Pigeaud, La maladie de l'âme(1981)
Introduction 読解ノート
〇、全体の見取り図
Introduction は五つの部分からなる。(1)無題の開巻部=問題の設定と第一の限定(頁9–14)、(2)節「La tradition médico-philosophique」=副題の用語の由来と定義(頁15–17)、(3)節「Détermination du corpus des textes étudiés」=哲学側・医学側のコーパス画定(頁17–22)、(4)節「Plan de notre étude」=五章の計画(頁22–23)、(5)方法論的な但し書き=バシュラール的概念の適用批判と「想像界の首尾一貫性」の宣言(頁24–27)。
一、開巻部——フーコーの書名から Drabkin へ、そして限定の作法(頁9–14)
ピジョーは、自分がもともと「古代ギリシア・ローマにおける狂気の歴史(Histoire de la folie)」という主題で学位論文に着手していた、と明かすところから始める。フーコーの書名をそのまま古代に移した主題である(フーコーの名はここでは挙げられないが、選語が雄弁である)。しかしこの主題は魅惑的である一方、限定があまりに不精密だった。Drabkin の綱領的論文(Remarks on ancient psychopathology, Isis 46, 1955)が言うとおり、古代精神病理学の研究には多分野の専門家の協働が要る。そこでピジョーは自らの仕事を「古代人の心理学の本格的・体系的研究という建築への一石」と位置づけ直し、時間・コーパス・認識論的領野の三重の限定を自身に課す。
Drabkin は生物学・心理学・哲学・医学・呪術・宗教・法・芸術・文学のすべてが「精神とその逸脱」に関わると言った。ピジョーはこれを認めつつ、歴史は単なる総和(totalisation)ではありえず、諸領域を統一する問題系が要る、と切り返す。その問題系こそ、医学・哲学史・(悲劇が文学に属するなら)文学が共に知り、立て、論じ合った問い、すなわち「魂の病 maladie de l'âme」である。この表現は古めかしく(désuète)見えるかもしれないが、古代の医学=哲学的伝統そのものが課してくる語であり、その深さは追って示される、と。注3で、psychopathologie(精神病理学)という語を maladie de l'âme と併用するのは冗語ではなく、前者には厳密に医学的な価値を与える、という用語上の約束が置かれる。
ついで本書の主導文が置かれる——« La maladie de l'âme vient de ce que nous avons un corps »(魂の病は、われわれが身体をもつことに由来する)〔頁10〕。この定式は、tristitia や taedium uitae(生の倦怠)としてのメランコリー(そこでは医師・詩人・哲学者——ヒポクラテスもルクレティウスも、キケローもセネカも——が発言権をもつ)から、プラトンの「マニーと無知」、ストア派の「情念」という技術的定義に至るまで、多くの水準で真である。
第一の限定:問題になる身体は「任意の身体」ではなく「われわれの身体」、すなわち個体的で、感じられた(senti)身体である。ピュタゴラス派や『パイドン』流の魂身結合の神学的・形而上学的問題は扱わない。ここでピジョーはアリストテレス『霊魂論』407b の限定——どんな魂でもどんな身体にでも入り込めるかのように語るのは不条理で、各身体は固有の形と形姿をもつ——を「わがもの」とする。
そして『古い医術について(Ancienne médecine)』の理論的重要性の再確認(自身のモンス大学論文集掲載論文〔1977〕の結論の再録と明言される)。二つのテーゼ:
