要旨 Abstract
【日本語要旨】 近代精神医学の創始者フィリップ・ピネル(Philippe Pinel, 1745–1826)の臨床的思考の文化的根源を、彼の古典的素養——とりわけヴェルギリウス『アエネイス』第 4 巻のカルタゴ女王ディドの情念への深い関心——に求める試みである。本稿はジャック・ポステル、グラディス・スウェイン、リオネル・フーレ、エレオノール・エリアスの諸研究を主たる依拠とし、ピネルの古典的素養を装飾的教養ではなく、彼が情念(passion)を精神疾患の中核に位置づけるに至った臨床的方法論の文化的基盤として位置づける。
本稿の論証は四節構成を取る。第一節では、ヴェルギリウスの叙事詩におけるディドの悲劇——亡夫への貞節の誓い、女王としての国家的義務、抑えきれない情念という三重の相矛盾する要請が彼女を「宙吊り(suspensa)」と「眠りを乱す夢(insomnia)」の状態に追い込み自死に至らしめる構造——を概説したのち、無職時期のピネルが弟ピエールのヴェルギリウス翻訳に関与する形でディドの独白を詳細に分析した 1785 年 4 月 28 日付書簡(ポステル復刻)を読み解き、十六年後の Traité 初版(1801)に現れる「医師は激しい情念の歴史に通じていなくてよいのか——それこそが aliénation mentale の最も頻繁な原因なのだから」という命題、および「不幸な恋の狂乱(le délire d'un amour malheureux)」という具体的症例範疇への言及との直接の連続性を論証する。第二節では、スウェインの主張する Traité 初版(1801)優位論に立脚しつつ、ピネルの情念概念の精密な構造を再構成する。情念は単なる主観的体験ではなく身体的基盤を持つ実在として把握される。さらに、発作期にあっても長期間理性が完全に保たれている症例群を読み解き、これらが「狂人は理性のすべてを失った存在である」という当時の通説に対するピネル自身による臨床経験に基づく反証をなしていることを示す。第三節では、ピネルの情念対処原則——「情念を破壊するのではなく拮抗させよ」——を、ストア派のアパテイア(apatheia、情念の根絶)ではなくアリストテレス的なメトリオパテイア(metriopatheia、節度)の系譜に位置づけ、ヒポクラテス的ホーリズムと結びついた臨床的方針として読み解く。第四節では、エスキロール(Jean-Étienne Dominique Esquirol, 1772–1840)の 1805 年学位論文『aliénation mentale の原因・症候・治療手段として考察された情念について』が、師ピネルの遺産を「原因・症状・治療手段」の三重構造に定式化したことを論じ、さらに 1819–1820 年頃のリペマニー(lypémanie)概念の創出により「悲しい情念」が独立した疾病単位として切り出され、現代精神医学が「うつ病」と呼ぶカテゴリーの萌芽が形成されたことを示す。
結語では、ピネル=エスキロール的な情念論の系譜を整理する。エスキロールが 1819–1820 年頃に創出した「リペマニー」概念により、ピネルが描いた病理的連鎖の起点に位置する「悲しい情念」が独立した疾病単位として精神医学の分類体系に登録された。この概念はファルレ(Jean-Pierre Falret, 1794–1870)の「循環性精神病(folie circulaire、1851 年)」を経て、クレペリン(Emil Kraepelin, 1856–1926)が教科書『精神医学』第 6 版(Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studirende und Aerzte, 6. Aufl., 1899 年)において単一の疾病単位として確立した「躁鬱病(manisch-depressives Irresein)」へと結実する。ピネルが 1785 年にディドの情念を精緻に分析したときから、彼の直感していた情念の臨床的形象が近代精神医学の中核的疾病単位として制度的に確立されるまでに、約一世紀の概念史的迂回があった。本論文はこの長い迂回の起点を、ピネルの古典的素養とディド分析のうちに見出すとともに、ピネルが Traité で示した「狂人にもなお理性が認められる」という臨床的洞察——精神疾患を理性の全面的崩壊と見なす当時の通説への決定的反証——を、情念の臨床化と並ぶ画期的契機として位置づけるものである。
キーワード:フィリップ・ピネル、ジャン=エティエンヌ・ドミニク・エスキロール、ヴェルギリウス『アエネイス』第 4 巻・ディド、情念(passion)、metriopatheia/apatheia、ヒポクラテス的ホーリズム、Traité 初版(1801)、狂人の主体(le sujet de la folie)、リペマニー、道徳療法
Abstract (English)
This paper seeks to identify the cultural roots of Philippe Pinel's (1745–1826) psychiatric thought in his classical erudition, particularly his deep engagement with Virgil's Aeneid Book IV and the passions of Queen Dido of Carthage. Drawing primarily on the work of Jacques Postel, Gladys Swain, Lionel Fouré, and Éléonore Elias, the paper treats Pinel's classical education not as ornamental cultivation but as the cultural foundation of the clinical methodology by which Pinel came to place passion (passion) at the heart of mental illness.
The argument is organized in four parts. Part I begins by outlining the tragedy of Dido in Virgil's epic, whose structure is the simultaneous demand of three mutually contradictory imperatives (the oath of fidelity to her dead husband, her royal duty to the state, and her irrepressible passion), reducing her to anxious suspension (suspensa) and dream-haunted nights (insomnia) and ultimately to suicide. It then analyzes Pinel's letter of 28 April 1785 to his brother Pierre (preserved in Jacques Postel's reproduction), in which Pinel, then without medical employment, while assisting his brother's Virgil translation, dissects Dido's monologue and reads—with both literary and clinical attention—a structure in which "passion collides with duty, oath, and rational calculation to produce a state of paralysis." The paper then demonstrates the direct continuity between this 1785 reading and Pinel's proposition in the first edition of the Traité (1801)—"can the physician remain a stranger to the history of the strongest human passions, when these are the most frequent causes of mental alienation?"—as well as Pinel's specific clinical category of "the delirium of unhappy love" (le délire d'un amour malheureux). Part II reconstructs the precise structure of Pinel's concept of passion, following Gladys Swain's argument for the primacy of the first edition (1801) of the Traité. Passion is grasped not as mere subjective experience but as a reality with corporeal grounding. The chapter further reads the case series of patients whose reason remained fully preserved over long periods even during their attacks, as Pinel's own empirical refutation of the prevailing view of his time that the mad had lost all reason. Part III situates Pinel's principle for the management of passion—"do not destroy passions, but set them against one another"—in the lineage of Aristotelian metriopatheia (moderation) rather than Stoic apatheia (extinction), and reads it as a clinical orientation bound up with Hippocratic holism. Part IV examines Jean-Étienne Dominique Esquirol's (1772–1840) 1805 medical dissertation, Des passions considérées comme causes, symptômes et moyens curatifs de l'aliénation mentale, in which the legacy of his master Pinel is formalized into a three-fold structure (passion as cause, passion as symptom, and passion as therapeutic means). It then shows how Esquirol's coinage of the concept of lypémanie around 1819–1820 carved out "sad passion" as an autonomous disease entity, forming the embryo of the category that modern psychiatry now calls "depression."
The conclusion traces the genealogy of the Pinel–Esquirol theory of passion. Esquirol's coinage of lypémanie around 1819–1820 registered "sad passion"—located at the origin of the pathological chain Pinel had depicted—as an autonomous disease entity within the psychiatric classificatory system. This concept, passing through Jean-Pierre Falret's (1794–1870) folie circulaire (1851), bears fruit in the manic-depressive insanity (manisch-depressives Irresein) that Emil Kraepelin (1856–1926) established as a single disease unit in the sixth edition of his Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studirende und Aerzte (1899). Approximately a century separates Pinel's 1785 analysis of Dido's passion from the institutional establishment of this clinical reality as a core disease unit of modern psychiatry. This paper locates the origin of the long detour in Pinel's classical erudition and his Dido analysis, and at the same time positions Pinel's clinical insight in the Traité—that "the mad still retain reason," set against the dominant view of his time that mental illness consisted in the complete collapse of reason—as an epoch-making moment in the history of modern psychiatry, complementary to the clinical inscription of passion.
Keywords: Philippe Pinel; Jean-Étienne Dominique Esquirol; Virgil's Aeneid Book IV and Dido; passion; metriopatheia / apatheia; Hippocratic holism; Traité (first edition, 1801); le sujet de la folie; lypémanie; moral treatment
序——問いの設定
近代精神医学の創始者ともいうべきフィリップ・ピネル(Philippe Pinel, 1745–1826)が、ヴェルギリウスの叙事詩を深く愛読し、その情念描写を文学的・臨床的眼差しで読んでいたという事実は、一般にはほとんど知られていない。しかしこの事実は、ピネルの精神医学がいかなる人間観に根ざしていたかを考えるうえで、看過できない意味を持つ。
本稿の問いは次の通りである。「ピネルの古典的教養——とりわけヴェルギリウスの叙事詩『アエネイス』第 4 巻、カルタゴ女王ディドの情念への深い関心——は、彼の情念(passion)概念の形成とどのように結びついているか。そしてその情念概念は、いかにして近代精神医学の臨床的基盤となったか」。
なお、情念(passion)をめぐる哲学的議論は、デカルトの『情念論』(Les Passions de l’âme、1649 年)やスピノザの『エティカ』(Ethica、1677 年)以来の長い西洋哲学の伝統を持つ。本稿はその哲学史的系譜を辿ることを目的とせず、ピネルが臨床的問題として引き受けた情念論——クリクトン、古代医師たちとの対話、キケロ・セネカというネオ・ストア的教養、そしてアダム・スミス(グルーシー訳『道徳感情論』)の共感論の中で形成された概念——に限定して論じることをあらかじめ断っておく[14]。
この問いを追うことで、ピネルの弟子エスキロール(Jean-Étienne Dominique Esquirol, 1772–1840)が 1805 年の学位論文で定式化した「情念を原因・症状・治療手段として」という三重構造が、どのような知的・文化的連続性のうえに成立したかが明らかになるだろう。
第一節 ピネルの古典的素養とヴェルギリウス
1-1 ディドの悲恋——その複雑な構造
ヴェルギリウス(Publius Vergilius Maro, 前 70–前 19 年)の叙事詩『アエネイス』(Aeneis、全 12 巻、前 29–前 19 年頃)は、日本ではあまり知られていないが、西洋文学においてホメロスの二大叙事詩と並ぶ規範的作品であり、ダンテが『神曲』で案内役に選ぶほど、中世以降の西洋知識人にとって基礎的教養をなしていた。日本の読者に向けてその背景と第 4 巻のディドの状況をここで概説しておく必要がある。
物語の主人公アエネアス(Aeneas)はトロイア陥落後、神命によってイタリアに新国家を建設する使命を課された亡命者である。嵐によってカルタゴ(現在の北アフリカ、チュニジア付近)に漂着した彼を迎えたのが、カルタゴ女王ディド(Dido)である。
ディドの状況は、単純な恋愛物語に収まらない複層的な悲劇をはらんでいる。彼女はフェニキアのテュロスから来た寡婦であり(ヴェルギリウスがしばしば用いる「シドンの女(Sidonia Dido)」はフェニキア人一般を指す詩的呼称であって、出身都市はテュロスと明示される。第 1 巻 340 行)、兄ピュグマリオンによって夫シカイウスを殺された。アフリカに逃れ、知略によってカルタゴを建設した有能な女王として国事に専心し、亡夫への貞節を誓っていた。
そこへトロイア陥落の英雄アエネアスが流れ着く。ディドは彼のトロイア滅亡の悲劇的な物語(第 2・3 巻)に深く同情する。女神ウェヌスの仕組みによって同情は恋愛感情へと転化し、洞窟での逢瀬(第 4 巻)の後、ディドはアエネアスとの結婚を確信する。しかしアエネアスは父アンキセスの霊と神命によって、愛するディドを捨ててイタリアへ向かわなければならない使命(pietas:神々への義務・敬虔)に引き戻される。
このディドが抱える状況の核心は、三重の相矛盾する要請が同時に課されているという点にある。亡夫への貞節の誓い、女王としての国家的義務、そして抑えきれない情念——この三つの力に引き裂かれて「宙吊り(suspensa)」となり「眠りを乱す夢(insomnia)」におびえるディドの独白(第 4 巻 9 行以降)は、まさにこの身動きのとれない状態を詠んでいる[1]。
