第11章 気分症群
「元気がない」の背景を読む――言葉にならない抑うつをどう見つけるか
コア層 約13分/全層(上級職向け解説含む) 約35分本章では、ICD-11における気分症群(抑うつ症群と双極症群)の骨格を学び、知的発達症のある利用者に気分の変化がどのように現れるかを詳しく扱います。
本章の重心は、はっきり意識してください。教科書どおりの重いうつ病は、施設ではまれです。 当法人の長年の臨床経験では、明確なメランコリー型(後述)の像を呈する利用者は全体のごく一部にとどまります。その一方で、環境の変化・喪失・対人トラブルのあとに生じる「軽い反応性の抑うつ」は、日常的にいくらでもあります。本章はこの現実に合わせ、診断要件は簡潔に、「知的発達症のある方で抑うつがどう見えるか」と「軽い反応性の変化にどう関わるか」に最も多くの分量を割いています。
そして本章で最も重要な部分は、7節の「死にたい」と言われたとき/自傷が増えたときの対応です。時間がない方でも、ここだけは必ずお読みください。
新任の方・時間のない方は、4節「知的発達症のある方における現れ方」と7節「その場の対応」だけをお読みください。これだけで日々の業務に必要な内容は足ります。経験のある方・主任以上の方は、全体をお読みください。折りたたみの「もっと詳しく」は、関心のある方向けの補足です。
1. なぜ施設で気分症群を学ぶのか
本マニュアルは長いあいだ、気分症群の章を置いていませんでした。理由は明確です。知的発達症のある利用者で、精神科の教科書に載っているような典型的なうつ病の像――深い悲哀感、強い自責、朝の著しい落ち込み、精神運動の制止――をはっきり呈する方は、決して多くないからです。そうした方に出会ったときには、当法人ではこれまでも『精神医学マニュアル』に準拠した対応をとってきました。
それでも本章を新たに設けたのは、もう一方の現実があるからです。担当職員が替わった、同室の方が転居した、家族の面会が途絶えた、作業所で他の利用者とぶつかった――こうした出来事のあとに、「なんとなく元気がない」「食が細い」「よく寝ない」「怒りっぽい」「これまでできていたことをしなくなった」という変化が現れることは、どの施設でも日常的にあります。この「軽い反応性のもの」こそが、職員が実際に最も多く出会う気分の問題です。
本章は、この日常的な変化を見て・関わって・伝えるための章です。診断を下すための章ではありません。
見落とされる二つの理由
知的発達症のある方の抑うつが見落とされるのには、はっきりした理由が二つあります。
第一に、診断的オーバーシャドウィング(diagnostic overshadowing)です。「もともと表情が乏しい方だから」「もともと寝つきが悪い方だから」「もともとこだわりが強くて怒りやすい方だから」――こうして、変化が知的発達症の特性として片づけられてしまいます。この問題は第1章と第6章でも繰り返し扱ってきた、本マニュアル全体を貫く主題です(第1章8節、第6章7節)。
第二に、気分の変化が「行動の問題」として記録されてしまうことです。抑うつが易怒性として現れれば「攻撃性の悪化」と書かれ、活動から退けば「意欲低下」「怠けている」と書かれ、これまでできていたことをしなくなれば「わがままになった」と書かれます。記録の言葉が「困った行動」になった瞬間、背景を読む問いが立たなくなります。本マニュアルが一貫して求めてきた「氷山の下を見る」視点は、気分症群でこそ試されます。
WHOの診断ガイドライン(CDDR)は、知的発達症のある人について、抑うつ症群・双極症群を含むいくつかの精神疾患が、一般人口より高い頻度で併存すると明記しています(CDDR p.95)。また、「認知症または知的発達症があることは、単一エピソード抑うつ症・反復性抑うつ症の診断を除外しない」とも述べています(CDDR p.250)。
CDDRは、「知的発達症に他の精神疾患が併存している人の自殺リスクは、知的発達症の併存がない精神疾患の患者と同程度である」と記しています(CDDR p.95)。「死にたい」と言われたときの対応は、本章7節にまとめています。
2. ICD-11における気分症群の骨格
気分症群は、双極症群と抑うつ症群をまとめた上位のグループです。ICD-11では、気分症群は「どの種類の気分エピソードが、どういう順序と組み合わせで起きてきたか」によって定義されます(CDDR p.211)。
2-1. 気分エピソードは診断名ではありません
これは、診断書を読むときに知っておくと役に立つ点です。
ICD-11には、次の4つの気分エピソードが定義されています。
- 抑うつエピソード(depressive episode)
- 躁エピソード(manic episode)
- 混合エピソード(mixed episode)
- 軽躁エピソード(hypomanic episode)
しかしCDDRは、これらについてはっきりこう書いています。「気分エピソードは独立して診断可能な単位ではなく、したがって固有の診断コードをもたない。気分エピソードは、双極症および関連症群と抑うつ症群を構成する部品である」(CDDR p.211)。
抑うつエピソードは部品であり、それが1回だけなら「単一エピソード抑うつ症(6A70)」、2回以上なら「反復性抑うつ症(6A71)」という診断名になります。躁エピソードが1回でもあれば、たとえ抑うつのほうが目立っていても診断は「双極症I型(6A60)」に変わります。
利用者の診断書に「反復性抑うつ症 現在エピソード中等症 精神症状を伴わない」と書かれていた場合、これは「抑うつエピソードが過去に2回以上あり、いま中等症の抑うつエピソードの最中で、幻覚や妄想はない」と読みます。診断名(反復性抑うつ症)+現在の状態(中等症の抑うつエピソード)+精神症状の有無、という三層構造になっているわけです。この読み方を知っておくと、主治医の説明が格段に理解しやすくなります。
2-2. 4つの気分エピソードと持続期間
それぞれの気分エピソードには、持続期間の要件が定められています。これは診断書を読むうえでも、職員が「いつからの変化か」を記録する意味を理解するうえでも重要です。
| 気分エピソード | 持続期間の要件 | 中核となるもの |
|---|---|---|
| 抑うつエピソード | 少なくとも2週間、ほぼ毎日、1日の大半(CDDR p.212) | 特徴的な症状のうち少なくとも5つが同時に存在し、そのうち少なくとも1つは感情クラスター(抑うつ気分/興味・喜びの減退)から(CDDR p.212) |
| 躁エピソード | 少なくとも1週間、ほぼ毎日、1日の大半。ただし治療介入によって短縮された場合はこの限りではない(CDDR p.217) | 極端な気分状態(多幸・易刺激性・開放性)と、活動またはエネルギーの増加が同時に存在すること(CDDR p.217) |
| 混合エピソード | 少なくとも2週間、ほぼ毎日、1日の大半。治療介入で短縮された場合を除く(CDDR p.220) | 顕著な躁症状と顕著な抑うつ症状が、同時に存在するか、非常に急速に(日ごと、または同じ日のうちに)交代する(CDDR p.220) |
| 軽躁エピソード | 少なくとも数日間、ほぼ毎日、1日の大半(CDDR p.222) | 躁エピソードと質的には似るが、著しい機能障害を起こすほど重くなく、妄想・幻覚を伴わない(CDDR p.223) |
※ 診断は医師が行います。この表は、職員が診断書や医師の説明を理解するための参照表としてお使いください。職員がこの表で重症度や期間を判定する必要はありません。
2-3. 気分エピソードから診断名へ
4つの気分エピソードは診断名ではなく、診断を組み立てる部品です(CDDR p.211)。どの部品が何回、どんな順序で起きたかによって、診断名が決まります。躁側のエピソードが1回でも確認されれば、診断は抑うつ症群から双極症群に移ります(CDDR pp.225, 244)。
もっと詳しく:気分症群に属するその他のカテゴリと、月経前不快気分症
図に挙げた6つのほかに、ICD-11の気分症群には次のカテゴリがあります。診断書で目にすることがあります。
- 6A6Y/6A6Z:他の特定される双極症または関連症/双極症または関連症、特定不能
- 6A7Y/6A7Z:他の特定される抑うつ症/抑うつ症、特定不能
- 6A8Y/6A8Z:他の特定される気分症/気分症、特定不能。双極性とも抑うつ性とも明確に記述できない気分症状(他に明らかな躁・抑うつ症状がないのに、著明で持続的な易刺激性があるなど)に用いられます(CDDR p.263)
