【日本語要旨】 本章は、連作「精神医学の発祥」の中軸をなす第六章であり、精神医学の発祥点を1800年前後のピネルに同定するグラディス・スウェインの立場を採用し、その正当性を文献学的に基礎づける。フーコー『狂気の歴史』と、これを批判する実証主義的医学史とが共有する前提――精神医学の誕生とは狂気に向けられる「眼差しの客観性」の獲得である――に対し、スウェインはピネル『Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie』初版(共和暦9年=1800/1801年)と第二版(1809年)の系統的区別という操作によって第三の立場を立てた。ピネルとともに到来したのは客観化の眼差しではなく、「狂気における主体 le sujet de la folie」――狂気は決して全面的ではなく、疎外者は自らの疎外への距離を保持し、その距離が治療的交流の可能性を開く――という認識装置の組み立てである。
本章はこの命題を五つの局面で検証する。第一に、フーコーの参照不全(『狂気の歴史』が初版から引用すると明示しながら、実際には制度化された第二版に依拠している事実)の書誌学的論証。第二に、道徳的治療における主体性の発見と、「manie sans délire」概念が体現する逆説――主体の発見と非主体的イメージ再導入の同時性。第三に、『哲学的疾病分類学』における精神医学の対象の否定的成立――カレンから借りた「神経症」の綱という容器の器質的因果性の空洞化。第四に、ヘーゲル『精神哲学』(1817年)による哲学的承認――狂気は理性の抽象的喪失ではなく「依然として存在する理性の内部における矛盾」である。第五に、エスキロールにおける継承と最初の収縮――裁判事件の圧力のもとでの、主体の内的関与から外的標識への「外在化」。この外在化は、DSM-III(1980年)以降の操作的診断の遠い原型として読まれる。
結論部では、フーコー・エー・ケテルの発祥論との交差点においてスウェイン立場の優位を確証する。本章の独自の貢献は、エー自身が『精神医学研究』Étude n°3(1948年)に「一瞬にして、ピネルとともに、閃光が走った」と書き残し、1971年フーコー批判論文において Wier-Bodin 論争による基礎づけとピネルの聖別を語った、二三年を隔てる二つの一次資料を統合的に読み、エーの発祥論を三重構造(哲学的・人間学的基礎づけ/儀礼的聖別/科学的閃光)として再構成した点にある。この三重構造はスウェイン立場と本質的に同型であり、したがってスウェイン立場の採用は、エーの長期的構造観の現代における再活性化にほかならない。
キーワード:フィリップ・ピネル、グラディス・スウェイン、狂気における主体、『医学哲学的論考』初版(共和暦9年)と第二版(1809年)、道徳的治療、manie sans délire、プッサン、ヘーゲル『精神哲学』(1817年)、アンリ・エー『精神医学研究』、器質力動論、ミシェル・フーコー、クロード・ケテル、エスキロール、外在化と操作的診断、精神医学の発祥
This chapter, the keystone of the serial study The Origins of Psychiatry, adopts and grounds Gladys Swain's thesis that psychiatry was born around 1800 with Philippe Pinel. Foucault's Histoire de la folie and the positivist historiography that opposes it share a single premise: that the birth of psychiatry consisted in the conquest of an objective gaze upon madness. Against both, Swain's philological operation—systematically distinguishing the first edition (an IX, 1800/1801) of Pinel's Traité médico-philosophique sur l'aliénation mentale from the second (1809)—discloses a third position: what arrived with Pinel was not objectivity but the cognitive apparatus of the subject of madness (le sujet de la folie): madness is never total; the insane retain a distance from their own alienation, and that distance opens the possibility of therapeutic exchange.
The argument proceeds through five moments: the bibliographical demonstration of Foucault's defective citation, which claims the first edition while in fact relying on the institutionalized second; the discovery of subjectivity in moral treatment and the paradox embodied in manie sans délire—the simultaneous discovery of the subject and reintroduction of non-subjective imagery; the negative constitution of psychiatry's object in the Nosographie philosophique, where Cullen's borrowed class of névroses is progressively emptied of its organic causality; Hegel's philosophical ratification of 1817, for which madness is not the abstract loss of reason but "a contradiction within reason still present" (ein bloßer Widerspruch in der noch vorhandenen Vernunft); and Esquirol's inheritance and first contraction—the externalization, under forensic pressure, of the criterion of madness from the subject's inner involvement to outwardly ascertainable signs, a distant prototype of operational diagnosis after DSM-III (1980).
The chapter's distinctive contribution lies in its integrated reading of two primary texts of Henri Ey separated by twenty-three years—Étude n°3 of the Études psychiatriques (1948), "d'un seul coup, avec Pinel, l'étincelle a jailli," and the 1971 critique of Foucault, with its Wier–Bodin foundation and Pinelian consecration—reconstructing Ey's account of origins as a triple structure (philosophical-anthropological foundation, ritual consecration, scientific spark) essentially isomorphic with Swain's position. To adopt Swain is thus to reactivate Ey's own longue-durée view of the birth of psychiatry.
Keywords: Philippe Pinel; Gladys Swain; the subject of madness (le sujet de la folie); Traité médico-philosophique, first edition (an IX) and second edition (1809); moral treatment; manie sans délire; Pussin; Hegel, Philosophie des Geistes (1817); Henri Ey, Études psychiatriques; organo-dynamism; Michel Foucault; Claude Quétel; Esquirol; externalization and operational diagnosis; origins of psychiatry
一 問題の設定――ピネル神話とその脱構築
本書はここまで、精神医学の発祥という問題について四者の立場を独立した発祥論として並列比較してきた。フーコーは1656年の一般施療院設立令を閾とする「大いなる監禁 le Grand Renfermement」の社会政治的契機を中軸とし、エーはルネサンスを哲学的・人間学的前提とする発祥論を立て、ヴィエール対ボダン論争(1563–1585)を「自然 nature と超自然 surnaturel の分節化」の結節点として読んだ。ケテルは独立した発祥論を構成しない経験的歴史家として、しかし第三部第三章において「フーコーは狂人=対象、スウェインの研究は狂人=主体」と明示し、スウェイン読解への支持を表明している。
本章で構築するのは、これらすべてが収斂する第四の発祥論――1800年頃のピネルに発祥点を見出すグラディス・スウェインの立場である。それは本論文が最終的に採用する立場であり、本章の課題はその正当性を基礎づけることにある。フーコーが歪曲し、エーの直観が部分的に予感し、ケテルが経験的に支持したものを、スウェインは初めて文献学的に厳密に同定した――1800年前後の臨床精神医学の実践と言説のなかに「狂気における主体 le sujet de la folie」という認識装置が組み立てられた、という事実である。
