、特定の時機に、目の前にいる人間を刺し殺したいという抗いがたい衝動に襲われる男——彼は妻を愛しており、衝動の瞬間には彼女にさえ危険が及ぶことを自覚して、その都度逃げるよう自ら警告し、のちには繰り返し自殺を企てた[13]〔要確認:初版該当頁(pp. 86–87 か)〕。理性の完全な保持と衝動制御の不能との併存——ピネルはこれを「理性なき狂気 la folie sans délire」と呼び、この類型はプリチャードの「道徳的狂気 moral insanity」を経て 19 世紀法医学の責任能力論争へと流れ込む[25]。現代の分類でこの症例を躁エピソードの近くに置く精神科医はいないだろう。すなわち 1801 年の manie の外延は、現代の躁の外延とほとんど重ならない。ピネルの manie は、mania の意味の広がりの医学的半身を、なお総称として——つまり未分割のまま——保持する最後の形態なのである。

第二版(1809)は「全面改稿 entièrement refondue」の名のとおり、この構図を自ら組み替える。副題「ou la manie」は消え、種別は五種から四種——manie・メランコリー・痴呆・白痴——に縮減され、manie は次のように定義し直される[23]

Un délire plus ou moins marqué sur presque tous les objets s’allie, dans plusieurs aliénés, à un état d’agitation et de fureur : ce qui constitue proprement la manie.
(多くの aliéné においては、ほとんどすべての対象に及ぶ多かれ少なかれ顕著な délire が、興奮と逆上の状態に結びつく。これがまさしく manie を構成する。)(§5、訳は筆者)

——ここで délire に訳語を与えず原語のまま用いるのは、この語がせん妄(譫妄)と妄想の両義を一身に負っており、どちらか一方の訳語に固定すればピネルの用法をあらかじめ狭めてしまうからである。この両義性と、独・英・日の三言語がこの語を語幹の水準で分割していることについては、別稿で論じた[26]。さて、manie が délire を含むものとして再定義された結果、manie sans délire は種の地位を失い、本文中の一例へと降格される。その一例(§161)が名高い革命の場面である。九月虐殺の際、「旧体制の犠牲者」を解放するという口実でビセートルに乱入した武装集団は、独房を巡回して収容者を尋問し、錯乱が明白なら通り過ぎた。だが鎖につながれた一人は「分別と理性に満ちた言葉」で彼らの注意を引き、自らの監禁を「最も腹立たしい不正」と訴えて解放される——そして「共和国万歳」の歓呼のなかで軍刀を奪い、左右に斬りつけ血を流させる。ピネルはこの男を、délire を全く呈さぬまま「盲目的な逆上 fureur aveugle」によって危険な aliéné の例とする[23]。錯乱の明白な者は見逃され、理性的に語る者こそが病者であった。見かけの状態像だけでは疾患の有無を決められないことを、ピネル自身がこれほどよく示した場面はない。さらに §237–239 でピネルは、初版がひとまとめにしていた manie sans délire を、自ら二つに分ける。理性の自由な使用と結びついた熟慮的悪意(サルペトリエールの元修道女の「邪悪で粗暴な性格」)は病気ではなく、病的状態に由来する抗いがたい衝動(発作中に「血管に血が滾るのを見、自らの血を吸い、四肢を歯で引き裂きたい」欲望を自覚しつつ制御できない鎖の患者)だけが治療対象たる疾患である[23]。manie の境界をどこに引くか——悪徳と病、性格と疾患のあいだの線引き——を、ピネルは書物の二つの版のあいだで現に引き直している。本稿の主題である「何が mania と呼ばれ、誰がその線を引いたか」という問いは、近代の入口でも、一人の著者のなかでさえこれほど揺れ動いていた。

以上を一歩引いて眺めれば、初版のピネルは一つの過渡期に立っている。初版の manie は、衝動性と暴力的な逆上に始まり、悪魔の軍団を見る幻惑から憑依の確信にまで及ぶ——ギリシア語 mania がかつて持っていた意味の広がりを、神的な半身を失った医学の内部で、なお持ちえていた。だが同じ著者は 8 年後、書名から « ou la manie » を落とし、総称の座を aliénation mentale に譲る。総称としての manie が最後にその全幅を見せた瞬間と、その座を明け渡す瞬間とが、一人の著者の二つの版のあいだに収まっているのであり、書名の変更は、この語の意味が広漠から厳密へと移りゆく過渡期の刻印として読むことができる。そしてこの狭窄はピネル以後も止まらない。70 年後、カールバウムは自分が報告したカタトニアの興奮相を、なお「マニー」の名で呼んだ。だがその呼称は同時代の権威たちによってただちに「激越(Erregung/agitation)」へ訂正される——「激越はマニアではなかった」(四章補注に引くショーターとフィンクの指摘[31])。まさにこのとき、漠然と広い意味で使われてきた manie の語は、より厳密な規定をもつ語に取って代わられようとしていたのである。その到達点がクレペリンの「一相としての Manie」(四・三)であり、そこで manie は気分の高揚として定義し直され、初版のピネルが manie の名の下に置いていた衝動・逆上・憑依は、いずれも別の名を与えられてこの語のもとを去っていく(図 IV.1)。

ギリシア語 mania ——意識の逸脱の全体
 ├─ 医学的マニア  病的錯乱 / 暴力的逆上
 └─ 神的マニア   預言的恍惚 / 秘儀的マニア / 詩的霊感 / 恋のマニア
   ↓ 神的半身の離脱(第二・三章)
ピネル初版(1801)——書名 « aliénation mentale, ou la manie »
  manie = 精神疾患の総称(類)
  + 種としての manie sans/avec délire
    (衝動・逆上から幻惑・憑依まで)
   ↓ 書名から « ou la manie » が消える
ピネル第二版(1809)——manie = délire général + 興奮・逆上の一種
   ↓ 総称の解体(エスキロール:モノマニー/リペマニーの切り出し)
ファルレ/バイヤルジェ(1854)——循環狂・二重形態狂:躁は鬱と対をなす一極へ
   ↓ 状態像の切り出し
カールバウム(1874)——カタトニアの興奮相を « Manie » と呼ぶ
   → ただちに « Erregung/agitation » へ訂正
   ↓ 経過と転帰による疾患単位
クレペリン(1899)——Manie = 躁うつ病の一相(Abschnitt)= 気分の高揚
   ↓
ICD-11 ——躁エピソード:高揚・拡大性ないし易刺激性の気分を必須要件
   (衝動・逆上 → 衝動制御症群 6C73/憑依 → 憑依トランス症 6B63)
図 IV.1——manie の意味の狭窄:総称から一相へ
補注——manie sans délire の三方向への分岐