月経前不快気分症(GA34.41)
この診断は、ICD-11では第16章(泌尿生殖器系の疾患)に分類されていますが、気分症状が前面に出るため、鑑別の助けとして気分症群のところにも相互掲載されています(CDDR p.261)。
要件の骨格は次のとおりです(CDDR p.261)。過去1年の月経周期の大多数において、月経開始の数日前に始まり、月経開始後数日以内に改善しはじめ、月経開始後およそ1週間以内に最小になるか消失する、気分・身体・認知症状のパターンが存在すること。症状には、気分の不安定さ・易刺激性・抑うつ気分・不安のうち少なくとも1つの感情症状と、無気力・関節痛・過食・過眠・乳房緊満・四肢のむくみ・集中困難・物忘れなどの身体・認知症状が含まれます。症状と月経周期の時間的関係は、少なくとも2回の症状のある月経周期にわたる前方視的な症状日記で確認されることが望ましいとされています。
この「前方視的な記録」という点が、施設の実務に直結します。言葉で訴えられない利用者では、職員の日々の記録だけが、周期性を確認する手段になります。「月に一度、数日間だけ荒れる」「毎月同じころに自傷が増える」といった印象がある場合は、月経の記録と行動の記録を同じ表に並べて数か月分つけ、医療職に渡してください。なお、黄体期後期から月経期にかけての軽い気分の変化(いらいら、緊張感)は多くの女性にみられるもので、これを月経前不快気分症と呼ぶべきではないとされています(CDDR p.262)。
3. 抑うつエピソードの症状
抑うつエピソードの診断要件は、特徴的な症状のうち少なくとも5つが同時に存在し、それが1日の大半、ほぼ毎日、少なくとも2週間つづくことです。そのうち少なくとも1つは、感情クラスターの症状でなければなりません(CDDR p.212)。
そして、CDDRは重要な注意を添えています。「症状があるかないかの評価は、その個人の通常の機能を基準として行われるべきである」(CDDR p.212)。本マニュアルが用いてきた「ベースラインからの変化」という言い方は、この考え方にあたります。
3-1. 三つのクラスター
CDDRは、抑うつエピソードの症状を三つのまとまり(クラスター)に整理しています。この整理は、職員が観察を組み立てるうえでも有用です。
| クラスター | 診断の核心(CDDR pp.212–213) | 施設での観察ポイント |
|---|---|---|
| 感情 少なくとも1つ必須 |
抑うつ気分。本人が報告する(気が沈む、悲しい)か、観察される(涙もろい、打ちひしがれた様子)。子どもや青年では易刺激性として現れうる | 表情が乏しくなった。笑わなくなった。目を合わせなくなった。急に泣く。逆に、いらいらして怒りっぽくなった |
| 活動への興味や喜びの著明な減退。とくに本人がふだん楽しんでいた活動について。性的欲求の減退もこれに含まれうる | 好きだったテレビ番組を見なくなった。好きな職員が来ても寄ってこない。散歩・音楽・作業を嫌がる。「その人が好きなもの」を知っている職員でなければ気づけません | |
| 認知 行動 |
集中や注意を持続する能力の低下、または著明な決断困難 | 作業の手が止まる。手順を最後までやりきれない。声かけへの反応が遅い。「どっちにする」に答えられなくなった |
| 低い自己価値の信念、または過剰で不適切な罪責感(妄想的な水準でありうる)。ただし、罪責感や自責がもっぱら「自分が抑うつであること」についてのものである場合は、この項目があるとみなさない | 「自分はだめ」「ごめんなさい」を繰り返す。叱られていないのに謝り続ける。自分を叩く | |
| 将来についての絶望 | 言葉での表現はまれ。予定を楽しみにしなくなった、行事の準備に加わらなくなった、といった形で現れることがある | |
| 死についての反復的な思考(単なる死の恐怖ではない)、反復的な自殺念慮(具体的な計画の有無を問わない)、または自殺企図の証拠 | 「死にたい」「いなくなりたい」「もういい」。亡くなった人の話を繰り返す。自傷の頻度・強度の増加。→ 7節へ | |
| 自律 神経 |
睡眠の著明な乱れ(入眠の遅れ、夜間覚醒の増加、早朝覚醒)、または過剰な睡眠 | 消灯後なかなか寝つかない。夜中に何度も起きる。いつもより2時間早く目が覚めている。逆に日中も寝てばかり(第10章) |
| 食欲の著明な変化(減少または増加)、または体重の著明な変化(増加または減少) | 主食を半分残すようになった。おかわりをしなくなった。逆に過食。体重測定の数値は最も客観的な指標です(第8章) | |
| 精神運動の焦燥または制止。他者から観察可能なものであり、単に「落ち着かない」「遅い」という主観的な感覚ではない | 動作がゆっくりになった。声が小さくなった。歩く速さが落ちた。逆に、そわそわして座っていられない、手をもみ続ける | |
| エネルギーの低下、疲労、またはわずかな労力のあとの著明な疲れやすさ | 作業の途中で座り込む。入浴を嫌がる。着替えに時間がかかる。以前は自分でしていた身のまわりのことを職員に任せるようになった |
この表は、報告すべき観察のチェックリストとしてお使いください。職員が「5つそろったか」を数える必要はありません。右列に当てはまる変化に気づいたら、その事実を具体的に記録して伝える――それが職員の役割です。
このほか、抑うつエピソードは死別によってよりよく説明されるものではないこと、他の医学的疾患(脳腫瘍など)の現れではなく、物質や薬剤の中枢神経系への作用によるものでもないこと、混合エピソードの要件を満たさないこと、そして生活の重要な領域に著しい機能障害をもたらしていることが要件に含まれます(CDDR p.213)。薬剤の項には離脱の影響も含まれます。また機能障害については、「機能が保たれている場合でも、それは著しい追加の努力によってのみである」と付記されています。日課をこなせているように見えても、以前よりはるかに大きな努力を要しているなら、それは機能が保たれていることを意味しません。この「他の医学的疾患・薬剤ではないこと」の確認は医師の仕事ですが、そのために必要な情報を出すのは職員です(4-5節)。
3-2. 重症度と精神症状の特定用語
抑うつエピソードの重症度は、症状の数と重さ、そして機能への影響にもとづいて評価されます。また中等症と重症については、「精神症状(妄想・幻覚)を伴わない/伴う」が区別されます。定義上、軽症の抑うつエピソードには精神症状は含まれません(CDDR p.216)。
| 重症度 | CDDRの記述(pp.216–217) | 施設での目安 |
|---|---|---|
| 軽症 | どの症状も強い程度には存在しない。本人はふつう症状によって苦痛を感じており、1つ以上の領域で生活を続けることにいくらか困難がある。妄想・幻覚はない | 日課はおおむねこなせるが、明らかに以前より重そうにしている |
| 中等症 | いくつかの症状が著明な程度に存在するか、より軽い症状が全体として多数存在する。ふつう複数の領域で生活を続けることにかなりの困難がある | 作業・入浴・食事など複数の場面で、支援がないと成り立たなくなっている |
| 重症 | 多くまたはほとんどの症状が著明な程度に存在するか、より少数の症状が強い程度に現れている。ほとんどの領域で生活を続けることに重大な困難がある | ほとんど動かない、食べない、飲まない、反応が返らない。医療的な緊急事態に近い状態です |
※ 重症度の判定は医師の仕事です。職員がこの表を使って重症度を決める必要はありません。この表は、医師の診断書に書かれた重症度が、目の前の利用者のどのような状態に対応しているのかを理解するためのものです。
重症の抑うつエピソードでは、飲食が止まり、脱水・低栄養が急速に進むことがあります。また、著明な精神運動制止はカタトニアと重なることがあり、緊張病性昏迷との区別が必要になります。動かない・話さない・食べない状態が続くときは、様子を見ずに当日中に医療につないでください(第12章)。
もっと詳しく:重症度の決め方は、ICD-10からICD-11で変わりました
診断書には、ICD-10に基づいて書かれたものとICD-11に基づいて書かれたものが、しばらくのあいだ混在します。どちらにも「軽症」「中等症」「重症」という同じ言葉が出てきますが、決め方が違います。
