はじめに——本稿の位置と射程
筆者は別稿「フーコー『狂気の歴史』への批判——四本の柱と二つの型」[1]で、フランス語圏において精神医学の側から行われた『狂気の歴史』批判の系譜——アンリ・エーの哲学的反駁、クロード・ケテルの史料実証、スウェインとゴーシェのピネル再評価、そしてロベール・カステルの「否認せざる批判」——を一つのまとまりとして提示した。その改訂の過程で受けた英語による批評において、世界的なフーコー批判の動向、とくに英米の社会史学による批判を視野に入れていないという指摘を受けた。筆者はこれに対して射程を拡げるのではなく限定することを選び、別稿にはその旨を明記した。フランス語圏の批判は臨床精神病理学と制度史の水準で行われており、これを英米の論争と一つの論文に押し込めば、論点が拡散するからである。
しかし英語圏の動向を知らずにいてよいわけではない。筆者はまず、1990 年に History of the Human Sciences 誌上で交わされた論争の主要論文を読むことから始めた。その過程で知ったのが、この論争を一書にまとめた Still と Velody の編著『Rewriting the History of Madness』である[2]。通読してみると、この論文集は英語圏の動向を見るうえで非常に有用であった。批判側と擁護側が同じ土俵で、同じ頁を指しながら争っているために、論点が明確で、しかも英米の歴史学がフーコーの何を受け入れ何を退けたかが一冊のなかで見渡せるのである。そこで筆者は、いつも行っているように、この論文集を紹介し、資料と筆者の考えを付け加えた一篇を別稿として独立させることにした。本稿がそれである。
本稿の目的は三つある。第一に、日本ではほとんど紹介されていないこの論争の内容を、本書全十五章を視野に入れつつ、六章については詳しく、他の章については要約によって示すこと。第二に、各章にまたがる争点を整理し、対立の構図を一望できるようにすること。第三に、この英語圏の論争を別稿で扱ったフランス語圏の批判系譜と並べ、両者の性格の違いを明らかにすることである。第三の点は筆者自身の見方であり、第 V 章に置いた。
あらかじめ本稿の方針と限界を記しておく。本稿の初稿は、本書十五章のうち第 4・5・8・10・13・14 章の六章だけを紹介し、他の章は未読のまま書誌と主題を記すにとどめていた。これに対して、章の選択が筆者の主観による恣意的なものではないか、紹介論文である以上すべての章を扱うべきではないか、という批評を受けた。もっともな指摘であり、本稿(Draft v2)では残る九章を通読したうえで書き改めた。ただし、十五章のすべてを同じ密度で紹介することは、翻訳権の観点からも、紹介論文としての読みやすさの観点からも適当でない。そこで本稿は次の方針をとる。詳しく紹介するのは六章に限る。発端のゴードン第 1 章は、論争の前提として第 II 章に要約する。残る八章(バラム、ボヴェ、ラカプラ、メギル、ピアソン、ピュー、ローズ、エリクソン)は第 III 章 7 節で各一段落に要約し、簡略にとどめた理由——他の章と論点が重なる、論争を史料の水準から別の水準へ移している、論考ではなく書誌である——を章ごとに記す(表 III.2)。六章を選んだ基準は、論争が実際に決着をつけ、あるいはつけ損ねた水準、すなわち史料と歴史学の方法の水準で論じている章を優先するというものである。この基準は本稿の第三の目的から導かれる。フランス語圏の批判系譜のうちケテルの史料実証と対比しうるのは、この水準で行われた論争だからである。基準そのものが筆者の関心によるものである以上、選択が筆者の視点に立つことは否定しない。しかし、何を省き、なぜ省いたかを明示すれば、読者は筆者の選択を検証し、必要なら本書の該当章に自ら当たることができる。
また、各章が引くフーコーの原文の頁数は、著者たちが用いた 1972 年ガリマール版の頁である。筆者はこれらの箇所を本稿執筆にあたって逐一フランス語原典に当たり直してはいない。したがって本稿は、著者たちがフーコーをどう読んだかの紹介であって、その読みの当否を原典によって裁定するものではない。
なお、本稿では別稿と同じく、Henri Ey はアンリ・エー、délire は原語のまま表記する。フランス語の aliéné・aliéniste も原語のままとする。
I 書誌と成立事情
論争の舞台となった History of the Human Sciences は、1988 年に創刊された人間諸科学の歴史と哲学を扱う学際誌である〔創刊年要確認〕。1990 年の第 3 巻 1 号に、当時ロンドンで活動していたフーコー研究者コリン・ゴードン——『権力/知』(Power/Knowledge, 1980)の編者として知られる——の論文が掲載された。表題の「知られざる書物」(an unknown book)が要点を語っている。ゴードンによれば、英語圏の読者が『狂気の歴史』として知っているのは、1961 年のプロン版全文ではなく、フランスで 10/18 叢書として出た縮約版に基づくリチャード・ハワードの英訳『Madness and Civilization』(1965 年)である[4]。縮約版は原著の約半分を削り、とくに古典主義時代の医学と治療をめぐる諸章、および千余の注を落としている。英米の歴史家による否定的評価の多くは、この縮約版を相手にしてなされた。ゴードンの主張は、全文版を読めば、フーコーが史料をどう用い、何を主張し何を主張していないかが分かり、標準的な批判の多くが誤読であることが明らかになる、というものであった。
同誌は同じ号にカステル、ラカプラ、メルキオール、ミデルフォート、ポーター、ラビノウ、スカルの七名の応答を、同年 10 月の第 3 号にバラム、ゴールドスタイン、メギル、ピアソン、ローズの五名の応答とゴードンの再反論を掲載した。本書の執筆者の顔ぶれは多彩である。フランスの社会学者(カステル)、アメリカの歴史家(ゴールドスタイン、ミデルフォート、ラカプラ、メギル)、イギリスの社会史家(ポーター)、イギリス出身でアメリカで活動する社会学者(スカル)、イギリスの社会学者(ローズ、および逸脱の社会学を専門とするピアソン)、精神医療の実践の側に立つ心理学者(バラム)、アメリカの文学理論家(ボヴェ)、『狂気の歴史』の一章の英訳者(ピュー)、そして書誌学者(エリクソン)である〔各人の当時の所属は要確認〕。論争は英語圏の内部にとどまらず、フランスとアメリカの歴史学の水準の違いを写し出すものにもなった。
編者は 1992 年、この一連の論文をゴードンの発端論文を第 1 章として一書に編んだ。その際、スカルは初出の 10 頁余りの応答を大幅に増補し、注のほとんどを新たに書き加えた。ゴードンの再反論も「誤読の歴史を書き直す」(Rewriting the history of misreading)と改題され、加筆されている。したがって本書は、雑誌論争の単なる再録ではなく、批判側と擁護側がそれぞれ 2 年後に論を整え直した第二段階の記録として読むべきものである。表 I.1 に、本書の全十五章と初出の対応、および本稿での扱いを示す。
| 章 | 著者 | 章題 | 初出(History of the Human Sciences, vol. 3, 1990) | 本稿での扱い |
|---|---|---|---|---|
| 1 | Colin Gordon | Histoire de la folie: an unknown book by Michel Foucault | no. 1, pp. 3–26 | 要約(第 II 章) |
| 2 | Peter Barham | Foucault and the psychiatric practitioner | no. 3, pp. 327–331 | 要約(III-7、V-1) |
| 3 | Paul A. Bové | Madness, medicine and the state | 本書で追加〔要確認〕 | 要約(III-7) |
| 4 | Robert Castel | The two readings of Histoire de la folie in France | no. 1, pp. 27–30 | 詳述(III-1) |
| 5 | Jan Goldstein | ‘The lively sensibility of the Frenchman’: some reflections on the place of France in Foucault’s Histoire de la folie | no. 3, pp. 333–341 | 詳述(III-2) |
| 6 | Dominick LaCapra | Foucault, history and madness | no. 1, pp. 31–38 | 要約(III-7) |
| 7 | Allan Megill | Foucault, ambiguity and the rhetoric of historiography | no. 3, pp. 343–361 | 要約(III-7) |
| 8 | H. C. Erik Midelfort | Reading and believing: on the reappraisal of Michel Foucault | no. 1, pp. 41–45(初出題 “Comment on Colin Gordon”) | 詳述(III-3) |
| 9 | Geoffrey Pearson | Misunderstanding Foucault | no. 3, pp. 363–371 | 要約(III-7) |
| 10 | Roy Porter | Foucault’s great confinement | no. 1, pp. 47–54 | 詳述(III-4) |
| 11 | Anthony C. Pugh | Foucault, rhetoric and translation: figures of madness | 本書で追加〔要確認〕 | 要約(III-7) |
| 12 | Nikolas Rose | Of madness itself: Histoire de la folie and the object of psychiatric history | no. 3, pp. 373–380 | 要約(III-7) |
| 13 | Andrew Scull | A failure to communicate? On the reception of Foucault’s Histoire de la folie by Anglo-American historians | no. 1, pp. 57–67(“Michel Foucault’s history of madness”)を大幅に増補 | 詳述(III-5) |
| 14 | Colin Gordon | Rewriting the history of misreading | no. 3, pp. 381–396(“History, madness and other errors: a response”)を改題・加筆 | 詳述(III-6) |
| 15 | Mark Erickson | Michel Foucault’s Madness and Civilization: a selective bibliography with critical notations | 本書で追加(書誌) | 要約(III-7) |
なお、応答者の一人ミデルフォートは、この論争より 10 年前の 1980 年に「初期近代ヨーロッパにおける狂気と文明——ミシェル・フーコーの再評価」を発表しており[5]、英語圏の歴史家によるフーコー批判の出発点となった論文として、本書の各章でくり返し参照されている。また 1982 年から 83 年にかけて、歴史家ローレンス・ストーンが『ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス』でフーコーを批判し、フーコー自身がこれに痛烈な反論を寄せたという経緯がある[6]。この二つが、1990 年の論争の前史をなす。
II 論争の前提——縮約版と全文版
論争の全体を理解するには、『狂気の歴史』の版の来歴を押さえておく必要がある。ゴードンが第 14 章で整理し、スカルとミデルフォートがそれぞれの立場から言及する事実を、ここでまとめておく。
原著『狂気と非理性——古典主義時代における狂気の歴史』(Folie et déraison. Histoire de la folie à l’âge classique)は 1961 年、フィリップ・アリエスの監修する叢書の一冊としてプロン社から刊行された[7]。その後、同じフランス語で、原著を大幅に縮約した版が 10/18 叢書(Union générale d’éditions)から出た[4]。ゴードンによれば、最初の縮約版はこのフランス語版であり、それはプロン社の全文版と並んで流通していた。1965 年、リチャード・ハワードによる英訳『Madness and Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason』がニューヨークのパンテオン社から出るが、これはこの 10/18 版に基づいており、ただしフーコーの求めにより、仏語縮約版で省かれた数節が戻されている[8]。プロン版と 10/18 版がともに絶版になったのち、フーコーは 1972 年、ガリマール社から全文版を再刊し、新しい序文と二篇の附録(一篇はデリダへの応答「わが身体、この紙、この火」)を付した[9]。縮約版はその後二度と再刊されていない。ガリマール社はのちに附録を除く全文版を Tel 叢書に収めた。スペイン語・ドイツ語・イタリア語訳はいずれもほぼ全訳である。英語の全訳『History of Madness』(ジョナサン・マーフィーとジャン・カルファ訳)が現れたのは、論争から 16 年後の 2006 年である[10]。