- (a)『古い医術』は対話に基づく医学的認識の理論を提示する。第2章(Festugière 校訂・訳 1948)の引用を核に:医師の言葉を聞く者は自分の身に起きたことを想起せねばならず、素人に理解させられなければ真実には達しない。これは情報伝達でも教育でもなく認識(connaissance)の問題である。真理は(抽象形しか記述できない)医師の側にも、(形をなさぬ生の体験しかもたない)患者の側にも単独では存せず、両者の共有物(indivis)である。医学的真理は医師と患者の協働、すなわち対話から生まれ、医師の役割は患者の記憶から「意味をなすことになる体験」を汲み上げることにある。注8はディラー(Diller, Hermes 80, 1952)に拠りつつ『メノン』の産婆術との差異を強調する:ソクラテスは相手が知に達すれば身を引くが、医学的対話では医師自身が行為のために知らねばならず、その知は患者との対話から生まれる。
- (b)『古い医術』は病を文化的・歴史的過程に統合する。医学は「差異」の確認から生まれる:同じものが病人と健康者に別の作用をする。さらに食養そのものが差異の知覚から生まれた——原初、食物は未分化だった(第3章)。そこに苦しみ(souffrance)が到来する。苦しみこそが人間と動物を分かつ:人間は苦しみによって、自分が動物と同じ本性ではないこと、「自然」と混ざり合わない固有の本性をもつことを学ぶ。苦しみは人間に、自分が文化の存在であることを教える。人間は歴史に属し、歴史のうちで定義される。この歴史は動物性から文明への、自然から文化への移行であり、その原動力が苦しみである。文化の段階への移行は自己の差異の自覚であり、それは「食べる」という文化的行為そのものによってなされる——人間は自分の食べるものとの関係で定義される。
この線で『古い医術』第9章の名高い一節(第9章=41 H 19)が解される:目指すべき尺度は数でも重さでもなく「身体の感覚(aisthēsis tou sōmatos)」のみ。ピジョーはこの aisthēsis を一般化・普遍化可能な感受性と解する Festugière や Diller に「意図的に背を向け」、各食物に対する個体的感受性以外に基準はないと読む。この解釈を採れば『古い医術』に驚くべき首尾一貫性が現れる。かくて『古い医術』は、患者と医師による身体の自覚、健康の規範・養生の調整・自然から文化への移行の決定要素としての「自分を自分として感じること(se sentir soi-même)」の出現を証言する基礎文献となる。一見「魂の病」から遠いが、実は問いの中心にいる——と予告される。
身体史の速写がこれに続く〔頁13–14〕:ホメロス期の、スネル(B. Snell, The Discovery of the Mind)が見事に示した分割され、列挙される身体から、『古い医術』期の「深部を見るための開口」としての解剖の萌芽(Daremberg 編 Rufus 参照)を経て、ガレノスの描く内的完成において構想された身体へ。ガレノス『自然の諸能力について』II.3 と『身体諸部分の用途について』III.1 の彫刻家比喩が引かれる:プラクシテレスやペイディアスは外面の素材を形づくるだけで深部には入れないが、自然は内部のペイディアスであり、生体は素材そのものを変容させ増大させる壮麗な作品である。この二つの身体像のあいだには、アリストテレスの目的論、ストア派の芸術家神、深部研究としての解剖学の進歩(ヘロフィロスとエラシストラトスの生体解剖)、身体の類比的記述とその修辞学、そして「生の特異性」の発見——生命はおのれの法則をもち、生命を説明するには生命で足りる——が横たわる。
身体が構成されるにつれ魂も複雑化し構造化される:身体内の座、能力と機能、さらには部分が魂に与えられ、魂がいかに身体を使い、身体の内でふるまうかが問われる(失われた膨大な文献——ソラノスの魂論四巻など——への嘆息)。総じてピジョーが書こうとするのは一種の「身体の発見」の歴史であり、しかもこの発見は「魂の発見」より困難で緩慢だった(この点で歴史はデカルト『第六省察』の形而上学的観点を検証する、という印象深い一句)。彼は「存在することの病、生きることの居心地悪さ(le mal d'être, le malaise de vivre)」が意識と書記へと誕生してくる過程の歴史家たらんとする。そして最後の限定:病者の視点ではなく治療者(thérapeutes)の視点に立つ、と〔頁15冒頭〕。
二、「医学=哲学的伝統」——用語はピネルからの借用(頁15–17)