- ICD-10では、症状を「典型的な症状」3つ(気分の落ち込み、興味・喜びの喪失、疲れやすさ)と「その他の症状」7つに分け、いくつ当てはまるかを数えて重症度を決めていました(軽症=典型的な症状2つ+その他2つ以上、中等症=典型2つ+その他3〜4つ、重症=典型3つすべて+その他4つ以上)。
- ICD-11では、この数え方をやめました。上の表のとおり、症状の重さと、生活のどれだけの場面に困難が出ているかを合わせて、医師が判断します(CDDR pp.216–217)。
このため、同じ「中等症」でも、ICD-10の診断書とICD-11の診断書では、必ずしも同じ状態を指していません。たとえば、症状の数は少ないが一つひとつが重く、生活の困難が大きい方は、ICD-10では軽症、ICD-11では中等症以上と書かれることがあります。古い診断書と新しい診断書で重症度の記載が変わっていても、それだけで状態が変わったとは限りません。
もう一つの違いです。ICD-10では「精神症状を伴う/伴わない」の区別は重症のときだけでしたが、ICD-11では中等症にもこの区別がつきます。「中等症、精神症状を伴う」という診断書を見ても、書き間違いではありません。
職員にとって大切なのは、ICD-11の重症度が生活の困難の記述と結びついていることです。上の表の「施設での目安」の列は、そのために置いてあります。日課のどこで、どれだけ支援が必要になったか――この観察が、医師の重症度の判断を支える情報になります。ICD-10とICD-11の対応関係のくわしい表は、当法人の『精神医学マニュアル』第4章「気分症群」の「もっと詳しく」にあります。
もっと詳しく:「メランコリア」の特定用語 ― 著者のいう「明確なメランコリー型」とは
ICD-11には、現在の抑うつエピソードの性質を表す特定用語(specifier)として「メランコリアを伴う」(6A80.3)があります。CDDRは、現在の抑うつエピソードの最も悪い時期に、次のいくつかが存在する場合に適用できるとしています(CDDR p.249)。
- 本人がふだん楽しんでいるほとんどの活動における興味・喜びの喪失(広汎な無快感)
- ふつうなら快をもたらす刺激や状況に対する感情反応性の欠如(そうしたものに触れても、一時的にすら気分が上向かない)
- 早朝覚醒、すなわちいつもの起床時刻より2時間以上早く目が覚めること
- 抑うつ症状が朝に悪化すること
- 著明な精神運動の制止または焦燥
- 著明な食欲低下または体重減少
これが、精神科の教科書でいう「典型的なうつ病像」に最も近いまとまりです。当法人の臨床経験では、知的発達症のある利用者でこの像を明確に呈する方は、全体のごく一部にとどまります。そうした方に出会ったときは、本章ではなく当法人の『精神医学マニュアル』の該当章に準拠した対応をとってください。本章が重心を置いているのは、それ以外の――はるかに数の多い――軽い反応性の変化のほうです。
なお、感情反応性の欠如という項目は、施設の観察と直接つながります。好きな職員が来ても、好きな食べ物が出ても、外出の話をしても、まったく反応が変わらない――この「何をしても浮かない」という観察は、医療職に伝える価値の高い情報です。
もう一つの特定用語:「持続性」(6A80.2)
抑うつエピソードの診断要件が現在満たされており、かつ少なくとも過去2年間継続して満たされてきた場合(5つ以上の特徴的症状が1日の大半、ほぼ毎日)に適用されます(CDDR p.249)。長期入所の利用者では、「ずっとこうです」と申し送られてきた状態が、実は満たされ続けている抑うつエピソードだった、という可能性も念頭に置く必要があります。
3-3. 正常な落ち込みとの境界
CDDRは、正常な反応との境界について次のように述べています。「ある程度の気分の落ち込みは、重大な逆境的出来事や問題に対する正常な反応であり、地域社会でよくみられる。抑うつエピソードは、症状の重症度・範囲・持続期間によってこの一般的な体験から区別される」(CDDR p.213)。
そして重要なのは、続く一文です。「もし抑うつエピソードの診断要件が満たされるなら、エピソードの引き金となったと思われる同定可能な生活上の出来事があったとしても、抑うつエピソードは存在するとみなされるべきである」(CDDR p.213)。
これは施設の実務に直結します。「担当が替わったから落ち込むのは当たり前」「お母さんが亡くなったのだから仕方ない」――こうした説明は、理由の説明にはなっても、支援しなくてよい理由にはなりません。原因がわかっていることと、治療や支援が必要ないことは、まったく別のことです。
CDDRは、大切な人を亡くしてから6か月以内(その人の宗教的・文化的な文脈で、より長い服喪期間が規範的であればより長く)の正常な悲嘆症状は、抑うつエピソードとみなすべきではないとしています。ただし、正常な悲嘆の上に抑うつエピソードが重なることはあります。その示唆となるのは、喪失から1か月以上にわたって抑うつ症状が持続すること(つまり、気分が晴れたり何かを楽しんだりする時間がまったくないこと)、亡くなった人と関係のない極端な自己無価値感や罪責感、精神症状、自殺念慮、精神運動制止などです(CDDR p.214)。遷延性悲嘆症(6B42)については第6章6節を参照してください。
4. 知的発達症のある方における現れ方 ― 本章の中核
知的発達症のある方の抑うつは、多くの場合言葉で訴えられません。代わりに行動・生活・身体の変化として現れます。したがって職員が見るべきものは、「悲しいと言っているか」ではなく、「この方のいつもと、どこがどう違うか」です。この節は本章で最も分量を割いている部分であり、日々の業務に直結します。
4-1. CDDRが認めている「観察に頼る」という方法
CDDRには、この点について明確な記述があります。抑うつ症群の項に、次の一文があります。
「認知症または知的発達症の存在は、単一エピソード抑うつ症または反復性抑うつ症の診断を否定するものではない。ただし、コミュニケーションの困難のために、診断を下すにあたって、臨床家による観察や、本人をよく知る情報提供者による報告に、通常以上に依拠する必要が生じうる。観察可能な症状には、精神運動制止、食欲および体重の減少、睡眠の障害が含まれる。」
この「本人をよく知る情報提供者」にあたるのは、多くの場合、日々その方を見ている職員です。職員の観察を、そのまま医療者に渡してください。この構造は、第9章の神経認知障害群とまったく同じです。
さらにCDDRは、抑うつエピソードそのものの記述の中で、次の二点にも触れています(CDDR p.213)。
- 一部の人では、抑うつエピソードの感情面が、主として易刺激性として、あるいは感情体験の欠如(「空虚さ」)として体験され、表出される。こうした表現の変異も、その人の通常の機能からの著しい変化を表しているのであれば、抑うつエピソードの「抑うつ気分」の要件を満たすものとみなすことができる
- とくに重症の抑うつエピソードを経験している人では、特定の体験を語ることを渋ったり、詳しく語れなかったりすることがある(たとえば精神運動の焦燥や制止のために)。こうした場合、臨床家による観察や、周囲の情報提供者による報告が、診断とその重症度を決めるうえで重要になる
「言葉にできない人の抑うつを、行動から読む」というやり方は、施設の便宜的な代用品ではありません。CDDRが正面から認めている評価の方法です。
4-2. 抑うつは、どこに現れるか
知的発達症のある方の抑うつは、次の6つの領域に現れます。どれか1つだけでは「抑うつ」とはいえませんが、複数の領域にまたがる変化が2週間近く続いているなら、記録して伝える価値があります。
CDDRは、コミュニケーションに困難のある人では「観察可能な症状」として精神運動制止・食欲および体重の減少・睡眠の障害を挙げています(CDDR p.250)。施設ではこれに加えて、感情の出方(とくに易刺激性)、自傷、そして「これまでできていたことをしなくなる」という変化が、重要な手がかりになります。
4-3. 重症度別に、抑うつはどう見えるか
知的発達症の重症度によって、抑うつの現れ方は大きく変わります。認知・言語の能力が相対的に高い軽度では、症状は一般成人のうつ病像にかなり近い形で現れます。一方、重度・最重度になるほど、症状は言語化されず、行動と身体の変化としてのみ表現されるようになります。
| 症状領域 | 軽度知的発達症 | 中等度知的発達症 | 重度・最重度知的発達症 |
|---|---|---|---|