種としての manie を定義していた fureur は、その後どこへ行ったのか。manie sans délire は能力心理学の産物である——悟性の無傷と意志・情動の障害という、諸能力(facultés)の水準で切り出された種。だが以後の分類体系は切断軸を変える。クレペリン体制は経過と転帰で、操作的診断は行動パターンで疾患を切る。切断軸を異にする体系のあいだでは、旧カテゴリーに単一の後継者は存在しえない。本稿がここまで追ってきた分岐は、mania の全体が神的マニアと医学的マニアという二つの系譜に分かれる、いわば第一次の分岐であった。本補注が扱うのはその後日譚である——医学的マニアの内部で、manie sans délire の内容がさらに分けられていく第二次の分岐であり、その行き先は少なくとも三つある。

分岐の行き先を追う前に、分けられる内容の輪郭を確かめておく。初版において manie sans déliremanie avec délire は、同じ第四節に並ぶ二つの種であり、両者を分かつのは fureur の有無ではなく délire——悟性(entendement)の毀損——の有無である。ピネル自身の例示を並べればその対照は明瞭になる。manie sans délire の側には、理性と記憶を保ったまま殺人衝動に襲われ妻に自ら警告した男、甘やかされて育ち些細な立腹で家畜を殺し女を井戸に投げ込んだ青年、発作のあいだ相手の血を吸い四肢を引き裂きたいと駆られながら平静時には自ら隔離の延期を願い出た患者——いずれも「正しく推論し、自らの状態を知る」者の激発である。manie avec délire の側(初版 §XIV)には、五万の兵を倒してきたと称する将軍、臣民と属州しか語らぬ君主、至高者の名で威嚇する預言者マホメット、一吹きで大地を滅ぼしうる世界の主権者、人の集まりを悪魔の軍団と見て殴りに行こうとする患者、衣服と寝藁を絡み合った蝮と信じて引き裂く患者——「想像力が貸し与える形と色」で対象を見る者たちの激発である。激発(fureur)は両側にある。異なるのは、それを見つめる理性が残っているか否かだけである。第二版(1809)はこの対称をさらに動かす。manie sans délire は種の地位を失って躁病の章の症例群(§158–161)へ降格されるが、症例そのものは保存される。他方 manie avec délire は「manie」そのものに吸収され(§152–157)、将軍以下の誇大的形象の列挙は削られて憂鬱症——délire exclusif——の章へ移され(フランス王を自称する執事、コルシカ王に変身したと信じる法律家、「世界の主権者」のヴェルサイユ住人)、躁病の章には悪魔の軍団と蝮の二例、そして新たに、憑依を確信しサルペトリエールで翌日に誤りを認めた 27 歳の女性(§154)が残る。すなわち第二版において、délire を伴う側の内容は誇大(憂鬱症へ)と幻惑・憑依(躁病に残留)とに早くも二分され、délire を伴わない側の内容は §237–239 で病的衝動と熟慮的悪意とに二分される。以下に追う三方向への分岐は、後者の二分から始まる。なお、以下で現代の診断カテゴリーを挙げるのは、それぞれがピネルの症例群と構造的に対応することを示すためであって、文献上の継受を主張するものではない——ICD-11 の起草者がピネルを参照した形跡はなく、対応は遡及的に見出されるものである[32]

第一の行き先は衝動制御の系譜である。§239 で疾患側に確定された病的衝動の極は、「意志が衝動を制御しえぬときにのみ、人は真に狂気である」というバイヤルジェの定式(1853)を経て、ICD-11 の衝動制御症群、なかでも間欠爆発症(6C73)に至る。WHO の診断要件書(CDDR)が 6C73 の必須要件とする「反復性・短時間の爆発的エピソード」「誘因に対して著しく不釣合いな強度」「計画的・道具的でない、明らかに衝動的・反応的な攻撃」、および付随的臨床特徴として挙げる前駆的な緊張感とエピソード後の後悔・自責[30]は、初版の核心症例——理性と記憶を保ったまま殺人衝動に襲われ、妻に自ら警告し、のちに自殺を企てた男[13]——にほとんど条項ごとに対応する。ただし遡及診断には限界がある。6C73 は持続的パターン(目安として三ヶ月以上の反復)を要求し、孤立した一、二回のエピソードは重大性にかかわらず診断に不十分であることを正常との境界の項に明記する[30]。適合するのは周期的な発作反復を示すピネル型の症例であって、一回の破局的行為で定義される後代のモノマニー・オミシッド型は、現代分類ではむしろ行き場を失う。この系譜の概念史的詳細は別稿に譲る[32]

第二の行き先は非社会性の系譜である。§237–239 のもう一方の極、理性の自由な使用と結びついた熟慮的悪意は、ピネルにおいては病から除外された。だがプリチャードの moral insanity[25]がこの線引きを曖昧化し、この極はやがて精神病質・非社会性パーソナリティの概念圏——ICD-11 でいえば秩序破壊・非社会的行動症群の側——へ流れ込む。この分岐の発祥論的位置については拙稿を参照[33]

ここで一点、留保を付しておかねばならない。§237 でピネルが「manie sans délire に帰すべきか」と問うたのは、理性の錯乱の痕跡をまったく示さないにもかかわらず、拘置所で罪人と混同するよりは精神病者施療院に隔離するほうが好まれた「粗暴で奇矯な性格」の稀な例——サルペトリエールの元修道女がその「際立った例」であり、世話をしに近づく看護の娘に罵詈を浴びせ、食事を投げ捨てては餓死させられると訴え、衣服を引き裂くことを楽しみとし、「倒錯した獰猛な性格」ゆえに独房へ隔離された——についてであった[23]。ピネルの答えは否である。§239 は、理性の自由な行使と両立する「熟慮的悪意」と、病的状態に由来し規則的治療を要するもの——鎖の患者の抗いがたい性向——とを分け、前者を病から除外した。第二の極は、ピネルにとって邪悪な人格であって疾患ではない。だがこの除外は分類学的に安定しない。現代の分類に投影すれば、元修道女の「粗暴で奇矯な性格」は ICD-11 の秩序破壊的または非社会的行動症群に入らなくもなく、他方でクルト・シュナイダーの精神病質人格——とりわけ爆発性ないし情性欠如性の類型——の一つとみることもできなくはない[34]。ピネルが病の外に置いた極を、後代は病名の内に呼び戻したのか、それとも人格の異常として病と正常の中間に置き直したのか——この点は本稿ではなお検討を要するものとして留めておく〔要検討〕。