ゴードンの発端論文(第 1 章)[3]は、この来歴から出発する。ゴードンの数え方では、1972 年版の頁で英訳に含まれるのが 236 頁、省かれたのが 299 頁(附録を除く)、千余の注のうち残されたのは 149、二百点余を挙げた文献表は丸ごと落とされている。削られた分量は『監獄の誕生』一冊分にほぼ等しい。この事実に、仏英の歴史家の受容の落差が対応する。『アナール』誌 1962 年のマンドルー評(ブローデルの付記つき)は本書を歴史学の仕事としても成功とみなしたが、英語圏の主流の歴史家に同程度の評価はなかった。ゴードンはその原因を、翻訳に加えて、1960 年代後半の反精神医学の到来によって受容の気候が一変し、1970 年以後に読んだ歴史家が本書を非専門の読者への影響と結びつけて疑いの目で見るようになったことに求める。そのうえで本章は三つの鍵概念——逸脱、医療化、デカルト的二元論——について、英訳から落ちた部分が何を語っているかを示す。逸脱については、英訳で丸ごと省かれた章「矯正の世界」(Le monde correctionnaire)が、多様な人物を「非理性」の名で均質化した大監禁がのちに単一の逸脱概念を可能にしたと論じており、逸脱者を狂人と再ラベリングする実践と精神疾患概念を相関させる読み(しばしばフーコーに帰される)とは別物であること。医療化については、近代的なのは精神疾患の概念であって狂気の医学ではなく、ピネルとテュークの改革は「狂気の医療化」ではなく「監禁の医療化」、すなわち治療の効力が監禁の実践と人員そのものに投資される制度の発明であること。二元論については、古典主義医学は「デカルト派であれ反デカルト派であれ」形而上学的二元論を人間学に導入しなかったとフーコー自身が述べていること。さらに本章は、ミデルフォートの 1980 年論文[5]の四つの論点(アサイラムは中世スペインの発明、18 世紀の私設狂人院の見落とし、19 世紀以前の狂気の非医学性、ピネルの鎖の解放の神話)を、いずれも英訳に欠けた箇所で明示的に扱われていると反駁し、その論文がセジウィック、ストーン、メルキオールへと無批判に反復された経緯を追う。「気楽な放浪生活」の誤訳の指摘、デリダが引いた 1961 年序文の三部構造(当初の意図、その二重の不可能性の認識、実際の企図)の読み直し、「経験」と権力の概念における後期フーコーとの連続性の主張も、この章に含まれる。結びは、歴史家と哲学者が共通の読者を見出すことは可能であり望ましい、というものである。
ゴードンの発端論文の核心は、したがって次の点にある。英米の歴史家がフーコーを裁いたとき、その手元にあったのは、古典主義時代の医学と治療をめぐる諸章を欠き、千余の注を欠いた縮約版であった。全文版を読めば、フーコーが英仏の違いを論じていること、収容統計に触れていること、悪魔憑きや宗教に言及していることが分かる——ゴードンはそう主張した。応答者たちは、この事実認識そのものにはおおむね同意する。翻訳者ピュー(第 11 章)が出版社に接触して得た情報も、フーコーは縮約版の是正を妨げも促しもせず、単に英米の出版社に完訳の関心がなかったというゴードンの認識を裏づける[37]。争いは、その事実から何が導かれるかをめぐって始まる。全文版を読めば批判は撤回されるべきなのか(ゴードン)、それとも全文版はむしろ欠陥を露わにするのか(スカル)、あるいは翻訳の問題は受容の問題の一部にすぎないのか(カステル、ピアソン)、それともそもそも「正しい読み」に戻すという戦略自体が問題なのか(ピアソン、メギル)。本書の十二の応答は著者名のアルファベット順に並ぶが、この問いへの答えの違いによって読み分けることができる。
III 各章の紹介
以下、本稿が詳しく紹介する六章を、本書の章順に紹介する(第 1–6 節)。各章の論旨をまず一段落で示し、次いで主要な論点を追う。残る八章は第 7 節で要約し、簡略にとどめた理由を章ごとに記す。著者が引くフーコーの頁数は 1972 年ガリマール版のものである。
1 第 4 章 カステル「フランスにおける『狂気の歴史』の二つの読まれ方」
ロベール・カステルはフランスの社会学者で、1976 年の『精神医学的秩序——アリエニスムの黄金時代』[11]によって知られる。筆者は別稿の補論で、この書をフーコーの命題を「既得のものとして引き受け」たうえで史料によって書き直す批判の第二の型として取り上げた[1]。本書に収められた 4 頁の短い応答は、その著者による受容史の証言である。
カステルの論旨は次のとおりである。英語圏の誤読の原因を縮約版に求めるゴードンの主張には全面的に賛成する。ただし、要因はもう一つある。全文版が最初から流通していたフランスでさえ、『狂気の歴史』は時期によってまったく異なる二通りに読まれてきた。1961 年の初版当時と 1968 年以後との知的文脈の違いによるものである[12]。
第一の読解は 1960 年代前半のものである。独創的な思考と華麗な文体にもかかわらず、本書はフランスの科学認識論——ブランシュヴィック、カヴァイエス、バシュラール、カンギレム——の系譜にまっすぐ属するものとして読まれた。問われているのは、ある知の真理要求と、その暗黙の可能性の条件である。カステルはここで、フーコー自身が 1977 年に発表されたインタビュー「真理と権力」で語った動機を引く。理論物理学や有機化学で知と社会構造の関係を問うのは難しすぎる。これに対して「認識論的プロフィールの低い」精神医学なら、制度・経済・政治と結びついているぶん、権力と知の絡み合いが見えやすいのではないか、という動機である[13]。この時期の読者は哲学者と知識人に限られていた。カステル自身も 60 年代半ばには、医学による合理化を括弧に入れ、専門家の解釈から離れて精神医学の理論を組み立てるための「認識論的切断」の道具として本書を読んだという。それは同じ頃に読んだゴフマンの『アサイラム』の読み方と重なるものであった。ニーチェ、ロートレアモン、アルトーに連なる「極限の経験」という哲学的な側面も読まれてはいたが、いずれの側面も実践や政治とは直接つながっていなかった。
第二の読解は 1968 年五月以後のものである。政治的アクティヴィズムと「反抑圧」の感性が広がるなかで、本書の主題は「二重に過剰露出」された。閉じ込めによる隔離は、アサイラムから監獄、工場、学校にいたる、欲望を制限するあらゆる排除に異議を唱えるためのモデルとなった。狂気は、社会適応の拘束から自由な主体性、守るべき「真正さの核」の範例となった。当時「セクター闘争」と呼ばれた運動のなかで精神病院闘争は最優先の標的であり、そこでは理論上の細やかさは顧みられず、抑圧、制度的暴力、恣意的権力、監禁、監視、隔離、排除を告発するためにフーコーが紋切り型に大量引用された。その結果、フーコーの仕事は「自発性のイデオロギー」に立つ制度闘争の隠れ蓑となり、理論分析の厳密さはゆがめられたかもしれない、とカステルは述べる[12]。
しかしカステルは、この二つの読解を真と偽、善と悪の対立とはみない。フーコー自身は闘争的な再利用を一度も否認せず、広い意味での「反精神医学」運動に自ら加わった。二つの読解は、フーコー流の理論と実践の関係で結ばれている。それを定式化したのが「特定知識人」(intellectuel spécifique)の概念である。特定知識人は、厳密さの要求、日和見主義やデマゴギーの拒否といった知識人固有の職業倫理を保ちつつ、普遍の代表者という伝統的な理論的主権の立場は捨て、自分の「特定の資本」を実践目的のために差し出して社会集団と同盟を結ぶ。本書の理論的な核心は、精神医学体系が拠って立つ文化的前提の恣意性を暴き、その代価——狂気の実証主義的な平凡化と狂人の社会的隔離の代価——を測ることにある。したがって、閉じ込めを廃止ないし大きく緩和しようとする実践とは、ほとんど「自然に」同盟できるのである。
カステルの結びは、ゴードンへの提案である。本書を厳密で要求の高い知的構築物として読み、本来の姿に戻すことはできるし、そうすべきである。しかしそれは、切り詰められゆがめられた版も含めて、受容の問題に通時的な注意を払うことを妨げない。ゴードンの共時的な復元に、通時的な受容史を交差させよ、というのである[12]。
筆者はこの短い応答から、別稿の序節を書き直すことになった。筆者は『狂気の歴史』が刊行当初から反精神医学の旗印として扇情的に受け止められたと思い込んでいたが、カステルの証言はそうではないことを示している。フランスでの本書の政治化は、刊行から7、8 年を経た 1968 年以後の現象である。この年代の確認は、エーが 1969 年のトゥールーズ会議でフーコーを取り上げた時点が第二の受容期のただ中にあることを意味し、別稿の四本の柱を年代のなかに置き直す手がかりとなった[1]。
2 第 5 章 ゴールドスタイン「『フランス人の鋭敏な感受性』——『狂気の歴史』におけるフランスの位置についての考察」
ジャン・ゴールドスタインはアメリカの歴史家で、19 世紀フランス精神医学職の成立を扱った『Console and Classify』(1987 年)の著者である[14]。彼女の応答は、応答者のなかで最もゴードンに近く、しかもゴードンより一歩先へ進む。論旨は次のとおりである。『狂気の歴史』の「フランス」は、特定の一国を指すのか、西洋全体を代表する提喩なのか。批判者はこの曖昧さを、ガリア中心主義やずさんさによる誤りとみなしてきた。ゴールドスタインはこれを意図的な修辞戦略として読む。「医学」の語や「テューク=素人」をめぐる曖昧さも同じ戦略に属し、慣習的な分析カテゴリーを壊して過去を異化するためのものだ、というのが本章の主張である[15]。
章題はピネルの『Traité médico-philosophique sur l’aliénation mentale, ou la manie』(1801 年)の一節から取られている。ジャマイカの黒人奴隷やロシアの農奴の狂人には過酷な軛がふさわしいかもしれない。しかし権力の濫用に激しく反発する「フランス人の鋭敏な感受性」(la sensibilité vive du Français)には、最も穏やかな抑制がふさわしいのではないか、という趣旨の一節である[16]。革命が生んだ政治意識こそが、フランス人をモラル・トリートメントに適した国民にするというのである。ゴールドスタインは、ここでの「フランス」が一国を指すとも、啓蒙された西洋全体の提喩とも読めることに注意を促す。啓蒙は汎ヨーロッパ的な普遍主義の運動であったが、同時に国民間の対抗意識も強かった。ピネルはイギリスの先行者を「ライバル」と呼び、治療法の詳細を秘匿していると非難した。一方『エディンバラ・レヴュー』は『Traité』を「新しくも深くもない」と冷ややかに評した。「フランス」は二つの意味を同時に帯びる玉虫色の語であった。
『狂気の歴史』にも同じ曖昧さがある。英独の文献も散りばめられてはいるが、史料の大半はフランスのものである。「大監禁」の議論も、実際にはフランスの一般施療院——狂気、怠惰、放蕩、性病、老齢が「非理性」として一括される場——を原型として展開されている。この制度にはルイ十四世の勅令(1656 年のパリ、約 20 年後の地方都市への拡大)という固定した起点があり、語り手には都合がよい。付録に収められた大監禁関係の史料も、すべてフランス由来である。ゴールドスタインの問いは、これを著者の見落とし——ガリア中心主義、各国の発展の違いへの無知、準備不足の「大きな本」への野心——とみるか、それとも古典主義時代における「フランス」の玉虫色を歴史主義的に演じ、フランスについては強く、西洋については控えめに、それでも両方を包むテーゼを語るための意図的な修辞とみるか、である。
ゴールドスタインは「見落とし」説を三点で退ける。ガリア中心主義は多少あるとしても重大ではない。フーコーの副論文はカントの『人間学』であり、すでにニーチェに傾倒し、70 年代にはベンサムの一望監視装置を用いた。ゴールドスタインは 1973–74 年のコレージュ・ド・フランス講義に出席しており、「ベンサム」の名に聴衆が戸惑ったためフーコーが綴りを示さねばならなかったという挿話を伝えている。各国の違いへの無知でもない。テュークとピネルの国民文化の違い——宗教の役割、福祉における公私の比重——を、フーコーは詳しく論じている(1972: 484–523)。準備不足でもない。たとえば終章の一文(1972: 540–541)には、19 世紀初頭の精神医学の主要な理論的選択肢が、いまでは忘れられた十人ほどの医師の立場とともに圧縮して描かれている。
そのうえでゴールドスタインは、本書の射程をヨーロッパ的なものとして示す。『監獄の誕生』と同じく、本書はフランスのデータで西洋を語り、啓蒙を全体として再解釈し異化しようとしている。縮約版では第四章「狂気の経験」が省かれているため、この面は見えない。再解釈の中身はこうである。古典主義時代には、狂気について二つの概念化が制度的実践に根ざして併存していた。旧来の法学的な精神能力の分析は細かな段階づけをもち、新しい行政的な社会的行為の分析は、危険か否か、監禁が必要か否かという粗い二分法をとる。この二つが結合してピネルとテュークの近代精神医学が生まれ、その結合という問題構成が啓蒙そのものを生んだ。「社会的人間」の経験を「権利主体」という法的観念に合わせようとする 18 世紀の努力がそれにあたる。この一般性の水準の高さゆえに、フランスやイギリスは啓蒙という大宇宙の小宇宙、つまり提喩として働かざるをえない。