アエネアスが出発すると、ディドは捨てられた苦悩のなかで自ら死を選ぶ。彼女は魔術によって恋を忘れるためと偽って宮殿の中庭に巨大な火葬用の薪(rogus)を積ませ、アエネアスが残した衣と剣、彼を象った像を、ふたりが共に伏した床とともにその上に置かせる(第 4 巻 504–508 行)。そして狂乱のうちに自ら薪の頂に登り、アエネアスから贈られた剣——「このような用途のために求めた贈り物ではなかった(ensemque recludit / Dardanium, non hos quaesitum munus in usus)」(646–647 行)——を鞘から抜き放つ。最後の独白は言い終えられることがない。「その言葉半ばで(media inter talia)」剣に伏して崩れ落ちた女王の姿を、侍女たちは血泡立つ剣、血に染まった両手とともに目にするのである(663–665 行)。死は容易に訪れない——駆けつけた妹アンナに抱きかかえられながら、三たび肘をついて身を起こそうとしては三たび臥所に崩れ落ち(690–691 行)、ユーノーが長い苦悶を憐れんでイリスを遣わし、金色の髪の一房(flavum crinem、698 行)を断って魂を肉体から解き放つまで、彼女の苦痛は続く(第 4 巻 642–705 行)[1]。なお、ヴェルギリウスは第 4 巻において薪への点火を一度も舞台に載せていない——この点をめぐる通俗的誤解については、文末の〔文献学的補注〕を参照されたい。
その死に先立つ呪詛の言葉——「名も知れぬ復讐者よ、わが骸骨より起ちて、火と剣もてトロイアの末裔を追え」——は、後の「ローマとカルタゴの宿命的対立」の神話的根拠として詩的文脈に組み込まれている。
1-2 1785 年書簡——ディドの情念への医学的眼差し
ジャック・ポステル(Jacques Postel)は、ピネルの 1785 年 4 月 28 日付の弟ピエール宛書簡(セムレーニュ 1888 年書 pp.153–155 所収)をくり返し引用・紹介している[2]。この書簡にはヴェルギリウス『アエネイス』第 4 巻冒頭の翻訳方法についてピネルが詳細な助言を与えており、特に問題とされた詩句が上述のディドの独白である。
Anna soror, quae me suspensam insomnia terrent…
「アンナよ、妹よ、なんという夢が、宙吊りの私をおびえさせるのか……」(第 4 巻 9 行)
〔文献学的補注〕第 4 巻 9 行の流布本文は « quae me suspensam insomnia terrent »(Mynors の OCT に拠る)であり、本稿旧版(〜v15)が掲げていた « tenent » は誤記として訂正した。ピネル自身の読みについては、v17 まで「セムレーニュ復刻の書簡原文を照合するまで留保する」としていたが、今回セムレーニュ 1888 年書のデジタル複製(Internet Archive 公開の原本スキャン)により書簡原文(pp.153–155、標題 « Lettre à son frère Pierre. Paris, 28 avril 1785 »)を直接照合した。結果、書簡は当該行を二度引用しており(p.154 « quæ me suspensam insomnia terrent »、p.155 « Anna soror, quæ me suspensam insomnia terrent ! »)、いずれも流布本文どおり terrent である。よって terrent/tenent の異読問題は解消し、ピネル(少なくともセムレーニュの翻刻)は流布本文を用いていたと確定する。ただし注目すべきは、ピネル自身が同じ p.154 でこの行に添えた仏語の敷衍——« Insomnies cruelles qui tiennent l’âme suspendue dans la crainte et les alarmes »(「魂を恐れと不安のうちに宙吊りのまま保つ、残酷な不眠」)——である。仏語動詞 tiennent(tenir)は tenent の語義(拘束・保持)をそのまま担い、« dans la crainte et les alarmes » が terrent の語義(恐怖)を補う。すなわちピネルの読解は「恐怖」と「拘束」を二者択一とせず、恐れのうちに保持された宙吊り状態として両義を融合しており、旧版が仮説として立てた「tenent なら拘束の読みの証拠となる」という対立図式は、ピネル自身の翻訳のうちで止揚されていたことになる。さらに、ピネルは insomnia を « Insomnies »(不眠、複数)と訳している。すなわちセルウィウス以来の主流解釈——insomnium(夢・夢魔)の中性複数主格(terrent の主語)と解し「なんという夢が私をおびえさせるのか」と読む——ではなく、女性名詞 insōmnia(不眠)系の読みを採っていたことも、書簡原文から新たに確認された。他方この両義性自体が古注以来の周知の争点であることに変わりはない(Austin および Pease の当該行注参照。注[1])。本稿は主流解釈に従い「眠りを乱す夢」と訳すが、宙吊り(suspensa)の女王が夢と不眠の狭間に置かれるという語の両義性は、ピネルの見て取った「身動きのとれない状態」の記述としてむしろ雄弁であり、ピネル自身の « insomnies... qui tiennent l’âme suspendue » という敷衍は、その臨床的読解の最初の定式化にほかならない。
ピネルはここで、「恋に落ちた人におけるこの高められた感情が、ディドを限りなく興味深いものにし、彼女の心の中で起こっている闘いを見せてくれる」(« Ce sentiment élevé dans une personne éprise d’amour rend Didon infiniment intéressante et fait voir les combats qui se passent dans son cœur »——セムレーニュ書 p.154、筆者訳)と書いている。ポステルはこの書簡を「厳密な翻訳、ヴェルギリウスへの賞賛、そしてこの箇所の徹底した文学的分析という素晴らしい実例」と評した[2]。なお同書簡には「アベ・ドリールがパリ王立学院で第 4 巻を講じたのを君が聴いていたなら、ウェルギリウスほどの詩人を訳すのにどれほどの才能が要り、どれほどそれを磨かねばならないかを感じただろう」という一節があり、セムレーニュ本文(p.21)の伝えるとおり、ピネル自身がコレージュ・ド・フランスでドリール(Jacques Delille)のウェルギリウス講釈——「比類なき朗誦の才」による——を聴講していたことと符合する。ディドの独白の医学的読解は、この聴講体験を土壌として成立したのである。
医師ピネルの眼から見て、ディドの状況が「限りなく興味深い」理由は何か。それは「情念(恋愛的執着)が義務・誓い・理性的計算という複数の力と衝突して、身動きのとれない状態(suspensa)を生み出す」という構造にある。これは単純な恋愛感情の問題ではなく、情念が他の心的力と拮抗不全に陥ったときの病理的可能性——aliénation mentale の臨床的前駆状態——の文学的形象として読むことができる。
〔v18 接続覚え書き——セムレーニュ書簡原文の内容目録〕原文照合の副産物として、書簡(pp.153–155)の内容を目録化しておく。(一)ポステルが引く鍵句は p.154 に原文どおり確認された:« Ce sentiment élevé dans une personne éprise d’amour rend Didon infiniment intéressante et fait voir les combats qui se passent dans son cœur »(本文 1-2 に直接引用として繰り入れた——v19)。(二)書簡は 4.9 のほかに、ディドの独白とその周辺から « Quis novus hic nostris successit sedibus hospes ? »(4.10)、« Credo equidem, nec vana fides, genus esse deorum »(4.12)、« Heu ! quibus ille jactatus fatis ! »(4.13–14)、« Si mihi non animo fixum immotumque sederet »(4.15)、« Agnosco veteris vestigia flammæ »(4.23)、« Tellus optem prius ima dehiscat... ante, pudor, quam te violo »(4.24–27)を順次引き、独白全体の「感情の階調(gradation des sentiments)」を追跡している——本稿第 2 節の徴候カタログと同じ資料域を、ピネル自身が 1785 年に既に走査していたことになる。(三)ピネルは弟に三段階の読解法を説く:第一に「観念の歩みと秩序を冷静に研究する(étudier froidement la marche et l’ordre des idées)」、第二に表現の「調和と簡潔(l’harmonie et la simplicité des expressions)」を味わい、第三に想像力を高めて「目を閉じ、カルタゴの女王を直観的に見る(fermer les yeux et voir intuitivement la reine de Carthage)」——冷静な分析を情動的没入に先行させるこの手順は、後年の臨床観察の方法論的雛形として読める。(四)書簡はホラティウスの Ut pictura poesis を掲げ、画家がディドを描くならばという思考実験(場面の設定、弱い光、乱れた状態のディドに集中する視線)を展開する。(五)「アベ・ドリールがパリ王立学院で第 4 巻を講じたのを君が聴いていたなら、ウェルギリウスほどの詩人を訳すのにどれほどの才能が要るかを感じただろう」という一節があり、セムレーニュ本文 p.21 の記述(ピネルはコレージュ・ド・フランスでドリールのウェルギリウス講釈を聴講していた)と符合する。ピネル側のこの聴講の事実は本文 1-2 に繰り入れた(v19)。エスキロール側(学位論文 p.86 のドリール « le Virgile français » 引用)の原本照合は別稿「ピネルの情念論」で扱う——確定すれば、師弟二代にわたるドリール経由のウェルギリウス受容という線が完結する。
この書簡が書かれた 1785 年は、ピネルの上京から七年後にあたる。彼は 1773 年にトゥールーズ大学医学部から医学博士号を授与され、1774 年からモンペリエでさらに修練を積んだのち、1778 年に医師としての栄達を期してパリに上京したが、その後ほぼ十年にわたり医療職に就くことができなかった。ポステルが伝えるところによれば[2]、その背景にはピネルの性格的・身体的特徴があったとされる——生まれつきの極度の内気さ、低い背丈、そしてかなり苦しそうな吃音である。これらが一因となって、彼は医学部のディエスト賞(Prix de Diest、貧しい学生に与えられる奨学賞)の選考に三度挑戦して三度とも落選した(旧来の伝記文献に時折見られる「ドクトゥール・レジャン docteur régent」資格選考での落選という記述は、ポステルによれば誤りである)。ルイ十六世の主治医ルモニエ(Louis-Guillaume Le Monnier)の推薦を得て、王の叔母たち(Mesdames——ルイ十五世の王女たち、すなわちルイ十六世の叔母たち)の侍医職に応募した際にも、同じ理由で拒絶されたと伝えられている。
医療職の道が閉ざされていたこの時期、ピネルは数学の個人教授、折々の医学的小論の執筆、そして 1784 年からはポーレ(Paulet)から引き継いだ『健康新聞』(Gazette de santé)の編集によって糊口を凌いだ。彼の古典語と翻訳の素養が活かされたのは、1785 年のカレン『実用医学教程』(W. Cullen, Institutions de médecine pratique)のフランス語訳、そして 1788 年のバグリヴィ『医学全集』(G. Baglivi, Opera omnia)の校訂版刊行(ラテン語序文付)においてである。本格的な精神医学的臨床経験は 1786 年以降、シャロンヌ通りのベルオム氏(Jacques Belhomme)の私立療養所での仕事に始まり、ビセートル病院医師としての公的任命は 1793 年 9 月、サルペトリエール病院主任医師への栄達に至っては 1795 年——五十歳の年——のことであった。精神疾患への関心が芽生え始めたこの不遇の時期に、ディドの情念への観察眼が形成されていたという事実は、後の臨床的方法の文化的根拠として重要である。
〔補注〕本文に登場する「ドクトゥール・レジャン(docteur régent)」は奨学金や褒賞の類ではなく、フランス革命以前の旧制パリ医学部における最高位の教員資格、すなわち正員教授職を指す。医学博士号(docteur en médecine)取得後にさらに追加の試験と多額の納付金を要し、これに合格して任命されると医学部評議会に参与し、学位審査・授業担当・新進博士の指導など、医学部運営の実権を担う教授団(corps des docteurs régents)の一員となった。古制度フランス医学界における最上位の地位のひとつであり、地方出身の貧しい医学者ピネルには事実上手の届かない位階である。ポステルが訂正するように、ピネルが三度落選したのは——その身分とも整合する——貧学生向けのディエスト賞であって、この docteur régent 資格選考ではない。なお、旧制の大学・諸学部は国民公会の 1793 年 9 月 15 日の法令により廃止され、パリ医学部と docteur régent の制度もこれをもって消滅した(後継の保健学校 École de santé の創設は 1794 年 12 月)。
1-3 医師と情念の歴史——Traité との連続
この書簡から十六年後の Traité 初版(1801 年)本論冒頭部(印刷頁 49)に、次の注目すべき一節がある。
Le médecin peut-il rester étranger à l’histoire des passions humaines les plus vives, puisque ce sont-là les causes les plus fréquentes de l’aliénation de l’esprit? et dès-lors ne doit-il point étudier les vies des hommes les plus célèbres par l’ambition de la gloire, l’enthousiasme des beaux-arts, les austérités d’une vie monastique, le délire d’un amour malheureux?
「医師は、激しい情念の歴史に通じていなくてよいのか——それこそが aliénation mentale のもっとも頻繁な原因なのだから。そしてそうであれば、栄光への野心によって、美術への熱狂によって、修道生活の禁欲によって、あるいは不幸な恋の狂乱(le délire d’un amour malheureux)によって名高い人々の生涯を研究しなければならないのではないか」
〔校訂補注〕この一節は、初版の「序論(Introduction)」(印刷頁 v–lvj)には現れない(全頁対校により確認)。本文の引用は初版本論(印刷頁 49、アラビア数字)に拠るものである。なお第 2 版(1809)が前付けに収める「第 1 版序論の再録(Introduction à la première édition)」の印刷頁 x にも、ほぼ同趣旨の一節が現れるが、これは単純な復刻ではなく改訂されたテクストであり、語句に異同がある(管見の限り、第 2 版の当該箇所には « les découvertes dans les sciences » の句が加わる)。版を跨いで引用する際は、初版本論の現物頁を確認のうえ、典拠とする版・頁・異同を明記することが望ましい。
「不幸な恋の狂乱」という表現は、1785 年の書簡でピネルが詳細に分析したディドを、その範例の一つとして念頭に置いていたことを強く示唆する(もっとも書簡と Traité とを直接つなぐ明示的言及は現存資料になく、この連続は両テクストの主題的同一性にもとづく蓋然的推論である)。いずれにせよ、ヴェルギリウスへの深い共感は医師として情念を理解するための不可欠な知的装備として位置づけられていた。さらにピネルはラテン語に精通し、バグリヴィ全集(G. Baglivi, Opera omnia, Parisiis, 1788)にラテン語序文を執筆している。古典的素養は単なる装飾ではなく、古代医師たちの症例への参照を媒介した臨床的方法の基盤であった。
〔接続覚え書き——「情念こそが aliénation mentale の原因」という古代的先蹤〕ピネルのこの一節——激しい情念が「aliénation mentale のもっとも頻繁な原因」であるという命題——には、ピジョーが跡づける驚くほど精確な古代的先例がある。ビテュニアのアスクレピアデス(前2–1世紀)は、カエリウス・アウレリアヌス『急性病』第1巻経由で伝わるフレニティス(発熱をともなうアリエナシオン)の定義において、あえて〈発熱をともなう〉という限定句を加えたが、その理由として彼自身が挙げるのは、発熱なきアリエナシオンの症例が存在するという事実である——阿片やマンドラゴラなどの薬物による場合と並んで、激しい怒り(immensa ira)・過度の恐怖(nimius timor)・悲嘆(maestitia)という情念そのものによる場合である。すなわち古代医学は、遅くともアスクレピアデスの段階で、情念が単独でアリエナシオンを引き起こしうるという認識を、フレニティス概念を定義から排除するための否定的な限定句として、既に理論の内部に組み込んでいた。ピネルの「激しい情念…aliénation mentale のもっとも頻繁な原因」という命題は、この二千年来の古代的区分の近代における反復として読むことができる。詳細は読解ノート(四・その二)第七節を参照。
第二節 Traité 初版(1801 年)における情念概念
2-1 スウェインの初版優位論
グラディス・スウェイン(Gladys Swain, 1945–1993)は Le sujet de la folie : naissance de la psychiatrie(Privat, 1977;第二版:Calmann-Lévy, 1997)において、Traité 初版(1801 年)を第二版(1809 年)に優先させる積極的理由を論じる。初版の「一見した整合性の乏しさ」はむしろその豊かさの証拠であり、ピネルはそこで精神疾患の分類という課題と、aliéné を個別の苦しむ主体として観察するという課題との間の解決されない緊張を保っている[3]。
スウェインが起点に置くのは、Traité 初版が「大多数の場合において脳や頭蓋に器質的病変はない」と宣言する命題である。
Cette sorte d’institution morale des aliénés, propre à assurer le rétablissement de la raison, suppose que dans le plus grand nombre de cas il n’y a point de lésion organique du cerveau ni du crâne.