第三の行き先は、意識変容を伴う致死的興奮の系譜である。ショーターとフィンクはカタトニア史の概観のなかで、急激な興奮と錯乱から消耗死に至る病態が古来多様な名——フランスの急性譫妄(délire aigu)、ベルのマニア(1849)、そしてピネルの manie sans délire——のもとに記録されてきたことを指摘し、混迷と狂乱的興奮の交代がエスキロール以下の臨床家たちに強い印象を残したことを跡づけている[31]〔要確認:第八章該当箇所の逐語文言と頁〕。興奮をめぐる語彙が mania の名から剥離していく過程そのものを、彼らはカールバウム章で一つの範例として捉えている[31]

“And he [Kahlbaum] made frequent reference to “mania” as well, as though catatonia were just a kind of mood disorder. But other authorities quickly substituted “stupor” for “atonicity” and “agitation” for “mania” because catatonic stupor did not entail a mood disorder, and agitation was not mania. Stupor and agitation were not moods but behavioral opposites, and in Kahlbaum’s catatonia they frequently alternated with each other.”

〔筆者訳〕「そして彼〔カールバウム〕は、あたかもカタトニアが一種の気分症であるかのように、『マニア』にも頻繁に言及した。だが他の権威たちはただちに、『強直性(Attonität)』を『昏迷』に、『マニア』を『激越』に置き換えた。カタトニア性の昏迷は気分症を含意せず、激越はマニアではなかったからである。昏迷と激越は気分ではなく行動の対極であり、カールバウムのカタトニアにおいて両者は頻繁に交代した。」(Shorter & Fink, 2018, 第三章、原注34の箇所)

「激越はマニアではなかった」——19 世紀末の権威たちがカールバウムの用語法を訂正したこの一語に、mania の語が興奮・激発の領域から追放されていく瞬間が捉えられている。クレペリン自身が躁とうつのあいだに置いた「躁性昏迷(manic stupor)」についても、彼らは「振り返れば、おそらくありふれたカタトニアの興奮と昏迷の交代であった」と註している[31]。明晰な意識を保つピネルの症例をこの錯乱性興奮の系譜に数え入れる併置は、ピネル自身の用法からすれば緩やかに過ぎる。だがまさにこの緩さこそ、fureur をめぐる語彙の浮動という彼らの論じた事態の実例にほかならない。激発(fureur)には病態特異的な内容がなく、複数の疾患の最終共通経路にすぎないため、分類体制が変わるたびに、その時代の切断軸で別の場所へ割り振り直される。同じ manie sans délire の名が、今日では衝動制御症の前史としても(本補注第一の線)、譫妄性のマニア=カタトニー性興奮の旧名としても(ショーターらの線)遡及的に請求されるという事実そのものが、この浮動の何よりの証左である。

三方向の分岐を通覧すると、一つの構図が浮かぶ。クレペリンの Manie に残ったのは、mania の名と、気分の側面だけであった。ピネルにおいて種としての manie を定義していた当のもの——fureur——は、mania の名を失ったまま三つの行き先に分かれ、いずれも現代分類では躁とは別のカテゴリーに収められている。

四・二 総称の解体——エスキロールからファルレ/バイヤルジェへ

エスキロールがこの総称的 manie を解体する。部分的狂気としてのモノマニー、悲哀性のリペマニーが切り出され、師の manie は「全般的な délire」に限定された一種となって、もはや狂気の全体を名指す力を失う[14]。1851〜54 年、ファルレの循環狂(folie circulaire)とバイヤルジェの二重形態狂(folie à double forme)が、躁と鬱の交代をはじめて一つの疾患として記述し、著名な先取権論争を演じる[15][16]。ここで manie は、単独の疾患であることをやめ、対をなす鬱と一組で扱われる方向へ動き始める。

四・三 クレペリンにおける Manie——疾患から一相への降格

クレペリンは 1899 年の第六版で、周期性・循環性の諸型と単純性の Manie とを躁うつ性精神病(manisch-depressives Irresein)として統合する[17]。この統合の意味論的帰結は、講義録『臨床精神医学入門 Einführung in die psychiatrische Klinik』の躁の講——独語第三版では第二講「Manische Erregung」、第二版に基づく仏訳では第七講「Excitation maniaque」——において最も明瞭に言語化されている[24]

Die Manie ist nicht nur gewissermaßen eine getreue Umkehrung der zirkulären Depressionszustände, sondern sie ist, wie früher angedeutet, nichts als ein Abschnitt des manisch-depressiven Irreseins.
Non seulement la manie est jusqu’à un certain point tout le contraire de la dépression, mais elle n’est autre chose qu’une phase de la folie maniaque-dépressive.
(Manie は、いわば循環性の抑うつ状態の忠実な裏返しであるにとどまらず、すでに示唆したとおり、manisch-depressives Irresein の一区分にほかならない。)(独語第三版 S. 16、仏訳 p. 78。訳は独語版より筆者)

Manie はもはや疾患の名ではない。独語原文が Abschnitt(区分)、仏訳が phase(相)と呼ぶもの——一疾患の経過の一区間——の名であり、より正確には強度によって段階づけられた状態像の名である。「われわれはこの徴候の結合を——しばしば同じ形で出会うがゆえに——Manie の名で呼ぶ。あるいは、ここでのように個々の障害が軽度にしか形成されていない場合には、Hypomanie の名で」と、クレペリンは商人の症例を示しつつ言う(S. 16、訳は筆者)。1801 年に狂気の全体を名指した語は、ここで疾患単位ですらなくなり、経過のなかの一区間へと退く。総称から種へ(ピネル第二版)、種から対の一方へ(ファルレ/バイヤルジェの循環狂・二重形態狂において躁は鬱と対をなす一極となる)、対の一方から一相へ(クレペリン)——医学的マニアの内容は、三段階の降格を経て現在の形に達した。