| 抑うつ気分 | 「さみしい」「つらい」「もうだめ」など、単純な言葉で訴えられることがある。ただし「憂うつ」といった語は使わない | 言葉での訴えは断片的。「いや」「かえりたい」など。表情の乏しさ・涙もろさとして観察されることが多い | 言語化されない。無表情、視線が合わない、うずくまる、反応が返らないとして現れる。あるいは終日いらいらしている |
| 興味・喜びの減退 | 「もういい」と好きな活動を断る。テレビや趣味への言及が減る | 好きな活動に誘っても動かない。好きな職員への接近が減る | 好きな音楽・食べ物・人に対する反応そのものが消える。「何をしても浮かない」 |
| 自己価値・罪責 | 「自分はだめだ」「みんなに迷惑をかけている」と言葉にできることがある | 「ごめんなさい」を繰り返す。叱られていないのに謝る。職員の顔色を過剰にうかがう | 言語化されない。自分を叩く・頭を打ちつけるといった自傷として現れることがある |
| 死・自殺 | 「死にたい」「いなくなりたい」と直接言うことがある。必ずそのまま受けとめてください | 「もういい」「消えたい」など間接的な表現。亡くなった家族の話を繰り返す | 言語化されない。自傷の頻度・強度の急増、危険な行動として現れうる |
| 睡眠 | 「眠れない」と訴えられる。夜間の様子も本人から聞ける | 訴えは少ない。夜間巡回での確認が主な情報源 | 訴えは期待できない。夜間巡回の記録がすべて。入眠時刻・覚醒回数・早朝覚醒 |
| 食欲・体重 | 「食べたくない」と言える。間食の減少も本人から聞ける | 食事量の減少として観察される。「いらない」と押し返す | 観察と体重測定の数値がすべて。摂取量を主食・副菜別に記録する意味が大きい |
| 精神運動 | 「体が重い」「だるい」と表現できることがある | 動作の緩慢さ、声の小ささ、歩行速度の低下として観察される | 臥床時間の増加、移乗への抵抗、まったく動かない。逆にそわそわが止まらない場合もある |
| 全体像 | 一般成人のうつ病像に比較的近い。ただし表現の仕方は独特なことがある | 行動観察が主な手がかり。「いつもと違う」への気づきが鍵 | 行動観察がほぼ唯一の手がかり。ベースラインからの逸脱として捉えるほかない |
この表は、報告すべき観察のチェックリストとしてお使いください。重症度の区分は、その方の言葉の力に応じて「どこを見ればよいか」を示すためのものであり、知的発達症の重症度を職員が判定するためのものではありません。
4-4. 「ベースラインからの変化」という枠組み
ここまで繰り返してきたとおり、知的発達症のある方の抑うつを捉える唯一の確かな方法は、その方自身の「いつも」との比較です。これは第9章3節で神経認知障害群について述べた論理とまったく同じものであり、当法人の観察の基本姿勢です。
- いつから変わったか。「最近」ではなく「7月20日ごろから」。きっかけと思われる出来事があれば、その日付も
- その方が好きだったものへの反応は変わっていないか。好きな職員・食べ物・音楽・場所への反応
- 睡眠と食事の「数字」は変わっていないか。入眠時刻、覚醒回数、主食の摂取割合、体重
- これまで自分でしていたことを、しなくなっていないか。着替え、歯みがき、片づけ、配膳の手伝い
- 怒りっぽさ・自傷は増えていないか。回数と強度の両方
- これは何日つづいているか。1日だけの不調と、2週間の変化はまったく別のものです
作業に出てこない、風呂に入らない、食事に来ない――こうした場面で、「甘えている」「怠けている」「わがままになった」という言葉がチームの中に出てきたら、それは立ち止まるべき合図です。同じ行動が、抑うつのエネルギー低下や興味の喪失によっても起こるからです。CDDRも、不服従や指示に従わないことが、興味・喜びの減退、集中困難、絶望、精神運動制止、エネルギー低下といった抑うつ症状の結果として生じうると明記しています(CDDR p.254。原文は「とくに子どもや青年でよくみられる」という限定つきの記述で、症状の列挙も例示です)。
見分けの手がかりは「以前からずっとそうだったのか、最近そうなったのか」です。長年、朝が苦手だった方が今朝も起きないのと、毎朝きちんと起きていた方が2週間起きられないのとでは、意味がまったく違います。
4-5. 身体・薬剤・環境 ― 三つの軸で考える
行動の変化に気づいたとき、いきなり「うつではないか」と考えるのは早すぎます。第1章8節で学んだ生物・心理・社会の三軸鑑別を、ここでも順に通してください。CDDR自身も、抑うつエピソードの診断には「他の医学的疾患の現れではないこと」「物質や薬剤の中枢神経系への作用によるものではないこと」を求めています(CDDR p.213)。
| 軸 | 考えられること | 職員が記録して伝えること |
|---|---|---|
| 身体 | 痛み(歯・腹・関節・褥瘡)、便秘、脱水、感染症、貧血、甲状腺機能低下症、悪性腫瘍、認知症の初期、せん妄。CDDRは、他の医学的疾患による抑うつ症候群は二次性気分症候群として診断すべきだとしています(CDDR p.254) | 体温・排便・体重・食事量の推移。痛そうにする部位。表情。急激な変化(数時間〜数日)はせん妄を疑い、その日のうちに医療へ(第9章4節) |
| 薬剤 | 向精神薬の変更・増量・減量。抗てんかん薬の変更。ベンゾジアゼピン系薬剤の影響。CDDRは、物質・薬剤の中枢神経系への作用(離脱を含む)による抑うつ症候群は物質・医薬品誘発性気分症として診断すべきだとしています(CDDR p.254) | 処方が変わった日付と、変化が始まった日付を必ず並べて書く。「7月10日にAを増量、7月14日ごろから日中の傾眠と食事量の減少」 |
| 環境・心理 | 担当職員の交替、同室者の変化、居室の変更、日課の変更、家族の面会の途絶、死別、他利用者とのトラブル、不適切な対応。CDDRは、知的発達症のある人にとって重大な生活の変化やトラウマ的体験はとくに困難でありうるとし、日課・構造・生活の場の変化への適応には追加的な支援が必要だと述べています(CDDR pp.95–96) | その方の生活に何が起きたかを時系列で。変化の前後で様子が違う特定の職員・利用者がいないか(虐待の手がかりになりえます) |
※ この表は、三つの軸すべてを通す習慣をつけるためのものです。どの軸かを職員が決める必要はありません。三つの軸それぞれについて事実を書き出し、医療職に渡してください。
もっと詳しく:認知症との重なりと、「うつによる偽性認知症」
CDDRは、高齢者が抑うつエピソードを経験しているとき、記憶の困難やその他の認知症状が現れることがあり、それが重篤でありうると述べています。そしてこれを認知症と区別することの重要性を強調しています。高齢者の記憶困難やその他の認知症状が抑うつエピソードの期間中にのみ生じている場合、認知症の診断は一般に適切ではないとされます(CDDR pp.215–216)。
ただし、抑うつエピソードが認知症の上に重なることもあります(たとえば記憶の困難や認知症状が抑うつエピソードの発症よりかなり前から存在していた場合)。この区別には、記憶の困難とその他の認知症状が、他の抑うつ症状との関係でいつ、どういう速さで始まったかが重要になります(CDDR p.216)。
知的発達症のある利用者の高齢化が進むなか、この区別は現実の問題になりつつあります。しかも知的発達症のある方では、もともとのベースラインが検査で測りにくいため、区別はいっそう困難です。職員にできることは、「認知の低下が先か、気分の変化が先か」を時系列の記録で示すことです。この点は第9章と合わせてお読みください。
5. 軽い反応性の抑うつと適応反応症
ここが、施設職員が実際に最も多く出会う領域です。環境の変化・喪失・対人トラブルのあとに生じる抑うつ的な変化を、どう見て、どう関わり、いつ医療につなぐか。そして、職員が行う環境調整そのものが治療的な介入であるということを扱います。
5-1. 施設で起きる「引き金」
知的発達症のある方にとって、次のような出来事は、私たちが考えるよりはるかに大きな意味をもちます。CDDRも、知的発達症のある人は、日課・構造・生活の場の変化に適応するために追加的な支援を必要とすると明記しています(CDDR pp.95–96)。
- 人の変化:担当職員の交替・退職・異動。長年関わってきた職員がいなくなること
- 住まいの変化:居室の変更、ユニットの変更、グループホームへの移行、施設間の異動