本章の議論を本格的に開始する前に、決定的な観察を一つ前置きしておく必要がある。本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」で先取り的に紹介したように、エー自身が1971年フーコー批判論文に先立つ二三年前、すなわち『精神医学研究 Études Psychiatriques』Étude n°3「精神医学における機械論的発展 Le développement « mécaniciste » de la psychiatrie」(1948年初版)p. 52 において、本論文の発祥論的中軸命題と本質的に同型の歴史的命題を、極めて明確に定式化している――
確かに、精神医学的医学 Médecine mentale は既に二十五世紀前から存在していた。しかしその緩やかではあるが絶えざる進歩にもかかわらず、1800年以前には、大いなる発見の代わりとなりつつ、自らの対象と方法を意識する以前の科学を基礎づけるあの驚くべき好奇心という閃光が、まだ欠けていた。一瞬にして、ピネルとともに、閃光が走った D'un seul coup, avec PINEL, l'étincelle a jailli[3]。
この一次資料は、エーの位置に関する通念――1971年論文においてエーが精神医学発祥をルネサンスに位置づけたから、ピネル発祥論には原理的に反対するはずだ――を根本的に修正する。エーは1948年の段階で、精神医学が「自らの対象と方法を意識する科学」として結晶化した瞬間をピネル1800年前後に明確に同定していた。彼は「閃光 l'étincelle」という劇的な比喩によって、二十五世紀前から存在していた「精神医学的医学」の連続的問題空間における、1800年前後の決定的な構造的閾を名指している。本論文の発祥論的視角――ピネル1800年前後における「狂気における主体」認識装置の組み立てとしての発祥――は、エーが二三年前に他ならぬエー自身の声で同定した命題と同型である。本章後半で詳細に検討するように、エーの1971年論文の「ルネサンス起源論」は、Étude n°3 のピネル発祥論を否定するものではなく、そのphilosophical-anthropological 前提条件を追加するものとして読まれる。
エーは Étude n°3 同じ箇所において、精神医学発祥の構造的条件を三重の根 triple racine として整理している。第一にモラル的根――ルネサンスと宗教改革以降の人間主義の展開のなかで、自由と責任の問題が突如として提起され、その帰結として狂気の境界問題が必然的に生じた(教皇の法医学者であったパオロ・ザッキアス Paolo Zacchias〔1582–1659〕の名がここでエーによって挙げられる)。第二に哲学的根――心身関係が神経生理学的平面に定位され、それに基づく精神障害の科学が要請された(カバニス『心身関係論 Rapports du physique et du moral』1802年)。第三に慈善的根――精神病者への扶助の進歩、ピネルの博愛的(philanthropique)な身振り[4]。本章で詳細に検討するピネル『論考』初版(共和暦9年)の分析、道徳的治療における主体性の発見、ヘーゲル1817年による哲学的承認、エスキロールへの継承と最初の収縮の四契機は、すべてエーがこの三重構造として定式化した発祥論的命題の具体的諸相として読み直されうる。本章のスウェイン立場採用は、エー自身が1948年に予示した発祥論的命題を、現代のスウェイン読解の文脈において再活性化する作業でもある。
ピネルをめぐる伝説は二重に構造化されている。第一の層は、ビセートル1793–95年における鎖の解放という象徴的身振りの神話化である。この物語は、ピネル自身がではなく息子のスキピオン・ピネルが1836年に『精神疾患者の衛生制度完全論』において確立した版を起源とする[1]。第二の層は、20世紀後半に再構築された反神話、すなわちフーコー『狂気の歴史』が示した――解放者ピネルは収容所装置の最終的内部再編にすぎず、いわゆる解放は無力化と客体化の身振りであった――という解釈である。
付け加えれば、この第二の層――フーコーが構築した反神話――それ自体が、ひとつの不徹底のうえに立っている。フーコーは『狂気の歴史』においてピネル『論考』を初版から引用すると明示しながら、その参照頁が実際に対応するのは第二版(1809年)のテキストのみである。ポステル(1968年)以来すでに知られてきたこの参照不全は、たんなる書誌的瑕疵ではない。それは、彼が「客体化の身振り」として読み取ったピネル像が、初版がとどめている思考の運動ではなく、制度化された第二版の事後的自己像に依拠していることを意味する。その厳密な立証は本章第二節に譲るが、この一点が、四者の発祥論を分岐させる結節点をなすことを、あらかじめ確認しておきたい。
スウェインの強さは、これら相互に対立する二つの解釈図式が共有する前提――精神医学の誕生は「狂気の客観化 l'objectivation」の達成にあった――を、原典に立ち戻って解体したことにある。彼女のプレゼンテーション §第三章 が定式化するこの収斂を、われわれは正確に引用しなければならない。
対立する両陣営は、相反する理由からではあるが、結局のところ、近代の狂気認識の出現における決定的ポイントは、その諸現象に向けられる眼差しの純粋な客観性の獲得であるという古典的観念に、どちらもよく適合している。一方では、そして我々がまず思い浮かべるのは明らかにフーコーであるが、狂気が客体の地位に到来することは、間違いなくいわゆる「実証的」精神医学の基盤である……他方では、精神医学的認識は他のあらゆる科学的認識と同様であり、それは厳密な方法論的客観性の促進によってしか始まりえなかった、と〔実証主義者は〕主張するであろう……一方にとっても他方にとっても、精神医学の誕生とは、何よりもまず、現実のア・プリオリなき探求を明確に提案し、諸現象に対して中立的たらんとする方法の到来である[2]。
この収斂指摘の哲学的射程は大きい。フーコー的「大分割」の言説と、それを批判する実証主義的医学史言説とは、表面的には全面的に対立しながら、精神医学の歴史を「眼差しの客観性 l'objectivité du regard」の確立の歴史として読むという基本的構造において一致している。スウェインが立てるのは、この二項対立の手前に発祥点を移すという第三の立場である。彼女によればピネルとともに到来したのは客観性の眼差しではなく、狂気を「主体としての主体の問題化 problématisation du sujet comme sujet」として捉え直す認識的・実践的装置の設立であった。
この第三の立場は、フーコーへの批判的代替物としてのみ理解されてはならない。それは同時に、エーが1971年のフーコー批判論文(『精神医学の進化』誌掲載)で擁護した精神医学発祥のルネサンス起源説を、別の閾を導入することによって補完する立場でもある。エーが捉えたのは「自然/超自然」の分節化を可能にした哲学的・人間学的前提であり、それは確かにルネサンスにおいて確立された。だがその前提のうえに、臨床的・医学的実践として精神医学が結晶化するためには、もう一つの閾――「狂気における主体」という認識装置の組み立て――が必要だった。1800年前後がこの第二の閾を担う。エーの発祥論は前提条件論として、スウェインの発祥論は結晶化論として、両者は相互排他的ではない。そして本章七-(二)で詳細に展開するように、エー自身が両方の閾を保持していた一次資料が、Étude n°3(一九四八)と1971年論文の二者として残されている。
二 ピネル『論考』初版(共和暦9年)の位置
スウェインの操作の核心は、フィリップ・ピネル『Traité médico-philosophique sur l'aliénation mentale, ou la manie』の二つの版――共和暦9年初版(1800年10月/1801年1月刊)と1809年第二版――を区別したことにある。前節で予示したフーコーの参照不全は、この版の区別を踏まえて初めて正確に判断することができる。フーコーは『狂気の歴史』においてこの著作を共和暦9年版から引用すると明示しながら、頁付けの不一致が彼の真の参照対象を裏切っている――『狂気の歴史』511頁において彼は『論考』458頁を参照しているが、初版テキストは全部で304頁しかない。第二版なら参照は正しい。スウェインはポステル(1968年)およびシュレンク(1973年)による先行的指摘を継承しつつ、このフーコーの参照不全がたんなる書誌学的瑕疵ではなく、彼の解釈構造全体に関わる方法論的不徹底であることを論証する[5]。
なぜそうなのか。両版は内容においてきわめて異質である。初版は、ピネルが共和暦6年から8年の間に『医学振興協会覚書 Mémoires de la Société Médicale d'Émulation』に発表した三本の論文――「周期性または間欠性躁病に関する覚書」、「aliénés の精神的治療に関する研究と観察」、「aliénés に関する観察とその異なる種への分類」――に「aliénés の頭蓋奇形に関する解剖学的研究」を加え、長い「序論」で包んだ著作である。ゴーシェが言うように、この事後的編纂の結果として、「諸部分の有機的結合が欠ける代わりに、歴史家にとって貴重なもの――思考の内的展開を辿る可能性――がもたらされた。精神医学の全起源が、ピネルの推論のこの五段階の連続のなかに刻まれている[6]。」
1809年第二版は、これに対して大幅に修正・補完された洗練版である。副題から「あるいは躁病 ou la manie」が削除され、収容所の役割と運営に関する制度的記述が膨張する一方、初版が示していた思考の構築過程――発見の偶然的順序、論争的調子、最終的洗練に到達する以前の試行錯誤――は周到に消去された。とりわけ、初版で躊躇なく主張されていた道徳的治療理論における優先権、すなわちこれを哲学的に基礎づけたのが自分であるという宣言は、第二版ではほとんど取り除かれている。
両版の差異は、20世紀の主要解釈の決定的分岐点となる。フーコーが事実上参照しているのは制度化された第二版――収容所装置を中心に据え、ピネル自身の革新的思考の経路を消去した版――であり、彼が「分割と排除を操作する客体化の身振り」として読み取るピネル像は、この第二版が事後的に構築した自己像にきわめて忠実である。これに対してスウェインが立ち戻るのは初版である。それは「精神医学の妊娠期 la gestation」、すなわち言説が制度化される直前の、まだ思考が動的に展開している状態を保存している唯一の文献である。
この操作のもうひとつの帰結は、ピネル自身がビセートルの鎖を解いたという物語の解体である。ピネル自身が『論考』第二版201頁で書いている――
私が革命の最初の年にビセートル医師の資格で私の職務を行使していた間、この野蛮で慣習的な習慣の幸福な終了を見ることができなかったのは極度の遺憾であった。しかし私は他方で平静であり、この病院の監督官(プッサン氏)の巧妙さに頼っていた。彼は真の原理のこの忘却を止めさせることを心にかけることにおいて私に劣らなかった。彼は二年後にそれを幸福に実現した(共和暦6年プレリアル4日)、そしてより良く協議され、より顕著な成功に続かれた措置は決してなかった[7]。