この降格の論理を担うのが、講義に登場する二人の患者である。第一の患者(第三版の症例番号で Fall 4「Hypomanie」)、体格のよい 50 歳の商人は、足早に入場し、大声で話し、誇張された挨拶をして、質問にためらいなく正確に答える——そして逆に問い返し、冗談を仕掛け、麻痺があると偽り、わざと計算を間違えて聴衆をかつごうとする。入院前夜には酒場から酒場へと巡り、市場の広場で頭から水をかぶり、帰宅して鏡や家具を手当たり次第に打ち壊した。これが七度目の入院であり、37 歳の初発時には——新聞に広告を出して土地の名士たちを展望台で開く「上流の夜会」に招待し、憲兵を指名手配中の無政府主義者だと言い立てて警察を総動員させた——進行麻痺の診断が下されていた。その後の発作は浪費と飲酒と性的放縦を伴って2〜6か月続き、あいだに3か月、9か月の抑うつ期が挟まる。クレペリンがかつて立てた予後——躁発作の反復と抑うつ期の交代——は、そのとおりに実現した[24]。状態像は進行麻痺とも見誤られうる。診断を決めるのは、ある時点の状態像ではなく長い経過である——クレペリンの疾病分類の全体を貫くこの原則が、Manie の降格の方法論的な根拠にほかならない。

第二の患者(Fall 5「Manie」)、32 歳の女性は、講堂に着く前からその声が聞こえる——「諸君がすでに外から聞いておられるとおり」とクレペリンは記す。着席せず、足早に歩き回り、聴衆に接吻の身振りをし、突然椅子に跳び上がり、靴と前掛けを投げ捨てて歌い踊り、黒板に自分の名を書いてはその花押で板面をほとんど埋め尽くす。言葉は奔逸し、ほぼ支離滅裂だが、押して問えばおおむね正しい答えが返り、自分が「精神病院」にいることも周囲の人物も分かっている。14 歳の抑うつで初発し、以後、躁と鬱の交代を重ね、数多くの軽躁期は周囲の素人には病気と映らなかった——世間の目には陽気に人生を楽しむ女(« bonne vivante »)と映り、新聞に結婚広告を出し、行きずりの関係を重ね、結婚し、離婚した[24]。クレペリンは商人と彼女とを並べ、両者に同一の症候群——躁性興奮——を認めて、差異は程度の差にすぎないと結論する。ここには二重の教訓がある。第一に、Hypomanie から錯乱状の興奮までを一つの連続体として束ねる操作によって——症例番号の名称そのものが、穏やかな商人を Hypomanie、激しい女性を Manie と、同一連続体上の二点として銘打っている——Manie は「強度の段階を持つ一状態像」として完成した。第二に、その連続体の裾野は健康な生活態度と見分けがたい——「陽気な女」と軽躁とを分かつ線は、状態像の内部にはない。性格と疾患のあいだの線引きというピネル §237 の問題が、ここでは連続体の下端で再び現れている。さらに遡れば、予言や詩作を疾患ではなく生まれつきの気質(enthousiastikoi)に帰した『問題集』第三〇巻[6]と同じ形の問題を、そこに認めることもできる。

四・四 20 世紀後半——拡張の系譜

ヒーリーの筆が最も鋭くなるのは 20 世紀後半である。ケイドのリチウム再発見(1949)とスコウによる検証、DSM-III(1980)における「双極性障害」の成立を経て、1990 年代——彼によれば「気分安定薬 mood stabilizer」という語自体がこの時期の産物である〔要確認:ヒーリーの正確な主張と年代〕——に、診断の適用範囲は爆発的に拡大する。小児双極性障害の流行はその極点であり、ヒーリーはこれを、19 世紀の躁の疫学——例えば北ウェールズの収容統計では古典的躁うつ病はごく稀であった〔要確認:数値〕——と対比してみせる。

本稿の観点から重要なのは、この系譜学の射程である。ヒーリーの批判は医学的マニアの系譜の内部では強力に機能する。しかし彼の物語における古代は、双極性障害の遠い前史として数頁で通過され〔要確認:第一章の具体的記述——何を引き、何を引いていないか〕、古代のマニアが現代の躁と異なることは認められても、では何であったのかは問われない。その問いの空白を埋めるのがウスティノーワである。ヒーリーが「現在の双極症は思われているほど古くない」と論じるとき、ウスティノーワは「古代のマニアは思われているほど医学的でない」と論じている。二つの議論は、互いに相手の欠けた部分を埋め合っている。

五 ICD-11 における再会——除外規定を読む

二つの系譜は、ICD-11 のなかで別々の章に住んでいる。第一の行き先は、気分症群の章にいる躁エピソードである。正確を期しておけば、ICD-11 において気分エピソードは独立に診断される単位ではなく、固有のコードを持たない——躁エピソードは、双極症I型(6A60)の診断を定義する部品である。CDDR(臨床記述と診断要件)はその必須要件を、高揚・易刺激性・拡大性という極端な気分状態と、活動性ないし主観的エネルギーの増大が少なくとも一週間並存すること、および多弁・観念奔逸・誇大性・睡眠欲求の減少・転導性・衝動的無謀行動・性欲や社交性の亢進などからの複数の症状と規定する[18]。これがヒーリーの系譜の現在の終着点であり、ガレノス的な「無熱性の錯乱」から気分の障害へと重心を移しながらも、医学的マニアの直系であることは疑いない。

第二の行き先は解離症章にいる。トランス症(6B62)と憑依トランス症(6B63)——前者は意識状態の著明な変容と周囲への気づきの狭窄、後者は通常の人格的同一性が霊・力・神・その他の霊的存在に帰属される外部の「憑依」的同一性によって置換される状態である。CDDR は両障害の導入部で、まず次のように述べる。

Most trance or possession trance states are brief and transitory, and are related to cultural and religious experiences. These experiences are not considered pathological, and a diagnosis should not be assigned based on their occurrence.
(トランスないし憑依トランス状態の大半は短時間で一過性であり、文化的・宗教的経験に関連する。これらの経験は病理的とはみなされず、その出現を根拠に診断を与えてはならない。)[18]

そのうえで、障害の必須要件のなかに次の一項が置かれる。

The trance state is involuntary and unwanted, and is not accepted as a part of a collective cultural or religious practice.
(そのトランス状態は不随意かつ望まれないものであり、集合的な文化的・宗教的実践の一部として受容されていない。)[18]