「この種の aliéné の道徳的処遇——理性の回復を確保するのに適した——は、大多数の場合において脳や頭蓋に器質的病変がないことを前提とする」
器質的病変がない以上、理性は回復しうる。理性が回復しうるのは、aliéné の中に理性の残滓が保たれているからである——これがスウェインの言う「狂人の主体(le sujet de la folie)」という問いの核心である。狂人は完全に非理性に陥った存在ではなく、理性の痕跡を保つ苦しむ主体であり、それゆえに道徳療法の働きかけに応答しうる。この認識はフーコーが批判したような「鎖に代わる新たな規律的権力」の装置としての道徳療法という読みに対抗するものであるが、この論点については別稿で詳論した。本稿ではスウェインの読みを基本的立場として採用しつつ、情念概念の分析に集中する[4]。
2-2 情念の定義と身体的基盤
序論後半でピネルはクリクトン(Alexander Crichton, 1763–1856)の『精神錯乱の本性と起源についての探究』(An Inquiry into the Nature and Origin of Mental Derangement, 全 2 巻, London, 1798)への参照として情念の身体的定義を与える。同書の副題が「精神の生理学および病理学の簡明な体系、ならびに情念とその作用の歴史(a history of the passions and their effects)」を掲げていたことは注目に値する——ピネルが本論頁 49 で用いる「激しい情念の歴史(l’histoire des passions humaines les plus vives)」という句は、この副題と響き合っている。原初的欲求に障害が生じたとき、心窩部(région précordiale)における感覚を伴う新たな欲求が生まれ、これが情念と呼ばれる。ピネルはここで情念を道徳的評価から切り離し、「動物経済学(économie animale)の純粋な現象」として記述するという方法論的選択を行う。
情念を心窩部(épigastre)に定位するこの生理学的選択は、後に事実的根拠を欠くものとして破棄されるが、思想史的にはこれによって、情念の座が脳から切り離され、知的能力(理性)が潜在的に無傷のままでも狂気は成立しうるという認識空間が開かれた。情念は、脳とも身体の個別器官とも異なる場所——身体と精神が不可分に交差する個的統一の場——に位置づけられ、狂気は特定の器質的損傷に還元できない「全人的現象」として把握されることになる。本稿第 2-4 節で後述する、発作期にあっても理性が完全に保たれている症例群は、この理論的選択の臨床的具体例として読むことができる。
続いて「深い悲嘆(chagrin profond)」を起点とする病理的連鎖の精緻な記述が与えられる。倦怠・食欲消失・脈拍微弱・顔面蒼白・四肢冷却・溜め息・昏睡といった身体症状が段階的に記述されたのち、
...le marasme et un état de dépérissement lorsque le chagrin est tourné en habitude, c’est-à-dire en mélancolie. La terminaison de l’un et de l’autre est tantôt un penchant irrésistible au suicide, tantôt un délire doux ou un état de fureur, mais avant cet égarement total il survient plusieurs affections... puis tout à coup explosion de la manie la plus violente.
「……そして悲嘆が習慣に、すなわちメランコリーに転化したときには、消耗(marasme)と衰弱の状態が生じる。両者の帰着は、時に自殺への抗しがたい傾向、時に穏やかな譫妄または狂乱状態であるが、この全的錯乱の前にいくつかの過渡的状態があり……そして突如として最も激しいマニーの爆発となる」
「深い悲嘆→習慣化(メランコリー)→マニー爆発」という三段階の連鎖は、ヴェルギリウスのディドの軌跡——三重の葛藤による suspensa と insomnia、情念の「爆発」としての自己破壊——と構造的に対応する。1785 年の書簡でピネルがディドの「感情の高まりと心の葛藤」を注意深く分析していたことは、この後の理論化の予備的直観として機能していたと考えられる。
もっとも、これらの身体的記述に先立って、ピネルは序論において、情念を臨床的考察の対象として扱うことを綱領的に宣言している。クリクトンの分析を導入するに際し、彼はこう記す。
Je crois devoir donner ici une idée exacte de l’origine, du développement et des effets des passions humaines sur l’économie animale, tels que cet auteur les a exposés...
「私はここで、人間の情念が生体(économie animale)に及ぼす起源・展開・作用について、この著者〔クリクトン〕が説き示したとおりの、正確な観念を与えておくべきだと考える……」
さらに序論の後段では、イデオローグによる「悟性の諸機能の分析」と対をなすものとして、いまだ緒に就いたばかりの「精神的情動の分析(l’analyse des affections morales)」が要請され、しかもそれが医学の協力を必須とすると明言される。
L’analyse des fonctions de l’entendement humain est sans doute fort avancée par les travaux réunis des idéologistes, mais il est une autre analyse à peine ébauchée et pour laquelle le concours de la médecine est nécessaire, c’est celle des affections morales, de leurs nuances, de leurs degrés divers, de leurs combinaisons variées.
「人間の悟性の諸機能の分析は、イデオローグたちの結集した労作によって、疑いなく大いに進展した。だが、いまだ緒に就いたばかりで、しかも医学の協力を必要とするもう一つの分析がある——精神的情動の、そのさまざまな濃淡の、その多様な程度の、そしてその種々の組み合わせの分析がそれである」
そして怒りの情念を論じる箇所では、情念と狂気との連続が、ほとんど定義的な明晰さで述べられる[5]。
...que de conformités entre un emportement de colère et un accès de manie, rougeur des yeux et du visage, air de menace et de fureur, expressions dures et offensantes. Doit-on s’étonner qu’on ait désigné l’un par l’autre, en sur-ajoutant seulement l’idée de la durée?
「怒りの発作とマニーの発作とのあいだには、なんと多くの一致が見られることか——眼と顔の赤み、威嚇と狂憤の面持ち、荒々しく無礼な言葉づかい。はたして、一方を他方の名で呼び、ただ持続という観念を付け加えただけ(en sur-ajoutant seulement l’idée de la durée)であることを、怪しむべきであろうか」
情念(怒り)と狂気(マニー)とを隔てるものが「持続(durée)」という一指標にすぎないというこの把握は、情念を精神疾患の中核に据える本稿の主題を、ピネル自身の言葉において字義どおりに裏づける。なお、序論におけるこれら情念論の典拠としてピネルが挙げるのは、クリクトンのみならず、アダム・スミス『道徳感情論』(ソフィー・ド・グルーシー訳)および同訳に付された『共感に関する書簡(Lettres sur la sympathie)』であり、ピネルの情念概念がスコットランド道徳哲学の共感(sympathie)論をも一つの水脈として含むことを示している[6]。
〔接続覚え書き——「持続」という古代的基準〕情念と狂気を「持続」という一指標で分かつというピネルのこの把握には、驚くほど精確な古代的先例がある。ガレノスは『プロレーティコン第1巻註釈』でフレニティスの語の使用条件を確定する際、まさに同じ基準を用いる——発熱なしに乱心すれば「マニーに憑かれた」と言われ、発熱をともなえば「フレニティスをもつ」と言われるが、譫妄が病の全経過を通じて持続しない場合は別語(παρακρούσαι等)が使われ、φρενῖτιςの語を用いるには「発熱」と「譫妄の持続」という二条件が要る、という一節である。ピネルの「怒りの発作とマニーの発作は、ただ持続という観念を付け加えただけで一方を他方の名で呼んでいる」というテーゼは、情念の病理化を「持続」という時間的基準に求める点で、この古代的な鑑別診断の論理と同型をなす。詳細は読解ノート(四・その一)第四節を参照。
〔接続覚え書き——法における「持続」、furor と insania の区別〕〔v35 追加〕「持続」を鑑別の基準とする古代的発想は、医学の外側、ローマ法の伝統にも見出される。ピジョー『魂の病』第Ⅲ章によれば、キケローは furor と insania を截然と区別された二つの実体とし、十二表法が後見(クラテラ)の手続きを furiosus にのみ留保したことに「立法者の天才」を見る(同書頁 252–253。読解ノート六・その一参照)。後代のウルピアヌスの法学説をめぐる論争では、furiosus を「明るい間隔(intervalles de lucidité)」を伴う動揺した病者、demens を持続的で完全な機能不全者とする読み——すなわち持続性の有無による区別——が有力な一系列をなす(頁253–254)。ピネルが情念(怒り)と狂気(マニー)を分かつのが「持続」の観念一つだと言うとき、彼は、ガレノスの臨床的鑑別(前掲 v20)とローマ法の後見制度の鑑別という、医学と法という二つの異なる古代的系譜が共有していた同一の論理——一過性の情動と持続的な錯乱の別——を、期せずして反復していることになる。
2-3 メランコリーの臨床記述——§142
本文§142(MÉLANCOLIE OU DÉLIRE EXCLUSIF SUR UN OBJET)では、「不幸な恋愛によって惑乱した若者」の症例が記述される。
Un jeune homme égaré par un amour malheureux, étoit dominé par une si puissante illusion, que toute femme étrangère qui venoit dans l’hospice lui paroissoit être son ancienne amante, qu’il désignoit sous le nom de Marie Adéline, et ne cessoit de lui parler avec l’accent le plus passionné.
「不幸な恋愛によって惑乱した若者は非常に強力な錯覚に支配されており、施設に来る見知らぬ女性はすべて元の恋人マリー・アドレーヌに見えて、最も情熱的な調子で話し続けた」
情念(恋愛的執着)が知覚そのものを変容させるこの症例は、ヴェルギリウスがディドについて描く、情念による認識の変質——亡夫を祀る社から亡き夫の声を聞いたと思い(第 4 巻 460–461 行)、夢の中では猛きアエネアスに追われる(agit ipse furentem / in somnis ferus Aeneas、第 4 巻 465–466 行)——と同型である。情念による認識的変容という点で、文学的形象と臨床的観察は同一の問題を照らし合っている。
この症例が示す「一つの対象に固着した錯覚」は、メランコリー概念そのものの古代的定義とも接続する。カッパドキアのアレタイオス(1 世紀)は、風(プネウマ)や黒胆汁によらぬ場合のメランコリーを「一つのファンタシアー(phantasia、表象・現われ)に結びついた、熱を伴わぬ意気阻喪」と定義した——「怒り」と「悲哀・恐怖」の合成として病を捉えるこの規定は、ヒポクラテス『箴言』第 6 巻 23 番「恐怖と落胆(phobos と dysthymia)とが長く続くとき、これはメランコリー的な状態である」を継承しつつ、これに単一の固着した表象という契機を加えたものである[13]。ピネルが記述する「見知らぬ女性がすべて元の恋人に見える」という若者の症例は、まさにこの意味での——複数の対象へと拡散する妄想ではなく、一つの表象へと収斂し続ける意気阻喪としての——メランコリーの近代的再演にほかならない。アレタイオスの定義そのものは本論の主題であるディドの情念(悲恋の果ての自死)とは病理の型を異にするが、「特定の対象への固着」を病の中核に置くこの古代的規定は、情念が知覚と表象をいかに変容させるかという本節の主題に、独立の概念史的系列として合流する。
2-4 理性と情念の複合的関係——ピネルの精緻な観察
ピネルの情念論を論じる際に見落としてはならないのは、彼が情念を一面的に問題にしたのではなく、理性の崩壊の有無を症例ごとに精密に観察していたという点である。Traité 初版には、理性と情念の複合的関係を示す三種類の注目すべき症例群が記載されている。
第一は、間歇的マニーにおける理性の完全な保存の例である。ピネルはビセートルで観察した複数の症例を挙げたうえで、
...un troisième aliéné étoit dans un état extrême de fureur, seulement durant quinze jours de l’année, où il étoit calme et jouissoit pleinement de sa raison durant onze mois et demi.
「第三の aliéné は、年間十五日だけ極度の狂乱状態にあり、残りの十一ヶ月半は穏やかで完全に理性を享受していた」
第二は、疾患の自己認識という注目すべき例である。
D’autres fois l’aliéné apprécie avec justesse son état, demande lui-même qu’on prolonge sa réclusion, parce qu’il se sent encore dominé par ses penchans impétueux; il semble en calculer froidement la diminution progressive, et il indique sans se méprendre l’instant où il n’y a plus à craindre de ses écarts.
「別の場合には、aliéné は自分の状態を正確に認識し、自ら拘禁の延長を申し出る——自分がまだ衝動的傾向に支配されていると感じているから。彼はその衝動の漸次的な減弱を冷静に計算するようで、もはや自分の逸脱を恐れる必要のない瞬間を、誤りなく指し示す」
これは「狂人の主体」の最も具体的な証拠である——疾患のただ中にあっても自己への反省能力を保ち、自らの症状の推移を客観的に観察できる主体の存在。
〔接続覚え書き——ハルパステーの対極としての第二症例群〕〔v42 追加〕この第二の症例群は、セネカ『ルキリウス宛書簡』50が伝える有名な逸話の、正確な裏面をなす。セネカが「相続した」盲目の道化女ハルパステーは、自分が盲目であることに気づかず、光がないのは家のせいだと信じている——セネカはこれを寓話として、狂気とは自らの病についての意識の欠如にほかならないと説く。プルタルコスはこれを医学的に精緻化し、「魂の病のうち最初にして最も重篤なのは、悪徳を治癒しがたくする〈無知〉である」と述べる(ピジョー『魂の病』頁 336–337。読解ノート六・その八参照)。ピネルが記録する患者——「自らの状態を正確に認識し、自ら拘禁の延長を申し出る」——は、まさにこの〈無知〉の対極に立つ。古代の伝統がハルパステーにおいて〈治癒不可能な狂気〉の徴表と見た自己認識の欠如を、ピネルは逆にたどり、自己認識の保存にこそ治療的介入の足場を見出している。ストア=プルタルコス的枠組みでは自己認識の有無は狂気の重篤度を測る指標にとどまっていたが、ピネルはこれを積極的な臨床上の武器——患者自身の判断力を治療の協働者として扱う道——へと転じた点で、古代の洞察を一歩先へ進めている。
第三は、逆説的な症例として最も鋭い問いを提起する。「十八ヶ月の平穏期のあと六ヶ月の発作が繰り返す」三名の患者は、
...le caractère particulier des accès de ces derniers, étoit de n’offrir aucun trouble, aucun désordre dans leurs idées, aucun écart extravagant de l’imagination; ces insensés répondoient de la manière la plus juste et la plus précise aux questions qu’on leur proposoit, mais ils étoient dominés par la fureur la plus fougueuse, et par un instinct sanguinaire, dont ils sentoient eux-mêmes toute l’horreur, mais dont ils n’auroient point été les maîtres de réprimer l’atroce impulsion, sans les obstacles d’une réclusion sévère.