ピネル自身の証言は明確である。鎖の廃止は彼の不在中に、共和暦6年プレリアル4日(1798年5月23日)に、監督官ジャン=バティスト・プッサン Jean-Baptiste Pussin によって実行された。「発見者」はプッサンその人であり、ピネル自身もこれを正式に認めている。スキピオン・ピネルが1836年に確立する解放神話は、父親自身の証言に正面から矛盾する事後的偽造である。
スウェインが示すのは、しかし、この偽造のなかに含まれる真実――それを偽造として作用させる根拠――である。ピネルは「行為の人 homme d'un geste」ではなく「本の人 homme d'un livre」であった。彼の貢献は鎖を解いたという身振りにではなく、すでに実践に移されていた道徳的治療を「哲学的に基礎づけた」ことにある。ピネル自身が『論考』序論で書いているように――「イギリス人医師たちが秘密にしていたものを、ピネル教授は公表した[8]」。彼は道徳的治療を発明したのではない。その「規則を公表 publier les règles」したのであり、これらの規則が依拠する原理的基盤を明示化したのである。
つまりピネルにおいて到来するのは、すでに散在的に存在していた経験的実践――プッサンが現場で発見し、ヨーク・リトリートを創設したテュークがクエーカーの宗教的伝統において具体化し、ベロム療養所の経営者たちが営利目的のもとで実施していたもの――を、医学的・哲学的言説の構造として組織化する作業である。ケテルが記述するように、彼は「広範な古典的教養を備え、ヒポクラテス、アレタイオス、ケルスス、カエリウス・アウレリアヌス、ガレノスを知っていた。彼はキケロの『トゥスクルム論議』の熱心な読者であり、情熱に起源を持つ狂気についてのストア派の理論を採用していた[9]」。この古典的教養と臨床的観察の交差点に、新しい思考の形態が結晶化する。
三 道徳的治療における主体性の発見
スウェインの中心的命題――「主体としての主体の問題化としての狂気 la folie comme problématisation du sujet en tant que sujet」――が定式化されるのは、彼女がピネルの『論考』初版に見出す思考の運動の核心においてである。この命題には三つの構成要素がある。
第一の構成要素は、狂気の全面性の批判 critique de la folie totale である。スウェインの『プレゼンテーション』が定式化するように――
完全な狂気の観念批判とともに、ピネルの著作に現れる。精神的疎外は決して全面的ではない la folie n'est jamais totale。疎外者は常に自らの疎外に対する距離を保持する l'aliéné garde toujours une distance à son aliénation[10]。
ピネルが『論考』初版の冒頭に置いた「周期性または間欠性躁病に関する覚書 Mémoire sur la manie périodique ou intermittente」は、構成上の異常を示している。いったい何が、精神疾患の特殊形態の検討から始める論考の構造を正当化するのか。ゴーシェが指摘するように、何もない。「思考が実際に展開した個人的で偶然的な順序以外には。読者に見せまいと礼儀が命じる足跡の類、いわば梯子を後で引き上げるような痕跡[11]」。第二版が周到に消去するのはまさにこの痕跡である。だが、急いでいたために本来そこにあるべきでなかったテキストを著作の冒頭に残したことで、後世にとって稀有な地位がこの文献に与えられた。すなわち、「根本的意義を持つ言説が自らの母体を含み、それを明かすという地位である[12]」。
周期性躁病の症例において、ピネルは決定的な事実に遭遇する。完全な躁病の発作を経験するものであっても、間欠期には完全な理性を取り戻す。さらに発作の最中においてさえ、ある種の患者は「思考に何の混乱も無秩序も、想像力の奇矯な逸脱も示さない。これらの精神病者は提起された質問に最も的確で精密な仕方で答えたが、最も激しい激怒と血なまぐさい本能に支配されており、彼ら自身がその恐ろしさを感じていた[13]」。
この観察から、ピネルは狂気のあらゆる現れに広げることのできる帰結を引き出す。「理性が根本的に覆されているように見える瞬間においてさえ、理性の一種の潜在性を想定しなければならない。それは失われていない。単に保持されているのであり、その保持は多かれ少なかれ能動的である[14]」。これは観察の単なる細部の主張ではない。狂気を「全面性の喪失」として理解する千年来の伝統――狂人は自分が誰であるかも何をしているかも知らない、と――との根本的決別である。
第二の構成要素は、自己疎外と自己持続のあいだの構造的緊張である。ピネルが見出すのは、狂気が「人格の一部だけに関わり、その一部を残りから純粋単純に分離できるという意味で、決して部分的ではない。それは、主体的機能の純粋単純な無化となることなく、主体の全体に関わる。それは、主体がそのようなものとして自らを支える能力の動揺の到来である[15]」。
この定式化が含意する哲学的構造は精密である。狂気は理性の単なる喪失(カントが『人間学』1798年で捉えた狂気の像)ではない。狂気は人格の一部の損傷(18世紀末の医学的能力心理学が想定した部分的狂気の像)でもない。狂気は主体の全体に関わるが、しかしその全体を破壊することなく、主体がそのようなものとして自らを支える能力――主体性の自己持続――を動揺させる。これがゴーシェが「逆説的緊張 tension paradoxale」と呼ぶ構造であり、20世紀の臨床的・力動論的精神医学のすべてがこの逆説の周囲を回転することになる。
第三の構成要素は、この逆説的緊張がもたらす実践的帰結としての道徳的治療 traitement moral である。スウェインの『プレゼンテーション』が要約するように――
疎外者が自らの疎外に対して距離があるという観念とともに、疎外者に対する可能な把握の展望が同時に開かれるからである。したがって、外部から作用される無感覚な客体の地位に還元されることから遠く、彼は治療的交わりが可能な引き裂かれた主体性 subjectivité déchirée となる[16]。
ピネル自身が初版で書いている――「aliénés を導く技術は今や信頼できる基盤を持つ。aliénés の精神に入り込む原理的可能性が存在する。それは我々が信じていたほど自己に閉ざされたものではない[17]」。道徳的治療の規則は、外側から狂人に作用する技術ではない。それは狂人と内的に関係を結ぶ技術であり、その関係はピネルが「aliénés の見解に入り込む entrer dans les vues des aliénés」と表現する操作――妄想の論理を理解し、その内側で患者とともに推論を運ぶ操作――を要求する[54]。
ここで重要な留保が必要となる。ケテルが示すように、ピネルの道徳的治療の実践面には、この理論的革新と整合しがたい要素――威圧、恐怖、シャワー浴を抑制手段として用いる場面、医師の「雷のような voix de tonnerre」声、患者を服従させる権威――が同時に存在する。ピネル自身が書いている――「治療は、いわば aliénés を服従させ、制圧する技術にある。彼を身体的・道徳的資質を持ち、最も純粋な博愛主義の原則を継続的に適用できる人物の厳格な依存関係に置くことで、彼に抵抗できない影響力を行使し、彼の思考の連鎖を変えることができる[18]」。
ここに彼の発祥論の不徹底を見ることもできるであろう。だがスウェインの構築的読解は、この矛盾を別様に位置づける。ピネル『論考』初版が示しているのは、新しい思考の構造的可能性が立ち上がる瞬間であり、その可能性がそのまま実践的整合性へと結晶化することは不可能であった。「manie sans délire」[55]というピネルの中心的概念――抑え難い暴力的衝動が完全な理性の保持と共存する症例――こそが、まさにこの不可能性を象徴的に体現している。ゴーシェが言うように、「ピネルは主体の次元を捉えることに成功するが、たちまちそれを失ってしまう[19]」。彼は狂気における主体の関与を構想することに成功するが、それを定式化するために、同時に「盲目的衝動」「血なまぐさい本能」という非主体的イメージを再導入することを余儀なくされる。
発祥点とは、この種の構造的緊張が初めて思考の問題として立ち上がる場所である。完全に整合的な理論の到来ではなく、不整合な定式化のなかに新しい認識の可能性が現実化する瞬間である。スウェインがピネルに見出すのは、まさにこの意味での発祥点である。
四 『疾病分類学』における対象の成立――借り物の容器とその空洞化
前節で見たように、『論考』初版が狂気のうちに〈主体〉を発見したのだとすれば、その治療が向き合うべき〈対象〉に輪郭を与えたのは、ほぼ同時期に成った『哲学的疾病分類学 Nosographie philosophique』(共和暦6年初版)である。この対象がどのようにして成立したかは、四つの段階を追うとき、もっとも見通しがよい。
まず、借り物の容器がある。ピネルは、躁・メランコリー・痴呆・白痴を含む「精神錯乱 vésanies」を、カレン(W. Cullen)から借り受けた「神経症 névroses」の綱の内部に据えた[20]。カレンにおいて神経症とは、発熱を伴わず、明白な局所的臓器病変も示さない、神経系の機能的変調を束ねる容器である。注意すべきは、これら精神疾患の諸類型そのもの――心気症・メランコリー・躁・ヒステリーの四属、および妄想なき躁・妄想を伴う躁・痴呆・白痴の諸種――が、ポステル自身が「カレンに対して根本的に新しい radicalement nouvelle」と評するピネルの独創であって、借り物ではないことである[21]。借用されたのは中身ではなく、「器質的病変なき機能的疾患」という容器の方であった[22]。
次に、ピネルはこの容器のなかへ aliénation mentale を据える。すなわち精神疾患は、当初から「明らかな器質的病変をもたない疾患」という枠のもとに位置づけられた。ところが――これが第三の段階である――その器質的基盤は、最後まで確証されない。ピネル自身が第二版 §157 で明言するように、治癒不能となった、あるいは他の致命的疾患で死に至った妄想性躁病について彼が集めた剖検所見(l'ouverture des corps)のすべては、症状と照らしても、「脳実質のいかなる器質的瑕疵の所産でもない(n'est le produit d'aucun vice organique de la substance du cerveau)」ことを示していた。カレンが昏睡(器質的病因の明白な疾患)を綱の先頭に置いたのに対し、ピネルは順序を反転させて精神錯乱を綱の冒頭に据える。借りた容器は、こうしてカレンが込めていた器質的因果性を少しずつ「空にされ(vidée)」てゆくのである[23]。