この読みを、ゴールドスタインは二つの事例で試す。第一はテュークである。ウィリアム・テュークはヨークの茶商であり、医師ではなかった。フーコーがこれを書かなかったため、スカル(証拠の扱いが粗雑、テュークがアサイラムを医学知に開いたと誤って描いた)やミデルフォート(イギリスのモラル・トリートメントは素人の革新で、医師にとっては脅威だった)の批判を招いた。しかし本文を丁寧に読むと、フーコーはテュークを医師とも書いていない。むしろ逆を示唆している。テュークはリトリートに医師を任命した——つまり彼自身は医師ではない。その医師の資格は人柄の面にあり、精神疾患の特別な知識はなかった(1972: 524)。フーコーは基本史料であるサミュエル・テュークの『リトリートの記述』(1813 年)を十数回引用しているから、テュークが素人であったことを知らなかったはずはない。省いた理由について、ゴールドスタインはこう読む。フーコーは国民文化の違いを明示したうえで、両者の共通点を描こうとした。「精神も価値もまったく異なる」二人の仕事が「医学的人物の変容」で合流する(1972: 523)。両者はともに、アサイラムには医師がいるべきだが、モラル・トリートメントには通常の意味での医学的技能は要らない、と考えていた。ピネル自身、長い経験をもつ高潔な人物なら医師の代わりが務まると認めている。フーコーは事実の範囲内で英仏の経験を互いに近づけ、「共通のヨーロッパ的経験」として描いた。細部を軽く扱いはしたが、誤りも捏造もしていない、というのである。
第二は「医学」の語である。フーコーは「医学」を二つの意味で区別せずに使い、その曖昧さを楽しんでいる。監禁は「医学的な貴族の称号」を得たが、それは外からの医学の導入によってではなく、空間の内部の再構成による(1972: 457)。医師はアサイラムを医学的空間に変えるが、それは客観的知識に裏づけられた医学的技能によってではない。学者(savant)としてではなく賢者(sage)として権威をもつ(1972: 523–524)。二つの意味とは、苦しみを和らげるものという一般的な意味と、古典主義時代の狭義の意味——免許をもつ医師が身体的治療を施す領域——である。アサイラムは医師の働きによって「医療化」される、つまり治癒の場となるが、その手段は伝統的な意味での医術ではない。精神医学の誕生において、医学は非医学的になった。これをフーコー自身の混乱とみることもできるし、スカルのように、医師がいかに狂気の専門的支配を確保したかという社会学的問題を無視したとみることもできる。しかしフーコーが自分の企てを制御していたと仮定すれば、これらの「欠陥」は戦略に反転する。狂気の医学が実証科学を名乗ったまさにその瞬間に、1 世紀前よりも「魔術的治療」(thaumaturgie)に深く浸っていたという奇妙な事実を示すための戦略である(1972: 526–527)。ポール・ヴェーヌの言う、セザンヌのように対象の輪郭を揺るがせる異化の歴史学がこれにあたる、とゴールドスタインは述べる。
結論において、ゴールドスタインはゴードンに同意したうえで一歩進める。完全なテクストを回復すれば、主要な命題を正しく再現できるだけではない。本書の歴史的洗練を理解し、明白な事実誤認を簡単に言い立てなくなり、「誤り」を戦略として読むことで企てをより深く理解できる。注では、スカルの事実上の指摘自体には異論がないことを明記している。ゴールドスタイン自身、『Console and Classify』で英仏の「公式医学」の初期の反応の違いを示すためにスカルを引いている。争点は、その事実がフーコーのテクストの欠陥を本当に示すかどうかである[15]。
筆者はこの章から二つの点を別稿に取り込んだ。一つは、大監禁論が実際にはフランスの一般施療院を原型とし、1656 年の勅令という固定した起点をもつという指摘であり、これは別稿 2.8 の「出来事としての大監禁」の議論を補強する。もう一つは、ピネルの「フランス人の鋭敏な感受性」の一節そのものであり、別稿 3.2 に注として加えた[1]。ただし、ゴールドスタインの「修辞戦略」という読みそのものについては、筆者は留保をもつ。この点は第 V 章で述べる。
3 第 8 章 ミデルフォート「読むことと信じること——ミシェル・フーコー再評価について」
エリック・ミデルフォートはアメリカの歴史家で、16 世紀ドイツの魔女裁判と狂気の歴史を専門とする。前述のとおり、1980 年の論文[5]によって英語圏のフーコー批判の出発点をつくった人物であり、ゴードンの発端論文が主要な標的としたのもこの論文であった。本章の論旨はこうである。全文版を読むべきだというゴードンの指摘は正しく、自分の旧批判に単純化があったことも一部認める。しかし、阿呆船、大監禁、逸脱の起源、法医学、そして悪魔憑きの排除については批判を維持する。フーコーは「光り輝く象徴」に目を奪われ、自分が知っていたことまで見失った、というのがミデルフォートの見立てである[17]。
縮約版について、ミデルフォートは次のように述べる。短縮版(仏・英)は細部を落としただけでなく、時代から時代への移行を元の版よりも分かりにくくしている。フーコーがこれを許したのは、のちの『言葉と物』『監獄の誕生』で強まる「文化的断絶」の強調にかなったからだ、と彼は以前から考えている。この仮説にはゴードンが第 14 章で反論する。一方、フーコーは 1983 年のストーンとの応酬で、狂気の歴史を「主として貧民向けの閉じ込めから医療的処遇を伴う閉じ込めへのゆるやかな変化」の研究だと自己規定した。これは信奉者たちには意外な自己規定であった。
阿呆船については、「気楽な放浪生活」という英訳(ハワード訳 8 頁)を安易に受け入れたことは認める。しかし、フーコーが放浪する狂人や阿呆船の数を大きく誇張しているという論点は変わらない。「ヨーロッパの都市はしばしばこれらの船の到着を見たにちがいない」(1972: 19)、ライン川を上り下りする「狂人の巡礼船」(1972: 20)といった記述が、ほかに何を意味しうるのか。全文版の注は英訳より多いが、一隻の阿呆船も実証していない。あるのは個人の追放・送還の事例で、陸路も水路も同じくらいある。狂人が回復を願って巡礼に送られたのは事実である。しかしミデルフォートが詳しく調べたバイエルンやフランケンの事例では、狂人は放浪させられたのではなく、聖地まで連れて行かれ、担がれていった。巡礼は中世に限らず、17 世紀のバロック的敬虔や 19 世紀のロマン主義的教会復興でも同じかそれ以上に盛んだった。
大監禁については、ミデルフォートはフーコーの叙述に内在する矛盾を指摘する。フーコーには、自分の結論を覆す材料を平気で引用する並外れた能力がある。私立の狂人院や治療を目的とする病院が 18 世紀に存在したことは認めつつ、それらを衰退しつつある中世の遺物として片づけている。「古典主義時代には狂人は病人ではない。動物性が狂人を病から守る」(1972: 166)という劇的な要約は、本書の多くの記述と矛盾する。18 世紀に狂人がしばしば病人とみなされていたことは、フーコーも当然知っていた。ミデルフォートの診断では、フーコーは注意と情動を組織する象徴の地下的な大運動を描く「象徴史」に惹かれるあまり、輝く象徴に目を眩まされた。阿呆船も大監禁への執着もそれで説明がつく。大監禁の実態は主に乞食の閉じ込めであり、狂人はその一部にすぎない。狂人がいかに小さな部分だったかを、フーコーはほとんど語らない(例外は 1972: 124)。ここでミデルフォートは、スウェインとゴーシェの推計を引く。18 世紀末のフランスで一般施療院に収容された精神障害者は 5,000 人以下で、「まだ社会の内部に散らばっていた狂人のごく少数」にすぎない。第一次大戦前夜には約 10 万人、つまり二十倍である。大量収容の時代は 19 世紀である[18]。
逸脱の起源については、ゴードンが、1656–1800 年の大監禁を「逸脱」概念の起源を描いたものだと説明したことに対し、病院史を少しでも知っていれば、中世末やルネサンスの狂人がすでに孤児、貧困者、身体障害者、老人、盲人と区別なく一緒に扱われていたことは分かる、と応じる。狂人が他の貧民や怠惰な者と混ぜられたのは 1656 年以後だけではない。17 世紀の矯正の気運は公的貧困の扱いにおける大きな転換だったが、狂気の歴史にとっては付随的かつ間接的なものにすぎない。乞食、失業、狂気、熱狂、売春、瀆神への道徳的非難には長い前史がある。この読みはゴードンが第 14 章で訂正する。
法医学については、教会法には責任能力や法的能力の細かな判断の伝統があったが、1600 年以前にはそれはあまり医学的な伝統ではなかった、と指摘する。フーコーのパオロ・ザッキアの扱い(1972: 139–140)は誤解を招く。ザッキアは「狂気に関するキリスト教法学の全体」を集大成したのではなく、それまで別々だった医学と法を強引に結婚させた人物である。法医学は 17 世紀の新しい分野であり、18 世紀半ばには法学者クレルが、容疑者が重罰を逃れるために協力的な医師に狂気の証言を求めて駆け込むと非難したほど流行した。
最後に悪魔憑きである。ミデルフォートは、様々な制度的視点を考慮する「制度的認識論」というゴードンの企てには賛成する。しかしそれを実際に適用すれば、1600 年以前、さらには 1800 年以前の神学者や医師が、身体的な薬と心理的・道徳的な薬を自分たちの言葉ではっきり区別していたことが見えてくる。フーコーは神学的なものをほとんど完全に無視した。悪魔憑き(possession)を本書全体で扱わなかったのである。しかし悪魔祓い師もルネサンスの医師も、目の前の人物が霊的に侵されているのか身体的に病んでいるのかの判定に日常的に苦心していた。これこそ、一般医学とは異なる認識論的な肌理をもつ言説と治療、つまりゴードンの言う意味での「精神疾患」ではないか。フーコーは、悪魔憑きこそが真に「精神的な疾患」の最初の形態であった可能性を体系的に排除している。ミデルフォートはこの排除の根拠を『精神疾患と心理学』に見る。フーコーはそこで、憑かれた者は精神病者だったという見方を不正確な偏見とし、憑依は狂気の歴史ではなく宗教思想史に属すると断じた[19]。これに対してミデルフォートは、1500–1800 年を通じて医師と聖職者のあいだで真の憑依の徴候をめぐる意見が割れていたこと自体が重要だと考える。宗教経験の独立を主張したことで、フーコーは精神疾患という観念の最も重要な源泉の一つから自分を切り離してしまった、というのである。
結びは慎重である。完全で正確な英訳が出たとき、フーコーが受け入れられるかは疑わしい。それでも、よりよく理解できるようにはなるだろう。それは正しい方向への一歩である[17]。
4 第 10 章 ポーター「フーコーの大監禁」
ロイ・ポーターはイギリスの社会史家で、『Mind-Forg’d Manacles』(1987 年)[20]によって王政復古期から摂政時代までのイングランドにおける狂気の歴史を書いた。本章の論旨はこうである。『狂気の歴史』は狂気の歴史、なにより理性の歴史について書かれた最も鋭い著作である。そう称えたうえで、ポーターは古典主義時代(1650–1800 年頃)のイングランドについて代案を示す。取り上げるのは、監禁の規模、無差別収容、労働と狂気の結びつき、動物としての狂人、心理学の不在、テュークの断絶性の六点であり、いずれについても、イングランドには「大監禁」の図式が当てはまりにくいと論じる[21]。
前置きでポーターは、20 年前に初めて読んだときは魅了されつつ苛立ち、それ以来読み返すたびに敬意が増していると述べる。標準的な批判の多くは偏見、誤解、無知——とくに英訳で省かれた部分についての無知——の産物だというゴードンに同意する。方法としては、全文版、その後の研究、そしてフーコー自身の後期の著作に依拠する。『監獄の誕生』『知への意志』の著者なら『狂気の歴史』をどう書き直しただろうか、という問いである。
フーコーの「大監禁」をポーターはこう要約する。17 世紀半ば以降、絶対主義と啓蒙の合理性の文脈で、ブルジョワ的合理性に反する者——乞食、軽犯罪者、怠け者、売春婦——が病人や老人、障害者、狂人とごちゃ混ぜに隔離された。共通分母は怠惰である。狂人は働かず、働かない者は非理性の本質である、という図式である。
第一に監禁の規模。王政復古後、フランスで一般施療院に入れられたような人々は、イングランドではどうなったか。一部はその「双子」であるワークハウスに入った。ワークハウスは 18 世紀に社会統制の手段として広がっている。しかし貧民や厄介者の大多数は施設に入らず、旧救貧法のもとで社会の中にとどまった。閉じ込められたと言えるとしても、それは定住教区の境界の中にすぎない。イングランドにおける貧民の大監禁の象徴的な年は、ワークハウスを義務化した新救貧法の 1834 年のほうがふさわしい。狂人についても、マイケル・マクドナルドの研究によれば、ステュアート朝初期に狂人が正式に閉じ込められることはまれで、家族が地下室や納屋に閉じ込めることはあっても、王政復古後の 1 世紀もこうした非公式の扱いが普通だった。ランカシャーや北東部でも、狂人は家族の責任のもと、教区の監視下で社会にとどまっていた。数については、1774 年以前、私立の狂人院には入所記録の義務がなく、それ以後の公式統計もあてにならない。それでも 19 世紀初めのイングランドで狂人として閉じ込められていたのは、私立・公立・慈善の狂人院、監獄、ワークハウスを合わせて 5,000 人をあまり超えず、確実に 1 万人未満だった。古典主義時代の排除の増加は漸進的、局地的で、つぎはぎだった。曲線が急になるのは 19 世紀で、1900 年には約 10 万人に達する。議会が公立アサイラムの建設を義務化したのが 19 世紀なのだから、驚くにはあたらない。イングランドの「大監禁」の時代は 19 世紀であり、1800 年以前の狂気の扱いは地域的で市場に応じたものであり、それ以後は国家が主導した[21]。