副題の « tradition médico-philosophique » という用語法について、ピジョーは「われわれがフィリップ・ピネルから借用する用語法を用いて」と明言する〔頁15、注20〕。注20の内容:周知のとおりピネルは『精神疾患すなわちマニーに関する医学=哲学的論考』(パリ、共和暦9年)を書いた。ピジョーは表現を歴史的な意味で用いるが、ピネル自身は定義のために用いた。しかし「結論で見るように、狂気の歴史と狂気の定義はピネルにおいて出会う」。——すなわち本書は書名の水準からしてピネルへのオマージュを内蔵しており、巻末の結論部にピネル論があることがここで予告される。
本節の論旨:古代には医学の伝統と哲学の伝統がそれぞれ独立に存在するのは事実だが、両者の独立か相互依存かという問いそのものが古代に立てられた——その限りで「医学=哲学的伝統」を語りうる。ピジョーの関心は、哲学者が医学的アナロジーを利用して魂身関係を深め、「魂の病」を多様に定義したことにある。結論部では、まさにピネルこそが「医学的精神病理学」と「哲学的精神病理学」と呼びうる二つの経験を再統合する者であり、後者の哲学的経験のうち決定的なのがキケロー『トゥスクルム』、セネカの著作、プルタルコスの倫理的著作である、と予告される。哲学者たちの定義は古代医学知を補完する積極的認識をもたらす一方、医師の側は「魂の病」を語るとき哲学者の定義への暗示によってしか語らない、という非対称の指摘も重要。
「魂の病は身体の発見に結びつく」という一見逆説的なテーゼが再確認され、maladie de l'âme という表現がアナロジーであること——魂も身体と同様に病む、という想定——が確認される。アナロジーが実り豊かであるためには「病」の側に興味深い概念がなければならず、その素材を提供するのは医師である。しかしアナロジーの発生地は哲学である(個人のある種のふるまいを記述する必要から)。この「常套句 lieu commun」ほど複雑で意味深いものはない、という注意。さらにこの安易なアナロジーは、少なくとも言語の水準で身体と魂の二元論を前提し、魂に固有の病がありうると想定する——「恐るべき諸問題」を孕みつつ。
魂の病は、「病」である以上医学的自覚に、「魂」が問題である以上哲学的自覚に、同時に立脚する。病の概念も魂の概念も極端に多様なので考察は複雑になりうるが、危惧されたほどではない:アスクレピアデスを除けば医学的考察は思いのほか統一されており、魂については(部分の数え方はどうあれ)二元論か一元論かが根本問題だからである。しかし魂と身体の出会う場所は——それ自体神話的な場所——同時に神話と詩の場所であり、修辞学の標的である。それゆえ「魂の病」の研究は想像界(l'imaginaire)の次元を忘れては成立しない。ここで、魂と身体をもっとも強く関係づける病こそメランコリーであり、ペリパトス派『問題集』第30巻がそれを天才の病とし、メランコリー者のトロープが隠喩(métaphore)であること(自身の1978年論文「詩的霊感の生理学——体液からトロープへ」参照)は偶然ではない、と述べられる。想像界の重要性は悲劇的問題系にも現れる:メデイアの苦しみ、ヘラクレスの苦しみ、その存在の緊張と不確実こそが彼らの行為の起源にある。さらに複雑な領域として、学識的修辞が織り上げる「病の前=科学的宇宙」があり、これがのちに「想像的首尾一貫性(cohérence imaginaire)」として定義される。
三、コーパスの画定(頁17–22)
(一)哲学の伝統(頁17–19)
- アナロジーの遠い宗教的起源はありうるが、本書が扱うのは興味深い医学モデルに依拠する限りでのアナロジー。定義の時代は首尾一貫した医学の誕生=ヒポクラテス文書の出現に先立ちえない。アナロジーの利用が体系的になるのはデモクリトスとプラトンから。デモクリトス断片(DK B31)「医術は身体の病を癒し、知恵は魂を情念から解き放つ」が引かれるが、注22でこの断片の真正性論争(Diels は疑い『ヒポクラテス書簡』に近づける;Vlastos は反論)が整理される。ただしデモクリトスが重要なのはこのアナロジーによってではなくエウテュミアの定義によって。