「これらの患者の発作の特異な性格は、思考に何の混乱も無秩序も、想像力の何ら奇矯な逸脱もないことであった。彼らは問いに対して最も適切かつ正確に答えたが、最も激しい怒りと殺傷的衝動に支配されており、その恐ろしさを自分でも十分に感じながら、厳格な拘禁という障壁なしにはその残酷な衝動を抑えることができなかった」
この第三の症例群が示しているのは、十八ヶ月の平穏期と六ヶ月の発作期を交互に繰り返す患者において、発作期にあっても理性が完全に保たれている——思考と判断には混乱がなく、問いに「最も適切かつ正確に」答えうる——という事実である。これは、当時の通説「狂人は理性のすべてを失った存在である」に対する、ピネル自身による臨床経験に基づく経験的反証である。先に挙げた第一の症例群(間歇的マニーにおける十一ヶ月半に及ぶ完全な理性の保存)、および第二の症例群(自ら拘禁の延長を申し出る、自己への反省能力をもった患者)と並んで、これらの三つの症例群は、ピネルが精神疾患を「理性の全面的崩壊」へと一元化する把握を退け、患者のうちに「狂人の主体(le sujet de la folie)」——スウェインが本稿第 2-1 節で論じた通り、疾患のただ中にあっても理性の痕跡を保つ苦しむ主体——を見出していたことを示している。狂人にもなお理性が認められるというこのピネルの臨床的洞察は、精神医学史における画期的な契機をなすものである。
〔接続覚え書き——「判断は無傷、感覚のみが乱れる」という古代的区別〕〔v40 追加〕ピネルのこの三種の症例群——とりわけ第三の、激しい怒りと殺傷衝動に支配されながら「問いに最も適切かつ正確に答える」患者たち——は、ピジョーが第Ⅲ章で詳述する古代の「賢者の狂気」論争の核心的区別を、臨床の場で実証しているように読める。キケロは『トゥスクルム』III.V.11で「フーロルは賢者に降りかかりうるが、インサニアは降りかかりえない」と述べ、その理由を、フーロルが「判断を停止する能力を攻撃しない」——知覚に混乱をもたらしても、同意を退ける能力は保持される——という区別に求める(同書頁 309。読解ノート六・その六参照)。ガレノスも自身の体験として、フレニティスの徴候(クロキュディスム、カルフォロジー)が現れ始めた友人が、それでも自分の知性には何の障害もないと感じ取っていた逸話を伝える(頁 310–311)。ピネルが記録する「思考に何の混乱もなく、最も適切かつ正確に答えるが、抑えがたい衝動に支配される」患者は、まさにこの古代的区別——判断の座を冒す狂気と、行動・情動の座のみを冒す狂気——を、二千年後の臨床観察において独立に再発見していることになる。ただし重要な違いがある:古代の議論はこの現象を賢者という理念的極限例にのみ許容したのに対し、ピネルはこれを実際の患者一般に見出される臨床的事実として記録した点で、決定的な一歩を踏み出している。
〔接続覚え書き——「その恐ろしさを自分でも十分に感じながら」〕〔v41 追加〕ピネルの記述する一句——患者たちは自らの殺傷的衝動の「恐ろしさを自分でも十分に感じながら(dont ils sentoient eux-mêmes toute l'horreur)」それでも抑えられなかった——は、v40 で示した判断保存の論点にとどまらない、もう一段深い層を照らし出す。ピジョーは同じ第Ⅲ章の結びで、セネカが『怒りについて』で情念発生を三段階(表象・衝動・同意)として分析し、そこに「無意識の発見」——セネカ自身の言葉を借りれば身体的な顕れ(紅潮、蒼白など)によって意味される、フロイト的無意識にいっそう近い層——を見出したことを跡づけている。ピジョーはこの考察を、家族殺害の直前、セネカ『狂えるヘラクレス』でヘラクレスが発する言葉——「これだけが私のものだ(hoc unum meum est)」(1268行〔v41時点では1068行と誤記していたが、読解ノート七・その五での原典頁420照合により訂正、v45〕)——で締めくくる:他のすべての行為は彼に命じられたものだったが、この行為だけは彼自身が欲したのであり、「意識の場の外に存在するもう一つの自己自身の発見」がそこに刻印される、と(同書頁 326–329。読解ノート六・その七参照)。ピネルの患者が「恐ろしさを感じながら」なお抑えられなかったという記述は、まさにこの構造——判断(理性)は保たれ、恐怖という意識的な情動反応さえ伴いながら、衝動そのものは意識の統制の及ばない層から発する——を先取りしている。セネカ=ピジョーの言う「プロパテイア」から制御不能な第三の運動への移行という理論的枠組みは、ピネルが臨床観察のことばで記録した現象に、二千年前からの説明の型を与えていることになる。
そして、この「情念に支配されながら理性を保つ主体」の文学的原像もまた、ヴェルギリウスのディドにほかならない。詩人はディドを繰り返し furens(狂乱する者)と呼ぶ(第 4 巻 69、283、465 行等)。しかし死を決意した彼女は「みずから、時と方法を思いめぐらす(tempus secum ipsa modumque / exigit)」(第 4 巻 475–476 行)のであり、「企てを面に隠し、額には希望の晴朗を装う(consilium vultu tegit ac spem fronte serenat)」(第 4 巻 477 行)——妹アンナをも欺く周到な計画の遂行である。そして薪の頂での最後の独白において、彼女は自らの生涯を冷静に総括する——「私は生きた。運命が与えた行路を、私は走り終えた(vixi et quem dederat cursum Fortuna peregi)」(第 4 巻 653 行)。名高い都市を建て、わが城壁を見、亡夫の仇に報いた、と(第 4 巻 655–656 行)。極限の情念のただ中で、思考と判断はなお「最も適切かつ正確」である——ピネルが 1785 年に精読した第 4 巻は、彼が後にビセートルで観察することになる第三の症例群の構造を、一巻全体で上演していたのである。第 4 巻を発症から遂行までの一つの「経過」として読む視点、およびこの心理描写の文学史的系譜については、文末の〔補注——ディドの心理描写の系譜について〕を参照されたい。
なお、ポステルが紹介する 1785 年書簡が実際に注釈を加えているのは、この第 4 巻冒頭の恋煩いの場面(1–30 行)に限られる。ディドの物語はこの後、決意(474–477 行)、不眠の独白(522–553 行)、遂行(642–651 行)へと続き、そこには一国の統治者・建国者としての名誉(pudor)の喪失、周辺諸国と自国民からの離反、亡夫への誓約違反という、彼女の特異な運命に固有の主題が展開する。この後半部分は、ピネルの 1785 年の書簡が直接に言及する範囲を超えており、その臨床的な読解は本論の主題(1785 年書簡と後年の理論との連続性)を超過するため、本論では立ち入らない。この物語の後半が担う文学的な奥行きについては、文末補注に概要のみを記すにとどめる[12]。
〔接続覚え書き——ディドとメデイアの徴候カタログ照応表〕〔v44 追加〕本稿はここまで、ピネルが範例としたディドの情念を、主として『ヒッポリュトス』のパイドラを「構造的先駆として最も近い」ものと位置づけてきた(文末補注(二)、注[12])。エウリピデス『メデイア』については、大独白を閉じる一句「わが激情(テューモス)はわが思案(ブーレウマタ)より強い」(1079行)が理性と情念の相克の古典的座標として言及されるに留まっていた。だが、ピジョー『魂の病』第Ⅳ章が伝える『メデイア』冒頭の乳母のプロローグ(v.16–110)——本紀要読解ノート七・その二第一節で詳細に跡づけた「徴候のカタログ」——を参照すると、ディドとメデイアの近接は一句の水準を超えて、症候群の構造そのものに及ぶことが分かる。同時に、両者の型のあいだには看過できない相違があり、この相違こそがヴェルギリウスの「新しさ」(本補注(三)参照)とピネルの選択の理由を、より鋭く照らし出す。以下に対応関係を整理する。
| 徴候の項目 | メデイア(エウリピデス、乳母の報告) | ディド(ウェルギリウス、第4巻) | 構造上の含意 |
| 記述の視点 | 乳母による外部からの観察——「ケイタイ・ダシトス」(v.24)以下、徴候が第三者の報告として列挙される(臨床記録の形式) | 語り手が女王の内側から世界を提示する「主観的文体」(オーティス)。読者は徴候を外から観察せず、内から生きる(文末補注(三)) | この一点が両者の型を分かつ最大の軸。メデイアは視認可能な狂気(臓腑・体液の膨張として体系化されうる)、ディドは内面から辿られる経過(縦断的病誌)である。 |
| 拒食・衰弱 | あり——絶食し身を横たえる(v.24) | 直接の対応なし——身体機能は終始保たれ、薪を積ませ剣を用意する行為遂行能力を失わない | メデイアの身体は症状の座であるのに対し、ディドの身体は最後まで意志の道具でありつづける。 |
| 涕泣・沈黙 | 泣き止まず(v.25)、目を地に注ぎ(v.28)、岩か波のように凝固し聾する(v.29)——受動的閉塞 | 夜ごとの悲嘆はあるが、より特徴的なのは「企てを面に隠し、額には希望の晴朗を装う(consilium vultu tegit ac spem fronte serenat)」(477行)という能動的偽装 | メデイアの沈黙は症状としての閉塞、ディドの平静は計算された仮面——後者はまさにピネル第三症例群(v40既出)が示す「判断は保たれたまま情動が統御を外れる」型の文学的先蹤である。 |
| まなざし | 牡牛の目つき(オンマ・タウルーメネーン、v.92/v.188でアポタウルータイと精密化)——狂気が眼の変形として身体に刻印される | 遂行直前、「血走った眼を回らし(sanguineam volvens aciem)」(643行)——ただし単発的な身体徴候であり、メデイアのように反復・精密化される記号系列を成さない | メデイアでは眼が終始一貫した狂気の記号であるのに対し、ディドでは眼の徴候は経過の最終局面(遂行直前)にのみ現れる、孤立した一点にとどまる。 |
| 家族への態度 | 子供たちを厭う(ステュゲイ・デ・パイダス、v.36)、子らに母を近づけるなと乳母が警告(v.91、v.103–104)——敵意そのものが症状 | 妹アンナには最後まで偽りの平静を装い、薪は魔術の道具と偽る——だが死の床では妹に抱かれる(690–691行) | メデイアは家族への敵意が症状化されるのに対し、ディドの病理の焦点は敵意ではなく隠蔽そのものにある。両者とも近親者との関係が徴候の主要な担い手である点は共通する。 |
| 自傷・自死 | 乳母が「肝臓を剣で刺し貫いて自殺する」ことを予期的に恐れるのみ(v.40)——実行はされず、劇は子殺しへ転じる | 実際に剣で自死を遂行する(646–665行)——しかも「時と方法を思いめぐらす」(475–476行)という周到な計画のもとに | メデイアの自死念慮は乳母の外的観察による予後不安の記述に留まるが、ディドはそれを字義通り実行し、しかも実行そのものが理性的計画の産物である。 |
| 理性と情念の関係 | 「テューモスはブーレウマタより強い」(1079行)——情念が理性的熟慮に勝利することがテーマそのもの | 詩人に繰り返しfurens(狂乱する者)と呼ばれながら、計画は冷徹に遂行され、最期の独白「私は生きた、運命が与えた行路を、私は走り終えた」(653行)は完全な自己総括の明晰さを示す | 最重要の対比。メデイアの図式(テューモスの勝利)をそのままピネル第三症例群に重ねると誤る——「思考に何の混乱もなく最も適切かつ正確に答えるが、抑えがたい衝動に支配される」患者たちの文学的先蹤は、実はメデイアではなくディドである。ディドの furens は理性の敗北ではなく、理性を保持したまま情動の座だけが統御を外れる型であり、これはメデイアよりもむしろ本稿 2-4(v40・v41既出)で見たセネカ=プロパテイア論の構造に近い。 |
| 医学的読解の系譜 | ピジョーが『箴言』『流行病』に基づき遡及診断を試みる対象——古代ギリシア医学(ヒッポクラテース=ガレノス的伝統)の症例カタログ(読解ノート七・その二・七・その三) | ピネル自身が1785年書簡で「限りなく興味深い」と評した対象——近代フランス精神医学(『疾病分類学』『論考』)の理論化(深い悲嘆→メランコリー→マニー爆発)の文学的母胎(本文1-2・2-2) | 両者はそれぞれ別の医学的伝統の症例カタログとして機能するが、解読の身振り自体——詩的テクストを臨床記録として読む構え——は相似形をなす。ちょうど七・その二が明らかにした「詩から医学への語彙の相続」(サッポー→エウリピデス→アポロニオス)と同型の運動が、ここではエウリピデス→ウェルギリウス→ピネルという別の相続系列として反復されている。 |
総括。この照応表が明らかにするのは、ディドとメデイアが同じ型の狂気を異なる言語で描いているのではなく、
二つの異なる狂気の型を代表しているという事実である。メデイアは
臓腑の狂気——クリュシッポスがメガロスプランクニアとして理論化し、身体の内部に徴候が刻印される型(読解ノート七・その一)——の文学的原型であるのに対し、ディドは
不可視の狂気——判断は保たれ、身体表面にも症状は現れず、ただ計画と遂行の水準においてのみ「狂乱」が働く型——を体現する。ピネルが実際に選んだのがディドであり、パイドラであって、メデイアではなかったという事実(少なくとも1785年書簡およびTraitéにおいて明示的に参照されるのはウェルギリウスのみである)は、単なる文化的偶然ではないと筆者は考える。ピネルが Traité で記録した第三症例群——「思考に何の混乱もなく最も適切かつ正確に答える」患者たち——の文学的範例として、視認可能な症状のカタログ(メデイア型)よりも、理性を保持したまま進行する不可視の病誌(ディド型)の方が、構造的によりよく適合するのである。なお、この対比は文末補注(二)の「サッポー=身体症状の目録」から「ヴェルギリウス=主観的文体による内面化」への移行という文学史的整理(オーティス、注[12])とも正確に対応しており、メデイアはこの系譜においてサッポー的な「外的目録」の極に、ディドはヴェルギリウス的な「内的経過」の極に、それぞれ位置づけられる。
〔v19 追補——三類型の整理〕最後に、読解ノート七・その四以降で内実の深まったヘラクレス型を加えて、悲劇に淵源する狂気の類型を三つ組として整理しておく。(1)
メデイア型——臓腑の狂気。徴候が身体(拒食・凝固・眼の変形)に刻印され、外部の観察者(乳母)によって目録化される、
可視の狂気。(2)
ディド型——不可視の狂気。判断と行為遂行能力は保たれたまま、計画と遂行の水準でのみ「狂乱」が働く。ピネルの第三症例群(« manie sans délire »)の文学的先蹤はこの型である。(3)
ヘラクレス型——錯認の狂気。エウリピデス『狂えるヘラクレス』において主人公は知覚そのものを偽られ(わが子をエウリュステウスの子と見誤って殺害する)、行為の間は非知のうちにあり、覚醒ののちアナグノーリシス(非知から知への移行)によって初めて自らの所業を知る。徴候の座が、(1)では身体に、(2)では計画に、(3)では知覚にある——この三分は、ピネルが『論考』で分節した臨床像(メランコリー的固着、
manie sans délire、
manie avec délire)と正確に一対一ではないものの、狂気の「どこが病むのか」という問いの古代的な選択肢の全域を覆っており、ピネルがそのなかから範例としてディド(型 2)だけを選び取ったことの意味を、対比によって際立たせる。ヘラクレス型のアナグノーリシス構造がフーコー『狂気の歴史』批判の一次資料となる経緯は、読解ノート七・その六および別稿(フーコー批判研究群)に譲る。
第三節 情念への対処——ストア的禁欲に非ず、アリストテレス的節度
3-1 §V の原則宣言
ピネルの Traité における道徳療法の理論的核心が、§V「情念を相互に拮抗させる技法——医学の重要な一部門」(印刷頁 238–240)である。
Le principe de la philosophie morale qui apprend non à détruire les passions humaines, mais à les opposer l’une à l’autre, s’applique également à la médecine comme à la politique.