第二に無差別収容。狂気がまだ専門的な精神医学の基準で定義されておらず、理性の否定的な投影だったというフーコーの主張には価値がある。しかし、あらゆる「不快な者」との無差別収容という図式は実態に合わない。監獄にいる狂人は少なく、ワークハウスの管理者は秩序と労働を乱すとして狂人の受け入れを拒み、危険な教区の狂人は専門の私立狂人院に委託されるのが慣行になった。イングランドの傾向は、ひとまとめにすることではなく、分けることだった。ロンドンがよい例である。ベスレムとブライドウェルは同じ理事会が運営する姉妹施設だったが、ベスレムは狂人に、ブライドウェルは無秩序な者に厳格に振り分けられ、誤って入った者は移送された。ベスレムを一般施療院のロンドン版とみるのは大きな誤りである。多くの欠点はあったにせよ、古典主義時代を通じて医師のもとで、医学的診察により臨床的に狂気とされた者を治療する医療施設として運営されていた。フーコー自身ベスレムが狂人専用だったことを認めている(1961 年版 138 頁)が、それが監禁の全体像に何を意味するかは論じていない、と注は付け加える。
第三に労働と狂気。「非理性」の範疇は、同時代の言説における狂人の存在論的・社会的疎外——人間ではなく野獣、ブルジョワではなく怠け者——を見事にとらえている。しかし 18 世紀イングランドの言説に、正気と労働、狂気と怠惰の結びつきが目立つとは思えない。むしろ商業経済での利益追求こそが狂気の原因だという不満がよく聞かれた。アサイラムの入所者を働かせようとする組織的な試みもなく、旧来のアサイラムの入所者の怠惰は非難の的だった(1815 年議会報告)。19 世紀との対比は鮮烈である。フーコーは後の『知への意志』で、近代の規律を資本主義の労働倫理への応答とみる解釈から距離をとった。初期の合理性と労働の結合の強調は、のちに彼自身が安易なフロイト=マルクス主義として退けた「イデオロギー的」解釈の一例ではないか、とポーターは問う。
第四に動物としての狂人、第五に心理学の不在。スカルは、18 世紀に狂人が「野獣」と表現された頻度を再確認している。しかし啓蒙期にはもう一つの像が有力になった。フーコーがほとんど認めていない像、つまり狂人を「誤って推論する者」、したがって再教育と改善の可能性がある者とみる見方である。フーコーの言うとおり、この狂気観はピネルとテュークのモラル・セラピーの中心になった。しかしイングランドではそれよりずっと早くから影響力をもっていた。狂気は観念の誤った連合から生じるというロックの説は、ジョージ王朝期の多くの著者や狂人院経営者、とくにウィリアム・バッティとトマス・アーノルドに熱心に受け継がれた。1750 年代のバッティとジョン・モンロー(ベスレムの医師)の論争は、まさにこの点をめぐるものだった。モンローは狂気を意志の根本的で非人間化的な損傷とし、バッティはロックを引いて、狂気の多くは推論過程の治癒可能な誤りだという楽観的な立場をとった。フーコーはロックに一度触れるだけで(1961 年版 238 頁)、影響力の大きかったバッティにはまったく触れていない。18 世紀には「心理学は存在しなかった」という不可解な言明はそのためかもしれない。学問名としてなかったという瑣末な意味では正しいが、ロック的な「心理学」は、バッティからコノリーにいたるイギリスの狂気論で大きな意味をもっていた。
第六にテュークの断絶性。テュークのモラル・セラピー——親切、人道、理性——をイングランドにおける真の断絶とみるのは、テューク自身と、先人を貶めた 19 世紀改革者たちの宣伝をそのまま受け入れることになる。この一世代の研究は、テューク以前にロック心理学に基づく「道徳的」処遇が説かれ、実践されていたことを明らかにしてきた。親切な精神医学は内面化された抑圧の強化だというフーコーの読みについて、ポーターは注で、それは経験的に反証できない命題だと述べる。アン・ディグビーによれば、ヨーク・リトリートの入所者の多くは回復して退所し、処遇に感謝していた。ただしポーターは、この事実すらフーコーの論点の証拠に使えてしまうと付け加えている。結びは、狂気の歴史は理性の歴史に取り組まずには理解できないとフーコーが見抜いたのは正しい、古典主義時代のイングランドの「理性」のあり方はなお検討を要する、というものである[21]。
ポーターの章を読むと、英語圏の論争がなぜイングランド固有の史料へ展開したのかも分かる。フーコーがピネルと並べてテュークを持ち出したことで、イングランドの歴史家は自国の史料——ベスレムとブライドウェルの分別、私立狂人院の成長、バッティとモンローの論争、ヨーク・リトリートの入所記録——によってフーコーを検証する足場を得た。フランスの一般施療院を原型とする「大監禁」の図式が、テュークを経由してイングランドに持ち込まれたために、論争はイングランド独自の議論へ発展したのである。
筆者にとってポーターの章の意義は、狂人の大量収容が 19 世紀の現象であるという結論が、フランスについてケテルとスウェイン=ゴーシェが示したことと、イングランドの史料によって独立に一致している点にある[1]。ポーターの提示する数字——19 世紀初頭に 5,000 人余、1900 年に約 10 万人——は、ミデルフォートが引くフランスの推計とほとんど同じ桁である。この一致は偶然ではなく、両国で 19 世紀に国家主導のアサイラム建設が進んだことの反映であろう。
5 第 13 章 スカル「伝達の失敗?——英米の歴史家による『狂気の歴史』の受容」
アンドルー・スカルはイギリス出身でアメリカで活動する社会学者であり、19 世紀イングランドのアサイラム史『Museums of Madness』(1979 年)以来、狂気の社会史を書き続けてきた[22]。本書に収められた章は、初出の応答を大幅に増補したもので、応答者のなかで最も長く、最も攻撃的である。論旨はこうである。フーコーの功績は認める。しかし「英米の否定的評価は縮約版しか読んでいないせいだ」という擁護論は成り立たない。完全な英訳が出れば、フーコーの学問的欠陥はむしろはっきり見えるようになり、擁護派の最も有効な防御——未翻訳の千余の注——がなくなる、とスカルは予言する[23]。
スカルはまず負債を承認する。狂気の歴史を「退屈な行政史家」と「耄碌した精神科医」の手から救い出し、真剣な知的主題にしたのはフーコーの名声だった。この 15〜20 年の優れた研究の多くは、フーコーの挑戦への応答として書かれている。擁護派の言い分にも一理はある。ローレンス・ストーンの批判はずさんで、フーコー自身の痛烈な反論を招いた[6]。セジウィックの『サイコ・ポリティクス』やメルキオールの『フーコー』も縮約版と他人の批判の焼き直しに頼っている。それでもスカルは、全文版は歴史家の疑念を強めるだけだと予言する。原因は、大陸の学問の繊細さを知らない聴衆の無知ではなく、フーコーの歴史学そのものの欠陥だからである。
第一の欠陥は史料の貧弱さである。「フーコーの博識は、正統的な思想史の主張を支えるどの博識にも劣らず本物だ」といった擁護は、未訳の千余の注を指差せるあいだは効くかもしれない。しかし次のことが分かれば効力を失う。19 世紀イングランドの狂人改革の議論全体が、サミュエル・テューク『リトリートの記述』(1813 年)とハック・テューク『狂人史の諸章』(1882 年)という二つの史料にほぼ依拠している。16〜18 世紀の英愛の救貧法の議論の史料は、ほぼジョージ・ニコルズの古い仕事だけである。注では、フーコーがメーア夫妻宛の書簡で史料の多くがウプサラの図書館のものだと認めていることを挙げ、それは欠陥を説明するが弁解にはならない、と述べる。広範な史料に言及することとそれを適切に用いることは別である、というのがスカルの原則である。
第二に、各国差をめぐる防御の空洞である。ミデルフォート(国家による狂人の監禁がヨーロッパ全体で一様だったという想定)とストーン(国ごとの監禁の程度と組織の大きな違いの無視)の批判に対して、フーコーは全文版の 67–74 頁と 483–496 頁で英仏の違いを強調していると反論した。ゴードンも 405–406 頁を挙げる。スカルの検討結果はこうである。フーコーが挙げた箇所の一方は、ピネル版とテューク版のモラル・トリートメントの比較だけで論点と関係がない。もう一方は、プロテスタント圏とフランスの貧困への対応を少し比べるだけで本論には付随的である——付随的だからこそ縮約版で気づかれずに丸ごと削除できたのであり、しかもフーコーはその違いを一時的なものとし、カトリック世界も「まったく類似した結果」に至ったと述べている。ゴードンの箇所は施設の創設年と名の羅列にすぎず、イングランド分はハック・テュークとテノンから、独墺分は 19 世紀の限られた史料から取られている。18 世紀イングランドの私立狂人院の成長には一言も触れていない。さらに擁護派は板挟みにある。長年、批判者だけでなく支持者も、「大監禁」論を本書の最も独創的な貢献として挙げてきたからである。本文には、監禁の突然の出現と普遍性を強調する箇所が多い。ヨーロッパ中に施設の網が広がった、ヨーロッパ文化に共通の社会的感受性が 17 世紀後半に突然表に出た、ヨーロッパ全土で監禁は同じ意味をもった(1972: 66–67, 75, 77)。この過度な一般化は重大な解釈の誤りの源になっている。注でスカルは、これは外国のイデオロギーに抵抗する「素朴なアングロサクソン」の排外主義の問題ではない、事実の事実性を問題にしているのだ、と念を押し、ゴールドスタインの言う「意図的な修辞戦略」の学問的妥当性も問われる、と付け加える。修辞の駆け引きで真剣な比較研究の代わりをさせたことで、フーコーは経済・政治領域の意義を体系的に検討するという難しいが決定的な作業を回避できた、というのがスカルの見方である[23]。
第三に、テュークとピネルをめぐる医療化の物語の誤りである。ゴードンも認めるとおり、フーコーの分析の要は、「精神疾患」概念を 18 世紀末以後の比較的新しいものとして描くことにある。フーコーによれば、テュークとピネルのアサイラムは「医学的人物の神格化」をもたらした。それまで医師は監禁生活に関わっていなかったが、医師がアサイラムの本質的な人物となり、アサイラムは「医学的空間」になる(1972: 523–524)。ピネルとテューク以後、精神医学は特殊な様式の医学となり、ほぼ完全な自律を得る。ただしその力は知から「偽装」か「正当化」を借りたにすぎず、本当は道徳的・社会的なものだ、という議論である(1972: 525–527)。スカルは、「学者としてではなく賢者として」という限定を含めても、この議論の主眼は新しい改革と医学的管轄の確立との密接で本質的な結びつきを主張することにあるとみる。そしてそれは、同時代におけるモラル・トリートメントの決定的な含意を見えなくしている。テュークは素人であり、彼のモラル・トリートメントは医学の能力に対する「かなり痛烈な攻撃」であった。イングランドでは、それは既存の医学の関与への脅威であり、医師たちが結束してこれを抑え込んだ[24]。ピネルは著名な医師だったが、医学は狂気にはほぼ無力だと確信していた。モラル療法の成功は、多くの場合脳や頭蓋に器質的病変がないことを示唆するとまで述べている。ワイナーとゴールドスタインは、ピネルの「発見」が素人に由来することを明らかにした。ピネルはそれを誇らしげに公言している。彼の貢献は、ビセートルの門番たちの「いかさま的」技法を哲学的な因果説明と統計によって「公式医学の立派な教義」に変えたことにある。ゴールドスタインによれば、ピネルにとって素人の門番は医師=哲学者に知的に劣る存在で、常識的な知を医師が洗練し秘教化した[14]。一時は解体の危機にあった医師の特権的な集団は、ピネルによって急速に修復されたことになる。ただしそれは安定せず、ダウビギンが示したように、フランスでもモラル・トリートメントの医学軽視はアサイラムにおける医師の存在の正当性をたびたび脅かした。したがって、精神医学の「黄金時代」(カステル)の到来にテュークとピネルが果たした役割は、『狂気の歴史』の読者が思うよりずっと複雑で間接的である。
この論点には、引用法をめぐる応酬が伴う。ゴードンは初出の再反論で、スカルが「on croit」(〜と信じられている)を省いてフーコーを引用したと非難した。スカルの反論は、長い引用と 1972 年版 523–527 頁の全体を見れば、フーコーがまさにそう「信じる」一人であることは明らかだ、というものである。さらに、ゴールドスタインの読み——意図的な曖昧さ、医学の二つの意味——を受け入れるには、フーコーは曖昧さを「楽しみ」ながら語の定義を示さないという危険な譲歩が必要になる、と指摘する。医学による独占へのモラル・トリートメントの脅威について、フーコーは完全に沈黙している。その沈黙は、自分が分析すると称する出来事の意義の大きな誤解だとしか解釈できない、とスカルは述べる。フーコーはウィッグ史を逆立ちさせ、ピネルとテュークによる「解放」を「巨大な道徳的監禁」と呼んだ(1972: 514, 530)。この告発には正しい部分もあれば疑わしい部分もある。その論争上の迫力は、中世・ルネサンスの狂気への開かれた態度という描写と対比されることで増している。