この条項の構造を見よう。障害の成立要件は三つある——不随意かつ望まれないこと、集合的に承認されていないこと、著しい苦悩ないし機能障害をもたらすこと。第一と第三の要件は個人の内部にある。しかし第二の要件だけは、個人のいかなる属性でもない。それは共同体の側の事実であり、診断の線引きが文化の承認に明示的に委ねられている。同一の状態像が、承認する共同体の内部では正常な宗教的経験であり、その外部では精神障害である。

これは、ウスティノーワが復元したギリシア的態度の、ほとんど条文化と言ってよい。ただし、ここで言う「条文化」は構造的な対応であって、文献上の継受ではない。ICD-11 のこの規定は、古代ギリシアを参照して書かれたものではなく、20 世紀後半の文化精神医学——文化的に型づけられた意識変容を病理から区別する原則を積み上げてきた研究伝統——の一般原則から導かれたものである〔補筆予定:この制度化の背景を示す文化精神医学の文献を選定する〕。本稿が主張するのは、その一般原則が結果として、ギリシア人が実践的に知っていた線引きと同じ構造を持つに至った、ということに尽きる。デルポイのピュティアの enthousiasmos、エレウシスの秘儀参入者の恍惚、公認された thiasoi(祭祀集団)のバッケイア——これらはいずれも「集合的な文化的・宗教的実践の一部として受容された」意識変容であり、6B62/6B63 の診断からは定義により除外される。ギリシア人が神々に帰したマニアは、気分症群の躁のなかにではなく、解離症群の障害定義の陰画のなかに——障害でないものとして輪郭を与えられるかたちで——生き残っているのである。CDDR の経過の項が、霊的治療者(spiritual healers)は文化的に承認された儀礼の外部で不随意のトランスを発症するリスクが高いと記すとき[18]、そこには、ウスティノーワが描いた職業霊媒——訓練によって養い、統御される意識変容の担い手——の現代の姿が、ほとんどそのまま現れている。

ここで、シャーマニズム論考[20]で用いたヤスパース由来の区別——状態像(個人に生じる体験の質)と職能(社会が設計した制度的な座)——を再び用いることができる。ICD-11 の除外規定は、状態像のみからは障害を定義できず、座の有無が診断を分かつことを、国際分類の水準で承認したものにほかならない。ピュティアと憑依トランス症の患者を分かつのは状態像ではなく座である——この命題は、ウスティノーワの歴史記述と CDDR の条文の双方から支持される。付け加えれば、状態像だけでは診断を決められないという同じ認識を、クレペリンは経過という時間の軸で(四・三)、ICD-11 の除外規定は共同体の承認という社会の軸で、それぞれ制度に組み込んだのだと言うこともできる。切り口は違っても、状態像だけでは足りないという前提は共通している。なお近年提案された「型づけられた解離性同一性(patterned dissociative identity)」の概念——病とみなされず、意志によって誘発され、交代人格が自文化の体系に属する存在であるという三点で解離性同一症と異なる——は、この構造を個人心理学の側から定式化したものである。ウスティノーワ自身も序論で、ギリシア語の憑依の語彙の広さを示すためにこの概念を引いている[2]

六 考察——分岐の帰結

分岐という語で本稿が言おうとしたのは、次のことである。ギリシア語 mania が覆っていた連続体——病的錯乱から神的霊感まで、激烈から静謐まで、災厄から祝福まで——は、医学化の過程で「無熱性の慢性錯乱」へと切り詰められ、その医学的マニアがさらに気分の障害へと特殊化されて現代の躁に至った。しかもこの特殊化は一挙にではなく、語の段階的な降格として進行した。ピネル初版(1801)において manie はなお精神疾患全体の総称でありえたが、同じ著者の第二版(1809)で délire を核とする一種に限定され、エスキロールが総称の解体を完了し、クレペリン(1899)に至って manie はもはや疾患単位ですらなく、一疾患の一相——強度の段階を持つ一状態像——となった(四章)。切り落とされた部分——文化的に承認された意識変容、恍惚、憑依——は、20 世紀に至るまで医学の正面の対象ではなく、ようやく解離の概念のもとで、しかも「障害でない場合」の条項を添えて、分類体系に再登録された。分岐は完了したが、二つの半身は互いを知らない。医学的な半身の内部でもまた、fureur の三つの行き先——衝動制御症群・非社会的行動症群・カタトニア——は躁の頁を参照しない(四章補注)。躁エピソードの診断要件に文化的除外規定はなく(CDDR が双極症について置くのは、症状の表現が文化によって異なりうるという「文化関連の特徴」の注記にとどまる)、トランス症の側にマニアの語源への言及はない。

なぜ二つの半身がそれぞれ気分と解離という住所に落ち着いたのかについて、本稿は概念史の記述にとどめ、因果の説明を試みていない。輪郭だけを記しておけば、医学的マニアが気分へ収斂したのは、興奮と逆上によって定義されていた manie が、19 世紀の情動論——エスキロールの情念論から、ファルレ/バイヤルジェによる躁と鬱の対化、クレペリンの「気分の障害」への統合まで——の内部で再定義されたからであり(四章)、神的マニアが解離へ再配置されたのは、恍惚と憑依がまず 19 世紀末のヒステリー論と解離概念(ジャネ)の対象となり、次いで 20 世紀後半の文化精神医学が「文化的に型づけられた意識変容」を病理から区別する原則を確立して、ICD-11 の除外規定に結実したからである(五章)。いずれも別稿の主題に値する問いであり、ここでは行き先を確認するにとどめる〔補筆候補〕。

この分割において失われたものは、マニアの両義性である。ウスティノーワが繰り返し強調するように、ギリシアのマニアは称賛と恐怖を、様々な割合で入り混じったかたちで同時に喚起した。医学的マニアはこの両義性を持たない——躁は治療されるべき状態であり、それ以外ではない。祝福の側は、医学の周縁にある天才論・創造性論へと移り(『問題集』第三〇巻はその移り先の設計図であった)、あるいは宗教的経験の心理学に引き取られた。他方で回復されたものもある。文化的除外規定は、状態の病理性が状態像のみからは決定できないという認識の制度化であり、その限りで現代分類は、2000 年の迂回ののち、ギリシア人が実践的に知っていたこと——同じ状態が座の有無によって祝福にも病にもなること——に条文のかたちで復帰した。