「情念を破壊するのではなく、情念を相互に対抗させることを教える道徳哲学の原理は、医学にも政治にも等しく適用される」
「情念を破壊するのではなく(non à détruire)」という句は、ストア的 apatheia(情念の根絶・無情念)への明確な対比をなす。ピネルはここで、情念そのものを否定する立場を明示的に斥ける。
〔接続覚え書き——語彙はストア、治療思想はポセイドニオス〕〔v38 追加〕ピジョーは第Ⅲ章で、キケロ=クリュシッポスとポセイドニオスの対立を「外科医対内科医」の比喩で捉える——前者は情念の根絶(éradication)を実践する外科医の側に立ち、後者は薬と時間による治癒を信じる内科医の側に立つ。キケロにとって魂と身体の中間項(ポセイドニオスのいうパテーティコン)は認められないため、「調教(dressage)は存在せず、教育(éducation)だけが存在する」と言い切られる(同書頁 279–282。読解ノート六・その四参照)。ピネルのこの一文——「情念を破壊するのではなく、相互に対抗させる」——を、この対立軸に照らして読むと興味深いねじれが見える。ピネルは語彙の上ではキケロ・セネカ・エピクテトスというストア=キケロ的系譜(本稿 3-2 既出)に連なりながら、治療思想の実質においては、根絶ではなく時間をかけた拮抗・環境調整・習慣づけという、キケロがまさに拒んだ側——ポセイドニオス的な「調教」に近い立場——を採っている。ピネルの moral treatment は、いわば古代における外科医対内科医の対立の中で、語彙的には前者の陣営に、実践的には後者の陣営に身を置く、複合的な位置取りだったことになる。
3-2 哲学的位置づけ——メトリオパテイアとヒポクラテス的ホーリズム
フーレ(Lionel Fouré)は「医学のラ・フォンテーヌたるピネル」(PSN、2013 年、vol.11、n°2、pp.55–72)において、ピネルの道徳療法とアリストテレスの metriopatheia(節度ある情念)の対応を指摘する[7]。
「ピネルが aliéné に施す道徳療法は、アリストテレスの métriopatheia の教説——『情念に対して、ただし正しい限度の内にとどまる条件で、全面的な承認を与える』——と重なるものがある」(フーレ, p.67)
アリストテレス的 metriopatheia は、ストア的 apatheia に対抗する立場として、情念を正しい限度の内に保つことを徳の条件とする[8]。これはピネルの「情念を破壊するのではなく拮抗させよ」という原則と完全に整合する。
〔接続覚え書き——キケロの反論と、それでもピネルがアリストテレス側に立つ理由〕〔v39 追加〕ピジョーは、キケロが実際にはメトリオパテイアそのものを手厳しく論駁していたことを示している——「悪徳に限度を求める者は、あたかもリュウカス岬から身を投げた者が望めば途中で止まれると考えるようなものだ」(『トゥスクルム』IV.XVIII.41、同書頁 299。読解ノート六・その五参照)。キケロにとって情念はその発生の瞬間から既に病そのものであり、理性から一度でも逸脱すれば不可逆的に増殖する——ストア派に特徴的な、瞬間と量を強調する医学的構想である。これに対しピジョーはアリストテレス『ニコマコス倫理学』III.1114a13の対抗イメージを置く——一度投げてしまえば取り戻せない石であっても、投げるかどうかはなお当人の力のうちにあった、という比喩である。ここで対立するのは病者の生成に注目するヒポクラテス=アリストテレス的構想(悪徳も徳も反復によって時間をかけて築かれる)と、病そのものの実在性に注目するストア的構想(情念は生成せず、最初から破局である)である。ピネルが採る立場——「拮抗させる」という反復的・時間をかけた治療原理——は、この対立軸に照らせばまぎれもなくアリストテレス=ヒポクラテス側であり、キケロが論駁したまさにその立場に立っている。前掲 v38(外科医対内科医)の対立が治療の様式(根絶か時間か)をめぐるものだったとすれば、ここでの対立はその哲学的基盤(情念は瞬間の破局か、時間をかけた生成かという情念の存在論そのもの)をなす。ピネルの臨床思想は、この二重の意味で、キケロが退けた側に立っていることになる。
〔接続覚え書き〕ピジョーが分析する『倫敦匿名者』(前2世紀頃のパピルス文書、アリストテレス的かつストア的な用語で魂の病と身体の病を区別しようとする)もまた、ペリパトス派の立場としてmetriopatheia——賢者にも認められる中庸の情態は行為の力(ネウロン)である、とする説——に言及し、これをストア派(匿名者の言う「近代の学説」)が一切認めないことと対比している。フーレの言うピネル=アリストテレス的節度という本節の対応関係は、この古代の対立図式そのものの遠い残響として位置づけうる。詳細は読解ノート(四・その一)第八節を参照。
フーレはさらに、ピネルの Traité をヒポクラテス的ホーリズムに基づいて読むことの重要性を論じる。「過剰は病因となる(l’excès est pathogène)」というヒポクラテス的原則が全体を貫いており、度を越した情念が個人を自己から遠ざける——これが「疎外(aliénation)」の語源的意味(alienus:自己から疎遠になった者)と重なる。道徳療法は、自然が処方する極端の中間という規範を回復させる試みとして位置づけられる。
ただし問題は単純ではない。ピネルは Nosographie philosophique(an VI, 1798)において「心気症とメランコリーを防ぐためにエピクテトス・セネカ・キケロの教えに従うべし」と記しており、ネオ・ストア的語彙も採用している。エリアス(Éléonore Elias)が整理するように、ピネルが参照するネオ・ストア主義は古代正統ストア派よりも穏健なものであり——情念の根絶よりも理性による制御・掌握が目標とされた立場である[9]。ピネルの情念論の哲学的位置は「ネオ・ストア的語彙を用いながらも、実質的にはアリストテレス的節度の立場に収斂する」という複合的なものとして理解すべきであり、「破壊するのではなく拮抗させる」という Traité の原則宣言はこの複合性のなかでアリストテレス的側面が優越している点を示している。
〔接続覚え書き——ピジョーが伝える『疾病分類学』の一節、その全文〕〔v43 追加〕ピジョーは第Ⅲ章の結びで、上記の一節をより詳しい形で引く(Nosographie philosophique, 第2版, パリ, 共和暦11年〔1803年〕, p.15–16):「道徳哲学と医学のあいだには、プルタルコスが指摘するとおり、緊密な結合、相互の依存関係がある。心気症・メランコリー・あるいは嘔吐性の疾患を予防するために、道徳の不変の法則に従い、自己自身への統御を身につけ、自らの情念を制御し、要するに、ヒポクラテス・アレタイオス・シデナム・シュタール……らが伝えた観察の輝かしい成果と同じだけ、プラトン・セネカ・プルタルコスの著作にも親しむことが、いかに重要であることか。キケロは『トゥスクルム』第3巻と第4巻において、情念を病と見なし、それを治療し治癒するための根本的な規則を与えているではないか」(ピジョー『魂の病』頁 348。読解ノート六・その九参照)。この一節は、ピネルが本節で扱う3つの水脈——プルタルコス的な魂身相関、ネオ・ストア的語彙、そしてキケロ『トゥスクルム』第3・4巻を情念の「治療規則の書」として直接名指しすること——を一文のうちに凝縮している。とりわけ最後の一句は、本稿がここまで跡づけてきたキケロ=クリュシッポス的病因論・治療論の全体を、ピネル自身が自らの臨床思想の直接の典拠として認めていたことの、動かぬ文献学的証拠である。
〔接続覚え書き——ピジョーによるラテン的経路の明示的裏書き〕〔v34 追加〕この「キケロ・セネカ経由のストア主義」という水脈の重みは、ピジョー『魂の病』第Ⅲ章「ストア主義と魂の病」の開巻の一文によって、思想史のテーゼとして明示的に裏書きされている。ピジョーは、魂の病を情念に同一視したストア派の省察(クリュシッポスが根本)をあえてラテン的視座——『トゥスクルム荘対談集』第 3–4 巻のキケロ、『怒りについて』と『ルキリウス宛書簡』のセネカ——から研究する理由として、こう述べる:「思想史が示すとおり、ストア主義がピネルやエスキロールのような精神病理学に及ぼした影響は、後述するように、これらラテン著作家たちを通じて感じられる」(同書頁 245。読解ノート五・その七参照)。ピネルが Nosographie で挙げる名(エピクテトス・セネカ・キケロ)とピジョーが章の柱に据える名(キケロ・セネカ)の一致は偶然ではなく、本節の描く「ネオ・ストア的語彙」の淵源がまさにこのラテン的経路であることを、古代側の専門研究が独立に確認しているのである。同章でピジョーが予告する decliuitas/proclivitas(病への傾き)の概念系は、読解ノート六・その一〜その十(第Ⅲ章読解、完了済み)で跡づけた。その主題的な検討は本稿の射程(ディド論)を超えるため、注[8]のメトリオパテイア論とあわせて、別稿「ピネルの情念論」(準備中)に譲る。
〔接続覚え書き——キケロによる「読み替え」とピネルによる「読み替え」〕〔v37 追加〕ピジョーは第Ⅲ章の中間結論として、本書全体で最も引用される一文を置く:「キケロの天才の一撃は、一元論的な哲学の、二元論的な読解を実践したことにある」——クリュシッポスの情念一元論(判断と生理学的発現は不可分な一つの行為)を、ピュタゴラス=プラトンの魂の二分法という「古い言説」の眼鏡にかけて読むことで、キケロは「機構(メカニスム)を保持し、病因論(エチオロジー)だけを変える」操作を行った、というのである(同書頁 275。読解ノート六・その三参照)。この構図は、本節冒頭でエリアスに拠りつつ確認した、ピネルの情念論の哲学的位置——ネオ・ストア的語彙(キケロ・セネカ・エピクテトス)を採用しながら、実質的にはアリストテレス的節度(メトリオパテイア)という異なる枠組みでそれを運用する、という複合的構え——と正確に鏡像をなす。キケロがストア的一元論をプラトン的二元論の枠組みで読み替えたように、ピネルはストア的語彙をアリストテレス的節度の枠組みで読み替えている。両者とも、語彙・機構は継承しつつ、それを支える存在論・目的論だけを取り替えるという同型の操作を行っており、この操作それ自体が、情念を論じる哲学的言説の歴史に繰り返し現れる型なのかもしれない。
〔接続覚え書き——ガレノスの矛盾とピネルの理論的困難〕ピジョー(Jackie Pigeaud, La maladie de l’âme, 1981)は第Ⅰ章第一部の結びで、ガレノス『魂の習わしは身体の気質の帰結であること』を検討したのち、みずから「故意にピネルの術語を用いる」と明言して médico-philosophique の語を導入し〔頁 58〕、続けてダランベールの評言——ガレノスは道徳感情の生得性を認めながら「説明しがたい矛盾によって」魂の変化がほぼ常に身体の変化に従うことの証拠を積み上げる——を引いたうえで、次のように断じる:「そしてまさにこれが、結論で述べるとおり、ピネルの『精神疾患についての医学=哲学論』における立場の理論的困難をなすことになる」〔頁 67〕。すなわちピジョーの見立てでは、身体決定論(気質が魂の能力を規定する)と道徳感情・理性の普遍性の共存というガレノスの矛盾が、そのままピネルのTraitéにも回帰する。本稿が跡づけた「情念の身体的基盤(2-2)」と「狂人にもなお理性が認められるという臨床的洞察(2-4)」の両立は、まさにこの理論的困難の臨床的表現として読むことができるだろう——ピネルは身体(心窩部の情念)に発する病因論を保持しながら、同時に患者のうちに保たれる理性・反省能力を臨床的に確認しているのであり、この二重性の哲学的系譜は、ガレノスの矛盾からアリストテレス的メトリオパテイアを経由してピネルへ至る、ピジョーが示唆する長い古代的前史のうちに置き直すことができる。詳細は読解ノート(三・その四)〔頁 57–58、67〕を参照。この接続は本稿では覚え書きに留め、主題的な検討は別稿「ピネルの情念論」(準備中)に譲る。
3-3 原則の臨床的実践
§V に続く症例群はこの原則の具体的実践を示す。最も印象的なのは、「極貧への妄想的確信に囚われていたメランコリー患者が、宗教改革期のドイツでカトリシズム護教への熱烈な論争執筆に没頭することで完全に回復した」という事例であり、新たに生じた宗教的情念が病的な経済的恐怖という情念を拮抗・凌駕したものである。
また§IV の「道徳的原因によるメランコリーの治療試論」には、革命期の処刑恐怖に囚われた職人に対して医師たちが「立法議会委員会の審問」を演じ「無罪宣告」する演劇的治療が記述される。これは情念(恐怖)を情念(権威への安堵・公的名誉の回復)によって拮抗させる原則の、最も極端な実践形態である。
〔接続覚え書き——カエリウスの「アロパティー」と、その限定〕ピネルのこの拮抗原則には、驚くほど精確な古代的先蹤と、同じくらい示唆的な限定の両方が、カエリウス・アウレリアヌス『急性病』のマニー治療論に見出される。カエリウスは演劇による治療を論じ、悲嘆する患者には道化芝居を、逆に浮かれすぎた患者には悲劇を見せるべきだと説く——「ある種の対立性によってアリエナシオンの質を矯正し、魂の状態もまた健康の中庸を認めるようにすべきである」。ピジョーはこの原理をアロパティー(対症療法)と呼び、アリストテレスのカタルシス(恐怖と憐れみを経験することでそれ自体が浄化されるホメオパティー的機制)に意図的に対立するものと位置づける。この構造は、本稿が跡づけるピネルの§V「情念を破壊するのではなく拮抗させる」原則——上記の宗教的情念による経済的恐怖の凌駕、演劇的治療による恐怖の安堵——と驚くほど重なる。
ただしカエリウスは同じ論考の直後で、気分の対極による矯正(アロパティー、彼が認める型)と、特定の情念そのものを別の情念に置き換える治療(彼が明確に拒否する型)とを区別してもいる。恋の病を別の恋あるいは近縁の激情で治そうとする発想を、彼はメデイアの物語を想起しつつ「愚かな考え」として斥ける——治したい病そのものを処方するに等しいからである。ピネルの§V実例(宗教的情念による経済的恐怖の凌駕、演劇的恐怖安堵)がこの二類型のいずれに近いかは、なお検討を要する論点として書き留めておく。詳細は読解ノート(四・その四)第七節・第一〇節を参照。
第四節 エスキロールの 1805 年学位論文——三重構造の定式化
4-1 論文の位置づけと継承
1805 年 12 月 28 日、エスキロールはピネルの立ち会いのもとで医学博士論文 Des passions considérées comme causes, symptômes et moyens curatifs de l’aliénation mentale を公開試問した[10]。この学位論文は、ピネルにおいて分散していた情念論の諸側面を初めて「原因・症状・治療手段」という三重構造に体系化したものであり、ピネルの臨床的観察を学位論文という形式のうちに正面の主題として確立した著作である。
ポステルは「正常な情念と病的な過剰との間の連続性は、エスキロールの著作を通して一貫していた」と述べ、また「早くも 1805 年には、狂気の原因・症状・治療手段としての情念に論文を捧げており」と評する。アリストテレス的 metriopatheia の枠組み——情念を否定するのではなく、その病的過剰を均衡に戻す——がピネルからエスキロールへと引き継がれたことがここに示されている。