そこで第四に、阿呆船と中世の「開かれ」である。ゴードンは、ミデルフォートの批判は一句の誤訳——Les fous alors avaient une existence facilement errante を「気楽な放浪生活」と訳したこと——と、フーコーが主張していないことへの反駁の産物だとした。正しくは「当時の狂人の生活はたやすく放浪的になりえた」であり、放浪が「気楽」だったかはフーコーによればきわめて疑わしい、というのである。スカルの反論は、ゴードンは facilement に負いきれない重みを負わせている、というものである。フーコーの中世・ルネサンスの章は 40 頁以上あり、ミデルフォートはその全体を読んでいる。主眼は、狂気が日常生活や芸術、文学の中に、「理性と真理の核心そのもの」に(1972: 25)現実に存在していたこと、つまり中世社会の狂気への開かれにある。鞭打ちや阿呆塔への言及はわずかにとどまる。阿呆船は、フーコーが描かせたい中世像にとって決定的である。第 1 章の題も「Stultifera Navis」である。フーコーは、君主の船、貞淑な婦人の船、健康の船といった文学上の船の流行のうち、阿呆船だけが「実在した」と明言し(1972: 19)、理性を求める狂人を乗せてライン川を上下し、初期ルネサンスの想像力にとりつき、「狂人の境界的な状況」を象徴する現実の船について長々と論じている(1972: 22)。しかしミデルフォートとメーア夫妻の指摘どおり、阿呆船は想像の産物である。狂人が船で送り出されたことはときにあったが、理性を求める狂人の巡礼を満載した現実の船は、どこにも記録がない。厄介な狂人は殴られるか閉じ込められ、そうでなければ放浪するか朽ちるかだった。精神医学の抑圧とそれ以前のほとんど無秩序な寛容という対比は幻想である。スカルは注で、『狂気の歴史』の翌年に『精神疾患と心理学』として再刊された初の著作の新しい二章をフーコー自身による要約として引く。そこでは、1650 年頃まで西洋文化は狂気の経験に「奇妙なほど寛容」で、狂気は社会を自由に行き来する日常の経験だったが、17 世紀半ばに突然排除の世界になった、と明言されている[19]。ゴードンが再反論で「ある程度の詩的許容」を認めつつ「阿呆船が実在したと言うことでフーコーが言っているのは、中世に一部の狂人が様々な理由で川を船で旅したということだ」と弁護したことを、スカルはゴードン自身の言葉を借りて「何でもありの注釈体制」と呼ぶ。「600 頁中の 6 頁」という周縁化も成り立たない。ルネサンス=乗船、古典主義時代=監禁という対比は、比喩の上でも論証の上でも中心的だからである。
第五に、翻訳とフーコーの自己演出である。欠陥のある縮約版が出ると良い完訳が出にくくなる。これはグレシャムの法則の変種であり、デュルケムやウェーバーの英訳も同じ運命をたどった。ただし死者だったデュルケムやウェーバーと違い、縮約版を許可し、20 年以上是正しなかったのはフーコー自身である。縮約の理由は分からないが、断絶を強調する後期の立場に合ったのではないかという仮説(ミデルフォートに由来)を、ゴードンは「知的見当識の喪失」と呼んだ。スカルは、フーコーがテクストの配置と秘匿によって自分の思想の運命を操作したことは十分ありうると主張し、ストーンとの応酬のフランス語版の掲載を『ル・デバ』直前で差し止めたこと、『精神疾患と心理学』の仏語での再刊を拒み英訳にも反対したこと、遺稿の出版を禁じる遺言を残したこと、事前審査した研究者にしか開かれず複製も禁じるパリのフーコー・アルシーヴがあること(ラビノウ 1990)を挙げる。このうちアルシーヴの記述は、ゴードンが第 14 章で事実誤認として反駁する。スカルはまた、ゴードンが批判者の誠実さを疑う「中傷戦術」をとっていると反撃する。完全な史料を知ったうえでも、託宣を啓示された真理として受け入れないことはありうる、というのである。結論において、スカルは完全で正確な訳を歓迎し(ラウトレッジ社が改訂版を準備中)、再評価は起こるだろうが、事情に通じた人々の判断はおおむね否定的なままだろうと、かなりの額を賭けてもよい、と述べる[23]。
この予言がどうなったかは、記しておく価値がある。全訳は 2006 年に刊行された[10]。スカルはその後も評価を変えていない。2019 年の論集『Psychiatry and Its Discontents』に収められた「フーコーの学問の虚構——『狂気と文明』再訪」は、全訳の刊行後に書かれた同じ趣旨の評価である[25]。
6 第 14 章 ゴードン「誤読の歴史を書き直す」
本書全体を締めくくるゴードンの再反論は、初出の応答を改題・加筆したものである。ゴードンは、糾弾ではなく「興味深い事実」を示すことで、フーコーについて言えることと見えることの境界を動かしたい、という立場をとる。そのうえで、歴史家との関係、修辞学的読解の限界、受容史と翻訳・縮約の事実、阿呆船、個別論点——テューク=ピネルと医学、大監禁の規模と労働、逸脱、心理学、「経験」——を論じる。結論は、英語圏での受容は「伝達の失敗」、ハーバーマス的な意味での歪められたコミュニケーションの場だというものである[26]。
導入で、ゴードンは批判者を二派に分ける。全文版を読んでも歴史学の基準は満たせないとする派(スカル、ミデルフォート、メルキオール)と、フーコーを歴史学の基準で読むこと自体がカテゴリー錯誤だとする派(ラカプラ、メギル、ピアソン)である。ラビノウに同意して、「陳腐で陰鬱な告発の様式」は避けるという。フーコーの仕事に武装した護衛はいらない。ただし「一定のグロテスクの感覚」は手放さない。
「フーコーと歴史家たち」の節で、ゴードンは非歴史家もまた歴史家の評価を利用していることを指摘する。ラカプラはフーコーを正統的な史学の基準で採点するのは的外れだとしながら、ミデルフォートの採点はおおむね正しいと信じている。メギルは初期近代の事実を裁くつもりはないと言いつつ、専門家にはフーコー版が受け入れられないことを確認している。歴史家の評決は、無関係とされるので厳密に検証されず、同時に根本的なものとされるので繰り返し引かれる。歴史学を「地道な事実収集」とする侮蔑的な紋切り型も、フーコーに押しつけられた俗物主義である。フーコーはジャック・レオナールとの応酬[27]で、この紋切り型とその裏返しの両方を嘲っている。「曖昧な大観念に対する小さな真の事実」「雲に対する塵」という対比がそれである。その要点は、厳密さを思考の敵とする歴史像を退けることにあった。ところがスカルは、フーコーが批判に対して「小さな真の事実を大きな観念にぶつけるのは誤解のもと」と鼻であしらった、と引用している。レオナールの論文自体も、後段ではフーコーを紛れもなく独創的な歴史家と評価しており、ブローデルとマンドルー(1962 年)、ヴェーヌ(1978 年)、シャルティエの追悼文(1984 年)も同じ趣旨である。もちろん、フランスの歴史家の公式な熱狂があったわけではない。それでも、革新的な少数派の関心と影響は 1961 年以来どの段階にもあった。
「修辞学的ロボトミー」の節では、フーコーの歴史学との関係に単一の答えは要らない、「考える歴史学」の可能性を認めさえすれば十分に理解できる、と述べる。フーコーがレオナールへの応答で示した、時代を対象とする研究と問題を対象とする研究(なぜ監獄なのか)の区別は、すでにリュシアン・フェーヴルが立てていたものである。ブローデルはフーコーのコレージュ・ド・フランス立候補を支持し、彼の死を「国民的な喪」と呼んだ。ブローデルが本書に見たのは、フェーヴルの「心性史」の実現だった。メギルはフーコーは受け入れがたいからこそ面白いと考え、ラカプラは受け入れられる部分は面白くなく古びていると考える。ゴードンの主張は、フーコーが普通の歴史家と同じだということではなく、歴史家が彼を注意深く読めば得るものがあるということにすぎない。本はときに冷静に、ときに情熱的に、複数の声で語る。だからといって読解がロボトミーのように構造化される必要はない。
「書物にはそれぞれの運命がある」の節が、受容と翻訳を扱う。カステルが語るとおり、フランスでは学位論文として学問的に受け止められ、のちに政治運動に取り込まれて貧しい注釈にさらされた。エリボンによれば、改革派の精神医学グループ「進化精神医学」の反応は比較的好意的だった。フーコーも、一部のマルクス主義者やリベラルな精神科医が関心を示したと語っている。しかし反精神医学運動がこの本を採用すると、同じ人々の一部が「精神医学殺し」と非難した[28]。ゆえに、英語圏の事情を縮約版だけに帰すことはできないというカステルの推論は正しい。しかしフランスの例は、露骨な政治化の文脈がなければ受容が必ずしも困難ではなかったことも示している。バラム(第 2 章)への反論として、精神科医はいつもこの本を脅威と感じたわけではないこと、専門家の自己像に都合の悪い歴史書は現在の問題の解決策を示さなければ信用されないという要求は、この職業の知的不安と道徳的恫喝の典型だと述べる。ハワード訳については、スカルがこれを「悪い翻訳」と呼ぶのは不当であり、文体も正確さも優れていると弁護する。「欠陥翻訳」の神話を「難解な文体」の神話と並べて、ずさんな批判のアリバイにしてはならない。
縮約の経緯については、ミデルフォートとスカルの「断絶を好む後期の説に合わせて移行部を削った」説と、ラカプラの「後の本を独創的に見せるため」説を、「普段は明晰な頭脳の見当識喪失」と呼んだうえで、第 II 章に記した事実を並べる。ゴードンの記憶では、フーコーは英訳が不完全なことを残念がり、是正されれば喜んだはずだという。妨害した証拠はなく、生前に英語圏の出版社から完訳の提案があったこともない。自ら主導はしなかったが妨げもしなかった。著者として合理的な立場である。スカルへの事実訂正として、ミシェル・フーコー・センター協会のアルシーヴは寄贈資料からなる公刊・未公刊資料の文庫で、フーコー自身の文書を所有したりそのアクセスを管理したりはしておらず、場所はドミニコ会のソルショワール図書館で、研究上の関心があれば誰でも利用が認められる、とする。遺稿出版を禁じた遺言を「評判の操作」とみなすのは、合理的な範囲を超えた歪曲である。
「補論:阿呆船」の節は、論争の対象が 600 頁中 6 頁(1972: 18–24)のうち三つの文——「それらは実在した、町から町へ狂った積荷を運ぶ船は」「ヨーロッパの都市はしばしばこれらの船の到着を見たにちがいない」「理性を求める狂人の、高度に象徴的な巡礼船」——にすぎないことから始める。そこへ「気楽な放浪生活」という誤訳が加わった。フーコーは、ブラントの詩やボスの絵の阿呆船が寓意であって現実の写しではないことを知っていたし、そう書いている。狂人だけを乗せた船が気ままに航行したとはどこにも言っていない。言っているのは、中世に一部の狂人が様々な理由で川を船で旅したということである。追放された者や出身地へ送還された者もいたし、おそらく最も多かったのは狂気を治すという聖地への巡礼者だった。川での送還の実例がフーコーの挙げた三件で全部らしいというミデルフォートの指摘が正しければ、フーコーは推論を誤ったことになる。しかし巡礼のほうは的外れではない。ラルシャン、グルネ、ブザンソン、ゲールの聖地は現実に存在し、人々が訪れていた。フーコーは主題と時代の最初の縁で詩的許容を用い、実践と文化的モチーフの象徴的な意味を混ぜた。「現実の阿呆船」はやや誇張した用法である。しかしそれは、メギルの言うようにテクストが曖昧だということではない。フーコーは曖昧に語ったのではなく、中世後期の社会で狂気の文化的・象徴的な地位が曖昧、つまり「境界的」だったと語ったのである。中世を「幸福な原初の開かれ」の場面として描いたというメギルの読みも誤りである。15 世紀に狂気は死に代わって文化的・道徳的不安の焦点となった。ボスの絵は分割以前の「零度」ではなく、分割の崩壊、終末の予兆である。宗教を軽視したというミデルフォートへの反論としては、コリント前書の「神の愚かさ」の主題、カルヴァン、フランク、エラスムスの論述(1972: 41–43)、悪魔憑きの医学的地位についてはフーコーの論文「宗教的逸脱と医学知」(1968 年)[29]、古典主義時代における貧困と狂気の神学的意味の変化についてはヴァンサン・ド・ポールに即した論述(1972: 170–173)を挙げる。
「反批判雑録」の節が、個別論点を扱う。テュークとピネルと医学については、ゴールドスタインがスカルの論法を見事に論駁した、注意深く読めばフーコーの議論はスカルと同じ見解を述べている、とする。そのうえでスカルの引用法を指摘する。原文は「On croit que」で始まり、「彼らは科学ではなく人物を導入したのであり、その力は知から偽装か、せいぜい正当化を借りたにすぎない」と続く。この議論を理解するには、医療従事者、医学知、医学的治療行為、医療制度の地位・内容・意味を区別する必要がある。分析が示すのは、新しい施設で働く治療者の職業上の資格は、監禁施設を医療化する組織者としての役割ほど重要ではなかったこと、治療活動の新しい内容を合理化したのは医師の専有物である体系的な医学知ではなく新しい施設とその論理の価値づけであったこと、19 世紀には資格と科学をもつ医師がどこでもアサイラムの支配権を握るが(スカル、カステル)、その過程だけで精神医学の医学的特質やアサイラムの制度的特質を説明できるかは疑わしいこと、である。この点でカステルはフーコーに明示的に従っている。
監禁の規模については、フーコーはこれらを見落としていない、と答える。フランスの監禁統計を論じ、狂人数の 18 世紀におけるゆるやかな増加を指摘し、その理由を、多くがまだ自由のままだったことと、狂人専用の私立・宗教系施設の開設に帰している(1972: 401–403)。労働については、困窮者の矯正のために定められた監禁体制におけるその位置と、施療院での労働計画の広範な失敗、狂人への適用の困難を記している(1972: 79–85, 417)。怠惰と狂気を道徳的・医学的に結びつけることを特に強調してはいない。フーコーが記しているのは、カトリックとカルヴァン派に共通する、貧民を慈善の対象から罪責の対象へと見直す初期近代キリスト教の新しい視点であり、これはフロイト=マルクス主義的な演繹ではない。歴史家は、読むこと以外のあらゆる敬意を払いながら、本書を三、四の印象的な場面——船遊びをする中世の狂人、一枚岩の監禁、動物性としての非理性、偽りの解放としてのモラル・トリートメント——に縮めている。しかし古典主義時代の記述は監禁史にとどまらず、医学と治療をめぐる、無視されてきた大きな章がある。19 世紀末の巨大なアサイラム人口こそ、よく引かれ非難される「巨大な道徳的監禁」という言葉が予告していたものではないのか、と問い返す。