- 同居者の変化:同室者の転居、親しかった利用者の死去、新しい利用者の入所
- 家族の変化:面会の途絶、親の入院・施設入所、親やきょうだいとの死別
- 日課の変化:作業内容の変更、通所先の変更、行事の中止、時間割の変更
- 対人トラブル:他の利用者とのけんか、職員からの叱責、集団の中での孤立
- 身体の変化:加齢による機能低下、けが、入院、これまでできていたことができなくなること
5-2. 適応反応症(6B43)との関係
こうした出来事のあとの抑うつ的な変化は、多くの場合適応反応症の枠組みで理解されます。適応反応症は第6章5節で扱っていますので、あわせてお読みください。
職員として押さえておくべきCDDRの記述は、二つあります。
CDDRは適応反応症について、こう述べています。「適応反応症の症状は、ストレス因が取り除かれたとき、十分な支援が提供されたとき、または本人が新たな対処の手立てや方策を身につけたときに、通常は軽快する」(CDDR p.352)。
以下は本マニュアルの運用上の考え方です。職員が担当を戻す、居室を戻す、日課を元に戻す、面会の機会をつくる、そばにいる時間を増やす、新しい環境に慣れるための手順を丁寧に用意する――こうした環境調整と日常の関わりを、まず行ってください。そのうえで、何を調整し、そのあとどう変わったかを記録してください。
CDDRは、適応反応症とPTSDの区別について、「この区別は、どちらの疾患の完全な診断要件が満たされているかにもとづいて行われるべきであり、ストレス因の種類だけにもとづいて行われるべきではない」と述べています(CDDR p.354)。
同じ論理が、抑うつ症群との関係にも適用されます。CDDRは抑うつ症群の側から、「適応反応が単一エピソード抑うつ症または反復性抑うつ症の診断要件を満たす場合には、同定可能な心理社会的ストレス因が存在していても、適応反応症ではなく単一エピソード抑うつ症または反復性抑うつ症を診断すべきである」としています(CDDR p.254)。
以下は本マニュアルの運用上の考え方です。「担当が替わったせいだから」と説明できることと、その方がいま重い抑うつの中にいることは、両立します。判断は医師に委ね、職員は出来事と症状の両方を記録して渡すことに徹してください。
5-3. 遷延性悲嘆症(6B42)との使い分け
大切な人を亡くしたあとの変化については、遷延性悲嘆症との関係も知っておく必要があります(第6章6節)。
CDDRによれば、遷延性悲嘆症の症状には、抑うつエピソードと共通するもの(悲しみ、活動への興味の喪失、社会的引きこもり、罪責感、自殺念慮)があります。しかし遷延性悲嘆症は、症状が亡くなった人の喪失に限局し、特にそこに焦点づけられているのに対し、抑うつの思考や情緒反応は生活の複数の領域に及ぶという点で区別されます。また、喪失を受け入れられない、他者を信頼できない、喪失について苦々しさや怒りを感じる、自分の一部が死んでしまったように感じる――こうした症状は抑うつエピソードには特徴的ではありません(CDDR p.215)。
そして重要なのは、両者は併存しうるということです。CDDRは「遷延性悲嘆症と気分症は併存しうるものであり、それぞれの完全な診断要件が満たされる場合には両方が診断されるべきである」としています(CDDR p.351)。
細かい鑑別は医師の仕事です。職員が見ておくべきなのは、次の一点です。
その方の変化は、亡くなった方に関することだけに向いていますか。それとも、生活全体に及んでいますか。
写真を見て泣く、お墓の話ばかりする、故人の持ち物を離さない――これは悲嘆の像に近いものです。一方、食べない、眠れない、好きだったこともしなくなる、自分を責める、自傷が増えるという形で生活全体が沈んでいるなら、それは抑うつの像に近づいています。この違いを、事実として記録して伝えてください。
5-4. 気分変調症(6A72)と混合抑うつ不安症(6A73)
「軽いが長い」抑うつを扱う診断として、気分変調症があります。CDDRによれば、その中核は「2年以上つづく抑うつ気分が、1日の大半、存在しない日より存在する日が多い」ことです(CDDR p.255)。抑うつエピソードほど重くはないが、興味の減退、集中困難、低い自己価値感、絶望、睡眠の乱れ、食欲の変化、エネルギー低下といった症状を伴います。障害の最初の2年間には、抑うつエピソードの要件を満たす2週間の期間があったことはなく、また発症以来、2か月以上つづく無症状の期間があったこともありません(CDDR p.255)。
この診断が施設で意味をもつのは、「あの人はもともと暗い人だから」と申し送られてきた状態が、実は治療の対象でありうるからです。CDDRは、気分変調症と診断された人の自殺リスクは一般人口より有意に高いとも記しています(CDDR p.255)。「もともとそういう人」という説明は、長期入所の施設で最も危険な説明の一つです。
もう一つ、混合抑うつ不安症(6A73)があります。抑うつ症状と不安症状の両方が2週間以上のあいだ大半の時間存在するが、どちらの症状群も単独では抑うつ症や不安・恐怖関連症の診断要件を満たすほどではない、という状態です(CDDR p.258)。CDDRは、この比較的軽い混合をもつ人はプライマリケアで頻繁にみられるが、臨床的な注意を受けないまま一般人口の中にはるかに多く存在すると述べています(CDDR p.259)。施設の中にも、同じように「診断されないまま」の方がいる可能性があります。不安については第5章を参照してください。
※ なお、症状の出現が重大な生活の変化やストレスの多い出来事と密接に関連して生じている場合には、混合抑うつ不安症よりも適応反応症の診断のほうが一般に適切だとされています(CDDR p.260)。
6. 躁エピソードと双極症
躁エピソードや双極症は、抑うつに比べれば施設で出会う頻度は高くありません。しかし、気づかれ方が最も歪みやすいのがこの領域です。本節は簡潔にとどめ、詳細は当法人の『精神医学マニュアル』の該当章に譲ります。
6-1. 施設で遭遇しうる形
躁エピソードの中核は、極端な気分状態(多幸・易刺激性・開放性)と、活動またはエネルギーの増加が同時に存在することです。どちらも、その方の通常の状態からの著しい変化でなければなりません(CDDR p.217)。施設では、次のような形で現れます。
- 睡眠時間が減っているのに、元気である。CDDRは「2〜3時間の睡眠で機能できると報告する」といった睡眠欲求の減少を挙げ、これは眠りたいのに眠れない不眠とは区別されるとしています(CDDR p.217)。この区別は夜間巡回の観察で確かめられます。眠れずにつらそうにしているのか、眠らずに活動しているのか
- 多弁になる、話が止まらない。話題が次々に飛ぶ(観念奔逸)
- 活動が増える。夜中に片づけを始める、次々に用事を作る、じっとしていない
- 気が散りやすくなる。会話中に外の物音に注意を奪われて話が続かない(CDDR p.218)
- 衝動的で無謀な行動。結果を考えずに楽しそうなことに飛びつく、十分な計画なしに大きな決定をする(CDDR p.218)。施設では、無断外出、高額な買い物、性的に不適切な行動などの形をとることがあります
- 自尊心の肥大・誇大。自分の能力をはるかに超えることができると信じる(CDDR p.217)
これは施設で最も誤解されやすい点です。CDDRは、躁エピソードの気分状態を「多幸、易刺激性、または開放性」と定義しています(CDDR p.217)。ここでいう「開放性」は原語では expansiveness で、気分が高揚して自分が大きくなったように感じ、抑えが利かなくなる感じを指します(訳語には議論があり、「開放的」「誇大的な高揚感」などとも訳されます)。
この状態は、施設ではほぼ確実に「行動障害の悪化」と記録されます。そして対応は制止と注意になり、本人はさらに苛立ちます。
CDDRは、次のようにも述べています。「易刺激性は他の疾患(抑うつ症群、全般不安症)でもみられる症状である。この症状を躁・軽躁・混合エピソードに帰属させるには、臨床家は症状のエピソード性と、躁・軽躁・混合エピソードに一致する他の症状との併存を確認すべきである」(CDDR p.240)。
職員にとっての意味は、こうです。怒りっぽさが「いつからか」と、「同時に何が起きているか」を書いてください。とくに睡眠時間です。怒りっぽさと睡眠の減少が同時に始まっているなら、それは単なる行動の問題ではないかもしれません。
6-2. 双極症I型・II型・気分循環症