〔接続覚え書き——幻覚と錯覚の区別、その古代的先蹤〕エスキロールが精神医学史に残したもう一つの主要な貢献は、hallucination(幻覚)と illusion(錯覚)の理論的区別の確立である——幻覚は対象なき知覚(脳内ですべてが起こり、記憶が感覚の介入なしに再生するイメージに現勢性を与える)、錯覚は実在対象の悪しき知覚、という区別である。ピジョーが跡づけるところでは、この区別の実質は既に古代医学のうちに存在した。ビテュニアのアスクレピアデスは、フレニティスを光のもとで治療すべきだとする自説(精神のみから生まれる誤った表象を、感覚がもたらす真の表象で打ち負かす)を唱えたが、これにカエリウス・アウレリアヌス(あるいはソラノス)が反論する——「患者にとって物事が見えている通りとは異なる、と言っても無駄である。ある者たちにあっては、イメージは実際に現実的であり、そこから彼らの精神の誤りが生まれるのだから」。セムレーニュはこの論争のうちに幻覚と錯覚の区別を見出し、ピジョー自身「時代を超えて、この区分をエスキロールの区分に近づけることができるだろう——類似性は驚くべきものである」と明言している。この区別はさらにアレタイオスにおいて、フレニティスとマニーを鑑別する基準(幻覚=フレニティスの徴候、錯覚=マニーの徴候)にまで洗練される。詳細は読解ノート(四・その三)第三節・第四節を参照。
4-2 三重構造の内容
(a)原因(causes)として——情念はどのようにして精神疾患を引き起こすか。ピネルの序論の病理的連鎖(深い悲嘆→メランコリー→マニー爆発)が体系化され、外的事件(恋愛的失望・政治的恐怖・宗教的熱狂)と内的素因との相互作用として論じられる。
(b)症状(symptômes)として——精神疾患の症状は情念の病的変容として記述できる。ピネルの§142 の臨床記述(恋愛的固着の妄想化等)を継承しながら、より体系的な症候論を展開する。
(c)治療手段(moyens curatifs)として——情念は病因であると同時に治療的道具でもある。ピネルの§V の原則(「情念を拮抗させる」)がここに直結し、感情的衝撃(secousse morale)による治療として展開される。
このようにエスキロールの 1805 年学位論文は、ピネルが Traité 序論部および §142、§V において臨床実践のなかに織り込む形で展開していた情念をめぐる観察——情念が病をもたらす連鎖(「深い悲嘆→メランコリー→マニーの爆発」)、情念が症状として現れる事例(§142 の不幸な恋の妄想化)、情念を治療に用いる原則(§V の拮抗の技法)——を、学位論文という形式のもとに「情念」を中心主題として独立に取り上げ、表題の三項に対応する体系的構成のもとに整理したものである。論文の本文では、情念の種類(恋愛・名誉・宗教的熱狂・恐怖・嫉妬・悲嘆等)に応じた症例の臨床記述が展開され、革命期の政治的恐怖による aliénation mentale をはじめとする時代的事例も収められている。
ピネルからの発展という観点で見れば、エスキロールの貢献の核心は、情念が Traité においては臨床実践のなかに暗黙のうちに織り込まれていたのに対して、学位論文においてそれを精神医学の学的言説の正面の主題として明示的に確立した点にある。情念は、ピネルにおいては臨床家の知的装備および治療技法の一部として作動していたが、エスキロールにおいては精神医学が公的に取り扱う独立した分析対象として登録された。後の 1819–1820 年頃のリペマニー創出(次節)は、この主題化の流れのなかで、「悲しい情念」が一つの独立した疾病単位として切り出される操作として位置づけられる。
4-3 リペマニーへの布石
エスキロールが 1819–1820 年頃に創出した「リペマニー(lypémanie)」概念は、「悲しい情念」を独立した疾病単位として切り出す操作である。ポステルが指摘するように、これにより「気分障害は最終的に判断障害から切り離され」、現代精神医学が「うつ病」と呼ぶカテゴリーの萌芽が形成された。ピネルが 1785 年にディドの「感情の高まりと葛藤」に見出した情念の病理的可能性が、独立した疾病単位として制度化された帰結である。
〔接続覚え書き——エスキロールのリペマニー定義とその古代的反響〕ピジョーは「エスキロールのリペマニー」と題する一節で、エスキロールの定義を次のように要約する——「脳の病であり、部分的・慢性の譫妄によって特徴づけられ、無熱で、悲しく衰弱させる、あるいは抑圧的な情念によって維持される」。あらゆるモノマニーと同様これは「感受性の病」であり、エスキロール自身「その研究は情念の認識と不可分である;それは人間の心臓にその座をもつ」と書く。エスキロールはさらに、情念の座が「心臓に、フレニックな中枢に、太陽神経叢に、内臓神経に、神経節に、脳にあろうとも」情念が有機的生の機能と悟性に強力な影響を及ぼすことは常に真である、と座の多元性を列挙する。ピジョーはこの座の列挙を、五世紀の医師カエリウス・アウレリアヌスがフレニティスの座をめぐって古い学説群を並べた一節——「ある者は座を脳と言い、ある者はその下部、ある者は大動脈、ある者は太い静脈、ある者は横隔膜と言う……各人は魂の統治の座と考えるところに座を置いたにすぎない」——に「想起させずにおかない」と明記する。すなわちエスキロールのリペマニー定義そのものが、二千年来の座の論争(読解ノート三・その一で見たフレネス/カルディア/ヘーゲモニコンの論争)の直系の子孫であることを、ピジョーは示している。
さらにピジョーは、本書後段のキケロー『トゥスクルム荘対談集』論の章を予告しつつ、次のように記す——「キケロー、セネカ、プルタルコスを読み返しつつ、ピネルは、その結論の一つ、すなわち情念が狂気の起源にあるがゆえに、責任と病がおそらく危険な仕方で結びついているという結論を、際立たせた」。この一句は、情念の病因論化が招く自由意志と道徳的責任の哲学的困難——本稿が扱う主題の核心——を、ピジョー自身が別の章で正面から論じることを予告するものである。詳細は読解ノート(四・その六)第五節を参照。
〔覚え書き〕エスキロール 1805 年学位論文原本(an XIV, N.º 574——注[10]参照)の通読・照合に基づく本節の増補——献辞・試問記録の詳細、論文構成の再記述(三部編成ではなく連続的論述と Obs. の交錯)、頁 9・17・21・31・78–79・82・85 の鍵引用、頁 23–24 の恋愛マニー症例(« elle voit partout son idole »)とピネル §142 との師弟連続、および頁 86 のドリール『憐憫の詩』引用——は、本稿の射程を超えるため、別稿「ピネルの情念論」(準備中)で扱う。本稿では、注[10]に記した標題紙・審査員頁・献辞頁の直接確認の範囲に記述をとどめる。
結語
ピネルが 1785 年に弟に宛てた書簡でヴェルギリウスのディドの「感情の高まりと心の葛藤」を精緻に分析したとき、それはまだ医師としての認知も定まらない時期のことであった。しかしこの文学的直観は、その後の臨床的方法と一本の線でつながっている。
義務・誓い・情念の三重の葛藤によって「宙吊り(suspensa)」とされたディドの状況は、ピネルが Traité で描く「深い悲嘆→習慣化したメランコリー→マニーの爆発」という病理的連鎖と構造的に対応する。医師は「不幸な恋の狂乱(le délire d’un amour malheureux)によって名高い人々の生涯を研究しなければならない」というピネルの方法論的命題は、古典文学への深い共感を医師の知的装備として正当化するものであった。
ピネルの情念への対処は、ストア的な情念の根絶(apatheia)ではなく、アリストテレス的な節度(metriopatheia)の立場に収斂する。「情念を破壊するのではなく拮抗させよ」という原則は、スウェインが「狂人の主体(le sujet de la folie)」と呼ぶ認識——aliéné は理性の痕跡を保つ苦しむ主体であり、ゆえに道徳療法の働きかけに応答しうる——と不可分に結びついている。そして、ピネルが精緻に観察した、発作期にあっても長期間理性が完全に保たれている症例群は、精神疾患を「理性の全面的崩壊」へと一元化する把握を退け、より複合的・経験的な臨床観察への扉を開くものであった。狂人にもなお理性が認められるというこのピネルの臨床的洞察は、近代精神医学史における画期的な契機をなす。
エスキロールはこの遺産を 1805 年の学位論文において「情念を原因・症状・治療手段として」考察する三重構造のもとに体系化し、情念を精神医学の学的言説の主題として明示的に確立した。さらに 1819–1820 年頃にリペマニー概念を創出し、ピネルの病理的連鎖の起点に位置する「悲しい情念」を独立した疾病単位として精神医学の分類体系に登録した。
エスキロールのリペマニーは、ファルレ(Jean-Pierre Falret, 1794–1870)の「循環性精神病(folie circulaire、1851 年)」——躁状態と憂鬱状態の交替を一つの疾病経過として把握する概念——を経て、クレペリン(Emil Kraepelin, 1856–1926)が教科書『精神医学』第 6 版(1899 年)において単一の疾病単位として確立した「躁鬱病(manisch-depressives Irresein)」へと結実する。ピネルが 1785 年にディドの情念を精緻に分析し、Traité で「深い悲嘆→習慣化したメランコリー→マニーの爆発」を一つの病理的連鎖として記述したとき、彼が直感していた情念の臨床的形象は、約一世紀を経て、近代精神医学の中核的疾病単位として制度的に登録されることになったのである。本論文がたどってきた、ピネルによる情念の精神医学への明確な導入から始まる系譜は、このクレペリン第 6 版の躁鬱病をもって、近代精神医学の制度的編成のうちに座を占めることになる。もっとも、この一世紀の系譜は回顧的に構成された見取り図であって、直線的継承ではない——リペマニーから循環性精神病への移行は単純な発展ではなく、ファルレとバイヤルジェ(folie à double forme、1854 年)の先取権論争をはじめ、各結節点はそれ自体が独立の概念史的検討を要する[11]。
そして、この情念の臨床化と並んで、ピネルが Traité で示した「狂人にもなお理性が認められる」という臨床的洞察——精神疾患を理性の全面的崩壊と見なす当時の通説への決定的反証——もまた、近代精神医学史における画期的な契機をなす事象である。情念の臨床化と「狂人の主体」の発見というこの二つの寄与は、ピネルが古典文学への深い共感と臨床経験との交差点において獲得したものであり、その遠い起点に、彼が 1785 年に弟ピエールに宛てた書簡で精緻に分析した、ヴェルギリウスの叙事詩におけるカルタゴ女王ディドの情念があったのである——詩人に狂乱(furens)と呼ばれながら、「私は生きた。運命が与えた行路を、私は走り終えた」とみずからの生涯を総括する明晰さを、最期まで保ち続けた女王の形象である。
Notes
注
[1]ディドの状況の詳細については、ヴェルギリウス著、J. W. Mackail 訳、
The Aeneid(Macmillan, 1885 / Project Gutenberg 版)第 1 巻・第 4 巻を参照。ディドがシカイウスの死後に貞節を誓った経緯は第 4 巻 15–29 行、洞窟の逢瀬は第 4 巻 165–172 行、アエネアスの出発とディドの自死は第 4 巻 281–705 行に記述される。
pietas(義務・敬虔)がアエネアスを情念から使命へと引き戻す構造については本論文シリーズの v1・v2 を参照のこと。第 4 巻全体の場面ごとの詳細な訳出と儀礼的細部の分析については、姉妹論文「
建国叙事詩と口承の記憶——『アエネーイス』と『古事記』」第四章を参照。本文批判の底本としては Mynors 校訂の OCT 版(R. A. B. Mynors ed.,
P. Vergili Maronis Opera, Oxford, 1969)を、第 4 巻の注釈としては Austin(R. G. Austin,
P. Vergili Maronis Aeneidos liber quartus, Oxford, 1955)および Pease(A. S. Pease,
Publi Vergili Maronis Aeneidos liber quartus, Cambridge, Mass., 1935)を参照した。第 4 巻 9 行
insomnia の語義(夢か不眠か)をめぐる古注以来の争点については本文 1-2 の〔文献学的補注〕を見よ。邦訳には泉井久之助訳(岩波文庫)、岡道男・高橋宏幸訳(西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2001)がある。
(引用箇所:第 1 節 1-1、第 2 節 2-3、2-4、結語)
〔文献学的補注——ディドの死と「火」をめぐる通俗的誤解について〕ディドの最期は、通俗的な再話や後代の図像において「燃え上がる薪の上での死」「点火された火葬の炎のなかでの死」として語られることが少なくない。しかし第 4 巻に薪への点火の場面は存在しない。巻は、イリスが金色の髪の一房を断ち「すべての熱が消え去り、生命は風のなかへ退いた(omnis et una / dilapsus calor atque in ventos vita recessit)」(704–705 行)と歌うところで閉じられ、点火は舞台の外に置かれる。読者が火を知るのは第 5 巻冒頭においてであり、船出したトロイア人たちは「不幸なエリッサの火葬の炎に輝く」城壁(moenia respiciens, quae iam infelicis Elissae / conlucent flammis)を沖から振り返り望むが、「いかなる理由がかくも大きな火を点じたのかは知られぬまま(quae tantum accenderit ignem / causa latet)」と詩人自身が明記する(第 5 巻 1–7 行)。この誤解の淵源としては、少なくとも三つの層が考えられる。第一に、第 4 巻を貫く火の隠喩系列である——「見えない火に蝕まれる(caeco carpitur igni)」恋(2 行)、「燃える不幸なディド(uritur infelix Dido)」(68 行)。薪上の死はこの隠喩系列の帰結として文学的に「ふさわしい」構図をなしており、隠喩の火が読者の記憶のなかで現実の点火にすり替わりやすい下地が、詩そのものの内部にある。第二に、ディド自身が最後の言葉で「非情なダルダニア人は沖からこの火を眼に飲み込むがよい(hauriat hunc oculis ignem crudelis ab alto / Dardanus)」(661–662 行)と、火が海上から見られることを自ら遺言しており、これが第 5 巻冒頭の望見と呼応する。点火そのものを一度も舞台に載せず、火を海上からの視線のうちにのみ置くというこの周到な詩法が、かえって「振り返れば火が見えた、ゆえに第 4 巻で火が放たれたはずだ」という遡及的誤読を誘発するのである。第三に、ヴェルギリウス以前のエリッサ(ディド)伝承との混同である。旧伝承では、女王はアフリカの王イアルバスとの再婚を強いられ、これを逃れるために死を選ぶ——ユスティヌス(トログス抄録)第 18 巻 6 章は「祭儀ののち、みずから剣で命を絶った(sacris factis se ipsa ferro occidit)」と伝え(本稿使用のラテン語校訂本の第 4 巻注に引かれる形で確認した。ユスティヌス原典は未照合)、他方セルウィウスの要約に代表される系統では、彼女は亡夫の霊を鎮めるためと偽って築かせた薪の火に身を投じたとされる(孫引き・原典未照合。より古くはティマイオス断片に遡るとされる)。すなわち旧伝承には「火に死ぬ女王」の記憶が確かに存在し、ヴェルギリウスはこの伝承の薪を受け継ぎながら死の手段を剣に定め、火を舞台外へ退けた。後代の再話・図像が旧伝承の焼身とヴェルギリウス版の剣死とを混同し続けてきたことが、二次文献に見られる誤りの一因と考えられる。なお剣による死の場面そのものも、独白の完結後ではなく「その言葉半ばで(media inter talia)」剣に伏して崩れ落ちる(663–664 行)のであり、傷は「胸の下に深く刺さって軋む(infixum stridit sub pectore vulnus)」(689 行)と歌われる。本補注のラテン語引用はすべて注[1]記載の底本により照合した。