逸脱については、ゴードンは、大監禁が逸脱の「奇妙で突然の誕生」を画したとは言っていない、と訂正する。フーコーの仮説(未訳の章「矯正の世界」)は、監禁の時代の全体が、多様な人々と行為に適用される総称としての近代的な逸脱概念を後に可能にした、というものである。古典主義時代は、狂人を他の者と一緒に閉じ込めた最初の時代ではない。新しかったのは、監禁実践の体系性、範囲の広さ、そして一貫した統一的な根拠である。心理学については、フーコーは「誤って推論する者」としての狂人像を無視したのではなく、理性が自らと推論する言説運動に基づき狂気を誤謬として扱う治療を、身体と魂に共通の性質を変える治療と並べて詳しく論じている(1972: 348)。ソヴァージュの「魂の病を治すには哲学者でなければならない」という完全にロック的な言葉も引いている。フーコーが否定したのは、近代的な意味での「心理学」、つまり近代人が自分の深さと真理を求める「心理的内面性」の成立である。狂気の医学がそこに入るのは、主体の道徳的な自己意識に働きかけ、観念の治療的な矯正が道徳的な矯正と服従に変わるときであり、その移行は古典主義時代を通じて「少しずつ」起こった(1972: 350)。「経験」の概念については、メギルが 1954 年のビンスワンガー論から説明したことに対し、それは正しいが意味が違うと言う。『狂気の歴史』は、狂っていることの経験を存在論的に描く試みは捨て、代わりに、正気の者が狂気の存在に出会う経験の、二次的な「歴史的存在論」を置いた。この意味での「狂気の経験」が本書の主要な組織概念である。エリボンによれば、フーコーが最初に考えた書名は「L’autre tour de folie」(狂気の別の形)だった[28]。
「教訓」の節で、ゴードンは結ぶ。英語圏での本書の受容は、コミュニケーション能力の条件が異常な歪みによって脅かされている領域である。応答者の多くは、何かがひどくうまくいかなかったことを遠回しに認めている。テクストの性質そのものに誤解の原因を帰すのは安易すぎる。とはいえ本書は、主題のもつかき乱す力を保ち、既存の言説の前提に実際の挑戦を突きつける。防衛的な反応は理解できる。深淵の上でふらつきながら通常科学はできない。挑戦を断るのは正当だが、その断り方が知的・学問的手段の極端な節約を示すとき、それはカンギレムの言う「縮こまった生」の兆候かもしれない。フーコーは難しく、おそらく度を越して難しい。しかし他の人々はこの難しさを扱うのに楽をしすぎた。テクストの特異な地位が「何でもありの注釈体制」を許してしまった。完訳が近いいま、評価が変わるかについて天気予報のような控えめな予言がなされているが、それは、予言者たちにとって受容を待つテクストの中身がなお「賢明な推測」の対象であることを示しているのかもしれない。この点で自分の論文は目的を果たせなかった、とゴードンは結んでいる[26]。
7 要約にとどめた八章と、その理由
本節では、第 1–6 節で詳しく紹介しなかった八章を、本書の章順に各一段落で要約し、そのつど簡略にとどめた理由を記す。要約は各章の論旨と、本稿の争点に関わる箇所に限る。八章の位置づけを表 III.2 にまとめた。
第 2 章 バラム「フーコーと精神医学の実践家」
精神医療の実践の側に立つバラム[32]は、本書が精神医学史への寄与にとどまらず、現代の実践家の自己理解を脅かしてきたことから書き起こす。ゴードンの論を穏当と評価しつつ、本書の特異さとそれへの反発を選択的翻訳の効果に帰しすぎていると批判する。1972 年版で削られた初版序文の凱歌的な精神は本文に生きており(結びのニーチェ、ゴッホ、アルトー)、繊細な弁護で批評家の態度は変わらない。核心の批判は、本書が奇妙に無垢で飼いならされていない狂気像を抱いている点にある。狂人の行為のうちに残る理性と社会性の感覚、すなわち混乱した人々が能力を完全には奪われていない理解可能な行為者として承認されようとする苦闘の感覚が、フーコーにはない。狂人の理性への再参入はつねに「捕捉」として描かれ、理解は攻撃として表象される。狂気の純粋さを守ろうとして、フーコーは狂人を理解から排除し、すでに加えられた排除を追認した。後期フーコーの「すべてが悪いのではなく、すべてが危険なのだ」という転回と「自己のテクノロジー」への関心には限定的な期待を寄せるが、脱施設化の課題にフーコーはほとんど役立たなかったと認める。断ち切られた対話を更新しうる合理性を把握するには、フーコーよりもマンフレート・ブロイラーの長期経過・家族研究を精読するほうが得るものが多い、というのが結論である。
簡略にとどめた理由——本章は本書のなかで臨床の側からの唯一の応答であり、筆者の関心に最も近い。しかしその批判は治療関係と対話の水準で行われ、史料をめぐる論争には加わらない。本稿の六つの争点のいずれにも触れないため各章紹介には収めず、第 V 章 1 節で「精神科医の不在」の問題として改めて論じる。
第 3 章 ボヴェ「狂気、医学、そして国家」
アメリカの文学理論家ボヴェ[33]は、メルキオールの『フーコー』を「敵対的読者の徴候」として取り上げ、フーコーを「歴史学の基準」で裁くこと自体が、啓蒙的学問の自己正統化の反復だと論じる。『狂気の歴史』は理性と非理性の対立だけでなく、理性と国家権力の結合の上に立っており、1960 年代初頭のフーコーはすでに歴史記述と国家の関係を問うていた。アウエルバッハの「フィグーラ」論を背景に、非理性が「言語と欲望」として再出現する近代の時間性を読み、シュプルツハイムの「イングランドには狂気が最も多い」という一節から、狂気の説明が国家と結びつく言説群を取り出す。結論は、フーコーはまだそれにふさわしい政治的読解を受けていない、というものである。
簡略にとどめた理由——本章はゴードンの発端論文への応答というより、フーコーを歴史学の側に回収する試み(ゴードンの方向も含めて)を退ける理論的な論考であり、六つの争点のいずれにも実証的には関わらない。メルキオール批判は、メルキオールの論証を検討するのではなく、その身振りを徴候として読むものであり、ゴードンが第 1 章で行った実証的な反駁(メルキオールが全文版を読んだ形跡がない)と重なる部分を除けば、本稿の主題の外にある。
第 6 章 ラカプラ「フーコー、歴史、そして狂気」
歴史理論家ラカプラ[34]は、全訳の必要というゴードンの主張に全面的に同意し、本書をフーコーの最も野心的な書物と評しつつ、ゴードンが受容を正す際に従来型の歴史記述の前提に頼りすぎ、批判する論者に近すぎると疑問を呈する。ミデルフォートはゴードンが認める以上に手強い。とくに阿呆船——「狂人が船で漂流させられた既知の事例は一例しかない」——の批判は、ルネサンス=船出、古典主義時代=監禁というフーコーの対比が比喩としても論証としても中心的である以上、痛い。注 1 でラカプラは、ゴードンの記述上の誤りを二点指摘する。フーコーは阿呆船が「実在した」(ils ont existé, 1972: 19)と明示的に書いており、ミデルフォートは巡礼について「狂気に対するまったくありふれた治療法だった」と実際に述べている。本章の後半は、デリダとの関係、初版序文のソクラテス以前のギリシアへの暗示、『狂気の歴史』をニーチェ『悲劇の誕生』の書き直しとみる読み、英訳にないデカルトの「悪しき霊」の一節(1972: 195–196)の自訳、フーコーの語りの三つの声の分析にあてられ、「侵犯的崇高の無制限な美学」とそれに伴う文化的絶望の政治への警告で結ばれる。
簡略にとどめた理由——本章のうち本稿の争点に関わるのは阿呆船をめぐる注 1 であり、これは第 IV 章の表に組み入れた。ゴードンが第 14 章で「川での送還の実例が三件で全部ならフーコーは推論を誤ったことになる」と認めるのは、この指摘への応答と読める。残りの大部分はデリダ、ニーチェ、フーコーの文体をめぐる理論的考察であり、史料の水準で行われた論争の紹介という本稿の目的の外にある。
第 7 章 メギル「フーコー、曖昧さ、そして歴史記述のレトリック」
思想史家メギル[35]は、ゴードンが誤訳として退けた一文 Les fous alors avaient une existence facilement errante を出発点に、フーコーのテクストの曖昧さを修辞学的に分析する。ハワード訳「気楽な放浪生活」、ゴードン訳「容易に放浪的なものになりえた」、教養あるフランス語話者二人が落ち着いた「たいていの場合、放浪生活を送っていた」に加えて、原文と同じく読者を当惑させる第四の訳を提出し、ゴードン訳の欠陥は誤りではなく、曖昧さを消して部分的にしか正しくないことだと言う。文脈では直前の文が船の実在を明言しており(ils ont existé)、この一節は船の実在を否定すると同時に肯定している。フーコーは曖昧でない書き方を選べたのに、あえて曖昧に書いた。この曖昧さは、脱中心化された反転——ヘーゲル的総合に至らないアンチテーゼ——という特定の形式をとる。後半は 1961 年序文の「狂気それ自体の歴史」をめぐる主張と否定の併存を読み解き、ゴードンの「社会学的術語としての経験」という読みを、ビンスワンガーと現象学の影響、『知の考古学』での繰り返しの自己批判を根拠に還元的だと批判する。結論は、フーコーの反学問性こそが価値であり、「正常な」学問的基準から見て受け入れやすく見せようとするのは誤りである、フーコーは受け入れられない、それこそが要点だ、というものである。
簡略にとどめた理由——阿呆船の一文をめぐる部分は、ゴードン、ミデルフォート、スカルの応酬(第 3・5・6 節)を補うものとして第 IV 章の表に組み入れた。しかし本章の主眼は、史実の当否ではなく、フーコーの歴史記述と職業的歴史家の歴史記述との関係を修辞の問題として示すことにあり、ゴードンが第 14 章で「修辞学的ロボトミー」の名で応答した水準——フーコーを歴史学の基準で読むこと自体を問う水準——に属する。「経験」概念をめぐる論点は、ローズ、ピュー、ゴードンにまたがる横断的な論点として第 IV 章末尾に記す。
第 9 章 ピアソン「フーコーを誤解する」
逸脱の社会学の研究者ピアソン[36]は、ゴードンの「誤読の訂正」という戦略そのものに異議を唱える。原典への回帰と「正しい読み」で論争を正そうとすることは、テクストと読者の双方に異常な受動性を想定しており、完全版が最初から英訳されていても事態は好転せず、英米の読者にはいっそう言語道断に映っただろう。求められるのはテクストに戻ることではなく、テクストをそれを迎えた世界に戻すことである。英訳はレインの編集する叢書から、クーパーの熱狂的な序文を付して出た。しかし 1967 年のイギリスでレインに傾倒した精神科医はごく少なく、歓迎したのは学生運動、反戦運動、カウンターカルチャーであり、サズの率直さがフーコーの婉曲より広く読者の理解を規定した。逸脱理論・ラベリング理論、「下からの歴史」との共振がフーコーを「同伴者」に見せた。仮にこの取り巻きがいなくとも、社会学と歴史学の混交へのタブー、「科学」と「文学」の峻別、小規模な実証を好み全体史を退ける習慣によって、イギリスの歴史家の冷遇は予測できた。
簡略にとどめた理由——本章は、カステルがフランスについて示した「二つの読み」のイギリス版であり、論争の水準を史料から受容の社会学へ移す。カステルの章を詳しく紹介した本稿では、ピアソンの章はその補足として要約にとどめ、第 V 章 3 節で言及する。「1967 年にレインに傾倒した精神科医はごく少ない」という指摘は、第 V 章 1 節の観察を社会学の側から裏づける。
第 11 章 ピュー「フーコー、修辞、翻訳——狂気の文彩」
『狂気の歴史』第二部第四章「狂気の諸経験」の英訳者ピュー[37]は、翻訳の現場から修辞と読解の問題を論じる。英語圏での不運を「誤訳」だけで説明するのは幻想であり、ハワード訳は縮約版の訳としては十分によい。ピュー自身が出版社に接触して得た情報もゴードンの見解を裏づける。フーコーは縮約版の是正を妨げも促しもせず、単に英米の出版社に完訳の関心がなかった。ヘイドン・ホワイトが濫喩をフーコーの支配的文彩としたのに対し、ピューは『狂気の歴史』の主文彩をアイロニーとし、「人間学的円環」の末尾(1972: 549)、第四章冒頭(1972: 157)、「医師=歴史家」への皮肉(1972: 124)の三箇所を実例に、訳語の選択がいかに読みを左右するかを示す。déraison の形態は、理性の絶対的否定ではなく理性からの「脱落」を示し、unreason は十分だが完全ではない。阿呆船の一文については「当時の狂人は放浪生活を送っていたのかもしれない」と訳し、ゴードン、スカル、メギルの「滑稽な論争」を、統語の慣用を読み損ねたささいな誤訳の問題にすぎないと裁く。
簡略にとどめた理由——翻訳原因説を退けてゴードンの出版事情の認識を裏づける点、および阿呆船の一文に訳者としての判定を与える点を、それぞれ第 II 章と第 IV 章の表に組み入れた。本章の主体をなす修辞分析は、翻訳論として独立した価値をもつが、「原義も最終的な意味もない」とする反意図主義は、原典照合によって読みの当否を確かめようとする本紀要の方法とは対極にあり、本稿の枠内で評価することは適当でない。
第 12 章 ローズ「狂気そのものについて——『狂気の歴史』と精神医学史の対象」