| 診断 | 要件の骨格 | 施設で知っておくこと |
|---|---|---|
| 双極症I型6A60 | 少なくとも1回の躁エピソードまたは混合エピソードの既往があれば診断される。単一の躁または混合エピソードだけでも診断には十分だが、典型的な経過は抑うつ・躁・混合エピソードの反復(CDDR p.225) | 躁エピソードを経験した人の大多数は、その後も気分エピソードを繰り返す。躁エピソードの半数以上は、直後に抑うつエピソードが続く(CDDR p.229)。躁が収まった直後こそ注意が必要です |
| 双極症II型6A61 | 少なくとも1回の軽躁エピソードと、少なくとも1回の抑うつエピソードの既往。躁エピソード・混合エピソードの既往はない(CDDR p.230) | 双極症II型の人が受診するのは、ほぼ必ず抑うつエピソードの最中です。軽躁は本人にとって「調子がよい」体験であることが多く、そのときには受診しません。そのため軽躁は後方視的に評価されるほかありません(CDDR p.237)。= 職員の過去の記録が決定的な情報になります |
| 気分循環症6A62 | 2年以上にわたる気分の不安定性で、多数の軽躁期と抑うつ期を特徴とする。気分症状は存在しない日より存在する日が多く、発症以来2か月以上つづく無症状期間はない。躁・混合エピソードの既往はない(CDDR p.240) | 「波のある人」と申し送られてきた方が、この診断に該当することがあります。気分循環症と診断された人は、生涯のうちに双極症I型・II型を発症するリスクが高いとされます(CDDR p.241) |
CDDRは、はっきりこう記しています。「抗うつ治療(薬物療法、電気けいれん療法、光療法、経頭蓋磁気刺激)のあいだに生じた躁症候群は、治療が中止されたあとも症候群が持続し、治療の直接の生理的影響が消退したと考えられる時点で躁エピソードの完全な診断要件が満たされる場合、躁エピソードとみなされるべきである」(CDDR p.218)。同じ趣旨の記述が、軽躁エピソード(CDDR p.223)と混合エピソード(CDDR p.221)にもあります。
さらに、抑うつエピソードの既往と組み合わされば、これは双極症I型または双極症II型の診断根拠になりうるとされています(CDDR p.236)。
以下は本マニュアルの運用上の考え方です。抗うつ薬が始まった、あるいは増量された利用者について、その後の睡眠・活動量・多弁・易刺激性の変化を意識して記録してください。「薬を始めてから元気になった」という観察が、実は躁転のサインである可能性があります。処方変更の日付と、変化が始まった日付を必ず並べて書いてください。
もっと詳しく:ADHD・素行症・パーソナリティとの見分けについて
躁・軽躁エピソードの症状(活動の増加、話の速さ、多弁、転導性、衝動性)は、注意欠如多動症(ADHD)でみられる特徴と重なります。CDDRは、双極症I型・II型がADHDと区別されるのはそのエピソード性と、それに伴う高揚した・多幸的な・易刺激的な気分によるとしています。ADHDの症状は12歳より前に発症し、時間を通じて持続的であり(つまりエピソード性ではなく)、気分やエネルギーの変化と時間的に結びついていません。ただし両者は併存しえます。CDDRは、併存している場合、ADHDの症状は軽躁・躁・混合エピソードの最中に悪化する傾向があると述べています(CDDR pp.220, 238)。「もともとADHDのある方の落ち着かなさが、この数日さらに強い」という観察は、気分エピソードのサインでありうるということです。
反抗挑発症との関係についても、CDDRは注意を促しています。不服従や易刺激性・怒りの症状が気分症の一部として生じることは、とくに子どもや青年でよくあります。抑うつ症状(興味の減退、集中困難、絶望、精神運動制止、エネルギー低下)の結果として指示に従えなくなることがあり、軽躁・躁エピソードの最中には規則に従い指示に応じる可能性が低くなります。行動上の問題がもっぱら気分の障害の文脈で生じている場合には、反抗挑発症の別個の診断を割り当てるべきではないとされています。ただしCDDRは、それぞれの診断要件が満たされ、かつ反抗挑発症に伴う行動上の問題が気分エピソードの外でも観察される場合には、両方を診断してよいとも述べています(CDDR p.239)。この論点は第3・4章とあわせてお読みください。
パーソナリティ症についても、CDDRは、気分エピソードの症状とパーソナリティ特性を混同しないよう、パーソナリティ症の症状は気分エピソードの文脈の外で評価されるべきであるとしています(CDDR p.239)。「もともとそういう人だ」という評価が、実は気分エピソードの最中の観察にもとづいていないか――長期入所の施設では、この点を意識する価値があります。
なお、この分類の歴史的な経緯や、DSM-5との設計思想の比較については、当法人の『精神医学マニュアル』の該当章で扱っています。
7. その場の対応
ここからが、本章の実践部分です。7-2は本章で最も重要な部分です。他をすべて読み飛ばしても、7-2だけは読んでください。
7-1. 抑うつが疑われるとき
利用者の様子が沈んでいる、動かない、食べない、いつもと違うと感じたとき
- まず、その場では何も変えずに観察する──今日の様子を、いつものその方と比べます。表情、声の大きさ、動作の速さ、視線。この5分の観察が、あとで医療職に渡す情報の核になります。
- 次に、そばに座る──正面ではなく斜め横に、少し距離をとって座ります。何か話させようとせず、黙ってそこにいる時間をつくります。言葉での訴えができない方ほど、この「そばにいる」が届きます。
- 声をかけるなら、答えやすい形で──「どうしたの」「何かあった」ではなく、「今日はしんどそうですね」「そばにいますね」と、答えを求めない言葉をかけます。「はい/いいえ」で答えられる問いか、答えなくてよい言葉にとどめてください。
- その場でできる身体の確認をする──熱はないか、便は出ているか、痛そうにしている部位はないか、水分はとれているか。抑うつと決めつける前に、身体を疑ってください(4-5節)。
- 活動は「減らす」のではなく「軽くする」──作業を休ませて部屋に一人にすると、かえって沈みます。時間を短くする、工程を減らす、隣で一緒にやるという形で、その方が今日できる大きさに調整してください。「参加した」という事実を残すことに意味があります。
- その日の記録に、数字を書く──主食の摂取割合、就寝時刻、起床時刻、体重、参加できた活動の時間。「元気がない」ではなく数字を残してください(8節)。
- チームに申し送る──「気になる」で終わらせず、その日のうちに口頭とノートの両方で共有します。複数の職員が同じ変化を見ているかどうかが、重要な情報になります。
- 2週間を目安に、医療につなぐ──複数の領域(食事・睡眠・活動・感情)にまたがる変化が2週間近く続いているなら、記録を持って医療職に相談してください。ただし、「死にたい」という言葉、自傷の増加、飲食がとれない、動かないのいずれかがあれば、2週間を待たずにその日のうちに報告します。
- 励まさない──「がんばって」「元気出して」は、本人に「今の自分ではだめだ」と伝えてしまいます。エネルギーが落ちている状態で「がんばれ」と言われることは、できない自分を確認させられる体験になります。
- 急かさない──「早く」「みんな待ってるよ」と促すと、動けない自分への自責が強まります。動作が遅いのは、抑うつの症状(精神運動制止)でありうるものです。
- 無理に理由を聞き出さない──「何があったの」を繰り返し尋ねないでください。理由を言葉にできないこと自体が苦しさの一部です。話し始めたときにだけ聴いてください。
- 気晴らしを押しつけない──「外に出れば気分が変わる」と本人の意向を超えて連れ出さないでください。楽しめないことを確認させる結果になりえます。誘うのはよいですが、断られたら引いてください。
- 「怠けている」「甘えている」と記録に書かない──解釈を記録に書くと、次にその記録を読む職員の観察を歪めます。書くのは事実だけです。
- 職員だけで抱え込まない──「様子を見ましょう」で2週間以上引き延ばさないでください。判断は医療職の仕事です。
7-2. 「死にたい」と言われたとき/自傷が増えたとき