〔補注——ディドの心理描写の系譜について:臨床医の視点からの覚え書き〕筆者は古典文献学の門外漢であり、以下の記述はギリシア語・ラテン語原典の独自の検討ではなく、注[12]に掲げる定評ある研究文献および邦訳に依拠した整理である。目的は文学史的考証それ自体ではない。ピネルが情念理解の範例としたディドの描写が、臨床家の眼にどのような構造を示すか、そしてその構造が文学史のどこから来たのかを、本論の理解に必要な限度で素描することにある。
(一)経過としての第 4 巻。臨床家として第 4 巻を読むとき最も強い印象を受けるのは、個々の場面の巧みさ以上に、巻全体が一つの「経過」として構成されている点である。すなわち——(i)発症:「血管のうちに傷を養い、見えざる火に蝕まれる(vulnus alit venis et caeco carpitur igni)」(1–2 行)という、病理の語彙による開幕。(ii)睡眠の障害:女王の最初の言葉が夢への訴えであり(9 行、本文 1-1・1-2 参照)、詩人は彼女を male sana(正気ならぬ者、8 行)と呼ぶ。(iii)社会的機能の低下:建設中の塔は建ちやまり、若者の訓練は止む(86–89 行)——今日の臨床家が必ず確認する機能水準の指標が、はやくもここに書き込まれている。(iv)遺棄後の前駆徴候の集積(450–473 行):供物の酒が黒い血に変わるのを彼女だけが見て「誰にも、妹にすら語らない(non ipsi effata sorori)」(456 行)という幻視様体験の秘匿、夜ごと祠から聞こえる亡夫シカイウスの呼ぶ声(457–461 行)、そして夢——猛きアエネアスに追われ、つねに独り置き去りにされ、供もなく果てしない道をゆき、人なき地に自らの民を探す(465–468 行)。遺棄・孤絶・果てなき探索というこの夢内容は、覚醒時の心的状況の直截な変形である。(v)決意と偽装(474–477 行、本文 2-4 参照):死を決意した彼女は独りで時と方法を思案し、企てを面に隠して額に希望の晴朗を装い、最も近しい妹をも欺く。(vi)不眠の夜と選択肢の閉塞(522–553 行):全自然が眠るなかで彼女だけが目覚め、「さあ、どうする(en, quid ago?)」(534 行)に始まる独白が始まる。この独白はまず、不眠と反芻と情動の氾濫(ingeminant curae... magnoque irarum fluctuat aestu、531–532 行)のただなかに置かれ、その枠のうちで、かつて退けた求婚者への帰参、トロイア船への随行、艦隊を挙げての追撃という選択肢が、吟味される前からすでに屈辱と拒絶の語彙——inrisa(嘲られた身で)・supplex(哀願者として)・invisam(憎まれ者として)——によって色づけられたまま、一つずつ棄却されてゆく。一人の男の離反は「ラオメドンの民の背信」へと拡大され(541–542 行)、彼女自身は perdita(すでに失われた者、541 行)と烙印される。しかもこの喪失は認知の歪みにとどまらない。彼女は恋に落ちる以前、pudor(貞恥)を擬人化した神格に、これを犯すくらいなら死んだほうがましだとすでに誓っており(26–27 行)、その誓いはアンナの説得によって解かれ(solvitque pudorem、55 行)、遺棄の後には統治者としての正統性の喪失として彼女自身の口から名指される——「お前のせいで貞恥は消え、私が星々に至る唯一の道であった名声も〔消えた〕」(exstinctus pudor... fama prior、320–323 行)。この私的な罪責と公的な失墜という不可逆の二重の喪失が、独白の帰結を用意する——「いっそ死ね、お前がそれに値するとおりに。そして剣によって苦痛を断ち切れ(quin morere, ut merita es, ferroque averte dolorem)」(547 行)。死はここで、罪責判断の帰結と苦痛からの唯一の出口という二重の規定を、一句のうちに担わされている。なお528 行 lenibant curas et corda oblita laborum は主要写本 M・P に欠く疑義行であり、引用にあたっては角括弧に付す。534 行の quid ago? は第 12 巻 637 行のトゥルヌスの自問と正確に呼応し、ヴェルギリウスにおける「出口の見えぬ自己審問」の定型をなす。(vii)遂行直前の身体徴候(642–646 行):決意から実行までのあいだ、危機は身体そのものに刻まれる——「その企ての恐ろしさに怯え、猛りたつディドは、血走った眼を回らし、震える頬には斑らの染みが差し、来たるべき死に蒼ざめて」薪の山へ登り剣を抜く。trepida(怯えおののく)と furibunda(狂乱の)が同じ数行に同居する点に、独白を貫いてきた愛惜と憤怒・恐怖と決意の同時進行が、実行直前の身体において反復されている様が見て取れる。(viii)最期まで続く両価性(651 行):それでも決意はこの段階でなお完結した確信としては現れない。剣を眼にした彼女の第一声は「甘き形見よ、運命と神とが許すかぎりは(dulces exuviae, dum fata deusque sinebat)」という愛惜の言葉であり、呪詛(590–629 行)と愛惜は最後まで分離しない。実行の瞬間に至るまで両価性が持続するというこの所見は、決意成立後の見かけの平静、最近親者への秘匿、選択肢の進行性の閉塞という徴候群とあわせ、現代の自殺リスク評価において最も重視される所見と構造的に響き合う(リンゲルのいう自殺前症候群、とりわけ「狭窄 Einengung」概念との類比。ただしこれはあくまで構造的類比にとどめるべきであり、二千年前のテクストへの診断的読解は時代錯誤に陥る。注[12])。〔v31 追加〕この慎重さは、ピジョーがルクレティウス『事物の本性について』第3巻末尾の「自己から逃げようとして家を出ては戻る」大詩句(1053–1075行)を論じる際に示す態度と正確に一致する——一部の研究者(ペレッリ、ログレ)がこの記述を作者本人への「メランコリー」「間歇性精神病」の遡及的診断(レトロディアグノシス)に転用したのに対し、ピジョーは「この転移は説得的とは思えない」と明確に留保し、「テクストが記述する症候」と「作者の伝記的診断」とを峻別する(読解ノート五・その五、頁205–207)。詩に描かれた病の自然誌を精確に読み取ることと、詩人自身を診断することとは別の営みである、という同じ一線を、本補注もルクレティウス論も守っている。ピネルが第 4 巻に見たものを本論の言葉で言い直せばこうなる——そこにあるのは修辞的な情念の目録ではなく、発症から遂行までを一つの弧として追う情念の自然誌(histoire naturelle)、すなわち一篇の縦断的病誌である。
(二)系譜——先行例は存在する。ただしこの描写は無からの創造ではない。ホメロスにおいて心的過程はなお外在的である——スネルの古典的テーゼによれば、ホメロスの人間は統一的な内面をもたず、心的過程は複数の準器官(テューモス等)と神々の介入によって代行される(このテーゼ自体は今日ウィリアムズらにより相対化されているが、自死に至る内面の縦断的描写がホメロスに存在しないことは動かない。注[12])。恋の身体症状の目録という形式はサッフォー断片 31 に始まる——舌は砕け、皮膚の下を細い火が走り、目は見えず、耳は鳴り、冷汗、戦慄、「死にほとんど欠けるところがない」——古代の批評家(偽ロンギノス『崇高について』第 10 章)自身が、この断片を症状の選択と結合の的確さにおいて賞賛しており、いわば準症候学的な読みは古代にすでに存在した。決定的な内面化の一歩はギリシア悲劇にある。ソポクレス『アイアース』では、和解を装って周囲を安心させる「欺瞞の演説」ののち、主人公は独り、敵ヘクトルから贈られた剣に伏して死ぬ——「敵の贈り物は贈り物にあらず」(665 行。行数は二次文献に拠る)。ディドがアエネアスから贈られた剣——「このような用途のために求めた贈り物ではなかった」(第 4 巻 647 行、本文 1-1 参照)——で死ぬことは、この場面の意識的な反響と解するのが通説であり、決意後の偽装というモチーフも同断である。エウリピデスにおいて『ヒッポリュトス』のパイドラは、ディドの構造的先駆として最も近い——許されぬ恋が一貫して「病(nosos)」の語彙で語られ、拒食と衰弱、秘匿、乳母という腹心(アンナの原型的位置)、恥による死の決意、そして自死。また『メデイア』の大独白を閉じる「わが激情(thymos)はわが思案より強い」(1079 行)は、理性と情念の相克の古典的座標となり、後述のとおり哲学・医学へ流入する。〔v27 追加〕同じ回路に連なるもう一つの証言として、『オレステス』でメネラオスが「そなたを苛む病とは何か」と問い、オレステスが「シュネシス(良心・共知)——おぞましいことをなしたと自ら知るその共知だ」と答える一節がある——ここでも「病」と呼ばれるのは、外的な狂乱ではなく自己の行為を知る意識そのものである。ピジョー『魂の病』は、まさにこの一節を、医師と悲劇詩人が「特定の生理学的擾乱の形成における魂と身体の出会い」を等しく捉えようとした証言として引く。ヘレニズム期にはアポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』第 3 巻が、恋するメデイアの不眠の夜——全世界が眠るなか彼女だけが目覚めている——を描き、さらに彼女が毒薬の小筥を取り出して自死を思案し逡巡する場面を叙事詩に持ち込んだ。第 4 巻の不眠の夜(522 行以下)の点景がこれを直接の型とすることは注釈の定説であり、セルウィウスは第 4 巻全体がアポロニオス第 3 巻の移し替えであるとまで述べている(孫引き・原典未照合)。ローマの直前世代では、カトゥルス第 64 歌のアリアドネ(遺棄された女の長広舌)、第 76 歌の「恋=病(morbus)」、そしてルクレティウス『事物の本性について』第 4 巻末尾の、恋を潰瘍として解剖する冷徹な記述——「潰瘍は養えば命を得て古傷と化す(ulcus enim vivescit et inveterascit alendo、4.1068 行)」。第 4 巻冒頭の「傷を養う(vulnus alit)」がこのルクレティウスの語法を承けることは、注釈文献の指摘するところである。
(三)飛躍の正体と、ピネルへの回路。素材のほぼすべてに先行例がある以上、ヴェルギリウスの新しさは総合と方法にある。第一に主観的文体——オーティスが "subjective style" と名づけた技法により、語り手は女王の内側から世界を提示し、読者は情念を外から観察するのではなく内から生きることになる(アウグスティヌスが『告白』第 1 巻 13 章で「ディドの死に涙した」少年時代を悔いているのは、この技法の効力についての千年紀を隔てた証言である)。第二に経過の全体性——エウリピデスは危機の断面を、アポロニオスは発症の場面を描いたが、発症から遂行までの全経過を一巻の弧として構成したのはヴェルギリウスのみである。観察と経過記述を医学の基礎に据えようとしたピネルにとって第 4 巻が範例たりえた理由は、まさにここにあると筆者は考える。第三に二重の動因の透明性——神々の機構(エロスの矢、ユノーとウェヌスの策謀)は保持されつつ、心理過程はそれ自体で自足的に読める。だからこそ後代の医学的読者は、神々を括弧に入れて症例だけを取り出すことができた。実際、医学の側にも並行する伝統があった。〔v33 追加〕そもそもヴェルギリウス自身が、医学的病因論と正面から切り結ぶ詩人であった。ピジョー『魂の病』は、伝染をめぐる古代の権威の系譜(トゥキュディデス→ルクレティウス→ウェルギリウス→ガレノス→プルタルコス)のうちに『農耕詩』第 3 巻のノリクム家畜疫の記述(440 行以下、とりわけ 526 行以下)を位置づけ、酒も馳走も知らず澄んだ泉の水を飲み心労なく眠る家畜たちが例外なく斃れるという細部の列挙を、regime・飲酒・心理条件によって病を説明する当代の医学的病因論(ガレノスが代表する型)への意識的な反駁——トゥキュディデスの「いかなる体質も摂生も病を防がなかった」への忠実——として読んでいる(同書頁 215–216。読解ノート五・その六参照)。医学説を装飾として引くのではなく、それと論争しうる精度で運用するこの構えは、第 4 巻の恋の病誌にピネルが見出した観察の厳密さと同じ資質の、疫学の側での現れである。エラシストラトスが王子アンティオコスの恋煩いを脈拍から診断したという逸話(プルタルコス『デメトリオス伝』第 38 章。孫引き・原典未照合)以来、恋愛は医学的対象でありつづけ、近世の恋愛メランコリー論(フェラン 1623 年、バートン『メランコリーの解剖』1621 年——バートンが第 3 部(恋愛メランコリー部門)第 2 章でディドの自死を恋愛メランコリーの帰結の例証に引くことは二次文献で確認したが、原典未照合)に至る。他方、哲学の側では、エウリピデスの当該句をクリュシッポスが情念論の中心テクストとして引用し、ガレノスがこれを詳細に論じ、キケロ『トゥスクルム荘対談集』第 3–4 巻が情念(perturbationes animi)を「魂の病」とし哲学を「魂の医術(medicina animi)」とする定式を確立した——この回路が近世の情念(passions)概念を経てピネルに流下する本流であり、ピネルが『疾病分類学』でキケロ・セネカ・エピクテトスを挙げること(本文 3-2)は、その末端の徴表にほかならない。ディドは、ピネルが手に取るはるか以前から、この医学=哲学=文学の合流点に立つ範例だったのである。ピネルと古代のこの連続を正面から論じた研究として、ピジョー(Jacques Pigeaud)の二著がある(注[12])。なお、本補注のラテン語引用のうち本文および〔文献学的補注〕と重複しない箇所は、注釈文献の掲げる流布本文に拠っており、Mynors 版との逐語対校は行っていない。ギリシア語引用はすべて二次文献経由である。
〔接続覚え書き——第 4 巻を離れた、もう一つの「医師ウェルギリウス」の証言〕〔v36 追加〕ピジョー『魂の病』第Ⅲ章は、ディードーの第 4 巻とは別の回路から、同じ主題への独立の裏づけを与えている。キケローが『トゥスクルム』第 3 巻で「ギリシア人が furor と呼ぶものをメランコリアと呼ぶ」と述べたことに対し、カエリウス・アウレリアヌスは、キケローの言う「黒胆汁(atra bilis)」が字義通りの体液ではなく「深い怒り」の意であったと注釈しつつ、ウェルギリウスもまた同じ連想を用いていたと指摘する——『アエネーイス』第 8 巻 219–220 行、カクスの牛盗みに怒るヘラクレスのfuriis exarserat atro felle dolor(フーリアエによって黒胆汁のもとに苦痛が燃え立たされた)である。ピジョーはこの箇所を承けて明言する:「キケローと、さらにウェルギリウスまでもが医学的権威となるのは興味深い」(同書頁 260–261。読解ノート六・その二参照)。ディードーの恋の病誌(第 4 巻)に加え、ヘラクレスの狂憤(第 8 巻)でもウェルギリウスは医学=哲学的語彙を精確に運用する詩人として引かれており、しかもこの一節は 18 世紀の医学辞典(カステリ『ギリシア=ラテン医学辞典』insania 項)にまで痕跡を残す。ピネルが第 4 巻に見出した観察の厳密さは、こうして『アエネーイス』全体にわたる古代的評価の、一つの局所的な現れだったことになる。