社会学者ローズ[38]は、初版序文の「狂気そのものの歴史」がロマン主義的な夢として、また企図を自己矛盾に陥れるものとして引かれてきたことから始め、ゴードンと同じく、これが「指示対象の歴史」ではないことを確認する。本書の力は狂気に固有のものへの関心から生じるが、それは別の狂気存在論に基づく精神医学批判ではない。狂気として問題化される存在の様式は、それを同定し統治する審級としての精神医学が構成されるのと同じ歴史的運動のなかで形成される。「精神医学体系」の一貫性は制度の均質性にも理論の整合性にもなく、本書が記録する三つの転換——病・自己の錯乱・社会的違反としての狂気の新たな連結、医学=司法的な監禁システムの出現、診断の眼差しのもとでの正常化の制度的場の形成——にある。医師がアサイラムの管轄を得たのは「医療起業家」論では捉えられない理由による。市民の自由への制約は法で保障されねばならないという憲法上の要請と、法ではなく道徳的責任に違反した者を監禁するという社会防衛の要請を和解させる解決策だったのであり、精神医学は無能力化された収容者を市民へ回復させると約束した。狂気は自然的普遍でも社会的相対でもなく、理性が自分でないものから自らを分割する身振りの「不可避の裏面」である。本書は歴史書であると同時に哲学書であり、精神医学史をこうした関心から切り離す研究は、理性の勝利を反復しているにすぎない。
簡略にとどめた理由——本章は本書のなかで最もゴードンに近い擁護論であり、論争の水準を史実の正否から「精神医学史の対象とは何か」へ移す。六つの争点には直接関わらないため要約にとどめた。ただし本章には筆者の関心に触れる点が三つある。「別の狂気存在論に基づかない」という定式は、精神医学が自然的な疾患概念を必要とするというエーの立場とちょうど逆向きであり、第 V 章 1 節で対比の軸として用いる。社会防衛と憲法上の正当化という「二重の要請」の議論は、筆者が別稿で扱った 1838 年法の論理と直接重なる[41]。三つの転換は、別稿の「構造としての大監禁」の内容規定に近い。これらは本稿の改訂ないし別稿で改めて取り上げる。
第 15 章 エリクソン「ミシェル・フーコー『狂気と文明』——批評注付き選択書誌」
エリクソンの書誌[39]は、1990 年 9 月までの英語文献 80 点を六部門(フーコーの著作、書評、フーコー論の単行書、論文、狂気の歴史研究、雑)に分け、各項に批評注を付す。序論は英語圏の受容を五段階に分ける。1960 年代前半には歴史家として扱われ批判は文体に向かい、後半には反精神医学の興隆とともに現代の治療への批判として読まれ、1970 年代前半には観念史として狂気の歴史研究の典拠となり、その後史料の精査とともに史学方法への攻撃が現れ、1980 年代には全著作の一体化が進んで「歴史家フーコー」に代わって「哲学者フーコー」が現れた。1960 年代の書評のうち、フリーマン(New Society, 1967)とパリー=ジョーンズ(1969)はイギリスの精神科医と思われるが〔要確認〕、いずれも反精神医学への位置づけと史実の水準で論じており、精神疾患概念そのものに踏み込んでいるのは非精神科医のリッチマン(Tribune, 1967——精神疾患理解の最大の進歩は諸障害の分化にあったのに、「狂気」という題はそれを一括した)とクランストン(Encounter, 1968)の二人だけである。ガッティング(1989)の項では、フーコーは例外のない経験的一般化ではなくある社会の狂気への基本的態度を全体として性格づけているのだから、古典主義時代に監禁が新しい中心的役割を担うという命題は少数の反例では反駁できない、という擁護が紹介される。
簡略にとどめた理由——論考ではなく文献案内であり、章として紹介する対象ではない。ただし三点で本稿に直接役立つ。第一に、10/18 縮約版の刊年を 1964 年とすること(文献[4]参照)。第二に、1960 年代の精神科医書評者の水準を示す資料として、第 V 章 1 節の観察を裏づけること。第三に、ガッティングの擁護が別稿の「構造としての大監禁」の規定とほぼ同じ論理であること。
| 章 | 著者 | ゴードンへの態度 | 論争をどの水準へ移すか | 簡略にとどめた理由 |
|---|---|---|---|---|
| 2 | バラム | 翻訳の効果に帰しすぎと批判 | 臨床の実践(治療関係と対話) | 六つの争点に触れない。V-1 で論じる |
| 3 | ボヴェ | 歴史学への回収を拒む | 理論・政治的読解(国家と近代性) | 実証的争点に関わらない。メルキオール批判は身振りの徴候学 |
| 6 | ラカプラ | 同意しつつ、従来型の史学に頼りすぎと批判 | 理論(デリダ、ニーチェ、語りの声) | 注 1 の阿呆船の指摘のみ IV 章に組み入れ |
| 7 | メギル | 誤読の訂正は正しいが、修辞に無自覚 | 修辞・歴史記述のレトリック | 阿呆船の一文の読みのみ IV 章に組み入れ。「経験」は横断的論点 |
| 9 | ピアソン | 訂正戦略そのものを批判 | 受容の社会学(1960 年代の「感情の構造」) | カステル(ch. 4)の英国版。V-3 で言及 |
| 11 | ピュー | 翻訳原因説を退け、出版事情の認識を裏づけ | 修辞・アイロニー・翻訳 | II 章と IV 章に組み入れ。反意図主義は本紀要の方法と対極 |
| 12 | ローズ | ほぼ全面的に擁護 | 精神医学史の対象論(存在論なき批判) | 六つの争点に関わらない。V-1 でエーとの対比軸に用いる |
| 15 | エリクソン | 中立(各項に評価) | 書誌(1990 年までの英語受容の地図) | 論考ではない。刊年・書評者の水準・ガッティングの擁護のみ利用 |
IV 争点の整理
六章にまたがる争点を、表 IV.1 に整理する。左に批判側の主張、右に擁護・再解釈側の応答を置き、要約にとどめた章のうち各争点に関わるものを、斜体で補った。
| 争点 | 批判側 | 擁護・再解釈側 |
|---|---|---|
| 縮約版と誤読 | スカル:完訳は欠陥を露わにするだけ。ミデルフォート/スカル:縮約は断絶説に好都合だった | ゴードン:縮約版の出版史の事実、ハワード訳は優秀。カステル:縮約版だけでなく時代文脈(1968 年以後)も原因。ピュー:翻訳原因説は幻想、ハワード訳は十分。ピアソン:完訳があっても好転せず、テクストを迎えた世界に戻せ |
| 「フランス」の一般化 | スカル、ミデルフォート、ポーター(「フランスのイデオロギーの投影」) | ゴールドスタイン:玉虫色の「フランス」は意図的な修辞戦略で、啓蒙の再解釈というヨーロッパ的射程をもつ |
| 大監禁の規模 | ポーター(イングランドは 19 世紀が大監禁、分けるのが傾向、労働の結びつきは弱い)、ミデルフォート(スウェイン=ゴーシェの 5,000 人) | ゴードン:フーコーは統計のゆるやかさも労働計画の失敗も記している。新しさは体系性、範囲、統一的根拠 |
| テューク=ピネルと医学 | スカル:素人テュークによる医学への脅威を隠している | ゴールドスタイン:事実の範囲内で英仏を近づけた。「医学」の二義は異化の戦略。ゴードン:「On croit」の省略、四つの区別。ローズ:医師の管轄は「医療起業家」論ではなく、社会防衛と憲法上の正当化という二重の要請の解決 |
| 阿呆船 | ミデルフォート、スカル。ラカプラ(注 1):フーコーは ils ont existé と書いており、ミデルフォートは巡礼に触れている | ゴードン:三文六頁の問題。巡礼は実在。「境界性」の主張であって中世礼賛ではない。メギル:一文は実在を肯定しつつ否定する曖昧さそのもの。ピュー:統語の慣用を読み損ねたささいな誤訳 |
| 宗教・悪魔憑き | ミデルフォート:精神疾患観念の最重要の源泉を排除した | ゴードン:コリント前書の主題、1968 年論文「宗教的逸脱と医学知」 |
| 心理学 | ポーター:ロック=バッティの連合心理学を無視 | ゴードン:「誤謬としての狂気」の治療は論じている。否定したのは近代的内面性としての心理学 |
この表を見渡すと、論争が二つの水準で行われていることが分かる。一つは事実の水準である。イングランドで 1800 年頃に閉じ込められていた狂人は何人か。阿呆船は実在したか。テュークは医師だったか。フーコーはロックに触れているか。これらは史料によって決着がつく問いであり、実際、ポーターの数字、ミデルフォートの巡礼の調査、テュークが茶商であったこと、ロックへの言及が一箇所であることについて、両陣営に争いはない。ゴールドスタインは注で、スカルの事実上の指摘に異論はないと明記し、ゴードンも川での送還の実例が三件で全部なら「フーコーは推論を誤った」と認めている。ラカプラが注 1 で指摘したとおり、ゴードン自身の記述にも事実の誤りがあり(フーコーは船が「実在した」と書いている)、ゴードンは第 14 章でこれを三文の「詩的許容」として処理し直した。
もう一つは読解の水準である。同じ事実から何が導かれるか。フーコーは阿呆船が「実在した」と書いたとき、何を主張していたのか。「医学」の語の二義性は混乱か戦略か。大監禁の「新しさ」は収容の規模にあるのか、監禁実践の体系性と統一的根拠にあるのか。ここでは両陣営は決着しない。スカルがゴードンの弁護を「何でもありの注釈体制」と呼び、ゴードンがスカルの読みを「修辞学的ロボトミー」と呼ぶとき、両者は互いの読み方そのものを非難している。ゴードンが結論で「伝達の失敗」と呼んだのは、この第二の水準での対立である。
第三の水準がある。フーコーを歴史学の基準で読むこと自体が適切かという、基準の水準である。ゴードンは第 14 章の導入で批判者を、全文版を読んでも歴史学の基準は満たせないとする派(スカル、ミデルフォート、メルキオール)と、フーコーを歴史学の基準で読むこと自体がカテゴリー錯誤だとする派(ラカプラ、メギル、ピアソン)に分けた。要約にとどめた諸章の多く——ボヴェ、ラカプラ、メギル、ピュー、そして受容の側からピアソン——はこの第三の水準にある。それらは第一・第二の水準の論争を裁定するのではなく、その論争が行われている土俵そのものを問う。本稿が六章を詳述の対象に選び、これらを要約にとどめたのは、この水準の違いによる。フランス語圏の批判系譜と比較しうるのは第一・第二の水準であり、第三の水準はフーコーの文体と学問性をめぐる、英語圏に固有の論争である。
なお、要約にとどめた諸章に共通する横断的な論点として「経験」(expérience)の語がある。メギルは 1961 年序文において「狂気それ自体の歴史」の主張と否定が併存していると読み、ゴードンの「正気の主体が狂気に出会う経験」という社会学的な読みを還元的だと批判する[35]。ローズはゴードンと同じく、それが指示対象の歴史ではないことを確認したうえで、狂気に固有のものへの関心をむしろ本書の力の源とみる[38]。ピューは expérience が experiment とも訳しうることに注意を促す[37]。この論点は本稿の六つの争点には数えないが、フーコーが狂気を実体化する誘惑を捨てていたかどうかという、エーの批判に接続しうる問いであり、記しておく。
筆者は別稿で、フーコーの「大監禁」を、出来事としての大監禁と構造としての大監禁に区別した[1]。出来事としての大監禁とは、1656 年を起点とし、ヨーロッパ全土で一斉に、同じ意味をもって起こった均質な事件としての大監禁である。構造としての大監禁とは、救貧、労働規律、道徳的分類、監禁が一つの統治形式として結合したことを指す。この区別をこの論争に当てると、次のように整理できる。ポーターとスカル、そしてミデルフォートが崩しているのは、主に出来事としての大監禁である。ポーターはイングランドで 1656 年に相当する出来事がなかったことを示し、スカルは「ヨーロッパ全土で監禁は同じ意味をもった」という本文の箇所を挙げて、その一般化の誤りを指摘する。これに対してゴードンが第 14 章で守っている「体系性、範囲の広さ、統一的根拠」と「逸脱概念の可能性条件」は、構造としての大監禁の側にある。ゴードンは 1656 年の一斉性を守っているのではなく、監禁が一つの統治形式として結合したことの新しさを守っているのである。カステルが『精神医学的秩序』で引き継ぎ、行政文書によって書き直したのも、この構造としての側面であった[11]。したがって、この論争において批判側と擁護側は、厳密には同じものを争っていない。批判側は出来事を否定し、擁護側は構造を肯定している。両者がすれ違うのはそのためであり、ゴードンの「伝達の失敗」の一部は、この二つの大監禁が区別されずに争われたことに由来すると筆者は考える。
V 筆者の見方——二つの論争を並べて
本章は筆者自身の見方を記す。別稿で扱ったフランス語圏の批判系譜と、本稿で紹介した英語圏の論争を並べたとき、何が見えるか。
1 精神科医の不在
まず目につくのは、英語圏の論争に臨床精神病理学の声がないことである。本書の十二の応答のうち、精神医療の実践の側に立つのはバラム(第 2 章)の一篇である。初稿で筆者は、ゴードンの要約に拠って、この章を精神科医がフーコーを脅威と感じたかどうかという受容の問題を扱うものと記したが、通読してみるとそうではない。バラムの批判は、フーコーの狂気像に、狂人のうちに残る理性と社会性への感覚、混乱した人々が理解可能な行為者として承認されようとする苦闘への感覚が欠けていること、狂人の理性への再参入がつねに「捕捉」として描かれ、対話の回復の余地が残されていないことを突く。そして断ち切られた対話を更新しうる合理性を把握するには、フーコーよりもマンフレート・ブロイラーの長期経過・家族研究を精読するほうが得るものが多い、と結ぶ[32]。これは臨床の経験に根ざした批判であり、本書のなかで筆者の立場に最も近い。しかし、その水準は治療関係と対話の水準である。バラムは狂気が「人間の自然の病理」であるか文化の産物であるかを問わず、フーコーの狂気の定式が臨床のどの現象に妥当しどの現象に妥当しないかを問わない。他の応答者は歴史家、社会学者、哲学者、文学理論家、翻訳者である。論争の主題は、史料の扱い、統計、翻訳、修辞、歴史学の方法であり、狂気とは何かという問いは、ローズが「精神医学史の対象」として理論的に立てる(第 III 章 7 節)ほかは、正面から立てられていない。