- 重要文献はプラトン的・ストア的。プラトン:『ゴルギアス』(懲罰=不正と不節制に病んだ魂の治療術)、『ソピステス』(魂の二つの病=邪悪と無知)は医学利用が乏しく限定的。本質的なのは生理学理論を伴う『ティマイオス』86b:魂の病=アノイア(分別の喪失)で、それがマニアとアマティア(無知)に二分される。
- いま一つの根本理論がストア派の「情念=魂の病」の定義とその身体病とのアナロジーであり、これは本質的にクリュシッポス的な主張(SVF III 該当箇所)。
- エピクロス主義は不在ではありえず、最大の困難を与えた。エピクロス・アスクレピアデス・ルクレティウスを研究。エピクロスは二元論者で、『メノイケウス宛書簡』で魂の健康と身体の健康のアナロジーを知り用いる(哲学に若すぎることも老いすぎることもない——魂の健康のために)。アタラクシアは苦しみと不安の欠如。身体を苦しみから、魂を混乱=トリュボス(thorybos)——あらゆる形の動転と「恐怖の鈍い響き」を designating する「美しいギリシア語」——から守ること。魂の本質的治療は死の恐怖からの解放。ただし深部では魂身の並行論にとどまれない:健康は不可分の全体(注31:書簡の伝承では「身体の健康と魂のアタラクシア」の句の写本の多くが「身体のアタラクシア」を伝える、という文献学的に示唆的な事実)。それゆえ教説の核心=快の意味を攻略し、魂身関係・健康と病を考え直したところ、「自然と法(nature et droit)」というより興味深い関係が現れ、アスクレピアデスがこれを確認する。
- 視点の場の宣言:ラテン専門家という事情と、より根本的な理由——ルクレティウス・キケロー・セネカにおいて「魂の病」の諸伝統が合流し混じり合う(ルクレティウスにおいてエピクロスと『ティマイオス』のプラトンが一致する例)——から、ラテン哲学の視点に立つ。キケローとセネカは最終的にストア的な「魂の病」の伝統を定着させた——精神病理学史上、重要性を測るべき現象。『トゥスクルム』はクリュシッポスの一元論理論に二元論的読解をもたらした点で卓越した役割を果たした(本書が示そうとする眼目)。他方ルクレティウスとセネカの独創は「魂の病」に新しい意味を与えたこと:『事物の本性について』第3巻や『心の平静について』のtaedium uitae(生の倦怠・生きることへの嫌悪)。セネカの taedium とキケローの aegritudo のあいだには認識論的価値の大きい対立が構成される。この taedium の発見をルクレティウスやセネカの「メランコリー的気質」に帰したくなるが、テクスト分析と哲学的問題系への位置づけ以前の心理学的解釈には警戒せよ、と釘を刺す。ルクレティウスからセネカに至る時代が精神病理学の問題に強く惹かれていた可能性;その間接証言として、デモクリトス伝承に属する『偽ヒポクラテス書簡』——哲学的通俗化と小説に属する文書——が興味深い。
(二)医学の伝統(頁19–21)
- 主に研究する医師:アスクレピアデス、ガレノス、カエリウス・アウレリアヌス。ヒポクラテスの熱心な読者として『ヒポクラテス集成』を忘れてはいないが、視点は「ヒポクラテス主義者」のそれではなく、病が構成され・概念化され・定義される時代に観察領野を据えた思想史家のそれ。医師たちが自らの思想の起源を求めて、あるいは(アスクレピアデスのように)自らを区別し反駁するために絶えず参照する全体としての『集成』。
- 『集成』の用途:多くの場合概念の起源と最初の定義(フレニティスとメランコリーが例)。さらに『集成』は、自身の論文「書記と医学」(1978)で示そうとした新しい個人=病者(le malade)の出現の場:『流行病』第3巻の医師の実践そのものが、患者のうちに人格と性格をもつ首尾一貫した存在を想定させる。古代医学はすべてヒポクラテスとの関係で理解される。
- アスクレピアデス:散逸断片しか残らないこの医師の重要性はこれから論証すべきもの。ケルススやアプレイウスの高い評価。エピクロス主義への帰属の問題(ピジョーはエピクロス派に位置づける立場を維持)。医学史の不可欠の一契機であり、機械論的——むしろ彼の言う「道具主義的(instrumentaliste)」——一元論の発明者。古代精神病理学における役割は第一級で、特にフレニティスをめぐって示される。