狂気への態度が歴史的に条件づけられていることは、ギリシアとローマの断絶が最も鮮明に示す。同じ地中海世界、部分的に同じ神々、しかし一方は意識変容への免疫機構を発達させず、他方はそれを周縁化した。本稿はこの対比を古代の一断面として確認するにとどめ、収穫祭の羽目外し、中世の愚者の祭、道化といった「非理性の容器」の比較類型論は別稿に譲る。ここで確認すべきは方法的な一点のみである——ギリシアを「理性の民」とする通念も、狂気の医学化を単線的進歩とする通念も、この一断面の前では維持できない。前者の通念に学問的な形を与えたのがドッズであり、彼は非理性をギリシア精神の裂け目として描き、その拡大を古代末期の「自由への怖れ」として説明した(二章)。ウスティノーワが示したのは、裂け目とされたものが制度の本体であったということである。狂気を理論的対象として構成する作業がギリシアに始まったこと(ケテル)は正しい。しかし理論化されたのは意味の広がりの一部にすぎず、残余は理論化されないまま、2000 年のあいだ実践と文学と宗教のなかを流れつづけたのである。

七 結語

ヒーリーとウスティノーワの二冊は合わせ鏡である。ただし二枚の鏡の重みは、精神科医にとって同じではない。ヒーリーの描く系譜——無熱性の慢性錯乱から気分の障害へ、そして双極症へ——は、精神科医にはおおよそ知られたものである。意外であったのはウスティノーワの側である。トランスや憑依のような解離状態は、近代に固有のストレスのもとで生じてきたものだという認識で、筆者は済ませていた。ところが、理性の民として知られたギリシアにおいてトランス状態が広く見られ、それが人々の精神と共同体の安定に役立てられ、さらには精神疾患の治療にさえ用いられており、しかもそれがマニアと呼ばれていた——この事実は、精神科医の常識を裏返すものであった。そしてローマはそれを禁じた。ヒーリーを読む精神科医は、ウスティノーワによって自らの対象の来歴の狭さを知る。ウスティノーワを読む古典学者は、ヒーリーによってその後日譚——切り出された断片が疾患単位となり、市場を持つに至る歴史——を知る。どちらか一方だけでは片手落ちであり、mania という語の流れを理解するには、二冊が不可欠なのである。ICD-11 は、この長い分岐の現在の到達点を記録している。ただし記録されているのは、この二つの系譜だけではない。mania の名を受け継いだのは躁エピソードのみであり、そこに医学的マニアの 2000 年が集約されている。トランス症の除外規定には神的マニアの系譜が残されている。だが四章補注で見たように、ピネルが manie の名の下に置いた内容——fureur——は、名前を伴わぬまま、さらに別の診断へ分かれていった。病的衝動は衝動制御症群(6C73)に、熟慮的悪意の極は秩序破壊的または非社会的行動症群に、そして意識変容を伴う致死的興奮は、mania の語を一つも含まないカタトニアの章(6A4)に、それぞれ位置を与えられている。総称としての manie が精神疾患全体と同義であったからといって、すべての診断がその系譜に連なるわけではない。分かれていったのは類ではなく、ピネルが種としての manie を定義した当の内容、délirefureur であって、どこまでがこの系譜に属するかは、その内容によって決まる。そして「集合的な文化的・宗教的実践の一部として受容されていない」という一句は、共同体の承認の有無によって病か否かが分かれるという点で、ギリシアにおける線引きと同じ構造をもつ記載である。

残る課題は三つある。第一に、第三章が委ねた道筋を引き受ける稿——ピゴーの『魂の病』『Folie et cures de la folie』『L’Homme de génie et la mélancolie』を主題とする紹介・解説論文であり、キケロによるラテン語への翻訳と、アレタイオスからガレノスに至る正典化の過程は、そこで扱う。第二に、本稿が扱わなかったもう一つの系譜の物語——mania と対をなす melancholia が、黒胆汁の病から天才の徴を経て、20 世紀に depression へと改名されるまでの系譜——であり、これは本稿と対をなす別稿として構想される。第三に、ローマが禁じたのちのトランスの行方である。キリスト教の聖人伝には恍惚のうちになされた幻視や奇蹟の記述が数多くあり、憑依は悪魔祓いの対象として教会の管理下に置かれた——ピネル自身が第二版 §388 で、ブザンソンの聖骸布の祝日に「悪魔憑き」の名で遠方から連れてこられる aliénés と、その祓魔の光景を記録している[23]。ウスティノーワはそこまで射程を伸ばしていない。この探究の手引きとなるのは、ドッズが 2〜4 世紀の夢・脱魂・憑依・預言を扱った後年の著作[36]と、音楽と憑依の関係を通史的に論じたルジェの研究[37]であろう。神的マニアが中世と近世をどう生き延び、あるいは名を変えたかは、別の探究を要する。