これに対してフランスの論争では、精神科医が最初の、そして最も根本的な批判者であった。アンリ・エーが 1969 年のトゥールーズ会議で行い、1971 年に論文化した批判[30]は、フーコーの史料の扱いを問うものではない。フーコーが狂気を本質的に「覚醒した夢」として定式化したとき、その定式はフランス語の délire が包含する二つの臨床現象——意識混濁を伴う可逆的なせん妄と、意識清明のまま現実の偽造が生じる妄想——のうち、前者には妥当しても後者には原理的に届かない。エーの批判の核心はこの臨床精神病理学の指摘にあり、それは狂気が「人間の自然の病理」であるか文化の産物であるかという、精神医学の存立にかかわる問いに直結していた[1]。この水準の問いは、英語圏の論争には現れない。ポーターがバッティの「誤って推論する者」としての狂人像を挙げ、ゴードンが「誤謬としての狂気」の治療をフーコーが論じていると答えるとき、両者は 18 世紀イングランドの言説史を争っているのであって、狂気の病理学的現実を争っているのではない。
この不在は、論争の性格の違いとして理解できる。英米の論争は歴史学の方法と史料の水準で行われた。別稿の四本の柱でいえば、それはケテルの水準である。ポーター、ミデルフォート、スカルが行ったことは、史料と統計によってフーコーの叙述を検証するという点で、ケテルが『狂気の歴史』第三部と第四部で行ったことと同じ次元にある。英語圏にはこのケテルの水準に相当する批判は豊富にあるが、エーの水準に相当する批判がない(バラムは臨床の側に立つが、その批判は治療関係の水準にとどまる)。フランスの論争は、少なくともその第一段階(エー)では、精神医学の存立をめぐる水準で行われ、第二段階(ケテル、スウェイン、ゴーシェ、カステル)で歴史学と社会学の水準に移った。英語圏には第一段階に相当するものがない。その理由を筆者は特定できないが、一つの事情として、フランスでは精神科医の学術団体「進化精神医学」が本書を年次会議の主題に取り上げたのに対し、英米ではフーコーの受容がまず歴史学と社会理論の領域で起こったことが挙げられよう。いずれにせよ、この違いは、英語圏の論争を読むだけでは『狂気の歴史』批判の全体像が得られないことを意味する。
この対比を鮮明にするのがローズの章である。ローズは、本書の精神医学批判が「別の狂気存在論」に基づかないこと、狂気として問題化される存在の様式が精神医学の構成と同じ歴史的運動のなかで形成されることを、本書の力の源とみる[38]。エーの批判はちょうどその逆を主張する。狂気は文化が構成する以前に人間の自然の病理として存在し、その病理学的構造——délire の二義——を欠いた歴史は、精神医学の対象を取り逃がす。ローズとエーは、狂気に固有の存在論を認めるか否かという同じ一点で正反対の立場に立っており、英語圏の擁護論とフランスの精神科医の批判との距離を測る軸として使える。なお、エリクソンの書誌によれば、1960 年代にイギリスの精神科医と思われる評者がハワード訳を書評しているが(フリーマン、パリー=ジョーンズ〔要確認〕)、いずれも反精神医学への位置づけと史実の水準で論じており、精神疾患概念そのものに踏み込んだのは非精神科医の二人の評者だけであった[39]。またピアソンは、1967 年のイギリスでレインに傾倒した精神科医はごく少なかったと述べる[36]。英語圏で精神科医がこの本を、臨床精神病理学の側から、フーコーの狂気概念の内容に即して論じた形跡は、本書の範囲では見あたらない。
もう一つ、論争のなかで提起されながら発展しなかった論点を記しておく。ポーターが挙げたロックの狂気観——狂気は観念の誤った連合から生じるという説——である。ロックからバッティ、アーノルドを経てコノリーにいたるこの線は、狂気を思考における連想の障害とみる見方であり、ゴードンは「誤謬としての狂気」の治療をフーコーが論じていると答えるにとどめた。論争はそこで終わっている。しかしこの線は、筆者が別稿でブロイラーについて論じた連合心理学の系譜——連合の弛緩(Lockerung der Assoziationen)を統合失調症の基本障害とみたブロイラーの理論——に直接つながるものである[31]。18 世紀イングランドの連合説と 20 世紀初頭のチューリヒの連合説がどのような経路で結ばれているかは、本稿の主題ではない。ただ、フーコー論争のなかでこの線が言及されながら深められなかったことは、この論争が歴史学の水準にとどまったことの一つの証左であり、精神病理学の側から改めて取り上げる価値のある論点として、ここに記しておく。
2 「修辞戦略」という擁護について
ゴールドスタインの章は、応答者のなかで最も洗練された擁護である。フーコーの「フランス」の曖昧さ、「医学」の二義性、テュークの素人性の省略を、いずれも意図的な修辞戦略——対象の輪郭を揺るがせ、過去を異化するための手段——と読む。この読みは、フーコーの企てを内側から理解しようとする点で説得力がある。筆者も、テュークをめぐるゴールドスタインの本文読解——フーコーはテュークを医師と書いていない、リトリートに医師を任命したと書いている——は正確であり、スカルの批判の一部を無効にすると考える。
しかし、精神医療に携わってきた者として、筆者はこの擁護に留保をもつ。スカルが注で述べているとおり、「意図的な修辞戦略」という読みを受け入れると、フーコーのあらゆる曖昧さと省略が戦略として弁護できることになり、テクストは事実による検証を免れる。ゴールドスタイン自身、「フーコーが自分の企てを制御していたと仮定すれば」と条件をつけている。この仮定が成り立つかどうかは、テクストだけからは決められない。そして、精神医学の歴史を書く目的が過去の異化にあるのか、それとも、たとえばピネルが何を見出し、何を見出さなかったかを確かめることにあるのかによって、答えは変わる。筆者は別稿で、スウェインとゴーシェがピネルの臨床のなかに「狂気における主体」の発見を読み取ったことを、フーコーの「解放」=新たな監禁という読みに対する根本的な修正として扱った[1]。スウェインの読みは、フーコーの修辞を異化の戦略として尊重することからは出てこない。それは、ピネルの症例記述を臨床的に読み直すことから出てきた。修辞戦略としての擁護は、フーコーを歴史家の批判から守るが、同時に、フーコーが精神医学について何を見誤ったかを問う道を閉ざす。
要約にとどめた諸章のなかに、ゴールドスタインの読みを別の方向から支える論者がいる。メギルは、フーコーの曖昧さが訳の問題ではなくテクストの構成原理であり、フーコーは曖昧でない書き方を選べたのにあえて曖昧に書いたと論じ、ピューはアイロニーを『狂気の歴史』の主文彩とし、「原義も最終的な意味もない」と言う[35][37]。彼らはゴールドスタインより一歩進んで、この曖昧さを弁護するのではなく肯定する。フーコーは「受け入れられない」、それこそが要点だ、というメギルの結論がそれである。筆者の留保は、この方向にいっそう強く向けられる。曖昧さが構成原理であるなら、テクストは事実による検証を原理的に免れる。それは文学の読みとしては成り立つが、精神医学の歴史の読みとしては、ピネルが何を見出し何を見出さなかったかを確かめる道を閉ざす。スカルが「意図的な修辞戦略」の学問的妥当性を問うたのは、この意味で正当である。
3 カステルの位置
カステルは本書のなかで独特の位置にある。彼はゴードンの擁護論に「全面的に賛成」しながら、受容史という別の軸を持ち込む。そして『精神医学的秩序』の著者として、フーコーの分析を引き受けたうえで史料によって書き直すという、批判とも擁護とも異なる第三の姿勢を体現している。ゴードンが第 14 章で、19 世紀に医師がアサイラムの支配権を握る過程だけで精神医学の医学的特質を説明できるかは疑わしいと述べ、「この点でカステルはフーコーに明示的に従っている」と付け加えるとき、ゴードンはカステルを自陣に引き入れている。しかしカステル自身の 4 頁は、フーコーの命題の真偽を論じていない。彼が論じているのは、命題がどう読まれたかである。
筆者は別稿でカステルを「否認せざる批判」の第二の型として扱った。本書のカステルの章を読んで確かめられたのは、彼のこの姿勢が、1960 年代前半に本書をゴフマンと並べて「認識論的切断」の道具として読んだ経験に根ざしていることである。カステルにとってフーコーは、精神医学の理論を専門家の解釈から切り離して組み立てるための方法であり、その方法は、1968 年以後の政治的読解によっても、英米の歴史家の事実批判によっても、揺るがない。彼の史料による書き直しは、フーコーの命題を検証するためのものではなく、その命題が可能にした問いを追うためのものであった。この点で、カステルは英語圏の論争の外に立っている。彼は批判側にも擁護側にも属さず、両者が争っている事実と読解の二つの水準のいずれとも異なる、第三の水準——方法としてのフーコー——にいる。ピアソンが本書でカステルの英国版ともいうべき受容の社会学を試みていることは第 III 章 7 節に記したが、ピアソンがゴードンの訂正戦略そのものを退けるのに対し、カステルはゴードンに「全面的に賛成」したうえで受容史を交差させよと言う[36]。この違いは、カステルが方法としてのフーコーを手放していないことから来る。
4 本書を読むことの意義
以上を踏まえて、本書を読むことの意義を記す。第一に、本書は英米の歴史学がフーコーの何を受け入れ何を退けたかを、一冊のなかで見渡させてくれる。受け入れたのは、狂気の歴史を真剣な知的主題としたこと、狂気の歴史が理性の歴史と切り離せないこと、そして——スカルすら認めるように——この 15〜20 年の優れた研究の多くがフーコーへの応答として書かれたことである。退けたのは、出来事としての大監禁、阿呆船の実在、無差別収容、狂気と怠惰の結合、テュークの断絶性である。この線引きは、フランスでケテルとスウェイン=ゴーシェが史料によって引いた線とほぼ重なる。フランスの外で独立に得られた同じ結論は、別稿の実証的な柱を補強する。この線引きは、要約にとどめた章まで含めても変わらない。ボヴェ、ラカプラ、メギル、ピュー、ローズは事実の水準で批判側に反論しているのではなく、その水準で裁くこと自体を問うているからである。
第二に、本書は論争そのものの記録として読むことができる。ゴードンが「伝達の失敗」と呼び、スカルが「何でもありの注釈体制」と呼んだものは、一つのテクストをめぐる読み方の対立が、事実の水準で決着した後も残ることを示している。筆者が第 IV 章で述べた出来事としての大監禁と構造としての大監禁の区別は、この残余の一部を説明する。批判側は出来事を否定し、擁護側は構造を肯定している。両者が同じものを争っていると思い込んでいる限り、伝達は失敗しつづける。
第三に、本書を読むことで、フランス語圏の批判系譜の固有性がはっきりする。英語圏の論争に精神科医の声がないことは、逆に、エーの批判がいかに独特のものであったかを浮かび上がらせる。史料と統計と翻訳をめぐる論争は、狂気の病理学的現実という問いに触れない。その問いを立てたのは、フランスの精神科医であった。筆者が別稿をフランス語圏に限定し、英語圏の論争を本稿として独立させたのは、この二つの論争が同じ土俵にないからである。二つを並べて読むことによってはじめて、それぞれの土俵が見える。
おわりに
本稿は、Still と Velody の編んだ『Rewriting the History of Madness』の全十五章を視野に入れ、六章を詳しく紹介し、他の章については要約と簡略にとどめた理由を記したうえで、争点を整理し、フランス語圏の批判系譜との対比を試みた。この論文集は、英語圏における『狂気の歴史』論争を知るための最良の入口であると筆者は考える。批判側と擁護側が同じ頁を指しながら争っているために、論点が明確であり、しかも各章は短く、専門外の読者にも読みやすい。日本語では、筆者の知る限り、この論争が紹介されたことはない。
残された課題を記しておく。第一に、各章が引くフーコーの原文の箇所を、1972 年ガリマール版で照合すること。本稿は著者たちがフーコーをどう読んだかを紹介したのであり、その読みの当否を原典によって確かめる作業は行っていない。第二に、スカルの 2019 年の論集[25]と、ミデルフォートの 1980 年論文[5]を読み、論争の前史と後史を補うこと。第三に、雑誌には載ったが本書に収められなかったメルキオールとラビノウの応答[40]を読むこと。第四に、要約にとどめた章のうちバラムとローズを、別稿との関係——バラムのマンフレート・ブロイラーへの言及はブロイラー論文[31]と、ローズの「二重の要請」は 1838 年法論文[41]と——において改めて取り上げること。これらは、本稿の改訂において順に行う予定である。
最後に一言。この論争を読み終えて筆者に残ったのは、ゴードンが「教訓」の節で述べた一文である。フーコーは難しく、おそらく度を越して難しい。しかし他の人々はこの難しさを扱うのに楽をしすぎた。筆者は別稿で、エーが 1969 年にフーコーに向けた結語「謝罪ではなく感謝を」を手がかりに、フーコーの挑戦が批判者たちに自らの学問的根拠と限界を自覚させた触媒であったと書いた。英語圏の論争を読むと、その触媒作用がフランスの外でも、別の仕方で働いていたことが分かる。スカルの言葉を借りれば、この 15〜20 年の優れた研究の多くはフーコーへの応答として書かれた。批判者たちがフーコーに負っているのは、彼らが退けた命題ではなく、彼らにその命題を退けさせるための仕事を要求した、問いの力である。