- カエリウス・アウレリアヌス:ソラノス(注目すべきメトディスト派医師、『婦人科学』、テルトゥリアヌスが論じた魂論四巻)の翻訳者。『急性病論』『慢性病論』が純粋にソラノスの再現か、カエリウス自身の寄与を含むかという問題には後者(カエリウスの独創性)を採ると即答され、注33で自身が準備中の『急性病論』第1巻(フレニティス論)校訂版が予告される。年代は疑わしい(文献学的合意は紀元後5世紀)が、メトディスム史を書くのでない以上、ソラノスかカエリウスか、1世紀か5世紀かは認識論的観点からは重要でない。というのも——
- ガレノス:もっとも頻繁に参照する医学著者。第一に魂身関係の問題を扱った医師として(第Ⅰ章「ガレノスのプラトン主義」)、第二に哲学史家として。『ヒポクラテスとプラトンの学説について』の議論のなかできわめて生きたクリュシッポスを伝え、論争を復元し、クリュシッポスに理にかなった異論を立てるポセイドニオスについての貴重な情報を与える。ガレノスの議論は『トゥスクルム』の解明に寄与する。ケルススもアレタイオスも忘れない。
(三)ギリシア語とラテン語(頁21–22)
哲学者・医師それぞれのコーパスの内部でギリシア語とラテン語の関係が立ち上がる。ラテン著者は必須(魂の病の問題はルクレティウス・キケロー・セネカの思考に内在する)だが、ギリシア語テクストへの不断の参照なしに哲学史・医学史には触れられず、その技術的複雑さは文献学的・哲学的な立場決定を要求する——「われわれは多くを翻訳し解釈せねばならなかった」。クリュシッポスとポセイドニオスなしに『トゥスクルム』は、エピクロスなしにルクレティウスは、クリュシッポス・パナイティオス・ポセイドニオスなしにセネカは理解できない。情念の問題系そのものを据えたのはゼノンととりわけクリュシッポス。ラテン的選択を理解するために原問題系を取り出す必要があり、そこに現れるのが、情念の歴史にとって「単純だが決定的」な現象——クリュシッポスの一元論の二元論的読解。『ティマイオス』の定義とデモクリトス断片を別にすれば、興味深い時代はヘレニズム期、すなわち「還元不能で魅惑的な二つの教義的ブロック」=エピクロス主義とストア主義の構成期である。これが第一級の歴史的現象(ヘレニズム期の不安の出現——Festugière『ヘルメス・トリスメギストス』第2巻参照)と一致することは否定しないが、本書は医学・哲学テクストで手一杯であり、テクストの内部で考察された文化史の首尾一貫性が存在する。歴史は、われわれが死すべき者であるという単純な事実に基づく「存在することの病」を顕在化させ強化する以上のことをするだろうか? ギリシア人とラテン人、哲学者と医師のあいだには、本書を読めば現れるはずの経験の統一がある。
四、五章の計画(頁22–23)
| 章 | 予告される内容 |
|---|---|
| a) 医師たちの精神病理学 | アナロジーは哲学起源だが、参照先の領域(医学)が構成されていて初めて興味深い。ゆえに医師たちと、魂身関係を問いに付すように見える病の諸定義から始めるのが論理的。 |
| b) 原子論者と魂の病 | エピクロス・アスクレピアデス・ルクレティウス。前二者では想像的身体と、魂身関係に代置される自然と法の関係の重要性。エピクロスでは快の出現が存在の統一を基礎づけ自然/法の対立を和解させる;アスクレピアデスではヒポクラテスの生気論に向けられた機械論の誕生。ルクレティウスでは第3巻の伝統的な「魂の病」と、第6巻の疫病・伝染・摂理の問題。 |
| c) ストア主義と魂の病 | 『トゥスクルム』第3・4巻=ストア派情念論を知るための基本文献。ただしキケローはクリュシッポスの単なる伝達者ではない:『トゥスクルム』はピュタゴラス=プラトン的二元論に回帰しつつストア的「魂の病」の定義を保存する作業である。医学=哲学的視座からセネカ『怒りについて』『ルキリウス宛書簡』。章の結びにプルタルコス『神罰の遅延について』——医学的アナロジー利用の限界と、魂の病と身体の病の同一視を拒んだプラトンとストア派の知恵。 |