こうして残るのは、「証明可能な器質的病変をもたない障害」という、否定によって輪郭づけられた対象である。そして、まさにこの空隙にこそ、前節に見た〈主体〉――心理的・道徳的な次元――が入り込む余地が生じた。精神科の対象は、臨床から積極的に「発見」されたというより、借りた容器の器質的根拠が抜き取られたあとに残る輪郭として、なかば偶然に確定したのである。これは決して思想史上の骨董ではない。ここで生じているのは、〈機能性〉対〈器質性〉という、今日なお臨床の根底に生きる区別の発生にほかならない。精神科の対象とは、器質的疾患を除外したあとに残るものであり、その残余の領野にこそ、心理的アプローチ・道徳的治療(traitement moral)・治療関係が入り込む。ピネルの医学=哲学的論考からアジールに「適した」状態が判然と読み取れないのも、対象がこのように否定的に成立したことに由来する。そして、この空虚な対象に最初に具体的な像を与えるのが、ほかならぬ「manie sans délire」である。悟性は無傷で、意志のみが冒され、しかも剖検は器質的病変を示さない――§157 の非器質性論証とぴたりと重なるこの患者像こそ、空にされた容器に充填された純粋な精神科的対象の最初の一例である。対象の結晶化(本節)と主体の発見(前節)とは、この一点で結ばれる。
この対象がいかなる輪郭をとって確定したかは、ピネルの分類が版を重ねるなかで辿った変容のうちに、いっそう精確に読み取ることができる。初版(共和暦9年)第四節「aliénation mentale の種別区分」において、「manie sans délire」は、悟性は無傷でありながら意志のみが冒されるという能力心理学的にもっとも逆説的な一型として、五つの対等な種の一つ――独立した第二の種――へと押し上げられていた。その鑑別徴標は、知覚・判断・想像・記憶のいずれにも感知しうる変質がないにもかかわらず、情意的諸機能の倒錯と血なまぐさい逆上への盲目的衝動とが現れ、これを規定する支配的観念も想像力の妄想も指摘しえない、という点にあった[47]。前節に見た「狂気における主体」の逆説――主体の発見と非主体的イメージの再導入の同時性――が分類の平面に投影されるのは、まさにこの種においてである。ところが第二版(一八〇九)では、ピネルは分類を四種へ縮減し、躁病を「ほとんど全対象に及ぶ妄想と興奮・逆上との結合」として再定義する。妄想を含むものとして規定された以上、「manie sans délire」はもはや種の表題には場所をもたず、「躁病ないし全般性妄想」の内部の一小項目へと退く[48]。革命下のビセートル乱入の症例も、初版の独立種の一章からはずされ、メランコリーの記述の直前へ置き直される[49]。分類基準もまた、初版の「悟性の諸機能」から、第二版の「悟性と意志の根本的損傷 lésions fondamentales de l'entendement et de la volonté」へと書き換えられ、初版のmanie sans délireが体現していた「意志のみの障害」という論点は、いまや分類原理そのものへと吸収される。種としての退場と、原理としての昇格の同時性――この版間の変容の精密な対照は、症例の忠実訳とともに、別に用意した補遺II「『論考』初版と第二版の異同」(origines-pinel-editions.html)に詳述した。なお「妄想なき躁病 manie sans délire」の「妄想」が現代の delusion ではなく「悟性の錯乱 délire」を指すこと、本種の能力心理学的構成と臨床的含意の全体については、補遺I「ピネルの疾病分類学」に詳述した[55]。
五 ヘーゲルの哲学的承認(1817年)――「理性の内部における矛盾」
スウェインのピネル発祥論を哲学的に基底的に支えるのは、ヘーゲル『哲学諸科学百科事典 Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften』第三部「精神哲学 Philosophie des Geistes」におけるピネル評価である。1817年初版(ハイデルベルク版)、1827年第二版、1830年第三版を通じて、ヘーゲルは Verrücktheit 論を漸進的に深化させ、第三版において以下の決定的定式化に到達する。
したがって、真の心理的治療は、狂気が理性の抽象的喪失ではなく、知性の面においてもなく、意志とその責任の面においてもなく、単なる混乱、理性内部の単なる矛盾 ein bloßer Widerspruch in der noch vorhandenen Vernunft であり、それは依然として存在している――ちょうど身体的疾患が健康の抽象的、つまり完全な喪失(そのような喪失は死であろう)ではなく、この健康における矛盾であるように――という見解を固く保持する。この人間的な治療、つまり好意的かつ理性的な治療――ピネルはこの点に関して最大の感謝に値する――は、病人が理性的な存在であることを前提としており、そこにこそ彼をこの側面から捉えるための堅固な足場があるのだ[24]。
この一節の重要性は二重である。第一に、ヘーゲルが指示しているのはピネルの『論考』第二版(一八〇九)ではなく、初版(共和暦9年=一八〇〇/一八〇一)の革新性である。ヘーゲルは、当代の最も情報通の哲学者のひとりとして、ピネル『論考』が出版された時点においてその哲学的射程を即座に把握していた。第二に、ヘーゲルがピネルに帰す功績は、鎖の廃止や収容所改革といった身振りではなく、まさに『論考』が思考として産出したもの――狂気は理性の喪失ではなく理性の内部における矛盾である、という認識――である。ゴーシェの解釈をそのまま借りるならば――
ピネルが「経験論者たち」の発見に与えた医学的翻訳の思弁的射程を見抜いた最初の大思想家であるヘーゲルが翻訳するように、狂気は理性の「抽象的喪失」ではなく、「常に存在する理性の内部における矛盾」である。言い換えれば、それは廃止の秩序に属するものではない。それは、根本的に問題に置き続けると言うことが正当化されるものを存続させるのである。この点において、狂人は自分の狂気における主体である le fou est sujet de sa folie[25]。
ヘーゲルにおける「Verrücktheit」は『精神哲学』第二部「主観的精神 der subjektive Geist」のうち「人間学 Anthropologie」の最後の節に位置づけられる――「感じる魂 die fühlende Seele」の自己と「現実的魂 die wirkliche Seele」のあいだの過渡期において、魂の主観的全体性がいまだ統合されていない段階の動揺として。狂気はここでは、意識の発展における特定の構造的段階の固着あるいは退行として概念化される。重要なのは、この概念化が1800年前後のピネル=エスキロール路線の臨床的観察と相互依存的に展開されていることである。ケテルが短く指摘するように――
ヘーゲルにとっては理性における矛盾であり、カントがまだ理性の抽象的欠如と見ていた(『人間学』1798年)ところである。ヘーゲルは、カントが外部に位置づけていた狂気を、理性の内部へと引き戻す。「理性的意識」とその「客観的世界」は狂気の中でも存続している――ヘーゲルの出発点は、ピネルやエスキロールのアプローチが生み出されるまさにその点である[26]。
これは哲学史的に決定的な転換点である。1798年のカント『人間学的観点から見た人間学 Anthropologie in pragmatischer Hinsicht』において、狂気はなお理性の外部、思考可能なものの限界の彼方に位置づけられていた。狂気は理性が囲い込めない領域として、否定的にしか規定されない。1817年のヘーゲルにおいて、狂気は理性の内部に引き戻される。狂気は理性のうちにとどまる矛盾であり、したがって理性の自己構成過程の一契機として概念化されうる。
カントからヘーゲルへの転換は、ピネルからピネル=エスキロール路線への臨床的転換と並走している。両者は別個の出来事ではない。ヘーゲル自身が認めているように、彼のピネル理解は『論考』のドイツ語訳(1801年マインツ版あるいは1805年ライプチヒ版)を経由した直接的読解にもとづいている。哲学的概念化と臨床的概念化の相互依存性は、スウェインの発祥論に同時代的・哲学的な承認を与える。ピネルにおいて狂気における主体が誕生するという仮説は、哲学者が1817年の段階ですでに承認していた構造を、20世紀後半の歴史家が遡及的に再発見したものに過ぎない。
ここでもう一度ゴーシェの定式化を引いておこう――
確かに、これはピネルの言葉でもなければ、ヘーゲルの言葉でもない。それにもかかわらず、この言葉を用いることは不当であろうか?……ピネルについて狂気における主体について語る権利があるのは、〔ケプラーが「眼の光学装置の再構成のおかげで魂が初めて卓越した主体となる」のと〕類似の意味においてである。明らかに、これは彼の言説の文字の問題ではない。これは、彼のアプローチが客観的に明らかにするものの問題である。ピネルは、それを作動可能にすることによって謎を出現させる。彼の後、狂気を扱い、それを治療し、描写し、理解しようと試みることは、何らかの形でヘーゲルが語るこの神秘的な「理性の内部における矛盾」、自己の廃位であって自己の破壊ではないこの内的で当惑させる緊張に直面することになるだろう[27]。
言い換えれば、ピネルにおける発祥は、ピネル自身が自己の身振りについて持っていた意識の問題ではない。発祥とは、ある操作が作動可能になり、それ以後その操作によって開かれた問題空間のなかで思考と実践とが展開せざるをえなくなるという意味での、構造的出来事である。スウェインの発祥論は、ピネルの個人的意図や同時代的言説の自己理解に依拠していない。それは、ピネルとともに立ち上がった認識装置がその後二世紀にわたって精神医学的思考の運命を規定したという事実に依拠している。
ヘーゲルにおける哲学的承認の射程は、しかし、ヘーゲル個人の天才性に還元されない構造的長期性を持つ。エーが『精神医学研究』Étude n°4「精神医学の医学諸科学における位置」p. 74 で定式化したように、力動論的・生命論的視角は「世界と同じく古い aussi vieille que le monde。それはアリストテレス、聖トマス、より近くではヘーゲルとベルクソンの哲学を通じて、その様々な提示様態を辿ることができる。それは医学において真のヒポクラテス的精神 le véritable esprit hippocratique と不可分である」[28]。エーがこの一節で同定するアリストテレス→聖トマス→ヘーゲル→ベルクソンという四点の哲学的系列は、ヘーゲル『精神哲学』1817年における Pinel 承認の哲学的位置を、孤立した同時代的出来事ではなく、二千数百年に渡る連続体の一結節として読み直すことを要請する。
すなわち、ヘーゲルがピネルに与えた「最大の感謝」は、ヘーゲル個人の判断にとどまるものではない。それは、アリストテレスからベルクソンに至る形相論的・弁証法的・生気論的伝統――エーが「真のヒポクラテス的精神」と同定する伝統――が、フランス革命直後の精神医学的実践において結晶化した瞬間を、哲学的に承認したものとして読まれる。本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」が長期的構造として構築したヒポクラテス→アリストテレス→ストア派の哲学的系列は、ヘーゲル1817年において Pinel 発祥点と再結合する。狂気を「理性の内部における矛盾」として定式化するヘーゲルの哲学的命題は、ヒポクラテス的力動論――病気を「accident et réaction の構造的組織化」として捉える哲学的構造――の二千数百年後の哲学的再活性化に他ならない。エー器質力動論的精神医学は、このヘーゲル=ピネル接続の20世紀における延長であり、本章七-(二)および八で詳細に展開するように、エー自身がこの長期的構造観を Étude n°7 において明示的に自己定位している。