[2]Sémelaigne, René, Philippe Pinel et son œuvre au point de vue de la médecine mentale, Paris, Imprimeries réunies, 1888, pp.153–155(L’Harmattan 2001 年復刻版あり)。1785 年 4 月 28 日付書簡(標題 « Lettre à son frère Pierre »)は同書巻末の資料篇 pp.153–155 に全文翻刻されており、本稿 v18 において Internet Archive 公開の原本スキャン(archive.org/details/philippepinelet00seme)により原文を直接照合した(照合結果は本文 1-2〔文献学的補注〕参照)。なお同書本文 p.21 には、ピネルがコレージュ・ド・フランスでドリール(Delille)のウェルギリウス講義を聴講していたこと、および本書簡の文脈(弟の習作への添削と助言)が記されており、書簡中の「アベ・ドリールがパリ王立学院で第 4 巻を講じたのを君が聴いていたなら」という一節と符合する(第 4 節のドリール(« le Virgile français »)関連の覚え書き参照)。Postel, Jacques, Genèse de la psychiatrie : les premiers écrits de Philippe Pinel, Le Sycomore, 1981; 2e éd., Les Empêcheurs de penser en rond, 1998。本稿が参照するポステルの記述は Nouvelle Histoire de la Psychiatrie(Postel & Quétel eds., Privat, 1983)所収の「古代とフランス精神医学の始まり」章(日本語翻訳版を使用)による。(引用箇所:第 1 節 1-2、第 4 節 4-3)
[3]Pinel, Philippe,
Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie, Didot Jeune, Paris, 1801(Internet Archive 所蔵スキャン版を使用)。初版と第 2 版(1809 年)との相違については Swain, Gladys,
Le sujet de la folie : naissance de la psychiatrie, Toulouse, Privat, 1977; 2e éd. précédée de « De Pinel à Freud » par Marcel Gauchet, Paris, Calmann-Lévy, 1997, pp.51–75 を参照。本稿はスウェインの立場に従い初版を主テキストとする。なお、初版/第 2 版の相違をめぐる Postel(1971)の発見とスウェインの初版優位論は、本邦では大橋博司が同年の『精神医学』誌巻頭言「ピネルをめぐる『詩と真実』」(13 巻 11 号、1038–1039 頁)で早くに紹介している。
(引用箇所:第 2 節 2-1、2-2、2-4)
〔訳語について〕本文中の概念およびスウェインの主著名 le sujet de la folie について。本紀要ではこの句を原則として「狂気における主体」と訳す。直訳の「狂気の主体」は、属格 de の多義ゆえに「狂気という主題を論じる主体」とも「狂気を担う主体」とも読みうるが、スウェインの含意は、狂気の只中にあってなお存続し、まさに主体であるという資格において問題化される主体——le sujet en tant que sujet——にある。「狂気における主体」は、狂気の内部に置かれつつそこで問われる主体という含意を明示するための暫定訳である。もっとも、属格 de la folie はそもそも多様な読みを許す——むしろ強いる——構文であり、〈狂気のただ中にあってなお主体であり続ける者〉を前景化する文脈では、同じ句を「狂人の主体」と訳すこともある。本稿が主として用いる「狂人の主体」はこの解釈訳に当たる。本紀要では恣意に流れぬよう、この二つの訳し方にとどめる。なお folie は「狂気」を意味する抽象名詞であり、「狂人」に正確に対応するのは fou(aliéné, insensé)である。本書には現在のところ邦訳がなく、また筆者の知る限り本邦で広く参照・議論された形跡を見いだせていない。これは筆者の浅学によるものかもしれない。
[4]フーコー批判論文、スウェインの道徳療法論、アンリ・エーとの関係については別稿で詳論した(本紀要 第 I 論文「フーコー『狂気の歴史』への批判——四本の柱と二つの型」参照)。(引用箇所:第 2 節 2-1)
[5]Pinel, Philippe, Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie, Didot Jeune, an IX / 1801,「序論(Introduction)」。本段落に引いた三つの言明の典拠は、情念論の綱領的宣言が印刷頁 xxj、「精神的情動の分析(analyse des affections morales)」の要請が印刷頁 xxxv、怒りとマニーの連続(« en sur-ajoutant seulement l’idée de la durée »)が印刷頁 xxxiv–xxxv。いずれも本紀要研究資料「ピネル『医学的哲学論考』初版(1801)序論 仏和対訳」(Gallica 原本全頁対校)に基づく。(引用箇所:第 2 節 2-2)
[6]ピネルが序論で情念論の典拠として挙げる文献。Smith, Adam, Théorie des sentimens moraux, traduit de l’anglais par Sophie de Grouchy(veuve Condorcet), à laquelle l’auteur a joint huit Lettres sur la sympathie, Paris, an VI(1798)。序論の脚注(印刷頁 xxvij・xxxvj)に拠る。スコットランド道徳哲学の共感(sympathie)論は、クリクトン・古代医師・キケロ=セネカ的教養と並ぶピネルの情念概念の源泉の一つであり、本稿の序における源泉列挙にもこれを加えた。(引用箇所:第 2 節 2-2)
[7]Fouré, Lionel, « Pinel, le La Fontaine de la médecine », PSN(Psychiatrie, Sciences Humaines, Neurosciences), 2013, vol.11, n°2, pp.55–72. métriopatheia については p.67。(引用箇所:第 3 節 3-2)
[8]〔用語について〕μετριοπάθεια という語自体はアリストテレスのコーパスには現れず、ペリパトス派以後に定着した学説誌的術語である。アパテイア(情念の根絶)対メトリオパテイア(情念の節度)という対立図式は、アカデメイア派クラントールの『悲嘆について』(キケロ『トゥスクルム荘対談集』第 3 巻を通じて知られる)、アレクサンドリアのフィロン、プルタルコス『倫理的徳について』等、ヘレニズム=帝政期の文献において結晶した。教説の内容はアリストテレスの中庸(mesotēs)論の情念(pathē)への適用にさかのぼるため、フーレに従い「アリストテレス的」と呼ぶことは許容されるが、術語自体の後代性には留意を要する。なお表記は、フーレの仏語形 métriopatheia を直接引用の内部にとどめ、本紀要の地の文ではギリシア語転写 metriopatheia に統一した。(引用箇所:第 3 節 3-2)
[9]Elias, Éléonore, Les passions au temps de Pinel, les émotions dans les sciences affectives aujourd’hui, thèse de médecine, Université de Lorraine, 2014(HAL-01733753)。ネオ・ストア主義の穏健化については pp.32–36 参照。ピネルの Nosographie philosophique(an VI, 1798)のキケロ・セネカ引用については同書 pp.27–30 参照。(引用箇所:第 3 節 3-2)
[10]Esquirol, Jean-Étienne Dominique, Des passions considérées comme causes, symptômes et moyens curatifs de l’aliénation mentale, thèse de médecine, N.º 574, Paris, Imprimerie de Didot Jeune, an XIV(1805)。標題紙によれば公開試問は共和暦第 14 年ニヴォーズ 7 日(=1805 年 12 月 28 日)、パリ医学校にて。座長 Leroux、試問官 Hallé, Lallement, Lassus, Leclerc, Richard。巻頭に献辞「A Ph. Pinel, Hommage de ma reconnaissance」を掲げる(以上、筆者所蔵のスキャン複写により標題紙・審査員頁・献辞頁を直接確認した)。ファクシミリ再版:Gauchet et Swain(éds.), Paris, Librairie des Deux-Mondes, 1980。本文の全篇にわたる通読・照合とそれに基づく主題的検討は、別稿「ピネルの情念論」(準備中)で扱う。(引用箇所:第 4 節 4-1、4-2)
[11]リペマニー→循環性精神病→躁鬱病という系譜の各結節点、とりわけファルレ「循環性精神病」(1851 年の講義録的発表、1854 年のアカデミー提出論文)とバイヤルジェ「二重形態の狂気(folie à double forme、1854 年)」の先取権論争、およびクレペリン第 6 版(Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studirende und Aerzte, 6. Aufl., Leipzig, 1899)における躁鬱病概念の成立事情については、本紀要別稿「躁鬱混合状態論の系譜」で詳論した。本結語の系譜は、その詳論を前提とした回顧的見取り図である。(引用箇所:結語)
[12]〔補注——ディドの心理描写の系譜〕の参照文献。筆者は古典文献学の専門的訓練を受けておらず、以下はいずれも定評ある研究文献・邦訳への依拠であって、原典の独自の校訂的検討を含まない。ホメロス的心性論:Snell, Bruno,
Die Entdeckung des Geistes, Hamburg, 1946(邦訳:新井靖一訳『精神の発見』創文社、1974——書誌細部は要確認);Dodds, E. R.,
The Greeks and the Irrational, Berkeley, 1951(邦訳:岩田靖夫・水野一訳『ギリシァ人と非理性』みすず書房、1972——書誌細部は要確認)。スネル・テーゼの相対化:Williams, Bernard,
Shame and Necessity, Berkeley, 1993。ヴェルギリウスの主観的文体:Otis, Brooks,
Virgil: A Study in Civilized Poetry, Oxford, 1964;Lyne, R. O. A. M.,
Further Voices in Vergil’s Aeneid, Oxford, 1987。ピネルと古代の医学=哲学的情念論の連続:Pigeaud, Jackie,
La maladie de l’âme : étude sur la relation de l’âme et du corps dans la tradition médico-philosophique antique, Paris, Les Belles Lettres, 1981, 588 p.(1981 年初版の全巻スキャン PDF を架蔵。奥付〔achevé d’imprimer mai 1981〕により刊年・頁数を、標題紙画像により副題の文言を確認済み。本書の章構成および架蔵スキャン PDF との頁対応については、本紀要研究資料「
Pigeaud, La maladie de l’âme(1981)章構成と頁対応」を参照。あわせて、本書を巻頭から章節単位で読み進めるための私家版読解ノート——巻頭部は「
読解ノート(一)Avant-propos」「
読解ノート(二)Introduction」として、第Ⅰ章・第Ⅱ章(『神聖病論』からルクレティウス論まで、全15篇)は
読解ノート統合版(三・その一〜五・その五)として一括参照できる——および「
仏和対照術語集」を参照。なお同書序論は、副題の médico-philosophique の語をピネル『論考』から借用したと明言し〔序 p.15 注 20〕、結論部でのピネル論を予告している——本論の主題との関わりにつき読解ノート(二)第二節・第五節、および読解ノート(三・その四)〔頁 58・67〕を見よ);同,
Aux portes de la psychiatrie : Pinel, l’ancien et le moderne, Paris, Aubier, 2001(古書取り寄せ中・未架蔵につき書誌細部は要確認。本論の主題に直接関わるため、入手を待って通読する)。なお前者の第 III 章(ストア主義と魂の病——キケロ『トゥスクルム荘対談集』第 3–4 巻の分析、メトリオパテイア批判を含む)および第 IV 章(悲劇と魂の病——エウリピデス『メデイア』論を含む)は、本補注(三)の「悲劇→哲学→医学」回路および本文 3-2 の情念論の哲学的位置づけの照合材料である。第 IV 章のうち『メデイア』の徴候カタログ(乳母のプロローグ、頁385–396)については読解ノート七・その二・七・その三で通読を終え、その成果は本文 2-4 直後の〔v44 追加〕照応表に反映した。自殺前症候群:Ringel, Erwin,
Der Selbstmord: Abschluß einer krankhaften psychischen Entwicklung, Wien, 1953。サッフォー断片 31・ソポクレス『アイアース』・エウリピデス『ヒッポリュトス』『メデイア』・アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』・カトゥルス・ルクレティウスへの言及は邦訳および標準的な概説・注釈文献に拠る。エウリピデス『メデイア』1079 行のクリュシッポスによる引用とガレノスの論及は『ヒッポクラテスとプラトンの学説』第 3–4 巻に見えるとされる(孫引き・原典未照合)。
(引用箇所:〔補注——ディドの心理描写の系譜〕)
[13]Pigeaud, Jackie, « La posture mélancolique », Littérature, n°161, 2011/1, pp.51–60(Armand Colin / Cairn.info 所収。DOI: 10.3917/litt.161.0051)。アレタイオスのメランコリー定義(風や黒胆汁によらぬ場合の「熱を伴わぬ意気阻喪」と単一のファンタシアーとの結びつき)およびヒポクラテス『箴言』VI.23 との関係については同論考の pp.56–57 に拠る(Pigeaud はこれを Panofsky, Saturn and Melancholy の議論と対照しつつ提示している)。本稿の紹介は要旨であり、原文(アレタイオス・ギリシア語原典およびヒポクラテス箴言の当該行)そのものの照合は行っておらず、二次文献(ピジョー)経由の紹介である。(引用箇所:第 2 節 2-3)
[14]本稿がデカルト゠スピノザ的な近代哲学史の系譜を辿らず、古代ネオ・ストア(キケロ・セネカ)からアダム・スミスへと至る水脈に限定して論じるという構成上の判断は、恣意的な省略ではなく、Pigeaud, op. cit.〔前掲・注[12]〕結論部の指摘に多くを負う。同書は、ピネルの情念概念の哲学的源泉としてロックやコンディヤックの影響がしばしば考慮される一方で、「キケロー、セネカ、プルタルコスは忘れられてきた(on a oublié Cicéron, Sénèque et Plutarque)」と明記し、精神疾患の起源に情念を見るこの後者の水脈こそが、われわれが自らの狂気の起源において責任を負うというストア的観念をピネルにもたらした決定的な系譜であると論じる(同書頁533–534。読解ノート九・その二第二節参照)。本稿の限定はしたがって、ピジョーが古代研究の側から遡及的に確認した哲学史的な水脈の分岐——デカルト・スピノザに連なる近世合理主義の情念論と、キケロ・セネカに発しピネルへ至るネオ・ストア=医学的伝統との分岐——を、精神医学史の側から追認するものである。(引用箇所:序)