| d) 悲劇と魂の病 | 前二章が理論なら後二章は実践=魂の病の生きられた経験(vécu)と苦しみ。悲劇論ではなく、メデイアとヘラクレスという二つの悲劇的物語に現れる魂身関係の研究。メデイアの問題はクリュシッポスの情念論の中心にある;『狂えるヘラクレス』『オイタのヘラクレス』は行為の起源・存在の首尾一貫性・自由・責任・「賢者と強者の病」への壮麗な考察。 |
| e) エウテュミア——魂の病の認識と治癒 | エウテュミアをめぐる医学と哲学の出会い。『偽ヒポクラテス書簡』に通俗化されたデモクリトス伝統の独創性。医学=哲学的実践の宇宙への回帰。『書簡』の修辞的・医学的・道徳的主題の織物;葡萄酒の役割——プラトンと『問題集』第30巻では認識の道具、医学伝統では認識と治療の道具。『心の平静について』は taedium uitae を考察し、セネカはデモクリトス伝統に回帰しつつ医師たちのメランコリーにきわめて近い精神病理学の領域を記述する。ここで aegritudo と taedium は、フロイトの定義した「喪とメランコリー」のように対置される——本書でもっとも大胆な現代への架橋の一つ。 |
五、方法論的但し書き——「想像界の首尾一貫性」の宣言(頁24–27)
全章を通じ医学と哲学の対話を保つことが目指される。最大の困難は観念とテクストの明確化・分類・分節・秩序である。医師たちにも無視してならぬ想像力があり、哲学者たちには真理が、モラリストたちには認識論的発見があり、それらはしばしば偶然と見紛うほどに混じり合う。だが偶然ではない——「われわれは想像界の首尾一貫性を、想像力の厳密さを信じる」(本書の方法論的信仰告白。Avant-propos の「博識と生を切り離さない」と対をなす)。読者に求められる前提:研究対象のテクストは「何でもよいもの」ではない。そこから二つの戒め:
- (一)概念の移送は無償ではない:医学テクストを見るや概念に飛びつき、直ちに特定の哲学から取った他の概念に結びつけるのは、テクストを「何でもよいもの」と見なし、その特異性を拒むこと。概念を異なる実践に挿入するという事実そのものが、概念を歪め(gauchir)、同化によって変形する強い可能性をもつ。
- (二)現代的概念装置の早すぎる適用への批判:例としてバシュラールの「認識論的障害物」。『科学的精神の形成』からの定義引用ののち、ピジョーは論じる——この概念は、すでに構成に近づいた知、「科学的」合理性に十分飽和した前=科学の内部でしか機能しない。バシュラール自身、17〜19世紀初頭の領域で用いている(「物理科学におけるアニミズム的障害物」の例)。これを古代に早々と適用すれば「古代人の知的悲惨」の目録という破局に転じかねない(注37:R. Joly『ヒポクラテス科学の水準』〔1966〕が冒した危険——ヒポクラテスの誤謬の一覧表)。ルノーブルが大プリニウスに認識論的障害物を適用したのは無意味(注38)。すべてが障害物となり、想像力の連関の豊かさを覆い隠す愚行目録に至る。実のところ認識論的障害物は、想像力の働きを覆い隠すそのかぎりで、それ自体「美学的障害物(obstacle esthétique)」であることが露呈する。
視座を転じれば風景は一変する:科学への障害物と見えたものは思考の束の結晶化装置となり、知の異領域を交通させる。例:本書で繰り返し研究されるdiadose(ディアドシス、分配・伝達)。この語は栄養の分配と伝染物(contage)の伝達の双方を説明する。伝染の循環は医師にとって認識論的問題だが、疫病は道徳的・形而上学的問題である(ルクレティウス第6巻、プルタルコス『神罰の遅延』)。プルタルコスはまさに diadose 概念を用いて「道徳的伝染」の時間・空間内の循環を論証する。『神罰の遅延』は医学と道徳のアナロジーを体系化する。疫病は異質な諸宇宙を関係づけ、道徳は医学から diadose のような概念を借りる——それは科学の保証をすべて備えた概念であるどころか、医師たちの想像界に属する。これが「魂の病」にどう関わるか:ペスト——身体の病の典型——は、起源の不確実、随伴するアテュミア(意気阻喪)、都市に引き起こす価値の根本的無秩序、考え直しを強いる他者との関係、人々を襲う全き不正義によって、「魂の病」の問題に結びつく。トゥキュディデス、ルクレティウス、アレクサンドリアのフィロン、プルタルコスがそれを示す。