六 エスキロールへの継承と最初の収縮
ピネルの発祥的操作が思考の事実として安定化するのは、弟子のジャン=エティエンヌ=ドミニク・エスキロール(1772–1840)の手によってである。1805年の学位論文『aliénation mentale の原因、症状、治療手段として考慮された情念について Des passions, considérées comme causes, symptômes et moyens curatifs de l'aliénation mentale』からエスキロールは、ピネル『論考』初版の最終的考察――「我々の道徳的能力の動揺の最も普通の原因」としての情念――を出発点として、狂気への新しいアプローチを体系的明確化に押し上げる。ゴーシェの定式化を借りれば、エスキロールの論文は「第二の創設のようなもの une sorte de seconde fondation」であり、これによって「ピネルの創設的提言が完全に理解されることになる不可欠な対応物[29]」である。
エスキロールが達成したのは、ピネルが粗野で不器用な言語で導入した三つの結節を体系的に明確化することであった――因果的理解(情念)、症状の解読手順(臨床的限定)、治療的展望(道徳的治療)の不可分な結合である。1817年からサルペトリエール病院で開始した臨床講座、1818年に内務大臣に提出した『フランスの aliénés のための施設とその改善方法について』、そして1838年の集大成『医学的、衛生的、法医学的観点から考察した精神疾患 Des maladies mentales considérées sous les rapports médical, hygiénique et médico-légal』が、この体系化作業の主要な段階である。
しかし、まさにこの体系化のなかに、スウェインが慎重に同定する最初の収縮がある。
エスキロールは当初、ピネルの「manie sans délire」概念を批判する立場から出発した。1814年の『医学辞典』「妄想 délire」項目で彼は雄弁な定式化を残している――
理性を享受している間、人間のあらゆる感覚、あらゆる観念、あらゆる感情が関係する自我 le moi がある。最も激しい妄想の最中にも、われわれの観念の混乱の本質的目標であり最終項として、やはり見出されるのはこの自我である。妄想状態にある個人が震撼するのは他者の名誉のためではなく、自分のためである……このように理解の最も完全な混乱でさえ、自殺においてさえ、常に自我に還元することができる。それにもかかわらず、妄想状態の人間は自分自身の存在について内的感覚によって欺かれているのである[30]。
この定式化は、ピネルが「盲目的衝動」「非主体的暴力」というイメージのもとで再導入してしまった非主体性を、エスキロールが自我(le moi)の概念によって修復する瞬間である。妄想は自我の喪失ではない――妄想の最中においても自我は維持されており、ただ自己自身の存在について内的感覚によって欺かれているにすぎない。これによってスウェインのいう「狂気における主体」概念は、ピネルが定式化に失敗した形態のうえに最初の哲学的整合性を獲得する。
ところが、1820年代以降、エスキロールは三度の有名な裁判事件――1824年のレジェ事件、1825年のパパヴォワン事件、1826年のアンリエット・コルニエ事件――を契機として、自分の弟子ジョルジェが提唱した「殺人偏執狂 monomanie homicide」概念に屈する。1827年、彼は「殺人偏執狂は盲目的本能に……彼を殺人に駆り立てる何か定義不可能なものに引きずられる」と認め、最終的に1838年の『精神疾患』においてこれらの事例を「本能的偏執狂 monomanie instinctive」のより広い範疇に分類する[31]。
ゴーシェが指摘するように、この転向は「事実の法則以外の要因」によって動機づけられた――「職業的征服の戦略、司法空間における役割の探求」のみならず、「収容所の暗闇で達成された狂気の観念における断絶を、格好の地盤を背景として公的舞台で価値づける機会」でもあった[32]。狂気が刑事責任を免除する条件として法的に承認されるためには、狂気の判別基準としての「自己への完全な不在」という形象が必要であった。狂気は明白で全面的であるときにのみ存在しうる、というこの法的・社会的要請のもとで、エスキロールはピネルが定式化に失敗した非主体的イメージを、別のかたちで再導入することを余儀なくされる。
エスキロールの第二の収縮は、収容所の役割についての見解の変化である。1805年論文において、エスキロールはなおピネル『論考』初版の道徳的治療路線――aliénés との対話、その「残存する理性」への呼びかけ、情念の理解的把握――に忠実であった。だが大規模病院での経験を経て、1838年の彼は別の見解に到達する。彼は書いている――
aliénés の家は治療の道具である La maison d'aliénés est un instrument de guérison。熟練した医師の手の中で、それは精神疾患に対する最も強力な治療的作用因である……aliénés の隔離 isolement des aliénés は、aliénés をその全ての習慣から引き離し、彼が住んでいる場所から遠ざけ、家族、友人、使用人から分離し、見知らぬ人々に囲まれさせ、生活様式のすべてを変えることにある……隔離の目的は、aliénés の知性と感情の誤った方向性を修正することである[33]。
ピネルにおける道徳的治療は、患者と医師の対話的関係を中軸としていた――狂人の「残存する理性」を相手に推論を運び、妄想の論理に内側から介入する操作であった。エスキロールにおける道徳的治療は、患者を制度(精神病院)の総体的環境のなかに移植し、その環境そのものに治療効果を産出させる操作へと変質する。ゴーシェ=スウェインが『人間精神の実践 La pratique de l'esprit humain』(1980年)で詳細に展開するように、精神病院は「政治的実験室の役割」を果たし、「aliénés は卓越した変えるべき人間 l'homme à transformer par excellence」となる。
ロバート・オーウェンが1849年の『人類の心と実践における革命』で皮肉に指摘した近似性――「医師が aliénés を治療し統治するのと同じ方法で(最もよく組織された収容施設で)、社会(非合理的な法律のために病んでいる)を統治し治療する」――は、エスキロール晩年の精神医学が革命期共和主義的なユートピア政治学と構造的に連続することを示している[34]。
重要なのは、これらの収縮がスウェインの発祥論を覆すものではないことである。むしろ反対に、これらの収縮こそがスウェインの発祥論の正当性を補強する。なぜなら、これらの収縮を「収縮」として認識しうるためには、それに先立つ何かが――1800年前後にピネルが定式化した「狂気における主体」という認識装置が――存在していなければならないからである。エスキロールの1838年は、ピネルの1800年からの退行であって、ピネル以前の状態への単純な復帰ではない。ピネルの認識装置が立ち上げた問題空間のなかでの、その問題空間の限界へと向かう運動である。
このように見るならば、エスキロールの収縮は、ピネル発祥点からの単なる後退ではなく、その後の精神医学が辿るもう一つの長期的傾向の 起点 として読むことができる。先に見たように、エスキロールは1814年「妄想 délire」項目において、自我(le moi)の概念によって「狂気における主体」をいったん哲学的に精緻化していた。ところが裁判事件の圧力のもとで彼が強いられたのは、狂気をその主体が自らの狂気に対して保つ距離によってではなく、外部から確かめうる「明白で全面的な」徴候によって判定するという方向転換であった。これは、狂気の基準を主体の内的関与から切り離し、観察者のあいだで一致しうる外的標識へと移し替える、最初の体系的な 外在化 である。
この外在化の身振りこそ、二世紀後に DSM 第三版(1980年)以降の DSM/ICD 体系が「操作的診断 operational diagnosis」として完成させる方法――診断を理論的内実から切り離し、明示的で数えうる基準を満たすことへと還元し、それによって客観性と信頼性(評価者間一致)を確保する方法――への、最初の歩み寄りである。誤解を避けるために明記すれば、操作的診断が信頼性を求めて臨床面で成し遂げた効果は、確かに現実のものである。問われるべきはその効果の有無ではなく、この方法が代償として何を見えなくしてしまうか――すなわち、スウェインが同定した「眼差しの客観性 l'objectivité du regard」の幻想を、別の技術的装いのもとで甦らせてはいないか――である。この問いの全面的展開は本章結語(八)に譲るが、その萌芽が、発祥からわずか一世代のエスキロールにおいてすでに胚胎していることを、ここで銘記しておく。
manie sans délireが一個の種としては解体されたのちも、それが切り開いた問題は消えなかった。むしろピネル自身が第二版において、この概念を二つの異なる事態へと腑分けする。一方には、理性の自由な行使と両立する「熟慮的悪意 méchanceté réfléchie」「深い背徳 immoralité profonde」がある――サルペトリエールの元修道女、脱走を企てた女のように、理性の錯乱の痕跡をいっさい示さない者たち。ピネルはこれらを「manie sans délireに帰すべきか Doit-on rapporter à la manie sans délire…」と自ら問いながら、罪人の拘禁所ではなく精神病者施療院に隔離して manie sans délire の「顕著な実例 exemple frappant」として挙げる(§237–238)。にもかかわらず §239 では、この熟慮的悪意が「病的状態 état de maladie」に由来しないと明言する。すなわちピネルは、これらを疾患の枠へ包摂しつつ同時に病ではないと否定するという矛盾のうちにとどめたのであり、その境界線上の動揺自体が、「狂気における主体」の発見とただちなる喪失を分類の平面に映している。他方には、「病的状態 état de maladie」に由来し規則的治療を要する「抗いがたい性向 penchant irrésistible」「盲目的衝動 aveugle impulsion」がある――発作のあいだ自らの血を吸い四肢を歯で引き裂きたいという衝動に駆られながら、正しく推論し自らの状態を自覚し、制御できぬと感じれば自ら解放の延期を願い出る、あの鎖につながれた患者である[50]。なお、これらと並んで初版が範例として伝える革命下のビセートル乱入の場面(§161)および一人息子の症例も、同じ二極を鮮やかに示している[53]。