References
文献(暫定——引用箇所・頁数は改訂で確定する)
[1]Healy, D. Mania: A Short History of Bipolar Disorder. Baltimore : Johns Hopkins University Press, 2008.(原著索引の « Pinel, Philippe » の項は 33, 37–38。関連項目は Falret 54–55, Baillarger 54–59, Esquirol 54, 57)(引用箇所:一章・四章)a b
[2]Ustinova, Y. Divine Mania: Alteration of Consciousness in Ancient Greece. London / New York : Routledge, 2018.(引用箇所:一章・二章・三章・五章)a b
[3]Platon. Phèdre, 244a–245c, 265a–b.(引用箇所:二章。参照・引用はクーパー編英訳版〔Nehamas & Woodruff 訳, in Cooper (ed.), Plato: Complete Works, Hackett, 1997〕およびプレイヤード版仏訳を底本とする評者の重訳)
[4]Platon. Timée, 86b–87b.(引用箇所:三章。参照・引用はクーパー編英訳版〔Zeyl 訳〕およびプレイヤード版仏訳を底本とする評者の重訳)
[5]Hippocrate. De la maladie sacrée(『聖病論』).〔底本要決定:Littré VI/Loeb〕(引用箇所:三章)
[6]ps.-Aristote. Problèmes, XXX, 1 = Pigeaud, J. (éd. et trad.). L’Homme de génie et la mélancolie. Paris : Rivages, 1988.(引用箇所:三章)
[7]Pigeaud, J. La maladie de l’âme. Étude sur la relation de l’âme et du corps dans la tradition médico-philosophique antique. Paris : Les Belles Lettres, 1981.(引用箇所:三章)a b c
[8]Pigeaud, J. Folie et cures de la folie chez les médecins de l’Antiquité gréco-romaine. La manie. Paris : Les Belles Lettres, 1987(新装版 2027 予定).(第三章補筆時の主要文献)
[9]Cicéron. Tusculanes, III–IV.(引用箇所:三章)
[10]Arétée de Cappadoce. Des causes et des signes des maladies aiguës et chroniques.(引用箇所:三章・補筆時に確定)
[11]Caelius Aurelianus. Celeres / Tardae passiones(ソラノスのラテン語翻案).(引用箇所:三章・補筆時に確定)
[12]Galien. De locis affectis ; Quod animi mores corporis temperamenta sequantur.(引用箇所:三章・補筆時に確定)
[13]Pinel, Ph. Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie. Paris : an IX (1801).(引用箇所:四章)
[14]Esquirol, E. Des maladies mentales. Paris, 1838.(引用箇所:四章)
[15]Falret, J.-P. « Mémoire sur la folie circulaire, forme de maladie mentale caractérisée par la reproduction successive et régulière de l’état maniaque, de l’état mélancolique, et d’un intervalle lucide plus ou moins prolongé ». Bulletin de l’Académie impériale de médecine, t. 19, 1853–54(1854 年 2 月 14 日報告). 「circulaire」の語の初出は Gazette des hôpitaux 1851 年 1 月 29 日掲載の臨床講義。(引用箇所:四章。頁数は補訂で確定)
[16]Baillarger, J. « Note sur un genre de folie dont les accès sont caractérisés par deux périodes régulières, l’une de dépression et l’autre d’excitation ». Bulletin de l’Académie impériale de médecine, t. 19, 1853–54(1854 年 1 月 31 日報告); « De la folie à double forme ». Annales médico-psychologiques, 2e série, t. 6, 1854.(引用箇所:四章。頁数は補訂で確定)
[17]Kraepelin, E. Psychiatrie, 6. Aufl. Leipzig, 1899.(引用箇所:四章)
[18]World Health Organization. Clinical Descriptions and Diagnostic Requirements for ICD-11 Mental, Behavioural or Neurodevelopmental Disorders (CDDR). Geneva : WHO, 2024. Mood episode descriptions (Manic episode) ; Bipolar type I disorder (6A60) ; Trance disorder (6B62) ; Possession trance disorder (6B63).(引用箇所:五章。訳は筆者)
[19]American Psychiatric Association. DSM-5-TR. Washington DC, 2022.(解離性同一症の文化条項との照合は次稿で行う)
[20]松石竹志. « シャーマニズム論考——古代日本の王権と宗教的権威の変容を理解するために ». 横浜基礎研究所紀要, 2026. shamanism.html(状態像/職能の区別。引用箇所:五章)
[21]松石竹志. « 『マニー——双極性障害小史』案内 ». 横浜基礎研究所文献案内, 2026. bibliotheca/healy-mania-annai.html(ヒーリーの内容紹介はこちらに譲る。引用箇所:一章)
[22]松石竹志. « 『神的マニア』案内——恍惚を主流に据えた社会 ». 横浜基礎研究所文献案内, 2026. bibliotheca/ustinova-annai.html(ウスティノーワの内容紹介はこちらに譲る。引用箇所:一章)
[23]Pinel, Ph. Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale. Seconde édition, entièrement refondue et très-augmentée. Paris : Brosson, 1809. §4–6, §161, §237–239, §388.(引用箇所:四章。訳は筆者〔既訳分冊:第二版対訳 第一〜三分冊より〕)a b
[24]Kraepelin, E. Einführung in die psychiatrische Klinik. Dritte, völlig umgearbeitete Auflage. Leipzig : Johann Ambrosius Barth, 1916. II. Vorlesung « Manische Erregung », S. 14 sqq.(Fall 4 : Hypomanie ; Fall 5 : Manie); Introduction à la psychiatrie clinique, traduite sur la seconde édition allemande par A. Devaux et P. Merklen, préface de E. Dupré. Paris : Vigot Frères, 1907. Septième leçon « Excitation maniaque », p. 76 sqq.(引用箇所:四章。訳は独語第三版より筆者。仏訳は第二版に基づくため講番号・症例番号が異なる)
[25]Prichard, J. C. A Treatise on Insanity and Other Disorders Affecting the Mind. London : Sherwood, Gilbert & Piper, 1835.(moral insanity。引用箇所:四章)
[26]松石竹志. « フーコー『狂気の歴史』への批判——四本の柱と二つの型 ». 横浜基礎研究所紀要, 2026. foucault-critique.html(délire の両義性——せん妄と妄想——とその諸言語における分割。引用箇所:四章)
[27]Berrios, G. E. « Of Mania: Introduction (Classic Text No. 57) ». History of Psychiatry, 15 (1), 2004, pp. 105–124.(ヒーリーの対照となる概念史研究。引用箇所:一章)
[28]Angst, J. & Marneros, A. « Bipolarity from Ancient to Modern Times: Conception, Birth and Rebirth ». Journal of Affective Disorders, 67, 2001, pp. 3–19.(同上。引用箇所:一章)
[29]Kendler, K. S. « The Origin of Our Modern Concept of Mania in Texts from 1780 to 1900 ». Molecular Psychiatry, 25 (9), 2020, pp. 1975–1985.(同上。引用箇所:一章)
[30]World Health Organization. Clinical Descriptions and Diagnostic Requirements for ICD-11 Mental, Behavioural or Neurodevelopmental Disorders (CDDR). Geneva : WHO, 2024. — 6C73 Intermittent explosive disorder, pp. 530–532.(必須要件・付随的臨床特徴・正常との境界。引用箇所:四章補注)
[31]Shorter, E. & Fink, M. The Madness of Fear : A History of Catatonia. New York : Oxford University Press, 2018.(第三章=「激越はマニアではなかった」の逐語引用(原注34の箇所)および第四章=躁性昏迷の再解釈——いずれも既訳対訳ファイル(yrid: CatatoniaShorterCh3Kahlbaum・Ch4Kraepelin)所収の原文より逐語採録、頁番号は原書照合待ち。第八章=致死的興奮の旧名としての délire aigu・ベルのマニア・manie sans délire は要約に拠り原典照合待ち。引用箇所:四章補注)a b
[32]松石竹志. « 衝動概念の精神病理学史——アンリ・エーから ICD-11 へ ». 横浜基礎研究所紀要, 2026. impulse-history.html(バイヤルジェ 1853 年定式と §239 の病的衝動極から 6C73 への系譜。引用箇所:四章補注)a b
[33]松石竹志. « 第六章 ピネル発祥論——スウェイン立場の採用 »(『精神医学の発祥』). 横浜基礎研究所紀要, 2026. origines-pinel.html(熟慮的悪意の極とプリチャード系譜の発祥論的位置。引用箇所:四章補注)
[34] Schneider, K. Die psychopathischen Persönlichkeiten. Leipzig/Wien: Deuticke, 1923(改訂第九版 1950);同 Klinische Psychopathologie, 14. Aufl., Stuttgart: Thieme, 2007(精神病質人格の十類型、とりわけ explosiblegemütlose Psychopathen)〔要確認:版・頁〕。(引用箇所:四章補注)
[35] Dodds, E. R. The Greeks and the Irrational. Berkeley : University of California Press, 1951(第三章 “The Blessings of Madness”、第八章 “The Fear of Freedom”)。邦訳:岩田靖夫・水野一訳『ギリシァ人と非理性』みすず書房、1972〔訳者・年 要照合〕。(引用箇所:二章・六章)
[36] Dodds, E. R. Pagan and Christian in an Age of Anxiety : Some Aspects of Religious Experience from Marcus Aurelius to Constantine. Cambridge : Cambridge University Press, 1965〔邦訳の有無・書誌 要照合〕。(引用箇所:七章)
[37] Rouget, G. La musique et la transe. Esquisse d’une théorie générale des relations de la musique et de la possession. Paris : Gallimard, 1980(増補新版 1990, coll. Tel);英訳 Music and Trance, Chicago : University of Chicago Press, 1985。(引用箇所:七章)