本書の言説はどこに向かうのか——医学か、道徳か、哲学か? 認識論的言説か、歴史的言説か、想像界についての仕事か? 答えは「そのすべてが同時に」であり、それは僭越ではなく事柄の本性による。概念と問題の発生と利用を記述する限りで歴史的研究;医学の宇宙を研究するからだけでなく、倫理と医学の出会いが医学知の新しい領野を提供したから認識論的研究。maladie de l'âme のアナロジーは、起源が隠喩の偶然に負うとしても、メランコリー・taedium uitae・エウテュミアといった概念とともに、医学と道徳を技術・実践として現実に交通させた。
最後に想像界についての研究であること:魂の病は多くの仕方で想像力を作動させる。身体と結び合った魂の病に想像力が現前しないはずがない——黒胆汁、メランコリー性の嘔気、心気症者の「棘」、のちにシデナムが記述する「ヒステリー性の釘(clou hystérique)」(注39:ジョー訳『実地医学』1799年版から釘の症候の記述が引用される)。だが現に痛む患者にとって「想像的」とは何を意味するか。患者の想像界と医師の想像界があり、両者は必ずしも出会わない。本書は治療者たちの想像界——魂の治療者と身体の治療者——に研究を限定する。現代医学技術の議論には入らない。魅了されたのは、古代人がこの神話的な場所を方法的に踏査し、測量図を、位相学を与えようとしたこと——医師たちのみならず、クリュシッポスやキケローやセネカにおいても。「われわれは魂と身体の、魂の病と身体の病のアナロジーを本気で受け取った」。倫理と医学というこの常套句(lieu commun)は、医学が「魂の病」の概念を受け容れる限りで、倫理と医学に共有の場所(lieu commun)でもある——真の発見である。倫理と医学は、別々に定義された二つの学科でありながら、共同で一つの領土を測量したのであり、それこそが古代精神病理学の啓示である。
結びにエーデルシュタインとの対決〔頁27〕:エーデルシュタイン(Ancient philosophy and medicine, Temkin 編 1967)は、医学の古代哲学への影響はごく小さく、病と健康維持への考察はアナロジーを供給して哲学の妥当性を補強したにすぎない、とし、哲学者たちが医学的アナロジーをこれほど偏愛した理由に満足な説明はないと付言した。ピジョーは自らの研究が満足な説明を与えるかは分からないとしつつ、示したいのは二方向の寄与である:(1)医学的考察そのもの——その問題と展開に完全に通じた哲学者・モラリストによって考察されたそれ——が倫理に固有の問題系の確定を助けたこと、(2)逆に倫理が医学に諸要素を提供したこと。
六、pinel-virgile への含意(作業メモ)
- 本書の結論部(Conclusion)にピネル論があることが注20・頁27の二箇所で予告されている。読解順の私案を改訂すべき第一候補:第Ⅲ章と並行して、巻末の結論部を先に読む価値が高い(目次OCRでは後付の直前。原本照合時に頁を確定のこと)。pinel-virgile の注に「ピジョー自身が médico-philosophique の語をピネルから借り、結論部でピネルにおける狂気の歴史と定義の出会いを論じている」旨を追記できれば、論文の枠組はピジョーという最良の後ろ盾を得る。
- 「フレニティスとマニーの定義は『哲学的疾病分類学』でも同一」〔頁21〕は、ピネルの古典的素養を概念史の連続性として裏づける独立の典拠。引用の際は原本頁で確認のこと(本ノートの頁数はスキャン画像で確認済みだが、公表引用は原本で、という本紀要の原則どおり)。
- aegritudo / taedium = 喪 / メランコリー(フロイト)という対置〔頁23〕は、別稿「躁鬱混合状態論の系譜」・不安概念史との接続点。第Ⅲ章とくにアエグリトゥード節、第Ⅴ章 taedium 節を読む際の主導仮説として使える。
- 「クリュシッポス一元論の二元論的読解」〔頁18・21〕は『トゥスクルム』理解の鍵として本書全体で立証される眼目。pinel-virgile 3-2 の注[8](アパテイア/メトリオパテイア)の背景説明に一文で援用可能。
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