初版が一括していた一個の種は、こうして第二版において〈道徳的倒錯〉と〈病的衝動〉という二極へと分離し、その後の系譜を二つに枝分かれさせる起点となる。〈病的衝動〉の極――理性を保ったまま反復される抗いがたい衝動――は、エスキロール=ジョルジェの本能的偏執狂、バイヤルジェの「意志の無力」定式、エーの「二つの極」を経て、現行 ICD-11 の「衝動制御症群」へと連なる[51]。これに対し〈道徳的倒錯〉の極――理性の錯乱を欠いたまま反復される反社会的・破壊的行状――は、プリチャードの「道徳的狂気 moral insanity」、20世紀の「精神病質 psychopathy」概念を経て、「秩序破壊・非社会的行動症群」ないしパーソナリティ症の特性領域「非社会性 dissociality」へと連なる。ピネル自身が前者を規則的治療の対象とする一方、後者については manie sans délire へ包摂しつつ病的状態への帰属を否定した――その両義的区別こそが、二極の現代的分岐の原型をなしている[52]。各概念の典拠と ICD-11 各カテゴリーとの詳しい対応、および両極の系譜の細部は、補遺I「ピネルの疾病分類学」第五節に譲る。そして両極を貫いて、この衝動ないし行状が刑事責任を阻却するか否かという法医学的問い――ピネルが §237 で「manie sans délireに帰すべきか」と問うた問いから、ナポレオン刑法典第64条「抵抗できなかった力」を経て、ICD-11 の「抵抗不能」へと移植される責任能力の問い――が、二世紀を超えて存続する[51]。
ここで本章の論脈にとって決定的なのは、この二極化が、本節に見たエスキロールの「外在化」と同じ運動の一齣だということである。manie sans délireにおいて主体の関与として立ち上がった逆説――理性を保ちつつ自らを制御しえぬという「引き裂かれた主体性」――は、責任能力の判別という社会的・法的要請のもとで、内的関与の問題から外的標識の問題へと移し替えられてゆく。現代の操作的診断が衝動制御症群と秩序破壊・非社会的行動症群とを、明示的で数えうる行動基準によって切り分けるとき、そこで反復されているのは、ピネルのmanie sans délireが初版において一瞬開いた主体の次元――「狂気における主体」――の、ふたたびの閉鎖にほかならない。manie sans délireが一個の種として初版にのみ現れ、第二版以降に解体・外在化されていくその軌跡は、本章の発祥論的命題――発祥とその収縮――の、分類平面における縮図である。
エスキロールの「収縮」の構造的位置は、エー Étude n°3 が定式化した医学史の長期的構造のなかでさらに深く理解される。エーは Étude n°3「精神医学における機械論的発展」p. 62-63 で書いている――「医学諸学説の歴史は、機械論がもっとも本物の対立者であるヒポクラテス的伝統が、コスがクニドスに対立した闘い以来、常に『特定の実体 entités spécifiques』への興味の薄さを特徴としてきたこと、反対に、19世紀における反ヒポクラテス的医学 Médecine anti-hippocratique の発展とともに、無数の解剖臨床的実体が必然的に開花することになったこと、を常に示してきた」[35]。Esquirol の monomanie homicide 概念化、Bayle の進行麻痺発見(1822年)、Wernicke の失語症モデル、Kraepelin の分類学的精神医学――これらすべては、エーが定式化した「コス的継承(ヒポクラテス的力動論)対クニドス的継承(反ヒポクラテス的機械論)」の構造的振動における、19世紀以降のクニドス的継承の優位化として読まれる。
すなわち、ピネル『論考』初版が立ち上げた力動論的・全体論的視角(コス的継承)は、エスキロールの体系化過程において、19世紀末から20世紀初頭の機械論的・分析的精神医学(クニドス的継承)へと徐々に侵食される。エスキロールの「収縮」は、本論文第一章で詳細に展開した二千五百年に渡る振動――エー Étude n°2 の「永遠の振動 balancement éternel」――の19世紀における具体的相である。ピネル発祥点が力動論的伝統に立つことを認めるならば、エスキロール以降の機械論的精神医学への漸進的傾斜は、ピネルからの単純な離脱ではなく、コス/クニドス対立の永遠の振動における、ピネル後の振り戻しとして位置づけられる。エーが20世紀中葉に展開する器質力動論的精神医学は、まさにこの19世紀末から20世紀初頭の機械論的優位への反応として理解される。
Falret J.-P. Falret が1854年の『偏執症の非存在について De la non-existence de la monomanie』で「偏執症は存在しない」と宣言し、エスキロールの単一妄想症概念を解体するとき、彼が回帰するのはピネル=エスキロールの初期路線――情念から出発する全的人格観、急性病としての狂気の概念――である。世紀後半の慢性性パラダイムへの移行、退化論的精神医学(モレル、マニャン)、進行麻痺の発見、ヤスパース=シュナイダー路線における意識化と妄想知覚の探求、そして20世紀の精神分析と統合失調症論――これらすべては、ピネルが立ち上げた問題空間――狂気における主体の関与の逆説的構造――のなかで作動している。
七 四者発祥論の交差――スウェイン立場の正当性
第二節から前節まで、われわれは一点から発した問題空間――ピネル『論考』初版に組み立てられた「狂気における主体」――が、エスキロールの収縮を経てファルレ、退化論、ヤスパース=シュナイダー、精神分析にいたるまで、その後の二世紀の精神医学的思考を一貫して規定してきたことを追ってきた。いわば、一点に発した閃光そのものではなく、それが放った長い放電の行方を辿ってきたのである。だが、もし一つの点が二世紀を統べているのだとすれば、本論文冒頭で並列したまま留保しておいた三つの対立的発祥論――フーコーの1656年、エーのルネサンス、ケテルの経験的記述――は、いまや決着を求める。それぞれがどこに発祥を置き、その点が本論文の同定する一点とどのような距離にあるのかを、改めて測り直さねばならない。本節は、この四者を交差点として配置し直し、スウェイン立場の正当性を交差点的に確証する作業である。
(一)フーコーとの関係
四者をこの一点からの距離において順に測るとき、まず取り上げるべきはフーコーである。彼の1656年「大いなる監禁」発祥論は、社会政治的契機の重要性を浮き彫りにする点で重大な貢献を残している。古典主義時代における監禁構造の出現が、その後の精神医学的視線の可能性条件を構成したという指摘は、それ自体としては有効である。スウェイン自身がこれを承認している――「古典時代は、この伝統的な他性の経済への異議申し立ての時代であり……一世紀半にわたって、監禁の坩堝のなかで、1800年頃の狂気の人類学的啓示者への変貌を決定した条件が創出されたのである[36]」。
だがフーコーの誤謬は二重である。第一に、彼はこの社会政治的閾を発祥点そのものと同一視した。監禁構造によって用意された条件が、なお発祥のためのもう一つの閾――「狂気における主体」という認識装置の組み立て――を必要とすることを、彼は見落とした。見落とされたのは、ほかでもないピネル『論考』初版に書き込まれた証拠そのものである。第二に――そしてこれは前節のエスキロール論が準備した論点であるが――フーコーが精神医学の本質として普遍化する客体化、すなわち「眼差しの客観性 l'objectivité du regard」は、発祥(ピネル初版における主体の同定)にではなく、その収縮(エスキロール以後の外在化)に属している。フーコーの『狂気の歴史』が事実上参照しているのは『論考』第二版(1809年)であり、それはやがてエスキロールが体系化する収縮の側へ、すでに傾きはじめたピネルであった。彼はピネルの思考の最も決定的な瞬間――初版における「manie sans délire」の定式化と道徳的治療理論の宣言――を文字通りに見ることがなく、監禁という前史と収縮という後史とを一続きの客体化として読み、その二つの闇のあいだに走った閃光――ピネル初版における主体の一瞬の開け――を見落とした。誤解を避けるために明記すれば、フーコーの記述それ自体は、発祥が閉じたあとの精神医学――いったん客体化された体制――に対しては的中している。彼の誤りは記述にではなく、その記述を発祥そのものへ遡及適用した点にある。
スウェイン立場の採用は、フーコーへの全面的拒否ではない。フーコーが捉えた古典主義時代の構造変動は、スウェイン立場のなかに「妊娠期 la période de gestation」として包摂される。だが「妊娠 gestation」は「出産 naissance」ではない。古典主義時代の監禁構造は精神医学の前史的条件を構成したが、精神医学そのものは1800年前後における認識装置の組み立てとともにのみ誕生する。
(二)エーとの関係――三重構造としての再構成
フーコーからエーへ移るとき、その距離の意味そのものが変わる。フーコーの距離が前史的条件を発祥点と取り違えた誤りであったのに対し、エーがルネサンスに置くものは誤りではない。それは発祥を準備する長期的構造の正確な同定である。しかもエーは、その長期的構造を語る一方で、ピネル前後の発祥の一点をも自らの声で名指していた。したがってエーとの関係を測るには、彼の二つの一次資料を統合的に読み、そこに現れる構造を再構成しなければならない。
エーの1971年フーコー批判論文(『精神医学の進化』誌、第36巻、243–258頁、1969年トゥールーズ会議報告)は、フーコー的「社会発生論 sociogenèse」への対立軸として「器質発生論 organogenèse」を擁護する論争的論文である。エーの中軸命題――「精神医学の誕生はルネサンスに位置づけられる」、「ヴィエール対ボダン論争(1563–1585)が自然と超自然の分節化の閾を成す」、「ルネサンスは人間が神と悪魔から自律化する時代である」――は、精神医学的事実が独自の現象として現出するための哲学的・人間学的前提を明らかにする点で、決定的な貢献を残している。
ただし、ここであらかじめ指摘しておかなければならないが、エーがルネサンスについて言う「人間が神と悪魔から独立する」という定式は、ヴィエール(1515–1588)、マレスコ、ヴィヴェスら16世紀ヒューマニストたちの実態と厳密には整合しない。彼らはいずれも信仰者であり、神からの独立を主張したわけではない。哲学的に厳密な修正命題は「自然と超自然の境界線の分節化、自然領域の自律化 articulation de la frontière entre nature et surnaturel, autonomisation du domaine naturel」となる。