CDDRは、「知的発達症に他の精神疾患が併存している人は、知的発達症の併存がない精神疾患の人と同程度の自殺リスクにある」と明記しています(CDDR p.95)。また、単一エピソード抑うつ症・反復性抑うつ症(CDDR p.250)、気分変調症(CDDR p.255)、双極症I型・II型(CDDR p.236)のいずれについても、自殺リスクは一般人口より有意に高いとしています。
「知的発達症のある方が『死にたい』と言っても、本気ではない」――この考えには根拠がありません。言葉のとおりに受けとめてください。
利用者が「死にたい」「いなくなりたい」「もういい」と言ったとき、または自傷が新たに出現・増加したとき
- まず、手を止めてその場にとどまる──作業や記録の手を止め、その方のほうを向きます。立ち去らない、話を続けながら別のことをしない。その言葉を聞いたことが伝わる姿勢をとってください。
- そのまま受けとめて返す──「死にたいと思うくらい、つらいんですね」「そう思ってるんですね」と、本人の言葉をそのまま返します。評価も否定もせず、聞いたことだけを伝えてください。
- 黙って聴く──本人が話し続けるなら、さえぎらずに聴きます。うなずくだけでかまいません。話が止まっても、沈黙を埋めようとしないでください。そばに座って待つ時間が、それ自体で支えになります。
- 一人にしない──その場を離れなければならないときは、必ず別の職員に交代してから離れます。「ちょっと待っててね」と言って一人にしないでください。
- 危険なものを、目立たないように遠ざける──刃物、ひも状のもの、薬。大げさに取り上げず、日常の動作の中でそっと動かします。「危ないから」と本人の前で片づけると、本人を追い詰めます。
- 言葉をそのまま記録する──要約せず、本人が言った言葉をそのままかぎかっこで書きます。あわせて、時刻・その場にいた人・直前に何があったか・そのときの様子を書きます。「希死念慮あり」ではなく「14時20分、居室にて『もう死にたい』と発言。直前に母の面会中止の連絡あり」と書いてください。
- その日のうちに、必ず報告する──上司・サービス管理責任者・看護職に、その日のうちに報告します。「明日の申し送りで」は遅すぎます。次の勤務者への引き継ぎも、口頭と記録の両方で必ず行ってください。
- 夜間・休日の連絡先を確認しておく──実際に言われてから探すのでは間に合いません。勤務に入る前に、夜間の連絡体制を確認しておいてください。
- 否定しない──「そんなこと言わないで」「死ぬなんて言うもんじゃない」は、「その話はしてはいけない」というメッセージになります。次からその方は言わなくなります。言わなくなることは、よくなることではありません。
- 話をそらさない──「そんなことより、お茶でも飲みましょう」と話題を変えないでください。本人にとっては、勇気を出して出した言葉を受け取ってもらえなかった体験になります。
- 約束を取り付けない──「死なないって約束して」「もう言わないでね」と約束させないでください。約束は本人の口を閉じさせるだけで、危険はなくなりません。守れなかったときには、本人が二重に自分を責めます。
- 安全確認の質問攻めをしない──「どうやって」「いつ」「本気なの」と問い詰めないでください。リスクの評価は医療職の仕事です。職員の仕事は、受けとめること・そばにいること・その日のうちに報告することの三つに徹してください。
- 「かまってほしいだけ」と解釈しない──たとえ人の注意を引く意味があったとしても、それはその方がそこまでしないと苦しさを伝えられないということです。意図の解釈は記録に書かず、事実だけを書いてください。
- 自分ひとりの判断で抱え込まない──「大したことない」と自分で結論を出さないでください。報告しないという判断は、職員が背負ってよい判断ではありません。
- その場で叱らない・説得しない──自傷を見つけたときも同様です。傷の手当てを淡々と行い、責めず、なぜしたのかを問い詰めないでください(第1章11節)。
重度・最重度の方では、「死にたい」という言葉は出てきません。代わりに見るべきは、自傷の変化です。CDDRは、致死性や表明された意図の点では明確に自殺的とはいえない自傷行動も抑うつエピソードのなかで生じうるとし、「対処されないと、こうした行動は時間とともに頻度と強度が増す傾向がある」と述べています(CDDR p.215)。
ただし、CDDRのこの記述は幼い子どもと青年についてのもので(例として幼児の頭打ち・引っかき、青年の切傷・熱傷が挙げられ、末尾も「抑うつ症のある子どもと青年において」と限定されています)、成人については述べていません。それでも本マニュアルがこの見方を成人の利用者にも用いるのは、言葉で訴えられない方の抑うつが自傷の変化として現れるという現場の経験にもとづく、本マニュアル側の臨床的判断です。CDDRがそう定めているわけではない点にご注意ください。
したがって記録すべきは、「自傷があった/なかった」ではなく、回数と強度の推移です。「頭を叩く行為が、先週は1日2〜3回だったが、今週は10回を超え、音が大きくなっている」――この書き方をしてください。頻度と強度が増しているという事実そのものが、医療につなぐ根拠になります。
7-3. 躁状態が疑われるとき
睡眠が減っているのに活動的、多弁、いらいらが強い、危険な行動が増えているとき
- まず、睡眠を記録する──入眠時刻、覚醒時刻、夜間の起きていた時間を時刻で記録します。躁を疑う最も重要な情報が睡眠です。「眠れずにつらそう」なのか「眠らずに活動している」のかを、必ず書き分けてください(CDDR p.217)。
- 次に、環境の刺激を減らす──テレビや音楽を消し、人の少ない場所へ移ります。照明は落とせるなら落とします。刺激が減るだけで、活動の勢いが落ちることがあります。
- 話は止めずに、こちらのペースを落とす──話をさえぎらず、自分の声を意識してゆっくり・低くします。相手の速さに合わせると、勢いが増します。
- 危険なものと場所を、先に押さえる──刃物、火気、階段、車道に面した出口。本人を制止するより、環境の側を安全にするほうが先です。
- 金銭と外出の安全を確保する──財布・通帳・カードの保管を確認します。無断外出のおそれがあるときは、玄関の見守り体制を管理者に相談してください。これは職員個人で決めず、必ず上司に上げてください。
- 応援を呼ぶ──他害や自傷のおそれがあるときは、一人で対応せず必ず応援を呼びます。自分の安全を先に確保してください。本人との間に手の届かない距離をとり、出口を背にしない位置に立ちます。
- その日のうちに報告する──睡眠時間の減少と活動の増加が同時に起きている場合、その日のうちに上司と看護職に報告してください。とくに、最近、抗うつ薬が開始または増量されている場合は必ず伝えてください。CDDRが述べているのは「抗うつ治療(薬物療法、電気けいれん療法、光療法、経頭蓋磁気刺激など)のあいだに生じた躁症候群」一般についてであり(CDDR p.218)、「増量」という具体化は本マニュアルによる運用上の補足です。
- 飲食と水分を確認する──活動が増えている一方で、食事を忘れていることがあります。脱水と消耗が進むと、身体的な危険につながります。
- 議論しない──誇大な話や現実的でない計画を否定して論破しようとしないでください。言い負かすことはできず、対立だけが残ります。「そうなんですね」と受け、話題をゆっくり日常のことへ移してください。
- 制止で対抗しない──腕をつかむ、立ちふさがる、大声で止める、といった対応は、易刺激性を一気に高めます。本人を止めるのではなく、環境を安全にしてください。
- 叱責しない──この状態での「わがまま」「いいかげんにして」は、対立を激化させるだけです。行動は本人の意思の問題ではありません。
- 「調子がよさそう」で片づけない──よく動き、よく話し、機嫌がよいように見えても、睡眠が減っているなら異常です。「久しぶりに元気そう」という記録が、躁の見落としにつながります。
- 本人と二人きりで長時間対応しない──職員の疲弊と、対立の激化を招きます。必ず交代してください。
- 重要な決定をその場でさせない──契約、金銭、外泊、退所などの決定は、この時期には行わないでください。判断が本人の通常の意思を反映していない可能性があります。
8. 記録と医療連携
職員の観察は、記録という形にならなければ医療につながりません。そして記録は、書き方によって使えるものにも使えないものにもなります。
8-1. 記録の例
悪い例:「Cさん、最近元気がない。声かけにも反応が薄い。様子観察。」
→ いつからか、どの程度か、何と比べてか、他に何が起きているかが分からない。医療職はこの記録から何も判断できません。