編集注記(v1.6)

本稿は第一次草稿である。v1.1 では四章を三節構成に改め、v1.2 では全体の文体を平明に改めた(時代がかった訳語と誇張的な言い回しの除去)。v1.3 では、冒頭注記に読者への案内(両案内の先読の推奨)を、序にヒーリーの位置づけに関する断り書きを加え、二章のコノルスキの説明を補い、ICD-11 の表記を訂正した——躁エピソードは固有のコードを持たず、6A60 は双極症I型のコードである(CDDR 原文で確認)。あわせて ICD-11 の章名を「気分症群」に統一し、Falret/Baillarger の一次書誌(報告日・掲載誌)を確定し、対照文献としてベリオス[27]、アングスト=マルネロス[28]、ケンドラー[29]を掲げた。v1.4 では副題を「神的マニアと医学的マニア、その分割相続」に改めた——「二つ」の指示対象が二冊の書物ではなく二人の相続人(神的マニアと医学的マニア)であることを、題名の水準で明確にするためである(仏文副題も同旨に改めた)。あわせて、プラトンの参照・引用がクーパー編英訳版とプレイヤード版仏訳を底本とする重訳であることを文献[3][4]に明記した。四章では、ピネルにおける manie の用法(1801 年初版の総称的用法と五種分類、1809 年第二版の四種分類と再定義、manie sans délire の症例群——初版の殺人衝動例、第二版 §161 の革命場面、§237–239 の二分)と、クレペリンにおける Manie(第六版の統合、『臨床精神医学入門』第七講の「一相」テーゼと二症例——50 歳の商人、32 歳の女性)を増補した。ピネル第二版の引用は既訳分冊(第一〜三分冊)に拠り、クレペリンの引用は独語第三版(Barth, 1916)を底本とし、第二版に基づく仏訳(Vigot, 1907)を併記した(鍵文は独語第三版 S. 16=仏訳 p. 78 で照合済み。第二版原文そのものは未見)。用語方針として、鍵語 mania・manie・Manie・délire・aliéné には訳語を与えず原語表記のまま用いる(délire の両義性は[26]参照。「躁狂」「躁病」「譫妄」等の訳語は本稿では用いない。定着した複合語「神的マニア」「医学的マニア」は維持する)。本方針は当面本稿のみに適用し、表記の最終決定と全論文への波及は作業メモ「用語表記統一メモ」の確定を待つ。〔要確認〕を付した箇所はすべて原典照合を要する。とりわけ(一)ヒーリー第一章の古代記述の具体的内容と「気分安定薬」の語誌・北ウェールズ統計、(二)ウスティノーワ結論部の「意識変容 ≒ mania」該当頁、(三)『聖病論』の体液と狂気の性質の対応箇所、(四)ピネル初版の症例頁(殺人衝動例 pp. 86–87 か)と五種分類の列挙順、(五)クレペリン『臨床精神医学入門』第二版原文の文言(第三版・仏訳と照合済みだが、仏訳の底本である第二版は未見)、(六)Falret/Baillarger の掲載頁数。第三章の三節(アレタイオス、ソラノス/カエリウス、ガレノス)は『Folie et cures de la folie』新装版到着後に補筆する。CDDR の英文引用二箇所は原文 PDF から逐語で採録済み(訳は筆者・仮訳)。仏文レジュメの整備、DSM-5-TR の解離性同一症・憑依型の文化条項との照合、は次稿で加える(ドッズへの学説史的言及は v1.5 で二章・六章・七章に加えた)。v1.5(2026 年 8 月 30 日)では、合評の批判——「相続」は美しい比喩だが、意図的な引き継ぎを含意する法律の語であり、医学文献で用いるべき言葉ではない——を受けて、相続の比喩を全面的に撤回した。本文の「分割相続」「相続人」「遺産」はそれぞれ「分岐」「系譜/行き先」「内容」に改め、結語の「登記簿」の比喩も外し、副題を「マニアの二千五百年——名前の行方と概念の変遷」に改めた。あわせて、第三章のローマの節を制度的断絶の確認に絞り、キケロによるラテン語への翻訳とアレタイオス以降の正典化はピゴーを主題とする別稿に委ねることとした(これにより本稿は『Folie et cures de la folie』新装版の到着を待たずに閉じられる)。第四章冒頭に、ヒーリーの叙述におけるピネルの扱い(言及箇所とその文脈)を確認したうえで、語の水準の運動が彼の分析の対象になっていないことの断りを加えた。v1.6(2026 年 9 月 11 日)では、紀要全体の表記規則に合わせ、西暦年・世紀・数量の表記を算用数字に統一した(題名の「二千五百年」、章・版の序数、古典の巻節番号は漢数字のまま)。

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