エー1971年論文の中核は、Wier-Bodin 論争を直接的に「精神医学の基礎づけ」として描く決定的な一節にある。ヴィエール『悪霊の幻惑について De Prestigiis Daemonum』(1563年)対ボダン『魔術師の魔神論および魔女に関するヨハン・ヴィエールの諸見解の反駁 De la Démonomanie des sorciers および Réfutation des opinions de Jean Wier』(1585年)の対立について、エーは書いている――「これらすべての異議と信仰の表明は、悪魔的憑依の『自然性 naturalité』あるいは『超自然性 surnaturalité』の区別という結果をもたらした。そして、まさに病気の身体的本性 nature corporelle のテーゼだけが精神疾患によって提起される人間学的諸価値の問題を解決しえたがゆえに、それは臨床医の眼差しに現れたのである。勝利することによって、それは精神医学を基礎づけた En triomphant, elle a fondé la Psychiatrie」[37]。Wier-Bodin 論争におけるヴィエール側の勝利――精神疾患の身体的本性のテーゼの勝利――が、エーにとって「精神医学を基礎づけた」というのが、1971年論文の最も強い単一命題である。
続いてエーは、フランス革命後のピネルの位置を以下のように規定している――「ピネルの象徴的行為(1791年から1814年、ちょうど同じ時代に立てられたサミュエル・テュークの有名な『リトリート』創設の博愛的鼓動と同様に)は、長らく自然な病気と見なされてきた狂気を厳粛に対象とする医学的行為の聖別 la consécration de l'acte médical prenant solennellement pour objet la folie déjà depuis longtemps considérée comme maladie naturelle であった[38]」。
「聖別 consécration」というエーの語は重要である。聖別とは、すでに長らく前提とされてきたもの――「長らく自然な病気と見なされてきた狂気 la folie déjà depuis longtemps considérée comme maladie naturelle」――を厳粛に公的承認する行為である。ピネルはエー1971年論文の枠組みにおいては、発祥そのものではなく、ルネサンス以来準備された前提条件を医学的行為として聖別する人物として描かれる。
すなわち、エー1971年論文の構造的論理は、二重の閾を同定している――(一)1563–1585年 Wier-Bodin 論争における「精神医学の基礎づけ fondation」、すなわち精神疾患の自然的本性のテーゼの哲学的・人間学的勝利、(二)1791–1814年ピネル=テュークの「象徴的行為」における「医学的行為の聖別 consécration」、すなわち基礎づけられたものの公的・儀礼的承認。エー1971年論文は、しばしば誤解されるように単純な「ルネサンス起源論」ではなく、Wier-Bodin 哲学的基礎づけ+ピネル儀礼的聖別の 二重構造 として読まれるべきである。
そして本章冒頭ですでに予告したように、エー自身が1971年論文に先立つ二三年前、Étude n°3(1948年)p. 52 において、第三の閾を明示的に同定していた――「一瞬にして、ピネルとともに、閃光が走った D'un seul coup, avec PINEL, l'étincelle a jailli」(注 [3] と同一箇所)。すなわち、ピネル1800年前後における精神医学の科学的閃光 étincelle である。エー Étude n°3 は、1971年論文がピネルに割り当てた「儀礼的聖別」とは異なる、はるかに強い重みをピネルに割り当てている――「精神医学的医学は二十五世紀前から存在していた、しかしピネルとともに一瞬にして閃光が走った」。これは「すでに長らく前提とされてきたものの公的承認」ではなく、「自らの対象と方法を意識する科学」としての精神医学の決定的閾の同定である。
したがって、エーの精神医学発祥論は、1948年と1971年の二つの一次資料を統合的に読むとき、三重構造として再構成される[42]――
第一の閾──ルネサンス Wier-Bodin 論争(1563–1585)における哲学的・人間学的基礎づけ fondation。精神疾患の身体的・自然的本性のテーゼの勝利による、精神医学の認識的可能性条件の確立。
第二の閾──フランス革命期ピネル=テューク(1791–1814)の象徴的行為における儀礼的聖別 consécration。基礎づけられた精神疾患概念の公的・儀礼的承認、医学的行為として狂気を厳粛に対象とすること。
第三の閾──ピネル『論考』初版(共和暦9年)における科学的閃光 étincelle。精神医学が「自らの対象と方法を意識する科学」として結晶化する瞬間。エー Étude n°3 が1948年に同定した決定的契機。
この三重構造のもとで、エーの長期的立場は本質的にスウェイン立場と同型として現れる。両者ともに、(一)精神医学の科学としての発祥をピネル1800年前後に同定し、(二)この発祥が長期的歴史的前提条件のうえに結晶化したことを認める。スウェインが「妊娠期 la période de gestation」と呼ぶ古典主義時代の構造変動と、エーが「ルネサンス的基礎づけ」と呼ぶ哲学的・人間学的閾とは、異なる時期(古典主義時代対ルネサンス)を指すが、構造的には同じ哲学的役割を果たす――発祥の閾を準備する長期的構造として。
本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」が、エーの長期的構造観と本論文の発祥論的視角との同型性を二千五百年の哲学的・医学的伝統のうちに基礎づけたことは、ここでの観察の最も古層的確証である。スウェイン立場の採用は、エーへの対立としてではなく、エー自身が三重構造として保持していた長期的命題の、現代における再活性化として理解されるべきである。ピネル『論考』初版の操作によって「狂気における主体」概念が同定されたとき、それはエーが1948年に「閃光」と呼んだ瞬間の構造的内容を、20世紀後半の歴史家が明示的に再構成したものに他ならない。
(三)ケテルとの関係
ケテル『狂気の歴史――古代から現代まで』(Tallandier, 2009年)の方法論的特徴は、独立した発祥論を立てない経験的歴史家の立場である。彼は四つの大きな部分――古代、中世、古典主義時代、革命からエスキロール――を年代記的に記述し、各時代の制度的・実践的・思想的状況を再構成する。「発祥」という哲学的問題そのものを直接の主題化しない方法である。
だがケテルは第四部第四章(ピネル)と第五章(エスキロール)において、明示的にスウェイン読解への支持を表明している。彼はスウェインの論文「ピネルと精神医学の誕生――ある行動と一冊の本 Pinel et la naissance de la psychiatrie. Un geste et un livre」(『精神医学情報』誌、1976年)を直接引用し、書いている――
歴史家たちが彼に帰そうとする「行為の人」というよりも、ピネルは「本の人」である。それは彼が何よりもまず理論家であるという真実を示している……ピネルは、狂人を完全に異質な存在として、自分自身に閉じこもった存在としてみなすことが哲学的にも医学的にも不可能になる境界線を越えた。外部から語られる博愛的言説に代えて、ピネルは狂人の非非人間性の認識を置いた[39]。
ケテルがここで採用しているのは、スウェイン解釈そのものである。「他者から切り離されているわけでも、自分に起こることに無関心でもない存在。精神疾患者には自己への閉じこもりも自己の不在もなく、自分の障害の意味に対する痛烈な存在感と他者への持続的な配慮がある。そこから、どこかで自分の疎外を知り、それに対して自分を守っている『主体』との治療的交流の可能性が生じる[40]」。
そして極めて重要な命題が続く――「ミシェル・フーコーの主張とどれほど対極にあるかが再び測られる On mesure encore une fois combien Michel Foucault se trompe(フーコーがどれほど間違っているかが再び測られる)[41]」。ケテルは経験的歴史家として独立した発祥論を構成しないが、彼が支持する解釈枠組みはスウェイン的であり、彼が距離を置く解釈枠組みはフーコー的である。彼は第三部第三章「古典主義時代」においても、フーコーが「狂人=対象」を読み取るのに対し、スウェインの研究は「狂人=主体」の発見を明らかにすると明示している。
ケテルの経験的記述は、スウェイン立場を経験史的レヴェルで補強する。ピネル『論考』第二版201頁における「鎖を解いたのはプッサンである」というピネル自身の証言、共和暦6年プレリアル4日という正確な日付、ピュサンが1802年5月19日にサルペトリエールに合流するまでの時系列、ドラ・B・ワイナーが発見したプッサンの「観察記録」――これらすべての細部を、ケテルはスウェインの解釈構造のうえに配置する。
ケテルが立てる発祥論的留保――「ピネル神話」が果たした事後的・象徴的機能、シャルル・ミュラー(1849年)とトニー・ロベール=フルーリー(1878年)の絵画によるピネル像の確立、サルペトリエール病院前のピネル銅像「aliénés の恩人」――これらはスウェイン立場を覆すものではなく、むしろスウェインが分析した「博愛主義神話」の構築過程を視覚的・制度的史料によって補強するものである。
(四)スウェイン立場の優位
以上の交差点的再構成から、本論文がスウェイン立場を採用する根拠を以下のように整理できる。
第一に、厳密性の優位。スウェインは『論考』初版(共和暦9年)と第二版(一八〇九)の系統的区別という操作を発祥論的議論の中核に据えた最初の歴史家である。フーコーがこの区別を踏み外したこと、ケテルがスウェイン以後の継承者として位置することを考えれば、スウェイン立場はもっとも基礎付けられた立場である。
第二に、哲学的整合性の優位。スウェイン立場はヘーゲル1817年の哲学的承認――「狂気は理性の内部における矛盾である」――と同時代的・構造的に整合する。これは偶然の整合ではない。ヘーゲルとピネルがそれぞれ哲学と臨床の領域において相互依存的に展開させた認識構造を、スウェインが20世紀後半に再発見したという意味での構造的整合である。
第三に、説明能力の優位。スウェイン立場は、ピネルからエスキロール、ファルレ、モレル、マニャン、シャルコー、ジャネ、フロイト、ブロイラー、ラカンに至る19世紀から20世紀の精神医学的思考の運命を、単一の問題空間――「狂気における主体の関与の逆説的構造」――の展開として読解する強力な解釈枠組みを提供する。フーコーの「大分割」発祥論は、この発展史を社会的抑圧の継続として一元化することで、内的差異を把握する解釈能力を失う。エーのルネサンス発祥論は――1971年論文単独で読まれた場合――1800年以後の精神医学的思考の内的展開を独立して説明する枠組みを提供しないように見える。だが上述のように Étude n°3 と組み合わせて読まれるエーの三重構造的立場は、まさにスウェイン立場と同型の説明能力を持つ。ケテルの経験的記述は、解釈枠組みそのものを提供する立場ではない。