良い例:「Cさん、7月20日ごろから変化。①食事:主食を半分以上残す日が7日中5日(それまでは全量摂取、おかわりもされていた)。体重、6月28日52.4kg→7月26日50.1kg。②睡眠:21時就床だが入眠は23時以降。4時ごろ覚醒し、その後は臥床のまま起きている。以前は6時まで熟眠。③活動:毎週楽しみにしていた木曜の音楽活動を3週連続で拒否。好きな職員のDが声をかけても居室から出られない。④表情:笑顔が消え、視線が合わない。⑤自傷:手の甲を噛む行為が、以前は月に1〜2回だったが、7月22日以降ほぼ毎日、1日3〜5回。⑥背景:7月18日に長年の担当職員Eが異動。7月15日から便秘が続き、7月24日に排便あり。処方の変更はなし。」
→ 変化の開始時期、ベースラインとの対比、複数領域にまたがる具体的な数値、自傷の頻度の変化、背景の出来事、身体・薬剤の情報がそろっており、医療職が抑うつの評価と三軸の鑑別の両方に使えます。
悪い例:「Fさん、希死念慮の訴えあり。傾聴し落ち着かれる。」
→ 何と言ったのか、いつなのか、何があったのかが残っていません。「落ち着かれた」は職員の解釈であり、リスクの評価には使えません。
良い例:「8月3日14時20分、居室にて。Fさんが『もう死にたい。いてもしょうがない』と発言。担当職員Gが同席。直前の13時50分に、母の面会が体調不良で中止になったことを伝えていた。発言後、10分ほどうつむいたまま黙っておられた。『つらいんですね』と伝え、そばに座って待った。15時、職員Hと交代。居室の刃物類はなし。14時35分、サービス管理責任者Iに口頭で報告。同日16時、看護職Jに報告済み。夜勤者への申し送り実施。」
→ 本人の言葉がそのまま残り、時刻・状況・直前の出来事・対応・報告の経路がすべて追えます。本人の言葉をそのまま残すことが、最も重要です。
悪い例:「Kさん、ここ数日ハイテンション。夜も寝ずに活動。行動障害悪化のため注意した。」
→ 「ハイテンション」「行動障害」は解釈です。何時に何をしていたのか、いつからなのかが分かりません。
良い例:「Kさん、8月1日以降の夜間。8/1は1時就床・4時起床(実睡眠約3時間)、8/2は2時就床・4時30分起床、8/3は入眠確認できず、3時に洗濯を始める。日中の傾眠はなく、活動量はむしろ増加。会話は普段の2倍程度の速さで、話題が次々に変わる。7月28日から他利用者への大声が増え、注意すると強く反発される。7月25日に抗うつ薬Lが増量されている。」
→ 睡眠が時刻で記録され、活動・会話・易刺激性の変化と、処方変更の日付が並んでいます。躁転の評価に直接使える記録です。
8-2. 医療職に伝える情報
診察や嘱託医への報告の場では、時間が限られます。次の順で組み立ててください。
| 伝える項目 | 具体的に何を言うか |
|---|---|
| 1. いつから | 変化が始まったおおよその日付。「最近」ではなく「7月20日ごろから」 |
| 2. どんな変化が | 食事・睡眠・活動・感情・自傷のうち、どこにどんな変化が出ているか。領域ごとに一言ずつ |
| 3. ベースラインとの比較 | 「以前はどうだったか」。これが最も重要で、職員にしか出せない情報です |
| 4. 睡眠・食事・活動の数値 | 就床時刻、入眠時刻、覚醒時刻・回数、主食の摂取割合、体重の推移、参加できた活動の時間 |
| 5. 薬の変更 | 直近3か月の処方変更(開始・増量・減量・中止)と、その日付 |
| 6. 環境の変化 | 職員・居室・同室者・日課・家族の面会・死別など、この期間に起きた出来事とその日付 |
| 7. 身体の状況 | 発熱、便秘、痛みの徴候、けが、直近の身体疾患の治療 |
| 8. 本人の言葉 | 本人が言った言葉を、そのまま。要約や言い換えをしない |
| 9. 相談したいこと | 「気分の評価をお願いできますか」「薬剤の影響の可能性はありますか」など、具体的に |
8-3. 緊急度のトリアージ
| 緊急度 | 状況 | 行動 |
|---|---|---|
| 直ちに | 自殺の準備行動がある。重い自傷がある。まったく飲まない・食べない。反応が返らない、動かない状態が続いている。発熱を伴って動かない(第12章) | その場を離れず応援を呼ぶ。管理者に即時連絡。救急要請の判断は管理者・看護職と |
| 当日中 | 「死にたい」等の発言があった。自傷が新たに出現または明らかに増えた。数時間〜数日で急激に様子が変わった(せん妄を疑う)。睡眠が減っているのに活動が増えている(躁を疑う)。抗うつ薬の開始・増量後に活動性が急に上がった | 上司・サービス管理責任者・看護職へその日のうちに報告。夜勤者へ確実に引き継ぐ |
| 数日以内 | 食事量・体重の明らかな減少。夜間の睡眠の乱れが1週間以上続く。処方変更の直後から様子が変わった。便秘・発熱など身体の異常を伴う変化 | 看護職に相談し、受診の要否を検討。記録を整理して渡す |
| 次回カンファレンス | 2週間近く続く複数領域の変化があるが、飲食・睡眠は保たれている。環境変化のあとの落ち込みが徐々に改善している。長期的な「もともと暗い」状態を見直したい | ベースラインとの比較を含む記録をまとめ、カンファレンスの議題に上げる |
※ この表は、迷ったときに「どこに置くか」ではなく「早いほうに置く」ために使ってください。報告して問題がなかったことは、報告しなかったことより、常に良い結果です。
9. まとめ
ICD-11の気分症群は、抑うつ症群と双極症群からなります。4つの気分エピソード(抑うつ・躁・混合・軽躁)はそれ自体が診断名ではなく、診断を組み立てる部品です(CDDR p.211)。どの部品が何回、どんな順序で起きたかによって、単一エピソード抑うつ症・反復性抑うつ症・気分変調症・双極症I型・II型・気分循環症といった診断名が決まります。躁側のエピソードが1回でもあれば、診断は双極症群に移ります。
施設の現実に即していえば、教科書どおりの重いうつ病はまれですが、環境の変化・喪失・対人トラブルのあとの抑うつ的な変化は日常的にあります。CDDRは、適応反応症の症状は「ストレス因が取り除かれたとき、十分な支援が提供されたとき、または本人が新たな対処の手立てを身につけたときに通常は軽快する」と述べています(CDDR p.352)。
知的発達症のある方の抑うつは、多くの場合言葉になりません。活動性の低下、食欲の変化、睡眠の変化、易怒性、自傷の増加、退行、これまでできていたことをしなくなること――こうした行動と身体の変化として現れます。CDDRも、コミュニケーションの困難のために「本人をよく知る情報提供者による報告に通常以上に依拠する必要が生じうる」とし、観察可能な症状として精神運動制止・食欲および体重の減少・睡眠の障害を挙げています(CDDR p.250)。ここでいう情報提供者にあたるのは、多くの場合、日々その方を見ている職員です。
気分の変化は、施設ではきわめて容易に「行動の問題」「怠け」「わがまま」と読み替えられます。その読み替えが起きた瞬間に、背景を問う視点は失われます。本マニュアルが一貫して求めてきた「行動の背景を読む」姿勢は、気分症群でこそ試されます。「知的発達症だから」で片づける診断的オーバーシャドウィングを避け、身体・薬剤・環境の三軸を順に通し、ベースラインからの変化を具体的な事実として記録してください。
そして、最も大切なことを繰り返します。「死にたい」と言われたら、否定せず、そらさず、約束させず、そのまま受けとめて聴いてください。一人にせず、本人の言葉をそのまま記録し、その日のうちに必ず報告してください。リスクの評価は医療職の仕事です。職員の仕事は、受けとめること・そばにいること・伝えることの三つです。CDDRが明記しているのは、精神疾患が併存している方の自殺リスクは、知的発達症があってもなくても同程度であるということです(CDDR p.95)。
本章の記述は、WHO『Clinical Descriptions and Diagnostic Requirements for ICD-11 Mental, Behavioural and Neurodevelopmental Disorders』(CDDR, Geneva: WHO, 2024)と照合し、有病率などの数値を含め、CDDRの記載に統一しています(2026年8月改訂)。CDDRの日本語版が刊行され、日本国内の数値が示された際には、あらためて追記する予定です。