第四に、エー長期的構造観との同型性。これは本章の決定的な発見である。エーは Étude n°3(一九四八)において「ピネルとともに閃光が走った」と書き、1971年論文において「Wier-Bodin 論争が精神医学を基礎づけた」「ピネルの象徴的行為は医学的行為の聖別であった」と書いた。スウェイン立場の採用は、エーが二三年の隔たりを置いて保持した二つの一次資料を統合的に読むとき、エー自身の長期的構造観と完全に同型として現れる。本論文はエーの長期的構造観を、現代スウェイン研究の語彙によって再活性化する作業である。
第五に、現代的射程の優位。スウェイン立場は、現代精神医学が直面する根本的問題――DSM/ICDの操作的精神医学とその哲学的不充足、シュナイダー的現象学的精神医学の擁護、アンリ・エー的器質力動論の刷新、ラカン的主体論の臨床的射程――を、すべて単一の問題空間のなかで思考することを可能にする。これらの問題は、ピネルが1800年前後に立ち上げた認識装置――「狂気における主体」――の遺産であり、その遺産のなかでわれわれは依然として思考している。
八 結語――何がピネルとともに到来したか
本章で展開してきた分析の到達点を、最後に簡潔に整理しておこう。
ピネル『Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie』初版(共和暦9年=一八〇〇/1801年)の出版とともに、精神医学的思考に新しい認識装置が組み立てられた。この認識装置の中軸は、「狂気における主体 le sujet de la folie」――狂人と狂気のあいだに距離が保持され、その距離が治療的交流の可能性を開くという構造的洞察――である。この洞察は、それ自身においてピネルが完全に整合的に定式化したものではない。「manie sans délire」の概念が示すように、ピネルは新しい認識装置を立ち上げるためにかえって古い非主体的イメージ(盲目的衝動、血なまぐさい本能)を再導入することを余儀なくされた。だが発祥点とは、整合的な理論の到来ではない。それは新しい問題が初めて思考可能になる構造的閾である。
この閾は、ヘーゲル『精神哲学』(1817年)において哲学的承認を受ける。ヘーゲルは、ピネル『論考』のドイツ語訳を通じて、その革新の構造を即座に把握した――狂気は理性の抽象的喪失ではなく、「依然として存在する理性の内部における矛盾 ein bloßer Widerspruch in der noch vorhandenen Vernunft」である。カントが理性の外部に位置づけていた狂気を、ヘーゲルは理性の内部に引き戻す。哲学と臨床の二領域における構造的革新の相互依存性は、スウェインの発祥論に同時代的承認の刻印を与える。
エスキロール1805年論文以降の展開は、この閾のうえに精神医学的知の体系化作業が進行することを示す。エスキロールは自我(le moi)概念によって妄想の主体的構造を精緻化し、ファルレは時間的・進行的次元を導入し、世紀後半の慢性性パラダイム、退化論的精神医学、進行麻痺の発見、ヒステリーの精神病理学化、神経症と精神病の分化、そして20世紀の精神分析と統合失調症論――これらすべての展開は、ピネルが立ち上げた問題空間のなかで作動している。
フーコーが『狂気の歴史』で記述した「大分割」「大いなる監禁」「精神病院装置」は、この問題空間の外部にではなく、その内部に位置づけられる。フーコー的記述が捉える狂気の客体化と排除は、ピネル発祥論的視角からは、「狂気における主体」という認識装置が同時に随伴的に産出する制度的・統治的次元として理解される。スウェインとゴーシェが『人間精神の実践』(1980年)で詳細に展開するように、精神病院は「狂気における主体」の発見と一体のものとして、変容すべき主体に対する集合的介入の場として組織された。フーコーが見たのは、しかし、この介入の制度的形式のみであり、その内部で作動している認識装置そのものではない。
エーが擁護したルネサンス起源論は、本論文の構築的解釈枠組みのなかで、発祥の哲学的・人間学的前提条件を提供する立場として再評価される。「自然/超自然の分節化、自然領域の自律化」というルネサンスの構造的革新がなければ、狂気が独自の自然現象として現出する可能性そのものが存在しなかった。エーの1971年論文の Wier-Bodin 基礎づけ命題、ピネル儀礼的聖別命題、および1948年 Étude n°3 のピネル科学的閃光命題は、二三年の隔たりを置いて保持された三重構造として、スウェイン立場の不可欠な前提として保存される。ケテルの経験的記述は、スウェイン立場の細部を補強する継承的作業として位置づけられる。
本章のここまでの分析は、エー自身が器質力動論的精神医学の自己定位として整理した長期的構造との同型性を、改めて確認することを可能にする。エーは『精神医学研究』Étude n°7「精神医学の器質力動論的構想の諸原理 Principes d'une conception organo-dynamiste de la psychiatrie」p. 174 において、自らの器質力動論的精神医学の哲学的・医学的源泉を明示的にヒポクラテスに置いている――「一般病理学において、われわれは病気の力動論的構想に依拠している、そのヒポクラテス的源泉に遡る en remontant à sa source hippocratiqueのである。すなわち、病気とは身体的有機体の改変、病態であり、そこで偶発と反応とが、その構造的組織化によって、症候を形成する」[44]。
Étude n°7 末尾(p. 186)で、エーはさらに踏み込んで、器質力動論の「貴族証 lettres de noblesse」を以下のように定式化する――「以上が、医学の最も古い伝統に結びつく aux plus anciennes traditions de la science médicale se rattache 教義的運動の貴族証である。精神医学において、それは19世紀の機械論的発展によって文字通り窒息させられ littéralement étouffé、次いで機械論精神医学への激しく必然的な反応のなかで精神発生論的(psychogéniste)理論によって覆われたが、これまで体系的仮説の形を見出しえなかったとはいえ、われわれの科学の優れた先駆者たちによって擁護されてきた。Moreau de Tours は、中毒物の影響下における精神活動の水準低下を『根本的事実 fait primordial』として明らかにし、Jackson はてんかんの解離運動を研究し、Janet は精神神経症の機能的劣化を分析し、Bleuler は分裂病過程における自閉の複雑な働きを発見した」[45]。
エーが Étude n°7 において整理する精神医学の長期的構造――(一)医学の最も古い伝統(ヒポクラテス的源泉)への結びつき、(二)19世紀機械論的精神医学による窒息、(三)Moreau de Tours - Jackson - Janet - Bleuler 系列による器質力動論的回帰――は、本論文第一章「ギリシア医学と精神医学の起源」が二千五百年の長期的構造として基礎づけ、本章「ピネル発祥論」が1800年前後の決定的閾として同定したものと、構造的に完全に同型である。Étude n°4 p. 74 で同定される「アリストテレス→聖トマス→ヘーゲル→ベルクソン」の四点の哲学的系列(注 [28] 参照)が「医学において真のヒポクラテス的精神と不可分」[46]であるならば、ピネル『論考』初版が結晶化させた「狂気における主体」認識装置は、まさにこの連続体の歴史的閾において、ヘーゲル1817年『精神哲学』との哲学的承認関係を通じて、ヒポクラテス的源泉と接続する。
本論文の発祥論的視角の最終的構造を整理しよう――
ヒポクラテス(前5世紀)→アリストテレス(前4世紀)→ストア派(前3世紀以降)→聖トマス(13世紀)→ヴィエール対ボダン論争(1563–1585)→パオロ・ザッキアス(17世紀)→カバニス『心身関係論』(1802年)→ピネル『論考』初版(共和暦9年)/ピネル=プッサン象徴的行為(1793–1798)→ヘーゲル『精神哲学』(1817年)→エスキロール(1805年、1838年)→ファルレ(1854年)→モロー・ド・トゥール、ジャクソン、ジャネ、ブロイラー(19世紀末〜20世紀初頭)→エー器質力動論(20世紀中葉)→スウェイン『狂気における主体』(1977年)──この連続体は、エー自身が三重構造として保持した発祥論的命題と完全に同型である。
本論文がスウェイン立場を採用するとき、われわれは同時に、エー自身が二三年の隔たりを置いて一次資料に書き残した三重構造(Wier-Bodin 哲学的・人間学的基礎づけ+ピネル儀礼的聖別+ピネル1800年科学的閃光)の、現代における再活性化を遂行している。スウェイン立場の採用は、エーに対する代替案ではない――それはエーの長期的構造観のうちで、エー自身が「閃光」と呼んだ1800年前後の発祥点を、20世紀後半の操作によって明示的に再構成する作業である。
本論文がスウェイン立場を採用するのは、四者の発祥論のなかで唯一これが正しい立場であるからではない。フーコーの社会政治的閾、エーのルネサンス的哲学閾+ピネル儀礼的聖別命題+ Étude n°3 科学的閃光命題、ケテルの経験史的記述は、それぞれ独立に価値を持つ。だが「精神医学の発祥」という問いに対する答えとして――すなわち、われわれが今日精神医学として思考し実践しているものの構造的可能性が初めて現実化した瞬間として――もっとも厳密に基礎付けられているのは、1800年前後のピネル=ヘーゲル路線における「狂気における主体」の組み立てである。そしてこの結論は、エー自身の長期的立場と本質的に同型である。
われわれは依然としてこの瞬間の継承者である。シュナイダー的「了解 Verstehen」も、アンリ・エー的「意識のレヴェル niveaux de conscience」も、ヤスパース的「現象学」も、ラカン的「主体」も、現代の現象学的精神病理学も、すべてピネルが立ち上げた問題空間――狂気における主体の関与の逆説的構造――のなかで作動している。DSM/ICD の操作的精神医学がこの問題空間を回避することによって達成しようとする「客観性」と「信頼性」は、まさにスウェインが示したように、フーコーと実証主義者がともに共有していた「眼差しの客観性」幻想の継承である。そして本章第六節で予示したように、その最初の歩み寄りは、すでにエスキロールが裁判事件の圧力のもとで強いられた主体性の収縮のうちに胚胎していた。ピネル発祥論的視角からは、それはすでに克服されているはずの遺制である。
本章はこの認識のうえに、本論文の他章を構築する基盤を提供する。第一章ギリシア医学、第二章中世、第三章ルネサンス、第四章古典主義時代、第五章革命前夜は、それぞれ「精神医学の前史」として読み直されることになるが、その「前史」は、1800年前後の発祥点との関係で初めて意味を持つ。日本補論「自意識の発生と接ぎ木の哲学的前提」は、スウェイン立場が提示する「狂気における主体」の哲学的前提――神学的拘束の不在、詩的自意識の発生、変性意識の儀礼的分節化――を、古事記・日本書紀以来の日本文化的伝統のなかに探る作業として独立的に展開される。
スウェイン自身の言葉で本章を閉じよう――
われわれは歩んだ道の意識化の始まりにいるに過ぎない……二世紀後、ピネルとともに狂気における主体の謎が知の舞台に現れた時に慎ましく始まった知的革命は、まだその始まりにすぎない[43]。